西端真矢

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さよなら、MAYA from West End 2011/06/23



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まだ会社勤めをしていた10年ほど前、その仕事がどうしても好きになれなくて、逃げるように別の世界を求めて写真を撮るようになった。と言っても撮った写真を誰に見せる訳でもなく、ただひたすら撮りだめているだけの日々が続いていたのだが。
やがて、最初は50mm1本しかなかったレンズが2本になり3本になり、フィルムの種類もあれこれと試して好みのものが見つかり、ラボにも足を運ぶようになってプリントの焼き色にリクエストを出すようになった頃――およそ4年ほどの時間が過ぎていた――ふと、mixiのフォトアルバムに撮りだめた写真のごく一部を載せてみようと思い立った。すると、非常に大きな反響があり、また、或るフリーペーパーの編集者から写真を使いたいという連絡まで頂くことになった。そのときに自分につけた名前がMAYA from West Endだった。

当時私が勤めていた会社では、副業が禁じられていた。だから、いくらマイナーなフリーペーパーとは言え、会社の人の目に触れるかも知れない場所に本名が載ることはどうしても避けたかった。そこで何か別の名前を考えなければならなくなった訳だが、「どうせたまたま声がかかっただけの一回限りのことだから、何かしゃれの利いた名前にしてみよう」と考えた。そのときにMAYA from West Endという名前がふと頭に浮かんだのだった。

          *

この名前は、私の本名を苦笑するほど素直に英語へと直訳したものだ。例えばアーティストの山川冬樹さんの名前を直訳したら、“Mountain river Winter tree”になる。そういうばかばかしさを狙おうと思ったのだ。
また、実はそれだけではなく、裏にはちょっとした主義主張もあって、それは、私が「極東」という言葉が大嫌いだったことに由来している。
そう、初めて「極東」という言葉を知った小学生の頃から、私はいつもこの言葉に納得が行かなかった。
「地球は丸いのに、どうして日本は“東の涯”だって決めつけてしまんだろう?例えばアメリカ大陸の人から見たら、日本は西の涯の国だよね。どうしてそうやって何でもかんでもヨーロッパ中心で考えるんだろう?」
そう思っていた。だから私は敢えて「西の涯から来たマヤ」=「MAYA from West End」と名乗ろうと思ったのだ。

          *

さて、そんな風にしてこの名前で写真をフリーペーパーに発表した後、画数が良かったのか(笑)、一回だけのはずだった当初の目論見は外れ、次々と写真の仕事が舞い込むようになった。そうなると、途中で名前を変える訳にはいかなくなる。私にとって、公に発表する写真は一枚一枚が愛情のこもった大切な作品だったから、見る人に、「この前Aの雑誌で見たあの写真と、このBのサイトに乗ってる写真は同じ人が撮ってるんだ」としっかり認識してもらいたかった。そうやって、私の意図や私の作風が一貫して伝わることが私の心からの望みだった。だから、名前を変える訳には行かないのだけれど、時間が経つにつれて困ったことにこの名前が嫌で嫌でたまらなくなってしまっていた‥。

一つには、MAYA from West Endという名前が英語であることが気に食わなかった。私は昔からアジア文化好きで日本文化好きで更にかなり漢字フェチな人間なのに、何だってこんな英語の名前をつけてしまったのだろう?
また、名前があまりにも突飛なために、出版社などに電話をしたときにちゃんと名乗っているにも関わらず、必ず「もう一度お願いします?」と訊き返されるのが嫌だった。こういうことは、毎回毎回続くとだんだん気が滅入って来るものだ。
また、そもそも全体の文字数も長過ぎて、他の人と名前が並んだときにバランスが悪いのがみっともない。もう、何もかもが嫌になっていた。

          *

そんな中、2008年に、私が書いた文章作品に音楽や映像をつけて、朗読家が朗読をする、という朗読イベントを行うことになった。そのときに、
「文章作品を発表するときだけは、日本語で書いているのだし、やはりどうしても日本語の名前にしたい」
と、文章活動向けに新しい名前を考えることを思いついた。そのときつけたのが「西端真矢」という名前で、「にしはたまや」と読む。これは、また英語へと激直訳すれば「MAYA from West End」になる訳で一貫性があるし、実は、中国語が分かる人が深読みすれば、或る意味が浮かび上がって来るような仕掛けも施してある。(分かった人はご連絡下さい)
この名前はとても気に入っていて、しかしその後文章仕事の依頼は全く頂かず写真の仕事だけを頂いていたので、MAYA from West Endの名前もそのまま使い続けることになった。
けれど、私の内面にも変化があって、今、これまでMAYA from West Endの名前で撮り続けて来た多くの被写体に興味を失っている。そしてそんな私の興味の変化と不思議に足並みを揃えるように、去年から文章仕事の依頼が少しずつ増えて来た。それに関しては私の中にもたくさんのアイディアがあって、いっそう力を入れて行きたいと思っている。
もちろん、写真を通して表現したいアイディアも幾つか残っている。特に「伝統日本文化への憧憬」というテーマを伝えられるような写真を撮って行きたいという思いは強くあり、写真の活動はこれからも続けて行くつもりだ。けれど、活動の中心は文章になり、また、撮り続けたい写真も日本文化に関わるものが多くなることを考えると、MAYA from West Endという名前を持つ必然性はもう何もなくなってしまっていると思うようになった。
そこで、今日限りでMAYA from West Endの名前は廃止して、今後は西端真矢の名前一本で、文章と写真、両方の活動を行って行きたいと思う。また、それに伴い今日からホームページのデザインも一新したので、お時間の許す方はトップページなどを見に行って頂けたら大変嬉しい。
現在、紫陽花の花を撮った写真を掲げているが、今後も季節ごとの花を撮影した写真(それも、自然に咲いている状態ではなく生け花作品にしたものを中心に)を掲載して行く予定なので、時々、「今はどんな花がトップに来ているかな?」と、楽しんで頂けたらと思う。

‥という訳で、本日より、MAYA from West Endというアーティストはこの世から消滅しました。今後は西端真矢を、どうぞご愛顧末永くお願い申し上げます!

(上の画像は、MAYA from West End、西端真矢、それぞれの実印を押印したもの。左の実印から右の実印へと変わりました!)

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中国のバブル、日本のバブル 2011/06/20



あるとき、知人からとても残念なニュースを聞いた。それは中国人の友人・Sくんに関するニュースで、「Sくんが驚くほど変わってしまった」という嫌な話だった。
私とその知人は10年くらい前にS君と知り合った。Sくんは以前日本の大学に留学していて、卒業後は日本企業に就職、日本人女性と結婚して東京で働いていた。私たちはその頃にSくんと知り合い、温厚な性格の彼にとても良い印象を抱いていた。やがて私の仕事が猛烈に忙しくなり、Sくんやその周辺の友人たちと会う機会が減って行く中で、風の便りにSくんが中国に戻り、今は上海で働いているという消息を聞いたことがあった。それから数年が過ぎた後で、久し振りに彼に関するニュースを耳にしたのだった。

その知人は上海でSくんに会った。
久し振りの再会を喜んでお茶をした後、知人がSくんの買い物につき合って回った先は、グッチ、プラダ、コーチなど上海にある数々の有名ブランド店だったそうだ。Sくんはそれらの店で女性向けの小ぶりのバッグを次から次へと買い求め、全く隠す様子もなく、複数の浮気相手やキャバクラの気に入りの女の子に配るのだと言っていたそうだ。そして唖然としている私の知人に、
「君にも一つ買ってあげようか?」
と言ってのけ、彼女を更に唖然とさせた。実直で温厚で、いつも皆の調整役。奥さんを大切にしていたあのSくんは一体どこへ行ってしまったのだろう?

おそらく、中国に何としてでも進出したい日本企業と中国側との橋渡しが出来る存在として、日本人並みの日本語力を持つSくんには次から次へと仕事が舞い込んだのだろう。その収入と、イケイケどんどん昇り調子の上海の空気が混ざり合って、どうやらSくんの性格まで根本的に変えてしまったようなのだった。
「こんなことしていて、奥さん、大丈夫なの?」
と心配して訊いた知人に、
「いいんだよ。この中にはあいつの分のバッグもあるし、あいつは俺から金さえ受け取れれば文句言わないんだから」
とSくんは言ったそうだ。全く唖然とするほかない。

          *

中国に未曽有の好景気が訪れてから、もう何年が経つだろうか?
震災の影響で今は減ってしまったとは言え、一頃は銀座や新宿のブランド店の前に中国人を乗せた観光バスが横づけになり、大量に買いあさる姿がよく見かけられた。
北京や上海の高級レストラン、バー、ホテルを何軒か訪れたことがあるが、ヨーロッパから超一流のデザイナーを呼び寄せて内装や家具に湯水のように金を使い、東京、香港、ニューヨーク、ミラノ‥どこにも引けを取らない上等で趣味の良い空間が街のそこかしこに生まれていた。街を歩けば古ぼけた家々が次々と立ち退き対象になり、その後には新しいマンションやオフィスビルが姿を現す‥
そっくりだ、と思わざるを得なかった。そう、20年前に私が体験した、バブル時代の日本に今の中国は瓜二つなのだ。

          *

日本がバブル景気に沸いていた頃、私は高校生、そして大学生だった。
私の高校にはお父さんが不動産デベロッパー関係の事業をやっている同級生が何人もいて、その羽振りの良さはものすごかった。調子に乗って、ヨーロッパで貴族の子弟が社交界にデビューする際の舞踏会・デビュタントに日本から参加した子までいたくらいだ。(何ともこっぱずかしい話だが‥)
その後私が進学した大学はわりとブランドイメージの良い大学で、そこの女子学生=そう、女子大生だというだけで、どこへ行ってもものすごくちやほやされて過ごした。
お父さんが不動産屋、或いはアパレル関係の会社を経営している‥という肩書き(?)の二世たちが街中にうようようごめいていて、彼らが皆ベンツだのアウディだのを乗り回し、海へ行こう軽井沢へ行こうとすぐ連れて行ってくれた上に、いつも食事を御馳走してくれた。学内でもとびきりきれいで有名な先輩は、怪しげな青年実業家とつき合っていて誕生日のプレゼントはミンクのコートだったりもした。

その頃、友人が原宿の有名なオープンカフェでアルバイトをしていた。その子がバイトで貯めたお金でイタリア旅行へ行くことになったとき、同じバイト仲間の見た目がとてもかっこいいギャルソン男子先輩たちが「アルマーニのシャツ買って来て」と、彼女にお金を渡して先輩命令を出した。それも、
「エンポーリオはダメ。ジョルジョで買って来い」
と指定が付いているとのことだった。
「エンポーリなんて(廉価版だから)ダサイ」
ということらしいのだけれど、その人たちは別にどこかの財閥のお坊ちゃまでも青年実業家でもない。ぶっちゃけて言えば、ワンルームマンション住まいのカフェの店員。そんな彼らも“アルマーニのシャツ”というステイタスを身にまとって、意気揚々と原宿のカフェで働いていた‥そんな時代なのだった。

その頃、イタリア語を勉強していた私は何回かイタリアにホームステイに行っていたが、ミラノ、ローマ、フィレンツェのプラダやグッチの店は、日本人観光客であふれかえっていた。彼らは一言もイタリア語を解せず、いやもちろん英語さえもおぼつかず、商品を指で差して買い物をしていた。そう、まるで今銀座で見かける中国人のように。腰にはウェストポーチを巻きおよそおしゃれとは言いがたいTシャツなどを着込み、集団で固まって道を歩くその手には、グッチやプラダの紙袋ががさがさと提げられていた。
ああ、バブル時代の日本人。

やがて私が大学3年の終り頃から、バブルがはじけるだろうという暗い予想が人々の口にのぼるようになった。そしてその予想通り、大学4年次にバブルは完全にはじけ、2011年の今日に至っている訳である。

          *

バブルがはじけた後、青山や原宿辺りを闊歩していた不動産業二世、或いはアパレル業二世の青年たちは、きれいさっぱりどこかへ消えてしまった。電話をしてもつながらない。彼らは一体どこへ行ってしまったのだろうか?そして彼らが乗り回していたアウディやBMWは?
高校の同級生の羽振りの良かった不動産デベロッパー業のお父さんの会社は、銀行管理になったり倒産したり、お父さんが都内の公園で死体になって見つかった人までいた。お母さんが有名な画廊を経営していた同級生もいたけれど、その絵画の授受にまつわる億単位の裏金が派手に焦げつき、刑事事件として世間を騒がせたりもした。
バブルの真っただ中で、“ブランド大学女子大生(苦笑)”という最も有利なカードを手にしながらそれを有効活用するでもなくぼやーっと適当に流して過ごしていた私は、バブルがはじけた後も大して痛みを感じずに済んだが、その波に高く高く乗って有頂天でサーフィンした人ほど、後の闇は濃くなったと思う。

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先週、中国政府は預金準備率を引き上げ、政策金利も今月中には利上げを実行するという観測が流れている。加熱するバブルによって異常なほどに物価が上がり、去年400円だった野菜が700円近くに上がるスーパーインフレ傾向だというのだから、何とかこれを鎮静化させるために利上げせざるを得ないのだろう。
実際、この数カ月内でも、フフホトで大暴動が起き、広州付近の町でも3日間に亘る大暴動が起き、江蘇省や天津の市政府の建物が爆弾テロに遭った。日本のバブルは、程度の差こそあれ国全体が一様に豊かになったけれど、中国のバブルの場合は、開発の主体である共産党幹部とその周辺人物が突出して富み、多くの貧困層が取り残されたまま、という異常な形でのバブルとなっている。そこに物価高がやって来たなら、これら取り残された人々が大きな怒りを貯め込むのは当然のことだろう。

4年前、上海のタクシーに乗ったとき、建ち並ぶ新しい超高層ビル街の威容をぼんやりと眺めながら、運転手さんにこう言ったことがあった。
「すごいね、中国は本当に発展しているね」
運転手さんの返事はこうだった。
「何が発展だ。君に何が分かるんだ。この発展は我々庶民には何一つ関係がない」
そのすごい剣幕に、私はただ黙り込むしかなかったのだった。
中国のバブル。
その渦中にいると何故か忘れてしまいがちになるのが人間の悲しい習性だが、永遠に続く好景気は存在しない。喚起された需要がまた喚起された需要を呼ぶ幻想のダンスには、必ずどこかでその幻想を支え切れない局面が訪れ、ステップを止めざるを得なくなる。そのときに、あのタクシーの運転手さんは、上海のブランド店で次々とヨーロッパブランドのバッグを買いあさっていたSくんは、どこへ流れて行くのだろうか?

          *

2000年頃だろうか、世界経済の中で中国の持つ重みが日に日に増し始めていた頃、私は中国にかなり期待するところがあった。植民地主義を掲げた列強の侵略以来、欧米諸国にやられっぱなしだったアジアから、やっと超大国が出現する。白人だというだけで何故かいまだにアジア人を見下すことが多い欧米人を、とうとう心底圧倒出来る日が来るだろう。それが私の期待だった。
そして、4000年の歴史を持つこのナチュラルボーン超大国は、西欧風の白か黒かの教条的な哲学ではなく、独自の東洋風の世界観をもってして、世界に新たな魅力的な秩序を打ち出すことが出来るのではないか。どこかでそんな期待をかけている自分もいた。
けれど、結局のところ中国の経済発展が国民にもたらしたものは、バブル期の日本人と寸分変わらないSくんのような、金と、他人が決めたブランドという体系による権威づけに明け暮れる品位のない中国人を増やすだけのことだったのかも知れない、とも思う。中国人が日本をけなすときに「小日本」という言葉をよく使うけれど、何だ、あなたたち「大中国」さんも、結局のところ「小日本」と変わらないバブルダンスをしているだけなんだね、と大きな失望を味わうしかないのが今の心境だ。
その上更に中国政府の対外政策は悲しいほどに凝り固まった覇権主義で、世界各国に「中国嫌い」を増やしつつある。この事実も、中国の人々はもっと深刻に受け止めた方が良いだろう。15年前に中国映画に恋をして、北京に留学して以来一貫して親中派の私が言うこの心からの忠告に、どうか耳を傾けてほしいと思う。

          *

悲しいのは、中国の経済成長に乗って自分も一旗揚げようと中国に渡っている日本人で、その中には、地方の中国共産党幹部とのコネクションを自慢したり、「マヤさん、あの張さん(仮名)はどこどこ省政府の幹部の息子さんで、すごいんですよ」と耳打ちしたりする人がいることだ。中国で生まれ育った訳でもあるまいし、日本人のあなたがどうしてここまで向こうの人々さえ欠陥があると認めるシステムに取り込まれてしまうのか、と、慨嘆するしかないではないか。
また、中国で行っている自分のビジネスがそれなりに上手く行って、自分は今どんな高級料理を食べられる身分になって北京でどんな高級マンションに住んでいて‥と、バブル時代の悲しい日本人そのままに、外づけのヒエラルキーに自分をあてはめて得意になっている日本人がいる。日本で育ち、過去にバブルに踊った自国の人々の愚かな姿を見ていながら、中国に渡ってまでまた同じ価値でしか人生を測ることが出来ないのか‥と、これもまたため息をつくばかりだ。

もちろん、私の中国人の友人の中にも、また、中国に渡って奮闘している日本人の友人の中にも、このようなみっともない人々とは正反対の“本物の”人たちがいる。中国のバブルは早晩はじけるだろう。そのときに、これらの人々が受ける波が少しでも痛手の少ないものであることを、心から、願う。
そして、たとえバブルがはじけたとしても、巨大な人口を抱える中国の購買力は日本にとっていついかなるときでも無視出来るものではなく、この難しい国とどうつき合って行くかを常に考え続けて行かなければならないだろう、ということを、ため息をつきながら思う。

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仕事の打ち合わせにも着物で 2011/06/14



仕事に追われまくり、なかなか日記アップもままならない今日この頃。
お着物コーディネート日記ももう全く追いついていない状況のまま、単衣の季節に突入してしまいました。
あのお着物も、あの帯も、ああ、あのコーディネートもご紹介し切れないまま季節だけが過ぎてゆく‥実は、仕事が忙しいのも確かにそうなのですが、最近は週に2,3回は着物で外出しているため、頻度が多過ぎてアップが追いつかないという裏事情もあります。

そんな中、今日は、ここのところ仕事の打ち合わせに着て行ったコーディネートを二通りご紹介したいと思います。そう、最近は、仕事の打ち合わせも着物で!なのです!別名義で行っているビジネス分野の人物インタビューなどのお仕事は洋服で出向きますが、西端真矢名義での書籍企画について編集者と打ち合わせるときなど、もう必ず着物。
そして最近、何と、念願の着物企画を某誌で行えることになり、編集部との打ち合わせや着物スタイリストさん(きゃー!)との打ち合わせは、張り切って着物で出かけました。その時の雄姿がコチラの写真です↓(おはしょりが斜めってますがお見逃しを‥)
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着物は、塩沢と思われる縦縞の単衣。帯は、祖母が染めた牡丹唐草の塩瀬。まだ6月の始めの頃だったので、袷の塩瀬です。
この牡丹は、蟹牡丹になっているかな?と思います。黒と濃い臙脂の二色使いでモダンな雰囲気‥なのですが、最近江戸時代の裂(きれ)を集めた写真集を見ていたら、同じ配色の牡丹唐草文様の裂があったのです。祖母はその色を写してみたのかも知れません。
風呂敷の中には打ち合わせの資料が‥そう、「美しいきもの」が2冊入っています。いやはや分厚いので重いの何のって。翌日腕が筋肉痛になりました!
そして帯留にご注目。下の写真でご覧下さい↓
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獅子が二匹向き合っているデザインの木彫りの帯留です。向い鶴、向い蝶の文様はあるけれど、向かい獅子ってあるのでしょうか??牡丹の帯と併せて、「獅子牡丹」にしてみました。むふふ。
この帯留は、二分紐の帯締めが裏に金具で固定されているセット物です。祖母の遺品のつづらから出て来たもの。大のお気に入りなので、これからも頻繁に締めようと思います。

     *

さて、もう一つ、編集部との打ち合わせの日に着て行ったのは下のコーディネート↓
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幾何学文様の単衣の伊勢崎銘仙に、祖母が染めた流水に小花文様の帯を合わせました(これもまだ6月の早い時期だったので、袷の帯です)。

撮影があるときは洋服で向かいますが、打ち合わせなら着物でも全く問題なし。だって別に重いものを持つ訳でも走る訳でもありませんから。これからもガンガン着物deお仕事しようと思います!

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着物好きが皆「かわいい!」とうなる蝶の帯 2011/06/09



手前味噌で恐縮ですが、祖母が染めた帯で、締めていると皆さんに「これは‥!」「素敵―っ!」「かわいいっ!」「おばあさま、センス良過ぎ!!!」と絶賛して頂ける帯があります。祖母自慢で今日の日記で紹介させて下さい。

じゃーん、この帯です↓
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ひらひらと舞うたくさんの蝶たちを、一部「てふてふ」のひらがなや「蝶」の漢字で表した、もう、何とも表意文字文化の国ならでは!な帯。配色もそこはかとなくおしゃれで、我が祖母ながらこのセンスに脱帽してしまいます。

‥そして気になる前帯は、「こう来たか!」というかんじにこう来ます↓
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うーん、これもまた粋。思い切って前帯は「蝶」一文字だけなのですね。
でも、偏(へん)と旁(つくり)は別々の色で表現というのがまたおしゃれ。
お友だちから道ですれ違う見知らぬ方まで、着物好きの方に続々と声を掛けられる自慢の帯です。おばあちゃん、ありがとう‥

そしてこの帯に合わせたお着物は、何と、たったの3千円で入手しました!
仕事の原稿が書けないとき、私が必ず取る行動の一つに、一)マニキュアを塗る 、二)眉毛を抜いて整える、三)イ・ビョンホン様のホームページを見る、そして、四)ヤフーオークションを徘徊‥があるのですが、これはそのヤフオクで発見した単衣です。

確か福井県の古物商が、市内の旧家からの預かりで出品していたもので、相当に華やかな文様なので着る機会を選んでいるうちに、年齢的に着られなくなって手放すことにされたものだとか。しつけ糸つきの未使用、市内の老舗の呉服屋さんで図案からお誂えしたものだそうで、もちろん手染め。とても良い生地のお着物です。
これがたったの3千円なんて申し訳ないくらい。身丈、身幅、裄、全てがとても小さなサイズで、しかも相当に派手な文様なのでなかなか手を出す人がいなかったようです。チビで痩せで派手着物好きな私には待ってました!な一枚。スタート価格のまま誰も入札がなかったので、即入札。そのまま夢見心地に落札出来ました。

私はとてもラッキーなことに、祖母からたくさんの着物を受け継ぐことが出来た人間なので、こういう人間が更にリサイクル着物を買うのでは着物産業がどんどんやせ細って行くばかり。絶対にいかん!と勝手に義侠心を出して、新品を呉服屋さんで買うように頑張っています(お金もないのに…)。
でも、ヤフオクを見るのは大好きで、しょっちゅう徘徊しているのですが(あ、たまに小物は買いますよ)、時々こういう思いがけない掘り出し物に出会うことがあるのですよね。思わずクリックしてしまった縁ある一枚です。

そしてこれがまた祖母の蝶の帯と、ぴったりの組み合わせ。初夏のすずらんの花畑の中を蝶が舞っているというイメージでコーディネートしてみました。手放した方がどこかでこのページを見て下さっていたらとても嬉しい。大切に着ていますからねー!

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江戸っ子はどうやって災害とつき合って来たか――老舗主人が語る知恵 2011/06/06



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週末の土曜日、新宿伊勢丹で開かれたミニ講演会に足を運んだ。
お話をして下さったのは、江戸時代から四百年続く老舗「伊場仙」のご主人、吉田誠男さん。「伊場仙」はもともと紙問屋として日本橋に創業し、その後、扇子や団扇(うちわ)も販売、やがて版元として浮世絵の制作と販売も手がけるようになったという。
江戸時代。それはつまり冷房も扇風機もない時代である訳だから、人々は当然、夏は団扇や扇子を片手に街を歩いただろうし、浮世絵は当時のアイドル=歌舞伎役者や吉原芸者のポスター。要するに伊場仙は、ファッションアイテムとタレントグッズを同時に手掛けていた店ということになる。正に江戸時代の流行の中心に位置していたのだろう。

       *

さて、当日、そんな浮世絵や団扇のお話も色々お聞きしながら、「大震災直後」という今の時節にちなんだ江戸時代の人々の知恵についてのお話も聞くことが出来た。
と言うのも、伊場仙は創業以来何度も壊滅的な災害に遭い、それでもまた立ち直り事業を復活させて綿々と2011年の今に至る‥という、本物のしぶとさをお持ちの店(たな)だからだ。ご主人は「今回の地震くらいで、日本人よ、めげるな」という強い思いをトークショーで伝えようとされていたのだった。
そう、「徳川二百六十年の泰平」と言うけれど、実は江戸時代は大災害の連続だった。一つは、火事。明暦の大火、八百屋お七火事など有名な火事の他にも、無数とも言えるほど頻繁に火災が発生し、江戸市内ほぼ全焼も珍しくない。その上幕末の安政2年(1855)には安政の大地震が発生。このときも江戸市内は壊滅的と言えるほどの大打撃を受けたのだった。

しかし江戸の人々はたくましい。
まず、このような大災害に遭ったとき、商人は三日後から商売を再開する、というのが江戸の不文律だったという。店全体が焼け出されているのだから、もちろん売る物などほとんどないに等しい。それでも何かしらのものをかき集め、とにかく、焼け跡で売る。そして町の人々は自分も焼け出されてお金もほとんどないけれど、やはり何かしらその急場しのぎの店で買い物をする。お互い、見栄を張ってまた見栄を返す、骨の髄まで見栄っ張りのやり取り。でも、そうやって町に活気と経済循環を取り戻すという知恵を、江戸の人々は持っていたのだと言う。

また、安藤広重に『名所江戸百景』という浮世絵のシリーズがあるけれど、これは実は安政地震の直後に発行されたものなのだそうだ(伊場仙からの発行)。日本全国の人々に向け、「江戸はもうこんなに元気になってますよー!」とサインを送るための浮世絵だったのだとか。
‥‥実はそのときまだまだ江戸市内は震災の痛手から立ち直ることが出来ず、市内は至る所瓦礫の山だったのだそうだ‥‥けれど、広重の絵の中にはそんな姿は一切見えない。着飾った人々と美しく暖簾が下がった江戸の町々が描かれており、ここでも江戸っ子の、空元気に等しい見栄っ張りぶりを見て取ることが出来る。

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吉田さん曰く、この安政の地震の数年前には東南海地震が起きており、他にも、他地域の大きな地震との連動で江戸近辺に大地震が起きた例は数度あるとのこと。今後、東京で、大地震が発生する可能性は非常に高いだろう、と静かに述べられていた。
それでも、江戸の人々は、火事や地震は必ず来るもの、と淡々と生きていた。そしてそれが案の定やって来た後には、打ちひしがれたりせず空元気の見栄を張って、またすぐに力強く町を復興させた。そういう、昔の日本人が持っていた本物の力強さを失ってはいけない、と。

        *

着物が好きになって、日本人のかつての暮らしのことを勉強すればするほど、江戸時代というのは非常に高度な生活システムと、さりげなく、でも底知れないほど深い礼儀の体系を築き、そしておそろしく洗練された文化活動を人々がごく当たり前のように営んでいた時代だったことを思い知らされる。現代よりもすぐれた点が江戸時代の暮らしの中には数限りないほどあって、明治以降のやみくもな西洋崇拝によってどれほど多くのかけがえのない財産を私たちは失ってしまったのか‥と、そこに思い至ると思わず一人やけ酒でも飲みたくなってしまうほどだ。
しかし、嘆いていても仕方がない。
アメリカ・ヨーロッパの長期凋落、科学万能精神の限界(原発事故、液状化現象‥)‥そう、黒船がもたらした精神とその実践の本当の終焉を目の当たりにし始めた今、江戸時代の人々を見習って、空元気の見栄を張って前に進んで行くしかないのだろう。もちろん、江戸の人々がそうしていたように、自然を恐れ、自然を敬いながら。

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何度でも、読み返す本 2011/06/02



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人生には、何度でも何度でも繰り返し読み返し続ける本があると思う。
私の場合、それは漱石とドストエフスキーの作品で、『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』『悪霊』は何回読んだか分からない。
ただし、とにかく重苦しいので、ドストエフスキーは夏の間はどうも読む気になれない。その代り、日が暮れるのが早くなり始め、葉が落ちて針のようになった並木の枝が空を――それも曇り空を――鋭く突き差す季節がやって来ると、むしょうにあの長く異常な物語の中に沈みたくなるのだ。

漱石では、『猫』と、『それから』、そして『明暗』がとても好きで、高校時代以来何年かに一度は必ずこれらの作品のどれかを読み返している。
明治に書いたとは思えないほどシャープな文章、行間から伝わって来る当時の街の気配、そして、「日本人」を残酷なほど厳しく見つめる視線。漱石が投げかける問題設定は全て、2011年現在の日本社会が抱える問題にそのまま当てはめることが出来る。その上で、全篇にまぶされている甘いロマンスの香り。

今、毎日、少しずつ何度目かの『それから』を読み返している。本の奥付を見ると私が高校三年生のときの版なので、この小説とかれこれ二十年以上つき合って来た訳だ。
裕福な家に生まれ、働かなくても生きて行くことが出来、労働を軽蔑し日露戦争のから騒ぎと戦後の停滞に沈む日本社会を軽蔑する若き高等遊民の主人公。その男がたった一人の女のために、やがてのっぴきならない状況へと追い込まれてゆく‥
小説中に何度か登場する白い花のように、甘く強い香りが、最高の完成度で私の胸に迫って来る。


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