西端真矢

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「中国人の友だち」 2010/06/24



先週、大雨の降る夜、中国人の友人のTちゃんと食事をした。Tちゃんは上海生まれで、まだ二十四歳?二十五歳?北京の或る大学の日本語学科を卒業して、今は日本で働いている。

Tちゃんと知り合ったのは、2年前の冬だった。共通の知人がいたとか仕事の会合で席が隣りだったとか、そういう“顔の見える”つながりから知り合ったのではなく、実は、ネットを介して友人になった。私はふだん、“顔の見えない”関係が苦手でなるべくウェブ・ベースの交際はしないようにしている方だから、Tちゃんとのそのような出会い方は、例外中の例外だ。彼女と知り合った経緯を振り返ると、人と人との縁の不思議さについて、思いをめぐらさずにはいられない。

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“餃子事件”という事件を、今でも覚えている人は多いと思う。2008年1月、兵庫県と千葉県のスーパーで買った中国産の冷凍餃子を食べた家族が、重度の食中毒を起こした事件だ。
日中双方の警察が調べてみると、餃子には毒性の強い農薬が含まれていて、しかも、日本側の調査によれば、餃子が日本に運び込まれた後、毒性物質を混入させる機会は極めて乏しく、おそらく、どう考えても、中国国内を出る前に混入されたと考えるのが自然だった。
しかし、中国側はこれを真っ向から否定。面子にこだわり、どこまでも自分の非を認めない頑迷なその態度は日本人の感情を逆なでした。連日、中国に対する怒りの報道が続き、中国のイメージは過去最悪に近い状態に陥ったのだった‥。

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昔からの友人はよく知っているが、私は宿命的と言っていいくらいの中国好きだ。中国、香港、台湾に友人も多く、いつも日中関係が上手く行くように願っている。だから、靖国参拝問題、チベット問題、ガス田問題‥日中間で何かが起こる度に、いつも心を痛めて来た。
何しろ私の場合、恋人が中華人という時期も結構あるので(今はいませんけど!)、そういうときは、日中間の問題が自分の恋愛問題に発展する可能性のある、一種の時限爆弾になる。結婚願望はない方だけれど、人生には何が起こるか分からないのだから、私の場合、中華系の人と結婚する可能性だって結構あるだろう。日中間が紛争状態になれば、人生にものすごく大きな影響が出るのだ。切実に切実に、日中友好を願っている。

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そんな私だから、餃子事件が起こったときは、非常に暗い気持ちになった。ちょうどそのとき、大切に思う人はまたしても中華系の人だったから、暗い気持ちはよけい増幅されていた。何しろそのとき、電車に乗って吊革広告を見上げれば餃子事件、テレビを点ければワイドショーで餃子事件(憎々しげに中国混入説を否定する中国警察トップの記者会見)、新聞の一面も餃子事件、インターネット上には中国を罵倒する書き込みがあふれていた。「あーあ」とため息をつくしかない。
そんなとき、ずっと以前から参加していたmixi上の日中友好系コミュニティに、中国人の女の子が日本語で書き込みをしているのを偶然目にした。
その女の子は、北京の大学で日本語を学び、今、東京の大学に留学に来ている大学3年生だと言う。近所のレストランでバイトをしてるのだけど、お客さんはみんな中国の悪口を言うし、テレビを点ければ餃子事件の話題。新聞の一面も餃子事件、インターネットには中国を罵倒する書き込みだらけ。もう私、本当に暗い気持ちになっちゃった。何もかもが嫌になっちゃった。そう書き込まれていた。

その書き込みを読んだとき、心の底の深いどこかから、「何かしなければいけない」という気持ちが湧き上がった。紛糾する餃子事件に対して、微力ながら私が何か運動を起こす‥とかそういうことではなくて、この一人の中国人の女の子に対して、何かしなければいけない、と思ったのだ。

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昔々、中国に興味を持つずっと以前、まだ大学生だった頃から(ちなみにその頃の私はどちらかと言うとヨーロッパかぶれ。イタリア語をまあまあ話すことも出来た)、私はずっと国際交流ということに関心があった。そのときによく耳にしたことがある。
「日本人は、留学する人はそこそこ多く、それなりの体験を持って国に帰って来るけれど、留学生を受け入れる数は圧倒的に少ない」
それから、こんなこともよく言われていた。
「アメリカに留学すると、たいていの人はアメリカを好きになって国に帰る。でも日本に留学すると、かなりの人は日本を嫌いになって国に帰る。特にアジアの留学生は、たいていは日本を大嫌いになって国に帰る」
このことが、いつも私の心に棘のように刺さっていた。

日本人は、島国根性である。これは厳然とした事実だと思う。
何しろ数千年も、たまたま海に囲まれた国だったために、外国との大きな交流や大きな戦争や、そして、ここが一番大事なところだけれど、難しい政治交渉をすることなしに暮らして来ることが出来た。これほどどっとたくさん異国の人と交流するのは、本当に日本の歴史上、初めてのことと言って良いのだ。なかなか一朝一夕に「国際的」になれなくても仕方がない、と思う。
それより残念なのは、明治以降、日本人の中に培われてしまった根深いアジア蔑視の意識だ。最近は大分改善されているとは思うけれど、まだまだ、たとえば同じ言い間違いを白人さんがすれば尻尾を振って「チャーミング☆」と思う人も、背が小さくて黄色い肌のアジア人の留学生が間違えば「ち、ダサイ」と思う。そういう人がいるのは、残念ながらこれも厳然とした事実だと思う。自分も小柄で黄色い肌のアジア人なのにさ!そもそも小柄で黄色い肌で何が悪いんだ!‥と一人私が憤慨しても、差別意識というものも、なかなかそう簡単には消えてなくならない。

もともとの異文化交渉苦手体質とアジア差別意識、この二つを日々浴びせられれば、アジアからの留学生が日本嫌いになっても仕方がないだろう。でも、いつも思うのだが、これほど残念なことがあるだろうか?
例えば私は中国に留学して、楽しいことをいっぱい経験してもっともっと中国を好きになって日本に帰って来た。だから、日中間で何か問題が起これば、「確かにその問題は中国が悪いけれど、その裏にはこういう歴史的事情があってね」「日本から見えるのは共産党政府だけだけど、実は中国人の大多数も、決して共産党に心から賛同している訳じゃない。今のところ仕方がないから共産党体制で行ってるだけなんだよ」と、中国の現状を説明する、無償のスポークスマン役を買って出ることになる。留学生というのは、そういう存在ではないだろうか。留学生は国にとって大切な大切なお客様であり、一旦ファンになってもらえれば、高いお金を払って海外広報などしなくても、自然に日本という国の代弁者になってくれる、頼もしい人材なのだ。

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一つの国と一つの国が経済上の必要性から関係を持つようになれば、必ず利害の衝突が生まれる。100パーセント友好に進む二国間関係なんて、あり得ない。どこにも存在しない。そんなものを夢見ても意味がない。幻想に過ぎない。だからこそ、何かが起こったときに潤滑油が必要だし、その潤滑油の調整によって、妥協点を見出していかなければならない。それが幻想に惑わされない、現実に沿った二国間関係というものではないだろうか。
では、何が潤滑油になるのか?私の考えでは、それは、「相手の国を知っている人材」、これに尽きるのではないかと思う。

個人的な興味から、この数年、国際関係史に関する資料を大量に読み込んでいるが、二国間で政治的問題が発生し、その最も難しい局面に差しかかったとき、結局最後の武器になるのは、武力でも資金力でもないのではないかと感じる。それはただのカードに過ぎないのだ。カードを見せつつ、交渉の、本当の最後の武器になるのは、「相手の中枢部と直接話が出来る人材」「相手の国の話法にのっとって、こちらの事情を説明出来るような、そういう話し方が出来る人材」そういう人材を持っているか否か、そこにかかっているように思うのだ。
たとえば今回の普天間問題のような難しい問題が起こったときに、アメリカに乗り込んで政権の中枢部の人材と、どこかの暖炉のあるクラブハウスででもソファに足を組んで座りながら、何時間も話し合えるような人材。相手の国の言葉を使いこなしつつ、かつ、人間として好感を持たれ、一目置かれるような交際を、既にその国の人たちと何年も築いているような人材。そういう人材を多く持っているかいないかで、国際交渉の成敗は大きく分かれる。これは現代史が教える一つの事実ではないかと思う。

そしてこれは逆もまた然りで、自国から、相手の国に乗り込んで行くだけでは実は十分ではない。相手の国からこちらへと乗り込んでくれる人材を育てておくという発想も、同じくらい重要なのではないかと思う。
そう、それは、日本語を話し、何か二国間問題が起こったときに、その問題に関わる日本国内の重要人物と、例えば美しい日本庭園の見える日本料理屋辺りで何時間でも、腹を割って話が出来る人材。日本を愛し、日本の歴史を理解し、日本の国民性を理解した上で、今起こっている問題の妥協点を探り、本国に説明に帰ってくれる人材。そういう人材を育てているかいないかで、二国間問題の行方が大きく左右された例、これも、歴史の中で多数学ぶことが出来るのだ。
  
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‥だからこそ、2008年、「餃子事件」という笑ってしまうような名前の事件が起こり、ネット上の日中交流コミュニティで一人の中国人留学生が深い嘆きのメッセージ書き込んでいるのを見たとき、私は、「この人に、必ず連絡しなければいけない」と思った。
もちろん、私は、政府の要人でもないし、経済界の大物でもない。将来そんなものになる可能性も、こればかりは全くないだろう。でも、もしかしたらこの女の子は、将来中国政府の、或いは中国経済界のホープになるかも知れないではないか。もちろん、そんなものにならなくたって別にいい。中国の、ただの団地のおばちゃんでも全く構わない(中国にも団地があります!)。この人は、日本に興味を持って、上手な日本語を書いて、日本人の中に入り込んでバイトをしてみたりしている積極的な女の子だ。こういう人をみすみす日本嫌いにして国に帰すほど、馬鹿げた、悲しいことはないじゃないか。何の因果か私は中国を好きになって、かつて中国でたくさん楽しい思い出をもらって日本に帰って来た人間なのだから、ここで一つ、中国に恩返しをしなければいけない。じゃなければ男が、いや、女がすたると言うものではないか。骨の髄まで水滸伝的に義侠心気質の私は腕をまくり、この女の子に連絡を取ることにした。それが、Tちゃんだったのだ。

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Tちゃんとは、その後、吉祥寺で会った。
何しろ吉祥寺と言えば女の子が反射的に「わー!」「かわいい!」と声を上げてしまう女子心くすぐり系雑貨屋さんの宝庫だ。そんな店を何軒か案内して楽しんでもらい、それからカフェでお茶をしてその日は別れた。「日中間の未来や如何に」など、難しい話をした訳ではない。最初に出したメールに、確か、
「日本人にも色々な人がいます。全員が中国を悪く思っている訳ではないから、日本のことを嫌いにならないでください。良かったら、ちょっとお話しませんか」
といったようなことを書いた記憶はあるが、実際に会った後は、難しい話は一切しなかった。お互いを知るための、普通の自己紹介と普通の会話、交わしたのはそれだけだった。

それから、また別の日、中国好き・アジア好きの友だちとの集まりに、Tちゃんを連れて行った。皆で中国映画を観に行ったりホームパーティーを開いたり‥そのうち、私なしでもTちゃんとそれぞれのメンバーが会うようになり、新しい友人関係が生まれたことは、私にとって何よりも嬉しいことだった。これでもうTちゃんも、“日本嫌いの留学生”にはならないに違いない。

やがてTちゃんの留学期間も終り、北京の大学に戻ることになった。向こうでの大学生活はあと1年。皆で開いたお別れの食事会の日、Tちゃんは、「これから就職活動が始まるけど、出来れば日本企業の中国支社か、中国企業の日本関連部門なんかで、日中貿易に関わる仕事をしたい」と言った。これからも日本に関わろうとしてくれてるんだ!またの再会を約束して、皆からの寄せ書きをTちゃんに贈った夜だった。

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それから、半年後。Tちゃんのmixi日記に「日本企業に就職が決まりました」という書き込みが入った。そのわずか1年半ほど前、「もう何もかもが嫌になった」と書かれていたのと同じmixiの上に!
時はちょうどリーマン・ショックの打撃が一番大きいときで、日本人学生でさえ就職が決まらない人が大勢いる中、成長株のネットワーク企業の営業職として、内定が出たのだ。おそらく、将来の中国進出を睨んでの人材の先行投資だろう。「9月からは、会社が用意してくれた寮に住み、東京の都心のオフィスで働きます」‥期待でいっぱいのTちゃんの日記を読んで、深い感慨を覚えずにはいられなかった。

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それから、約10カ月。仕事に慣れて来たというTちゃんから、「久し振りに食事しよう」という連絡をもらった。Tちゃんは吉祥寺に良いイメージを持ってくれているらしく、吉祥寺で会いたいと言う。そして先週、二人で食事をすることになったのだ。

そうして久し振りに会ったTちゃんの、成長ぶりは私の想像以上だった。文系出身だと言うのに、同じく文系の私にはさっぱり分からないネットワーク?ソリューション?セキュリティ?システム?の仕組み?を完全に理解し(しかも日本語で!)、それを日本企業や日本国内の外資系企業に、営業マンとして売っていると言う。更に今はまだお客さんの大部分が英語圏出身のため、英語でセールストークをしているとか。
「Tちゃん、英語出来たんだっけ?」
「あんまり出来なかったけど、毎日使っているうちに今は大丈夫になった」

更によくよく話を聞いてみると、同僚・先輩の日本人ともとても上手くやっているようで、色々話してくれるこぼれ話が面白くて思わず大笑いしてしまう。同期の日本人の女の子の中には仲良しがいるそうで、3時には二人でお茶タイムを取ったりもしているとか。寮の部屋の写真もすごくきれいだったし、何もかも順調な社会人生活のスタートのようだ。あっと言う間に時間が過ぎて、また時々食事をしようねと約束をして吉祥寺駅まで見送った。

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Tちゃんを見ていると、まさに今世界に伸びようとしている、新しい世代の中国人の力を感じる。
中国人本来の積極性と、中国という大競争社会を勝ち抜いて来た底力。基本的能力の高さ。更に、日本語と英語を使いこなし、これからの世界最大市場の言語・中国語を、ネイティブとして使いこなすことが出来る利点。そしてここが一番重要なことだけれど、中国では何がマーケティング的に刺さるのか、肌で理解してもいる。更に、ITビジネスにも強い。これからの世界のトップ・エリートは、間違いなく、彼女のような人材だろう。こういう人材が日本ファンでいてくれることほど、頼もしいことはないではないか。
おそらくこれから彼女は、会社の当初の期待通り、この日本企業の中国進出の斥候隊となって中国市場へと乗り込んで行くのだろう。こういう人材を時間をかけて育てようとする日本企業もなかなか抜け目ないなと感心させられる一方、はたと考えたりもする。そうやって、いつか彼女が中国へ“出て行く”とき、彼女は一体、日本企業のために働いているのだろうか?母国・中国のために働いているのだろうか?と。
おそらくそれは彼女自身にもよく分らないことなのだろう。彼女は自分自身のために働き、そしてその彼女自身は、中国にも塗られているし、日本にも塗られている。これからのアジア世界は、そのようにして成立していくのだろう。

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ほんの数年前、傷ついた弱々しい留学生だった彼女に、今は教えられることが大変多い。いつも私はこのようにして中国とは好運(ハオユン)=ラッキーが続くのだが、それはきっと私の記憶にはよみがえらない、あの広大な大地の国の人たちとの何十世代も前からに亘る因縁からやって来るのだと考えるのは、夢見がち過ぎるだろうか。今夜は秘蔵の茉莉花茶でも飲んでみようか。

「お着物の記 三 クソ欧米ナイトにて」 2010/06/16



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先週日曜日、お着物で外出。
世田谷区下馬にある「下馬土間の家」で開かれた文化系シンポジウム、「原理主義ナイト」に参加しました。

下馬土間の家は、築80年ほどは経っていると思われる古い日本民家を改造した、ギャラリー兼住居。農業を中心に、現代日本社会の諸問題に!日本アート界の諸問題に!切り込む団体「ナリワイ」が運営しています。
http://nariwai.org/

では、「原理主義ナイト」とは何かと言うと、今、日本人が日々の生活の中で感じるもやもやとしたあれやこれやの問題、何でこうなってしまったんだろう?と考えて行くと、行き着く先は200年前、そう、ちょうど今の大河ドラマ「竜馬が行く」の時代に明治維新で無理やり股を、いや失礼、国を開かされて欧米基準に合わせようとした、その無理がたたってこうなっているんじゃないか?そもそも欧米基準に合わせる必要なんて、我々日本人にはあったのだろうか?そんなに欧米さんは偉かったのか?欧米さんに考えなしにおもねってしまった日本人の奴隷根性を、ここらでいいかげん何とかしないといけないんじゃないか?‥そんな問題意識、一言で言うと「クソ欧米主義」を掲げる、めちゃラディカルな勉強会なのです。
毎回、気鋭の若手研究者が自分の研究テーマを軸に、「クソ欧米主義」をめぐってラディカルな発表を行い、発表の後は参加者から活発な質問や議論が飛び交う‥という素晴らし過ぎるシンポジウム。(毎回、参加者は25名くらい) これまでに2回行われていたものの、私はいつも原稿の締め切りに追われて参加出来ず、今回やっと参加することが出来ました。
‥で、「クソ欧米主義」に敬意を表して、着物を着用。会場に着くと、ナリワイ主宰の伊藤洋志くんも、当日の発表者奥田あゆみちゃんも着物で参加していたので、めちゃテンション上がる!‥なのに、三人で写真撮るの忘れた‥(号泣)

‥と、そんな私的問題は良いとして、当日の奥田あゆみさんの発表は、「明治日本における「芸術」概念の輸入をめぐる問題~~特に絵画を中心として」とでも要約すべき、非常に面白く、非常に難しい問題をめぐって行われました。
慶応大学・東京大学大学院を通じてこの問題を考え続けている奥田さんの論の立て方は大変緻密で洞察は非常に深く、発表終了後も参加者から次々と質問や意見の表明があり、まだまだ議論し足りなかった!というのが本当のところ。私も大変大きな示唆を受け取りましが、それが自分自身が持っている命題とどのようにつながっているのか‥ということをここで書いていると軽く卒業論文一冊分くらいにはなってしまいそうなので、今のところは脳内に納めておくとします。
何はともあれ、発表も、参加者のレベルも非常に高いこのイベント「クソ欧米主義 原理主義ナイト」はこれからも続いて行くので、また是非参加しようと思います。

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さてさて、女の子読者が楽しみにして下さっているので、当日着て行った着物について書いておくと‥
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*綿の単衣(ひとえ)の着物。単衣とは、裏地の付いていない薄手の着物のこと。6月1日の衣更え後、6月いっぱい+夏が終わった9月、のたった2カ月の期間だけ着る着物です。
綿の着物は、いわゆる普段着の着物。今回のように民家で開かれるイベントにピッタリだと思って択びました。

*この着物は、最近入手したもの。でも、実はお店で買ったものではないのです。
先月の終り、mixi内のお着物コミュニティで、原宿に住む或る女性からこんな呼びかけがありました。
「愛知の実家のお蔵から、おばあちゃんの着物がたくさん出て来ました。私にはサイズが小さくて着られないので、小柄な方に安値でお分けします」
それに答え、「是非頂きたいです!」という声が続々高まったため、結局その女性のご自宅で頒布会が開かれることに。私も参加して、二枚の単衣を購入させて頂きました。おそらく一度も着ておられなかったようで、大変きれいな状態の着物を入手出来てハッピー。
この女性のご実家はお寺だということで、今回の頒布会の収益は古くなったお寺の建物の修繕費に充てるそう。そんな素敵な目的にお代が使われると知って、ますますハッピーな気持ちになりました。

*話はちょっと変わりますが、私は、着物は、派手が好みです。
渋い江戸趣味ではなく、明るく華やかな気分になれる派手な着物、派手な組み合わせが大好き。母方の曽祖母二人が金沢の出身なので、おそらくそのDNAが知らず知らずのうちに、私を派手着物へと誘導しているのではないかと感じます。
常々思っていることなのですが、最近の若い女性は洋服の考え方をどうしても引きずってしまうのか、若いうちから地味な着物を着ようとするのが、私にはとても残念なことに思えます。私の記憶の中でひいばちゃま(←曽祖母のことをこう呼んでいた)が着ていたような、地味~な着物を着て「粋だ」と思い込んでいる二十代・三十代の女性を見かけるにつけ、思わず首をかしげてしまうのです。
若いうちはもっともっと、日本の派手な色ととことんつき合って、遊ばなきゃ、格闘しなきゃ!そして年をとって落ち着いて来たら、渋い色を着こなす!これこそが本当の着物とのつき合い方だと思うのですが、まったくもって洋服文化に毒されてしまった現代の日本女性。ああ、これこそ正にクソ欧米主義の悪影響なのかも知れません。
確かに侘び茶に代表されるように、日本人には渋好みの感覚もありますが、決してそれだけではない。友禅や金屏風に代表されるような、日本人の絢爛豪華・派手好みDNAよ、目覚めよ!と叫びたいのです。
‥と言う訳で、長くなりましたが、今回私が択んだ着物も、派手で元気な橙々色と黄色。模様は矢絣(やがすり)模様です。

*帯は、もともと家にあった絹の平織り花模様。この帯、どんな着物にも合うのでとても重宝します!

*今回は帯締を黄色にして、全体を引き締めてみました。

*帯揚げは、白から水色へと色変わりしていく絹の縮緬(ちりめん)地。途中途中に青の絞りで紫陽花(あじさい)の花が描かれているので、今の季節にピッタリだ!と択びました。‥と言っても結んでしまうと紫陽花だか何なのだか、見る人には全然分からないのでほぼ自己満足の世界ですが‥

          *

今回すごく嬉しかったのは、以前から顔見知りだったあゆみちゃんが、お着物好きだと判明したこと。私と同じくおばあちゃん・お母さんの着物が大量に家にあるらしく、好敵手現る!といったところ。これから二人であちこち着物で出かけようと誓い合いました。
そして、「原理主義ナイト」主宰のピンポンダッシャーちゃんも、今後お着物をどんどん揃える予定なので(着付け教室も一緒に通うかも~)、お着物友だちがまた一人周りに‥。ああ、真剣に嬉しい。

更に驚いたことに、ごく最近某編集プロダクションから新しい仕事の依頼があり、打ち合わせに出かけてみると、何と所在地は浅草。浅草と言えば呉服店や和装小物の聖地!打ち合わせの後、蟻地獄にはまったようにぐるぐる歩き回り、なかなか家に帰れませーん。
‥そんな訳で本が出るまでのこれから数カ月、浅草に頻繁に通うことになりそうです。ますます坂本竜馬並みに前のめりにお着物街道を驀進する私なのです‥

「天才画廊オーナーになるための資質~~会田誠『絵バカ』展にて」 2010/06/10



先週、市ヶ谷のミズマアートギャラリーに、会田誠の新作展『絵バカ』を見に行って来た。
会田誠はとても好きな美術家で、初めて『雪月花』と『紐育空爆之図』を見たときの衝撃は今も忘れられない。
彼の作品が素晴らしい理由は、画力もさることながら作品に込められた政治性と歴史性、そしてそれを操縦する知的な企みぶりがずば抜けているからだと思うのだが、その三つの特性は今回も健在だった。中でも、横幅7メートルの巨大なキャンバスに累々と重なるジャパニーズ・サラリーマンの死骸を描いた『灰色の山』は傑作だと思う。
http://mizuma-art.co.jp/exhibition/1269584444.php

会場で配られていた解説によれば、この作品に対して会田誠は「深読み歓迎」と言っているそうで、それは例えばその解説の中でも語られている通り、彼の以前の傑作画『ジューサーミキサー』(大量の裸の女性がミキサーにかけられている絵)と対になる作品であると考えるとすれば、女性が死んでいくとき(或いはミキサーのような否応ない力で殺されていくとき)、裸である、ということと、男性が死んでいくとき、背広を着ている、という一点に注目することでも果たされるだろう。

そう、福島瑞穂元大臣や蓮舫現大臣がどんなに奮闘努力しようとも、或いは倉田真由美夫や宇宙飛行士山崎直子夫が男としてどんなに挫折しようとも、2010年現在の日本社会において、男が圧倒的に公的であり、女の大部分は圧倒的に多く私的領域に足を置いている。
これは厳然とした事実であり、男女双方とも、その事実を或る男女は好んで、或る男女は嫌々ながら受け入れて生きている訳だが、そうやって生きて行くときに予想外に受けとってしまう「死んでしまうような」心の傷は、全て、その事実から生まれて来るのだということを、改めて認識させてくれる二枚のシリーズ作品となった訳である。


また、先の解説によればこの作品は、藤田嗣治の戦争画『アッツ島玉砕』へのオマージュでもあるということで、ここでも作者自身に挑発されて深読みを試みてみれば、無謀な見通しで突っ走った太平洋戦争でアメリカ軍にこてんぱにやられながらも捕虜になることを拒否して更に無謀な徹底抗戦を続け、累々と折り重なった日本軍兵士の死体を描いた藤田の『アッツ島玉砕』に対して、戦後モーレツ・サラリーマンとして働いて働いて働いて働いた(=徹底抗戦した)にも関わらず、現在、敗色ムードが色濃くただよう日本経済、日本サラリーマンの姿を、『灰色の山』は表わしているのだ、という見方も出来るだろう。

また、藤田と言えばフランス在住時代に見られる独特な乳白色の白が有名だが、戦争中、日本に帰国して描かれた戦争画のシリーズには、その独特の白は全く見られない。
『アッツ島玉砕』に至っては、全面が血、或いは苛烈な戦場の土を思わされる赤茶色で覆われており、会田誠がその『アッツ島玉砕』へのオマージュとして『灰色の山』を描くとき、敢えて、積み重なったサラリーマンたちの死体のシャツの色を藤田の“乳白色の白”に近い色で描くところに、彼の知的企みの奥深さと、それ故に、強烈な悲劇性を感じとることが出来るのだ。

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話は少し変わるが、昨年の夏、日比谷で開かれた高橋コレクション『neoneo展 ボーイズ』を見に行ったとき、そこに集められた日本の若手男性作家たちの“内向きかげん”=“政治性と歴史性のあまりにも大きな欠如”っぷりにげんなりさせられたものだが、そこに、美術に限らず現代日本サブカルチャー全ての問題が集約されているようでもあり、また、そこから全てを始めなければいけないと思うとき、まずは大先輩である会田誠の企みを見つめてみることは意味があると思うのだ。

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この展覧会でもう一つ面白かったのは――絵としては好きではないが――もう一つの大作『万札地肥瘠相見図』に描かれた会田誠のサインだ。横幅が10メートルもあるその大作の最右手に、縦書きに、

  雪舟三十代画狂人
  法橋狩野天心誠

という号が入っている。
これは、日本美術史に関心を持つ者なら思わずにやりとさせられる号であるだろう。
何故ならばたとえば「雪舟三十代」とは、長谷川等伯がかつて自分の絵に「自雪舟五代」と号を入れたものをパロディーした言い方であるからだ。それは、「偉大な水墨画家・雪舟から数えて自分は五代目の画人である」という等伯の高らかな芸術家宣言であり、それから400年を経た現代日本で、会田誠は、「我こそは雪舟から数えて三十代目の画人である」と宣言していることになる。
そして、「画狂人」とは、浮世絵の天才絵師・葛飾北斎が自らを称した別名「画狂老人」のパロディーである。「法橋」とは江戸時代の画家の位階(公家から与えられるもの)であり、例えば尾形光琳も法橋だった。『燕子花図屏風』など、「法橋光琳」と号した絵が幾点も残っている。そして「狩野」とはもちろん狩野派のことであり、天心とは、会田誠の出身大学・芸大の創設者である岡倉天心のことである。

‥つまり、会田誠は自作にこのような酔狂な号を入れることで、自分はこの日本という国で、雪舟以来三十代目の画家であり(その三十人の中に誰が入ると考えているのか、本人に聞いてみたいもの)、そこには、日本画の全ての系統、すなわち、雪舟=水墨画、狩野=狩野派、法橋=大和絵(光琳は大和絵の系譜)、画狂人=浮世絵、そして、天心=ぶかっこうに西洋画を真似た明治以降の日本アート、その全てを継ぐ者として「誠」、自分、会田誠がいる、と宣言している訳である。
繰り返すようだがこの『万札地肥瘠相見図』は絵としては私は全く好きではないが、この号に込められた会田誠の深く強い覚悟は素晴らしいではないか。大いに心動かされてミズマを去ろうとしたのだった。

          *

ところで、そのとき、画廊のドアの前で私は一旦立ち止まった。ドアの左手横には細いカウンターがあり、上にも何回か引用した解説の紙や、会田誠の作品集が置いてある。帰り際までそれに気づかなかった私は、解説の紙をもらって帰ろうとカウンターの前に立ち止まったのだ。
そのとき、ふと気がつくと、私の横に背の高い初老の男性が立っていた。薄い水色のような灰色のような素敵なスーツを着てポケットに手を入れた男性だ。その男性が急に大声で言った。
「この奥にも展示スペースがまだありましてね、そこにも会田誠の小さな作品を何点か展示していますから、見て行って下さい」
私の後ろには他にも数人、お客さんが三々五々に立っている。どうやらこの人は、その全員に語りかけているようだった。

「この奥って言われても‥」
と私は思った。何故なら男性が指差す“この奥”には、『2001年宇宙の旅』のモノリスのような大きなしゃれた衝立が立ってはいるものの、どうやらそのすぐ後ろからはミズマアートギャラリーの事務スペースになっているようであり、ずらりと並んだ机に向かってギャラリストたちが電話を掛けたりパソコンを打ったりと、非常に忙しそうに働いている。人のオフィスにずかずか入って行くなんて申し訳ない‥と私たちはためらってしまったのだ。
「どうぞどうぞ、入って入って。入って突き当たりを左です」
と、その中年男性はにこにこしながら言う。そのときはたと思い出した。今日、最初にミズマのドアをくぐったときも、私はカウンターの後ろのモノリス衝立の後ろの事務スペースをちらりと見たのだが、そのとき、一番奥の、一つだけこちら向きに置いてあるいわゆる“偉い人席”に、この男性が座って何か大声で話していたことを。

「と言うことは、この人がオーナーのミズマさん?」
と私は思った。寡聞にして日本現代美術の大立者、三潴氏の顔を私は知らないのだ。だか、ここまで堂々と「どうぞ中に入って下さい」と言うからには、おそらく彼がここのオーナーなのだろう。私が思案している間にもその“おそらく三潴氏”はにこにこと私たちを促し続け、とうとう、そういう時つい先頭に立ってしまう私はずかずかとオフィススペースへと足を踏み入れることになった。お仕事中の皆さんの横を通り抜けて言われた通りに突き当たりを左に曲がると、確かに、そこにはもう一つの展示スペースがあり、会田誠の写真作品が数点飾られていた。
そしてその向かい側には、現代解釈と言ったら良いのだろうか、黒い畳を敷いたネオ茶室があり、その床の間にも、盆栽をパロディーした会田誠の盆栽風アート作品が、茶道における茶花のようにうやうやしく飾られていた。
「面白いなあ」と思いながら見ていると、いつの間にかまたもや、先ほどの男性が横に立っている。体が大きいにも関わらず、どうやら自由に存在感を出したり引っ込めたり出来る人のようだ。
「どう、面白いでしょう?」
と言うように男性はにこにこ笑っている。思わず私は、
「ここで本当にお茶を点てられるんですか?」
と訊いてしまった。点てられるし、この間も本当の茶人に来てもらってお茶席を設けたんですよ、とその“おそらく三潴氏”は教えて下さった。そもそも大徳寺内の茶室を模して作ったのだという解説も続き、そしてやおらくるっと後ろを振り向くと、今度は私の後から入って来て写真作品を見ている二人組のお客さんに、
「ここに写ってるモデルね、篠山紀信もこの間被写体に使ったんだよね。篠山紀信と会田誠が偶然同じモデルをいいなと思った、っていうのが面白いよねえ」
と大声で話しかけている。そしてまた私の方へと向き直ると、茶室の壁に掛けられた会田誠の絵を見ている私に、
「この小さな絵がね、向こうの『灰色の山』の最初の構想図なんですよ。画家って面白いよね!こんな小さなものからあんな大きい絵を作っちゃうんだから」
と、おそらく今日まで何百回も何千回も心に抱き、おそらく人にも何百回となく語って来ただろう会田誠作品への感動を、まるで今初めて思いついたかのように、その“おそらく三潴氏”は私たちに語るのだった。

          *

その姿を見ているとき、ふと、別の人のことを思い出した。誰かと言えば、4月に仕事でお会いした東京画廊オーナー、山本豊津さんだ。
東京画廊は、モノ派を育て上げるなど、日本現代美術の最も草分け的な画廊であり、2000年代からは中国にいち早く進出。現在、世界現代美術の中心地の一つである七九八芸術地区を、中国人と共に作り上げて来た立役者的画廊だ(七九八内の画廊は「北京東京芸術工程」と言う)。その先見の明は素晴らしいと、常に尊敬の念を抱いて来た。

そのオーナーである豊津さんも、お会いしてみると、とにかく喋りまくっている人だった。
話は次から次へと展開し、それは例えば、誰かがAについて言及すると、Aに対する自分の意見、Aの歴史的背景、Aが実はBという別の事象とこうつながっているのではないか‥などなど、話は縦横無尽にほとばしるように展開して行った。そしてとても素晴らしいことには、豊津さんのそれが、決して誰かの受け売りのこれみよがしの知識披露ではなく、ご自分の実感に基づいた、どっしりとして情感と情熱あふるる、分厚い見解であることだった。そしてこれも大事なところだが、どこか、底抜けに明るいのだ。
「この明るさ、このほとばしるような会話のスピード、この屈託のなさ‥。似てる!」
再びミズマアートギャラリーの場面に話を戻すと、会田誠作品について大声で語る“三潴氏らしき人”を眺めながら、私はこのようにして、東京画廊の山本豊津さんを思い出していたのだった。

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これまで一度も画廊を経営しようなどと思ったことのない私だから本当のところは分からないが、画廊オーナーと言うのは、かなり大変な仕事なのではないかと思う。
何しろアーティストは皆変人ばかりだ。恐ろしく内向的な人もいるだろうし、その反対に、うんざりするほど露出好きの人もいるだろう。意外と異常にお金に細かい人も多そうだし、全く金勘定が出来ず湯水のように金を使ってすぐ画廊に借金に来る人も多そうだ。学者タイプもいれば犯罪すれすれの変態もいるだろうし、全く自信のないくよくよ型もいれば、「俺様が世界一」と365日24時間思い続けていられるようなタイプもいるだろう。とにかく面倒くさい人間ばかりだろうということは、容易に想像がつく。

そして画廊のオーナーは、何と言っても作品を売らなければいけない。もちろん、サラリーマンの方がこつこつとお金を貯めて自分の大好きな作品を一枚、と買って下さる素敵なケースもあるだろうけれど、たいていはその買い手は“大金持ちさん”だ。
思うにこの大金持ちと言うのもきっと、意外と異常にお金に細かい人が多そうだし俺様が世界一だと24時間365日思い続けている人も多そうだし犯罪すれすれの変態もいるだろうし恐ろしく内向的な人もいるだろうし全く自信のないくよくよ型も多そうだし‥要するに、アーティストと同じくらい面倒くさい人種だろうということは、容易に想像がつく。

ギャラリー・オーナーという職業は、日々こういう人々の間を行ったり来たりしなければいけないのだ。普通の人なら3日もやれば辞表を書きたくなるのではないだろうか?
しかし、ギャラリー・オーナーとは、自ら望んでその燃え盛る火の中に飛び込み、それどころかますます自分で火を煽って、にこにこと大声で話し続けていられる人なのだろう、きっと。‥と、東京の二人の偉大な画廊オーナーとたまたま立て続けにお会いして思うのだった。

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そのようなギャラリー・オーナーたちを支えるのは、もちろん、芸術への愛であり、もっと詳しく言えばそれは、「面白いものが見たい」、見たことのないものを見てみたい、自分が一番先に発見したい、発見したら世に紹介したい、という、とてつもなく素直で、とてつもなく純粋な、本物の好奇心なのだろう。
その好奇心には世間的な基準など意味を持たない。だから、その日、私はわりときれいめなワンピースを着ていてむきゅきゅなかわいいサンダルを履き、一般的な基準から見れば全くアート関係者とは程遠いOL風女子の外見でいた訳だけれど、「この絵いいでしょ!面白いでしょ!」と、三潴氏はにこにこ話しかけて来る訳である。私に大声で宣伝したって、一文の得にもならないだろうに‥。
そしてくるりと振り返り、同じ場にいた他のお客さん(ファッション関係の学生さんというかんじの方々)にも、同じようにエネルギッシュに話しかける。彼らに話しかけても、おそらく貧乏だろうし一文の得にもならないだろう。でも、話しかける。そこには損得など関係ないし、“アート系の人vs一般サラリーマン”といった“人種差別概念”もない。「これ面白いよね!」「いいよね!」「何で面白いかって言うと俺はこう思うんだけどさ‥」という、とてつもなくとてつもなく素直な好奇心があるだけなのだ。

ミズマアートギャラリーを出て市ヶ谷の堀端を気に入りのサンダルで歩きながら、今日はかなり得した日だと私は思った。だって、好きな作家のいい絵を見て、その上、東京のギャラリーオーナーの真髄にも触れたのだ。
私たちは絵を見て時にその優劣を論じ、特に古い日本美術などを愛する者は贋作と真作の判別に忙しく、それに長けた者を“目利き”と呼んだりもする訳だけれど、その日、私は、本物のギャラリーオーナーの見分け方について、少しだけ目利きになったと思ったのだった。

「凝り性の女」 2010/06/04



たぶん、私は、ものすごく凝り性だと思う。
肩こりがひどくて過去に何度か頭に血が回らなくなって倒れたことがあるけれど、それと同じくらい、物事に一旦はまるととことん止まらなくなる方の凝り性も、かなり重症だとやっと自覚するようになった。
一般的に、凝り性な人は得てして飽きっぽくもあるものだけれど、私の場合は非常に粘着質で、ずっとずっと、一旦はまったものを追いかけ続ける。だから毎日やることがいっぱいあり過ぎて目まぐるしく、きっとこうやってバタバタしているうちに死んで行くのだろうとも思う。もうこれ以上のめり込む対象を増やしたくはないのだけれど、そういうものは恋と同じように、ある日突然どこから飛んで来て私たちの心をとらえるのだ。逃げようがない。私たちは否応なしにそれに取り込まれてしまう。

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思えば、この凝り性の兆候は、小学生の頃からあった。
小学校の3年か4年の頃、突如私は日本古代史に目覚めて、毎日毎日卑弥呼だの邪馬台国だの古墳だの埴輪だの大化の改新だの縄文土器だのに明け暮れ、宿題が出ていた訳でもないのに、勝手に「古代新聞」や長い長い絵巻物のような古代年表を作り、先生に教室の壁に貼り出してもらっていた。勉強嫌いの同級生から見たら、かなりうざったい同級生だっただろう。
やがて6年生になる頃には、子ども用の歴史書は全て読破してしまい、物足りなくなって来て図書館の大人室(と呼んでいた)に出入りするようになった。司書の人に驚かれながら、梅原猛先生の『隠された十字架』などを読みふける小学6年生。豆古代史マニアだった。
 
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この頃の私の古代史熱中ぶりには、その後の人生全ての熱中のプロトタイプがあるように思う。
つまり、私の場合、たとえばリカちゃん人形や何かのキャラクターのように、ただ「小さくてかわいい」とか、アイドルスターのようにただ「憧れの存在」とか、自分でお料理を作ると「美味しくて楽しい」とか、楽器を弾いたりスポーツをしたりして「体を使って何かを楽しむ」とか、そういうことはそれなりにたしなむものの、大して熱中は出来ないのだ。私の場合、そこに何か歴史とか思想とか壮大で重厚なストーリーがどこまでもこまでもつながっている、そういうものに心をつかまれる傾向があるようだ。
それも、私の場合、漫画や歌謡曲、テレビドラマ、アイドル、B級おもちゃ、アングラ演劇‥そういうサブカル的なものでは――私に限っては――“降りて”来ない。私が心をつかまれるのはいつも、正統的で、伝統的で、オーソドックスで、学問的な何か。そういうものが10年に1度くらいのタームで、運命的な恋のように私にとり憑いてしまう。そういう人生をどうやら私は生きているらしいのだ。

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小学校後半の古代史熱は、そんな私の面倒くさい人生傾向の“序曲”として幼い私を訪れ、中学に入るとスッと冷めてしまった。その頃、人並みに思春期を迎えた私は社交活動に忙しく、たぶん一旦気が散ってしまったのだと思う。
本格的に“狂信的な熱中”が私をとらえるのは、高校1年のときだ。その年、倫理社会の授業で私は青柳先生という先生の講義を受けた。先生は高校生だからと見くびることなく、私たちに正統的な西洋哲学の講義を堂々と開陳して下さった。先生こそは私が恩師と呼べる方だと思っているが、そこで私は初めて本格的な西洋哲学の魅力に触れ、「哲学的に考えること」、要するに「哲学をする」ということの面白さに、熱狂的にとり憑かれてしまったのだった。
時はバブル経済の真っただ中。私は今思い出しても吐き気がするような浅薄な同級生が大半を占める軟弱私立高校の中で(彼らにはせっかくの青柳先生の講義も、1ミリもその価値が伝わらなかったに違いない)、一人、「哲学科に進学しよう」と決意を固めていた。私の高校は大学までの一貫教育だったので、よっぽどひどい成績を取らなければそのまま上に進学出来たけれど、哲学科はない。
「外の大学に出て、西洋哲学を基礎からしっかり学ぶんだ」
と、高校2年の終りから突如受験の猛勉強を始めることになった。大学も、哲学科のある所しか受けない、と心に誓う。学科で受験出来る大学は全て哲学科で受験した。そして1年後、念願の哲学科生になり、ソクラテスから始まって延々現代へと続く、哲学の道の一巡礼者になったのだ。――これが私の最初の凝り性だった。

私の場合、何かに凝り始めると、それは趣味というおとなしい領域にとどまってはくれず、生活の、いや、人生の全てに影響し始める。まだバブル真っ盛りだった当時ですら、「哲学科なんかに進学して、就職が大変よ」としたり顔で忠告してくれる人がいたけれど、そんなことは意に介さなかった。これは熱病であり恋であり、後先など考えていられない。ヨシオさんのことが好きだけど、彼、お金がないから、将来のことを考えるととっても不安。結婚はヒロシさんとするわ‥なんてことは私には出来ない。一切の打算なく、つぎ込める愛の全てつぎ込む。それが私の凝り性であり、正に純愛そのものと言っていいと思う。

そして、その哲学という凝り性は、二十六歳のときに突如終焉を迎えた。それは、この年に、「哲学が分かった」と思ったからだ。特に最後の1年は、美容ジャーナリストの斉藤薫さんの事務所でアシスタントのアルバイトをしながら、定時に家に帰るとひたすら家にこもり、ヴィトゲンシュタインの本を一字一字、血のにじむような思いで読み込んでいた。彼の『哲学探究』という分厚い著作を、「分かるまで次の行に進んではいけない」というルールを決めて、徹底的に読み込んでいたのだ。イギリスから英語版も取り寄せて詳細に文章を比較し、分からないときは日本語と英語、両方でひたすらヴィトゲンシュタインの言葉を写経した。休みの日もどこへも出かけなかった。心配した母親から、「少しは遊びに行ったら?」と言われたほどの集中状態。そして1年ほど経ったとき、「哲学が分かった」と思ったのだった。

その頃のノートと『哲学探究』
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その解脱体験の後、少ししてから次の熱中が訪れた。
それは哲学のときと同じように、或る日突然空から私の心臓めがけて降って来た恋だった。いや、正確に言うと空からではなく、それは映画館のスクリーンの上から降って来た。その情熱の名前を“中国”と言う。
このことについては前にmixi日記で書いたことがあるので詳しくは書かないけれど、或る日観た王家衛(ワン・カーウァイ)の映画が、私の心に決定的な刻印を残した。その日、家に帰ってからも映画の中の音楽が耳を離れず、目の上にスクリーンが張りついてしまったように、登場人物たちが私の前で体をくねらせていた。私は、
「決めた。明日から、毎日中国映画を1本ずつ観る」
と誓った。私の恋愛はいつも処女的であり心中的であるから、心に決めたことは必ず実行する。その日から、私は本当に、1年間、1日1本ずつ、中国・台湾・香港映画を見続けた(1日に1本以上の映画を観ると印象が混乱するので、必ず1日に1本と決めている)。そして、このような素晴らしい映画を産み出せる中国という文化は、一体どこから生まれ、今どういう状態にあり、これからどこへ行くのか?と、突如として足繁く図書館の中国史コーナーに通うようになった。
もちろん、中国映画、特にその頃隆盛を誇っていた香港映画への傾倒もどんどん深みへとはまってゆき、あらゆる香港映画特集の雑誌を買いまくってレオン・カーファイだのトニー・レオンだのレオン・ライだのといった紛らわしい名前を漢字表記と併せてまるで受験勉強のように次々と頭に叩き込み(あまりにも楽しい受験勉強!)、中華映画友の会的なクラブにも入会して嬉々としてイベントに参加した。そして、或る日、図書館の中国本も読みつくし「もう読むものが何もないなあ」と思うようになった頃、何かの啓示のように、
「私、中国に留学する」
と決めたのだった。一言も中国語が喋れなかったのにも関わらず‥。
それからは語学学校に通って中国語を猛勉強。お金も最小限を除いてひたすら留学費用のために貯金して、北京の映画学校・北京電影学院へ留学した。それから今日まで、1日たりとも中国への愛が薄れたことはない。

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その次に私を訪れたのは、“写真”という情熱だった。
それは、これまでとは違い、ゆっくりと、スローモーションの速度で、気がつくとまるでからめら取られたようにはまり込んでしまっていた情熱だった。私は1ミリたりとも「写真家になろう」という夢など持ったことはなかったのに、たまたま家にある父の古いカメラを手にして撮影し、思うような写真にならなかったことが悔しくて何度も挑戦しているうちに、どんどんどんどん深みにはまってしまったのだ。
恋愛だって、色々なパターンがある。最初からどきゅんと一目ぼれして恋に落ちる場合もあれば、最初は「気に食わないヤツ」と嫌い合っていたのに、後から大恋愛に発展するケースもある。写真との出会いは私にとって、正にそういう恋愛だった。

当時私は広告代理店に勤めていて、そのビルが銀座に近かったから、打ち合わせも銀座近辺で行うことが多かった。銀座と言えば中古カメラ店のメッカ。打ち合わせの後、「あと10分だけ、あと5分だけ‥」と、腕時計を気にしながらカメラ屋さんのショウウインドウにぴたりとおでこをつけて、レンズを物色するのが本当に楽しみだった。
上司の中に一人だけカメラ好きのおじさんがいて、一緒に打ち合わせに行くと、二人でカメラ屋の前に立ち止まって、じーっとショウウインドウを眺めていた。何しろ上司公認だから時間を気にしなくていい。「わー、28mmAiのF2が5万かあ、安いですね!」「そうだな。ちょっと外観へこんでるから安いんだろ」「ほんとだ」などと話し合い、「何か男の後輩と話してるみたいだなあ」と笑われたこともある。広告代理店時代の心温まるエピソードの一つだ。
そしてほんの趣味で始めたつもりの写真だったのに、凝り性はどんどんエスカレートして湯水のようにお金をレンズにつぎ込み(或る描写がほしいと思ったら、或るレンズの力を借りなければならないことがある!)、やがて写真屋さんにやってもらうプリントでは色や濃度の納得がいかず、ついには自分で暗室に通うようになり‥そして今では自分の家に暗室を作り上げてしまった‥
その頃、本当に激務だった仕事の合間を縫って、いつも写真のことを考えていたような気がする。あのレンズがほしい、あの印画紙でプリントしたらどんな彩度になるのだろう?どうしてあのときあの絞りではダメだったんだろう?引き延ばし機のレンズを、今度はあのメーカーに変えたらどういう描写になるんだろう?‥‥

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そして今、写真への情熱は深く静かに脈々と保ちながら、また新たな情熱が私の中に生まれて来ている。
一つは、2年前、2008年の2月に私の心臓めがけて飛び込んで来た情熱だ。それは、「日中戦争、太平洋戦争とは何だったのか?」という情熱。これは、いつの日か必ず、文章作品という形でこの世に投げかけようと心に誓っている。
あまり日記には頻繁には書いていないけれど、その2008年2月以来、私はずっと、常に古本屋を回り、様々なシンポジウムに参加して、研究書から民間の方の体験記まで幅広く目を通してこつこつと勉強を続けている。今後は中国にも数カ月間滞在して、向こうでしか集められない資料を集めていく予定だ。しつこい性格なので、絶対にあきらめないし、途中で投げ出したりもしない。必ず作品にしようと心に誓っている。そう言えば今日も午後から、朝日新聞主宰のシンポジウム「検証 昭和報道」へ行くのだ。この情熱はたぶん私の今後の人生を、死ぬまで激しく振り回し続けるだろう。

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そして、もう一つ、本当にごく最近私にとり憑いた情熱は、“着物”という名の情熱だ。これは言ってみれば幼馴染みとの恋愛のようなもので、曽祖母の代からの着物狂いのDNAが、“着物”を私の許嫁と定めていたのかも知れない。それを私が知らなかっただけなのかも知れない、と思う。
今年の冬の終わりから、お茶の稽古のために着物を着ることになったとたん、今はとり憑かれたように毎日暇さえあれば着物のことを考えている。中国映画にはまり始めたときも、カメラにはまり始めたときも、はまり始めるといつも私はカメラのカタログやら「香港映画ガイドブック」やらを日がな一日眺めて頁をめくり続けていたものだけれど、今、正にその状態にある。ウェブ上の膨大な着物ブログや着物屋のサイトを次々とクリックして着物コーディネイトを吸収し、図書館や本屋で続々と着物関係の本を見つけて来ては、仕事や食事の合間に読みふけっている。
「もう、また着物の話?」
と母からは嫌がられているけれど、着物のことばかり考えてしまうから仕方がない。今、生きている時間の軽く3分の1は、着物のことを考えていると思う。(夢でまで呉服屋さんで着物を買っていたり‥)

まずは家にある着物を全部把握しようと、曽祖母の代からの膨大な着物・帯・羽織コレクションを1枚1枚写真に撮影し、図録めいたものを作り始めてもいる。あまりにも量が多いため、そうしないと「これに合う黄色っぽい帯があったはずだけど、どこにしまってあるんだっけ‥?」と分からなくなってしまうからだ。
また、足袋や襦袢、半衿、草履などの小物は傷んでいるものも多いから、新しく買い替えが必要だ。それを一々「どこで買おうか」「何色にしようか」などと考えて、実際に買いに行くまでの過程がたまらなく楽しい。
もちろん、ライター仕事で取材に行くときは、必ず前日にその町の呉服屋さんをインターネットで検索しておき、取材の後に訪れてみる。昨日は高円寺に取材に行って、南口近くの和装小物屋さんでレースの足袋、しかも21.5cm!を発見。涙して購入した。足が小さい私は、着物のときも苦労の連続なのだ。
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最近は、今まで目に留まらなかったmixi上のお着物コミュニティにも続々と参加するようになった。たくさんの方々が自分の着物コーディネートをアップしているので、とても参考になる。
ついこの間など、「実家の蔵から出て来たおばあちゃんの着物、サイズが小さいのでお安くお分けします」という素敵な会があったので、もちろん参加して粋な着物をゲットした。気をつけて見ていると、こういった着物好き同士の集まりや、着物屋さん主宰の特別イベントは東京のあちこちでかなり頻繁に開かれているようだ。少しずつ、着物ブームが訪れている予感がする。

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考えてみれば、この“着物”という最新の情熱は、やはり今までの私の凝り性のプロトタイプを全く離れていないと思う。何故ならば、着物は衣服という日常生活に密着しているものでありながら、その上には日本の長い長い文化史の全てが集約されているからだ。文様や色の組み合わせなど、勉強することが山ほどあり、伝統的で、正統的。まさに私がはまりやすい対象そのものなのだ。
しかも着物は、きれい!さわれる!着ることが出来る!気分がウキウキする!女子的要素を満載しつつも、勉強&歴史好きの好奇心も満たしてくれる。何て素晴らしいのだろう!新しく始まった着物というこの情熱も、長く長く私の人生を支配する…という予感がしてならない。

こうして生活のあちこちにのめり込む対象を持ちながら、私の人生はあたふたと前に進んでいく。願わくばただでさえ忙しいこの毎日の中で、これ以上新しい“恋”に出会わないことを。着物という情熱を、人生最後の恋にしようと思うのだ。(たぶん‥)