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「お着物の記 一」 (2010/04/20 )
「衣装と体」 (2010/04/14 )
「帰還」 (2010/04/07 )
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「春るるる」 2010/04/30
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ようやく天気も少しずつ暖かくなり、4月生まれで春大好きな私は気分上々!
‥と言うのも前の日記にも書いた通り、そもそも今年は1月から3月までひたすら仕事をして過ごし、特に2月以降、プライベートな外出と言えば、
1)バーゲンに行った
2)友人から招待状を頂いた映画『The age of stupid』の試写会へ行った
3)髪型がどうしようもないことになって来たので美容院にカットへ行った(帰り道に偶然トラスムンドの浜崎さんに会って30分立ち話した☆)
4)「どうしてもこれだけは逃せない」と国立博物館の「長谷川等伯展」へ行った
‥と本当に数えるほどしかない。しかもどれも、取材や打ち合わせの合間を縫っての短時間・単独行動。振り返っても悲しくなるだけの地味過ぎる今年の冬生活だった‥「あ、でも、Kさんと水炊き食べに行ったじゃない」‥と思い出してみたけれど、Kさんは今作っている本の担当編集者だから、それさえ仕事を兼ねたディナーなのだった‥。
そんな一人ぼっち生活の反動で、4月はぐっとのんびりと、人と会うことを優先して過ごした。
たとえば、ミュージシャンのaen(鈴木康文)さん*・ぬいぐるみアーティストのmiouさん*とお花見したり(後からpagatas律子*さんも合流~)、装丁作家の大村麻紀子ちゃん*とイラストレーターのPommetteちゃん*と三人で四谷フレンチディナーしたり、古い友人の麗子と久々に吉祥寺お茶したり、同じく古い友人でチェコから一時帰国中のうららちゃんと韓国料理を食べに行ったり、河野円ちゃん*のライブに行ってその後会場でバッタリ会ったインプロ・バイオリニストの矢野礼子*さんと井の頭公園をお散歩したり、北京電影学院の留学仲間でドキュメンタリー映画監督の片岡希ちゃん*と和食ディナーして日本映画界の現状をあれこれ教えてもらったり‥ああ、本当に私って、女子にもてるんだよナ~~。
(注*それぞれの方のお名前の後の*をクリックすると皆さんのホームページなど、活動を紹介するページに飛びます。レッツ・クリック!)
そんな中、今日の日記のトップに挙げた写真は(庭で撮影しました)、麗子からもらったお誕生日プレゼント(の一部)。かわいい花柄の布に包まれた瓶状のそれは、お洒落なジンジャエール?(ジンジャエール好きなので)とワクワクして開けると、何と、ダストブロワーだった!
何故ダストブロワーかと言えば、それは、以前私がmixi日記だった頃の日記に、
「私はいまだフィルムで撮影して暗室で写真を焼くけれど、今の時代、何かとデジタル用途があるので、その焼いた写真をデータ化するためのスキャン作業が避けて通れない。
でも、スキャンをすると、そのスキャン台に無数に浮かんでいる小さな小さな肉眼では見えないほどの埃の影が、白く疫病のようにデータに写り込んでしまう。それをフォトショップでいちいち除去するのが、もーっ本当に大変なの!!!いつも涙目なの!!!もう、埃除去作業大嫌い!!!発狂しそう!!!」
と嘆いたのを、麗子はちゃんと覚えてくれていたのだった。泣かせるじゃないの、麗子。心のこもったプレゼント、本当にありがとうネ。
麗子の他にも、上に書いたPommetteちゃんが私のこのホームページをいつの間にかツイッタ―で紹介してくれていたり、大村麻紀子ちゃんが私の仕事に役立ちそうな人を紹介しましょうかとメールをくれたり、下にこれから書くクラブ仲間飲み会で久々に会ったマイマイが、やはりツイッタ―でこのホームページに載せた私の文章作品を紹介していてくれたり‥と、結局私は年下の女の子たちにいつも支えられているのだと実感する。
女の子たち、本当にありがとう。姉さんもみんなのことが大大大好きヨ!
*
さてさて、そうやって、友だちと会い、仕事も適度に撮影やら打ち合わせやら校正やら本の構成作りやらをこなして過ごしていると、ようやく体が温まり、春が来たことを実感する。
そんな中、4月の終わりには、久々に昔からのクラブ仲間と朝までお酒を飲んで異常に楽しく過ごし、昨日は昨日でスーパーデラックスのノイズイベントに出かけて、山川冬樹さんと灰野敬二さんのヒューマンボイス・ノイズライブというものすごいものを耳にして/目にして興奮しながらシャッターを押しまくり‥。昔よりはペースは落ちるものの(文章の方でやることがいっぱいあるので)、アンダーグラウンド写真もゆっくりと撮りだめていきたいと思うのだった。
そう言えば、5月末にはごく短期間だけれど、グループ展に参加することにもなった。つくづく調子のいい春である。
(↑上の写真は、そのクラブ仲間飲み会の2次会で、深夜、飲み屋のノートに皆で描いた落書き。2次会参加メンバー全員猫を飼っていて、猫を描いたのだけど‥上から、ミカ、チェリーボーイ・ファンクションくん*、永田一直さん*、りあるごーるどちゃん*、私が描いた猫。チェリーボーイくんの絵が下手過ぎて‥)
*
そして、この春、私がちょっと忙しいのは、テレビドラマに振り回されているからでもある。
そう、TBS水曜夜9時からの『IRIS』と、NHK土曜9時からの『チェイス~国税査察官』。日頃テレビドラマを全く観ない私が、3日ごとに大騒ぎだ。
もちろん、『IRIS』はイ・ビョンホン、『チェイス』はARATAを見るために、観る。(両ドラマとも、ストーリーも相当面白い)
『チェイス』の主演は江口洋介で、江口洋介の場面の方がかなり多いけれどずーっと我慢して、ARATAの場面になると目をきキラキラまばたきさせて、観る。正直、今のARATAの髪型はもみあげの上辺りがタラちゃんのような刈り上げ?状になっているのが相当疑問符だけれど、とにかくARATAなので!元がかっこいいので!大きな失点とは言えまい。
今回、悪役を演じているARATA。クールで素晴らしい。イ・ビョンホンは情熱的で素晴らしい。二人の見目麗しく演技力も抜群な俳優が3日置きに登場する今クール、私にとっては大ドラマ豊作期である!
*
そんなこの春、ショックだったこともあって、それは、楽しみにしていた読み物連載が、二つも一気に終了してしまったこと。
一つは、前にもこの日記に書いたけれど、作家の赤坂真理が週刊新潮に連載していた、『テレビの穴』というコラム。
テレビ(それもドラマがメイン)を軸にして、それに対する批評がしっかり日本社会分析批評にもなっていたこのコラム。私は彼女の小説はこれまで一冊も読んだことがなかったけれど、これほど鋭い観察眼と分析力を持つ人が書く小説なら面白いかも知れない、と、そう思わされるコラムだった。
そしてもう一つショックだったのは、honeycomで連載されている長谷部千彩さんの日記が、しばらく休載となってしまうこと。これを読むのが毎晩の楽しみだったのに‥
長谷部さんは、レコードレーベルreadymade*の社長で、これまでに二冊発表されているエッセイは、『有閑マドモワゼル』が美文いい女調、『レディメイド*はせべ社長のひみつダイアリー』が働く女の本音調で、どちらも素晴らしいけれど、私は『ひみつダイアリー』の方がより好きだった。お風呂に入りながらぱらぱら1日、2日分を読むのが毎日の小さな楽しみで、面白くてげらげら声を立てて笑い、その声がお風呂に反響しまくる‥そんな文章が満載の本だった。(女子の皆様ゼヒご購入を!)
そんなコラムの名手・長谷部社長は、このところはずっとhoneycomで日記を連載していた。しかし、しばらく香港で暮らすということで、その間日記は休載という発表がつい最近‥。ああ、ファンは心底がっかりため息をつくのです‥。
でも、長谷部社長と言えば、モデル並みに美人でハイセンスなレコードレーベルの社長でその上フランス留学経験があってブランドの服で身を固めていて‥というような絵に描いたような‘おしゃれ女性’。そういう女性が、今は自ら選んで、そこに何かがあると感じて、香港に住みに行くんだなあ、というのが、私のようなアジア好き15年選手には何とも感慨深くもあるのだ。
そう、やっぱり21世紀はアジアの時代だよ。ヨーロッパ・アメリカじゃないんだよ。長谷部社長、ますますファンになりました!ずっとついて行きます!(勝手に‥)
*
そんな春の初め、ふーっとため息、もの想い‥な出来事もあるにはあるけれどここには書かない。上手く行くといいのだけど‥と祈るような気持ちの仕事の企画もあるにはあるけれどそれもまたここには書けない。
人生いつもドキドキ続き。今、目の前に咲く庭の花、いつも歩く並木道の枝に咲く小さな花を愛し、手の中にある縁を大切に慈しんで、女の人生生きて行こうと思うのだ。
「お着物の記 一」 2010/04/20
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最近、茶道に関係する写真を撮ってほしいというオファーを頂き、中身を知らずに撮ることは出来ないから、思い切って茶道を習うことにした。
実は、お茶については、私はずっと敬遠して生きて来た。
母が日本美術史の研究者だったことから、子どもの頃から日本美術好きだった私は、大学3年から始めて、7年間、華道(真生流)の教室に通って師範免状を取得した。日本人のたしなみとして、本来、花を習ったならお茶も学ぶべきだとは分かっていたのだけれど、基本花型さえ身につければ後は自由に創作の意志を発揮出来る花とは違い、お茶は何から何までが決まり事の世界。私の性格には合わないだろう、と、近寄らないことに決めていたのだ。
‥‥それから10年以上。今回仕事で茶道に関わることになったのも何かの縁なのだと思う。そう、まさに「一期一会」。縁は大切にしなければいけないだろう。‥‥とは言うものの、今のところ「看板を取れるまで頑張ろう」とか、「自分が亭主になってお茶会を開けるまで精進しよう」といった野望は全くなく、あくまで「お茶席に招かれたときに、招いて下さった方の面子をつぶさないくらいには茶道の基本を身につけよう」というところが目標地点だ。
教室も、友人のピンポンダッシャーちゃんhttp://twitter.com/pingpongdasherの紹介で、月に一度、非常にゆるやかなルールで(たとえば、着物ではなく洋服で参加してもOK)、でも基本はしっかりと学べる先生の所へ通えることになった。ふだんの生活では会わない方とも友だちになれるし、お教室のベテランの方の所作を見れば、ため息が出るほどに美しい。何から何まで楽しいことばかりの素晴らしい趣味が一つ増えることになった。
そして思うのだが、たとえばダンスや演技など、特別な才能を持った‘選ばれた人’が所作の美しさを披露する身体芸術は世界の至る所にあるが、殿様から庶民まで、「この世の中のありとあらゆる人間が、日常の動作を通じて美の意志を表明出来る」と考えた、桃山時代の日本人の独創性は素晴らしいと思う。日本人なら、やはり本当は茶道を学ばなければいけないのだ。
*
さて、上にも書いたように、私の教室は洋服で通うことも可能ではあるのだけれど、習い始めてみると、茶道の所作は着物を基本に作られているため、やはりどうせなら着物で稽古を受けた方が良いと思うようになった。
幸い我が家は母に着付けの心得があるため、ちゃちゃっと着物を着せてもらうことが出来る。また、実は、母の母、つまり私の祖母が、紅型(びんがた)という染織の師匠だったため、うちには着物が山のようにあるのだ。
もともと祖母は、子育て終了後に単に‘主婦の趣味’として紅型を習い始めたらしいのだが、なかなか才能があったのか、そのうちどんどんのめり込んでしまい、最後にはお弟子さんを取るほどの腕前になった。そのため、我が家の着物の量は着切れないほどに大量だ。何しろ、まだしつけ糸がついたまま、一度も着ていない着物や、そもそも着物や帯に仕立てていない反物さえあるほどなのだ。祖母が一つ一つ手で染めた紅型がもちろん一番多いが、もともと着物道楽の家なので、友禅など様々な種類の着物が大量に箪笥に眠っている。これを死蔵するのは、先祖に対して、また、日本文化に対して、一種の忘恩行為ではないかとしみじみ思うようになった。
そこで心を決めた。やり始めるととことんやるタイプの私は、今年から一気に長年心の中に引っ掛かり続けて来た「和文化」にがっちり落とし前をつけることにしたのだ。
そう、お茶を習うと同時に、6月からは、着付けの教室にも通う。自分で着物を着られるようになって、日常的にどんどん着物を着るようにしたいと思うのだ(そのうち遊び場にも着物で行くかも知れないので友人の皆様よろしく!)。
また、先にも書いたように、私の母は日本美術史の研究者だから(専門は琳派)、もちろん子どもの頃からそれなりの薫陶を受けさせてはもらって来たが、これからはより体系的に、もっと主体的に質問を投げかけ、母の持っている日本美術の知識を、全部とは行かないまでも出来得る限り高いレベルで受け継げるようになりたいと思う。
そう、今はまだ、私に着付けをしてくれるほどに元気な母だが、和歌や物語の中で繰り返し繰り返し歌われて来たように、人の命は必ず衰え、必ず散りゆくもの。今を慈しまなければいけないと心から思うのだ。
*
‥‥と大和文学調はさておき、私のDNAの中にはどうやらやはり着物遺伝子が非常に強く埋め込まれていたようで、一旦着物を着ようと決め、箪笥の引き出しを開けたり閉めたりし始めたら、着物のことを考えるのが楽しくて楽しくてたまらなくなって来た。
そこで、私の日記の読者には若い女の子も多いことだし、これからは、着物を着たら、その後でコーディネートを紹介する日記を載せようと思う。
明治以来、ヨーロッパ・アメリカ文化をいじらしいくらいに猿真似して来た日本人だが、ここへ来て、ようやく、別に欧米様がそんなにお偉い訳でもなく、美の基準も、アジアにはアジア特有の美的感覚があり、その中で日本固有の美的感覚が綿々と育まれ、それを慈しみ新たに発展させることが一番自然な道行きであること、また、それが一番自尊心ある態度だ、という意識が芽生え始めているように思う。(もちろんいまだに欧米方向しか見ていない悲しい人も大勢いますが‥)
つまり何が言いたいかと言うと、お洋服のコーディネートを考えることももちろん楽しいが、お着物のコーディネートだってこんなに楽しい、ワクワクすることなんだよ!別にちっとも難しい勉強なんかじゃないんだよ!ということを、私の日記から女の子たちに感じ取って頂けたら嬉しいのだ。
そして男性読者の方にも、「ふんふん、自分の彼女が、或いは自分の憧れのあの人が、たとえばこんな色の着物を着たらどんななんだろう?」などと、‘着物姿の日本女子’をイメージしてもらえたら素敵だと思う。もちろん、「俺も着物着てみようかな」と、和服を着始めたらもっと素敵。
思うのだが、日本男子は、100パーセント、全員、着物が似合うと思う。スーツが似合わない日本男性もいるし、カジュアルスタイルが似合わない日本男性もとても多いが、でも、和服が似合わない日本男性は存在しない。ここだけの話、女子から見て、男前も三枚くらいは上がると思う。日本男性の皆さん、是非もっともっと和服を着て、世界の女子の目を楽しませて下さい!
*
「そんなこと言ったって、うちにはたまたま運のいいあなたみたいに、着物なんて全然ないんだよ!」
とおっしゃる方もいらっしゃるだろうか?でもちょっと街を見渡してほしい。今は街中に、たくさん、古着の着物を売る店が出来ている。値段もとても安い(少しくらい汚れてたっていいじゃない!)。
着付けの学校に通う金銭的余裕がなくたって、はたまた、お母さん・お父さんが着付が出来なくたって、親戚のおばさんや、友人のお母さん、或いはおじいちゃん・おばあちゃんの中に、着付けが出来る人はいませんか?必ずどこかに一人はいるはずです。ツイッターでもmixiでもこんなときこそネットの利器をどんどん使って友人を募り、そんな身近な着付けの出来る方のお家で・安くして頂いたお月謝で・何ヶ月か通えば、誰でも着付けは出来るようになります。何て言ったって、昔は日本人全員が着物を着ていたのだから!
女子も男子ももっと普通に着物を着るようになったら、毎日はより自分たちのルーツに近づき、歩き方や所作、立ち方を通じて、ごく自然に、自分たちの歴史に思いや感覚を寄せるようになる。それはつまり、より豊饒な精神世界を持つことだと思うのだ。着物生活のすすめ、である。
*
‥と言う訳で、お着物日記の第1回目は、先週末のお茶のお稽古に着て行ったコーディネートをご紹介。
もう一度、冒頭の写真と同じ写真をご覧ください。
*紬(つむぎ)という織り方の着物に、同じ紬の無地の帯。
*梅の柄の小紋 (小紋=着物全体に同じ模様を散らす柄のこと)
*これは、我が祖母が紅型(びんがた)で染めた着物。紅型は友禅と同時代に琉球で発展した染織方法で、模様も日本本土とは趣が異なることが多い。ただ、この梅の柄は、和風と言うか江戸風。見たところ、琉球色はほとんどしないと思う。おそらく祖母の師匠から頂いた模様だと思われる。(祖母は染め専門で、模様を自分でデザインすることはほとんどなかった)
*私の祖母は(手前味噌ながら)色の感覚が非常に良く、今の私たちの世代から見ても、斬新だったり若々しかったりする反物を数多く染めている。今回の柄の色合わせもとても目に楽しいのではないだろうか。
*帯締めは、白地に薄いエメラルドグリーンの縞が入っているもの。写真に写っていないもう一方の房は、この薄エメラルドグリーン色で染められている。
お着物日記、今後も楽しみにして頂けたら嬉しいです!
「衣装と体」 2010/04/14
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非常に卑近な例になるが、或る一つの芸術作品を人間の体と洋服を使って喩えてみたとき、体は思想であり、その表現方法は衣装であると言うことが出来る。
もちろん、現代人はダイエットをしたり整形手術をしたり、はたまた豊胸手術なども施すことが出来るのだから、実際には体そのものを改変することは十分可能だ。でも、そのことは今は置いておこう。体は天与のもので、ただありのままに存在することとする。
一方、衣装は、どのように豪華にでも付け加え、引き伸ばすことが出来る。
レースを縫いつけ、リボンを散らし、そもそもきらびやかな厚地の布を使えばその重量感は計り知れない。或いは、敢えてつるりとした合成繊維を使い、ドレープの美しさで人を魅了することも出来る。衣装はその千変万化する特性によって自らを輝かせ、また、それを着る人体そのものも或る一つの見かけへと美しく誘導することが出来る。それが衣装の力だ。
*
さて、ここで冒頭の比喩に戻ると、体は思想であり、衣装はその表現方法である。或る一つの思想を芸術作品の中核に据えて表現しようとするとき、作り手はそこに、自分好みの衣装をまとわせて差し出すことが出来るという訳だ。
ところで、私が一体何故このような比喩を延々と持ち出しているかと言えば、それは、現在の日本に流通する芸術作品のうち、衣装について周到に考えられているものは多いが、それを着る体は衣装の華麗さに釣り合っていないものがほとんどなのではいかと感じるからだ。また卑近な喩えになって恐縮だが、要するに、「脱がせてみたら悲しいくらいに貧相な体だった」、ということだ。
これは、私がそれぞれの作品を見たり読んだりしたときにも思うことであるし、或いは、たまたま作り手の側と実際に話す機会があったときに、色彩や造形、或いは文体や言葉選びの素晴らしさに比べてその思想が驚くほど平凡、浅薄であり、がっかりさせられることが多い‥という実体験から考えるようになったことだ。
*
学生時代、私はかなり熱心に西洋哲学を勉強したが、当時大流行していた(そして今も多数の盲目的信者を抱える)フランス現代哲学には、どうしても賛同することが出来なかった。リゾームだのノマドだのモードの体系だの、はたまその翻訳者が使った用語、スキゾだの逃走だのといった非常に‘ファッショナブル’な衣装をまとったそれらの書物は、フランスのものも日本のものも、私には、3ページで言えることを100ページに引き延ばす、極めて優れたファッションデザイナーの仕事にしか見えなかった。
もちろん、その引き延ばし方そのものが思想の核心と分かちがたく結びついている、という反論が即刻出ることは承知している。だが、本当にそうなのだろうか?
*
当時、フランス哲学に疑いの目を向けていた私が、心の底から傾倒したのはヴィトゲンシュタインの思想だった。それも、前期の代表作『論理哲学論考』ではなく、晩年の『哲学探究』と『確実性の問題』に、大地が割れ天が裂けるかと思うほどの計り知れない影響を受けた。
『哲学探究』を1ページでも開いてみれば分かることだが、そこには、難解な言葉も思わせぶりな‘ファッショナブル’な語句もただの一つも書かれていない。おそらく、小学6年生程度の国語力があれば理解出来る、非常に簡明な文章で全てのページが綴られている。しかし、その一行一行の文章の意味を、つまり、ヴィトゲンシュタインがそこで何を言おうとしているのかを、本当に理解することは極めて難しい。
大切なことは、ヴィトゲンシュタインが、或る程度時代を重ねて生きたフランス現代哲学者たちが直面したのと同様の巨大な哲学的問題に直面したときに、全力で、あらゆるファッショナブルな飾り立てを排除したということだ。『哲学探究』は、全て、最低限必要な、最も簡明な言葉だけで書かれている。それはつまり布地の厚みやドレープがない分、体についてごまかしがきかないということだ。
ヴィトゲンシュタインの哲学はまるで皮膚であり骨であり毛髪であり眼球であるような文章で書かれている。或いは、巨大スーパーマーケットの平場で売られている白いシャツ、グレーのスカート、グレーのズボン、何の特徴もないベルト、黒い革の靴、そのような凡庸な服たちで作り上げる凡庸なスタイルのような文章で書かれいてる。だからこそ、その分、それを着る者の体が、その思想が何を明かしているのかをまざまざと私たちに見せつけるのだ。確実なものは何もない、ということの根元的な恐怖を。ドレープがなければその中に頬をうずめて、恐怖を甘美によってごまかすことは出来ないのだ。
*
もちろん、衣装の周到さを好む・好まないは、個人の趣味の問題と言い切ることも出来るだろう。だからこそ、次のような趣味もまた存在すると言うことが出来る。
出来得る限り平凡なカッティングを用い、ただ実用に耐え得る強度を備えただけの最低限素材を使った衣装をまとう、という趣味
この趣味の持ち主にとっては、胸がないのにレースのひだで無理に胸の厚みを作ったり、弱々しい腕をバルーン袖で膨らませて見せられても、ただただしらけてしまうだけだ。或いは、羽飾りやドレープを使うなら、それを受け止めるだけの肉体の重みが必要だ、と言い換えてもいい。このような趣味は、忘れられがちではあるが、やはり厳然と存在する。
もちろん、ヴィトゲンシュタインは人類有数の哲学者だ。誰もが彼と同様の高みに近づける訳ではない。けれど、少なくとも何がしかのを創作活動を行おうと志す者であるならば、最初からこのヴィトゲンシュタイン的衣装態度を放棄するべきではないのではないか。日々悲しいくらいに貧弱な体たちばかりを目にするたびに、ため息をつきつつそう思うのだ。これも趣味の問題だと彼らは言うだろうか?言いたい者には言わせておけばいい。平凡極まる服装と中肉中背の肉体が作り上げる美は、おそらく、最も審美眼を試される美なのだ。
「帰還」 2010/04/07
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今年に入ってから3月いっぱいまで、とにかく仕事に追われて過ごしていた。
一番忙しいときは毎日、それほどではない時期でも平均2日に1度は午後に取材や打ち合わせ。時には1日に2つ取材をこなし、その後に別件の打ち合わせ‥というような日もあって、脳の中の「人と相対する」部分をフル回転で使いまくる毎日だった。
そう、取材。
一度でも取材という行為をやったことがある方なら分かると思うが、とにかく取材というのは、相手に何か「原稿になるような面白いことを喋ってもらわなければならない」という作業だ。話上手な人が相手ならいいが、もちろん世の中には口下手な人もいるし、話好きでも、すぐに本筋から脱線して全く関係ないことをひたすら喋り続ける人もいる。途中でさえぎって気分を害されても困るし、かと言って延々聞いていても、あまりにも時間の無駄ということもある。この辺のハンドリングがとても難しいのだ。
一方、打ち合わせは、編集者やクライアントと行う全く別の作業だ。この本(orこの記事)を、どんな目的で書くのか・どういう視点で書けば読者が面白いと思ってくれるのか、そういうことを真剣に話し合う。
打ち合わせで一番困るのは、意見をはっきり言わない相手だ。「大体こんなあたりのことを、後はいつものマヤさん節で書いてくれれば」みたいなことを言う人が、実は後から一番始末の悪い編集者/クライアントになる。「いや、こういうことを言ってほしいんじゃなくて」と、その人の頭の中のもやもやした理想像へ向かい、霧の中を歩いて歩いて歩いてたどり着くまで、何回でも書き直しをすることになるからだ。
「あのー、打ち合わせのとき、あとはいつものかんじでって仰ってましたよね?」
「マヤさんなら大丈夫だから、もう、どーんとお任せします!とも仰ってましたよね?」
と言いたくなるけれど、もちろん聞いてくれない。
こういう人は、要するに、打ち合わせのときには仕上がりのはっきりした像が見えていない。実際に原稿が上がって来た時点でやっと本当にテーマと向き合い始めているのだろう。はっきり言って、書く側にとってはとても迷惑な存在だ。それよりは、打ち合わせのときからガンガン、
「ここではこういう骨子でこういうことを書いてほしい」
「これとこれとこのキーワードは絶対入れてほしい」
と指示してくれる人の方がいい。打ち合わせのときに「いい人」は、大体後になって「困った人」に変わる、というのが私の長年の経験から得た法則だ。打ち合わせのときに「こうるさい人」「厳しい人」の方が、仕事の相手としては信用出来る。まったくもう!やれやれ!なのであります。
*
‥と、そんなこんなで、怒ったりため息をついたり笑ったり感心したりしながら一体何を作っていたのかと言うと、まず1月~2月は、某巨大会社の某巨大サイトのために、職業人インタビューをずーっと続けていた。
もちろん、中には話下手な人もいらっしゃるけれど、基本的にはこのインタビューは、ご自分の職業の面白いところや苦労話、生きがい、これからの展望などを語って頂くもの。必然的に、かなり内容豊富な面白いインタビューになった。原稿を書くときも、その人の半生記を書くような感覚で、良かったことと悪かったこと、成功と失敗、光と影をとり混ぜて書く。最後は読む人に希望を与えるように。これはなかなかに楽しい仕事だった。
そんな中、2月からは、広告業界の「業界人向け書籍」の仕事も併行して行っていた。
私は2000年から2007年まで、7年間代理店で働いていた経験があるので、そこを見込んで声をかけて頂き、現在の広告業界の状況(一言で言って、大変革期にある)を、業界内部の方にインタビューした。また、そもそも広告業界の仕組み・歴史をひもとくような読み物記事も担当した。
それから、大変化を迎えている現在の広告業界の中で、これからの新しい動きにつながるような仕事の進め方をしている業界人へのインタビューも行ったのだが、これは私にとっても発見が多く、やりがいある仕事になった。
この広告業界人向け書籍、もうすぐ発売になるので、そのときにはまたご紹介したいと思います!
*
その後、3月は、この広告本の仕事をしつつ、同時に、某企業と言うか某団体の宣伝パンフレットを作る仕事をしていた。
これも、取材有り・資料をもとにして書くページ有りで、かなり分量のある仕事。しかもとにかく締切まで時間がない!「この分量を1カ月でやれって、無理でしょう‥」と言いたくなるようなスケジュール組みだった。特に3月、一時期鬱病になりかけたほど毎日プレッシャーを感じて過ごしていたのは、一にも二にも、この制作スケジュールがタイト過ぎたからだと思う。
それにしても、宣伝物と言うのは、私にとっては、「いいこと」しか書けないことがだんだんつらくなって来てしまう仕事だ。代理店を結局辞めたのも、そこに大きな原因があったと思う。
だって、ぶっちゃけ言って、世の中っていいこともあれば悪いこともあるものですよね?マザー・テレサもいれば連続強姦殺人鬼もいる、それがこの世の中。たとえば魔法瓶の広告なら、魔法瓶を○×魔法瓶に変えたからって、人生の全てが上手く行く訳じゃないですよね?‥
‥でも、もちろん、広告でそんなことを言ってはいけない。
広告では、魔法瓶で、「ちょっと、或いはたくさんステキに変わる、私の人生」のキラキラしたイメージを振りまき続けなければいけない。来る日も来る日も迫り来る締め切りに向かって、ひたすらキラキラしたことを書き続ける、という作業が、或る人にとっては何でもないことなのだろうけれど、私にとってはだんだん苦しい仕事になって来てしまうのだ。
‥それでも、PC画面の真っ白なページを文字で埋め続けながら、ふと訪れる解脱のとき。それは、その広告の文体そのものが私に乗り移り、自動的に言葉が出て来るようなマジックタイム。キラキラした言葉が私とキーボードの間の小さな空間にくるくるキラキラつむじ風のように舞い、あっと言う間に原稿が埋まってゆく。こうして一つの広告宣伝物が完成するのだ。
そう、もちろん、広告の受け取り手だって、○×魔法瓶で毎日の全てが変わる訳なんてないと知っている。クライアントだって分かっている。それでもキラキラした世界を作り続ける。それが広告だと、7年間毎日考えていたことを、また思い返していた冬だった。
*
‥そんな仕事の大波に1月~3月にかけて取り組みながら、もう一つ同時に手掛けていたのが、今年の秋に出版予定の、或る純文学系ノンフィクション書籍の仕事。
そのキーとなる大事なインタビューが3月下旬に予定されていたので、下調べの資料を作っておかなければならず、これがまた大変だった。何しろ、上に書いて来た仕事と並行してこちらの準備もしていたのだ。連日の取材や打ち合わせの合間を縫って図書館に通い、古い新聞やたくさんの本を引っ掻き回し、一つ一つ事実を同定してゆく。まるで研究者か探偵にでもなったような作業が続いた。
でも、この作業を通じて、自分の中のこれまで知らなかった一面を発見することにもなった。
そう、私は、父方の祖父の代から学者の家の娘。DNAなのか何なのか自分でもよく分からないけれど、「分からない事実」というものを見過ごすことが出来ないのだ。
今回、この書籍のために調べている或る事実。その周辺にある小さな小さな関連事項でも、少なくとも三つ以上の資料ではっきり同定出来るまでは、どこまでもどこまでも気になって調べることを止めることが出来ない。或いは、同定出来ない事実があるならば、「どこまでが分かっていて、どこまでが分かっていない領域なのか」、それをはっきりさせるまではどうしても気が済まない。これは、もう、血と言うしかない学者気質だと思う。
大学を卒業するとき、「自分は研究者には向かないから」と大学院へは進学せず、一般の就職をする道を選んだけれど、本当は、長い時間をかけて、結局「血」の方に戻って来ているのかも知れない。そう言えば、就職を選んだのは、自分の家や、自分の父親に対する反発心が根底にあった。それでも、やはり、血より濃いものはないのかも知れない。四十を目前にした今、しみじみとそう思うのだ。
*
さて、4月になって、広告本の仕事や宣伝パンフレットの仕事はほぼ校了を迎えつつあるけれど、この文学ノンフィクション書籍の仕事は、まだまだ秋まで作業が続く。
ただ、当初はかなりのページを私が書くことになるかも知れないという前提で話が進んでいたのだけれど、企画会議を重ねるうちに、私は全体の構成とコラム的なページを担当し、もう一人の共著者の方が、主たる文章を書く方向に落ち着いていきそうだ。
当初は、春から夏にかけてずっと家にこもって書き続けなければならない?と覚悟していたけれど、どうやらそういうことにはならなさそう。もちろん、構成やコラムだけでも大変に責任の重い、文学史的に非常に重要な仕事なので、心して取り組まなければならないことに変わりはない。私の2010年の多くの部分は、この本に捧げるのだ。桜が咲き桜が散りゆくのを眺めながら、改めてそう思う。
*
さて、そんな固い話ばかりではなく、この長い仕事漬けの冬の間、一時的に私の買い物欲が大爆発した3日間があった。そのことを書いてこの日記を締めくくろうと思う。(だって私ってほんとはそんなに真面目人間ってわけでもないですしー)
そう、3月半ばに、我が町・吉祥寺の伊勢丹が、38年の歴史を惜しまれながら閉店することになった。そこで「ありがとう吉祥寺」大感謝セールが開催されたのだが、その人出たるやすさまじく、2月から3月にかけて、連日吉祥寺伊勢丹が全国1位の売り上げを取り続けたほどだという。
で、私が買いまくったのが、靴!
その一部をご紹介するので下の写真をご覧下さい。
左から、ANNA SUI、イタリアのブランドALESSIO BALDUCCI、ANNA SUI。
ANNA SUIは2足とも5千円ぽっきり。イタリアン・ブランドの靴に至っては、何と3千5百円だった(普通、2万とか3万とかするのに)。買わずにはいられないでしょう!
この他にも、わけあり品のパーティー用ハイヒールが千円だったり、いいかんじのブーツが5千円だったり。靴だけじゃない。バッグも安いし、ワンピも安い!カルバン・クラインのスプリングコートが1万2千円って!!!
‥と、閉店前の最後の3日間、取材の後に吉祥寺に帰って来ると、連日伊勢丹に通った。その数、靴・バッグ・洋服・小物‥の合計で何と14点も!買ってしまったのだった!(そのうちワンピが4枚)。
まあ、明らかに、忙し過ぎる仕事の反動なんですよね!それに、1年分の買い物を今しちゃったわけなんですから!もう買いませんから!
吉祥寺は、今年、大きな変化を迎えている。伊勢丹だけではない。4月1日にロンロンがアトレに変わって2階からおばさんぽい店が全部駆逐され、おしゃれ雑貨屋の大集合ゾーンに変身してしまった。もう、歩いていると、げっぷがぜんぶおしゃれ雑貨になってこぼれ落ちてしまうんじゃないかと思うくらいの大変身ぶりである。
今後は、秋までかけて地下フロアと1階と別館が改装されるそうで、きっと地下も1階も別館も、全部おしゃれ雑貨屋やおしゃれブティックで埋め尽くされるのだろう。伊勢丹跡地も、20代、30代に的を絞った大おしゃれビルになるらしい。
私としては、吉祥寺のいいところは、かわいい店とおばさんぽい店が混在しているところだと思っている。全部おしゃれ最前線の店になって表参道ヒルズみたいな街になったらかなわない。人間、おしゃればかりではガンで早死にしてしまうし、犯罪率もきっと上がるのだ。何で?って言われても、そうだからそうだとしか言いようがない。
人間は、おならもするしげっぷもするし、嫉妬もするしだらけたりもする生き物だ。安心しておならが出来る街が一番いい街だと思う。第一、これから吉祥寺周辺に住んでいるおばちゃんたちは、どこで買い物をすればいいのだろう?私はおばちゃんたちのことがとてもとても心配なのだ。
(ハモニカ横丁の中のおばさん向け洋品店と、西友の横の洋品店は健在なのが救いだけど‥)
そんな吉祥寺伊勢丹の最終日、お客さんに無料で配られた泉屋のクッキーが下の写真。
もちろん、街は変わってゆく。変わってゆくのは仕方のないことだけれど、泉屋のクッキーが私の子どもの頃と全く同じ味のまま愛され続けているように、変わらない部分もまた、必ず存在しなくてはいけないのだと思う。