西端真矢

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女子最強妄想恋愛歌詞 2010/03/31



最近、料理を作っているときにふと、私が小学生の頃にアイドルの河合奈保子が歌っていた『けんかをやめて』の歌詞を思い出した。それで豚肉を切ったりお味噌を湯にといたり蓮根を切ったりしながら声に出して三回歌ってみたのだけど、歌えば歌うほど、これはすごい歌詞なのだということに気づいてしまった。
知らない方のために下に歌詞を上げてみるので、ゆっくりと一語ずつ、まるでどこかに落とし穴のある保険の契約証書を「だまされないぞ!」と目を皿のようにして読むときのように、全ての語の意味を考え・想像し・反芻しながら読んで下さい。

    『けんかをやめて』
    
    けんかをやめて
    二人を止めて
    私のために
    争わないで
    もう
    これ以上

    違うタイプの人を
    好きに
    なってしまう
    揺れる
    乙女心
    よくあるでしょう?

    だけど
    どちらとも
    少し
    距離を置いて

    上手く
    やってゆける
    自信が
    あったの

    ごめんなさい ね
    私のせい よ
    二人の心
    もてあそんで
    ちょっぴり
    楽しんでたの
    思わせぶりな
    態度で

    だから‥

    けんかをやめて
    二人を止めて
    私のために
    争わないで
    もう
    これ以上

       *

作家の赤坂真理が「週刊新潮」で連載しているTVについてのコラム・『テレビの穴』が面白くて毎回楽しみに読んでいるのだけど、彼女が連続ドラマを分析するときに使うタームに、「大して美しくもない私が複数の男性に愛される物語」という秀逸な概念がある。
そう言われてみれば大ヒットドラマ『花より男子』もそうだし、奥様方をターゲットにした昼ドラにもこのパターンは多いようだ。赤坂真理の分析によれば、これは実は女子の恋愛妄想の最高形態、つまり、女子の理想の自画像であるという。
確かに、少女マンガにはこのパターンが多い。古くは『キャンディ・キャンディ』もそうだし、『エースをねらえ!』もそう(宗像コーチと藤堂さん!)。『ガラスの仮面』だってそうだった(速水真澄と桜小路くん!!!)。そう言えば『はいからさん』もそうだし、『サプリ』にもそういうところがあるし、くらもちふさこの漫画にも幾つかあったように思う。確かに赤坂真理の言うことには一理ある。このタイプの物語が繰り返し日本女子の娯楽の中に現れて来るということは、多くの日本の女子の妄想の森の奥に、「大して美しくもない私が複数の男性に愛される物語」が、ひっそりと夢見られているということなのだろう。

         *

さて、そういう視点でもう一度『けんかをやめて』の歌詞を読み返してみると、実にこの歌詞の世界こそ、「大して美しくもない私が複数の男性に愛される物語」を現実世界に具現化させようと、策謀をめぐらす或るタイプの日本女子の精神構造を描いているように思える。どういうことか、もう一度この視点を用いて、『けんかをやめて』の歌詞の一語一語の裏に隠されている女子の本心を読み解いてみよう。

「違うタイプの人を
好きに
なってしまう」

↑この部分の本音はこうだ。↓

「身近にいる違うタイプの男の子二人が
ちょっと私を
好きに
なってくれそう」

「揺れる
乙女心
よくあるでしょう?」

「だから
ちょっかい
出しちゃおうかな?」

「だけど
どちらとも
少し
距離を置いて」

「もちろん
どちらのことも
少しずつ
じらしたりして」

「うまく
やってゆける
自信があったの」

「うまく
やり続ける
ようにしたかったの」

「ごめんなさい、ね
私のせい、よ」

「でもね、やっぱり
そういう訳にもいかない、わよね」

「二人の心
もてあそんで」

「二人の心
意図的にもてあそびました」

「それを
ちょっぴり
楽しんでたの」

「それが
すごく
楽しかったの」

「思わせぶりな
態度で」

「男って思わせぶりな
態度にすぐ騙されるから最高」

「だから‥」

「だから‥」

「けんかをやめて
二人をとめて」

「もっとけんかして
二人とももっと続けて
そうすれば私がヒロインでいられるもの!」

「私のために
争わないで」

「私のために
どんどん争って」

「もう
これ以上」

「もう
これ以上気分いいことってない♪」

        *

どうでしょう?
男性読者の方、震えが来ているでしょうか?
一応念のため断っておきますが、私はいわゆる旧日本男児並みにきっぱりとした性格をしていますし、そもそも全然もてませんのでこの女子のようなことを考えたりしませんが、何故こういう分析が出来るかと言うと、それは、同性観察が好きで、また時々周りにこういう確信犯ぶりぶり女子が調子よく現れてくれるので、面白いからじっと観察し続けてそれで生態に詳しくなったのであります!

‥とまあ、そんなことは良いとして、こんな女子に引っ掛かったら男子としては迷惑この上ないだろうが、それでも被害に遭う男子は後を絶たないようだ。それも、結構お仕事やら業績的には優秀な男性がころりと騙されているのを見るとなんともはやな気持ちになるが、面白いのは、こういう『けんかをやめて』的女子ほど、社会の中での地位は不安定だということだ。つまり、一生自分で生きて行ける何らかの仕事なり技術を持っている訳ではなく、最後は男の金で暮らしていくことを当てにするしかない女性。そういう女性ほど、『けんかをやめて』的な、まあぶっちゃけた言葉で言えばぶりっこ・かまとと女なのだ。
もしかしたら、フェミニズム+ルサンチマンの哲学の概念を用いれば、ここに女から男への“無意識の復讐”を読み取ったりも出来るのだろうか?そういう面もあるような気はするが、私の観察としては、こういう女性は、身近な男性の気を引くくらいしか他に出来ることがないので、そこについ全精力を注いでしまう、そんななけなしの理由が一番大きいような気がする。

         *

‥とまあ、色々と考えさせられることの多い『けんかをやめて』である。
気になるのは、作詞者の竹内まりやが、どういう意図でこの詞を書いたのか?ということだ。彼女自身はとても美しく音楽の才能もある女性で、よもやぶりぶりぶりっ子女子ではないだろうが、女の中の暗黒面を皮肉に描き出してみたかったのか、「女子の潜在妄想を歌詞にしてみたら受けるかも!」という意図だったのか?いずれにせよ怖い女性だなと思う。
また、もう一つ気になるのは、この歌詞が出た時代は、まだまだ本当に自立した女性は非常に少なかった。しかし今後は、日本女子も経済情勢をかんがみるにぶりっこしていてもメリットはとても少なく、どんどんどんどん(多くの日本女性の意に反して)女性の経済的自立が進んでいくような気がするのだが、その後で、意図的に女たちが「大して美しくもない私が複数の男性に愛される物語」を生きようとするとどうなるのだろうか?ということだ。
たぶん、そのときこそが男性にとって本当の“迷惑この上ない”時代の始まりなのかも知れないが、意外と、丁々発止、すがすがしくラブ・ウォーズが繰り広げられて面白い時代になったりするのだろうか。
いずれにせよ、女子会の最後は皆で『けんかをやめて』を合唱。これで決まり!