西端真矢

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「天才画廊オーナーになるための資質~~会田誠『絵バカ』展にて」 2010/06/10



先週、市ヶ谷のミズマアートギャラリーに、会田誠の新作展『絵バカ』を見に行って来た。
会田誠はとても好きな美術家で、初めて『雪月花』と『紐育空爆之図』を見たときの衝撃は今も忘れられない。
彼の作品が素晴らしい理由は、画力もさることながら作品に込められた政治性と歴史性、そしてそれを操縦する知的な企みぶりがずば抜けているからだと思うのだが、その三つの特性は今回も健在だった。中でも、横幅7メートルの巨大なキャンバスに累々と重なるジャパニーズ・サラリーマンの死骸を描いた『灰色の山』は傑作だと思う。
http://mizuma-art.co.jp/exhibition/1269584444.php

会場で配られていた解説によれば、この作品に対して会田誠は「深読み歓迎」と言っているそうで、それは例えばその解説の中でも語られている通り、彼の以前の傑作画『ジューサーミキサー』(大量の裸の女性がミキサーにかけられている絵)と対になる作品であると考えるとすれば、女性が死んでいくとき(或いはミキサーのような否応ない力で殺されていくとき)、裸である、ということと、男性が死んでいくとき、背広を着ている、という一点に注目することでも果たされるだろう。

そう、福島瑞穂元大臣や蓮舫現大臣がどんなに奮闘努力しようとも、或いは倉田真由美夫や宇宙飛行士山崎直子夫が男としてどんなに挫折しようとも、2010年現在の日本社会において、男が圧倒的に公的であり、女の大部分は圧倒的に多く私的領域に足を置いている。
これは厳然とした事実であり、男女双方とも、その事実を或る男女は好んで、或る男女は嫌々ながら受け入れて生きている訳だが、そうやって生きて行くときに予想外に受けとってしまう「死んでしまうような」心の傷は、全て、その事実から生まれて来るのだということを、改めて認識させてくれる二枚のシリーズ作品となった訳である。


また、先の解説によればこの作品は、藤田嗣治の戦争画『アッツ島玉砕』へのオマージュでもあるということで、ここでも作者自身に挑発されて深読みを試みてみれば、無謀な見通しで突っ走った太平洋戦争でアメリカ軍にこてんぱにやられながらも捕虜になることを拒否して更に無謀な徹底抗戦を続け、累々と折り重なった日本軍兵士の死体を描いた藤田の『アッツ島玉砕』に対して、戦後モーレツ・サラリーマンとして働いて働いて働いて働いた(=徹底抗戦した)にも関わらず、現在、敗色ムードが色濃くただよう日本経済、日本サラリーマンの姿を、『灰色の山』は表わしているのだ、という見方も出来るだろう。

また、藤田と言えばフランス在住時代に見られる独特な乳白色の白が有名だが、戦争中、日本に帰国して描かれた戦争画のシリーズには、その独特の白は全く見られない。
『アッツ島玉砕』に至っては、全面が血、或いは苛烈な戦場の土を思わされる赤茶色で覆われており、会田誠がその『アッツ島玉砕』へのオマージュとして『灰色の山』を描くとき、敢えて、積み重なったサラリーマンたちの死体のシャツの色を藤田の“乳白色の白”に近い色で描くところに、彼の知的企みの奥深さと、それ故に、強烈な悲劇性を感じとることが出来るのだ。

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話は少し変わるが、昨年の夏、日比谷で開かれた高橋コレクション『neoneo展 ボーイズ』を見に行ったとき、そこに集められた日本の若手男性作家たちの“内向きかげん”=“政治性と歴史性のあまりにも大きな欠如”っぷりにげんなりさせられたものだが、そこに、美術に限らず現代日本サブカルチャー全ての問題が集約されているようでもあり、また、そこから全てを始めなければいけないと思うとき、まずは大先輩である会田誠の企みを見つめてみることは意味があると思うのだ。

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この展覧会でもう一つ面白かったのは――絵としては好きではないが――もう一つの大作『万札地肥瘠相見図』に描かれた会田誠のサインだ。横幅が10メートルもあるその大作の最右手に、縦書きに、

  雪舟三十代画狂人
  法橋狩野天心誠

という号が入っている。
これは、日本美術史に関心を持つ者なら思わずにやりとさせられる号であるだろう。
何故ならばたとえば「雪舟三十代」とは、長谷川等伯がかつて自分の絵に「自雪舟五代」と号を入れたものをパロディーした言い方であるからだ。それは、「偉大な水墨画家・雪舟から数えて自分は五代目の画人である」という等伯の高らかな芸術家宣言であり、それから400年を経た現代日本で、会田誠は、「我こそは雪舟から数えて三十代目の画人である」と宣言していることになる。
そして、「画狂人」とは、浮世絵の天才絵師・葛飾北斎が自らを称した別名「画狂老人」のパロディーである。「法橋」とは江戸時代の画家の位階(公家から与えられるもの)であり、例えば尾形光琳も法橋だった。『燕子花図屏風』など、「法橋光琳」と号した絵が幾点も残っている。そして「狩野」とはもちろん狩野派のことであり、天心とは、会田誠の出身大学・芸大の創設者である岡倉天心のことである。

‥つまり、会田誠は自作にこのような酔狂な号を入れることで、自分はこの日本という国で、雪舟以来三十代目の画家であり(その三十人の中に誰が入ると考えているのか、本人に聞いてみたいもの)、そこには、日本画の全ての系統、すなわち、雪舟=水墨画、狩野=狩野派、法橋=大和絵(光琳は大和絵の系譜)、画狂人=浮世絵、そして、天心=ぶかっこうに西洋画を真似た明治以降の日本アート、その全てを継ぐ者として「誠」、自分、会田誠がいる、と宣言している訳である。
繰り返すようだがこの『万札地肥瘠相見図』は絵としては私は全く好きではないが、この号に込められた会田誠の深く強い覚悟は素晴らしいではないか。大いに心動かされてミズマを去ろうとしたのだった。

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ところで、そのとき、画廊のドアの前で私は一旦立ち止まった。ドアの左手横には細いカウンターがあり、上にも何回か引用した解説の紙や、会田誠の作品集が置いてある。帰り際までそれに気づかなかった私は、解説の紙をもらって帰ろうとカウンターの前に立ち止まったのだ。
そのとき、ふと気がつくと、私の横に背の高い初老の男性が立っていた。薄い水色のような灰色のような素敵なスーツを着てポケットに手を入れた男性だ。その男性が急に大声で言った。
「この奥にも展示スペースがまだありましてね、そこにも会田誠の小さな作品を何点か展示していますから、見て行って下さい」
私の後ろには他にも数人、お客さんが三々五々に立っている。どうやらこの人は、その全員に語りかけているようだった。

「この奥って言われても‥」
と私は思った。何故なら男性が指差す“この奥”には、『2001年宇宙の旅』のモノリスのような大きなしゃれた衝立が立ってはいるものの、どうやらそのすぐ後ろからはミズマアートギャラリーの事務スペースになっているようであり、ずらりと並んだ机に向かってギャラリストたちが電話を掛けたりパソコンを打ったりと、非常に忙しそうに働いている。人のオフィスにずかずか入って行くなんて申し訳ない‥と私たちはためらってしまったのだ。
「どうぞどうぞ、入って入って。入って突き当たりを左です」
と、その中年男性はにこにこしながら言う。そのときはたと思い出した。今日、最初にミズマのドアをくぐったときも、私はカウンターの後ろのモノリス衝立の後ろの事務スペースをちらりと見たのだが、そのとき、一番奥の、一つだけこちら向きに置いてあるいわゆる“偉い人席”に、この男性が座って何か大声で話していたことを。

「と言うことは、この人がオーナーのミズマさん?」
と私は思った。寡聞にして日本現代美術の大立者、三潴氏の顔を私は知らないのだ。だか、ここまで堂々と「どうぞ中に入って下さい」と言うからには、おそらく彼がここのオーナーなのだろう。私が思案している間にもその“おそらく三潴氏”はにこにこと私たちを促し続け、とうとう、そういう時つい先頭に立ってしまう私はずかずかとオフィススペースへと足を踏み入れることになった。お仕事中の皆さんの横を通り抜けて言われた通りに突き当たりを左に曲がると、確かに、そこにはもう一つの展示スペースがあり、会田誠の写真作品が数点飾られていた。
そしてその向かい側には、現代解釈と言ったら良いのだろうか、黒い畳を敷いたネオ茶室があり、その床の間にも、盆栽をパロディーした会田誠の盆栽風アート作品が、茶道における茶花のようにうやうやしく飾られていた。
「面白いなあ」と思いながら見ていると、いつの間にかまたもや、先ほどの男性が横に立っている。体が大きいにも関わらず、どうやら自由に存在感を出したり引っ込めたり出来る人のようだ。
「どう、面白いでしょう?」
と言うように男性はにこにこ笑っている。思わず私は、
「ここで本当にお茶を点てられるんですか?」
と訊いてしまった。点てられるし、この間も本当の茶人に来てもらってお茶席を設けたんですよ、とその“おそらく三潴氏”は教えて下さった。そもそも大徳寺内の茶室を模して作ったのだという解説も続き、そしてやおらくるっと後ろを振り向くと、今度は私の後から入って来て写真作品を見ている二人組のお客さんに、
「ここに写ってるモデルね、篠山紀信もこの間被写体に使ったんだよね。篠山紀信と会田誠が偶然同じモデルをいいなと思った、っていうのが面白いよねえ」
と大声で話しかけている。そしてまた私の方へと向き直ると、茶室の壁に掛けられた会田誠の絵を見ている私に、
「この小さな絵がね、向こうの『灰色の山』の最初の構想図なんですよ。画家って面白いよね!こんな小さなものからあんな大きい絵を作っちゃうんだから」
と、おそらく今日まで何百回も何千回も心に抱き、おそらく人にも何百回となく語って来ただろう会田誠作品への感動を、まるで今初めて思いついたかのように、その“おそらく三潴氏”は私たちに語るのだった。

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その姿を見ているとき、ふと、別の人のことを思い出した。誰かと言えば、4月に仕事でお会いした東京画廊オーナー、山本豊津さんだ。
東京画廊は、モノ派を育て上げるなど、日本現代美術の最も草分け的な画廊であり、2000年代からは中国にいち早く進出。現在、世界現代美術の中心地の一つである七九八芸術地区を、中国人と共に作り上げて来た立役者的画廊だ(七九八内の画廊は「北京東京芸術工程」と言う)。その先見の明は素晴らしいと、常に尊敬の念を抱いて来た。

そのオーナーである豊津さんも、お会いしてみると、とにかく喋りまくっている人だった。
話は次から次へと展開し、それは例えば、誰かがAについて言及すると、Aに対する自分の意見、Aの歴史的背景、Aが実はBという別の事象とこうつながっているのではないか‥などなど、話は縦横無尽にほとばしるように展開して行った。そしてとても素晴らしいことには、豊津さんのそれが、決して誰かの受け売りのこれみよがしの知識披露ではなく、ご自分の実感に基づいた、どっしりとして情感と情熱あふるる、分厚い見解であることだった。そしてこれも大事なところだが、どこか、底抜けに明るいのだ。
「この明るさ、このほとばしるような会話のスピード、この屈託のなさ‥。似てる!」
再びミズマアートギャラリーの場面に話を戻すと、会田誠作品について大声で語る“三潴氏らしき人”を眺めながら、私はこのようにして、東京画廊の山本豊津さんを思い出していたのだった。

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これまで一度も画廊を経営しようなどと思ったことのない私だから本当のところは分からないが、画廊オーナーと言うのは、かなり大変な仕事なのではないかと思う。
何しろアーティストは皆変人ばかりだ。恐ろしく内向的な人もいるだろうし、その反対に、うんざりするほど露出好きの人もいるだろう。意外と異常にお金に細かい人も多そうだし、全く金勘定が出来ず湯水のように金を使ってすぐ画廊に借金に来る人も多そうだ。学者タイプもいれば犯罪すれすれの変態もいるだろうし、全く自信のないくよくよ型もいれば、「俺様が世界一」と365日24時間思い続けていられるようなタイプもいるだろう。とにかく面倒くさい人間ばかりだろうということは、容易に想像がつく。

そして画廊のオーナーは、何と言っても作品を売らなければいけない。もちろん、サラリーマンの方がこつこつとお金を貯めて自分の大好きな作品を一枚、と買って下さる素敵なケースもあるだろうけれど、たいていはその買い手は“大金持ちさん”だ。
思うにこの大金持ちと言うのもきっと、意外と異常にお金に細かい人が多そうだし俺様が世界一だと24時間365日思い続けている人も多そうだし犯罪すれすれの変態もいるだろうし恐ろしく内向的な人もいるだろうし全く自信のないくよくよ型も多そうだし‥要するに、アーティストと同じくらい面倒くさい人種だろうということは、容易に想像がつく。

ギャラリー・オーナーという職業は、日々こういう人々の間を行ったり来たりしなければいけないのだ。普通の人なら3日もやれば辞表を書きたくなるのではないだろうか?
しかし、ギャラリー・オーナーとは、自ら望んでその燃え盛る火の中に飛び込み、それどころかますます自分で火を煽って、にこにこと大声で話し続けていられる人なのだろう、きっと。‥と、東京の二人の偉大な画廊オーナーとたまたま立て続けにお会いして思うのだった。

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そのようなギャラリー・オーナーたちを支えるのは、もちろん、芸術への愛であり、もっと詳しく言えばそれは、「面白いものが見たい」、見たことのないものを見てみたい、自分が一番先に発見したい、発見したら世に紹介したい、という、とてつもなく素直で、とてつもなく純粋な、本物の好奇心なのだろう。
その好奇心には世間的な基準など意味を持たない。だから、その日、私はわりときれいめなワンピースを着ていてむきゅきゅなかわいいサンダルを履き、一般的な基準から見れば全くアート関係者とは程遠いOL風女子の外見でいた訳だけれど、「この絵いいでしょ!面白いでしょ!」と、三潴氏はにこにこ話しかけて来る訳である。私に大声で宣伝したって、一文の得にもならないだろうに‥。
そしてくるりと振り返り、同じ場にいた他のお客さん(ファッション関係の学生さんというかんじの方々)にも、同じようにエネルギッシュに話しかける。彼らに話しかけても、おそらく貧乏だろうし一文の得にもならないだろう。でも、話しかける。そこには損得など関係ないし、“アート系の人vs一般サラリーマン”といった“人種差別概念”もない。「これ面白いよね!」「いいよね!」「何で面白いかって言うと俺はこう思うんだけどさ‥」という、とてつもなくとてつもなく素直な好奇心があるだけなのだ。

ミズマアートギャラリーを出て市ヶ谷の堀端を気に入りのサンダルで歩きながら、今日はかなり得した日だと私は思った。だって、好きな作家のいい絵を見て、その上、東京のギャラリーオーナーの真髄にも触れたのだ。
私たちは絵を見て時にその優劣を論じ、特に古い日本美術などを愛する者は贋作と真作の判別に忙しく、それに長けた者を“目利き”と呼んだりもする訳だけれど、その日、私は、本物のギャラリーオーナーの見分け方について、少しだけ目利きになったと思ったのだった。