西端真矢

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逃げる・逃げない論 2011/03/29



福島原発近隣住民の方々に避難勧告や屋内退避勧告が出ている今、原発に非常に近い5キロ圏内に住む方々の中に、断固として避難を拒んでいらっしゃる方がいるというニュースを報道で見た。そして、思わず涙がこぼれた。
このニュースに連動したmixi日記の中に、

「彼らは父祖の地に殉じようとしているのだ。この行動を笑う者は人間ではない」

と書かれている方がいて、私も全く同じように感じている(注*現在その日記にたどり着けなくなってしまったため、私の記憶で書いています。一部語句が違う箇所があるかと思いますがご了承ください)。そしてますます涙が流れた。
世の中には、「土地に全く執着しない」という人がいる。
私の友人の中にも、「僕はニュータウン育ちで土地への思い入れは全くない。どこででも生きて行けるし、日本という国についても強い思い入れはないから、どこか無国籍な、ニューヨークのような街で暮らすのが一番自分に合っていると思う」と公言している人もいる。
私はそういう人が心底羨ましい。自分もそんな風になれたらどんなに気が楽だろうと思う。私はもっとお涙ちょうだいな、演歌調な人間で、自分が育ったこの東京の街をひどく愛してしまっている。日本という国の欠点は重々承知しているけれど、それでもやっぱりこの国が好きで、この国がいつまでも地球の一角に栄えていてほしいと心から思う。だから今回の地震と原発事故により、日本が、そして私が育ったこの関東の地が、このような事態に陥ってしまったことにとてもとても大きな精神的打撃を受けている。

             *

一方、地震発生以来、東京から関西や九州方面、或いは海外へと避難されている方々がいる。そしてそれを「逃げる」と侮蔑し、非難を浴びせる論調をネット上にいくつも読んだ。私はそれはおかしいと思う。逃げる…とは何だろうか?逃げることはそんなにいけないことなのだろうか?と。
私は、逃げることは、生きることと同義だと思う。それは生物の最も根源的な本能の一つだ。自分の生命を脅かす巨大な恐怖を察知したとき、そこから全力で抜け出そうとあらゆる努力をすること。これは生きようとする力そのものだ。何故これを否定したり、侮蔑することが出来るのだろうか?

一方で、「逃げない」という選択肢もまた確実に存在する。
例えば現在福島原発でメルトダウンの恐怖と闘いながら必死で作業を続けている方たち。おそらくこの方たちに「絶対に現場に行け」という命令は出ていない筈だ。彼らは最終的には、個人個人の自己判断で現場に行く・行かないを決められている。熟考の末に、「逃げない」という道を選択された方々。その勇気に限りない、限りない尊敬の念を抱くのは、私たちが「逃げる」ことの重要性を本能で理解しているからだ。だからこそ「逃げない」という選択肢は限りなく輝くのだ。

             *

逃げる、逃げない
そのどちらの選択肢にも、私たちは共感することが出来る。
死んでしまったらおしまいだ。何としても、どんな手を使ってでも、絶対に生き延びるんだ、という意志。
一方で、「ただ生きているだけでは生きている意味はない」、そのような意志も存在する。自分が目指す生の充実、そこに限りなく近づけたときに初めて、人は本当に「生きた」と言えるのだ、という意志。

この二つの人生観に対して、どちらが正しいという答えは永遠にない。もちろん、優位性も、永遠に確定出来ない。どちらも正しいし、どちらも理解出来る。どちらかがどちらかに自分の正しさを・自分の優位性を押しつけることも出来ない。ただそこにその人がいる、と、しか言いようがない答え。そのような問いとそのような答えの前に、今私たち首都圏の人間は直面させられている。


             *

さて、今後私自身はどうするだろう?と考える。今後福島で最悪の事態が起こってしまったとき、或いは考えたくないことだけれど、例えば東海地震が連鎖的に起こって浜岡原発までもが制御不能というような最悪中の最悪の事態に陥ったときに、私は東京から逃げ出そうとするだろうか?と。或いは私はカナダ生まれでカナダの市民権を持っているので、日本国籍を捨てて、カナダ人になろうと思うようになるだろうか?と。分からない。全ては分からない。そのときに直面してみなければ何も分からない、と思う。

ただ、今の私は、ここから出たいとは思わない。私はこの土地で育ちこの土地から楽しい時間をもらい、それを人間の愚かさによって汚そうとしている今この事態に直面したときに、そうですか、じゃあさようならと、あっさり出て行くことがただあまりにも忍びないのだ。私が涙や笑いをこぼしたこの土地、私を眠らせ私を歩かせてくれたこの土地に対してただあまりにも申し訳ないのだ。それを笑いたい人は笑ってくれればいいと思う。笑う人はあまりにも人間というものを一面でしか理解していないというただそれだけのことだ。

写真家の蜷川実花のブログで知ったのだが、彼女の父・演出家の蜷川幸雄は、地震発生時に仕事で韓国に滞在していのだたという。ところが、
「演劇人としてちゃんとこの状況を体験しておかないなんて耐えられない」
と、わざわざ日程を早めて安全な韓国の土地から、まっしぐらに東京に帰国したそうだ。私はこの蜷川幸雄の一念に共感することが出来る。私もこれから日本語で文章を書く仕事を続けて行きたいと思っているから、この動揺の中に出来得る限り踏みとどまり、日本が立ち直るならその姿を、堕ちて行くならやはりその姿を、自分の全身でその渦中で感じて、その上で言葉を紡ぎ出して行きたいと思うのだ。それが今の私の覚悟であり、それが今日の時点での私の「答え」だ。

だからと言って私は逃げ出す人を否定したりしない。
私の周りにも何人も、子どものために、或いは自分の精神的不安が極限に達したために、東京以外の地域に避難している人々がいる。放射能汚染という前例のない恐怖を前にして、このような行動を取る人が出て来るのは生物として当然のことだ。この人たちは何よりもまず生きようとしている。その上で自分の人生を築こうとしている。それは一つの立派な見識であり、100パーセント正しいと思う。我慢する必要なんてない。逃げることはちっとも卑怯なことなんかじゃない。逃げたいと思ったら、そのときは逃げるということが一番正しい選択肢だ。心からそう思う。

そして、これからのことを思う。事態が最悪を迎えるとしても、或いは辛くも最悪の事態を免れるとしても、2011年は今この宇宙の中を一刻一刻と過ぎ去って行っている。この宇宙の中で、本当に本当にちっぽけな、本当に本当にちっぽけな私たち、と私たちが重力によってへばりつき、木や鳥や草や花や川や山が息づくこの土地を生き延びさせるために、私たちはどう生きればいいのかを、この混乱の中で必死に考え続けている。


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地震後初めて着物で外出*お着物の記 2011/03/26



先週の日曜日、吉祥寺の外れにある一軒家カフェ「nito cafe」で、友人の写真家・関根健太郎さんの写真展が開かれていました。
まだまだ大きな余震が来る可能性が高いこの時期。洋服に比べれば着物は足さばきに若干制約がありますから、「どうしようかな?」と迷ったのですが‥やはり着物で出かけることにしました。この1年ほどの間に、私にとってはすっかり「外出=着物」の習慣が身に着いてしまったのですよね‥。nito cafeは我が家から徒歩15分ということもあり、バッグの中にスニーカー持参で出かけました。

その日のコーディネートがコチラ↓
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*草花文様の紬。これは、ごく最近買ったお着物です。2月の終り頃だったか、仕事の取材帰りに渋谷駅をふらあっと歩いていると、「大着物市」のポスターが。見るだけ、見るだけ‥のつもりがついつい「あれ?あの変わった着物何だろう?」と吸い寄せられ‥結局買ってしまったのがこの一枚でありました。えへん。

*縦に額縁文様に黒い筋が入った紬。草花文様を織り出しています。いわゆる、「織り絵羽」の着物ですね。
一見、花や、薄紫色や白で繊細に表現した草の部分は染めているのかな?と思うのですが、いえいえ、全て織りで表現しているのでした。これはなかなかに優れた技術が詰め込まれた着物です。

*文様を全て織りで表現となると、本来ならとーってもお高いお値段になるはず。ところが、サンプルで、撮影用に背の小さなモデルさんに合わせて仕立てたものなので、なかなか着られる人がいない‥ということで、ビックリするほど破格のお値段になっていました。即購入です。

*帯は、祖母から受け継いだ唐花文様のかがり八寸。昭和初期頃の、モダン東京の香りを感じさせてくれる一本です。つづらの中にくるくると丸めて入っていたものを、最近吉祥寺の「あも」でかがり八寸に仕立て直し、今回初下ろし。この着物との相性バッチリだったかと思います。

*私は、着物は、「洋服感覚の着物」「洋服感覚のコーディネート」という考え方が嫌いです。洋服風に着たいなら、洋服を着ればいい。着物を着る以上、洋服のコーディネートとは違った“着物ならではの匂い”のある組み合わせを打ち出したいんです。

*今回のこの紬の着物は、「洋服風着物」になってしまうギリギリのところにある文様かなと思っています。でも、草や花の表現の仕方にちょっと和の匂いがして、「洋服のテキスタイル」になってしまうギリギリ手前のところで踏ん張っている。
これに、敢えて強烈な唐花文様の帯を持って来ることで、洋服では考えられないやり過ぎコーディネートを実現。ところが着物だと、このくらいのやり過ぎがとってもいい塩梅なんですね。これこそが“着物ならではの匂い”かと。
今回、着姿の写真を撮らなかったのですが、そのうちまたこの組み合わせで出かけて写真を撮り、実際に着たときの「帯と着物のバランス」を見て頂けたらと思います!

*帯揚げは、ベージュ地に源氏香を桃色や薄紫で織り出したもの。ヘビーローテーションの藤色の帯締めで!

*地震の混乱でお着物日記を休んでいましたが、2月に着た着物など、また折々ご紹介して行きたいと思います!


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素敵男子に癒される 2011/03/25



昨日の日記が何故かブログ村にリンクしなかったので、再度同じ題で掲出します。

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この後に続く24日付けの日記をお読みください。



http://www.maya-fwe.com/2011/03/000125.html

素敵男子に癒される 2011/03/24



福島原発復旧の一進一退にやきもきし、飲料水にも不安を感じながら暗い日々が過ぎて行く首都東京。この数日夜から朝にかけて繰り返し繰り返し起こったやや大きめの余震に肝を冷やし、毎日はまるで薄氷の上を踏むようです。
この地震の影響で、私の仕事は中断や延期になったものがほとんど。突然毎日がヒマな時間でいっぱいになり、こんなときこそ自分の中に教養を貯め込もうと(そして気分を換えようと)、読書はもちろんのこと、茶の湯の自主稽古、中国語と英語のリスニング学習、着物の産地や服飾史の勉強、そして今後仕事が動き出したときのことを見越して企画のブラッシュアップに励んでいます。長年の夢だった韓国語の勉強も始めようかしら‥。

本当は、近県にボランティアに行きたい気持ちもあるのですが、年老いて、ネットや携帯を使いこなすことも不可能な両親を置いて私が出かけているときに、万一大きな余震が起こったら?‥と考えると、当分の間は歩いて数時間内に帰宅出来る距離での外出しかままなりません。
それでも、この間の連休は我が家から徒歩10分の吉祥寺のカフェで友人の写真展が開かれ、久々に着物を着て出かけることも出来ました。いつも行っている近所のケーキ屋さん、パン屋さん、雑貨屋さん、スーパーの店員さんたちとの会話もしみじみと暖かく、地域コミュニティの中で、人のつながりを大事にして生きることの大切さを思い知らされる毎日です。これからも、この街を大切にして生きて行きたい。

そんな、緊張と慰めが交代交代にやって来る毎日の中で、一つの癒しは、テレビの中に見る素敵男子たちの姿。ネットでも大分騒がれているようですが、NHKの科学解説委員の水野倫之さんが素敵過ぎます。
これがその水野さん↓
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原子力保安院や東電の記者会見を聞いても素人にはさっぱり内容がつかめない中、普通に日本語を話す人なら誰でも理解出来るように、要点をぎゅっとまとめてくれる頭脳明晰さ。しかもそれをアナウンサー並みの平明な語調で話し、物腰も、アナウンサーやカメラをしっかりと見つめた話し方。原稿棒読みではなく、自分の言葉で話しているんだな、しかも、それに責任を持とうとしているんだなということがハッキリ伝わって来る姿です。

また、その話し声も何とも素敵な低音で、ネット情報によると大学時代は合唱部に所属していたのだとか。熊やりんご模様!のネクタイ!紫のシャツ!おしゃれ腕時計!と、そのファッションセンスもとても話題になっています。我が家では、母が、「今水野さん出てるわよー!」とわざわざ呼びに来てくれるほど、私はすっかりファンになってしまいました。

そんな水野さんが更に素晴らしいのは、時々見せる正義魂。私は目撃していないのですが、問題勃発初期の15日頃に、御用学者たちが曖昧な言説を繰り返す中、はっきりと「危険な状態」と言い切ったのだそうです。
また、これは私も目撃しましたが、自衛隊ヘリコプターによる放水が決まったとき、北沢防衛大臣が「今日が限界」という発言をしたことを、「何故限界なのか、根拠もないのに要職にある人間が国民を不安にさせるような発言をしてはならない」とはっきり意見を述べました(‥しかし、アナウンサーが途中で緊急ニュースと称して、大して急ぎでもない情報を挟んで水野発言はストップ)。科学担当記者として、国民に正しい情報を伝えることに使命感を持っているその決意が伝わって来ます。大変素敵。この方は将来、第二の池上彰的存在になれるのではないでしょうか。LOVE

            *

また、大規模停電をぎりぎりの綱渡りで脱した17日の夜、私はほっと一息テレビに釘付けになっていました。何故って、『外交官黒田康作』最終回にイ・ビョンホン様が出演するから。
今回かなり出番シーンが多く、途中の回を見ていないのでストーリーはぼんやりとしか分かりませんが、とにかくその素敵なスーツ姿を見つめるだけで連日続いた精神の緊張がふわあっと解き放たれて行くのが分かりました。
特に女性を口説くシーンの表情がとてつもなく素敵です↓
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残念ながら日本の俳優さんは顔立ちや服のセンスでは勝っていても、こういう色気の出し方は到底、大陸発の韓国人には敵わない。侘び寂び文化の国だから仕方がないのですが、女性の本能としては、韓国男性の色気に惹かれてしまう人が多く出て来るのはやむを得ないことだと思わされます。
ちなみにイ・ビョンホンさんは、地震発生後すぐにウェブサイトで心のこもったお見舞い文を発表。また、5000万円の寄付も即座に送ってくれました。私の中でますます上がるビョン様の株。

また、今回、韓国芸能界、そして韓国社会が日本に非常に大きな援助の手を差し伸べてくれたことにもとても驚かされました(強烈な反日文化の国という印象ですから)。前回の日記で書いた台湾同様、韓国も、そして中国も今回大変人道的な支援を送ってくれている。これは、緊張の続く首都圏の真っただ中にいる人間にとって、一つの大きな大きな慰めです。しかもその中に稀代の男の色気をただよわすビョン様の姿があることが、どれだけ大きな気分転換になったことか!改めてスターというものの存在の大きさに思い至ったこの頃でした。

そんな中、昨夜は、近所の居酒屋にて夕食を取りつつ編集者と仕事の打ち合わせをして来ました。内容について大きく展望が開けた予感。緊張と混乱が続く毎日ですが、希望と可能性を見失わずにいたい。地震発生からもうすぐ2週間です。

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ありがとう、台湾(中国語日記。日本語訳付き) 2011/03/24



(3月19日の下記の日記が何故かブログ村に反映されなかったので再び掲出します。中国語の後に日本語の訳が続きます)

今天我看網上的新聞速報的時候、一時不能相信自己的眼睛。
昨晚台灣電視台聯播的「送愛到日本311震災募款晚會」「相信希望」節目、
為了我們日本人收集了21億日元‥
馬總統親身受理電話‥那麼多明星為日本團結上台‥
我不由得問我、日本哪裡有地方值得接受這麼大的善意呢?

十一年前在北京留學的時候我認識了許多台灣朋友、
他們都好、以後、我對台灣的印象一直很好的。
而且、八年前去台灣旅遊的時候也遇見了許多台灣人的好意、
那次的印象很深、到現在常常想念。
也喜歡看楊德昌、蔡明亮、陳玉勳、李安等台灣導演的片子、
一直很崇拜他們。我是一個本來很喜歡台灣的日本女生。
可是這次、這次從台灣接受的感動真打・動・打・動・我的心。
找不到最合適的說法、只能夠說謝謝、這個很平凡的詞。

21億日元、這款額當然是我很感謝的對象、
──因為日本現在真心渴望為復興要用的錢──
可是我最感謝的是這麼多台灣人關心日本人這次遇到的國家危難、
而伸出援助之手、就這個事情。
真感謝你們台灣朋友。
日本永久不忘記這次你們表示的巨大善意。

普通日本市民不會講中文、所以不知道怎樣表示內心的感謝。
可是、這次台灣市民為我們捐款的新聞在日本也大大報道、
我、做為會講一點一點的中文的日本人、
代表著日本市民想在這個blog上表示感謝。
謝謝你們、真謝謝你們台灣朋友。
因為我住在東京、所以、現在還在餘震和原發問題的危險下、
可是一切都平復後、想去台灣旅遊、
想直接跟你們說我們的感謝。
謝謝台灣、謝謝。

今日、ネットのニュース速報を見たとき、しばらくの間自分の目が信じられませんでした。
昨日夜台湾で放映された「日本に愛を送ろう、311地震救援の夜」「希望を信じて」の番組を通じて、
日本円で21億円に相当する募金が集まった‥
(台湾の首相である)馬総統自ら募金受付の電話に出てくれた‥
本当にたくさんの台湾のスターたちが団結して集まり、ステージに立ってくれた‥
思わず自分に問いかけずにいられませんでした。
「日本人のどこに、ここまでの好意を受け取る価値があるのだろう?」と。

11年前、北京に留学したとき、たくさんの台湾の友人が出来ました。
彼らは皆素晴らしい人たちで、以来、私の中で台湾の印象は非常に良いものです。
また、8年前に台湾に旅行へ行ったときも、たくさんの台湾の方々に親切にして頂きました。
そのときの印象は非常に深く、今でも折りに触れてよく思い返しているほどです。
また、エドワード・ヤン監督、ツァイ・ミンリャン監督、チェン・ユーシュン監督、アン・リー監督‥台湾の監督の映画作品が好きで、彼らを大変尊敬しています。私はいつも台湾が大好きな日本人でした。
しかし、今回台湾の方々が示して下さった好意は、本当に本当に、私の心を強く揺さぶりました。それを表現するどんなふさわしい言葉も見つからず、ただ「ありがとう」という、最も平凡な言葉しか今は口にすることが出来ません。

21億円‥この金額に、もちろん大きな感謝をしています。
何故なら、今、日本には、復興のための資金が喉から手が出るほどに必要だからです。
しかし、私が最も心を動かされたのは、
こんなにもたくさんの台湾の方々が、私たちが今回直面した国家的な危機に関心を寄せ手を差し伸べて下さったという、その事実です。
台湾の皆さん、本当にありがとうございます。
日本人は今回のこの皆さんの好意を、絶対に忘れません。

多くの日本人は中国語を喋ることが出来ません。
だから心の中にある感謝の思いを皆さんに伝えることが出来ないのですが、
しかし、今回の募金のことは日本でも大々的に報道されています。
中国語をいくらかは話すことが出来る私は、
日本人を代表してこのブログで感謝の言葉をお伝えしたいと思います。
台湾の皆さん、本当に、本当にありがとうございます。

私は東京に住んでいるので、今も余震と原発の問題が続き、
危機はまだ去っていません。
けれど、全てが収まった後には、
いつか台湾に旅行して直接台湾の方々に感謝の言葉を伝えたいと思っています。
台湾の皆さん、本当にありがとうございました。ありがとう、台湾。

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從東京表示感謝、謝謝台灣 (中国語日記。日本語訳付き) 2011/03/19



今天我看網上的新聞速報的時候、一時不能相信自己的眼睛。
昨晚台灣電視台聯播的「送愛到日本311震災募款晚會」「相信希望」節目、
為了我們日本人收集了21億日元‥
馬總統親身受理電話‥那麼多明星為日本團結上台‥
我不由得問我、日本哪裡有地方值得接受這麼大的善意呢?

十一年前在北京留學的時候我認識了許多台灣朋友、
他們都好、以後、我對台灣的印象一直很好的。
而且、八年前去台灣旅遊的時候也遇見了許多台灣人的好意、
那次的印象很深、到現在常常想念。
也喜歡看楊德昌、蔡明亮、陳玉勳、李安等台灣導演的片子、
一直很崇拜他們。我是一個本來很喜歡台灣的日本女生。
可是這次、這次從台灣接受的感動真打・動・打・動・我的心。
找不到最合適的說法、只能夠說謝謝、這個很平凡的詞。

21億日元、這款額當然是我很感謝的對象、
──因為日本現在真心渴望為復興要用的錢──
可是我最感謝的是這麼多台灣人關心日本人這次遇到的國家危難、
而伸出援助之手、就這個事情。
真感謝你們台灣朋友。
日本永久不忘記這次你們表示的巨大善意。

普通日本市民不會講中文、所以不知道怎樣表示內心的感謝。
可是、這次台灣市民為我們捐款的新聞在日本也大大報道、
我、做為會講一點一點的中文的日本人、
代表著日本市民想在這個blog上表示感謝。
謝謝你們、真謝謝你們台灣朋友。
因為我住在東京、所以、現在還在餘震和原發問題的危險下、
可是一切都平復後、想去台灣旅遊、
想直接跟你們說我們的感謝。
謝謝台灣、謝謝。

今日、ネットのニュース速報を見たとき、しばらくの間自分の目が信じられませんでした。
昨日夜台湾で放映された「日本に愛を送ろう、311地震救援の夜」「希望を信じて」の番組を通じて、
日本円で21億円に相当する募金が集まった‥
(台湾の首相である)馬総統自ら募金受付の電話に出てくれた‥
本当にたくさんの台湾のスターたちが団結して集まり、ステージに立ってくれた‥
思わず自分に問いかけずにいられませんでした。
「日本人のどこに、ここまでの好意を受け取る価値があるのだろう?」と。

11年前、北京に留学したとき、たくさんの台湾の友人が出来ました。
彼らは皆素晴らしい人たちで、以来、私の中で台湾の印象は非常に良いものです。
また、8年前に台湾に旅行へ行ったときも、たくさんの台湾の方々に親切にして頂きました。
そのときの印象は非常に深く、今でも折りに触れてよく思い返しているほどです。
また、エドワード・ヤン監督、ツァイ・ミンリャン監督、チェン・ユーシュン監督、アン・リー監督‥台湾の監督の映画作品が好きで、彼らを大変尊敬しています。私はいつも台湾が大好きな日本人でした。
しかし、今回台湾の方々が示して下さった好意は、本当に本当に、私の心を強く揺さぶりました。それを表現するどんなふさわしい言葉も見つからず、ただ「ありがとう」という、最も平凡な言葉しか今は口にすることが出来ません。

21億円‥この金額に、もちろん大きな感謝をしています。
何故なら、今、日本には、復興のための資金が喉から手が出るほどに必要だからです。
しかし、私が最も心を動かされたのは、
こんなにもたくさんの台湾の方々が、私たちが今回直面した国家的な危機に関心を寄せ手を差し伸べて下さったという、その事実です。
台湾の皆さん、本当にありがとうございます。
日本人は今回のこの皆さんの好意を、絶対に忘れません。

多くの日本人は中国語を喋ることが出来ません。
だから心の中にある感謝の思いを皆さんに伝えることが出来ないのですが、
しかし、今回の募金のことは日本でも大々的に報道されています。
中国語をいくらかは話すことが出来る私は、
日本人を代表してこのブログで感謝の言葉をお伝えしたいと思います。
台湾の皆さん、本当に、本当にありがとうございます。

私は東京に住んでいるので、今も余震と原発の問題が続き、
危機はまだ去っていません。
けれど、全てが収まった後には、
いつか台湾に旅行して直接台湾の方々に感謝の言葉を伝えたいと思っています。
台湾の皆さん、本当にありがとうございました。ありがとう、台湾。

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極度の緊張下の東京から 2011/03/17



東日本大震災発生から7日。ここ東京では毎日あまりにも非日常なことが続き、まるで長い夢の中を生きているようです。
特に福島原発の危機的状況が明らかになった4日目からは、おそらく首都圏に住む一人一人の胸の中にたとえようもないほど巨大な恐怖が生まれ、それが度重なる余震の揺れによって限りなく増幅され、自分自身の存在を溶かして、消してしまうような‥そのような感覚に襲われたのは決して私一人ではないと思います。

今、極度の緊張と、不安の下で、一日一日を生きている私たち。昨日、病院に行く用事があり、その道筋でいつも贔屓にしている呉服屋さんの前を通りかかりました。店の灯りは消え、「ああ、やはり休業中なのだな」と行き過ぎようとすると、中では番頭さんたちが品物の整理をしていたようで、「まやさん!」と電源の入っていない自動ドアを押し開けて、大声で皆さんが呼び止めて下さいました。震災以来、私は日用必需品の買い出し以外ほとんど家で息をひそめて家族とだけ過ごしていたので、以前の平和な暮らしの中で顔を合わせていた人々と話をするのはそれが初めての体験でした。懐かしい、皆さんの顔を見ていると、しみじみと、生きていることのありがたさと、そして人と人とのつながりの温かさが身にしみて来るのを感じました。
これまで、私は、それなりに大きな仕事もして海外で暮らしたこともあり、人の裏切りや人の死や、恋、成功、挫折、努力、それなりの人生体験をして来たと思っていましたが、それでも、やはり、人生の本当の姿をごく一部分でしか理解出来ていなかったのだと、今つくづく思います。

昨日、番頭さんの一人が、
「この地震で僕の人生観は変わってしまいました」
と仰っていましたが、私も全く同じように感じます。あの日、自分自身の身体に揺れを感じ、そして、東京の街を人々が黙々と列になって歩いて行くあの黒い影を自分のこの目で目撃し、幾度も幾度も余震におびやかされ、テレビを点ければ全てのチャンネルから映し出される信じられない映像に胸がつぶれ、どこにも心の行き場がない!と思う。そうするうちにも商店の店先からパンが消え、牛乳が消え、米が消え、ちり紙が消え‥いつものスーパーに入るのに入場制限をかけられ、中に入ることすら出来ない!
いつもにぎやかな吉祥寺の街を人々は思い詰めたような顔つきで食料品を満載にした袋を抱えて速足ですれ違い、店々はどこも半分ほどの灯りで営業しているのでまるで休業しているように見える…やがて私の住む町では輪番停電が開始され、毎日、毎日、明日の停電時間は何時なのか、その情報を入手することが生活の最重要事項になる‥そんな、ほんの1週間前まで誰も想像すら出来なかった生活の中で、余震の振動に震えながら更に信じられない現実、吹き飛ぶ原発の屋根、むき出しになった鉄骨、空に上がる白い煙を、私たちはテレビの四角い箱の中に見つめたのでした。

        *

三島由紀夫の『仮面の告白』の中に、私が偏愛し、幾度も幾度も繰り返し読んで来た一節があります。

「ようやく起き上がれるようになったころ、広島全滅のニュースを私は聞いた。
最後の機会だった。この次は東京だと人々が噂していた。私は白いシャツに白い半ズボンで街を歩き廻った。やけっぱちの果てまで来て、人々は明るい顔で歩いていた。一刻一刻が何事もない。ふくらましたゴム風船に今破れるか今破れるかとと圧力を加えてゆくときのような明るいときめきが至るところにあった。そでれでいて一刻一刻が何事もない。あんな日々が十日以上続いたら、気が違う他はないほどだった。」

これは、1945年、太平洋戦争敗戦の直前の東京の街を描写した一文です。そのときの東京はアメリカ軍の度重なる攻撃によって街は瓦礫の山と化し、更に、広島からは新型爆弾、そう、原爆の噂が届いていました。個人が想像し、自分の力で支え切れる限界を越えた恐怖と不安、緊張の中を、一瞬一瞬、まるで僥倖のように、まだ自分は生きている!と思いながら生きる――
私の夢は――もしもこのまままだ生き延びることが出来たとしたらそのときの夢は――昭和の戦争と現在の日本を接続させる本を書くことですが、そのために、これまで数えきれないほどの資料を読んで来て、それでも、どのように想像力を働かせても、決してたどり着けない地点があると感じていました。それは、当時の人々が日々感じていた恐怖と緊張、そしてその中に生まれるあきらめや笑いの感覚、それを本当に自分のものとして感じとることでした。
今、この東京にいて、私は、当時の日本人がありありと感じていただろうものと同じ恐怖を感じることが出来るようになったと思います。それは、体験してみない限り決して理解出来ない性質のものでした。今この時以降、「日本人」と一つの言葉では言ってみたとしても、この恐怖感と非日常感を今、日本にいて実際に感じた人間とそうでない人間とでは、もう同じ日本人とは言えないくらいに巨大な体験の差が日々生まれているのだと感じます。
また、今現在関東にいて体でこの恐怖を体験している人間と関西以南の人との間では、やはりその切迫感には大きな違いがあり、その差はもう決して埋めることは出来ない。どのように説明しても、中にいて感じるこの恐怖を共有することは出来ないと思います。
そして、同じように、東京にいて、まだ少なくとも無傷でいられる私たちも、被災地の方々の恐怖と絶望を、原発と今現在まさに戦っている方々と恐怖と勇気を、決して理解することは出来ない。その絶望感に、時々、呆然としていることがあります。

          *

今、毎日は、朝起きて、「ああ、まだ生きている」と思うことから始まります。正真正銘の夜型人間で、取材で早い時間のアポイントがあるとき以外はいつも昼頃に起き出していた私も、今は朝早くから行動を開始しています。何故なら、午前中に行動しないと、ほしい食料品を手に入れることが出来ないからです。
それから朝起きて一番にすることは、携帯のニュースで原発の現在の様子を知ること。そしてテレビのニュースを点けて更に最新のニュースを確認し、同時に、地域のケーブルテレビで今日の輪番時間が昨日の夜の時点での発表と変わっていないかを確認します。それから、一日の行動が決まる――これが今の私の毎日です。
震災前はゆっくりと、時間をかけて新聞を読みながら朝食を取ることが私の日課でしたが、今は手早く済ませ、吉祥寺に買い出しに回ります。昨日手に入れられなかった食パンを今日は意外な店で買うことが出来たり、昨日まではたくさんあった卵が棚に一つもなくなっていたり(ああ、買っておけばよかった‥)。毎日の食料品の購入は偶然と小さな運、不運に満ちています。
そして、手に入れられなくて困るのは食料品ばかりではなく、トイレットペーパー、電池、そして生理ナプキン‥父、母、私、それぞれがばらばらの場所に出掛けて行って12時頃に帰宅し、今日の成果を報告し合う、そんな毎日が震災以来続いているのでした。

           *

昼からは、食器や花瓶などのガラス器や倒れやすい家具を移動する作業をしたり、家族と安否確認の方法を決めたり、少し仕事をしたり。
でも、絶えずテレビやネットから情報収集をせずにはいられず、実際には仕事はなかなかはかどりません。特に最初の3日間ほどは、仕事はほとんど手に着かない状態で、じゃあ本を読もうと思っても内容が頭に入って来ない。今思い出そうとしても何をしていたのか、はっきり思い出せないような毎日でした。
また、現在のこの東京の様子を何とか外の人たちへ発信しようと思い、ブログを書こうとするのに、どうしても言葉が出て来ない。子どもの頃から文章を書くことが好きで好きでたまらない私ですらそうなのです。そうやって今日まで、ひたすら日々が流れて来ました。

       *

一昨日、15日は、私の写真展の初日で、夕方からのオープンに備え、作品の搬入をしなければなりませんでした。
本当はもっと前から計画的に会場である映画館に搬入出来ている筈だったのに、地震でなかなか作業が手に着かず、前日の14日までに会場に送れていた額は、6枚。あと3枚――しかもその3枚は前日までの6枚よりもさらに大きなサイズだったのですが――それらを何とか当日会場に持ち込まなければいけませんでした。
しかし、15日当日の天気予報は午後から雨。額は非常に大きく重く、両手に分けて持たない限り運ぶことが出来ません。それはつまり、雨が降っても傘を差せないことを意味します。いつ原発が爆発して死の灰が降って来るかも分からない状況の中で、傘を差すことが出来ない。タクシーをつかまえれば良いとは言え、そのような状況下で確実にタクシーをつかまえることが出来るという保証もありません。会場である映画館は原宿駅からやや歩く距離にあり、しかもそもそも、額に入れるために特注したマットと呼ばれる台紙を、まずは新宿の画材店まで引き取りに行かなければならない状況でした。
何とか雨が降る前に搬入を終えなければ!‥と、朝食もそここに家を飛び出して新宿へ向かい、マットを引き取って、「ああ、まだ雨が降っていない!」 そこからタクシーで原宿の映画館まで向かいました。
映画館では、スタッフがまだ出勤していない時刻なのでその入り口前の石畳に座って、マットを写真を張り付け、額にセットする作業をしたのでした。

そうやって向かった原宿までの道のり、途中の電車の中ではピンヒールにミニスカートの女性を見かけたり、英語のテキストを真剣に読みふけっている男性がいたり。新宿の画材店には、こんなときに画材店に来るのは私くらいのものだろうと思っていたのに、このさ中、マットを発注に来ている人の姿が他にもちらほらありました。タクシーの窓からは新宿御苑を散歩している老夫婦の姿が見え、無事映画館の前に額を置いて立ち去った後、帰りは千駄ヶ谷駅まで歩いたその道沿いの幾つものカフェではきれいにお化粧をして集まっている女性のグループを見かけたりもしました。いつ核の灰が降って来るか分からない、いつ余震に巻き込まれるか分からない状況の中で、そのときはそのときでもう仕方がない、と、日常を続ける人たちがいて、おそらく、大きな額を抱えて街を歩いている私もその一人に見えていたのかも知れません。まさに戦争中の日本人が生きた「やけっぱちの果てまで来て、人々は明るい顔で歩いていた」という世界の中を、いつの間にか私は生きていたのでした。

          *

幸いなことに、その日、まだ福島原発は持ちこたえ、富士山を震源としたその夜の大きな地震も東京の街を壊滅させるほどの規模は持ちませんでした。おそらく、あの富士山からの地震に身をさらしたとき、そしてそれが富士山を震源とすると知った瞬間が、震災以来、東京に住む人々の恐怖が最も増幅された瞬間だったのではないかと思います。
そして、「ああ、まだ生きている」と、今日は生きながらえたその恐怖がまたいつ再び私たちの上に舞い戻って来るのかも分からない、その現実の中を今まだ私たちはかろうじて生きているのでした。

         *

このような極度の緊張が続く毎日の中で、私の感情はひどく麻痺し、父や母と食事に向かいながらも、じっと押し黙ってしまうこともよくありました。かわいがっている猫を膝に乗せ、一心にその柔らかい毛を撫でていても心はどこか別の所にあるような――
それでも、昨日、子宮がん検診のために婦人科へ行かなければならず、婦人科では避けて通れない、あの、とてつもなく苦しい診療――股を開き、そこに棒を突っ込まれるというとてつもない苦行の時間を引き受けながら、更に、「ああ、今この瞬間に地震が来たらどうしよう」という絶望的な恐怖を味わって乗り越えたとき、自分の中で何かが大きく動いているのを感じました。
そう、そのとき、ぎゃはは、とこの最低最悪の状況を笑っているもう一人の私が私の中のどこかにいるのを感じたのです。ねえねえ、あなた何やってるの?こんなさ、今にも原発が爆発して巨大な余震がぐらっと来るかも知れないってときにさ、股を広げてその間に棒を突っ込まれちゃってるなんて。「もー先生しっかり頼みますよ!ぐらっと来ても絶対逃げないで下さいね!先生だけが頼りなんですから!」と、どこかで冗談を言っている自分がいるのでした。

その後、病院を出て、吉祥寺の街を歩いていると、ただ恐怖と死の覚悟だけに包まれていた頭の中が晴れ、力がみなぎって来るのを感じました。
おそらく、自分の極限なまでに無力な状態を身体を使ってしっかりと体感したことで、ただ、頭の中でだけ増幅されていた恐怖を、どこかで客観視出来るようになったのだと思います。それとも、「やけっぱちの果てまで来て、人々は明るい顔で歩いていた」、それを、ただより強いレベルで私は生きているだけなのでしょうか。今の私にはそれを判断することは出来ませんが、ただ、少しだけ気力を回復して私は街を歩き続けたのでした。

           *

そして、昨夜、家に帰ると私の目からは涙が流れるようになりました。昨日まで、嘆息し、恐怖だけを見つめ、ただじっと押し黙っていた感情が外に動き出し、初めて涙という形で流れ出すようになっていたのです。
世界中の人々が日本に同情し、支援の手を差し伸べてくれているという暖かいニュース。それに触れたとき、初めて涙が流れました。けれど、それは、裏返せば自分の祖国・日本が、これほどまでに手ひどいダメージを負い、世界中の憐れみを買う存在になってしまったということ。これほどまでに傷ついた日本――その現実が、あまりにも悲しくて、涙が後から後から流れて来て止まらないのでした。昨日の夜、私は、目が大きく腫れあがるまで泣いて、そしてようやく眠りに就きました。

‥‥これが、昨日までの私の心の動きです。今日から、明日から、それがどう動きどう変わって行くのか、自分でも全く想像がつきません。
それでも、この緊張下の中で人々は何とかいつも通りの生活を続けようと努力し、私も、来週早々には次の仕事の打ち合わせを編集者と行おうと考えています。今週末には月に一度のお茶の稽古があり、集まれる人だけで行おうという話も出ています。両方とも、もしものときにも歩いて1時間以内には帰宅出来る場所であり、社会に負担をかける恐れのない範囲で、笑い、お互いの体験を話し合い、言葉を掛け合う時間を、それぞれの人が持ち始めていることを多くのブログなどから確認しています。

今、このような極限状況の中で、ただ、ひたすら願うのは、いつか、日常を取り戻したいということ。けれどその日常は、震災前に持っていた日常の感覚とは、恐らく全く違ったものになるのだろうと思います。そのときをまだ想像することも出来ないまま、一日一日が私たちの上を流れて行きます。

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映画『パブの中』写真展 2011/03/14



こんな時期ではありますが、「開催したい」という映画館と監督の意志を尊重して、
私の写真展を明日より開催します。

松之木天辺監督『パブの中』
映画上映 & スチル写真展

3月15日(火)~24日(木) 20:00~
原宿・KINEATTICにて
http://www.kineattic.com/  03-5411-8053
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裏原宿に静かにたたずむ素敵なミニシアターです。
お近くに来られたときはゼヒお立ち寄りください。
ポスト・マツコデラックスの呼び声も高いブルボンヌさんや、
日本ダンス界の大御所黒沢美香さんの別名義・風間るり子さんも出演しています。
一軒のパブを舞台にして、虚実入り混じる「愛についての証言」の映画です。
(下のチラシの写真ももちろん私の撮影です!)

東京で地震に遭うの記 2011/03/12



昨日午後2時46分頃、東北地方太平洋沖地震が発生したとき、私は吉祥寺の自宅にいました。地震国・日本に育って地震慣れしていますから、「あ、また地震。そんなに大きくないな。震度3くらいかな」というのが最初に感じた印象でした‥‥

‥‥と、今日の日記では、この日本史上未曽有の大地震の一日に、一東京都民がどのように過ごしたかをありのままにまとめてみようと思います。私の仕事はライター。一人の市井の人間が目にしたもの・耳にしたものをそのまま文章に書き記しておくことによって、後世に、そして海外で、日本の様子を案じている方々のために役立つことを願うからです。

            *

揺れ続ける街にショックを受ける
さて、地震発生直後は「大した地震じゃないな」と思った私でしたが、その後すぐ、「これはどうもおかしい」と考えを改めることになりました。と言うのも、地震が全く終わる気配を見せなかったからです。
ふだんなら、「あ、地震」と思ってから一、二、三‥ほど数えれば揺れは収まり始めるもの。ところが今回はいっこうに終わる気配がなく、それどころか、更に揺れが大きくなっているのを感じました。
子どもの頃から、「地震が起きると建てつけが変わり、ドアや窓が開かなくなることがある」と聞いて育っていましたから、「とにかくどこか逃げ口を確保しなければ」と玄関へ行き、玄関のドアを開けることにしました。「猫はどこにいるんだろう?」という思いが頭をかすめましたが、この後更に大きな揺れが来るかも知れない、家がつぶれる可能性もある‥と考えて玄関から外へ踏み出し、門扉の所まで進んで行きました。そこまで来れば、家が私の方へ倒れて来ない限り、当面頭に降って来るものはありません。

揺れは、震度4か、或いは4.5といったところかと感じました。立っていられないほどではないけれど、地面は止まることなく左右に揺れ続け、まるで波乗りでもしているようです。門扉に軽く手を掛けて、街を見つめました。私の家は典型的な住宅街の中にあり、道を挟んで向かい側もこちら側も、向こう三軒隣りもずっとずっと、一軒家の家が続いています。その全ての家が、道が、大地が、右に、左に、揺れては返し、揺れては返していました。これが私が最も心にショックを受けた瞬間です。救いを求めて外へ出たはずだったのに、大地自体が揺れ動いていた‥。どこにも逃げ場がない‥。茫然と、強い無力感のようなものにとらわれていました。門扉に手を掛けながらじっと揺れる街を見ていた一瞬がありました。

ただ、私は昔からパニックに強い方で、過去にはとっさの判断で人の命を助けたこともあります。「今何をすべきか」と本能的に、冷静に次の手を考えることが出来るのが私の数少ない長所。茫然としていたのはおそらく非常に短い一瞬だったと思います。次の瞬間には、家は大丈夫か、これからどうすべきか、判断するためにさっと空を見上げていました。冬の枯れ木の枝が風に揺れていて、空がとてもきれいな水色だったことを覚えています。足元に感じる地震の揺れはさっきからさほど変わっていない。これ以上大きな揺れにはならないだろう、と直感しました。そこで、とにかくこの場で揺れが収まるのを待ち、収まったらすぐに家に入って猫を探そうと思いました。ところがその揺れが全く収まらないのです。いつまでも、いつまでも、大地が変わらずに右へ寄せ、左へ返し、また右へ寄せ、左へ返って来る‥「一体いつ終わるんだろう?」と、大きな不安が灰色の雲のように広がって行くのを感じました。そうして門扉につかまったまま立っていると、やがて揺れが収まって行ったのでした。

             *
頑健な地盤、武蔵野台地
家の前の道には、通行人や、何かの配達や工事に来て車を停めていた人、そして住宅街の住人で今日は家にいた人たちが、皆道に出て不安そうに街を見回していました。私は急いで家に入り、応接間に猫がいるのではないか?と探してみましたが、二匹いる猫のうち、白猫の方が見つかりません。ピアノの上から、写真立て、置き時計、全長50センチくらいある大きなこけしが床に落ちているのを見つけました。ふと振り向くと、部屋の隅の細長い飾り棚の上に、白猫・チャミがおびえて座っているのをやっと見つけることが出来ました。
「チャミ、こんな所に乗ってたら、もっと大きい地震のときには真っ先に倒れちゃうよ」
と抱き下ろしましたが、怯え切っていて私の手の中で暴れ、すぐにどこかへ走り去ってしまいます。仕方なく、自分の部屋へ地震被害の点検に行ってみました。本棚の所々に飾ってあったぬいぐるみが数個床に落ちていただけで、特に大きな被害はありません。
後になってから見た友人のブログやツイッタ―では、棚から本が全部飛び出した、食器棚の中のお皿が割れた、CDデッキが丸ごと床に落ちた‥など、かなり落下被害の大きかった友人も多かったので、おそらく、武蔵野市は武蔵野台地の上にあり、地盤が固いこと、また、我が家は低層住宅なので建物自体による揺れが少ないことが奏功したのだと思います。

そうこうしているうちにまた先ほどと同じくらいの大きな揺れが起こり、また同じように玄関を開けて、門扉の前まで避難しました。家の前の道には先ほどと全く同じく、通行人や工事や配達の人、住人の方々が出て来て不安げな顔をしていました。向かいの家のお婆さんと目が合い、会釈をすると、「食器がだいぶ割れてしまったわ」と嘆いていらっしゃいました。その方の家は細長い形なので、揺れが激しかったのだということでした。

やがて揺れが収まり、家に戻りましたが、どこをどう探しても猫が見つかりません。そうこうするうちに同じ敷地内の離れにいた父がこちらの母屋へ来て、お互いの無事を確認。また、東京の別の場所で一人暮らしをしている弟の安否も、ミクシのつぶやきコーナーからすぐに確認することが出来ました。
困ったのは、母の安否がいつまでも分からなかったことです。母は昨日は大久保にある国際医療センター病院に検査結果を聞きに出かけていたのですが、携帯もつながらないし、メールの返事もない。その頃はまだここまで大きな地震だとは分かっていなかったので、仕方なく、10分おきくらいに電話をしながらふだんの仕事に戻ることにしました。地震の前まで書いていた原稿の続きを書いて編集部に送り、前日の夜にブログの更新が上手く行かなかったので、再更新作業をしたりもしていました。その間にも時々余震が来ましたが、逃げるほどではないと判断。我が家での被害が少なかったため、中規模程度の地震で、まさかここまでの未曽有の地震とはそのときは思いもしなかった‥それが、東京の一市街地、地盤の固い武蔵野市にいた人間の体感実感だったのでした。

             *

母が帰宅難民に
さて、ブログの再更新作業が一区切り付き、テレビを点けると九段会館の天井が落ちたというニュースが報道されていました。少し驚きましたが、九段会館には何度も行ったことがあり、古い建物だと知っていましたたので、「たまたまだな」と思ったのみ。仕事の電話を一件、人形町方面の会社へと掛けてみました。すると相手の方の後ろの方で、サイレンの音が聞こえて来ます。先ほどの九段会館のニュースと併せて考えてみると、「どうやら都心では大きな騒ぎになっているのかも知れない」‥そんな予感が、ようやく頭の中にただよい始めました。
電話を切って、もう一度猫を探しました。しかしまだどこにも見つかりません。また、お皿を洗おうとするとガスが来ていないことも分かり、これは今日一日くらい、料理を作ることは難しいのかも知れないと覚悟しました。

そうこうするうちに5時くらいでしょうか、母から電話が掛かって来ました。何度掛けても通じなかったので、着信音を聞いたときは「奇跡?」というかんじでしたが、聞いてみると、今、小滝橋にいると言います。地震発生の瞬間には病院の待合室で会計を待っていたという母は、終わったらすぐ外に出て、大久保駅に行こうとバスに乗ったところ、運転手さんから「電車が止まっている」という情報を聞いたのだそうです。
そこでひとまず終点の小滝橋操車場まで行き、「そこから中野行きのバスに乗り、中野から今度は吉祥寺行きのバスに乗り換えよう」と決めたのだそうです。既に道は渋滞で、ようやく小滝橋操車場に着いたものの中野行きのバスもなかなかやって来ず、寒風吹きすさぶ中待ち続ける羽目になったそうです。しかも、1台目は満員で乗ることが出来ず、2台目でやっと乗れたとのこと。そうやってバスを待っている間に、小滝橋操車場から電話を掛けて来たのでした。
「今日は何時に帰れるか分からないから、先にご飯食べておいてね」
「分かった」
と電話を切って離れの父に報告の電話をすると、
「小滝橋なら道が分かるから、迎えに行くのに」
と言います。慌てて母に電話を掛け返しましたが、もうつながりません。仕方なく、仕事をしたり猫を探したりしながら電話を掛け続け、つながったらすぐにその場所へ迎えに行こう、ということになりました。猫は二階の押し入れで震えているところをようやく発見しました。ところが、捕まえて抱っこするとすぐまた暴れて逃げてしまいます。そうなるともうどこをどう探しても見つからないのです。仕方なくメールやガスの復旧作業、ミクシのつぶやきコーナーへの書き込みなどをして、7時頃から父と二人で食事の用意を始め、夕食を食べることにしました。その頃にはもうほとんど余震も来なくなっていたので安心したのでしょうか、白猫チャミもようやく顔を出し、私たちのそばでうろうろし始めました。
その最初、台所の勝手口から姿を現し、用心深く部屋を見回しているへっぴり腰のチャミの写真が下↓です。
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帰宅難民の母を救出に向かう‥街で見たもの
さて、そろそろ食事も終わりかける8時15分頃、やっと母から電話が掛かって来ました。どこにいるのかと訊けば中野駅だそうです。小滝橋から3時間かかって、やっとまだ中野なのです!(ふだんなら20分くらいの距離でしょうか)
コンサートホールの中野サンプラザで待っているように約束し、父と二人、食べかけの食器もそのままに、コートを着て水筒に水を汲み、携帯の充電器に乾電池をセットして‥と慌てて準備をしていると、チャミが「置いて行かないで‥」と言うように必死で身体をすり寄せて来ます。もう一匹の三毛猫・イナの方は「死んでもここから動かない」というように、地震発生以来寝床の籠の中に踏ん張っている‥。
そこで、チャミをキャリーバックに入れて、三毛猫のイナちゃんは家に置いて出かけることにしました。もしも大きな余震が来たら中野辺りで大火災などに巻き込まれる危険もありますが、かと言ってまさに“帰宅難民”そのものになってしまった母をそのままにしておくことも出来ません。母の話では、中野駅から吉祥寺までのバスは、待っている人の列が1キロほども続いているというのですから!

             *

吉祥寺から出発し、道は途中までは順調でした。ふだんなら、吉祥寺から中野まで、片道20分程の道のりです。ところが、荻窪の手前から、青梅街道が一歩も動かなくなりました。昔から飛ばし屋の父はいらいらし始め、何とかなだめなだめしながらのドライブです。
道の両側には、吉祥寺を抜けてすぐ、西荻窪の辺りから、既にたくさんの人が黙々と我々と反対方向、青梅方面へ向けて歩く姿を見ることになりました。一人で歩く人が大半ですが、中には集団で何か話をしながら歩いている人たちもいます。
「たぶん、会社から一番近い人が同僚を家に泊めてあげるんだろうね」
と父と話しながら見ていました。中にはびっこを引きながら歩いている中年の男性や女性も、何人も見かけることになりました。会社から支給されたのでしょうか、ヘルメットをかぶっている人、非常リュックサックを背負っているスーツ姿の人もちらほらいます。道沿いのコンビニは人でいっぱいで、マクドナルドも長蛇の列となっていました。

ようやく荻窪駅手前の大きな交差点に着くと、警察の方が交通整理をしていました。道の左端に大破した車があったそうで(父が目撃)、おそらく焦って無理な走行をして事故を起こしたバカ者がいたのでしょう。皆が一刻も早く家族を連れ戻そう、家に帰ろうと車を出しているときに、本当に迷惑な話です。
とにもかくも荻窪を過ぎると、青梅街道はスムーズに流れ始めました。驚かされたのは、新宿方面に近づけば近づいて行くほど、どんどんどんどん、両側の道を歩いて行く人々の群れが増えて行くことでした。
「一体どれだけの人が歩いているのだろう‥」
これが、私が、大きく心にショックを受けた第二の出来事でした。生まれ育った街、東京。愛着と、そして外国の友人たちに対してちょっとした誇りを持って来た世界に冠たる大都市。その機能が麻痺し、ただ黙々と歩き続けるしかない人々‥。何という光景だろうと胸がいっぱいになってしまったのです。
その様子を携帯カメラで撮ったのが下の写真です。とにかく荻窪から中野まで、いや、恐らくその先の新宿から、延々と途切れることなく、人の群れがこちらへ向かって流れ続けて来るのです。極めて、極めて異常な風景でした。
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             *

ただ、救いに思うこともたくさんありました。
それは、どこにも争いも掠奪もなく、粛々と礼儀正しく人々が道を歩いていたこと。また、「トイレお貸しします」という紙を張り出していたり、わざわざ人が立って「トイレ貸しますよ、お使い下さい」と呼びかけているビルをいくつか見かけたことです。
また、一番最後の写真に写っていますが、オレンジ色のジャンパーを着た男の人。この人はどうも警察の方でも何でもなさそうで、自主的に人と車の誘導係を引き受けているようでした。おそらく町内会の人か何かなのでしょう。頭の下がることだと思いました。
また、後から母に聞いた話では、母が震えながら小滝橋操車場でバスを待っていたとき、バス停の前の薬屋さんが突然道に出て来て、「皆さん使って下さい」と無料でカイロを配ってくれたそうです。バスの中も押し合いへしあいではありましたが、乗客同士自然に会話が生まれ、「自分はどこどこにいるときに地震があって、どのくらい揺れて」という話を、皆が代わる代わる報告し合い、雰囲気はとても良かったそうです。
その母は、病院にいるときに地震に遭いましたが、私と違って突発事件にあわてがちな母は、実はちょっとおろおろしてしまったそうです。すると、横にいた男性の患者さんが「椅子につかまって」「看板の下は危ないからあっちへは行かないように」とてきぱきと指示を出してくれたとのこと。こういう的確な行動が出来る方、本当にありがたいことだなと思いました。
‥‥このような数々の話を総合すると、日本もまだまだ捨てたものじゃないという思いを抱きます。恐らく街のあちこちで、このような助け合いが起こっていたのではないでしょうか。

             *

母を救出・中野サンプラザの風景
さて、ようやく中野サンプラザが見えて来て、近くの道路に駐車場所を確保すると、父と猫が車の中で待ち、私が母を迎えに行くことになりました。ここまで来るのに、1時間。長い長い道のりでした。車を出て、道路を猛ダッシュし、中野サンプラザの階段を一段飛ばしくらいに駆け上って行くと、出口近くになつかしい母の姿が見えました。思わず顔がにこにことほころんでいくのが、自分でもはっきりと分かります。母もすぐに私に気づき、私は急いでガラスのドアを押し、中に一歩入りました。そのとき、異様な光景にはっと気押されてしまったのです。中野サンプラザの広い広いエントランスホール、そのホール中、そして、大階段中に、帰宅難民と化した人々が無言でじっと座っていました。そして、新たに入って来た私の方を、全員が一様にちらっと見上げている。
「ああ、ここではしゃいじゃいけないのだな」
とその瞬間にすぐに思いました。ここにいる方々のほとんど、帰りたくても家に帰ることが出来ない。疲れて動けなくなっていたり、迎えに来てくれる人がいなかったり、迎えに来れる人はいてもその足がなかったり‥そんな人たちを前に大はしゃぎなどとんでもないことなのだなと思わされました。
そこで、そそくさと母と出発前に用心のためにトイレへ向かい(その判断は正しかったと後から分かります)、実はもう一人、初めて会う女性を連れて車へと戻りました。母が中野駅で声を掛け合ったという女性で、お住まいが荻窪だとのこと。「困ったときはお互い様」、どうせ通り道だし席も一つ分空いているし、お乗せすることにしたのです。

そこからはひたすら苦行の道のりでした。おそらく我が家と同じように、家族をピックアップして家路に着く人々で青梅街道は大渋滞。中野から吉祥寺まで、3時間ほどかかってしまいました。すいていれば20分程の道のりですから、いかに壮絶な渋滞だったかが分かって頂けるかと思います。
その間、両側の歩道には、行きと同じく黙々と青梅方面へ向けて歩く人々の群れが途切れることなく続いていました。東京の街にいかに多くの人々が働き、生きているのか、思い知らされる光景でした。

荻窪までお送りした女性・Uさんは、池袋にあるメーカーにお勤め。オフィスはビルの13階とのことで、地震発生時、その揺れは非常に激しく、ふだんびくともしない重い重いコピー機が右に左にスケボーのように走り回ったのだそうです。
その後、揺れが収まってからUさんたちは会社の近くの公園に行くと、辺りのビルから人々が降りて来て、自然発生的な避難所状態になっていたそうです。エレベーターは停まってしまいますから、どの会社の人も、皆階段を徒歩で下って来たのだそうです。
Uさんのご主人は韓国の方だとのこと。お勤め先の麻布十番から既に徒歩で!荻窪にたどり着き、保育所からお子さんも引き取っているとのことでした。あとはお母さんが家に帰るのみ!「ありがとうございました」と降りて行かれた姿を見て、少しは人の役に立てたことを嬉しく思う我が家一同でした。

             *

眠れない夜
こうしてようやく深夜、家にたどり着き、安否確認のメールをくれた中国・香港の友人たちにフェイスブックでまずは消息を知らせようとパソコンの前に座ると、余震もないのに部屋が揺れているように感じます。テレビでは津波に流される家々の映像が繰り返し繰り返し報道され、それを見たとき突然に、「日本が‥」と胸が痛くなるような悲しい思いがしました。「日本が‥壊れて行く‥」という、その言葉が、何故か何度も頭に浮かんでいました。そして、昼間、最初に街全体が揺れているのを見たときのあの強い無力感、そして、青梅街道を無言で歩き続ける大量の人々の黒いシルエット‥その二つの映像が、フラッシュバックのように何度も何度も頭に浮かんで来て止まらないのでした。
おそらく、無事に母を家に連れ帰り、その間に大きな余震に遭うこともなく家屋も無事だったことで、緊張の糸が切れてしまったのだと思います。余震の錯覚はその後もいつまでも続き、ああ、PTSDって本当にあるのだなと思いました。
その夜中、テレビでは上ずった声でアナウンサーたちが様々な見るのがつらい映像を繰り返し繰り返し報道し、ツイッターやミクシの呟きでは、外国暮らしの、現在安全な場所にいる日本人ほど故郷喪失感の裏返しなのかヒステリックに大騒ぎをして役に立たない情報を流し続けています。少し静かにしてくれないかと思いました。テレビ局もどこか一局くらい、皆の気分を慰めたり、冷静に落ち着かせてくれるような映像や音楽を時に流すことは出来ないのか‥。
くたくたに疲れて、すぐにも眠りたかったはずなのに先ほど書いた二つの場面が繰り返し繰り返し浮かんで来て目が冴えてしまい、深夜、私は黙々とお菓子を作り始めました。きっと明日も明後日も、思わず目を伏せたくなるようなつらい映像やニュースを目の当たりにすることが続き、少し回復基調だった日本経済もまた足踏みを余儀なくされるだろう。それが私の生計にどう影響するのか‥それよりも何よりも、今回の地震でプレートが動いたことで、また別の新たな直下型地震が東京の近くで起こるかも知れない。それでも、私たちはこの街で生きて行かなければいけないのだから、冷静に、落ち着いた心を保ちたい。ぐるぐると、ボウルの中で混ざり合って行く卵、牛乳、砂糖、ココアパウダー‥その焦げ茶色の渦巻きを見ていると、それでも、少しずつ、自分の心が落ち着いて行くのが分かるのでした。

こうして日本史上最大の地震に遭遇した私の一日は過ぎて行きました。
おそらく、誰にとっても、このような大きな自然災害に出会うということは人生にそう幾度もない経験でしょう。東京よりももっと‥比べ物にものにもならないほど巨大な被害をこうむり、また、現在もこうむり続けている東北の方々に対して、私が言えるようなことなど何もありません。重過ぎて、言葉にすることが出来ません。ただ、粛々と、東京の幹線道路を昨夜ひたすら歩き続けていた都民たちの黒い静かなシルエットのように、自分の持ち場をひたすら歩き続けて行くこと。更に続く困難があった場合、最小の被害に食い止められるよう、冷静さを保つこと。そう、自分に言い聞かせる、地震発生二日目、この国の首都からの日記でした。

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祖母の手染めの蝶の小紋で*お着物の記 2011/03/11



二月の或る日、友人のピンポンダッシャーちゃんが主宰するネオ茶道・給湯流の大寄せ茶会(?)に遊びに行きました。この日は、皆で勅使河原宏監督の映画『利休』を鑑賞後、懐石(?)の豚汁を頂いたりお茶を頂いたり。集まっているメンバーが異常に濃くて、とんでもなく楽しい夜になりました。その折りに着て行った着物をご紹介します。
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*蝶の文様の小紋。これは、紅型をやっていた祖母が染めたもの。祖母は人間国宝・芹沢銈介先生の孫弟子で、それほど有名ではありませんでしたが、染色家として活動していました。

*スタートは紅型からでしたが、もともと祖母自身が持っていた色の感覚は、東京の山の手育ちという環境の中で育まれたもの。次第に伝統的な紅型の配色を離れ、祖母独自の、華やかで都会的な色世界を作るようになります。これもそんな一枚です。

*帯は、祖母、或いは曾祖母の遺品の名古屋帯。羅馬の騎兵隊と椰子の木が織り出されています。どんな着物にも合うのでとても重宝する帯です。

*藤色の太めの帯締めに、クリーム色に源氏香文様の帯揚げで。

*この小紋は、ピンク色の帯や白っぽい帯もよく合いそうです。これから春、蝶々の季節。出番が多くなる予感!

<お知らせ>
来週15日(火)~24日(木)、原宿の映画館KINEATTICにて、私の写真展が開かれます。
スチル担当で参加した映画『パブの中』のスチル写真展です。
是非ご来場ください。
私は15・16・24日に在廊します。
http://www.kineattic.com/

<お詫び>
サーバーへの使用延長手続きを忘れていたため、今週、一旦ウェブサイト全体が閉鎖となってしまいました。ただちに延長手続きを取ったため現在多くの方々のPCからこのブログを見て頂くことが可能になっておりますが、一部、まだ復旧が進んでいないプロバイダーも残っているような状況です。
いつも読みに来て下さっている方、また日本ぶろぐ村から来て頂いた方の中で、「あれ、サイトがなくなっちゃってる!」と驚かれた方も多いのではないかと思います。大変申し訳ありませんでした。

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銀座・むら田の横縞紬*お着物の記 2011/03/06



二月の終り、「染の小道」に遊びに行ったときに着た紬コーディネートのご紹介です。

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*織り方や色の違う縞を何種類も混ぜた粋な紬は、祖母の遺品のつづらにあったもの。銀座の老舗呉服店・むら田のたとうに包まれていたので、おそらくむら田のものと思われます。
もう少しで野暮に落ちてしまいそうなギリギリのところで、でも着てみると全然野暮じゃない。これぞむら田。粋の極致です。

*帯は、最近ヘビーローテーションの紅花紬の名古屋帯。写真では分かりにくいのですが、薄く縦に紅花色の筋が入っています。横縞×縦縞コーディネート。むふふ。

*帯締めは、初下ろしした琉球紬地の帯締めです。これも祖母のつづらから出て来たものですが、桐箱に入っていて封もされており、一度も使われていなかったもよう。伝統的な琉球がすりを現代的な濃いピンクで縁どった、かわいらしい帯締めです。

*帯揚げは茶色のちりめん地。実は紬の八掛けが茶色なので、合わせてみたのです!

*もしもこの帯締めの縁が赤だったら、全体の印象はより伝統的、民芸調な雰囲気になったと思います。それはそれで素敵だと思いますが、今回のようにちょっと現代風味を加えたコーディネートもまた良いかと。

着物は渋いコーディネートより派手、華やか、或いははんなりとしたコーディネートが好みの私ですが、たまにはこんな粋系のコーディネートも良いですね。楽しみました~。

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お着物の記*白大島でヨン様の店へ 2011/03/04



二月の或る日、ヨン様ことペ・ヨンジュン経営のレストラン、高矢禮(ゴシレ)へ行って来ました。今日の日記はそのときのお着物のご紹介です。

高矢禮へは、母と一緒に行きました。私たち親子、どちらも韓流の中でヨン様が一番好きな俳優という訳ではないのですが、決して嫌いではない。特に『大王四神記』のときのヨン様は素敵だったと思います。本店である白金店がしばらく休業するという噂を聞きつけ、「その前に一度行ってみよう」とランチに出かけました。

そのときに着たお着物はこちら↓
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*祖母の遺品の白の大島に、更紗文様の紹波(しょうは)帯。名護屋ではなく、洒落の袋帯です。これも祖母から伝わって来たもの。

*帯締めは、白の冠組。おそらく道明のもの。

*帯揚げは、最近母が吉祥寺のふじやさんで買ったもので、源氏香の文様が織り出されていてすごくかわいいのです!早速貸してもらいました。

着姿はこちら。高矢禮の入り口前で撮影しました↓
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本当はずらっと並んだお皿と一緒の写真も撮ったのですが、誤ってデータを消してしまいました‥。高矢禮、お味はまあまあというところ。リニューアルして更に美味しくなることを期待します。

面白かったのは、駅からの道が分からず母と二人で地図をくるくる回していたときのこと。親切な初老の紳士が近づいて来て、「どこをお探しですか?」と声を掛けて下さいました。
「あの‥実はヨン様の店に行きたいんです‥」(自嘲気味に)
「ああ、ヨン様の店ならそこを真っすぐに行って、それから‥」
と、みんなごく自然に「ヨン様」という言葉を使っている!別に王族でもないのに日本人から「様」扱いで呼ばれるペ・ヨンジュンって!!! もしも外国に行って木村拓哉が「キムタク様」と呼ばれてたら驚いちゃうよねーとおかしくなりました。日韓友好にペ・ヨンジュンが果たしたパワーの大きさをしみじみと思います。
ちなみに韓流なら、私は何と言ってもイ・ビョンホン様が好きです。来週は最新作『悪魔を見た』を観に行くのが楽しみなのであります!

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お着物の記*この2カ月間に行った着物に関する勉強会あれこれ 2011/03/02



またもやバタバタと忙しく日記の更新が滞りがちですが、今日から1日おきに3連続、たまっていた「お着物の記」日記をお送りしたいと思います。皆様、1日おきに覗きに来て下さいね!

さて、今日はいつもの日記とは少し趣を変え、この2ヶ月間の間に私が顔を出した着物や染色に関する講演・勉強会・イベントの体験レポートをお届したいと思います。
実は、今年の私の隠された野望、着物に関するお仕事を獲得すること!なのです。ふふふ‥。
そんな訳で、ただ「着物が好き!」だけでは仕事は来ないと思い、着物に関する体系的な知識を見につけようと決意。今年に入ってから行ける限り、あれこれの勉強会に顔を出すことにしました。もちろん様々な本も読んで文字からの知識を頭に入れてもいますが、実際に先達の話を聞いたり、作業工程を自分の目で見たりすることも同じくらい大切。今年に入ってからの2ヶ月間で、以下のイベント・勉強会に顔を出しました。

1月
*松屋銀座で開催の、「池田重子 日本のおしゃれ」展(ちなみに会期中に2回行きました!)
*上記展覧会の関連イベント、「池田重子先生×小宮悦子さん×IKKOさんのトークショー」
*着物イラストレーター松田恵美さんの展覧会「きもの番長」展

2月
*NHK文化センターにて、丸山伸彦教授(日本服飾史)の公開講座「古典文学ときもの」
*すみれ堂着付け教室にて、銀座結びのレッスン
*東京・中井で開かれた染色のイベント「染の小道」
*人形町ころもやにて、三人の女性着物愛好家によるトークショー「美女と着物 『カッコイイ着物姿』って何だろう?」

3月
*吉祥寺あもにて、染色の一技法である「鹿毛引き(しけびき)体験講座」

‥と、全部で八コ!大体1週に1度は何かしらの着物イベントに参加して来ました。学者の家の娘のせいか体内に「学び好き」の血がどっぷり色濃く流れているようで、すぐこうやって熱中してしまうんですよね。ちなみに今読んでいる本は上記丸山先生の『江戸モードの誕生』ですし!

さて、そんな様々なイベントの感想を少しずつ。

まず、池田重子先生の「日本のおしゃれ展」。池田先生は昭和始めの裕福なご家庭出身のお嬢様で、最上級の着物を浴びるように見て・着て・触ってお育ちになった方。その後ご自身で明治以降の着物、帯、帯留め、半衿など着物周りのあらゆるものたちのコレクションを始め、恐らく現在日本一のコレクターなのでは?
着物に関する著書も多く、これまでにも何回も先生の着物コーディネートを紹介する「おしゃれ展」が開かれています。今回はその集大成との位置づけで、先生のコーディネートの粋を見ることが出来ました。
その感想は‥実はまだここに書くことが出来ません。と言うのも、私がまだまだその深い内容を消化出来ていないからなんですね。‥いや、もしかしたら、これは一生かかって消化すべきものなのかも知れない、と思うほど、先生のコーディネートは素晴らしかったのでした。気高く誇り高く教養あふれていながら、ちっとも難しくなく、華やかで美しい。先生の域に少しでも近づけるよう、女の着物道に励みたいと思うのでありました。
  
          *

そしてこの「おしゃれ展」の関連イベントとして、先生が小宮悦子さん、IKKOさんとのトークショーを開催。着物の人しか参加出来ないというドレスコードの中、150名全員着物!という熱気あふれる会場へ。
IKKOさんは初めて本物を見ましたが、テレビと全然印象が違ってびっくり。テレビや雑誌で見る限り、押し出しの強い派手~な方かと思いきや、何だか今にも折れそう、或いは消えてしまいそうなはかない印象の方でした。おそらく心がとても繊細な方のようにお見受けしました。
このトークショーで先生から衝撃の発言が出たのでご紹介しましょう!(着物ファン要チェック!!!)
トークショーの最後、質問コーナーで、ある方が、
「私、アンティーク着物が好きで色々な袖丈の着物を集めているのですが、全部が全部自分の襦袢と丈が合う訳ではないので、よく袖からはみ出し気味で着てしまうんです。そうすると、道でさっと知らないおば様が寄って来て、「あなた、襦袢が出てるわよ」と注意されるんですが、やっぱりこういうのはいけないことなんでしょうか?」
それに対する池田先生の答えは、小さなことは気にしなくていいのよ。それよりどんどん好きな着物を着て街に出ましょう!というもの。そして次の発言が飛び出しました。
「私なんかもね、時々出掛けようとすると襦袢と着物の袖が合ってなくて、襦袢の方をホチキスで留めて出かけますのよ」
えーっ!!!い、池田先生がホチキス?????どよめきに包まれる会場。
「そうすると夫がね、お前、もし途中で交通事故にでもあって病院に運ばれたら、池田先生がホチキス!!!って言われるぞ、と言いますのよ。おほほほ」
と微笑まれておりました。
「そうしてホチキスで留めて出かけますとね、後から、あら?何で今日はこんなに腕がちくちくするのかしら?そうだ、ホチキスだからだわ、なんてね。おほほ」
先生、素敵過ぎます!
と、何とも楽しいトークショーだったのでした。

1月はその他に着物イラストレーター松田恵美さんの展覧会へ行き、ご本人や、会場にいらしていたお着物好き洋服デザイナーのリカさんとお友だちになり、着物話に花が咲きました。いつも孤独に着物を着ているので、楽しかった~。松田さんの著書はこんなかんじ↓
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          *

さて、2月は、武蔵大学教授で日本服飾史の第一人者である丸山伸彦教授の公開講座へ。
実はこの丸山先生、母の大学時代の後輩で、小さい頃にお会いしたことがありました。長くなるので細かい経緯は省きますが、私が小5か小4だった夏、若き日の先生のジープの荷台に弟と二人寝転んで、富士から吉祥寺の我が家まで送って頂いたことがあるのです(めちゃ日焼けしました!)。
そんな先生に講義の後お声を掛けると、「えー!」と驚愕。そりゃあそうですよね、子ども時代にお会いしたのが最後ですから。母と丸山先生はその後も三井家に残るひいな形(江戸時代の着物デザイン帳のこと)の共同調査などを行い、親しい研究者仲間。その娘が着物に目覚めたのでありまして、今後も先生の講座などあればちょくちょく顔を出そうと思うのでした。

          *

そして2月は、東京・中井で開かれた染織のイベント「染の小道」にも遊びに行って来ました。
神田川付近の中井や落合、早稲田といった町は、昭和半ばまで「東京染め」と呼ばれる染色の一大拠点でした。その後の着物人口の減少により縮小はしてしまいましたが、今でも染め屋さんや直し屋さん、湯のし屋さんなど、職人さんがどっこい根をおろして着物を作り続けていらっしゃいます。その中井の町の魅力と東京染めの魅力を紹介しようという素晴らしいイベントなのでした。

まずは見て下さい↓
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これは、中井の町を流れる川・妙正寺川の上に反物をさらしている様子です。昭和30年代まで、染め終わった反物を妙正寺川で洗う姿は中井の町の日常風景だったそう。往時をしのび、東京染めの反物が川の上にはためく‥みんな思い思いに立ち止まって、「あれは江戸小紋だね」「あの文様いいね」などとお喋り。何とも楽しい散歩道です。

その他に「染めの小道」では、江戸紅型や東京友禅の工房を見学出来たり、あちこちのお店で和雑貨の販売などもありました。私は絞り染めのハンカチを購入。東京友禅の作家さんと直接お話しすることも出来て大満足。
また、染色作家さんたちが思い思いに新作の暖簾を染めて、期間中、商店街のあちこちの軒先に掛ける「道のギャラリー」という展示もあります。その一例がこちら↓
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実は私の弟が中井に住んでいるので、この日は弟と二人で散策。弟に撮ってもらいました。これは、居酒屋さんの前に掛かっていた暖簾。茂木令子さんという作家さんの渋柿染めです。素敵ですよね~。

楽しかったのは、湯のし工場の見学。湯のしと言うのは、呉服店でお客さんが購入した反物をいよいよ裁つ前に、反物にかけてある糊を除去+幅を真っすぐ整えるために蒸気にかける作業です。いわば、スチームアイロン作業。
こんな裏方の作業を見学出来る機会などめったにありません。私も弟も大興奮で「湯のし石橋」の石橋さんにあれこれ質問しまくって40分ほど見学しました。湯のしの模様はこちら↓
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巨大な湯のし機械に反物をあてがっているところです。うーん面白かった!

          *

2月はこの他に、人形町の呉服屋さんころもやで開かれたトークショーにも行って来ました。
これは、着物や和に関する執筆の多い文筆家・井嶋ナギさん、皮革で出来た帯や星文様の浴衣など、新しい着物を提案する月影屋デザイナー・重田なつきさん、イラストレーターのコダカナナホさんによる、「かっこいい着物姿」を考察する女子トークショー。
前述の池田重子先生とも共通することなのですが、着物なんて、たかが着物。どうでもいい人にはほーんとどうでもいいこと、ではあるのですが、それをとことんまで突きとめてナンバーワンになってやろうじゃないの!みたいな、着道楽の心意気を感じる内容でした。
お三人が範とするのは、江戸時代の浮世絵に描かれた遊女、芸者、或いは、現代の坂東玉三郎の着姿。私自身はそのような着姿は目指していないものの、実は今頭の中で構想中の着物に関する或る試みの、大きなヒントを頂きました。
いやはや日本中を探せば、目指す着姿は違えど着物に熱い思いを抱いている女子はひそかに脈々と生息しているのでしょう。本音をさらしまくって着物女子トークを繰り広げて頂いたお三人に(保守的着物への悪口とか)、大喝采を送りたくなる一夜でした。
ご一緒したイラストレーターの茶谷怜花さん、画家の江津匡士さんご夫妻、ありがとうございました!!

         *

そして昨日は、吉祥寺の悉皆屋さん・あもで、鹿毛引きの体験講座を受けて来ました。悉皆屋さんというのは着物の洗い張り、シミ抜き、丈直しなどあらゆることに対応してくれるお店のことで、我が家では、着物は吉祥寺のふじやさんで買い、悉皆はあもに出すことにしています。
鹿毛引きというのは、鹿の毛で作った筆で細い線を描いて行く染色法のことで、この技法専門の伝統工芸士さんもいるのだそう。昨日は作家・安治郎さんの指導のもと、半衿生地に鹿毛引き体験。世界で一枚、“自分だけの半衿”を作りました!どの着物と合わせようか、わくわくと悩んでいます。

‥と、凝り性の私は日々着物街道を爆走中です。今後は、昨日の鹿毛引き体験のように、染めや織りを一日体験出来る講座に多く通うつもり。ただ着物を着るだけではなく、一枚一枚の着物がどこからどんな道を通って私たちのもとへやって来るのか、理解出来る人間になりたいのです!

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