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一枚のきものと別れる日 2019/11/01
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今年の秋はこの国にあまりにも厳しいことばかりが続いて心が苦しくなってしまうけれど、その中にも祝い事はあって、或る会に、華やかさのある銀杏の小紋を着て出かけた。
四十年ほど前、祖母が、当時三十代だった母、そしてゆくゆくは私も着るようにと染めてくれたもので、二人で合計すれば三十回近くは着ているだろうか。大好きな一枚だった。
けれど、数年ほど前から、着ていて何だか落ち着かなくなっていた。どこがどうと言われると説明出来ないけれど、何とはなしに、顔と生地とが互いに離れて行くような感覚がある。まるで愛し合っているのに倦み始めた恋人同士のように。
つまりは私が年を取って、顔つきや肌がもうこのきものを受けとめられくなっているのだけれど、あまりにも、このきものの模様つけ方や染めの調子が好きだったから、毎年一度ほどは未練がましく着ていた。そんな着物だった。
けれど、もう潮時だ。今回で最後にしようと思った。
そしてそう思って袖を通すと万感の思いがこみ上げて来た。
もちろん、やさしい知人たちは「まだまだ全然おかしくないですよ」と言ってくれる。また、「幾つになったって、好きなものを着ればいいんです」とも。
もちろんその通りで、〇歳になったら地味な色を着なければいけなどという法律がある訳ではないし、誰かに迷惑をかける訳でもない。
また、確かに世の中にはいくつになっても若々しい色や模様のきものを着ていてちっともおかしくない方もいるし、もしかしたら私のこのきものも、もうあと一、二年なら、何とかそう珍奇な見映えにならずに着ていられるかも知れない。
けれど、一方で、老いた肌に可憐な色のきものを着て、視界に入った瞬間にぎょっとするようなおばさまが存在する。おしゃれとはバランスだ、と私は考えていて、こうなってしまえばおしゃれとは程遠いことは私にとってははっきりしている。そして自分がそういう状態に陥ることに耐えられない。何より自分自身が、もうこの小紋を着ていると落ち着かなくて落ち着かなくてそわそわしてしまうのだ。こんなに愛しているのに。悲しいけれど。
*
だから、恥ずかしながら今日のブログに掲げた写真は、この着物との別れの記念だ。そう思いながら着られたことは、やはり良いことだった、と、今は思っている。
人生には、たくさんの不意の別れがある。いつでも会えると思っていたのに、明日会えると思っていたのに、それどころか朝家を出て夜にはまたいつもと変わらず会えると思っていたのに、会えなくなってしまうこともある。それに比べれば、さよならと言いながら別れられることは得難い幸せなのかも知れない、と。
家に帰り、二日ほど陰干しをして風を入れ、たとうへとしまいながら、このきものを通してたくさんの楽しい時間を贈ってくれた祖母に心から感謝した。糸をほどき帯に仕立て変えれば、またこの布と一緒にいられるかも知れない。けれどきものでいる今の姿を、壊したくない、とも思う。
別れてもまだ一枚のきものに心を迷わされている。
私のフェミニズム、私のme,too――「婦人画報」7月号で上野千鶴子先生を取材して 2019/06/03
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発売中の「婦人画報」7月号で、上野千鶴子先生を取材した。
今年の4月、おめでたさ満開のはずの東大入学式の祝辞スピーチで、「がんばってもそれが公平に報われない世界があなたたちを待っています」とぶちかまし、大反響を巻き起こした、あの上野先生である。日本のフェミニズムを代表する論客であり、生半可な気持ちでは取材出来ない人であることは、どなたにも分かって頂けるだろう。実際、非常な緊張感と、必死の準備をもって取り組んだ仕事になった。
そして、これは自分でも意外なことだったけれど、先生の著作を読み込み、実際に先生と対話し、原稿に向かう中で、しみじみと、自分の中のフェミニズム的問題について思いをめぐらせることになった。時には一人部屋の中で涙ぐんでしまうことさえも。
だから、今日のブログでは、私自身の個人的なフェミニズム、私のme,tooを語りながら、当該の上野先生の取材記事をご紹介したいと思う。何故ならフェミニズムの問題は一人一人の女性にとって、個人的になる他ない問題群だからだ。その主張に賛同するにしろ、反発するにしろ、何故賛同するのか、何故反発するのか、その態度表明自体に自分のアイデンティティが直接浮かび上がる。どうしようもないほどに切実な問題なのだ――ということに、今さらながらに気づかされたからだ。
*
先ほど、時に部屋で涙ぐんでしまうことがあった、と書いた。
もしもそのことを上野先生が知ったら、また、先生の著作を読んだことがある方なら、何故泣くのかと不思議に思うかも知れない。先生の論考は社会学者らしくこつこつとデータを積み上げ、厳密に論理を詰めたもので、冷静で構築的で、そして強靭だ。およそ情緒的なお涙頂戴表現からはかけ離れているのだけれど、でも、私は時々涙で先が読めなくなることがあった。
先生の著作は、どのページを開いても、どの行も、一つのメッセージを伝えようとしていた。それは、こんなことはおかしい、というメッセージだった。女だからこれはしてはいけない、女だからこれくらいにしておけ、女だから我慢しろ、おとなしくしろ、俺たちを凌駕するな、ただ俺たちの欲望の対象でいればいい。そういうすべての言説に対して、一行一行が「おかしい」と声を上げていた。読んでいる私に向かって文字が踊り上がって来るようだった。その強さに涙がこぼれた。恐らく孤独な戦いだっただろう。それでもこの人は一歩もひるむことなく、冷静に、強靭に戦い続けたのだ。その勇気に涙がこぼれた。
そして自分自身のことを振り返った時、もう一度、涙がこぼれた。私は先生とは真逆だった。勇気がなく、声を出そうとして胸の中にぐっと呑み込んだ言葉がいくつもいくつもあった。その時感じた悔しさや、屈辱の感情がよみがえってため息をついた。そのため息が涙に変わったのだ。
たとえば広告代理店に勤務していた時、私は仕事の後の飲み会の席で、取引先の或る年上の性から何度も腿を触られた。その男性には、「哲学科を出ている女なんて最悪常」とも言われた。けれど私は反論しなかった。
社会に出て初めて勤めたアパレルの大手では、上司が机にハードなヌード写真のカレンダーを置いていて、毎日それを見なければならなかった。鳥肌が立つほど嫌だった。けれど私は声を上げなかった。
またある時には、やはり代理店時代の飲み会の席で、次長という非常に高い地位にある上司から卑猥な言葉を言わされた。「ねえねえ、*って言ってみて」と言われて意味も分からず「*」と言い、「じゃあ、*って言ってみて」と言われて「*」と言い、「じゃあ、‥」と続き、最後に、「逆から言ってみて」「*、*、‥」と、言いかけた言葉が非常に卑猥な言葉だと途中で気づいた時、私は赤面し、当惑し、そして絶句した。
またある時、クリエーティブディレクター(CD)、コピーライター、アートディレクター、営業の全員男性、プロデューサーの私だけが女性というチームでCMの編集スタジオに入っていた時、一歳年上のCDから、「今から下ネタ話したいんだよね。女がいると出来ないから、ここから出て行ってくれないかな」と言われたこともあった。
実は、このCDとは、それ以前に別のチームで仕事をしたことがあった。私は彼を良い仕事仲間だと思っていたけれど、いつしか彼は私に友情以上の好意を持っていたようで、或る時、やはり飲み会の席でお酒の力を借りてその想いを表して来た。私は彼に友情以上のものは持てなかったらやんわりと拒絶し、彼はそのことを根に持ったようだった。翌日から、それまでのナイスな態度とは別人のようによそよそしくなったのはあからさま過ぎて笑いたくなったけれど、きっと復讐の機会をうかがっていたのだろう。「下ネタ話ししたいから出て行け」というパワハラとセクハラの入り混じった攻撃を仕掛けて来たのだ。
けれど、その瞬間、私は、「分かった」と言ってそこを離れた。場は凍りついていた。こんなことはしてはいけないことだということは、他の男性社員はもちろん分かっていただろう。けれど、会社は「クリエーティブ・ファースト」を方針としていたから、CDの序列が最も高い。誰も彼に逆らいたくはないのだろうな、穏便に事が済むといいなと願っているのだろうなということが分かったから、私は、「こんなことはおかしい」「こんなことは屈辱的だ」という言葉を呑み込んだ。そして別の場所で社外の友だちにメールを打ったり、見積を作ったりしてその下ネタ話が終わるのを待った。ちょうどこのメールを打ちたいと思ってたんだよね、見積作業もしたかったし。だから、ちょうどいいじゃない、と自分に言い聞かせて。
――そんな風に、呑み込んだ言葉がいくつも、いくつも、書き切れないくらいある。
私はレイプをされたわけではない。何時間も体を撫でまわされ続けたわけではない。女だからと昇進を阻まれたわけでもない。たかが言葉の上だけでのこと、たかがほんの少し体を触られただけのことじゃないか、そのくらい流せよ、と或る種の男性たちは言うだろうか? 呑み込んでうまくいなすことこそ賢い女よ、と男の意をくむ「賢い女性」たちは言うだろうか?
確かに私は呑み込んだ。そうすると、悪臭を放つ大便のような何かが、肌の内側にこびりついてはがれなくなった。ずいぶん長い時間が経った後でも、何かの時に、ふっとその悪臭に気が遠くなる。「小さなこと」なんかでは、決してないのだ。人の尊厳にかかわることなのだ。
*
それなのに、と思う。何故、私は反論の言葉を呑み込んだのだろう? 何故上野先生のように戦えなかったのだろう?
理由はいくつも並べられる。上司に逆らえなかったから。チームの雰囲気を悪くしたくなかったから。確かに、唯一反論に出たのは冒頭に挙げた腿を触る取引先の男性に対してだけで、それは、取引先と言ってもこちらが発注を出すクライアントでありまだ立場が強かったからで(そもそもクライアントの腿を触ること自体が信じられない話だが)、それでも、その彼に対しても、「何故女性が哲学を学んではいけないのですか?お詫びして、訂正してください」とは言えなかった。
結局、私は、怖かったのだと思う。私は自分のイメージを守りたかった。もしもその場で「それはセクハラです」「不愉快です」と声を上げたら、そのとたん、私は、うるさい女、面倒な女、潔癖症のお堅い女、に分類されるだろう。それがとても怖かった。
そんなことが怖いのか、と驚かれるだろうか?でも、真実なのだから仕方がない。私はとても怖かった。自分で今こうして書いていてもなさけなくなってしまうけれど、怖くて怖くて仕方がなかった。「潔癖症のお堅い女」と思われたまま、その同じ人間関係の中で仕事を続けていけるとは思えなかった。だから、沈黙した。もの分かりのいい、「さばけた女」になろうとした。本当は、さばけたいなどと1ミリも思っていないのに。
私はそういう、なさけない、へたれだった。だから、先生の著作を読んで泣いてしまった。それは、ふがいない自分に対する怒りと、あわれみの涙だった。こんな悲しいことがあるだろうか。
*
それでも、と思う。
それでも私はまったくの白旗をあげることだけはなしなかった。分かりました。じゃあ、今日から、私は私のキャリアを追いかけることをやめます!何故なら男性と競うことになるから。自分で収入を得る道を放棄します!そして男性に養ってもらい、その男性の背中の後ろを三歩下がって歩く、もの分かりのいい良妻賢母を目指します!いつもにこにこすべてを受け入れる聖母の役を演じます!と完全撤退することだけはしなかった。
私がこの社会に対して採った戦略は、あの人気ドラマのタイトルと同じ「逃げるは恥だが作戦」と言っていいのではないかと思う。上野先生のように凛々しく、正面突破では戦えなかった。びくびくと、一まずはしっぽを巻いて撤退し、「さばけた女」というカモフラージュの密林に逃げ込んで、そのせいで悪臭ただよう大便的な何かをびっしりとお腹にこびりつかせ腹痛に悩みながら、一歩ずつ、迂回戦線を匍匐前進で進んだ。そしてわずかずつでも自分の陣地を広げる。そういう、いかにもなさけない、弱者の戦略を生きて来たのだ。
そのことに初めて思いをめぐらせた時、何ともかっこわるいけれど、それでも頑張ったじゃないか、と、自分の肩を抱きかかえたくなって、もう一度涙が出た。
*
今、思うのは、これから社会に出て行く女性たちが、もう私のような思いをしないで済む社会であってほしいということだ。そして今後社会の中で上位ポジションに着く女性が増えていく時に、女性たちが、これまで自分たちが受けて来た屈辱を若い男性たちに与えることがないように、と願う。
フィギュアスケートの高橋大輔選手に対して、連盟会長の橋本聖子氏がキスを強要した事例を見る時、強い怒りを感じる。男性が女性に、女性が男性に、好意や性的欲求を抱くこと自体が悪い訳では、もちろんない。相手の意志を無視してそれを押し通すことが問題なのだ――という、わざわざ書くのもばからしいほど当然のことを理解出来ない人間を「下品な人」と呼ぶが、「下品」は男性にも、女性にもいる。当然が普通に当然とみなされる社会になることを、心から願う。
*
もちろん、社会は少しずつ変わっている。そもそも「婦人画報」が上野先生を取材すること自体が、時代の変化の表れであるだろう。
創刊110年を超える「婦人画報」は、これまで、最高度に洗練された物品や環境を享受するための最新情報を発信し続けて来た。しかし、7月号では「日本をつなぐ」と題し、「サステナブル社会」を第一特集に掲げている。
食、教育、消費の仕組み――人生を豊かに楽しみながらも、地球に対し、人類に対し、持続可能に生きるためにどのような選択があるのか。上野先生への取材は、その模索の一つとして行われた。何故ならば――これは原稿の中でも書いた言葉だが――社会の半分は女性だからだ。ワンオペ家事、ワンオペ育児、セクハラ、デートレイプ、医科大学での不当な合格者調整。もしも社会の半分が生きづらいと感じるなら、その社会はどこかにひずみを抱えているのではないか。そして実際、そのひずみは急速な少子化に大きく影響し“この国の持続”そのものに危険信号を灯している。
記事中で、先生は、日本のフェミニズム40年を総括し、この国で、一人一人の女性たちがこれまで、私が感じて来たように感じて来た生きづらさの何を変え、何がいまだ変えられていないのか、変わるために何が必要なのかを洞察し、語っている。それはこれまでの男の「下品」な行為をひたすら責め、攻撃するような、浅はかなものではない。変わることで、女はもちろん、男性たちも、より楽々と、のびやかに、持続可能に生きるための考察だ。
意気地なく沈黙に回り、それでも「逃げるは恥だが作戦」で細々と迂回路を進むしかなかった何百人、何千人の私に似た誰か、私のようなme,tooの女たちの痛みを仕方ないなあと一手に肩に引き受け、最前線で、正面から戦ってくれた上野先生のようなフェミニズムの先輩たちを、心から尊敬する。日本の女の生きづらさがそれでも何とかましなものに変わってきた原動力の多くは、間違いなく彼女たちにある。
そして、そんな上野先生を取材出来たことを光栄に思う。あまりに大きなテーマに七転八倒して数え切れないほど原稿を書き直し、「もうこの原稿が面白いのか面白くないのか、自分では分からない!」と発狂寸前まで悩みながら書きつづった。幸いにも先生から「骨太のレポートになった」と言って頂けた原稿をぜひご高覧頂けたら、これ以上嬉しいことはない。私はかつての自分と、たくさんの言葉を呑み込みしっぽを巻いて撤退を繰り返したへたれの自分と、ようやく握手出来たのだ。
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女がミニスカートを脱ぐ時 2018/01/05
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昨年は、初夏に、3年がかりで取り組んでいたノンフィクション小説をようやく出版することが出来、更に雑誌や広告の分野でも多くのお仕事を頂き、プライベートでは細々とではあるもののお茶の稽古と新しく書の稽古も始め、お友だちとも数々の楽しい時間を過ごし‥‥例年と変わらず、ありがたく充実した一年だった。
けれどその中で一つだけ大きく変わったことがあって、それは、自分の体力の衰えを実感したことだった、と、年が明けた今しみじみと思う。
我が家は父方が長命かつ頑健な家系で、一般に「女子は父親の家の体質に似る」と言うけれど、私もどこででもすぐぐっすり眠れることや視力がとても良いこと、健康診断の値もどれもちょうど真ん中の健康体で、そもそも広告代理店に長年勤務していられた、ということ自体が父方の頑健な血を引き継いでいる証左だったと思う。
振り返ってみればその代理店時代、四徹(4日間完全徹夜で編集)や4カ月間休日なし(もちろん後で代休を取得)など、数々の修羅場にさすがにふらっと来る日があっても、その週末に一日、10時間ほど寝ればすべてリセット。またうるさいくらいに元気に働ける頑丈女だった。
退職してフリーになってからもこの体力は変わらず、様々な無茶ぶり案件も不眠不休で乗り切って校了したその日に10時間も眠ればすっかり元通り。超人だね、と家族友人に驚かれる元気ぶりで突っ走って来たのだった。
ところが、昨年、初めて、「疲れがいつまでも取れない」という経験をした。9月の終わりから10月下旬まで、仕事がたまたま四本同時に重なり、1週間で合計10時間ほどしか眠れない時期もあったようなハードワークになってしまった。ただ、これまでだったらこのくらいのことは必ず一日でリカバリー出来ていたものが、今回は初めて、その後だらだらと1カ月近くどことなく体がだるいというような不調が続いたのだ。
そう言えば、その少し前から、原因不明の右腕痛と右足首痛にも悩まされていた。整形外科でレントゲンを撮ってみても、骨には何の異常もない。要するに使い過ぎです、と診断が出たけれど、特に何か新しい運動など始めた訳でもないのだ。
確かに手首は職業がら常にマウスの上に置いて酷使しているし、足首については、中学時代の部活動で土踏まず付近の筋肉を傷め、実はいつも少しかばいながら歩いている。これまではそんな無理をカバー出来ていた筋肉の力が、ここへ来ていよいよ今まで通りには働かなくなって来た、ということのようだった。
仕方がない。今年は年女。つまりは五十年近くも暦が回り、その年月の間、筋肉も骨も内臓も脳みそも、それこそ一日の有給休暇も取らず働き続けているのだから、ガタが来るのも当然だろう。人によって体力の衰えが現れ出す年齢はもちろん違うけれど、私の場合は四十七の昨年に、それが出始めたということなのだろう。
*
実は、ああ、自分はもう若くはないんだな、と感じたのは、昨年よりもう少し前のことだった。確か2年前だったと思うけれど、明日はどの服を着て行こうかと鏡の前で試しに着たり脱いだりしていた時、突然、それまで当たり前に着ていた膝丈のワンピースがとてつもなくちぐはぐなものに見えた日があったのだ。そのちぐはぐぶりがあまりにも目に慣れず、その時、しばらくの間じっと鏡の中を他人のように眺める自分がいた。
そして、その翌日から、もうミニスカートをはくのはやめようと決めた。ウェストも体重も二十代、三十代と変わっていないし、肌の具合もすこぶる好調だった。それでも、何かがかすかにこれまでと異なっている。心優しい友人に、
「ねえ、私、まだ短いスカートをはいていても大丈夫かな?」と訊けば、
「もちろん!そのワンピース、マヤちゃんにとっても似合ってるよ」
と言ってくれるだろうし、そもそも服なんて何を着ようが個人の自由なのだから、着たければ一生ミニスカートで過ごしたっていい。けれど、「何かが違う」というそのかすかな違和感に敏感でいることも、一つの人生の美学ではないかと思っている。
幸い、私の住む市にはリサイクルセンターという施設があるので、その日以来、膝丈のワンピースやスカートは季節ごとにすべて寄付に出すようにしてしまった。だから、今、私の手元にはミニスカートは一枚も残っていない。それで寂しいかと訊かれれば、これが不思議とそうは感じないと言うと、負け惜しみだと思う人もいるだろうか?
人間は、すべての生き物は、いつかは土に還っていく。それを口惜しく思いどんな手を使ってでも抵抗してやるとがむしゃらになる人もいるし、それも一つの美学だとは思うけれど、私はそういうあり方にどうも魅力を感じることが出来ない。それよりも長年何匹もの猫と暮らして来て、老いに関しては猫に学ぶことが多いと思うのだ。
猫たちも、ある時を境に急速に体力が衰え、たとえばこれまで楽々と上がれていた木の幹に飛び上がることが出来なくなってしまう。そうすると、ちらっとその幹を見上げて猫たちはその日以来二度と飛び上がることはなく、けれど特に卑屈になることもなく同じその木の周りで淡々と日々を送る。陽の照る日は木が降らせた落ち葉のベッドでぬくぬくと眠り、気が向けば小さな虫をひゅっと捕まえて遊んでみたりもする。どの子も不思議と自分の死期を悟って、ぼろぼろの体を引きずりながら最後の挨拶に顔を見せにやって来て……そしてどこかへ消え、一人で死んでゆく。そういうこざっぱりとした生き方が出来たらいいな、と思う。
新年から何を暗い話をしているのだ、と言われそうだが、むしろきわめてポジティブな年頭辞を書いているつもりなのだ。“美魔女”を目指すなど真っ平ごめん。だけどいわゆる“大阪のおばちゃん”でいいと開き直るのもかえって居心地が悪い。そうではなく、猫のようにこざっぱりと、飄々と生きていきたい。私が手放したミニスカートをはいた女の子と、今年はすれ違うことがあるだろうか?
宇野千代自伝『生きて行く私』に見る股のゆるさと宇野千代きものについて 2013/11/04
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3、4年ほど前、歯医者の待合室だかどこかで偶然手に取った女性誌で、ファッションディレクターだったかアートディレクターだったか今ではもう忘れてしまったけれど、何かしゃれた職業の女性が宇野千代の自伝『生きて行く私』を自分の好きな本と紹介していて、以来、いつかこの本を読んでみたいと思っていた。
それからわりと忙しく日々を過ごしてあっと言う間に3年ほどが過ぎてしまったのだけれど、特にこの10か月ほどは一日も休みなく仕事に追われていた生活がほんの少し小休止したので、そうだ、『生きて行く私』を読んでみようと、飛びつくように読み始めたのだった。
宇野千代の小説はこれまで一冊も読んだことがなかったけれど、八十歳でも振袖を着ているとか、桜が好きで一年中桜のきものを着ているとか、「私、死なないような気がするんです」という有名な台詞などは耳にしたことがあって、面白そうな女性だなと興味は持っていた。
それに、そのカタカナ職業の女性も、“生き方に一つの美学を貫いた凛とした女性の一代記”といった紹介をしていたから、きもの好きの私としては人生の美学ときものの美学とが美しく一体化したような、何かとてつもなくしゃれた随筆が読めるのではないかと期待したのだ。
*
さて、ページをめくり、四分の一ほどしたところで、その美しい期待は大きな見当違いだったということにつくづく気づかされた。だからと言って読む価値がないかと言えばそんなことはなく、むしろ無類に面白い。
では、一体この自伝はどんな書物なのか、と言えば、それは、宇野千代という女性の股の話だ。宇野千代先生が行く先々ですぐ男性に股を開き、人々がえっと仰天する。ここでもここでも股を開いているけれど、おそらく行間のここでも股を開いていて、だけど何かはばかりがあってここについては書いていないな、と同性ならすぐ読み取れてしまう。そんな風にあっけらかんとそこかしこで股を開きまくっている女の一代記が、この自伝随筆集なのだ。
‥とこう書いてしまったら身も蓋もないと思われるかも知れないけれど、これこそが彼女の人生の総てを集約した一言なのだ、ということに、『生きて行く私』を読めば気づいて頂けると思う。
もちろん、千代先生は野間文芸賞や芸術院賞を受賞し、うるさ型の小林秀雄をも驚嘆せしめた偉大な作家だった。また、一時代を築いたファッション誌の編集長をしていたこともあるし、趣味のいいきものを世に送り続けたきものデザイナーでもあった。
しかし、女が前に出るのが今よりもずっと難しかった時代、何が彼女をそこまでの場所へと押し上げたのかと考えてみれば、その心底根底にあったものは、「あら、この男、ちょっと素敵」と思った瞬間すぐに股を開き、それでもなびかない男の元には毎日毎日職場にまで押しかけて「あの、私の股は開いてますけれど」と執拗に知らせ続ける、その、周囲の目を一切気にせず自分の欲望に向かって素直に自分を全開に出来る純粋無垢な魂のようなもの。それを彼女が保持し続けていたからこそ、あの時代に大きな成功と幸せをつかみ取ることが出来たと分かるのだ。
もちろん、そのようないわゆるふしだらで自堕落な生き方をしていたらそれなりのしっぺ返しはある訳で、その中で、よりくっきりと見えて来る人生悲喜劇の輪郭が、おそらく彼女の小説の主題となったのではないか、ということにも、読んでいれば自然に思い至る。そうなると私などはがぜんこの上は、千代先生の代表作も読んでみようじゃないかという気にもさせられるのだった。
*
‥という訳で、私が最初に雑誌で読んだしゃれた職業の女性に言いたいことは、股の話は股の話だとちゃんと書いてほしい、ということだ。
確かに千代先生の偉いところは股だけの女に終わらずそれを偉大な作品や事業に変え得る知恵と文才とセンスを持っていたことにあるけれど、股がゆるかったことがまたその人生の最大の特徴であり、その股ゆえにこそ知恵も磨かれたのだ、ということを、女性誌的にこぎれいにまとめるのはどういう安全策なのだろう、と一人文句を言いながら表紙を見返したりもしたのだった。
*
ところで、千代先生の名誉のために付け加えておけば、人生のごく一時期を除いて、先生は誰にでも彼にでも股を開いていた訳ではなかった。尾崎士郎、北原武夫、東郷青児‥彼女が股を開いた男の列伝には綺羅星のような名前が並ぶ。そして、彼女は、あきれるほどに分かりやすい“イケメン好き”でもあった。才能がある上に見た目も美しい男性と恋仲だったのだから、何とも痛快な話ではないか。
そんな“宇野千代”の名前を冠したきものが、今も綿々と作られていることはきもの好きなら誰もが知っているだろう。先生の股の開き具合を思うと正直うら若い娘さんの振袖にはどうかと思うが、三十五過ぎた女が小紋などに着るとしたら、何ともしゃれている、と思うのだ。
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おばあちゃんの世界 2012/08/21
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この頃やけに、おばあちゃんが気になっている。街を歩くおばあちゃん。電車の中のおばあちゃん。おばあちゃんの持ち物。おばあちゃんの会話…。
きっかけは、少し前、仕事で毎日のように中央線に乗って八王子方面に通ったことだった。朝、早めの時間帯の中央線下り列車は、登山目当てのご老人でいっぱいだ。中でも、男性よりも声が少し高いせいか、おばあちゃんたちの会話がよく耳に入る。生き生きとしたたくましさがガゼン気になり始めた。
それ以来、ひそかに、おばあちゃんたちを観察するようになった。まず気になったのが、おばあちゃんたちの持ち物。我々の世代は絶対に使わないものが二つあって、それはつまり「純粋おばあちゃんアイテム」と言っていいと思う。そのまず第一は、手押し買い物バッグ。これである。
そう、買い物に行くおばあちゃんが押している、あの、リュックのような形でありながら下にタイヤが付いているあのバッグ。年を取ると足腰が疲れやすくなるため、あれを押しながらおばあちゃんは日々の買い物に行く訳で、更に進化したものだと頑丈なパイプ製で出来ていて、疲れたら座れるようになっているタイプもある。こちらはシルバーカーと呼ぶみたいだ。
しかし、観察していると、シルバーカーを使っているおばあちゃんはあまりいない。もしかしたら、シルバーカーは「かなり高齢」の象徴であり、「速度はゆっくりだけどまだまだ元気に歩き通せるのよ、私」というメッセージを込めて、大部分のおばあちゃんは手押し買い物バッグの方を択んでいるのではないか。
そして、日常の必須アイテムであるだけに、そこには個々のおばあちゃんの好みや暮らしの傾向が表れている。ごくシンプルな、紺一色などの実用タイプを使っているおばあちゃんもいれば、かわいらしい花柄やチェック柄を択ぶおばあちゃんもいる。
今は亡き私の父方の祖母(いつも着物日記で紹介している母方の祖母ではなく、父方の祖母)はおしゃれに興味ゼロだった人で、だから手押し買い物バッグもごく地味なえんじの無地のものだった。ただ、それは本当は後ろに引いて使うように作られていたもので、それを祖母は勝手に前押しに変えて使っていた。
今思うと、誰に教えられたのでもないのに後の人気商品を先取りした使い方をしていた訳で、おしゃれセンスはなかったけれど、我が祖母、発明アイディアは素晴らしかった訳だ。もしかしたら、全国のあちこちで自然発生的におばあちゃんたちが後ろ引きずりタイプを→前押しにして使い始め、それを見たどこかのメーカーの方が、現在の前押しタイプを発明したのかも知れない…と思う。
おばあちゃんたちはそんなことを想像させるような、生活に根づいたたくましさを持っている。
*
それにしても、花柄、水玉、ゴブラン織り風…おしゃれな手押し買い物バッグを押しているおばあちゃんたちを見るのは楽しい。何故かと言うと、そこに、文字通り墓場まで持って行く“不滅の女子おしゃれ魂”がほの見えるからだ。
戦後を生きて来た日本の女たちは、いつも、自分の周りをかわいいもので埋め尽くすことに腐心して来た。おばあちゃんになったからと言って急にその心がなくなる訳はない訳で、私たちが「キャスキッドソンのパスケースかわいい~」「遊・中川で和デザインのかわいいポーチ見つけた~」とウキっとするのと同じ気持ちで、おばあちゃんたちはかわいい手押し買い物バッグを択んでいるのではないかと思う。
更に、最近私がうなったのは、よく買い物に行く近所のスーパーで見た光景だった。
そのスーパーは、入口を入った所に大きな柱があるのだけれど、何と自然発生的にそこがおばあちゃんたちの「手押し買い物バッグ停め場」になっていたのだ。
買い物に来る→食材選びの時は店のカート或いはカゴに商品を入れる→精算後、買ったものを手押し買い物バッグに入れる――訳だから、択んでいる時は手押し買い物バッグは邪魔。だから、車を駐車場に停める要領で、その柱の前にマイ手押しバッグを停めて行くのだろう。四角い柱をぐるりと囲むように色とりどりの手押し買い物バッグが停まっている姿は、何とも言えずかわいらしかった。
また、「ここにお客様の私物を置かれると防犯上何とかかんとか」とうるさいことを言わないお店側の態度もイイと思う。今後日本はどんどん高齢化して行くことを考えると、もしかしたらこれから新規に出店するスーパーは、手押し買い物バッグ置き場をデフォルトで作っておくようになる可能性だってあるのかも知れない。
おばあちゃんたちはこんな風にして、日本の暮らしを自分たちに住み良く変えて行く。
*
もう一つ。おばあちゃんたちのおしゃれ魂が発揮されている純粋アイテムがある。それは、杖。これも、気をつけて見ていると実に様々なデザインがあることに驚かされる。例によっておしゃれに興味のないうちの祖母などは地味な茶色のものを使っていたけれど、街中では時々、はっとするほどかわいい杖を使っているおばあちゃんを見かけて心楽しい。
例えば、持ち手の部分がウィリアム・モリス調の花柄になっている杖。スワロフスキーのようなラインストーンが入っているものもあるし、高級イメージの、透明クリスタルのような持ち手もとてもおしゃれだと思う。劇場やホテルのロビーなどでは、時々、見るからに高価そうな、何ともゴージャスな杖を持っているおばあちゃんに出くわすのもとても楽しい。ここでもおばあちゃんたちは、それぞれの好みとお財布事情に合わせて、存分におしゃれ魂を発揮しているのだなあと思う。
そして、おばあちゃんたちは、やはり氷川きよしが大好きだ。
或る時、たまたま男女を問わず老人の方がいっぱいいらっしゃっている美術展に行ったことがあるのだけれど、そこで氷川きよしの話をしているおばあちゃんに立て続けに三組出くわしてビックリさせられた。
それ以来気をつけていると、氷川きよしのイラストが描かれたキーホルダーを鞄に下げているおばあちゃん、氷川きよしの記事を立ち読みしているおばあちゃん、そんなおばあちゃんたちを時々街で見かける。氷川きよしにももちろんおばあちゃんはいると思うが、もはや彼はそんな個人の関係を越えて、日本全国のおばあちゃんたちの息子であり、孫であり、そしてきっと想像の中の王子様なのだと思う。
*
ところでおばあちゃんたちは、病気にもとてつもなく詳しい。それも、たとえば私のようなアラフォー世代が病気の話をすると暗い雰囲気になりがちなのが、おばあちゃんたちは何か病気と共存して生きていると言うか、お弁当のおかずの話題のようなかんじであっけらかんと病気の話をすることが出来るすがすがしさを持っているのだ。
たとえば、私が或る時聴き耳を立てていたおばあちゃんたちの会話はこうだった。
「うちの人がね、この間、お腹が痛くなってね」
「ああ、××癌ね」
え?何でそれだけで分かるの?と驚愕したのだけれど、
「そうなのよ」
と、何と、的中しているようなのだ。
「大丈夫よ。お宅の年令で××癌だったら**手術でしょ。あれで治っちゃうから」
「そうなの。もう手術したのよ」
と治療法まで的中。
「それで*〇××*あたり?、薬は」
「そうそう。でも×*〇△*だと胃にもいいじゃない」
「そうよね」
と、私には全てちんぷんかんぷんだけれど、おばあちゃんたちは自分、或いは、配偶者や友人たちの症例を多数経験世界に積み重ねた結果、治療に対するコモンセンスを共有しているようだった。
「で、**山行ったの?」
と、病気の話はあっさり終了して次の話題に移行。病気になるのは当たり前。他の関心事と並列の状態で頭の中に存在しているようだった。
*
おばあちゃんたちを見ていると、自分が老年について本当に何も知らないのだなと思い知らされる。
もちろん、おばあちゃんたちだって肉体的な痛みや疲れを強く感じる日もあるだろうし、生活上の悩みもあるだろう。やって来るお迎えの日への覚悟、不安だって当然存在しているのだと思う。
でも、だからと言って毎日がしょんぼりと暗いだけではないのだということが、おばあちゃんたちを見ているとよく分かる。おばあちゃんの目でしか見られない世界のあり方や、独自の美意識の世界、そしてあっけらかんとした明るさもまた堂々と存在していて、その、世界への一矢報い方がとても好きだ。
おばあちゃんの世界にとても魅かれる。明日も私はおばあちゃんたちの会話に耳をそば立ててしまうだろう。
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茶道とマニキュア 2012/06/14
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お茶を始めて一番楽になったことは、爪のおしゃれを気にしなくて良くなったこと。
お茶を始めて一番淋しいことは、爪のおしゃれを気にしなくなったこと。
*
お茶をやらない方にはあまり知られていないことだけれど、茶道の世界では、マニキュアは厳禁とされている。
確かに、心を込めて手ずからお茶を点て、また客の方でもそれを心を込めて頂く‥という、指先をきわめて口に近づけて行う行為には、華美なマニキュアは全くそぐわない。また、茶室という空間にもどう考えてもそぐわないのは自明のことだろう。
だから、お茶の稽古でも茶会でも、指先は素であることが求められる。ぎりぎり、無色のトップコートまでが、何とか許容範囲の内側に入るだろうか。(しかし厳しい茶人の方の中にはNGを出される方もいらっしゃると思う)
そんな訳で、茶道を始めて以来、爪のおしゃれからは一切遠ざかるようになった。
もちろん、私は茶の師匠を目指している訳ではないから、毎日毎日稽古や茶会がある訳ではない。だからふだんは思い切り派手なマニキュアなりジェルネイルなりを楽しんで、お茶関係の活動の日だけいさぎよく落とせばいいんじゃない?‥という声が上がりそうだけれど、これがなかなかそうも行かないのだ。
*
お茶を始めると、何かとお茶会に呼ばれるようになる。それも、前々から日程の分かっているお茶会なら良いのだけれど、突然にご招待を受けることが案外多いのだ。来る予定だったお客様がお仕事の都合でどうしても来られなくなって、一名空きまして。マヤさん、いかがですか?‥そんなお声掛けを頂くことが少なくない。
そしてそういった突然のお茶会ほど、「行ってみたいな」と思わされるお寺での開催だったり、ご亭主(お茶会を開催する人)が通人で、出るお道具が素敵そうだったり。或いは、和の道の大先達からのお声掛けで、これは断れないでしょう!というものだったりもする。もちろんそういった面白そうなお茶会=レベルの高いお茶会ほど、来ているお客様の目は厳しいから、当然、マニキュアをきらきらさせてなんて行ける訳がない。
だから私はお茶の面白さがうっすらと分かりかけて来た頃から、爪のお洒落に関してはキッパリあきらめることにした。いつ、どんなお声掛けを頂いてもすぐ馳せ参じられるように、爪はいつも無色透明トップコート一本槍だ。
*
でも、これにはこれで問題がある。洋服のおしゃれをした時に、どこか物足りなさが残るのだ。画竜点睛を欠く、という古い言いまわしがあるけれど、まさにその言葉がぴったりと来る。目の玉が白いまま体だけが勇ましい龍のようで、好きな服を着ていてもどこか気持ちが落ち着かない。
もちろん、女性たちがここまでネイルアートに凝り始めたのはここ10年くらいのことで、昔はみんなもっと素朴な爪をしていたし、マニキュアを塗らない人だってたくさんいた。だから、洋服にシンプルなネイルがそぐわない、なんてことは本当は全くないのだと思う。
けれど、2010年代の、“今の、このかんじ”。
これを完璧に追究したいと思うなら、やはり爪のおしゃれは欠かせない。ものすごくデコラティブなものではなくても、少し華やかに。或いは、少しスパイスのあるデザインで。無色の爪ではどこか淋しく、やはり、そう、龍の目が足りない‥
そんな訳で私は、“今”の空気を体現した素敵な爪の女性を見るたびに心の中でため息をつきつつ、でも、茶道の楽しさも失いたくはないと思う。人生とはこんな風に、何かをつかまえればその代わりに何かを手放さなければいけないものなのだろう。
それに、爪のことを考えなくて良くなってから、いかに自分が爪にとらわれ、時間を取られていたかを実感するようになった。忙しいスケジュールの合い間に無理やり時間を作ってネイルサロンに駆け込んだり、ネイルサロンの予約のせいで睡眠時間を削らなければいけなくなったり。サロンには行かず自分でマニキュアを塗る時だって、あと少しで乾く‥!という時にうっかり物に触れてしまって全てが台無しになった時の絶望感。これは日本中ほとんど全ての女子たちが経験したことがあるだろう。
実は私はわりとマニキュア名人で、「これ、自分で塗ったんですか?」と、クラブなどで見知らぬ女の子に手を取られて質問されるほどの腕前だったのだけれど‥今ではそんな全てが思い出アルバムの中の1枚に変わってしまった。
そう言えば結婚した友だちがいつか、「結婚して一番良かったことは、もう恋愛の駆け引きに神経を使わなくて良くなったこと!」と吐き捨てるように言っていたが、それと似たようなものだろうか‥。(違うかも知れない)
とにかく私は、今、透明な爪で生きている。わずか1センチ四方ほどの小さな、小さな、爪。だけどその上には女の人生が、凝縮されている、と思う。
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強い女の時代 2011/07/02
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少し前の話になるが、友人が通っている日本武道の演武会を観に行く機会があった。‥と書くと、これまでの常識ではこの“知り合い”は男性だったはずだが、私の友人は女性である。
私の通っているお茶の教室に、他流派でありながら時々ゲストとして遊びに来る方がいて、その人がお茶を点てている姿を見ていると、流派の違い云々ではなく、何か一つ一つの所作が根本的に他の女性たちと違っている気がしてならなかった。ある日、お稽古の後の雑談の中で彼女が日本武道を習っているという話を耳にして、私は一人心の中で「それだ!」と合点が行ったのだった。
そんな彼女にお誘い頂き、私は演武会に足を運ぶことになった。実はこれまで周りに武道関係の習い事をしている人がほとんどいなかったので、こういった発表会を見るのは初めての経験だった。そして驚かされたのは、次から次へと道場中央に現れては武道を披露する門弟たちの中に、女性の姿がたくさんあったことだ。
棒術、縄術、合気道術‥どれも大変力が要りそうだし、何か一つの所作でも間違えたらとてつもなく痛い思いをしそうだ。それでも彼女たちは真剣な表情で一つ一つの演武をこなし、会が終わった後で聞いてみると、皆さん、昨日や今日習い始めた訳ではなく、5年、7年、10年以上と長年にわたって武道の稽古を続けているということだった。
ところで、こんな文章を読むと、意地悪な男性は「どうせそんな女はブスばっかりなんだろう?」と思われるかも知れない。或いは、岩のような巨体の女性を想像する人も多いのではないだろうか。ところがここの女性たちは皆普通にかわいらしく、職場にいたら上司や同僚男性社員の人気を集めそうな人たちばかりなのだ。うーんと私は考え込んでしまうことになった。
*
私が考え込んだのは、何故彼女たちは強くなろうとするのだろう?ということだった。
確かにこの5、6年、雑誌やネットのニュースなどで「ボクシングを習う女性が増えている」という記事を度々見かけたことがあった。そう言えば近所の小学校の前を通り過ぎると、サッカーチームの練習に、男の子たちに交じって必ず何人か女の子がいるのが目に入る。時代は変わったのだなあと思わざるを得ないのだ。
私が子どもの頃は、いや少なくとも私の青春期までは、剣道を除いて、闘う競技は全て男性だけのものだった。それどころか――私の通っていたエスカレーター式の私立高校(共学)が特に保守的だったせいもあるかも知れないが――うっかり「私、料理下手だから」などと口にしようものなら、真顔で男子同級生から、「女が料理出来ないなんて有り得ないだろう?そんなことじゃお嫁に行けないよ。何とかしなよ」と注意されたり、女の子同士の間でも、秀才で東大を目指していた同級生の或る女の子のことを、「H子、東大なんて目指してどうするんだろうね?結婚出来なくなっちゃうじゃん」と陰口を叩いたりしていた。これはもちろん、女は日本の最高偏差値機関である東大になど進学して、男に勝ってはいけない、ということを意味している。
男は外で働き、女は家で細々とした家事をする。男に勝る女など存在してはならない。当時、男女雇用機会均等法が成立してキャリアウーマンも生まれてはいたが、一方で、保守的な世界の中では、昔ながらの男女観がまだ「常識」として堂々と語られていた時代だった。もちろん、その環境の中では、女が男のようなスポーツをすることなど想像の外にあった。
結局私はそんな凝り固まった環境に嫌気がさして、エスカレーター式に上の大学へ進学することはキッパリ拒絶することになった。女は全ての面で男性の下にいなければいけない、そんな思想は絶対に受け入れられなかった。私は自分の能力を使って社会の中で何かしらの場所を占めることが出来ると確信していたし、一日中家にいることになったら発狂してしまうだろうとありありと想像出来た。だから、私の考えとは全く違う思想を持った同級生たちとこれ以上一緒に過ごすことは出来ない、と思い、高校2年の終りに、外の大学へ出ることを決めた。そして即開始した受験勉強が奏功して運良く浪人もせず大学に入学し、卒業後はずっと仕事を続けて今の自分にそれなりに満足している。社会の中で仕事を通じてたくさんの人と接した経験から、男と女の間に、性別に由来する能力差など存在しない。あるのは個人差だけだ。その実感をますます深めるようにもなっている――
――そんな私でも、「体力」或いは「腕力」というレベルで男性と競おうとすることは、想像の範囲外にあった。マラソン、高跳び、水泳、格闘技‥女性がいくら努力をしても、体格や筋力による性差だけは乗り越えることは出来ない。現にオリンピックの記録を見ても、女が男に勝ったことなど一度もない。それに、別に勝つ必要などないではないか、と思っていた。現代は全てにおいて機械化が進み、力持ちの出番は非常に少ない。戦争ですら、どんどんオートメーション化・無人化されてボタンさえ押せ事足りるようになって来ているのだから、体を鍛える必要などない。要するに、腕力には社会的価値はほとんどなくなっている時代なのだ。だったら別にそこに挑戦する必要もないではないか。
女は男に守ってもらえるから強くなる必要はない――のではなく、強くなる必要がないから強くならなくても良い――そんな風に考えていた。でもどうやらそうは思わない女性もいるようなのだ。しかもその数が年々増えているようでもある、と、その演武会の帰り道にしみじみ思わされたのだった。
*
ところで、時代がこのように変化して来ると逆に気になるのは、男性たちの反応だ。おそらく有史以来常に「強さ」への賛美や「強さ」への強迫観念と共に生きて来た男性たちは、このような「肉体的な強さを志向する女性たち」にどのような感慨を抱くのだろうか?
私はあるエピソードを思い出した。
私の友人の中に、ランニングに非常に真剣に取り組んでいる女性がいる。仮にその人をKちゃんとするが、Kちゃんからこんな話を聞いたことがあった。
或る時Kちゃんは、市民ランナー仲間と共にマラソン大会に参加した。全員がふだんから練習を積み、走ることには自信を持っているメンバーだ。中にXさんという男性がいた。また、Yちゃんという女性もいた。走って行くうちにこの二人は、トップ集団ではないけれど、真ん中辺りで二人で並んで走るようなレース展開になっていた。ゴールまではもうそれほどない。向こうに、最後の給水ポイントが見えて来た。二人とも体力には余裕があり、このまま問題なくゴール出来そうだった。するとそのとき、XさんはYちゃんにこう言ったそうだ。
「ゴールまで体力を維持するためには、あそこで給水しておいた方がいい。一緒に飲もう」
Yちゃんはなるほどと思って同意し、やや速度を落として給水ポイントへ近づいて行った。すると突然Xさんは猛烈に加速して、何と水には目もくれずゴールへ向かって一目散に走り去ったそうだ。一瞬呆然としたYさんはすぐに気づいた。ああ、Xさんは、どうしても私に勝ちたいんだ、と。女に負ける、或いは女と同タイムでゴールする、なんて、彼にとっては絶対に認められないことなんだ。だから、5秒でも、1秒でもいいから私より速くゴールインするために、こんな姑息な嘘をついたのだな、と。
「で、結局どうなったの?」
と私は聞いてみた。結局Yさんはその後何だかとてつもなく嫌な気分になってしまい、ペースを上げるでもなく淡々と走ってXさんより後のタイムでゴールインしたそうだ。もちろん、これは彼女の性格によるもので、中にはこういうことをされたら「なにくそ」と猛烈な底力を発揮して、絶対にXさんを追い抜こうとする女性もいるだろう。だがYさんは意気阻喪してしまった。もちろん、その後女性ランナー仲間にこのエピソードを「聞いて聞いて!」と話し、Xさんは卑怯者として女性たちの笑い物になっているのだが。
しかし、いかに男性が「腕力で女性に負ける」ことを恐れているかが、このエピソードからはよく伝わって来る。
Kちゃんも似たようなことを経験したと言う。
マラソンに取り組み始めたまだ最初の頃、男女入り混じったマラソン仲間が出来た。ある男性とは特に気が合って仲良くなり、楽しく一緒に練習をこなしていた。ところが、皆で出場したマラソン大会でKちゃんがその男性より速いタイムでゴールインした後から、突然よそよそしくなって以前のような友情関係は消滅してしまったのだそうだ。
このエピソードからも、「腕力」で女性に負けることがいかに男性のプライドを傷つけるかが、ひしひしと痛いくらい伝わって来る。「もう本当にがっかりしちゃったよ」と、Kちゃんは一人憤慨しているのだった。
*
一方で、こんな男性もいる。
或る時、元自衛官の男性とお食事をする機会があった。現在は退官して全く別の仕事をしているが、予備役には登録しているので有事の際には出動に応じるという方だ(恐らく今回の東北関東大震災の後の救援活動にも召集されているはずだ)。がっちりとした体格で、いかにも強そうな男性だった。実際、色々と話してくれた自衛隊の訓練はとてつもなく過酷なもので、それに耐えられたこの人は、腕力についてはいわゆる「男の中の男」なのだなと思わされる人だった。
そんな彼と話が弾み、大分時間が経った頃、私はふと日頃から思っていた疑問を投げかけてみたくなった。それは、「女性兵士」という存在についてどう思うか、という問いだった。
ニュースで何度か見たことがあるが、イスラエルでは、女性にも男性と同様の徴兵制度があるという。また何もイスラエルまで目を向けなくても、日本の自衛隊の中にも女性自衛官が存在するし、テレビで見る中東派遣のアメリカ軍の中にはしっかりと女性兵士が混じっている。男性軍人として、こういう女性兵士の存在をどう思うのか?と訊いてみたかった。戦場で彼女たちは本当に役に立つのか?と。
彼の答えはこうだった。
自衛隊に入り、男性と同様厳しい訓練を耐え抜くことが出来る強い女性がいることを知った。もちろん、オリンピックなど、世界の本当の頂点の戦いになれば、女性が男性に勝つことは難しいかも知れない。でも、それは「世界の数十人レベル」の話だ、と彼は言った。それ以下のレベルを相手にするのであれば、例えば、俺がいくら頑張ったってマラソンで高橋尚子に勝つことは出来ないし、テニスで伊達公子に勝つことも不可能。柔道だって、谷亮子に勝つことは出来ないだろう。男だからというだけで必ず女に勝てる訳ではない、と彼はハッキリ言い切った。それはあくまで個人個人の身体能力差の問題で、女の方が男より強い場合など山ほどある、と。ああ、本当に「強さ」を究めた男の人は、こういうことを言うのだな、と私はとても感心して耳を傾けたのだった。
*
「強い女」、或いは、「腕力でも男に勝とうとする女」について、今私が思うのはこういうことだ。
20数年前、高校時代の私が学校の同級生から「女はおとなしく」「女は家に」と押しつけられたときに強い反発を感じたように、「女は力では男に勝てない」と押しつけられることに、反発を感じる女性もいるのではないか、と。
例えば、Nちゃんという女性の友人がいる。彼女とは、私が上述の高校の同級生に反発して大学受験のために通い始めた塾で知り合い、今でも友情が続いている大切な大切な友人だ。
Nちゃんは、当時、読者モデルで或る雑誌に出たときに、有名なファッションフォトグラファーから「モデルになったらどうか」とアドバイスを受けたくらいの美しい女性だ。当然男性にもいつも人気があるが、その彼女が二十代になってから突然空手を始めて、「一体何故?」と当時の私はとても驚かされた。
また、Nちゃんは三十代になってからはマラソンにも挑戦を始め、才能があったのだろう、市民ランナーとしては非常に好記録をマーク。大阪国際マラソンなど、名門大会に市民ランナー枠で出場権を得るまでになった。もちろん普通の男性よりずっと好記録を出す。
ただ、彼女を見ていても、また冒頭でご紹介したお茶の教室で出会った女性にしても、そこには「何が何でも男を負かしてやる」とか、「潜在的に男性に対して強い恨みの感情を持っている」といった男性への対抗心は存在しない。現にお茶の彼女には旦那様がいるし、Nちゃんも結婚はしていないものの、これまでに素敵なボーイフレンドたちと幾人かつき合って来た。
そう、彼女たちにとって、「男性に対抗する」ということが「強くなりたい」ことの原動力なのではない。話はもっとごく単純で、彼女たちはただ生まれつきとても強いだけなのだ、と思う。別の言葉で言えば、持って生まれた身体能力が非常に高い。それは彼女たちの生まれつきの大きな大きな才能なのだ。
例えば、走り始めればすぐに好タイムが出るし、腕を伸ばす、振り上げる、体の向きを俊敏に変える‥いくらやっても疲れないし、自由自在に各部を動かすことが出来る。だったら、これをもっと複雑に、力強く、体系的に動かして術として身につけてみたい!と思うようになるのも当然のことだろう。そうやって、彼女たちの中に、武道を習ってみようという気持ちが生まれるのだろうし、マラソンに挑戦してみようという気持ちも生まれて来るのだろう。自分の中に何かの能力があったのなら、それは自分にとって「良きもの」として捉えられる。もっともっとそれを育ててみたい、どこまで出来るのかやってみたいと願うことは、人間の本性の一つであると言って良いだろう。
そして、その育てる過程の中で、同じ道を志す男性と出会うことになる。そのとき、先ほどの元自衛官の方が話していたように、或る男性の持っている身体能力が彼女の身体能力より下回っていることなど、実は、数限りなく起こり得ることなのだ。これまではそれを「男は女より強い」というざっくりとした共同幻想で覆い隠していたに過ぎない。
もちろん、こんなことは、昔の女だって気づいている人はかなり気づいていたのではないかと思う。私自身はたまたま握力や背筋力が学校の体力検査で学年一低かったくらいにもやし体力に生まれついたため、「女は男に体力の面ではかなわない」とぼんやり受け入れてしまっていたが、Nちゃんたちのように身体能力の高い女性から見れば、「いつも女が男より身体能力が落ちると決まっている訳ではない」と、自分の体を通して実感していたはずだ。
それでも、これまでの社会は女性が経済能力をなかなか身につけることが出来ない仕組みになっていたために、女たちは「そうそう、殿方はお強いのですよね」と、芸者や銀座のママ風の知恵でにこにこ笑って男を立て、生きて行く金を稼いでもらって来ていただけのことなのだと思う。自分で自分の金を稼げるようになれば、愛想笑いは必要なくなる。強い女はただ「強い」と、ありのままの自分を外に表すようになって来たのではないだろうか。
そう、2000年代になって急に女性の身体能力が向上した訳ではなく、強い女は昔から普通に存在していた。ただ、弱い女の芝居をするのを止めただけの話なのだ。
*
‥という訳で、2011年の現在、或る一群の女たちはせっせとボクシングジムに通い武道場で汗を流し、フルマラソンやトライアスロンに挑戦する。男性が女性上司の下で働くことが話題になった時代がかつてはあったが、今ではそんなことはごく当たり前の風景になっているように、スポーツや武道で、そして町中でのケンカで、女が男に勝つことがあることも、当たり前になる時代が来るのかも知れない。勝つ方の女は精神的に楽だが、負ける側の男性は内心おだやかではないだろう。しかし、この流れは止まらないように思える。だとしたら男性は、「女に負けた」のではなく、「この人に負けた」という視点を持てるようになること。それがこれからの愛される男性の姿なのかも知れない。
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女子最強妄想恋愛歌詞 2010/03/31
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最近、料理を作っているときにふと、私が小学生の頃にアイドルの河合奈保子が歌っていた『けんかをやめて』の歌詞を思い出した。それで豚肉を切ったりお味噌を湯にといたり蓮根を切ったりしながら声に出して三回歌ってみたのだけど、歌えば歌うほど、これはすごい歌詞なのだということに気づいてしまった。
知らない方のために下に歌詞を上げてみるので、ゆっくりと一語ずつ、まるでどこかに落とし穴のある保険の契約証書を「だまされないぞ!」と目を皿のようにして読むときのように、全ての語の意味を考え・想像し・反芻しながら読んで下さい。
『けんかをやめて』
けんかをやめて
二人を止めて
私のために
争わないで
もう
これ以上
違うタイプの人を
好きに
なってしまう
揺れる
乙女心
よくあるでしょう?
だけど
どちらとも
少し
距離を置いて
上手く
やってゆける
自信が
あったの
ごめんなさい ね
私のせい よ
二人の心
もてあそんで
ちょっぴり
楽しんでたの
思わせぶりな
態度で
だから‥
けんかをやめて
二人を止めて
私のために
争わないで
もう
これ以上
*
作家の赤坂真理が「週刊新潮」で連載しているTVについてのコラム・『テレビの穴』が面白くて毎回楽しみに読んでいるのだけど、彼女が連続ドラマを分析するときに使うタームに、「大して美しくもない私が複数の男性に愛される物語」という秀逸な概念がある。
そう言われてみれば大ヒットドラマ『花より男子』もそうだし、奥様方をターゲットにした昼ドラにもこのパターンは多いようだ。赤坂真理の分析によれば、これは実は女子の恋愛妄想の最高形態、つまり、女子の理想の自画像であるという。
確かに、少女マンガにはこのパターンが多い。古くは『キャンディ・キャンディ』もそうだし、『エースをねらえ!』もそう(宗像コーチと藤堂さん!)。『ガラスの仮面』だってそうだった(速水真澄と桜小路くん!!!)。そう言えば『はいからさん』もそうだし、『サプリ』にもそういうところがあるし、くらもちふさこの漫画にも幾つかあったように思う。確かに赤坂真理の言うことには一理ある。このタイプの物語が繰り返し日本女子の娯楽の中に現れて来るということは、多くの日本の女子の妄想の森の奥に、「大して美しくもない私が複数の男性に愛される物語」が、ひっそりと夢見られているということなのだろう。
*
さて、そういう視点でもう一度『けんかをやめて』の歌詞を読み返してみると、実にこの歌詞の世界こそ、「大して美しくもない私が複数の男性に愛される物語」を現実世界に具現化させようと、策謀をめぐらす或るタイプの日本女子の精神構造を描いているように思える。どういうことか、もう一度この視点を用いて、『けんかをやめて』の歌詞の一語一語の裏に隠されている女子の本心を読み解いてみよう。
「違うタイプの人を
好きに
なってしまう」
↑この部分の本音はこうだ。↓
「身近にいる違うタイプの男の子二人が
ちょっと私を
好きに
なってくれそう」
「揺れる
乙女心
よくあるでしょう?」
↓
「だから
ちょっかい
出しちゃおうかな?」
「だけど
どちらとも
少し
距離を置いて」
↓
「もちろん
どちらのことも
少しずつ
じらしたりして」
「うまく
やってゆける
自信があったの」
↓
「うまく
やり続ける
ようにしたかったの」
「ごめんなさい、ね
私のせい、よ」
↓
「でもね、やっぱり
そういう訳にもいかない、わよね」
「二人の心
もてあそんで」
↓
「二人の心
意図的にもてあそびました」
「それを
ちょっぴり
楽しんでたの」
↓
「それが
すごく
楽しかったの」
「思わせぶりな
態度で」
↓
「男って思わせぶりな
態度にすぐ騙されるから最高」
「だから‥」
↓
「だから‥」
「けんかをやめて
二人をとめて」
↓
「もっとけんかして
二人とももっと続けて
そうすれば私がヒロインでいられるもの!」
「私のために
争わないで」
↓
「私のために
どんどん争って」
「もう
これ以上」
↓
「もう
これ以上気分いいことってない♪」
*
どうでしょう?
男性読者の方、震えが来ているでしょうか?
一応念のため断っておきますが、私はいわゆる旧日本男児並みにきっぱりとした性格をしていますし、そもそも全然もてませんのでこの女子のようなことを考えたりしませんが、何故こういう分析が出来るかと言うと、それは、同性観察が好きで、また時々周りにこういう確信犯ぶりぶり女子が調子よく現れてくれるので、面白いからじっと観察し続けてそれで生態に詳しくなったのであります!
‥とまあ、そんなことは良いとして、こんな女子に引っ掛かったら男子としては迷惑この上ないだろうが、それでも被害に遭う男子は後を絶たないようだ。それも、結構お仕事やら業績的には優秀な男性がころりと騙されているのを見るとなんともはやな気持ちになるが、面白いのは、こういう『けんかをやめて』的女子ほど、社会の中での地位は不安定だということだ。つまり、一生自分で生きて行ける何らかの仕事なり技術を持っている訳ではなく、最後は男の金で暮らしていくことを当てにするしかない女性。そういう女性ほど、『けんかをやめて』的な、まあぶっちゃけた言葉で言えばぶりっこ・かまとと女なのだ。
もしかしたら、フェミニズム+ルサンチマンの哲学の概念を用いれば、ここに女から男への“無意識の復讐”を読み取ったりも出来るのだろうか?そういう面もあるような気はするが、私の観察としては、こういう女性は、身近な男性の気を引くくらいしか他に出来ることがないので、そこについ全精力を注いでしまう、そんななけなしの理由が一番大きいような気がする。
*
‥とまあ、色々と考えさせられることの多い『けんかをやめて』である。
気になるのは、作詞者の竹内まりやが、どういう意図でこの詞を書いたのか?ということだ。彼女自身はとても美しく音楽の才能もある女性で、よもやぶりぶりぶりっ子女子ではないだろうが、女の中の暗黒面を皮肉に描き出してみたかったのか、「女子の潜在妄想を歌詞にしてみたら受けるかも!」という意図だったのか?いずれにせよ怖い女性だなと思う。
また、もう一つ気になるのは、この歌詞が出た時代は、まだまだ本当に自立した女性は非常に少なかった。しかし今後は、日本女子も経済情勢をかんがみるにぶりっこしていてもメリットはとても少なく、どんどんどんどん(多くの日本女性の意に反して)女性の経済的自立が進んでいくような気がするのだが、その後で、意図的に女たちが「大して美しくもない私が複数の男性に愛される物語」を生きようとするとどうなるのだろうか?ということだ。
たぶん、そのときこそが男性にとって本当の“迷惑この上ない”時代の始まりなのかも知れないが、意外と、丁々発止、すがすがしくラブ・ウォーズが繰り広げられて面白い時代になったりするのだろうか。
いずれにせよ、女子会の最後は皆で『けんかをやめて』を合唱。これで決まり!