西端真矢

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「衣装と体」 2010/04/14



非常に卑近な例になるが、或る一つの芸術作品を人間の体と洋服を使って喩えてみたとき、体は思想であり、その表現方法は衣装であると言うことが出来る。
もちろん、現代人はダイエットをしたり整形手術をしたり、はたまた豊胸手術なども施すことが出来るのだから、実際には体そのものを改変することは十分可能だ。でも、そのことは今は置いておこう。体は天与のもので、ただありのままに存在することとする。

一方、衣装は、どのように豪華にでも付け加え、引き伸ばすことが出来る。
レースを縫いつけ、リボンを散らし、そもそもきらびやかな厚地の布を使えばその重量感は計り知れない。或いは、敢えてつるりとした合成繊維を使い、ドレープの美しさで人を魅了することも出来る。衣装はその千変万化する特性によって自らを輝かせ、また、それを着る人体そのものも或る一つの見かけへと美しく誘導することが出来る。それが衣装の力だ。

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さて、ここで冒頭の比喩に戻ると、体は思想であり、衣装はその表現方法である。或る一つの思想を芸術作品の中核に据えて表現しようとするとき、作り手はそこに、自分好みの衣装をまとわせて差し出すことが出来るという訳だ。
ところで、私が一体何故このような比喩を延々と持ち出しているかと言えば、それは、現在の日本に流通する芸術作品のうち、衣装について周到に考えられているものは多いが、それを着る体は衣装の華麗さに釣り合っていないものがほとんどなのではいかと感じるからだ。また卑近な喩えになって恐縮だが、要するに、「脱がせてみたら悲しいくらいに貧相な体だった」、ということだ。
これは、私がそれぞれの作品を見たり読んだりしたときにも思うことであるし、或いは、たまたま作り手の側と実際に話す機会があったときに、色彩や造形、或いは文体や言葉選びの素晴らしさに比べてその思想が驚くほど平凡、浅薄であり、がっかりさせられることが多い‥という実体験から考えるようになったことだ。

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学生時代、私はかなり熱心に西洋哲学を勉強したが、当時大流行していた(そして今も多数の盲目的信者を抱える)フランス現代哲学には、どうしても賛同することが出来なかった。リゾームだのノマドだのモードの体系だの、はたまその翻訳者が使った用語、スキゾだの逃走だのといった非常に‘ファッショナブル’な衣装をまとったそれらの書物は、フランスのものも日本のものも、私には、3ページで言えることを100ページに引き延ばす、極めて優れたファッションデザイナーの仕事にしか見えなかった。
もちろん、その引き延ばし方そのものが思想の核心と分かちがたく結びついている、という反論が即刻出ることは承知している。だが、本当にそうなのだろうか?

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当時、フランス哲学に疑いの目を向けていた私が、心の底から傾倒したのはヴィトゲンシュタインの思想だった。それも、前期の代表作『論理哲学論考』ではなく、晩年の『哲学探究』と『確実性の問題』に、大地が割れ天が裂けるかと思うほどの計り知れない影響を受けた。
『哲学探究』を1ページでも開いてみれば分かることだが、そこには、難解な言葉も思わせぶりな‘ファッショナブル’な語句もただの一つも書かれていない。おそらく、小学6年生程度の国語力があれば理解出来る、非常に簡明な文章で全てのページが綴られている。しかし、その一行一行の文章の意味を、つまり、ヴィトゲンシュタインがそこで何を言おうとしているのかを、本当に理解することは極めて難しい。

大切なことは、ヴィトゲンシュタインが、或る程度時代を重ねて生きたフランス現代哲学者たちが直面したのと同様の巨大な哲学的問題に直面したときに、全力で、あらゆるファッショナブルな飾り立てを排除したということだ。『哲学探究』は、全て、最低限必要な、最も簡明な言葉だけで書かれている。それはつまり布地の厚みやドレープがない分、体についてごまかしがきかないということだ。
ヴィトゲンシュタインの哲学はまるで皮膚であり骨であり毛髪であり眼球であるような文章で書かれている。或いは、巨大スーパーマーケットの平場で売られている白いシャツ、グレーのスカート、グレーのズボン、何の特徴もないベルト、黒い革の靴、そのような凡庸な服たちで作り上げる凡庸なスタイルのような文章で書かれいてる。だからこそ、その分、それを着る者の体が、その思想が何を明かしているのかをまざまざと私たちに見せつけるのだ。確実なものは何もない、ということの根元的な恐怖を。ドレープがなければその中に頬をうずめて、恐怖を甘美によってごまかすことは出来ないのだ。

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もちろん、衣装の周到さを好む・好まないは、個人の趣味の問題と言い切ることも出来るだろう。だからこそ、次のような趣味もまた存在すると言うことが出来る。

出来得る限り平凡なカッティングを用い、ただ実用に耐え得る強度を備えただけの最低限素材を使った衣装をまとう、という趣味

この趣味の持ち主にとっては、胸がないのにレースのひだで無理に胸の厚みを作ったり、弱々しい腕をバルーン袖で膨らませて見せられても、ただただしらけてしまうだけだ。或いは、羽飾りやドレープを使うなら、それを受け止めるだけの肉体の重みが必要だ、と言い換えてもいい。このような趣味は、忘れられがちではあるが、やはり厳然と存在する。

もちろん、ヴィトゲンシュタインは人類有数の哲学者だ。誰もが彼と同様の高みに近づける訳ではない。けれど、少なくとも何がしかのを創作活動を行おうと志す者であるならば、最初からこのヴィトゲンシュタイン的衣装態度を放棄するべきではないのではないか。日々悲しいくらいに貧弱な体たちばかりを目にするたびに、ため息をつきつつそう思うのだ。これも趣味の問題だと彼らは言うだろうか?言いたい者には言わせておけばいい。平凡極まる服装と中肉中背の肉体が作り上げる美は、おそらく、最も審美眼を試される美なのだ。