西端真矢

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出雲を旅して 2014/10/13



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 台風直撃の休日、東京もいよいよ雨脚が強くなって来ました。Facebookの書き込みを見ていると、今日は中止になったイベント事が多く、私も午後に早々と買い物を済ませ、家にこもって過ごしています。
 思い返すとちょうど一週間前の週末は、出雲での、おめでたく華やかな婚礼の様子がニュースを飾っていました。そのニュースを見て、昨年、出雲を旅した時のことをなつかしく思い出したので、時間の出来た今宵、綴ってみたいと思います。

          *
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 さて、昨年の出雲旅行は、東京で知り合った友人の実家を訪ねて向かいました。
実は、“友人の家”と言ってもその家は当たり前の家ではなく、今回の婚礼でも大きな注目を集めている出雲大社の、その氏子総代を代々務める名家なのです。
 その家を手銭(てぜん)家と言い、家屋は、出雲大社のごく近く。毎年、神無月(出雲では“神在月”と言うのは有名ですね)に出雲に集まって来る、全国津々浦々の神様たちが大社までを通る、“神迎えの道”というこれもまた由緒深い道に門を構えています。
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 もしかしたら、出雲に旅行されたことがある方は、この手銭家の名前を聞いたことがあるかも知れません。と言うのも、手銭家ではその由緒ある敷地の一角に美術館を開館し、“手銭記念館”として、代々が集めた美術品を公開しているからです。その美術館の建物もただの四角い箱のような無粋なものではなく、江戸時代以来、代々が酒造りや米の貯蔵に使っていた蔵を改装した、“蔵の美術館”として知られています。
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 この手銭家の現当主の長女、手銭和加子さんと、私は東京で、お茶を通じて親しくなりました。何しろ日本美術好きの私、他の友人たちから、「手銭記念館には、主に江戸時代の素晴らしい美術作品が揃っているよ」という話を度々聞かされていて、いつか遊びに行きたいと願っていたのですが、ちょうど昨年、江戸後期の異端の絵師・曽我蕭白の屏風や、出雲独自の焼き物を展示する展覧会が開かれる時に、遊びに来てみる?ということになったのでした。
 その手銭記念館の様子を撮ったのが、上に上げた三枚の写真で、独特の黄色が楽しい“布志名焼き”や、蕭白、狩野派などの絵師による屏風などの収蔵作品(つまり、手銭家代々が集めた美術品)を見る他に、出雲という独特の土地で、江戸時代以来続く旧家のたたずまいを味わえることが分かると思います。何しろ手銭家には、大日本地図の測量に来た伊能忠敬ご一行、それから、出雲大社参拝に訪れた松江の殿様(松平家)も滞在していたのです!

          *

 ところで、この旅でもう一つ印象に残ったのは、東京育ちの私が日本のどこへ旅しても感じる“さびれて行く地方”という問題、この問題に、手銭さんという生粋の出雲人が東京と出雲を行き来しながら取り組んでいる、その真摯な姿でした。
 出雲と言えば“日本精神の故郷”と言っても良い、古代以来の由緒ある町です。けれどその出雲大社の門前町ですら、少子化やモータリゼーション、イオンに代表される巨大ショッピングモールの出現と言った、時代環境の変化の波にさらされずにはいられない。
 この5、6年ばかりは島根県全体で“縁結び”にテーマを絞って観光客を集めているため、大社門前の商店街自体はなかなかの活況を呈しているようなのですが、だからと言って、全国展開の土産物チェーンが経営するが似たような土産物屋ばかりが並んでいるのでは町としての魅力に欠け、リピーターは増やせないのだろうなと感じました。
 また、そのような外部資本導入によるにぎわいは、地元の人にとっては、本質的には、“見せかけのにぎわい”。その町に住む人が町や道を愛し、積極的に働くという、本当の意味での生き生きした生活は生まれないのだろうな、ということも、これは出雲に限らずどこの地方都市へ行っても、常に感じていることでした。

           *

 友人を褒めるのはどこか照れくささがつきまとうものですが、手銭さんは、私がこれまでの人生で出会った中で最も聡明な人の一人で、もちろん、私が上に書いたようなことなど、何しろ本当にその土地に根を持つ立場なのですから、もっと皮膚感覚のレベルで体得しているのだということを、私は旅の途中で思い知ることになりました。
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 私が出雲を訪ねた日、大社から真っすぐに伸びる一番の目抜き通りを案内して彼女がつれて行ってくれたのは、趣はあるものの、壁紙がはがれ、土間がむき出しになった古い町家。実は、手銭家が代々所有する建物で、この場所を、先ほど書いたような土産物チェーンに貸すことも出来るのですが――そしてそうした方が家賃収入はずっと高いのですが――そうはしない。やりたいことがあるのだ、と、出雲に住む人が「あの場所に行ってあれを買いたい」と思うものを売る店を作ろうとしているのだ、と、話してくれました。
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 あれから約1年半。
 その町家の現在の姿が、上の写真です。何もなかった土間には、今、巨大なパン焼きオーブンや什器が並び、何より、美味しいパンと、心を込めてそのパンを作る店主と、店員さん、そしてお客様がいます。
 お客様は、観光客ももちろんいらっしゃるのでしょうが、主体は町の人々であり、ここに素敵な、心と舌が躍る商品があるからやって来る。おそらくこれまでは「大社の前は観光客ばかりだから行かない」と、巨大モールに出掛けていた方たちが多く含まれているのだと思います。
 そう、こういう店が幾つもあることこそが、その町に住むことを楽しくするのであり、外へ向かう力の歯止めになる――といういわゆる地方活性化のための施策、思想を、御大層な標語ではなく最も美しくスマートなやり方で、実現しているのがこの店であり、私はその胎動の時期に店を訪ねることが出来たのでした。

           *

 お店の名前は、“ブーランジェリー ミケ”。主に出雲地域で育てた小麦粉を原料に使い、そのパンは作られています。
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 新作は、何とも出雲らしい“雲のパン”。出雲を旅したら、大社の帰りに、ゼヒ一つ買ってみてください。そして、手銭記念館で、出雲の土地から生まれた古美術品を眺めてみてください。
江戸時代には、身分の固定など負の側面ももちろんありましたが、地方ごとに独自の布や焼き物、生活雑貨が育ち、生き生きと花開いたことは、現代の日本よりずっと優れた点だったと思います。
  「東京のものがこの町でも買える!」ではなく、「この町にしかないものがここにある」ことこそが、これからの日本の歩むべき姿だと確信しています。日本で最も古くに栄えた町を旅して、未来の日本の姿を見つめた旅だったのでした。

          *

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 最後に少しだけお知らせを。
 実は、今日の日記に書いたことは、この出雲旅行で見聞きし、感じたことの最もエッセンスの部分。出雲という、日本という古代以来の土地を歩くことで感じる地場の力や、大社門前町の明治以降の栄枯盛衰の物語、江戸時代の松江藩殿様の苦心惨憺たる貧乏財政再建秘話、そして、東京出身で、いわゆる“ふるさと”を持たない私自身の心の底にある“故郷希求”の思い――これらのことと、今日記した手銭さんの試みとを、古代―江戸―現代、出雲―東京という幾つもの軸で布を織るようにして書いたエッセイを、既に発表しています。
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  「Libertin DUNE」という不定期刊行のアート雑誌の、No.5エディションに発表した、「出雲 過去―現在―未来」というエッセイ。現在もまだ購入出来るので、良かったらお買い求めいただけたら幸いです(次の「」内をクリックすると、amazonページに飛びます→「Libertin DUNE No.5」)。

 ニュースによると、今日、出雲も雨に見舞われ、伝統の出雲駅伝も開催を見合わせたとのこと。それでも明日には晴天が戻り、大社通りには美味しいパンが焼き上がっているのだと思います!

手銭記念館(現在は、「江戸力」展開催中。関連講座やワークショップも多数開催!)
http://www.tezenmuseum.com/

ブーランジェリー ミケ
https://www.facebook.com/Boulangeriemike?fref=ts

Libertin DUNE No.5
http://www.amazon.co.jp/Libertin-DUNE-no-5-TRADITIONAL-TRANSCEND/dp/4861192129/ref=sr_1_4?s=books&ie=UTF8&qid=1413207125&sr=1-4&keywords=libertin+dune

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お・も・て・な・し――外国人観光客を迎えることの意味 2013/12/02



今年の流行語大賞に決定した、「お・も・て・な・し」。
東京オリンピック開催の是非については様々な意見があると思うけれど(実は私自身も誘致には反対だった)、既に開催は決定事項。やる以上は、来て下さった外国人の方に日本のいい印象が残せたらいいな、と思っている。

そんなオリンピック誘致も含め、最近よく耳にするようになった言葉に“インバウンド観光”があるのではないだろうか。
この言葉、何でも横文字にするのはどうかと思うけれど、要するに“訪日観光”という意味。もともと、小泉首相の時代に「訪日外国人1000万人を目指せ!」ということが言われるようになって、観光庁も設立されて‥という大きな流れの中で、7年後の東京オリンピックが“外国人観光客誘致”という概念やビジネスを、いよいよこの国にがっちりと根づかせる強力なきっかけになるのではないか、と言われている。
そんな“インバウンド観光”“外国人観光客誘致”の若き旗振り役となる人物を、先ごろ仕事でインタビューさせて頂いたので、今日の日記ではそのご紹介と共に、“外国人観光客誘致”というこのトピックそのものについて、私自身の意見を書いてみたいと思う。

当該のインタビューはこちら。「訪日外国人市場1兆円を目指して」↓
http://hapon.asia/shinjuku/news/post3256/
     *

さて、その若き旗振り人の名は、新津研一さん。以前は伊勢丹に勤務され、日本一と誰もが認める百貨店店舗・新宿伊勢丹のフロア全面リニューアルや新規事業開発など、おそらく「将来の伊勢丹社長候補の一人だったのだろうな」、という活躍をされていた方だ。
そんな新津さんは2年前に三越伊勢丹を退職し、ご自身の会社・USPジャパンを設立。企業コンサルタントとして活躍される一方、訪日外国人客誘致を「日本でのショッピングは楽しいですよ!」と買い物体験に特化して推進する社団法人、“ジャパンショッピングツーリズム協会(JSTO)”の代表に就任した。このJSTOの賛助団体にはJTBやNTTデータ、JAL、JCB、三越伊勢丹、高島屋など錚々たる企業が名を連ね、大きな期待がかかっていることが窺える。
これまで、“外国人観光客誘致”と言うと、京都・歌舞伎など伝統文化をアピールしたり、或いは秋葉原に代表されるクールジャパンを看板にすることが多かったけれど、JSTOが掲げるのは、買い物。平たく言えば、「日本で買い物して下さい!」ということで、別の見方をすれば、それを前面に出せるほど日本には、世界の人々の購買欲をそそる魅力的な商品がある、という自負を持っている、ということになる。
インタビューではそのあたり、新津さんたちがこの協会で何を目指し、それが日本という国にとってどんなメリットを持っていると考えるのかを、細かくお聞きしている。

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一方、私の個人的な視点からこの“訪日観光客誘致”というテーマについて述べてみれば、実はとても大きな期待を抱いている。それは、経済的なメリットと、また、国の安全保障という点からもメリットがあると考えるからだ。このことについて少し書いてみたいと思う。

日本社会に幾つか存在する大課題の一つに人口減少問題があり、この流れは容易には変えられないことは、誰の目にも明らかだろう。それはつまり労働人口と消費者人口の減少を意味し、日本経済の縮小につながることもはっきりしている訳だが‥、かと言って日本人の精神風土から言って、移民を受け入れることに激しい心理的抵抗があることも、誰の目にも隠しようのない明らかな事実ではないだろうか。
このような、“無理をしても変えられない現実”に対して、私は、単純に、無理をしても仕方がないのではないか、と考える。ざっくばらんに言ってしまえば、政府や理想主義者がいくら「産めよ増やせよ!」と唱えても、「移民を受け入れ共生社会を!」と唱えても、残念ながら現実は動かない、ということだ。
それよりも、動きそうなところを突っついた方が良い、というのが私の考えで、その選択肢の一つとして“たくさんの外国人に日本に遊びに来てもらう”、“そしてお金を落としてもらう”というやり方は、大いに可能性があると思うのだ。
そう、外国人移民と同じ町内で、文化の違いをひしひしと意識しながら共生するという道はおそらく日本人には向かないけれど、短期間の旅行客として受け入れるなら、何とかキャパシティに収まるのではないか、と考えるのだ。
インタビュー中でも触れているが、現在、訪日外国人旅行客が日本に落とす金額は、3400億円。これが3倍に増えれば1兆円の市場が生まれる訳で、日本人にとって経済的恩恵は相当大きいと言って間違いはないだろう。

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また、私のように中国と関わりのある人間から見れば、日中関係の改善のためにも中国人観光客の増加は望ましいと思う。
今では多くの方が知っている通り、中国人の反日感情は幼い頃から受けて来た反日教育や、日本兵が悪役として登場するテレビドラマなどの影響が大きい。つまり、自分の実際の目で見て、体で体験した反日ではなく、“何だか気づいていたらこうなっていた”反日であることが多い、ということだ。
そういう中国人が実際に日本に来てみれば、現在の日本には侵略主義者などいないということが分かるし、どう考えても中国よりはるかに親切と礼儀正しさが行き渡った社会であることは一目瞭然だろう。こうして彼らの日本観は変わって行かざるを得ない。
現在、世界のあちこちで中国人観光客のマナーの悪さが物議をかもしているけれど、私たち日本人は“中国の隣り”という地理上のこの位置関係を変更することは出来ない訳で、面倒くさい国ではあるものの、お互いの関係がつかず離れずそこそこ良好なことが私たち自身の安定と発展のためには最善であることは明白である。中国人旅行客の若干野蛮な行動には忍耐を持って、彼らを教育しつつ、受け入れる。それが、経済的な理由からも、国の安全保障からも、私は長期的に見て日本のメリットになると思うのだ。
ちなみに、どうやって彼らのマナーを教育するか、という点だが、これは、中国人の大国意識や対外的な面子を刺激することが一番だと思う。日本のマスコミ、市民、共に、中国人観光客でマナーの悪い人と遭遇したらどんどんその情報を発信する。日本語だけではなく英語で、英語の媒体にもどんどん書き、書いてもらう。彼らは「弱い中国」「遅れている中国」という概念に敏感だ。野蛮故に馬鹿にされている、というメッセージを送ることは改善に大きく役立つと思う。

‥という訳で、様々なことを考えさせられる、“訪日観光客誘致”というこのテーマ、その一つの入口として、新津さんへのインタビューをゼヒ読んで頂けたらと思う。

インタビューは、全2回。
☆主に訪日外国人誘致について聞いた回
「訪日外国人誘致1兆円を目指して」↓
http://hapon.asia/shinjuku/news/post3256/
☆新津さんの伊勢丹時代と、企業コンサルタンティングの活動について聞いた回
「貫くのは、ブランド独自の強み、を見つけ出す姿勢」↓
http://hapon.asia/shinjuku/news/post3056/

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スター 芸能界で生きるということ 2012/03/06



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最近芸能ニュースをにぎわせている或る女優さんと、7、8年前、まだ広告代理店に勤めていた頃にお仕事をしたことがある。この「にぎわせている」というのは思いやりある言い方で、実際には「今、悪い評判を取っている」と言うのが正しい女優さんだ。

私がお会いした当時の彼女はまだ芸能界に頭角を現し始めたばかりで、私が担当していた或る商品のCMに起用しようかという話が持ち上がっていた。かなり大型商品だったこともあって、衣装なども用意してオーディション形式でクライアントと会って頂くことになり、その準備の過程で彼女と何回かお会いすることになった。
結局そのCMでは、「まだどこか華がない」というぼんやりとした理由で別の新進女優を起用することになり、彼女が選ばれることはなかったのだけれど、まだ二十歳そこそこにも関わらず落ち着いて自分の意見を述べ、スタッフにも礼儀正しい、聡明な女の子という印象だった。
その彼女が今、多くの人々を失望させ、また困惑させている。その様子を見ていると、芸能界という世界の底知れぬ恐ろしさを感じずにはいられない。

芸能界では、「注目」という地域通貨と引き換えに、こちら側の世界で桁違いの金銭や優待手に入れることが出来る。二十歳そこそこの女の子がその力に幻惑され、落ち着きを失ってしまうのは当然だとも言えるだろう。
けれどその「注目」は、私が関わったオーディションで彼女が落とされてしまった時のように、ほんの少しの運命の匙加減で、やって来たりまた飛び去って行ったりする。代償に得るものの力が大きければ大きいほど、そのしびれるようなギャンブルの感覚は強まって行くのだろう。
そして、一旦「注目」が彼女のもとへやって来た後には、まるで影が本体を凌駕して行くように、「注目」の世界の中の彼女の像が圧倒的な命を持ち始める。影と体は決して一つになることは出来ない。光が強ければ強いほど、その乖離の感覚も強まるのだろうと想像出来る。それを持ちこたえるために、強い反対力が必要になることもあるのだろう。そして彼女は「壊れた」行動を取り始めることになる。
彼女はこれからどこへ向かって行くのだろう?
光の中で傷を負いながら、ぎこちなく歩く美しい横顔を限りない同情を持って見守っている。同情などという言葉を聞いたらもちろん彼女は、ふん、何言ってるのよと笑うのだろうけれど。

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「日本結束」=「日本終了」 サッカー日本代表新ユニフォーム広告の衝撃 2011/12/28



一昨日、サッカー日本代表チームの新ユニフォームが発表になり、発売元adidasが広告キャンペーンを開始した。そのキービジュアルを見た人の中で――私もその一人だが――中国語が分かる人は、全員絶句したのではないかと思う。何故ならそのキャンペーンコピーが、「日本結束」というものだったからだ。
日本結束。
この文章は、中国語では、「日本は終わります」を意味する。文脈にもよるが、現在形か未来形の文章であり、こうやって単独で言い切りの形で投げ出された場合には、どちらかと言うと“確実な未来”という意志が感じられる。つまり、adidasが「日本は、必ず終わる」と何らかの確信を持って断定している印象なのだ。

ああ、何ということだろう。
キャンペーンの画像は右のURL→→ http://www.adidas.com/jp/homepage.aspで見られるので、未見の方はご覧になってみてほしい。新ユニフォームを着た選手たちが歓喜の表情でグラウンドを駆ける写真の上に、「日本結束」、つまり中国語的には「日本終了」というコピーがでかでかと載っているのだ。私は最初、
「これは、中国人の憤青(ネット右翼)によるサイバー攻撃?」
と思ってしまった。しかしもちろんそんな訳はない。難しい時代になったな、と思わされた。

          *

もちろん、ここは日本なのだから、普通に日本で育って中国語に触れる機会のなかった多くの日本人からすれば、このコピーの読み方は「日本けっそく」以外の何ものでもない。私などは中華オタクだから中国語が読めてしまい、その結果「結束」を「終了」とも読み取ってしまうだけで、ほとんどの日本人にとってはこのコピーは、日本人の団結を表す、なかなかに凛として美しい言語表現であるはずだ。
だから、このコピーは何も間違っていないし、このままこのキャンペーンを続ける。
その見識は正しいし、日本adidasもその方針で行くようだ。実は2ちゃんねるの世界でもこの「日本終了」問題に気づいた人がいて、adidasの広報に電話をかけて問い合わせをたらしい。するとadidas側は、「そんな意味があることは知らなかった。しかし、キャンペーンはこのまま続行します」と回答したのだそうだ。
もちろん、既に発表済みな上に様々な宣伝ツールに印刷もかけてあり、キャンペーン全体がこのコピーを軸に動いている以上、いまさら引っ込められないという裏事情もあるのだろうが、基本的には、「日本向けの広告は日本語として正しければそれで良い」という認識は、私は間違っていないと思う。

でも…という思いがもう一方でどうしても沸き起こって来る。
今は鎖国の時代ではないし、まして日本は今後、アジア経済圏の中で活路を見出さなければ立ち行かなくなる、というのは、少しでもビジネスの世界に触れている者にとっては常識と言って良いだろう。
それにそもそも「結束」を「終了」と読み替えるのは、今や中国人と(私のような)中華オタク日本人だけではない。駐在や留学で中国語を学ぶ日本人の数は年々増え続けている。「結束」は基本単語の一つだから、かなり早い段階でそれらの人々が学んでおり、彼らも皆この広告を見ることになるのだ。
…そういう情勢の中で、特に全面的にグローバル展開している企業が、ここまでダークなダブルミーニングを持った言葉をコピーにしてしまう。これはやはりあまりにもリスキーな選択だと言わざるを得ないし、グローバルな顔をしていながら意外とアジアに目配りで来ていないな、という印象を持たれてしまっても仕方がないだろう。

少なくとも、「日本結束」のコピーは、たとえ日本国内であっても、国際試合の会場には決して掲げないことをお薦めする。
逆だった場合のことを考えてみてほしい。
日本代表チームがアジア大会に出場することになり、或る日、選手・サポーターが上海の競技場へ乗り込んで行く。すると競技場に中国adidasが、何故か「中国終了」という奇天烈なメッセージを掲げているのだ。
中国人は一体何を考えているのだろう?やる気あるの?どれだけ自虐的なんだ?と日本人なら全員思うはずだ。
いや、中国では「終了」は「結束」という意味なんですよ、と言われても、日本人から見れば「終了」は「終了」だ。ぷっ、あいつら、自分で自分のこと「終了」って言ってるよ、とTwitterにからかいコメントの一つも書いてみたくなるだろう。それに何より、国の名誉を賭けて闘う試合会場に「終了」の裏イメージが重なることが、あまりにもゲンが悪過ぎる…

          *

今回の事件を見て思うことは、これから広告制作や商品ネーミングに携わる人たちは、中国語、韓国語、ベトナム語など、アジア言語やアジア文化、アジア史にリタラシーを持たなければ、また同じような失敗を繰り返してしまうのではないだろうか、ということだ。
以前広告代理店で働いていた私は、最先端と言われる“クリエーター”と呼ばれる人たちが、実はいまだに欧米志向である現状を見聞きして来た。経済の実態はアジア中心に動き始めてもうずいぶん時間が経ち、これからも当分この趨勢が続いて行くことは明らかなのに、“クリエーター”たちの頭はその現状について行けていない。だから、英語が分かるコピーライターは結構いても、中国語が分かるコピーライターやプランナーなどほとんど存在していない。それが今回のような事態を引き起こしたのだ。今回はコピーが問題だったけれど、アジア文化リテラシーを持つ人材を社内に育てて行かなければ、今後、広告の中の動作、美術が問題なることが、第二、第三、と起こって行くような気がしてならない。

          *

かつて代理店にいた人間として、広告表現というのはただでさえ制約が多く、そこに「アジア要素」という新たな一項目が加われば、更に表現の方法が狭まってしまう!と危惧する気持ちも理解出来る。
しかし、アジアリタラシーを持ち、自然にアジア文化を取り入れた広告を作れる人材が育ったならば、今回のようなことのリスクヘッジともなるし、それどころか広告表現は、これまでとは違った別の方向に深みを持つことさえ出来るのではないだろうか。
たとえば、かつて東アジアの多くの国が共有していた旧暦という文化を広告に取り入れて、大きなアジアキャンペーンを打つ、など、展開は私などにも様々に考えられる。今回の出来事を教訓にして、難しい時代を豊かな時代に変えてほしいと、かつての広告代理店人であり現在の中華オタクであり日本文化をこよなく愛する私は、「日本結束」、この悲しくも美しいコピーを前に思うのだ。

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かわいくて頭が良くてスポーツが出来る女の子 2011/10/03



~~かわいくて頭が良くてスポーツも出来て明るい性格の女の子はみんなの憧れ!…のはず……だけど、そこには大きな落とし穴が?というお話です~~

私には一つの宿命があって、子どもの頃から、同性の友人にとても慕われて生きて来た。もともとの性格があまり統率力がある方ではないし人を支配したいという願望もさらさら持っていないので、学級委員になったり学年に何人かいるリーダー的存在の女子になることはなかったが、その代わり、“コアな”とでも言うほかないような、一部の“コアな女子たち”に静かに・熱く慕われ、非常に重大な秘密を打ち明けられたりして生きて来た。

そして、このようなことは、私の人生のかなり早い段階から常に私の周りに起こり続けていたので、例えば王族一家に生まれた人間が王族としての振る舞いを自然に身につけているように、私にとって、女の子たちの心の奥底の悩みに耳を傾け、時には一緒になってその解決策を考えることは、この地球から私が引き受けた一つの勤めとして、日常の中のあまりにも自然な振る舞いとなっていた。何が言いたいのかと言うと、私はたぶん普通の人より、女の子というものがどういう存在か理解していると思うのだ。

          *

ところで、私が何故突然こんな話を始めたかと言うと、最近、テレビのニュース番組で、今の子どもたちに関する或るニュースを見たからだ。
そのニュースでは、或る大手の学習塾がレポートされていた。名門中学校に毎年多数の児童を送り込むその進学塾に、最近は体育のクラスが併設されているのだという。まさか、勉強ばかりかスポーツでも上位を獲るスーパー小学生を育てようとしているのかしら?と思いきやそうではなく、教えているのは、跳び箱や鉄棒。それも、ごくごく低い段、ごくごく平凡な棒一本の鉄棒が教室の真ん中に据えられているだけだ。そこで何が教えられているのかと言うと、例えばどうしても逆上がりが出来ない子。どうしても跳び箱を3段以上飛べない子。そういう子たちの横に先生がついて、ゆっくりと、何回でも時間をかけて、逆上がりが出来るように・跳び箱4段が飛べるように、指導するためのクラスだというのだった。通常の勉強のためのクラスの他に、オプションとして、希望すればこのような体育補修クラスに入ることが出来るのだそうだ。

このニュースを見たとき、私は両刃の剣だなと感じた。
確かに、それまで体育の授業で、どうしても逆上がりが出来ずクラスメートから忍び笑いを浴びていたAちゃんがやさしい先生の絶え間ない励ましのもと、何とか逆上がりを身につけて次の体育の授業では逆上がり完遂!となれば、それはそれでめでたいことではあるだろう。もしかしたら子どもたちの心には、そのとき深い達成感や自信の感覚が生まれているのかも知れない。何一つ悪いことはない。良いことづくめ――な話のようだが、果たしてそうだろうか?とも思うのだ。

          *

私がそんな風に思うのには理由がある。冒頭で書いたように女子たちから慕われやすい宿命を負った私はこれまでに多くの女の子たちの悩みを聞いて生きて来たが、特にこの10年程、社会の中で出くわした初めての、そして(私から見れば)とても小さな挫折や失敗に、あっけなく崩壊してしまう女性たちが増えていると感じるのだ。
彼女たちは皆、非常に良い大学を卒業している。そして容姿もかわいらしく、男性にも人気がある。間違ってもガリ勉タイプではなくファッションやメイクにも関心があり、そして実際そのセンスもとても良い。
過去に学校やバイト先で上手く友人関係を育むことも出来、対人スキルも問題がないと思われて来た女の子たち。彼女たちは運動神経もそこそこ良く、更に、出身家庭もまずまずの収入水準だ。自分に娘がいたら「こんな風に育ってほしい」と願うような女の子たち。でも、こういう子が一番危ない、と思うのだ。

彼女たちに共通している要素は何か?と言えば、それは、挫折を経験したことがない、ということに尽きる。もっと言えば、恥をかいたことがない。更にもっと詳しく言えば、自分の面子を大きく失うような体験をしたことがない、ということだ。
彼女たちがこれまでに体験して来た挫折と言えば、おそらく失恋くらいのものだろう。しかし、恋愛というのは個人と個人の間の相性から成る部分が非常に大きく、社会に出て仕事をして行くときに必要と考えられている“公的な能力”が問われる場ではない。要するに恋愛とはプライベートな領域の中で起こることであり、そこでの挫折経験は、公的な領域での挫折にはカウントされない、ということだ。

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さて、そんな挫折知らずの彼女たちが優秀な大学をそつない成績で卒業。そつないメークとそつないファッションで、いざ社会に出て働き始める。ところが仕事と言うのは、理不尽なことの連続だ。仕事とは要するにどういうことかと言えば、「あなたに金を支払ってくれる人が、あなたの優位に立つ」、この一言に尽きる。
人間はご飯を食べなければ生きて行けない。
今は物々交換の時代ではなく、貨幣を媒介としてご飯を得る社会体制であるのだから、ご飯を得るためにはお金を稼がなければならない。そう、お金はご飯そのものなのだ。だからお金は人間にとってとてつもなくとてつもなく大切なものだ。その大切なものを誰かが別の誰かに支払うとき、それが大切なものであると本能的に分かっているが故に、支払う側の心には驕りが生まれる。そして、支払われる側の心にはどうしても卑屈な感情が生まれて来る。
そんなことは間違っている。金は労働の対価であり、労働者と支払者の間には労働を媒介にして対等な関係が…という正論はもちろんその通りであり、私も常々そのように振る舞おうと努めているつもりだが、社会の実際の姿を見るとき、残念ながら、間違っている人々の方が大変多いというのが現実だ。

だからこそ、仕事の場には理不尽なことが次から次へと起こる。金を支払う側=顧客、給料を査定する側=上司は、あなたに対して驕りの感情を持っている。あなたの息の根を止めることが出来ると思っている。そして実際にその通りなのだ。
クライアントに、「あの子生意気。このプロジェクトから外してよ」と言われたら、あなたがそのプロジェクトに残れる可能性はゼロ%だ。クライアントがどんなに無理なスケジュールを押し付けて来ても、どんなに悪辣な値切りをして来ても、どんなに下品なセクハラ発言をしたとしても、真っ向からそれに歯向かったら、あなたはそのプロジェクトに残る可能性はない。それはこの仕事に対してあなたの収入が0円になるということであり、フリーだったら文字通り、このプロジェクトからあなたが1円の収入でも得る望みは断たれてしまう。また、もしもあなたが会社に所属していたとしたら、会社から見てあなたのこのプロジェクトでの貢献度は0円、無収入な役立たずになったということを意味してしまう。そしてそれは社内でのあなたの評価を著しく下げる。
……このようにして、あなたの明日のご飯代は消えて行く。或いは、先細って行く…という訳だ。そして、ご飯が食べられなかったら人は、死ぬしかない。

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だからこそ、人は、どんなに理不尽だと思ってもお金を支払ってくれる相手に卑屈に頭を下げ、何とか理不尽な条件を弱めるために卑屈な努力を続けて行く。これほど卑屈な、奴隷的姿はない。しかし、これが仕事をするということの現実の姿なのだ。

仕事をしていると、時々、今の自分って、本当にかっこ悪いな…と思うことがある。さっき自分の前に鏡がなくて本当に良かった。あのクライアントに情けなく頭を下げている姿。あの私のごくごく真っ当な怒りを、ぐっと抑えなければいけなかったときのみじめなぐんにゃり顔。あんなものを鏡で見たらきっと私は発狂してしまうに違いない!…しかし、あなたは本当は自分のその卑屈な姿を、心の中に持っている大きな姿見の中にはっきりと見つめているのである。
それでも、何とか、人はまた明日のために歩き始める。上司やらクライアントやらのためにはらわたが煮えくりかえって眠れなかった夜があっても、トイレでそっと涙をぬぐった日があっても、何とか「仕方ない。まあ、仕事ってこういうものだし」「いつか偉くなってあいつを見返してやる」そんなことを心の中でつぶやきながら、お金を稼ぐために、生きて行くためにまた歩き始めて行く。
ところが、どうしても立ち上がれなくなってしまう人がいる。それが、この日記のタイトルに使った“かわいくて頭が良くてスポーツが出来て、それに加えてそこそこ良いお家で育った女の子たち”だ。彼女たちはこれまでの人生でただの一度も、面子を失うような立場に追い込まれたことがない。だってかわいいから男の子たちに好感をもたれて外見で損をしたことがないし、勉強が出来たから劣等生の情けない気持ちを味わったこともないし。もちろん、スポーツもそこそこ出来たから跳び箱4段が飛べずにくすくす後ろの方から笑われたりしたことなんてあるわけないし、マラソン大会でビリでゴールインして皆から拍手(心の中で失笑)で迎えられたこともないし。あ、そうそう家が貧乏ってわけでもないから人にバカにされたこともなかったしネ!
そんな彼女たちは社会に出て初めて、クライアントやらおっさん上司のセクハラ発言やら嫉妬深い中年の女性上司の意地悪攻撃やらとの理不尽な果てしなき交渉に立ち向かうことになる。そして、あっけなく自我崩壊。鬱状態に陥ってしまい、出社拒否、という結果になることが非常に多いのだ。

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彼女たちは本当は、クライアントやらセクハラ上司やら意地悪女性上司やらに負けたのではない、と私は思う。彼女たちが負けたのは、本当は、自分自身だ。理不尽な人々の理不尽な行為に卑屈に対処しなければならない自分。その情けない自分の姿を何とかだましだまし受け入れることが、どうしても出来ないからこそ、彼女たちは一歩も前に進めなくなってしまう。

私はふだん、署名なしで書く或るウェブサイトのお仕事で、お医者様に日々インタビューを続けている。或る時、子どものアレルギーを専門とされる先生が、こんなことを仰っているのを聞いて膝を打った。
「アレルギーは、遺伝という先天的な原因から起こることがほとんどで、どうすることも出来ません。でも、子どもは免疫力が弱いためにそのアレルギー体質が激しく出るのであって、だんだんと、成長につれて免疫系統が強くなって行くと、アレルギー反応も少しずつ弱まって行きます。
ところが、今のお母さんたちは、お子さんを心配するあまり、アレルギー反応を引き起こす食べ物やハウスダストを、完璧なまでに排除しようとする。そうすると子どもたちは逆に、いつまでもアレルギーから抜け出せないのです。
アレルギーを抑えて行くためには、少しずつ、子どもの免疫力の発達に従って、アレルギーを起こす物質に触れさせなければいけません。そのときはもちろん多少のアレルギー反応を引き起こすことは覚悟しなければいけません。かなり強い発作が起こったり、湿疹がいっぱい出たり、つらいことがたくさんあります。でも、そうやって少しずつ慣らして行くことで、アレルギーと折り合いをつけられる体が作られて行くんです」

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このお話を伺ったとき、私は、私が目にしたたくさんの“社会に出て自我崩壊してしまう素敵な女の子たち”も全く同じ問題を抱えていると感じた。人は子どもの頃から長い時間をかけて、少しずつ、失敗、恥をかくこと、面子を失うようなこと…そういう“情けない自分”の姿に、自分を慣らして行かなければいけない…はずなのに、彼女たちにはそういう体験がなかったのではないだろうか?

飲み会や旅行などで夜も更けて行くと、
「私、中学の頃さ、ほんと数学が出来なくて、10点とか取って真っ青になって、ほーんとつらかったなあ。今でも数学のテストの夢見るもん」
「分かる!私は水泳が苦手でいつもビリで、水泳大会の日は何とか熱が出るようにって、1週間前から毎日シャワーを1時間頭に掛けたりしたよ~」(←実はこれ、私の話です)
「私は絵が下手でさあ。教室の後ろに貼り出されると明らかに私の絵だけへなちょこで、ほんと生き恥ってかんじだったなあ。図画の時間が吐き気がするくらい嫌いだった…」(←これも私の実話)
…こんな話に花が咲くことがある。どれも本人にとってはとてもつらい思い出だが、でも、本当は自分がこのような思い出を持てたことを、ラッキーと思わなければいけないのだ(だから堂々と書きました~)。
子ども時代の失敗、学生時代の生き恥など、何と言うこともない。何故ならばそこにはお金は関わっていない。生きることは関わっていないからだ。だからこそ、その“やさしい”環境の中で、思い切り失敗の練習をしておいた方がいい。自分の情けない姿、どうやっても上手く出来ない分野、そういうものを否応なしに心に刻みつける訓練をしておいた方がいい。そうやって、アレルギーに少しずつ慣れて行く子どもたちのように、失敗や、面子を失うことや、情けない自分の姿に慣れて行くのだ。

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先ほども書いたように、残念ながら社会に出れば、面子を失うことなど数限りなくある。これはアレルギーの子どもがそのアレルギー体質を遺伝によって先天的に持ってしまったことと同様、生きている以上決して避けることは出来ない現実だ。社会というのは先天的にそういう場であるはずなのに、自分はそこそこ何でも出来るなどと思い込んでしまうこと。そして二十何歳かになって初めて“どうにもならないこと”と出会って卑屈な自分の姿に生まれて初めて直面したら、一体どういうことが起こるのか?もろくも自我崩壊。出社拒否症の“素敵女子”の出来上がり、という訳だ。

だから、私は、この日記の前半で書いた「跳び箱補修クラス」や「鉄棒逆上がりクラス」に首をかしげてしまう。跳び箱なんて飛べなくてもいいし、逆上がりが出来なくて皆からくすくす笑われたって、本当はその子にとっては何よりも得難い経験になる。そうやって子どもは、恥をかかなければいけないのだ。
生きて行くことは楽じゃない。この楽じゃないという事実は誰にも変えることは出来ない。だったら、その中で何とか生き延びることが出来るための免疫力をつけることこそが、社会に出る前に必要な準備ではないだろうか?
情けない自分の姿に慣れること。どうやったって三流以下の自分の苦手分野がたくさんあることをよくよく思い知ること。その上で、どうやって、「自分が生きて行くためのお金を稼ぐのか?」を考えられるようになること。やられたら、上・手・く・¥やり返す。いつか見返すための力を蓄える。そういうしぶとさは、思い切り恥をかいてみない限り養うことは出来ないのだ。

私の意見は極端だろうか?でも、たくさんの女子たちを見て来て、私は自分の意見は決して間違っていないと確信している。
そう、この日記を読んでいるあなたがもしも女の子を育てていらっしゃるのなら、傷つかないように傷つかないようにと、大事に育て過ぎてはいけない。
また、もしもこの日記を読んでいる若いあなたが、だって私って自然に何でもそこそこ上手く出来ちゃうん素敵な女の子なんだもん、仕方ないじゃない、と思うなら、これからの人生ではあなたの身の上に「どうしてこんなにかわいくて頭が良くてスポーツも出来ていい家で育って正しいことをしている私の上にこんなひどいことが起こるの?!」と絶望したくなるような出来事が、か・な・ら・ず起こると思った方がいい。それに耐えられる力をつけるために、自分より更にとてつもなく能力の高い人々が集まる場所へ敢えて出て行って嘲笑されるなど、何らかの予行演習をしておいた方が良い。
或いは、そんなものは私は必要ない。だって私の能力はとてつもなく高いんだもの、どこへ行ったって何を始めたって必ず上手くやれるわ、と思うなら、他人はそんなあなたのことを激しく憎んだり妬んだりしていると思った方がいい。そしてその風が、否応なくあなたの身の上に吹き始めると思った方がいい。それがあなたの足を引っ張り、いつかあなたの命取りになると思った方がいい。どうやったらその風を和らげる人間になれるかを考えておいた方がいい。
まったく人生は楽じゃないのだ。

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