西端真矢

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東京で地震に遭うの記 2011/03/12



昨日午後2時46分頃、東北地方太平洋沖地震が発生したとき、私は吉祥寺の自宅にいました。地震国・日本に育って地震慣れしていますから、「あ、また地震。そんなに大きくないな。震度3くらいかな」というのが最初に感じた印象でした‥‥

‥‥と、今日の日記では、この日本史上未曽有の大地震の一日に、一東京都民がどのように過ごしたかをありのままにまとめてみようと思います。私の仕事はライター。一人の市井の人間が目にしたもの・耳にしたものをそのまま文章に書き記しておくことによって、後世に、そして海外で、日本の様子を案じている方々のために役立つことを願うからです。

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揺れ続ける街にショックを受ける
さて、地震発生直後は「大した地震じゃないな」と思った私でしたが、その後すぐ、「これはどうもおかしい」と考えを改めることになりました。と言うのも、地震が全く終わる気配を見せなかったからです。
ふだんなら、「あ、地震」と思ってから一、二、三‥ほど数えれば揺れは収まり始めるもの。ところが今回はいっこうに終わる気配がなく、それどころか、更に揺れが大きくなっているのを感じました。
子どもの頃から、「地震が起きると建てつけが変わり、ドアや窓が開かなくなることがある」と聞いて育っていましたから、「とにかくどこか逃げ口を確保しなければ」と玄関へ行き、玄関のドアを開けることにしました。「猫はどこにいるんだろう?」という思いが頭をかすめましたが、この後更に大きな揺れが来るかも知れない、家がつぶれる可能性もある‥と考えて玄関から外へ踏み出し、門扉の所まで進んで行きました。そこまで来れば、家が私の方へ倒れて来ない限り、当面頭に降って来るものはありません。

揺れは、震度4か、或いは4.5といったところかと感じました。立っていられないほどではないけれど、地面は止まることなく左右に揺れ続け、まるで波乗りでもしているようです。門扉に軽く手を掛けて、街を見つめました。私の家は典型的な住宅街の中にあり、道を挟んで向かい側もこちら側も、向こう三軒隣りもずっとずっと、一軒家の家が続いています。その全ての家が、道が、大地が、右に、左に、揺れては返し、揺れては返していました。これが私が最も心にショックを受けた瞬間です。救いを求めて外へ出たはずだったのに、大地自体が揺れ動いていた‥。どこにも逃げ場がない‥。茫然と、強い無力感のようなものにとらわれていました。門扉に手を掛けながらじっと揺れる街を見ていた一瞬がありました。

ただ、私は昔からパニックに強い方で、過去にはとっさの判断で人の命を助けたこともあります。「今何をすべきか」と本能的に、冷静に次の手を考えることが出来るのが私の数少ない長所。茫然としていたのはおそらく非常に短い一瞬だったと思います。次の瞬間には、家は大丈夫か、これからどうすべきか、判断するためにさっと空を見上げていました。冬の枯れ木の枝が風に揺れていて、空がとてもきれいな水色だったことを覚えています。足元に感じる地震の揺れはさっきからさほど変わっていない。これ以上大きな揺れにはならないだろう、と直感しました。そこで、とにかくこの場で揺れが収まるのを待ち、収まったらすぐに家に入って猫を探そうと思いました。ところがその揺れが全く収まらないのです。いつまでも、いつまでも、大地が変わらずに右へ寄せ、左へ返し、また右へ寄せ、左へ返って来る‥「一体いつ終わるんだろう?」と、大きな不安が灰色の雲のように広がって行くのを感じました。そうして門扉につかまったまま立っていると、やがて揺れが収まって行ったのでした。

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頑健な地盤、武蔵野台地
家の前の道には、通行人や、何かの配達や工事に来て車を停めていた人、そして住宅街の住人で今日は家にいた人たちが、皆道に出て不安そうに街を見回していました。私は急いで家に入り、応接間に猫がいるのではないか?と探してみましたが、二匹いる猫のうち、白猫の方が見つかりません。ピアノの上から、写真立て、置き時計、全長50センチくらいある大きなこけしが床に落ちているのを見つけました。ふと振り向くと、部屋の隅の細長い飾り棚の上に、白猫・チャミがおびえて座っているのをやっと見つけることが出来ました。
「チャミ、こんな所に乗ってたら、もっと大きい地震のときには真っ先に倒れちゃうよ」
と抱き下ろしましたが、怯え切っていて私の手の中で暴れ、すぐにどこかへ走り去ってしまいます。仕方なく、自分の部屋へ地震被害の点検に行ってみました。本棚の所々に飾ってあったぬいぐるみが数個床に落ちていただけで、特に大きな被害はありません。
後になってから見た友人のブログやツイッタ―では、棚から本が全部飛び出した、食器棚の中のお皿が割れた、CDデッキが丸ごと床に落ちた‥など、かなり落下被害の大きかった友人も多かったので、おそらく、武蔵野市は武蔵野台地の上にあり、地盤が固いこと、また、我が家は低層住宅なので建物自体による揺れが少ないことが奏功したのだと思います。

そうこうしているうちにまた先ほどと同じくらいの大きな揺れが起こり、また同じように玄関を開けて、門扉の前まで避難しました。家の前の道には先ほどと全く同じく、通行人や工事や配達の人、住人の方々が出て来て不安げな顔をしていました。向かいの家のお婆さんと目が合い、会釈をすると、「食器がだいぶ割れてしまったわ」と嘆いていらっしゃいました。その方の家は細長い形なので、揺れが激しかったのだということでした。

やがて揺れが収まり、家に戻りましたが、どこをどう探しても猫が見つかりません。そうこうするうちに同じ敷地内の離れにいた父がこちらの母屋へ来て、お互いの無事を確認。また、東京の別の場所で一人暮らしをしている弟の安否も、ミクシのつぶやきコーナーからすぐに確認することが出来ました。
困ったのは、母の安否がいつまでも分からなかったことです。母は昨日は大久保にある国際医療センター病院に検査結果を聞きに出かけていたのですが、携帯もつながらないし、メールの返事もない。その頃はまだここまで大きな地震だとは分かっていなかったので、仕方なく、10分おきくらいに電話をしながらふだんの仕事に戻ることにしました。地震の前まで書いていた原稿の続きを書いて編集部に送り、前日の夜にブログの更新が上手く行かなかったので、再更新作業をしたりもしていました。その間にも時々余震が来ましたが、逃げるほどではないと判断。我が家での被害が少なかったため、中規模程度の地震で、まさかここまでの未曽有の地震とはそのときは思いもしなかった‥それが、東京の一市街地、地盤の固い武蔵野市にいた人間の体感実感だったのでした。

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母が帰宅難民に
さて、ブログの再更新作業が一区切り付き、テレビを点けると九段会館の天井が落ちたというニュースが報道されていました。少し驚きましたが、九段会館には何度も行ったことがあり、古い建物だと知っていましたたので、「たまたまだな」と思ったのみ。仕事の電話を一件、人形町方面の会社へと掛けてみました。すると相手の方の後ろの方で、サイレンの音が聞こえて来ます。先ほどの九段会館のニュースと併せて考えてみると、「どうやら都心では大きな騒ぎになっているのかも知れない」‥そんな予感が、ようやく頭の中にただよい始めました。
電話を切って、もう一度猫を探しました。しかしまだどこにも見つかりません。また、お皿を洗おうとするとガスが来ていないことも分かり、これは今日一日くらい、料理を作ることは難しいのかも知れないと覚悟しました。

そうこうするうちに5時くらいでしょうか、母から電話が掛かって来ました。何度掛けても通じなかったので、着信音を聞いたときは「奇跡?」というかんじでしたが、聞いてみると、今、小滝橋にいると言います。地震発生の瞬間には病院の待合室で会計を待っていたという母は、終わったらすぐ外に出て、大久保駅に行こうとバスに乗ったところ、運転手さんから「電車が止まっている」という情報を聞いたのだそうです。
そこでひとまず終点の小滝橋操車場まで行き、「そこから中野行きのバスに乗り、中野から今度は吉祥寺行きのバスに乗り換えよう」と決めたのだそうです。既に道は渋滞で、ようやく小滝橋操車場に着いたものの中野行きのバスもなかなかやって来ず、寒風吹きすさぶ中待ち続ける羽目になったそうです。しかも、1台目は満員で乗ることが出来ず、2台目でやっと乗れたとのこと。そうやってバスを待っている間に、小滝橋操車場から電話を掛けて来たのでした。
「今日は何時に帰れるか分からないから、先にご飯食べておいてね」
「分かった」
と電話を切って離れの父に報告の電話をすると、
「小滝橋なら道が分かるから、迎えに行くのに」
と言います。慌てて母に電話を掛け返しましたが、もうつながりません。仕方なく、仕事をしたり猫を探したりしながら電話を掛け続け、つながったらすぐにその場所へ迎えに行こう、ということになりました。猫は二階の押し入れで震えているところをようやく発見しました。ところが、捕まえて抱っこするとすぐまた暴れて逃げてしまいます。そうなるともうどこをどう探しても見つからないのです。仕方なくメールやガスの復旧作業、ミクシのつぶやきコーナーへの書き込みなどをして、7時頃から父と二人で食事の用意を始め、夕食を食べることにしました。その頃にはもうほとんど余震も来なくなっていたので安心したのでしょうか、白猫チャミもようやく顔を出し、私たちのそばでうろうろし始めました。
その最初、台所の勝手口から姿を現し、用心深く部屋を見回しているへっぴり腰のチャミの写真が下↓です。
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帰宅難民の母を救出に向かう‥街で見たもの
さて、そろそろ食事も終わりかける8時15分頃、やっと母から電話が掛かって来ました。どこにいるのかと訊けば中野駅だそうです。小滝橋から3時間かかって、やっとまだ中野なのです!(ふだんなら20分くらいの距離でしょうか)
コンサートホールの中野サンプラザで待っているように約束し、父と二人、食べかけの食器もそのままに、コートを着て水筒に水を汲み、携帯の充電器に乾電池をセットして‥と慌てて準備をしていると、チャミが「置いて行かないで‥」と言うように必死で身体をすり寄せて来ます。もう一匹の三毛猫・イナの方は「死んでもここから動かない」というように、地震発生以来寝床の籠の中に踏ん張っている‥。
そこで、チャミをキャリーバックに入れて、三毛猫のイナちゃんは家に置いて出かけることにしました。もしも大きな余震が来たら中野辺りで大火災などに巻き込まれる危険もありますが、かと言ってまさに“帰宅難民”そのものになってしまった母をそのままにしておくことも出来ません。母の話では、中野駅から吉祥寺までのバスは、待っている人の列が1キロほども続いているというのですから!

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吉祥寺から出発し、道は途中までは順調でした。ふだんなら、吉祥寺から中野まで、片道20分程の道のりです。ところが、荻窪の手前から、青梅街道が一歩も動かなくなりました。昔から飛ばし屋の父はいらいらし始め、何とかなだめなだめしながらのドライブです。
道の両側には、吉祥寺を抜けてすぐ、西荻窪の辺りから、既にたくさんの人が黙々と我々と反対方向、青梅方面へ向けて歩く姿を見ることになりました。一人で歩く人が大半ですが、中には集団で何か話をしながら歩いている人たちもいます。
「たぶん、会社から一番近い人が同僚を家に泊めてあげるんだろうね」
と父と話しながら見ていました。中にはびっこを引きながら歩いている中年の男性や女性も、何人も見かけることになりました。会社から支給されたのでしょうか、ヘルメットをかぶっている人、非常リュックサックを背負っているスーツ姿の人もちらほらいます。道沿いのコンビニは人でいっぱいで、マクドナルドも長蛇の列となっていました。

ようやく荻窪駅手前の大きな交差点に着くと、警察の方が交通整理をしていました。道の左端に大破した車があったそうで(父が目撃)、おそらく焦って無理な走行をして事故を起こしたバカ者がいたのでしょう。皆が一刻も早く家族を連れ戻そう、家に帰ろうと車を出しているときに、本当に迷惑な話です。
とにもかくも荻窪を過ぎると、青梅街道はスムーズに流れ始めました。驚かされたのは、新宿方面に近づけば近づいて行くほど、どんどんどんどん、両側の道を歩いて行く人々の群れが増えて行くことでした。
「一体どれだけの人が歩いているのだろう‥」
これが、私が、大きく心にショックを受けた第二の出来事でした。生まれ育った街、東京。愛着と、そして外国の友人たちに対してちょっとした誇りを持って来た世界に冠たる大都市。その機能が麻痺し、ただ黙々と歩き続けるしかない人々‥。何という光景だろうと胸がいっぱいになってしまったのです。
その様子を携帯カメラで撮ったのが下の写真です。とにかく荻窪から中野まで、いや、恐らくその先の新宿から、延々と途切れることなく、人の群れがこちらへ向かって流れ続けて来るのです。極めて、極めて異常な風景でした。
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ただ、救いに思うこともたくさんありました。
それは、どこにも争いも掠奪もなく、粛々と礼儀正しく人々が道を歩いていたこと。また、「トイレお貸しします」という紙を張り出していたり、わざわざ人が立って「トイレ貸しますよ、お使い下さい」と呼びかけているビルをいくつか見かけたことです。
また、一番最後の写真に写っていますが、オレンジ色のジャンパーを着た男の人。この人はどうも警察の方でも何でもなさそうで、自主的に人と車の誘導係を引き受けているようでした。おそらく町内会の人か何かなのでしょう。頭の下がることだと思いました。
また、後から母に聞いた話では、母が震えながら小滝橋操車場でバスを待っていたとき、バス停の前の薬屋さんが突然道に出て来て、「皆さん使って下さい」と無料でカイロを配ってくれたそうです。バスの中も押し合いへしあいではありましたが、乗客同士自然に会話が生まれ、「自分はどこどこにいるときに地震があって、どのくらい揺れて」という話を、皆が代わる代わる報告し合い、雰囲気はとても良かったそうです。
その母は、病院にいるときに地震に遭いましたが、私と違って突発事件にあわてがちな母は、実はちょっとおろおろしてしまったそうです。すると、横にいた男性の患者さんが「椅子につかまって」「看板の下は危ないからあっちへは行かないように」とてきぱきと指示を出してくれたとのこと。こういう的確な行動が出来る方、本当にありがたいことだなと思いました。
‥‥このような数々の話を総合すると、日本もまだまだ捨てたものじゃないという思いを抱きます。恐らく街のあちこちで、このような助け合いが起こっていたのではないでしょうか。

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母を救出・中野サンプラザの風景
さて、ようやく中野サンプラザが見えて来て、近くの道路に駐車場所を確保すると、父と猫が車の中で待ち、私が母を迎えに行くことになりました。ここまで来るのに、1時間。長い長い道のりでした。車を出て、道路を猛ダッシュし、中野サンプラザの階段を一段飛ばしくらいに駆け上って行くと、出口近くになつかしい母の姿が見えました。思わず顔がにこにことほころんでいくのが、自分でもはっきりと分かります。母もすぐに私に気づき、私は急いでガラスのドアを押し、中に一歩入りました。そのとき、異様な光景にはっと気押されてしまったのです。中野サンプラザの広い広いエントランスホール、そのホール中、そして、大階段中に、帰宅難民と化した人々が無言でじっと座っていました。そして、新たに入って来た私の方を、全員が一様にちらっと見上げている。
「ああ、ここではしゃいじゃいけないのだな」
とその瞬間にすぐに思いました。ここにいる方々のほとんど、帰りたくても家に帰ることが出来ない。疲れて動けなくなっていたり、迎えに来てくれる人がいなかったり、迎えに来れる人はいてもその足がなかったり‥そんな人たちを前に大はしゃぎなどとんでもないことなのだなと思わされました。
そこで、そそくさと母と出発前に用心のためにトイレへ向かい(その判断は正しかったと後から分かります)、実はもう一人、初めて会う女性を連れて車へと戻りました。母が中野駅で声を掛け合ったという女性で、お住まいが荻窪だとのこと。「困ったときはお互い様」、どうせ通り道だし席も一つ分空いているし、お乗せすることにしたのです。

そこからはひたすら苦行の道のりでした。おそらく我が家と同じように、家族をピックアップして家路に着く人々で青梅街道は大渋滞。中野から吉祥寺まで、3時間ほどかかってしまいました。すいていれば20分程の道のりですから、いかに壮絶な渋滞だったかが分かって頂けるかと思います。
その間、両側の歩道には、行きと同じく黙々と青梅方面へ向けて歩く人々の群れが途切れることなく続いていました。東京の街にいかに多くの人々が働き、生きているのか、思い知らされる光景でした。

荻窪までお送りした女性・Uさんは、池袋にあるメーカーにお勤め。オフィスはビルの13階とのことで、地震発生時、その揺れは非常に激しく、ふだんびくともしない重い重いコピー機が右に左にスケボーのように走り回ったのだそうです。
その後、揺れが収まってからUさんたちは会社の近くの公園に行くと、辺りのビルから人々が降りて来て、自然発生的な避難所状態になっていたそうです。エレベーターは停まってしまいますから、どの会社の人も、皆階段を徒歩で下って来たのだそうです。
Uさんのご主人は韓国の方だとのこと。お勤め先の麻布十番から既に徒歩で!荻窪にたどり着き、保育所からお子さんも引き取っているとのことでした。あとはお母さんが家に帰るのみ!「ありがとうございました」と降りて行かれた姿を見て、少しは人の役に立てたことを嬉しく思う我が家一同でした。

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眠れない夜
こうしてようやく深夜、家にたどり着き、安否確認のメールをくれた中国・香港の友人たちにフェイスブックでまずは消息を知らせようとパソコンの前に座ると、余震もないのに部屋が揺れているように感じます。テレビでは津波に流される家々の映像が繰り返し繰り返し報道され、それを見たとき突然に、「日本が‥」と胸が痛くなるような悲しい思いがしました。「日本が‥壊れて行く‥」という、その言葉が、何故か何度も頭に浮かんでいました。そして、昼間、最初に街全体が揺れているのを見たときのあの強い無力感、そして、青梅街道を無言で歩き続ける大量の人々の黒いシルエット‥その二つの映像が、フラッシュバックのように何度も何度も頭に浮かんで来て止まらないのでした。
おそらく、無事に母を家に連れ帰り、その間に大きな余震に遭うこともなく家屋も無事だったことで、緊張の糸が切れてしまったのだと思います。余震の錯覚はその後もいつまでも続き、ああ、PTSDって本当にあるのだなと思いました。
その夜中、テレビでは上ずった声でアナウンサーたちが様々な見るのがつらい映像を繰り返し繰り返し報道し、ツイッターやミクシの呟きでは、外国暮らしの、現在安全な場所にいる日本人ほど故郷喪失感の裏返しなのかヒステリックに大騒ぎをして役に立たない情報を流し続けています。少し静かにしてくれないかと思いました。テレビ局もどこか一局くらい、皆の気分を慰めたり、冷静に落ち着かせてくれるような映像や音楽を時に流すことは出来ないのか‥。
くたくたに疲れて、すぐにも眠りたかったはずなのに先ほど書いた二つの場面が繰り返し繰り返し浮かんで来て目が冴えてしまい、深夜、私は黙々とお菓子を作り始めました。きっと明日も明後日も、思わず目を伏せたくなるようなつらい映像やニュースを目の当たりにすることが続き、少し回復基調だった日本経済もまた足踏みを余儀なくされるだろう。それが私の生計にどう影響するのか‥それよりも何よりも、今回の地震でプレートが動いたことで、また別の新たな直下型地震が東京の近くで起こるかも知れない。それでも、私たちはこの街で生きて行かなければいけないのだから、冷静に、落ち着いた心を保ちたい。ぐるぐると、ボウルの中で混ざり合って行く卵、牛乳、砂糖、ココアパウダー‥その焦げ茶色の渦巻きを見ていると、それでも、少しずつ、自分の心が落ち着いて行くのが分かるのでした。

こうして日本史上最大の地震に遭遇した私の一日は過ぎて行きました。
おそらく、誰にとっても、このような大きな自然災害に出会うということは人生にそう幾度もない経験でしょう。東京よりももっと‥比べ物にものにもならないほど巨大な被害をこうむり、また、現在もこうむり続けている東北の方々に対して、私が言えるようなことなど何もありません。重過ぎて、言葉にすることが出来ません。ただ、粛々と、東京の幹線道路を昨夜ひたすら歩き続けていた都民たちの黒い静かなシルエットのように、自分の持ち場をひたすら歩き続けて行くこと。更に続く困難があった場合、最小の被害に食い止められるよう、冷静さを保つこと。そう、自分に言い聞かせる、地震発生二日目、この国の首都からの日記でした。

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