西端真矢

ARCHIVE:
深夜の偶然、或いは必然 (2017/02/05 )
帝国ホテルで取材中。 (2017/01/30 )
徹夜明けにて (2017/01/20 )
新年にあたり今年の抱負を。 (2017/01/02 )
北国にて (2016/12/23 )
ハセ政宗ロス!~~スピンオフ制作をNHKにリクエストしよう運動 (2016/12/19 )
出雲・奥出雲へ取材旅行に (2016/11/30 )
本の最後の朱字入れ (2016/10/18 )
雑誌の撮影にて (2016/10/08 )
「千家十職展」とウエストのケーキ~取材と取材の間の過ごし方 (2016/09/02 )
忙中楽あり~極上和菓子、文豪写真、猫、真田丸、長唄、神楽坂 (2016/08/03 )
本から雑誌へ、雑誌から本へ (2016/07/13 )
謎の足の腫れ (2016/06/12 )
国会図書館にて (2016/06/03 )
ウォーキング始めました。 (2016/05/19 )
狂気の中の誕生日 (2016/04/08 )
不思議な水仙 (2016/04/04 )
新年明けましておめでとうございます。 (2016/01/03 )
仕事を断る冬 (2015/12/24 )
一人お茶の稽古で心を静める午後 (2015/10/04 )
“大好きな有名人に身近に会える運”野宮真貴さん篇、10月9日きものサローネで!予告! (2015/09/27 )
雑誌のページが出来るまでの最初の作業を、休日に。 (2015/09/19 )
秋の初め、雑誌と本の取材が続いています~染織工房と山梨の農村へ (2015/09/15 )
冷やし干し柿で猛暑を乗り切り+浴衣で数時間娑婆に出た日 (2015/08/13 )
深夜の叙事詩セブンイレブン篇 (2015/07/29 )
銀座の小さなカフェで、忙中閑あり (2015/07/22 )
連休中、細胞について考えてみたり (2015/07/20 )
人生をふわりと持ち上げてくれる音楽について (2015/07/17 )
友を送る茶会に、オリジナルの主菓子をあつらえて(お菓子&きものコーディネイト写真付き) (2015/06/24 )
喪の日のきものと、厳しかった大学時代恩師の思い出(コーディネイト写真付き) (2015/06/19 )
我が家の庭の巨大紫陽花 (2015/06/14 )
人生を左右する“頭にピッタリの枕”問題について (2015/06/10 )
季節の花を生ける (2015/05/26 )
本を書くために必要なこと――その一、舞台となる村を訪問する (2015/05/18 )
桜ともみじが一つの幹になった大変珍しい「桜楓の木」と、春の雪と、誕生日 (2015/04/08 )
春の訪れ 庭の草木 (2015/03/17 )
お雛様飾り、今年はちょっとずるをした飾り方で (2015/03/04 )
郊外に住む幸せ‥吉祥寺、冬の午後の井の頭公園散歩 (2015/02/19 )
雪と水仙 (2015/01/30 )
今年は、勝負の年 ~新年のご挨拶と決意表明日記~ (2015/01/03 )
本を書くことになりました+その打ち合わせには結城縮み×博多の帯で (2014/09/17 )
プロフェッショナルとして文章を書くということ (2014/09/14 )
8月初日、雑誌のお仕事でロケハンへ! (2014/08/01 )
アキラ(寺尾聰)に夢中! (2014/07/12 )
憧れの女性(ひと) (2014/03/30 )
新年に寄せて~今年の抱負と、きものコーディネイト写真も! (2014/01/05 )
伯父の葬儀 (2013/12/27 )
私、という見知らぬ誰か (2013/11/24 )
宇野千代自伝『生きて行く私』に見る股のゆるさと宇野千代きものについて (2013/11/04 )
【ちょっと近況】私のyoutube語学学習法 (2013/09/11 )
日本ブログ村からご覧になって頂いた皆さんへ~エラー表示のお侘び (2013/05/13 )
最近の忙しさと、仕事についてのご報告~~気鋭の仕事人への連続インタビュー、始まりました! (2013/03/13 )
今さらですが‥年頭抱負 (2013/01/27 )
日記を書けない日々 (2012/12/20 )
ヴェネツィアの夜~~或る有名建築家と過ごした一晩に学んだ人生の大切なこと (2012/10/08 )
ちょっと珍しい柄の手ぬぐい入手!+草の根の被災地支援 (2012/08/15 )
日々雑感と、中国・薄熙来事件 (2012/04/19 )
友の訃報 (2012/04/10 )
新世界遺産・平泉への旅。道すがら俳句も詠んでみました。 (2011/10/12 )
逃げる・逃げない論 (2011/03/29 )
極度の緊張下の東京から (2011/03/17 )
「梅雨が怖い + ジャ・ジャンクー監督インタビュー翻訳」 (2010/07/07 )
「凝り性の女」 (2010/06/04 )
「連休雑感と習うより慣れろ」 (2010/05/14 )
「宝くじに当たったら」 (2010/03/24 )

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深夜の偶然、或いは必然 2017/02/05



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本日、深夜、本の後書きを書いている。
2014年12月から取材調査を始め、執筆開始が2015年12月。2017年2月の今、やっとここまでたどり着いた。
時々頭を休めるため、お茶を点てる。
お茶碗は、山梨県の土地の焼き物、能穴焼き。
山梨にお住いだったという友人のおばあ様の形見を頂いたもので、今晩、何となくこの茶碗を択んでいたのだが、途中ではっと手が止まる。考えてみれば今書いている本の最初の三章は、この窯にごく近い、武川牧原という村が舞台なのだ。もしかすると本の登場人物が今夜、小さな茶目っ気をはたらかせたのかも知れない。
とにもかくにもあと一息である。本文の執筆にくらべ後書きに向かうことの、何とせいせいと気の楽なことか‥

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帝国ホテルで取材中。 2017/01/30



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今日は取材で朝日賞の贈呈式に来ています。
帝国ホテルの巨大な宴会場が満員。華々しい限りです。
受賞者のお一人である浅田次郎先生とすれ違いましたが、紋付き袴でカリスマ光を発しておられました!

徹夜明けにて 2017/01/20



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本日、久々の徹夜で三日間ほど苦しんでいた原稿を書き上げ、先ほど編集部にメール送りした。
不思議なもので、取材も楽しく、書きたいこともたくさんあってうずうずしているのに何故か上手く書けない原稿があり、いま一つ盛り上がらない取材だったり内容が複雑重厚だったりしているのに、するっとまとまってしまうものもある。
今回は完全に前者の方で、難航した原因は、書き出しがどうにも上手く行かなかったこと。最初の二日はほぼ書き出しに使ってしまい、三日目の深夜、と言うか本日早朝4時を過ぎてもどうしてもまだ気に入らず、そのまずさのせいで中盤から後半も調子が出ていないことにひしひしと自分が一番気づいている。
「もうこのまま出すしかないのか‥」
敗北感に打ちひしがれながら、あまりの敗北感のためか気づくと40分くらい眠ってしまっていて更に高まる敗北感。けれど、目が覚めた後、突然するすると冒頭がまとまり、後半までそのまま波に乗って書き直すことが出来た。ああ、ご機嫌である。眠っている間に脳の中で何かが起こっていたのだろうか‥

ともかく、今日のところは一仕事終えてまた次の原稿に向け頭を切り替えていこう。「こんなもの書いていないで、早く寝なさい!」というやさしい友人たちの声が耳鳴りがするほど聞こえて来るが、今、お風呂が沸くのを待っている間に、眠ってしまわないようこの文章を書いているのだ。お風呂に入らずに眠ったことは、人生で二度ほどしかない。

(写真は、ダミー文章が入ったページレイアウトと、原稿を書くために使った資料を重ねたもの。赤文字の数字は、レイアウトから字数を計算したもの。雑誌の仕事は常に字数との闘いである)


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新年にあたり今年の抱負を。 2017/01/02



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皆様、新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
昨年、私は、前半半年は国会図書館での調べもの以外ほぼどこへも外出せず、ひたすら家で本の原稿を書く日々。
後半からは、その本の初稿の修正や校正をしつつ、日々大変多くの雑誌のお仕事を頂き、これ以上にないほど充実した一年を送ることが出来ました。
新しい、丁酉平成二十九年の今年は、まず、まだ校正の続いているその本の最終校正を終え、出版をすること(2月頃の発売になると思います)。そして、引き続きたくさんの編集者、プロデューサーの皆様から声をかけて頂けるよう、より質の高い仕事を目指して行きたいと思っています。

          *

一方、仕事以外の時間については、まず、今年は、書道元年にしたいと思っています。
元来読書好き、そして中国に留学していたこともあって無条件に「字」というものが好きなわりに、とにかく不器用なせいでどうにも書道を敬遠して来てしまいました。しかし、やはりこれではいけないと一念発起。今年は書の稽古を始めます!
‥と、いかにも自発的なようですが、昨年秋に或る茶会に招かれ、お持ちするお祝いの熨斗紙に名前を書こうとしたもののあまりにもまずい字のため結局フェルトペンで書いて持って行った‥という挫折体験が深く心に染み込み、やっと重い腰を上げたのでした。
本当は、ずっと習いたかった先生がいたのですが、教室が家から若干遠く、しかも日にちが固定しているとなると、私の性格、そして仕事の都合上からも、どうしても通うことが出来そうにない。家の近所で通える良い先生が見つかりそうで、そんなこともあって何年来の課題に取り組んで行けそうです。まあ、何しろ縦線、横線から始めるので、多少なりともましな字が書けるようになるにはまだまだ時間はかかるでしょうが‥
          *
そして、もう一つ、今年は、「自由な文章を書く機会を作る」ことを心がけたいと思っています。
文筆業をしていますから、もちろん文章は常に書き続けている訳なのですが、仕事で書いている以上、媒体・編集者さん・取材対象者さんの意向が反映され、実は、常に100パーセント自分の思うことを思う通りに書ける訳ではありません(もちろん、書ける場合も多くあります)。そして、驚かれるかもしれませんが、時には文体を一部変更されることさえもあるし、もちろんそもそも字数の制限もあります。
これらのことは仕事である以上不可抗力ではあるのですが、それとは全く別の世界として、やはり自分の思うことを100パーセント自分の文体で書く時間を作らなければいけないということを、この頃つくづくと実感するようになりました。そうしないといつか心を病んでしまうでしょう。

振り返ってみればこの3年程は、次々とお仕事をいただけるというこの状況に、やはり自分がまだ慣れていなかった。新しい状況に自分を順応させることで手一杯でやって来ましたが、今年は、自分の暮らしと心の状態をもっと上手にコントロールして、書きたいことを書きたいように書く時間を作って行きたいと思っています。
具体的には、5,6年前のこのブログや、もっとさかのぼったmixi全盛の頃に書きまくっていたコラム的な文章を、またこのブログ上で発表して行きたい。この3,4年程はほとんどきものコーディネイト日記とお仕事のご報告だけになっていた状況を改善し、mixiの頃からずっと応援してくださっている方々に、また楽しんで頂けるようなものを書いて行きたい。そしてそれが長年の夢であるエッセイの出版に結びついて行ければいいなと願っています。やはり私は文章を書くというただそのことが、本当に単純に好きで好きでたまらないのです。

‥という訳で、新しい年も胸の中は自分なりの野望でいっぱいです(他にもここに書いていない夢もあります)。不束者ではありますが、どうぞ今年も応援、お導き、お仕事のご発注、そして時には一緒にお茶やお食事を、皆様どうぞよろしくお願い申し上げます。

(画像は、祖母が染めた帯地から。昨年、「もうないだろう」と思っていたのに、まだ仕立てていない反物が見つかった、その中の一本です)

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北国にて 2016/12/23



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クリスマスを含むロマンチック3連休、新幹線に乗って、大切な人を訪ねに来ています…
…と、大切な人は大切な人なのですが、実は、或る素晴らしい方への取材で、東北の山奥に出張に来ているのでした。
これが今年最後の取材。真剣勝負が続いています。

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ハセ政宗ロス!~~スピンオフ制作をNHKにリクエストしよう運動 2016/12/19



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昨日で最終回を迎えた「真田丸」。1年間、数々の名場面と名優陣に楽しませてもらいましたが、私が最も心奪われたのは、長谷川朝晴さん演じる伊達政宗です。
…そして、そう思ったのは、どうやら私一人ではではないようで、いの頃からかネット上には「ハセ政宗」という呼び名が登場。今、日本のあちこちで「終わってしまった‥これからどうすればいいの?」「もっとハセ政宗を見たいんだけど‥」とロス現象が起こっているのではないかと思います。もちろん私もその一人です。
   *
そんなハセ政宗の何が素敵なのかと言えば、まず第一は、三谷幸喜さんによる人物造詣がいい。
伊達政宗と言えば、戦国好きなら誰でもその事績をよく知っており、人の心をつかむ意外性のある行動がしゃれていて「伊達者」という語の語源になった人物(ただ単にお洒落というだけではない訳です)。けれど今回の脚本は、その政宗を更に意外に仕立てているところが良いと思うのです。

例えば、政宗と言えば、豊臣秀吉になかなか臣従せず、ようやくぎりぎりのところで頭を下げに出向く際、その覚悟を示す白の死装束で現れて人々の度肝を抜いたエピソードが有名であり、また、料理好きの伊達というエピソードもよく知られていますが、この二つから更に話を膨らませて、今回、「自らずんだ餅をつき、歯の浮くようなお世辞で秀吉をヨイショする」という、ちょっと思いつかない政宗像を展開↓
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しかしその同じ夜、「現状、秀吉に従っておくより仕方ないから今日はあんなことやっておいたけどヨ」と、内心に渦巻く悔しさを真田信繁に吐露。「従わなければならない以上、徹底的にヨイショした」、という戦略的な行動だったことが判明します↓
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その後も、他の大名に先駆けて抜け目なく徳川家と宴席関係を結んだり‥(下の画像は、いち早く徳川家の意図を見抜いた場面の、顔、と言うか、目の演技。素晴らしかった↓)
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軍議の場で豊臣恩顧を笠に着る武将への反感や、政治上の動きが怪しい真田信幸を軽く威嚇するために、自らの官位を一々名前の下につけて発言する嫌味パフォーマンスをしたり…↓
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行動の一つ一つに意外性があって目が離せない!
‥とは言うものの、ただ奇をてらっているだけの行動なら「変な人」で終わる訳で、その裏に周到な計算があるところがいいのですね。こんな男性がいたら素敵だな、と心をわしづかみにされてしまいました。
     *
もちろん、いくら脚本が良くても、役者に力がなければパッとしないまま終わるのでしょう。
恥ずかしながら、この5年ほど仕事に追われてほとんどドラマや映画を観る時間がなく、また、もともと舞台はあまり見ない方なので、長谷川朝晴さんのことを知らなかったのですが‥脚本の意図を深くくみ取り、見事に新しい政宗像に結実させたその才能に、惚れ惚れといたしました。もちろんお顔もたたずまいも、しゅっとしていて素敵過ぎます♪

これほどまでに魅了されるハセ政宗様を、もう一度、そして、もっと深く、長く観たい!
NHKでは折々大河ドラマや朝ドラのスピンオフ篇が作られますが、ぜひハセ政宗で制作頂きたいものです。
例えば、関ヶ原の合戦の最中、東北で伊達と上杉が戦った「慶長出羽合戦」を舞台にするのはどうでしょうか。今回の「真田丸」では、遠藤憲一さん演じるお屋形様(上杉景勝)と村上信五さん演じる直江兼続の主従コンビの名演技も話題になりました。
特に、常に腹に一物持つ苦虫顔の村上直江とハセ政宗の対決を主軸に出羽合戦を描いたら、非常に面白いドラマになるのではないでしょうか。
もちろん、ハセ政宗主演ならどんな物語でも構わないのですが‥

ということで、ハセ政宗に魅了された皆様、ぜひ、NHKにスピンオフ篇をリクエストいたしましょう。
下のURLに、メール・電話・ファックス・手紙、すべての宛て先が載っています。
https://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html

もう一度、ハセ政宗に会うために…!

おまけ*着物好きで、特に武士の着物、中でも直垂(ひたたれ)という装束が大好きな私は、ハセ政宗様のこの直垂姿にもハートを射抜かれました♪↓
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出雲・奥出雲へ取材旅行に 2016/11/30



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取材旅行で、出雲と奥出雲地方へ来ています。
昨日・今日とまず奥出雲を回り、江戸時代、山深くで行われていたたたら製鉄の現場跡地や、たたらを支えた豪商の邸宅を訪ね、夜は出雲国風土記にも登場する湯村温泉へ。野鴨の囲炉裏やきに舌鼓みを打ち、深夜には二度目の湯に浸かりに行くと、一人温泉独占の贅沢。本を持ち込んで、夢の「温泉読書」をすれば良かった…
今日の夕方出雲市内に入り、明日早朝に大社を参拝した後、明後日まで宍道町、平田、出雲、松江を取材に回ります。かなりのハードスケジュールですが、手ごたえある時間が続いています。

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本の最後の朱字入れ 2016/10/18



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今晩から、本の原稿に最後の朱字を入れ始めている。
全体で、350頁。その一字一字に最後の修正を入れ、全体の文の調子を整える。

思えば最初の一行を書き始めたのは、昨年の十二月だったか‥
あの頃毎晩流していた同じ音楽を流すと、金雄さん、という主人公の人物がすぐ私の前に現れて来て、明治の東京の街を歩き始める。また会えたね、と思わず声をかけたくなる。あの場面もあの場面も、頭によみがえって来る。
皆様にお届け出来る日まで、あと少しだけ、お待ち頂けたらと思う。


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雑誌の撮影にて 2016/10/08



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連休中ですが、今日と明日は撮影のためにスタジオに入っています。
とてもとても美しいものの撮影。
そしてそこにはただ美しいというだけではない、
その美とどう向き合うかについての思想が存在しています。
いつもながら今日も、仕事であると同時に楽しみでもあるような時間が流れて行きます‥‥

(写真に写っているついたての向こうに、その「美しいもの」があります)
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「千家十職展」とウエストのケーキ~取材と取材の間の過ごし方 2016/09/02



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今日は1時から銀座某所でロケハン、その後時間がずいぶん空いて、6時から同じ銀座で取材。
間の時間に日本橋へ移動して、三越で、人にもみくちゃにされながら「千家十職展」を見る。
私は、お茶は、お点前より道具が楽しい方なので、もみくちゃに耐えながら、やはり楽しい。今回初めて見た作品にこの子好きー!(例えば七代長入の赤楽など)というものが多々あり、大満足。
会場を出てすぐの催事場では、道明さんが出店されていた。二人の番頭さんと少しお喋り。ちょうど練
色の冠組が大分汚れて来ているので購入…?と思ったものの、やはり池ノ端で買いたくなり、また伺います、とご挨拶のみで。
そして、鈴木時代裂研究所の当代の講演をたまたま聞くことが出来、幸運を喜ぶ。最後にきねやさんで数寄屋袋を買ってしまった。

その後、銀座に移動。ウエストで一休みしながら本の最終
原稿の読み返しを。
私は音楽の好みの幅が非常に狭く、それが外で原稿を書けない理由の一つになっているのだけれど、ここはごく控えめな音量でクラッシックが流れているだけなので邪魔にならない。
懐かしい味に体も頭の中も癒されて行く…


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忙中楽あり~極上和菓子、文豪写真、猫、真田丸、長唄、神楽坂 2016/08/03



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トークショーのお仕事からほっと息つく暇もなく、今度は雑誌のお仕事でとてつもなくタイトなスケジュールを過ごしています。締切間近の原稿を多数抱えながら、日中は、取材、取材の毎日。広告代理店時代から忙しいことには慣れっこで生きていますが、それでもさすがにふらふらになるスケジュール。こういう時は決まって肩が切り立った崖のように固くなって行きます。
それでも、取材から取材の間に、原稿書きの合間のひと時に、そして時には取材から家に帰る途中の道に、少しの自由時間を見つけて楽しんでいます。
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例えば、上の写真は、或る日、神楽坂のスタジオでの取材・撮影の後に立ち寄った場所で撮ったもの。或る方に急ぎでアポ取りの電話をする必要があり、入った「la kagu」のカフェ。この日持ち歩いていた布バッグは、以前勤めていた女性だけの編集プロダクション「斉藤オフィス」の30周年記念に頂いたもの。気に入った持ち物がそばにあるだけで心楽しく過ごせます。
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同じ「la Kagu」の2階では、運営会社の新潮社秘蔵の文豪写真展が開催されていました。三島には思い入れがあるので、少しの間、この写真をじっと眺めて。窓に展示されているため、背景に並木の緑が見えるのも気分良いのです。
      *
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その日はアポ取り無事終了の後、駅近くの「梅花亭」で和菓子を購入して帰宅しました。夏らしい主菓子と大福も購入して。
夕食の後、そして原稿書きの間に頂いたのですが、まあ、驚くほどの美味しさ。甘いもののお伴がないと原稿を書けない性質ですが、この日のお伴は格別。肩の崖が数層分、氷解していました。
      *
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また或る日は、都心での取材の後、お友だちが出演する長唄の公演を、途中から、二曲半だけ聴きに伺いました。上の写真はそのプログラム。赤い緋毛氈を引いた雛壇にずらりと黒紋付きの男性陣が並んでいる姿を見るだけで胸がすっとしますが、三味線と鼓が日本のリズムでたんたんたんたんとたたみ上げ、そこに朗々と長唄の人声が加わると、正に晴れ晴れと魂がホールを抜け出して空を飛び回って行くようで、こんな寄り道がやはり人生には必要です。
     *
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そんな中、昨夜は本当―――に久し振りに、「何も書かないで良いし、何も校正もしなくて良い」時間が出来ました。そこで、録画していた「真田丸」を一人鑑賞。秀吉の老いを描く三谷幸喜の物語作りの腕が冴え、思わず涙目に。
しかし小日向文世の秀吉は、もう今回以降、この人以外秀吉は出来ないのじゃないか、というくらい素晴らしいと思います。来週はいよいよ「難波のことも夢のまた夢」となるのでしょうか。そしてその死後を狙い、虎視眈々と動き出している各大名家の動きを描く筆にもまたしびれます。何しろ「陰謀渦巻く系」の物語が大好きなのです。
それにしても今年の大河は、とにかく演技達者が揃って痛快至極。全話欠かさず観ていて、大きな大きな娯楽になっています。
     *
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そしてそして、飼い猫のチャミは、やはり最高の癒しです。
「頬っぺたすりすりしたいー!」とかなりかなり原稿書きの邪魔に来るし、出掛けようとするとがっくりと肩を落として見上げるその表情があまりにも哀れで謝りに行ったり‥と、相当仕事の足枷にはなっているのですが、やはり涙が出るほど愛らしい。今週金曜に一誌校了したら、来週は家にいる時間が増えるので、思いっきり甘えっ子しようね☆と言い聞かせています。
そして、こうして、字数も関係なく何のしがらみもなく、好きなように文章を書く時間が最大の気分転換になります。何と言っても結局、書くことが好きでたまらないのです。


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本から雑誌へ、雑誌から本へ 2016/07/13



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本のお仕事の校正がまだまだ続き、更に来週はトークショーがあるのでその準備にも忙しい毎日なのですが、「どうやら西端の本の仕事が一段落したらしい」と風のウワサが流れているのか、雑誌のお仕事の発注がちらほら‥から急展開で怒濤のように入り、今何本抱えているのか‥またもや大忙しの日々になりそうです。
こんな私の毎日を見て、
「少しは休めばいいのに」
と言って下さるお友だちも多いのですが、そんな時いつも会社を辞めてフリーになりたてだったの頃のことが蘇ります。一カ月先のスケジュール帳が、真っ白。もちろんその次の月も、更に次の月も‥このままどこからもお仕事をいただけなかったら、私、生きて行けなくなってしまう‥
あの時の何とも言えないほど心細い気持ち、そして恐怖感‥あれがあるからついつい目いっぱい仕事を入れてしまうのですよね。今は自分から営業に行かなくても、こうして声を掛けて下さる方々がいる!これほどの幸せはないなとやはり思います。旅行に行きたいと夢見ていましたが、秋までお預けでしょうか‥
(写真は、我が家の庭の片隅のぼけの木についた実。結構大きいのです)


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謎の足の腫れ 2016/06/12



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皆さま、日曜日の夕方をまったりと過ごされている時刻ではないかと思います。そんな時に拙足の写真で恐縮なのですが、私は昨日から謎の足の腫れに悩まされています。
先ほど近所に買い物に行った時に撮った上の写真、右足くるぶし辺りがかなり腫れているのがお分かり頂けるでしょうか。昨日土曜の朝、起きたら何だかずきずきしていて、どうしたんだろうと見たら腫れていたのでした。眠る前は何ともなかったのに、本当に不思議です。
私はわりと寝相が悪い方なので、寝ている間にベッドの近くにある家具を何か蹴っ飛ばした?とも思ったのですが、距離的に無理があり、虫に刺された?雑菌が入った?と思ったもののどこにも傷口がなく。正に原因不明です。
静かにしていればじんじんしているくらいでものすごく痛いという訳ではないのですが、いざ歩こうとすると軽く引きずってしまって、普通には歩けません。それに、押すととても痛いのです。もう、一体何なのでしょうか。
とにかく明日は病院へ行こうと思います。原因不明に関節など腫れた経験のある方、いらっしゃるでしょうか??

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国会図書館にて 2016/06/03



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このところまた家にこもって、本の仕事の最後の修正作業を進めています。
外出は、打ち合わせと近所のウォーキング、そして図書館での調べもののみ。
図書館は、近所の図書館で済むこともありますが、国会図書館か千代田図書館に行かないとない資料も多く、この二館にこれまで何回こもったことでしょうか。

実は、国会図書館と私の体、或いは脳は何か相性が悪く、来るといつもかなり具合が悪くなってしまいます。
この辺りは戦前陸軍省の関連施設が集まっていた所なのでそのせいか(永田鉄山暗殺とか)…と思って調べてみたりもしましたが、国会図書館の敷地自体はドイツ大使館だった模様。その前の江戸時代はと更に調べてみると細川家支藩の大名屋敷だったようで、そこで何かが…?
が、私の祖先と熊本も何も関係ないはずなので、このだるさはやはり原因不明です。私の読む資料はマイクロフィルムが多く、ぐるぐる位置を動かすことで船酔いのようになりがちなこともいけないのかも知れません。
もう一館の千代田図書館の方は、出版業界史の書籍を多数所属していることで知られています。国会図書館にない本がこちらにあることも。
両館を行ったり来たりしていますが、探していた事実を発見出来た時の勝利感は格別。今日はまだそんな資料を掘り当てていませんが…引き続き格闘を続けたいと思います。

(写真は、中庭から新館を見上げたところ。ここでよく休憩しています)
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ウォーキング始めました。 2016/05/19



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またまた家にこもって、本の原稿を手直しする日々が始まり、それに伴い今週からウォーキングを始めました。
昨年末からゴールデンウィーク前まで、四か月半ほどかけて初稿を書いていた間に、もう、最後の一ヶ月ほどは、肩が上がらないほど体ががちがちになってしまいました。その反省から、これからは一日おきくらいにウォーキングをしようと心に誓った次第です。

実は、元陸上部なので、歩くこと、走ることは大好きです。
10年ほど前、広告代理店に勤務していた頃に激務とストレスから倒れたことがあって、その時にもお医者様からウォーキングを薦められました。当時は渋谷パルコ裏といういわゆる「大都会」に住んでいたので、深夜も人の波が途切れず、いたって安全。毎晩、夜11時、12時に見積作成残業や、プレゼン資料残業や編集スタジオ残業から帰宅した後、ランニングウェアに着替えて深夜の渋谷の道をせっせと歩いていました。
3か月ほどそんなことを続けた後だったでしょうか、或る晩スイッチが入り、
「私、走りたい‥!」
その夜、一気に代々木公園の外周を一周走ってもまだまだ元気だったことを覚えています。恐らく数か月のウォーキングで、体がだんだんと陸上部体質に戻っていたのでしょう。
それからは、週に2、3回、毎回1時間ほど走るようになりました。今、「裏渋谷」と言われている神山町の辺りを中心に、北参道や初台までを楽々と往復していました。その後、会社を辞めて、実家に戻った吉祥寺の方が走る環境はずっと良いはずなのに、何となく走らなくなっていましたが‥でも、元が陸上部体質。こうしてウォーキングを続けるうちにまた走りたくなるような気もしています。
とにかく、文章を書く仕事は、実は生活のリズムと体力のコントロールが非常に重要だと思っています。まずはウォーキングで徐々に体を慣らして行くとしましょうか。


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狂気の中の誕生日 2016/04/08



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皆様、私の誕生日である今日、メールやFBメッセージ、そしてFBへのお祝い投稿を頂き本当にありがとうございます。
今年の誕生日、私はどこへも出かけずに部屋にこもり、頭の中は極度の興奮状態にあります。多くの方に知って頂いているように、晩秋より書き始めた本の第一稿が、いよいよあと少しで書き上がるためです。
あくまで「私の場合は」になりますが、新しく一行一行を書き進めている時よりも、書き上げた後、最初から文章を直して行く時の方が、一種異様な精神状態に陥ってしまいます。一語一語が精神病的に気になり、直しても直してもまたどこかが気になって、永遠に終わらないかのような修正を続けてしまうためです。

それでも、印刷の〆切もあり、あと少しのところまでやって来ました。
本当は、誕生日の今日、担当編集の方に総ての原稿をお送り出来たらと頑張っていたのですが、とても間に合わず、いじましく、予告編のように序章だけを送りました。
全体ではあと十九章分あり、今日、そして週末の二日間で、何とか終わりまで修正を完成させるつもりです。そう、物語自体はもう少し前に、書き終わっているのです(書き終えた時、さすがに涙が流れました)。

長い物語を書くというのはとても不思議な体験です。
たくさんの現場取材と資料を読みを通して世界の中に入り込み、苦しい、早く書き終わりたい、早くこの世界から抜け出したいと願いながら、一方で、私が追いかけている一人一人の登場人物や、彼らが息をしている世界と別れることをたまらんく淋しくも感じます。
とにもかくにも、彼らとともに生きる時間もあとわずかとなりました。この後も追加の事実調査やゲラの校正でもう一回だけ狂気の修正作業の時は来るとは言え、そこできっぱりと彼らと別れなければなりません。今日の写真に上げた大好きな花、雪柳も、もう大分散ってしまいました。

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不思議な水仙 2016/04/04



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庭の真ん中に、突然、水仙の花が咲いていた。
いや、水仙は以前から庭の北の方にある花壇に群生していたのだけれど、この花は、今年になって突然、庭のちょうど真ん中辺りに庭いじりが趣味の父が後で何かに使おうと思って置いたままにしていた石の横に、一人長い茎を背筋良く伸ばしていたのだ。

だけど、水仙って、球根植物じゃなかったっけ?
他の花なら、庭に遊びに来る鳥や虫や野良猫たちが受粉した花粉を体のどこかにくっつけて、そしてたまたま立ち止まった所でその花粉がふわりと土に落ちて花が咲くことは、分かる。だけど球根植物では?
もしかしたら、この水仙は、球根のまま花壇から庭の真ん中までころころ転がって来たのだろうか?それとも土の中をもぐらのようにずんずん掘り進んで来た?いやいや最近よく我が家の庭に顔を出す白黒模様のでっぷりとした野良猫が、土を掘り返して一しきり、おもちゃのように転がして運んで来たのかも知れない。
気になって、調べてみると、水仙は普通、土の中で分球して増えて行くと書かれている。けれどごくまれに、受粉によって新しい株が出来ることもあるということで、なるほどね、と納得しながら心のどこかで、庭をころころ自分で転がって来たのだと思いたい。そんな凛とした横顔の水仙なのである。

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新年明けましておめでとうございます。 2016/01/03



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皆様、新年明けましておめでとうございます。
昨年はたくさんのやりがいあるお仕事をお任せ頂き、また、お友だちの皆さんには折々楽しいお喋りやお食事や茶の湯の時間をご一緒して頂き、本当にありがとうございました。
世の中朝活ブームですが、夜にならないと頭が働かない私は、新年も変わらず「夜活」で原稿を書いています。四十代も半ばを過ぎて、いよいよ生活の型が定まり、物事や人の好き嫌いもいっそうはっきりして来たように思います。もうこの先、根本のところでは、自分の型は変えられないのでしょう。今年も、人に何を言われようとも、我が道を突き進むのみと決意しております。
こんな不束者の私ではございますが、おつき合い頂ける皆様にはどうぞ本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

(写真は、冬の寒さの中にもしっかりと蕾をつけている庭の梅の木。昨年も同じ木を撮りましたが、今年は暖冬のせいか、蕾も少し柔らかなようです)


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仕事を断る冬 2015/12/24



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私の辞書に、一つ、ない言葉がありました。そこだけぽっかりと空白の行になっていた言葉、それは、「仕事を断る」。
今の仕事が大好きなことと、また、かなりかなりの義理人情浪花節的な性格から、断ったことなどこれまでにはないのです。
‥でも、今、きっぱりとお断りしています。一週間に一つほどは断っています。断ったことがないので大変胸が苦しく、もう、肺がでんぐりかえってねじれてぎゅぎゅぎゅぎゅっと雑巾絞りをされているような気持ちですが、仕方がありません。本を書かなければならないのですから。
原稿料を前金で頂いています。出版記念トークショーの会場も、日程も、もうばっちりと押さえられています(良かったらおいで下さい♪)。これで印刷のタイミングまでに書き上げられなかったら、人間失格というものでしょう。二度と顔を上げて表通りを歩くことは出来ません。
だから、三月までは、新しい仕事は受けられません。お断りした皆様、すみません。晴れて脱稿したら、またよろしくお願い致します。
(写真は、取材ノートや資料‥の一部です)


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一人お茶の稽古で心を静める午後 2015/10/04



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ありがたいことに日々たくさんのお仕事を頂き忙しく過ごしています。仕事が大好きなので嬉しいことなのですが、何しろ〆切に追いかけられるのはちょっときつい。どこか心が疲れてしまい、そしてどうも今月お茶の稽古に行けないかも知れない状況のため、30分ほど、一人で自主稽古をしました。
…と言っても実際に点てた訳ではなく(濃茶ですし)、エアーで点前の確認をしただけなのですが、それでもやはり心が静まります。
ああ、お茶は良いです。この後お薄を点てて自服しようかしら。
お茶碗は、備前の浦上善次さんのもの。最晩年の一作です。

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“大好きな有名人に身近に会える運”野宮真貴さん篇、10月9日きものサローネで!予告! 2015/09/27



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皆様、日曜日、いかがお過ごしでしょうか。
突然ですが、私の人生にはちょっと嬉しい運勢がありまして、それは名づけて“大好きだった有名人に身近に会える運”!です。
例えば、小学生から中学生にかけて大大大ファンで、少ないお小遣いをこつこつ貯めて写真集など集めていた薬師丸ひろ子さんに、二十代で雑誌の仕事をしていた頃、その雑誌に薬師丸さんがエッセイを連載することになり、何と私が担当を拝命!毎月お会い出来るようになったり、二十代後半に中華圏映画に熱中していた頃、「素敵な俳優さんだな」と、毎年末、日本の中華映画マニアが投票する「好きな中華圏映画&俳優ベスト10」で助演男優賞に投票していた俳優さんに、好きが昂じて留学した中国の映画学校で、改めて映像の勉強をしに来ていた彼と同じ寮生として出会えて友だちになったり(彼は今も台湾のテレビ・映画業界で中堅俳優として活躍しています)。
そんな私の何だか嬉しい運勢に、新しい一章が加わりそうです。
それは‥野宮真貴さん!
そう、言わずと知れたPizzicato Fiveのヴォーカルとして、90年代、世界を魅了したヴォーカリストです。私も大の“ピチカートマニア”で(この言葉、なつかしい!)、もちろんCDは全部持っているし、ノベルティなども一部保管していたり。Pitticatoが解散した時は本当に悲しかったし、でも、解散前の最後のアルバム「さ・え・ら ジャポン」は本当に名盤だと思って、今でも時々威儀を正して聴いています(初めて聴いた時は本当に泣きました)。

そんな野宮真貴さんがきもの好きということは、もちろんファンなので知っていたのですが、何と、私が実行委員会に加わっている今年のきものサローネに、出演されることになったのです!きものスタイルでミニライブを開くとのこと。
私は今年のサローネに、そもそもは広報物のライターとして加わっていたはずなのですが、何故かいつの間にか当日のステージ進行周りを手伝うことになっていまして…、最終的に割り当てられた役割は、出演者の方々のアテンド全般総責任者。要するに、楽屋に張り付き、ステージ横の演出家とインカムでやり取りしながら、全体進行をスムーズに進めて行く役回りです(嗚呼、責任重大です)。
…と言うことは‥!野宮さんとずっと一緒ではありませんか。
きゃーーー当時の私に教えてあげたい!「さ・え・ら ジャポン」にサインしてもらおうか‥いやいや公私混同はいけませぬ。お仕事お仕事あるのみですが、それにしても嬉し過ぎます。

…という訳で、かつてのピチカートマニアの皆様、そして、モダンきものを愛する皆様は、これ以上ないほど完璧な姿でモダンきものを着こなす野宮さんをうっとりと眺めに、10月9日(金)18:00~ゼヒ「きものサローネClub Night」にお越しください。
場所は、COREDO日本橋1三井ホール。野宮さんのライブの他に、みんなでネオ盆踊りを楽しむ「Bon Odori」(最近盆踊りが人気爆発ですよね。楽しそう♪)や、「5時に夢中」「スッキリ!」のコメンテーターとしておなじみの湯山玲子さんのトークショーも同時開催。そして楽屋で奮闘する私のことを思い出して、そっと涙をぬぐってくださいね♡
もちろん、「Bon-Odori」ではちょっとは私も踊りたいし、野宮さんのライブも楽屋を抜け出して少しは聴きに行っちゃうと思います!

「きものサローネClub Night」の詳細やチケット購入はこちらからどうぞ↓
http://kimono-salone.com/kimononight/#day-10-9

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雑誌のページが出来るまでの最初の作業を、休日に。 2015/09/19



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連休初日…ですが、今日は家で仕事をしています。
カメラマンさんより、火曜日の取材のいい写真が上がって来て、にっこり。
更にその取材内容をどうページに構成するか、頭を悩ませて描いたラフコンテが編集者様に一発OKとなり、すこぶる快調。更に新しいお仕事のお話も入って嬉しく♡
あとは今晩中に一本別の原稿を仕上げて‥と。
万事快調に過ぎて行く休日の夕暮れです。

(写真は取材ノートとコンテを撮ったものですが、内容はもちろん発売まで企業秘密のため、わざと流し撮りして撮っています)
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秋の初め、雑誌と本の取材が続いています~染織工房と山梨の農村へ 2015/09/15



今日、そして週末の土曜日と、仕事の取材で、忙しくも楽しい時間を過ごしていました。
まず、今日は、朝5時起き!雑誌のお仕事で、東京郊外の或る染織工房へと向かいました。
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今ではもう日本全国を見渡してもごくわずかな工房しか出来る所がないという、或る貴重な制作工程を取材。これがかなりかなりかなり複雑な工程で、もちろん事前の勉強はした上でうかがっているのですが、分からないことが続出。根掘り葉掘り質問をする私に本当に丁寧にご説明を頂きました。染織好きとして、これ以上ないほど幸せな取材の時間。この成果は11月発売の「いろはにキモノ」にてレポート致します。ゼヒお楽しみにお待ちくださいませ!

      *

一方、週末の土曜日は、晩秋から書き始めるノンフィクション本の取材のため、山梨県の「武川村」という小さな村へ向かいました。
この村を訪ねるのは、今回で3回目。主人公が明治末に耕していた田んぼがあった土地は今も変わらず田んぼのままで、その風景を、冬、春、夏と追いかけて来ました。
この村の最寄り駅は、中央線の日野春駅。そこから小さな山一つ分を下り、釜無川という大きな川を越えると武川村にたどり着きます。今まではタクシーを利用したり、出版社の方の取材動向がある時はその車に乗せてもらって向かっていたのですが、今回は明治期の主人公の暮らしぶりを理解するため、一人でこの山道を徒歩で向かうことにしました。「野猿返し」という名前のついた道です。
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途中には秋の予感。栗やどんぐりが落ちていました↓
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↑ふだんのきもの生活の癖で、スニーカーなのに内股気味になってしまっているのが若干苦笑。
そして山道は、途中かなり細いところもある上に誰もすれ違う人もなく、遭難したら大変とちょっと緊張しました↓
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この日は台風が去って間もない日。山を抜けて渡る釜無川の水量も相当に上がり、どうどうという怖いような音が山の中に響いて来ていたのでした↓
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やがて武川の水田地帯にたどり着くと、いきなり台風で倒れてしまっている稲があり、心配になります↓
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でも、見渡すと、大部分の田んぼでは元気な稲が風に揺れ、もう少しで収穫の秋を迎えようとしていました↓
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↑或る畑の脇にはコスモスの花が。
あと一度、刈り入れの時にここを訪れたら、いよいよ原稿を書き始める予定です。だんだんと心の緊張が高まって来ています。
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冷やし干し柿で猛暑を乗り切り+浴衣で数時間娑婆に出た日 2015/08/13



しばらくブログを更新出来ずにいました。
ただただ仕事が忙しかったためで、思えば7月中旬頃からひたすら仕事!仕事!仕事!の毎日。花火に浴衣パーティーに素敵なお店の1周年記念イベントに…総て、キャンセル!でしたが、ようやく今日これから最終校正読みに行けば一つの山を越える気配。8月後半はかなり楽になる予定なので、遅れて来た大学デビューさんのように、自由を満喫したいと思います。
そう言えば、ちょうど私が特に目を吊り上げていた8月1日頃から先週半ばくらいまで、毎日35度台の猛暑が続いていましたが、振り返ってみればその猛暑の中で文章を考え考えするという二重の苦しみを何とか乗り切れたのは、このお菓子のおかげなのではないかと思うのです↓
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じゃーん、冷やし干し柿!です。
私はふだんから干し柿が大好物で、特に、デパートに並んでいるような高級系の干し柿ではなく、田舎の普通のお家で作られているものに時々本当にびっくりするほど美味しいものがあるなと思っています。親の知り合いの方などからそんな干し柿を頂く機会があると、天にも昇る心地で頂いているのでした。
…が、その干し柿を、冷凍庫に冷やしておいて、夏の間も美味しく食べる方法があったとは‥!

先月の31日、ちょうど一つ前のブログエントリーになりますが、雑誌のお仕事で栃木の養蚕農家さんへ取材に伺ったところ、そちらのお母さんが「おやつに」と出して下さったのがこの冷やし干し柿でした。
干し柿は常温がベストなのでは?と、何しろ干し柿好きなので内心半信半疑で食べてみると‥干し柿特有の味のまろやかみはそのまま、ほのかにひんやりとした食感が‥美味しい‥!
感動にうちふるえている様子から本当に干し柿好きなことが伝わったらしく、「持って行って」と大量にジップロックに詰めてお土産にして頂きました。もったいないので一日おきに一つずつ食べ食べして、何とか猛暑と猛烈な〆切の波を乗り切った、この夏の絵日記前半なのです!
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そう言えばそんな中で、一日だけ娑婆に出た日がありました。
上の写真がその日のコーディネイトで、黒地の絞りの浴衣に、麻の半幅帯を締めています。この帯の色、柿の皮の色に似ていませんか?(*^^*)
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この日は、今関わっているお仕事でお世話になっている、著述家の湯山玲子さんのお誕生日パーティーでした。最近は「スッキリ!」や「5時に夢中」のコメンテーターとして、お茶の間にもその鋭い批評眼がじわじわ浸透しつつある湯山さん。最新刊『男をこじらせる前に』が本当に面白そうで、読まなくちゃ!
80年代ディスコを再現した趣向のこの日のパーティーには数時間だけ顔を出して、また仕事!仕事!でも、今日のブログ冒頭にも書いたように、ここからは大分楽―に過ごせそうなので、浴衣で出かけられる日も何日かはあるでしょうか。何しろまだ8月は半分残っているのだから!ウキウキと過ごしたいと思います。るん!

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深夜の叙事詩セブンイレブン篇 2015/07/29



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深夜、某誌の原稿を校正中、
フリクション赤ボールペンのインクが切れる。

近所のセブンイレブンに電話にて問い合わせた。

「お取り置きしましょう」店員さんの声が聞こえる。

疾走する、闇。自転車にて。

無事フリクション赤ボールペンを手に入れる。
ついでにコピーまで取り、
もう一つ用事を片づけた私は歌う。

‥開いてて良かった。
セブンイレブン、いい気分。

――深夜の叙事詩でした!

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銀座の小さなカフェで、忙中閑あり 2015/07/22



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今日はお仕事が複数重なり、東京の街をあちらこちらへ。
合間の時間に今、銀座の小さな中国茶カフェ「掌」でほっと一息ついています。
1933年ものの普茸茶に、烏龍茶味の寒天ゼリー。汗がすっと引き、締め切り間近の原稿の言葉もすらすら浮かんで来ます。

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連休中、細胞について考えてみたり 2015/07/20



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SNSのタイムラインに上がるお友だちの楽しそうな休暇の様子を横目で見ながら、私はこの連休、複数の〆切を抱えて必死でPCと資料に向かっています。
特に大きな比重を占めているのが、或る健康関連企業様の広告物のお仕事で、もともと医学・生理学の知識がほとんどないため、クライアント様からレクチャーを受けたり様々な資料のページをあちらこちらと広げるなどして、何とか原稿へとまとめ上げている毎日です。

‥とは言うものの苦労ばかりではなく、やはりどんな分野でも、新しい知識を得ることは素直に楽しく感じます。
特に人体の免疫や代謝のシステムは、知れば知るほど何と精緻に出来ているのだろうと驚嘆することばかり。
自分の体が60兆個もの細胞から出来ていて、その60兆個一つ一つの中に更に小さな部位であるミトコンドリアさんが300から1000個もうようようごめていて酸素を取り込んでいたり、胃や小腸で分解された極小物質が筋肉やら肌になるために別の物質へと作り変えられていたり――などということを、本人が知らないうちに勝手にやってくれているのだと考えると、頭が下がると言うか何と言うか。
総合本部?であるこの西端真矢という人間は、もう少し何か、ミトコンドリアさんや熱ショックタンパク質さんやナチュラルキラー細胞さんたちの努力に見合うだけの何事かを成し遂げなければいけないのではないか?などと反省したりもしてしまうのでした。

そして、例えば仕事をしていたり遊びに出掛けたりしていると日々様々な人と出逢い、中には、この人、どうしてこうも仕事のカンが悪いのか? 或いは、どうしてもこうもコミュニケーションがおかしいのか?(例えばストーカー的な人など)…と、首をかしげざるを得ない人にも出会ってしまう訳ですが、そんな人々のその不調具合も、例えばそれが仮にAさんだとしたらAさんという有機体のごくごく表面の小さな一部分の不調であるに過ぎない。
Aさんの60兆個もの細胞さんやその中のミトコンドリアさんたちのほとんど総ては、しっかりと仕事を果たしていらっしゃるのだな、と知ると、何か少し優しい目と言うか、少なくともAさんの細胞の中の60兆×300個のミトコンドリアさんには親しみの気持ちを抱いてしまうのでした。
‥と、そんな、愚にもつかないことを考えながら、仕事の続きに励む私です。ではでは。

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人生をふわりと持ち上げてくれる音楽について 2015/07/17



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突然ですが、皆さんは、仕事をする時、音楽をかけるでしょうか?或いは文章を書く時は?大事なメールを書く時、仕事の重要書類を作る時、ブログを書く時はどうでしょうか?自分にとって大切なことをする時、音楽の力を借りる人はどのくらいいるものなのでしょうか?

文章屋として仕事をしている私は、実は、音楽に大きく助けられています。或る場合にはひどく左右されてしまっていると言ってもいいかも知れません。
特に人の情緒に訴えかけるような文章を書こうとする時は、その目指す情緒にふさわしい音楽が流れていることが、私には絶対に必要です。悲しみを表現しようとしている時にポップな音楽が流れていたら、一歩も前へ書き進められません。
とは言うもののメランコリーな曲なら何でも良いという訳ではなく、或る文章には演歌がふさわしく、或る文章にはクラッシクがふさわしく、また或る文章にはJPOPのあの淋しい曲が‥といったように、書こうとする「悲しみ」の質感にふさわしいとか感じる――あくまで私が主観的に感じるものですが――曲が流れていなければならない‥というこういう細かさは、私だけのこだわりではないと思っていますがどうなのでしょうか。
   
          *

とにかく、そんな訳なので、文章を書く前にまずは音楽を選ぶことに相当時間がかかってしまいます。
エリック・サティで始めたもののやっぱり何かが違うのでリンドストロームにチェンジし、それもやっぱりしっくり来ないのでBPM遅めのメランコリーなディスコダブに変えてみたもののやはりアコースティックギターのあの曲に…と何度もステレオと机の間を行ったり来たり。その間、ラップトップに打たれているのはたった一行半のだけ‥

こんな私なので、外のカフェで仕事をすることは絶対に不可能です。資料をぎっしり並べた本棚が後ろにないと安心出来ないということも原因の一つですが、もう一つ、この 「その時書こうとする気分」にぴったりとした音楽が店に流れている可能性が、限りなく低いためです。
友人のライターやエッセイストの中には、常にカフェで原稿を書いている人もいますが、私には絶対に真似出来ません。何だかノマド(死語?)でかっこいいな、とは思うのですが‥

          *

ところで、そんな私の「その時書こうとする文章にぴたりとする音楽」選びは、実は恥ずかしいほどに単純でもあります。
例えば中国について書いている時は中国箏の古典音楽を流し、日本の東北について書いているなら、東北っぽい(と私が感じる)演歌の曲、雨降る日の情景を書くエッセイなら雨を歌ったポップスに‥といった単純さ。
ところが雨の歌のCDを聴くことは数年に一度であるかないか、棚の中のどこにしまったのか分からなくなっていて、そのCDを探し当てるだけで優に1時間。そうだ、雨の曲だけを並べて音楽ファイルを作り、永遠ループさせながら書いちゃおう!と思いつくと更に1時間。もしも横で担当編集者の方が見ていたら、イライラと貧乏ゆすりが出る頃でしょう‥

          *

そんな中、私にとって鉄板と言えるCDがあります。
私がお引き受けするお仕事やブログへと書く内容の中には、人の深い情緒や複雑な思索に訴えかけるものもありますが、もっと気軽にフラットに、事実や情報、または日々の暮らしの中でふと気に留めた小さな出来事(今日の日記がまさにそうです)を伝えることを目的とするものも多くあります。そんな時、とにかくこのCDをかけてみれば何かしら言葉が浮かんで来てすらすらと原稿が書けてしまう、全くもって魔法のような一枚なのです。
今日のブログ冒頭の写真のCDがそれなのですが、アーティストは、Fantastic Plastic Orchestra。略称FPMと呼ばれる日本のDJ兼ミュージシャンです。
この方の「LUXURY」というCDは、おそらく2002年頃に出たもので、それ以来15年以上、私の「深刻過ぎない文章の気分」を整える手助けをしてくれていることになります。
BPM120から110あたりの速過ぎないリズムと、低俗に行き過ぎないメロディーライン。複雑な音色(おんしょく)‥どこをとっても趣味のいい曲が13曲並ぶ名盤です。
実は私は聴ける音楽の幅が人よりかなり狭く、特にへヴィメタル、トランスに至っては吐き気がすることもあります。三半規管が弱いことと何か関係があるのでしょうか。現代の趣味のいい音楽家のアルバムにはたいてい異ジャンルの曲が混在しているものですが、こんな風に私の耳の許容範囲が極度に狭いため、必ず「この曲はダメだ」という曲に当たってしまい、一々スキップをするのがわずらわしい。ところがこのアルバムには、そういう、耳に当たる曲が一曲もないのです。
特に2曲目の「There must be an angel (Playing with my heart)」と8曲目の「Lotto」に差し掛かる時私の脳の回転は限りなくなめらかに回り、言葉や文章の切れ端が、まるでDJがすっとレコードを送る時のように、頭から流れ始めます。まさに黄金の一枚としか言いようがありません。

不思議なことにこのCDは、部屋の片づけをする時にもしごく効率を高めてくれるように感じます。また、何の用事もない晴れた日曜日の朝、とりあえずもう一杯紅茶を飲んで本屋さんへ行こうかお風呂をぴかぴかに磨こうか、それとも写真でも撮ってみようかしらなどと考えている時のささやかな幸せの感覚を、最高度に盛り上げてくれるようにも思います。まるで燕尾服を着た目に見えない音楽の小人たちがステレオの後ろでビックバンドを組んで、私のために演奏をしてくれているように。
もちろん人生はいつも、このCDの気分がぴたりと当てはまる局面ばかりではありません。それでも、過ぎて行く日々と日々の間でふと一息をつく朝、あなたはどんな音楽を聴いているでしょうか?

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友を送る茶会に、オリジナルの主菓子をあつらえて(お菓子&きものコーディネイト写真付き) 2015/06/24



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先週末、通っている茶道の教室で、大切な茶会がありました。
私たちの会は、美術史家の先生に茶道のお点前とお道具について教えて頂いているのですが、発足時以来の古参男子メンバーMさんが、ご家庭の事情で故郷へと帰ることになったのです。
そこで、心づくしの「名残之茶会」を開くことになりました。お点前が安定していて美しい方は、炭点前やお濃茶など、お点前の担当に。すぐ順番を間違えてお点前はダメダメ劣等生の私は、お菓子の担当です。そう、この日の茶会に出すお菓子をどこのお菓子舗に注文するのか、どんな題材のお菓子にするのか、総てを決める権限(と責任)があります。

          *

そこで散々に知恵を絞りました。
現在、盛りの花は、例えば紫陽花。或いは、梅雨入りしたということで、雨や水、傘などをモチーフにしたお菓子も良いかも知れません。けれど、この日は友を送る「名残之茶会」。何か私たちの会にちなんだものか、Mさんにちなんだものにしたい。私の仕事は文筆業で、いつも「話の流れ」ということに頭を使ってお金をもらっているのだから、ここでストーリー性のあるお菓子を作れなければ名折れというものではないか!
‥と、しばし悩んだ末、妙案が浮かびました。それは、「銅鑼」をモチーフにするというものです。しかし、何故銅鑼なのか?
下の写真は、淡交社「原色茶道大事典」の中の「銅鑼」の解説写真を撮ったものですが‥↓
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このように、黒や茶色の鉦(かね)で出来た合図を鳴らす道具が、銅鑼である訳です。
実は、茶道では、銅鑼は大切なお道具の一つです。
正式な茶事の際に、途中で休憩時間のような「中立ち」という時間があるのですが、その「中立ち」が終わって「また茶事の続きを始めますよ。どうぞ茶室にお入りください」と呼びかける、その合図に銅鑼が使われるのです。
そんな銅鑼を、どうして今回の「名残之茶会」のお菓子のモチーフにしようと思ったのか?それは、過去の茶道の歴史の中に銅鑼にまつわる、或るエピソードがあったためです。

           *

江戸時代後期に当たる安永・文化期、表千家第七代如心齋の愛弟子に、川上不白という方がいました。後に江戸千家の流祖となる方です。
この不白は三十代の初めに、江戸の或る大名より「千家の茶を江戸でも教えてほしい」と出仕の要請を受けました。師である如心齋は愛弟子を手放したくはなかったでしょうが、大名の要請とあれば受けない訳には行きません。そこで、万感の思いを込めて、いよいよ不白が京都を旅立つ日、「名残之茶会」を開くことにしました。
この茶会で、如心齋はちょっと変わった銅鑼の打ち方をします。七回打つことと決まっている「中立ち」後の銅鑼を、敢えて一回少なく打ったのです。そして、いよいよ茶事が終わって不白が茶室を離れるその瞬間に、最後の一打を打ったといいます。
これは、恐らく次のようなメッセージをその裏に込めているものでしょう。「今、私たちは別れ別れに暮らす時を迎えたけれど、またいつかきっと再会して茶室に集い、共に茶を楽しもう」‥何とも深い、惜別の思いを込めた銅鑼の使い方であると思います。
     
           *

「茶道は決まりごとばかりだから嫌い」と言う人がいますが、それは非常に浅薄な理解に過ぎないと私は思っています。
まず、決まり事をしっかりと、自家薬籠中のものにする。その上で、自分の心からの思いや思想を表現するために、その決まり事を自由な発想で駆使すること。そこに茶道という高等な遊びの本質があると思うのです。

           *

いつの日かの稽古の折りに先生から教えて頂いていたこの如心齋と川上不白との銅鑼のエピソード。今正に同門のMさんを送ろうとする私たちの茶会でお出しする主菓子に、ふさわしい主題となり得ると思いました。
しかし、銅鑼のお菓子など、どこのお菓子舗も作ったことはないでしょう。当然これは、新たに特注で発注するしかない。では一体どこにお願いしようか‥
そこで思いついたのが、このブログで5月7日にご紹介した、神楽坂「梅花亭」でした。
http://www.maya-fwe.com/4/000350_J.html
この時は、きものイベント「わーと日本橋」に出掛け、会場内に作られた空中茶室での茶会に参加しましたが、その日のお菓子を担当していたのが「梅花亭」さんだったのです。空中茶室にふさわしい、成層圏や雲をイメージしたお菓子。こんな大胆な発想を持つお菓子処なら、きっと「銅鑼をモチーフに」というリクエストにも応えてくれるに違いない。
実は、「わーと日本橋」の後、ご主人の井上豪さんが私のおきもの友だちの元同級生だと知ったこともあり、何だかぐっと頼みやすくなった気もして、思い切ってメールをお送りしてみました。すると、快く「やりましょう」というお返事。何とも嬉しい瞬間でしたが、一つだけ心配だったのが、銅鑼は何と言っても茶色や黒と地味な色合いで、茶会の菓子としてあまりにも華がないことでした。
そこで、
「ばちの柄には赤を使うことが多いようなので(先ほどの解説写真のバチでも赤を使っています)、茶色の銅鑼の上に、赤いバチが置いてある意匠ではどうでしょうか?」
と提案してみました。しかし、私のこの素人くさいアイディアは直ちに却下(笑)。確かに今になって想像してみると、小学生が家庭科の時間に作るお菓子のようで、まるで大人の茶会の品格がありません。
十日ほど、試作を試みて頂いていた後、「梅花亭」井上豪氏のオリジナル作品として、下の写真のような銅鑼のお菓子が完成しました。
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色は、格調高い白。万感の惜別の念を表して、一片の金箔がその上を飾ります。友を送る私たちの心の中で鳴る銅鑼の音を象徴化する、素晴らしいお作となりました。銘をつける権限も与えられている私は、「名残之音(なごりのね)」としたことを書き添えておきます。

           *
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この日の茶会は万事滞りなく進み、お点前をする人は心を込めて、先生のお道具組も格調高く惜別の念がこもり、また、門人全員からMさんに贈った茶道具一揃えの中のお棗は、蒔絵も学んでいる仲間による手ずからのものでした。
もちろん、お菓子も大変に好評で、そして、先生よりこのお菓子の由来を説明する口上を申し付けられた私は、先ほど書いた如心齋と不白のエピソード、そしてMさんを送る思いとを、五分ほどの時間をかけて心を込めてお話ししました。Mさんや他のお仲間が涙ぐんで下さったので、きっと成功していたのではないかと思います。

          *

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そんな素晴らしいお菓子を作って下さった井上豪さんと、茶会前日、お菓子を受け取りに行った際に撮ったのが上の写真です。
神楽坂「梅花亭」は昭和十年の創業。神楽坂駅に近い店内はいつもたくさんのお客様でにぎわっています。神楽坂ポルト内にも支店があり、実は私は以前から、度々、おまんじゅうなどは買い求めていました。お菓子にはうるさい甘党の私の厳しい~舌にかなうお菓子処です!
その秘訣の一つは、お菓子の皮に合わせて餡の豆を何種類にも炊き分けていること。私たちの茶会の日のお味も、もちろんびっくりするほど美味しいものでした。大切な茶会のお菓子をこちらにお願いして、本当に良かった…!
  
          *

最後に、蛇足のようですが、私のコーディネイトを楽しみにしてくださっている方もいらっしゃるので(ありがとうございます!)、帯に寄った写真も。
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この日のおきものは、村山大島の単衣。とんでもなく精緻な板締めで、燕などの文様を表したものです。今、一番気に入っているこちらのおきものについては、また別の回に詳しくご紹介したいと思います。
帯は、祖母から伝わった八寸名古屋帯。破れ七宝模様のこの帯に、明るめの黄色の洋角組帯〆を入れています。
茶会当日のきものは、また別の回に。
今はとにかく、心血を注いだお茶会が無事に終わり、心からほっとしています。大切な友を送り出すのは寂しいものですが‥

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喪の日のきものと、厳しかった大学時代恩師の思い出(コーディネイト写真付き) 2015/06/19



少し前のことになりますが、大学時代の恩師が亡くなり、お通夜に参列しました。
きものブログはたくさんありますが、あまり喪の日のきものを採り上げる例はないように思うので、今日は、ご参考になればと写真付きで書いてみました。そして、亡くなった恩師――とても厳しい先生でした――と、先生のもとで真剣に学問に取り組んだ大学時代の思い出も、少し。

     *

この日のお通夜は、キリスト教式で行われました。私はミッション系の上智大学の出身で、先生は教授であり、神父様でもあった方です(私自身は無宗教です)。大学内のイグナチオ教会という、講堂のような大きな教会が会場でした。
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上の写真が、当日に着た喪服です。
一般に、お通夜はお葬式よりも略式で構わず、とり急ぎ駆けつけた気持ちを表せば良いとされているかと思います。私もこの日は、色喪服で参列しました。
この色喪服は友人のお祖母様の遺品を頂いたもので、ひげ紬のようなひげが出ていますが、やわらかものです。色は、紫がかった茶色のような、何とも言いがたき色(この写真と、下にもう一枚出て来る写真の中間の色目です)。八掛には黒を入れており、紋は入っていません。
そして、帯は、喪服用の唐花文様す。これに、黒の帯揚げと帯〆を入れました。
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↑会場に着くまで、帯付きの喪服姿で街を歩くのもどうも気持ちが落ち着かず、上の写真の羽織を羽織っていました。こちらは私自身の祖母から伝わったもので、般若心経柄。背には一つ紋が入っています。
般若心経は、全ての仏教会派に共通するということで、よく喪服の模様として使われているかと思います。ただ、この日はキリスト教式だったため、会場の敷地の20メートル前程で脱ぎ、持参した黒布の手提げ袋にしまっていました。そして式が終わり、敷地外に出てしばらく歩いてからまた羽織ります。
髪は後ろで一つに束ね、その束ねた所を黒いリボン付きのバレッタで留め、バレッタの先に付いているネットの中に入れ込みました。たまたま家にあった、このような黒リボン付きのバレッタは、一つ持っているとふだんにも、そして今回のような機会にも役立つと実感しました。
以上、お通夜の日のきものについて、皆様のご参考になることがあれば幸いです。

        *

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ここからは、亡くなった恩師と、その恩師の元で過ごした日々を振り返って綴りたいと思います。(上の写真は、式が行われたイグナチオ教会)

この日、最後のお別れをしたエセイサバレナ先生は、享年九十歳。スペイン、バスク地方のご出身でした。
バスク地方は、ご存知の方も多いかと思いますが、一応スペインに属してはいますがフランス国境に近く、独自の文化を誇り、スペイン語ともフランス語とも異なる、バスク語という言語を話します。独立運動も度々うねりを見せる地域のようです。
そんな複雑な地域で生まれた先生は、若くして信仰の道に入り、はるか歴史の昔のフランシスコ・ザビエルと同様、全く縁もゆかりもない東の小国へと派遣されることになりました。その信仰の心はどれほどまでに強く、純粋だったのだろうと思います。

          *

しかし、私たちが教えを受けていた頃、既に七十歳を迎えられていた先生は、ひたすらに真面目で実直な信仰の人、と言うにはかなり違う、独特の風をお持ちでした。柔らかな言葉で言えば、ユーモアの人、強い言葉で言えば、かなりの皮肉屋‥
実は、先生に教えを受けていた頃、私は先生をひどく憎らしく思っていました。私が学んだ哲学科は、全体的に真面目な校風の上智大学の中でも特に学問に厳しく、大学1・2年の間、毎日1限目に設定された第一外国語の授業(必修)に、年間で3回遅刻すると、即、留年となりました。遅刻だけで留年。相当に厳しい方ではなかったかと思います。

そんな上智の哲学科は、伝統的にドイツ哲学が強く、ほとんどの同級生は第一外国語にドイツ語を選択していました。その中で、七名だけ、変わり種のラテン語専攻の仲間がいて、実は、私もその一人です。そしてエセイサバレナ先生は当時、ラテン語の担当教授でいらっしゃったのでした。

          *

ラテン語というのは、要するに、日本語で言うところの古文であり、現在、ヨーロッパ生まれのヨーロッパ人にとっても十分に難しい言語です。もちろん、現実生活で使い機会は全くと言っていいほどありません。

この言葉の難しさは、活用にあります。
何しろ、動詞はもちろんのこと、名詞、形容詞までいちいち総ての語が活用をするのです。しかも、単数形・複数形、男性名詞と女性名詞があり、時制は一体いくつあるのやら‥要するに、一つの文章の主語、動詞、形容詞、目的語‥に全て活用があり、しかもその時々の時制や数量に合わせて正確に活用していなければならい。‥そんな気が狂いそうに複雑な言語でした。
しかも全くのゼロから始めているにも関わらず、何しろ毎朝1限に授業があるために文法だけはどんどん前に進み、半年もすればもう、あのローマの雄弁家キケロの原文を読む、という恐ろしくレベルの高い授業が行われていました。

‥が、そのようなハイスピードのため、当然どうしても覚えられない活用や、読み取れない箇所が頻出するようになります。私たちは日々の宿題や授業中の指名の度に頭を抱えることになった訳ですが、そんな時エセイサ先生は決まってこう言いました(日本語で)。
「キケロのおばあちゃん」
これは一体どういうことかと言えば、あれこれ考えてみても仕方がない。語学には、何故こう活用するのか、何故この発音なのかという問いに対して、理由など何もない。キケロも、キケロのおばあちゃんもみんなこう喋っていたから、こう喋るんだ、ということを意味しています。
語学というものの真実をたった一言でユーモラスに言い当てている名句だと思うのですが、けれど、当時、留年におびえながら活用に頭を悩ませている時に微笑混じりに言われれば、どうにも憎らしく腹が立ったものです。一体、私たちラテン語組は2年間で何回この「キケロのおばあちゃん」を聞いたでしょうか。

          *

式の後、その仲間たちで、なつかしい四谷の街で食事をしました。
みんなが口々に「ほんと、あの頃のエセイサは憎らしかった」と言い、当時から夜型だった私は毎朝1限ギリギリに飛び込んでみんなをはらはらさせていたこともぼんやりと思い出しました。
『パパラギ』『蠅の王』『夜と霧』など、1年次の必修授業「人間学」で読んだ課題図書に、今になって思えば非常な良書が選ばれていたことや、そのためみんなが内容を鮮明に記憶していること、確実に今の自分たちの思考の血肉になっていることにもまた気づかされ,、それぞれが書き上げた卒論についても話し‥と、話題は尽きることがないのでした。

          *

けれど、ざっくばらんに言ってしまえば、今、そんな私たちの中で、ラテン語の知識を役立てられる仕事に就いている人は、一人もいません。あまりにも複雑なラテン語のあの活用文法は、その複雑さの故に今はきれいさっぱり脳髄から消去されてもいます。では、あの時間は無駄だったのか?と問えば、そこはそうではないように思うのです。
私たちが大学に入学した頃は、まだバブルの花が最後の腐臭を放ちながら、かろうじて咲き誇っていた浮かれ時代の最終章。そんな時代の空気の中で哲学を学ぼうなどという人間は、子ども時代から何らかのやむにやまれぬ哲学的命題に頭を悩ませ(例えば、「“本当に理解する”とはどういうことか」「1+1は何故2なのか」などなど…)、それを何とか解き明かしたい、そういう、切迫した決意を持って入学を決めたはずです。少なくとも、私はそうでした。
けれどそんな人間にとっても、禅問答オンパレードの哲学書を読むことはやはり相当に難易度が高く、非常な根気が必要とされる出来事でした。
だからこそ、一切甘えのきかない態度で私たちの前に立ちはだかったエセイサ先生をはじめ、上智哲学科の、キリスト教ならではの生真面目な環境が役立ったと思います。すぐに落第、留年となってしまう環境では怠けることは許されず、カントでもデカルトでもキルケゴールでも、課題となった哲学書を線を引き引き読み通さざるを得ない。それが4年間続くことで、もともと持っていたそれぞれの論理的な傾向が徹底的に磨きをかけられ、血肉化し、卒業して20年を経た今、仕事をする上での大きな武器になっていることは、その夜集まった全員の共通認識でした。
もちろん、こういった理論的傾向は、問題解決を最後の最後では情緒で紛らわしがちな日本社会においては、「理屈っぽい」と摩擦を引き起こすこともあります。
けれど、どのようなことでも、中途半端が最も意味がない。4年間で磨き上げられ、とにかく、抜けのない論理的思考方法を持てるようになったこと。それをどう使いこなすかは、それぞれの謂わば人間力次第であり、また別の話なのだと思います。
「キケロのおばあちゃん」とエセイサ先生に憎らしく微笑まじりに言われたこと。
それは今になってみれば、たまらなく心楽しい思い出です。そう言えるほどには私たちが成長したことを伝えたいと思った時、もう先生はここにいないのでした。
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我が家の庭の巨大紫陽花 2015/06/14



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我が家の庭の紫陽花が、巨大な花をつけました。
どれくらい大きいか、比較のために母のガラパゴス携帯を横に置いて撮ってみましたが‥何だか別の花のような巨大ぶりです。今にもパンっとはじけそう。
この紫陽花の木は、15年程前、どうしてか庭の片隅に自生していたものを父が植え替えたところ、立派な木へと成長しました。とは言え、大きな花をつけたのは、今年が初めてです。紫陽花の木の樹齢を知りませんが、今が盛りの時なのかも知れません。

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人生を左右する“頭にピッタリの枕”問題について 2015/06/10



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何やらこんまりさん風の題名をつけてみた今日のブログなのですが、皆様、毎朝の目覚めは快適でしょうか?
実は私、枕にはとてもうるさい人間です。
どのくらいうるさいかと言えば、小学校低学年にして既に「枕が合わない!」と日夜親に訴え、困った父親が特製枕を作ってくれたほど、枕には一家言持っておりました。これから詳しく書きますが、これまでに渡り歩いた枕の数は相当数。枕放浪記が書けそうな勢いです。

☆枕の合う合わないは、体型に起因する
では、どうしてこれほどまでに枕に敏感体質なのか?どうやらそれは、私の体型に起因しているようです。
これまでに複数の枕アドバイザーさんに指摘されたのですが、私の体型は、背中のS字湾曲がかなり大きめ。そのため、お尻側と上手くバランスを取って頭側からこの深めのカーブを支える枕を見つけることが、難しいようなのです。
私の身長や首の長さ、肩の厚みから言って、「標準的にはこのくらいの枕が良い」という高さがあるようなのですが、どうもそれでは高過ぎる。事実、これまでに枕アドバイザーさんからお薦めされた枕は、どれも合いませんでした。
また、売り場では必ずサンプルの枕に寝てみるのですが、そのような試し寝も役に立ちません。その場では、「これなら大丈夫そう!」と思って購入しても、家で使ってみるとNG。どうやら、寝心地というものは枕だけで決まるのではなく、ベッドの固さも影響するらしい、ということも、最近になって知りました。
つまり、このようなことが結論されます。理想の枕とは、「枕自体の高さ・素材が体型に合っていること×ベッドの固さが適した時」に誕生する。何とも、難しい。

☆過去、二度の枕問題深刻化を体験。現在、三度目に遭遇…
そんな枕問題の難しさを、恐らく体型のせいで早くも小学生の時から実感せざるを得なかった私である訳なのですが、この時の枕騒動は、冒頭にも書きましたように父のお手製枕が解決してくれました。
その後、後に詳述しますが、三十代で二度目の深刻な枕問題に突入。更に四十代のごく最近、実は人生三度目の枕騒動が勃発してしまいました。今、この問題がなかなかに深刻なのです。

☆枕は厚い派?薄い派?
そもそも皆様は、厚い枕派でしょうか?薄い枕派でしょうか?
私はダンゼン“薄い枕派”です。よく、ホテルに宿泊すると、「これはもしや…?クッションなのでは?」と思うほどに分厚い枕が、しかも二段に重ねられて豊乳自慢の女性のように、今にも中綿をはち切らせんばかりにして並べられています‥が、あのような枕で寝ることは私には、到底考えられません。
実は、若かりし頃、試しにホテルの枕にそのまま寝てみたことがあるのですが、翌朝、ベッドから起き上がって一歩歩き始めたとたん、「も、もしかしたら私の首‥もげた?」と勘違いするほど、例えて言えば頭と首が左右にずれた状態でかろうじて糸一本でつながっているような、とてつもない不快感に襲われました。しかもその不快感は一日中続いたのです。
以来、私がホテルの部屋に入ってまずすることは、おしゃれで見栄えの良い分厚い枕をベッドからぜーんぶ取り払うこと。そしてバスルームからタオルを持って来て、三つ折りして枕代わりにして寝ています。これだと多少低過ぎではあるのですが、数日の旅行の間なら何とか過ごせます。
また、ホテルによっては、フロントに問い合わせてみるとそば殻枕を用意している所もあります(何と、中国のホテルでも用意していました)。そば殻のものは、ホテルによってはかなり薄いタイプがあり、完璧ではないもののしのげることも多いため、愛用している次第ですす。

☆お金をどぶに捨てた十の枕
こうして子どもの頃から常に枕に!問題意識を!持って来た私。
ここで、今日のブログ冒頭の写真を再び掲載するのでご覧ください↓
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枕が六つ、積み重なっています。実はこれらは9年前、三十代の頃の私が、人生二度目の“枕騒動”で悩んでいた頃にあれこれ買ってみては頭に合わず、お蔵入りとなってしまったもの。
現在手元に残っているのは写真の六枕なのですが、この他に、まだ三つか四つほどありました。それらは、或る時、フリーマーケットに、
「一度だけ使って頭に合わなかった枕です。たった一度しか使っていないのでとてもきれいです。100円でどうぞ」
と書いた紙と共に並べておいたら、お嫁に行ってくれました。しかし、まだ六つは残っていて、家の押入れを占領しているという訳です。(どなたかほしい方、いらっしゃらないでしょうか?もちろん無料で差し上げます!)

☆三十年間愛用した父の手製枕の優秀構造
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この二度目の枕騒動の頃、私は三十代の半ば。それまでは、何と冒頭に書いた小学生の頃に父が手作りしてくれた特製枕を、三十年近く使い続けていました。
それがどんな枕だったか、私のように枕問題で悩んでいる方のご参考のために、ちょっとご説明したいと思います。(上の図もご参考下さい)
1)お布団の中綿に入れるようなほわほわと柔らかい綿を、
2)やはり柔らかめでかなり薄手の、伸縮性のあるナイロン布で作った袋に入れて閉じ、
3)更に、頭が載る辺りの場所にそば殻を入れた袋を、横長に縫い付けたもの。
このそば殻袋の寸法は、縦は、大体頭の長さと同じ。横幅は、頭より5センチほど左右に出たものでした。
つまり、頭の重みをまずそば殻袋で受けとめ、しかも袋の底が直接マットに着くのではなく、一旦綿で柔らかく沈み込むように受け止める構造。これが、私の深めのS字湾曲体型に非常にマッチしたようです。似たような体型で悩んでいる方はゼヒ試してみて下さい。
どうやって父がこの形にたどり着いたのか、もう本人も覚えていないそうなのですが、とにかく非常に調子良く、三十年間使い続けることになりました。

しかし、万物は流転し、形あるものは必ず壊れる。これほど素晴らしかった父の手製枕も、9年前、ついにそば殻部分の袋が破れ始め、ぼろぼろとこぼれ出るようになってしまいました。30年も使い続けていたのだから、当然のことです。
そこで修復を施して、同じ枕を維持しながら使い続ければ良かったのに…と今になっては思うのですが、まさか自分がそこまで枕にうるさい人間だとは、その頃は想像出来なかった私は(何しろ前回の枕騒動が小学生のときだったので‥)、結構簡単に次の枕も見つかるだろうと、その手製枕を惜別の想いにかられながらも処分してしまったのです。

☆三十代、枕放浪記第二章始まる
ところが、それから、買っても買っても、頭にピッタリ来る枕が見つかりません。その結果が先ほどの六枕写真なのですが、全部で十個ほど買っては無駄となり、その中には1万円台後半のお高いものから3千円ほどの手頃のものまで、中身も、そば殻からウレタン、天然綿、ポリエステル綿、ビーズ‥実に様々なものがありました。
基本的には、どれも「最も薄い」サイズのものを買っているし、先ほども書いたように枕アドバイザーさんのお薦めを買ったり、売り場で試し寝もしているのですが、総て、合わない。もう、朝、起きてベッドから降りた瞬間に、「く、首が、もげてる…」状態となり、お金をどぶに捨てたことが分かるのです。
そんな中で、素晴らしいと思ったのは、テンピュールでした。
実はテンピュールの枕も「もげてる…」状態になってしまい、私には結局合わなかったのですが、あのブランドには、貸出制度があります。確か千円ほどで2、3日借りることが出来、自分に合うか合わないかを判断することが出来ました。かなり高額な商品だということを考慮しての制度なのでしょうが、すごく良心的な会社だなと思ったことを覚えています。

☆幼児用枕に落ち着く
そんな人生2度目の枕騒動に遭遇して十個ほどの枕を無駄買いした9年前、結局たどりついたのは、幼児用枕でした。
何だかかなり情けない話なのですが、ものすごーく薄い、二、三歳児用の枕です。中にはポリエステル綿が入っていて、厚みは2センチほどだったでしょうか。
これは、フェリシモのカタログで偶然見つけたもので、それまでに十個分トライしていましたから、もう、すがるような気持ちで、ダメ元で買ってみたものでした。値段は確か3千円ほどのお安いものだったと思います。
ところが、これが、劇的にピッタリと来ました。起きた時に、普通に、首と頭がつながっている!幼児用だって笑われたっていい!フェリシモさん、ありがとう、ありがとう!そんな気持ちでした。
‥この時、一生困らないように、4、5個まとめ買いをしておけば良かった、と、今となってはまたまた後悔の念に襲われます。何しろ一つ3千円ほどだったのですから、五つ買っても1万5千円。何故買っておかなかったのか‥そう、その枕は今、販売されていません。
そして9年を経た今、さすがに中綿がへたって薄くなり過ぎ、一月ほど前からでしょうか、“人生三度目の枕騒動”が勃発してしまったのです。

☆たとえ薄枕派でも、「薄過ぎ」はダメ
今度の枕問題は、これまでの「厚い」問題とは逆に、許容範囲を超えて綿が薄くなり過ぎたことが原因です。
本当は、このフェリシモ幼児枕の現在の状態をお見せしたいところなのですが、あまりにへたれ過ぎていて何とも悲しくみすぼらしく、私のありもしないかも知れないパブリックイメージに関わるため、非公開とさせて頂くことをお許しくださいっっ。
‥と、それほどにぺちゃんこになっているのですが、枕は、「厚過ぎる」場合には再三書いたように、首がもげる系の不快感に苦しみますが、「薄過ぎる」場合は、背中が痛み出すことが今回分かりました(そんなこと分かりたくなかったのですが‥)。
どうも1か月ほど前から背中や肩が痛み、次第にきものの帯を結ぶために後ろに手を回すこともつらいほどに。ちょうどその頃、階段で足を踏み外して転倒していたためてっきりそのせいだと思っていたのですが、「どうも枕が薄いような気がする」という違和感もあったのでバスタオルを二つ折りにして枕の上に重ねてみたところ、翌朝、きれいさっぱり痛み解消。手をぐるぐる回しても痛くない!そうか、転倒ではなく枕が原因だったのか、と思い当たりました。

そこで、「ぺちゃんこ枕+バスタオル」方式で過ごそうと思ったのですが、何故かその翌朝は、また背中の痛みが戻っている。けれど翌々日とその翌日は大丈夫。でもその翌日は痛い‥
どうやら、その日その日のタオルのたたみ方や寝相、綿の寄り具合によって、微妙に高さが変わってしまうようなのです。これは、根本的に枕を買い替えなければいけない、と思い当りました。

☆四十代、枕放浪記第三章。新たに薄型枕を購入したけれど‥
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‥そんな訳で、現在、三代目枕購入問題に、文字通り頭を悩ませています。私は吉祥寺に住んでいるので、街に幾つかあるデパートや枕専門店、インテリアショップを行脚。半月ほど悩みに悩んだ末に、つい先週、私の枕コレクションに新たな一つが加わりました。それを撮ったものが、すぐ上の写真です。
寝具メーカー「ロフティー」から出ている最も薄いサイズで、下の寄りの写真をご覧頂くと分かる通り、ジュニア用。身長80~100センチのお子さんのための枕です↓
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身長80センチ用!何だか泣けて来ますが、背に腹は代えられない。いや、頭に首は代えられない気持ちです。
現在、この枕で寝て、四日目。快調です、と言いたいところなのですが、実は微妙に調子が良くないことを感じ取っています。ものすごく悪い訳ではないけれど、何となく、肩や背中が不調。明日あたり、背中に激痛が走るか、なつかしの「首がもげる感」が再び起こるような悪い予感もただよっています。ロフティーさんの枕がダメなのではなく、単に私の特殊体型と合わない。やはりまだ厚いのではないか?この枕から更に中の綿を抜き取り、自分なりの改造をして行くしかないのかも知れません。或いは、また幼児用枕を探すのか‥枕放浪記、四十代疾風怒濤編はまだ始まったばかりです。
大袈裟ではなく、健康を、そう、人生を左右する一大問題。
三十年以上前、初代の特製枕を作ってくれた父は、今回買った新しい枕ではなく、中綿のへたった二代目枕に手を加えて使い続ける方式を強く薦めています。そう、ここだけは過去の教訓を生かし、幸いまだ二代目枕は捨てていません。新たな枕放浪記は、どんな結末を迎えるのでしょうか‥旅はまだまだ続いています。

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季節の花を生ける 2015/05/26



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 少し前のことになりますが、端午の節句の頃、庭に咲いたあやめの花を手折り部屋に生けてみました。
 横に細長い長方形の花器に、あやめだけの一種生けです。

          *

 私は大学生の頃から生け花を習い(流派は真生流)、実は花がとても好きなのですが、花は、まず花を選び、花器を選び、そして生け始めると納得するまで何度も何度も生け直しが続くため、完成までに相当な時間を必要とします。真剣に花を学んだ人ほどそのことが分かるから、ちょっと時間が空いたくらいではなかなか生けようという気にはなれないのではないかと思います。(一輪挿しの花瓶にさっと挿すくらいなら別ですが‥)
 私もその例に漏れず、この一年ほど絶えず急ぎの〆切を抱えて全く時間の余裕がなかったため、「ああ、庭にあの花が咲いてるな、生けたいな」と思っても、到底無理とあきらめることばかりでした。
それが、ちょうどこの間の連休の少し前、急ぎの〆切が一旦途切れることが見えて来ると、「もう、この連休は絶対花を生ける!」と心待ちにしていたのでした。

          *

 そうして生けた今回の花は、実は、少し邪道の生け方をしています。
 と言うのも、普通、日本の生け花では主となる枝を三本で生け、二本で生けることはないためです。
「三本が基本」、これは、日本に花道が成立した室町時代からの鉄則で、日本の伝統美意識は、三点の均衡に美を見出していたと言えるでしょう。
 ‥が、今回あれこれ試してみましたが、どうしても三本目が良い位置に入らなかったため、家で、家族が見るだけ、ということもあり、このような生け方をしてみました。我が家では母も生け花をするため若干渋い顔で眺めていましたが‥気にしません!

          *

 それにしても、いざ花器の前に立つると、仕事のこと、人間関係の悩み、あれを買いに行かなくちゃ、あ、そうだあれも、そう言えばあのお食事会の段取りは‥といった毎日毎時間頭を占めている雑事が一瞬のうちに透明に色をなくして頭の中から消えてしまい、今、自分の目の前にある草花の、その茎の長さ、つぼみの開き具合、葉の長短やしなり具合、途中から分かれた細い葉を切るべきなのか残すべきなのか、この花とそちらの花、どちらを前に挿すか‥そういった、ただ花に関することだけに意識が自然に集中されて行きます。そうしなければ目の前にあるこの空間は決して埋められることがないのだから、集中する以外にない。この、花だけを見つめる、純粋な時間がとてもとても好きです。

          *

 そして、花は、自然から頂いて来たものであり、「この枝のこの花があと少しこちら向きについていたら…そうすればもう一本の枝と最高の調和が取れるのに…」などと思っても、それを変えることは出来ません。草花の種類によっては「ため」という技術を使えば或る程度枝の向きを変えることは出来るのですが、細い枝では折れてしまうし、不可能なことも多いのです。
 こうして、自然からの制約を受けながら、その制約の中で最高の調和を取って行く‥この真っすぐな努力こそが生け花であり、時間は瞬く間に過ぎて行きます。
 そして、日常の総てを忘れ、花だけを見つめていた無我の境地は知らぬ間に心にこびりついていた汚れを洗い落としてくれるようで、生けている間はずっと立ち続けた体は疲れているはずなのに、いつも、不思議なくらい、生け終わった時の心は清々しく、新しい力がみなぎっています。私は書道や武道はたしなみませんが、恐らく同じような心境を体験するのではないでしょうか。

          *

 それにしても、と思います。私は趣味を仕事にしているようなところがあって仕事が好きで好きで毎日が楽しくてたまりませんが、やはり時にはこうして、その総てを消し去ることも必要だ、と。
 真っさらな、無我の境地へと没入して行くこんな時間を、今年はあとどれくらい持てるでしょうか?願わくば、季節に一度か二度ほどは、花の前に立つ時があることを‥!

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本を書くために必要なこと――その一、舞台となる村を訪問する 2015/05/18



 私は今年、出版社と契約を結び、秋の終わりから執筆開始予定で、ノンフィクション小説の準備をしています(2016年5月発売予定)。こちらのブログで、これから時折り、その過程を写真もまじえドキュメントして行ったら面白いのではないか、と思いつきました。
 一体、本が一冊出来上がるまでに、作り手の側はどんなことを思い、具体的に何をしているのか?よく、作家が執筆前に「山のような資料を読んだ」というのを聞くけれど、では、一体どんな資料を読んでいるのか?そもそもその資料はどうやって入手するのか?取材ではどんな人と会い、どんな場所を訪ねているのか?装丁やタイトルはどうやって決めるのか?本当の意味で覗き見出来る機会は、意外と少ないのではないかと思うのです。そして、心の中の葛藤――例えば、書けない時に何を思うのか――も、時に記して行ければと思います。

          *

 さて、そんなドキュメントの第一回目は、取材旅行について書いてみたいと思います。
 先週の金曜日、前回の日記でご報告した手の大炎症も全くおさまらない中、担当編集者の方や今回の版元の皆さんと、山梨県北杜市の武川村という小さな村へ、取材旅行に出掛けました。

 この武川村は、「武川米」というブランド米の産地で、飛鳥時代から鎌倉時代までは、天皇に献上する名馬の産地としても知られた土地でした。戦国時代には武田信玄の配下に入り、戦となれば武田軍に参加した在地農民武士もいたようです。
 私がこれから書くノンフィクションは、明治から平成まで、小粒ながら良書を出し続けている老舗出版社を経営する、或る家族の物語。武川村は、その初代の出身地であり、明治43年、二十五歳で青雲の志を抱いて東京へと向かうまで、青年時代をこの地で過ごしました。
 もちろん、村についての資料は、東京でも、地方史資料を多く集める広尾図書館などで或る程度調べることは出来ます。作家の中には、現地に行かないで資料と想像力だけで書いた方が良いものに仕上がる、という考えの方もいらっしゃいますが、私は、出来る限り現地に足を運ぶべきと考えています。
 やはり、土地特有の空気のかんじは、写真や文字資料だけでは分からない。特に私は東京育ちで田舎暮らしの経験がないため、四季それぞれに一度は村を訪れ、自分の目と体で、村の空気、光、山からの風が肌に当たるその感覚、畑の間をくねって流れる小川の水音に耳を澄ませること――そういう体験が絶対に必要だと考えるのです。

          *

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 そう、実は、武川を訪れるのは今回が初めてではありません。
 上の写真は、前回、冬、一月に訪問した時のもの。
 この時は一人で訪れ、一泊したのですが、とても運良く、一日目が快晴、二日目には雪となって二様の風景を見ることが出来ました。一枚目の写真の真ん中ほどには、薄っすらと富士山が写っているのがお分かり頂けるでしょうか?

 そして、下の写真二枚が、今回、春、先週金曜日に訪れた時のものです。
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↑一枚目の写真は、冬の一枚目の写真とほぼ同じ場所を撮ったもの(今回の方がカメラを左に振っています)。田んぼに水が張られ、稲が植わり、いよいよ今年の米作りが動き始めたことが分かります。
 こうして、実際に自分の足で田んぼの間を歩き回り、時に立ち止まり、この小さな盆地の村を囲む甲斐の国の山々と、富士山とを眺める。そう、主人公がそうしていたように――取材旅行の第一目的は、この、「ただ現場の土地を歩き、立ち止まること」にあります。

          *

 そして、取材旅行のもう一つ重要な目的は、その土地に来なければ見ることの出来ない資料を探し当てることです。
 前回は、武川村の図書館を訪ね、司書の方に来訪目的をお伝えしたところ、村の古老たちに昔の思い出を語ってもらった「聞き書き集」を大量にコピーさせて頂くことが出来ました。このようなローカルな史料は、やはり現地に来なければ探し当てることの出来ないものです。
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 一方、今回は「北杜市郷土資料館」を訪問しました。上の三枚の写真はその内部で撮ったものですが、この資料館には、明治から昭和初期頃までの、この地方の典型的な農家が移築展示されています。また、当時この地方で使われていた農具や生活道具も大量に展示されているため、つぶさに観察して写真に収めました。私にとっては、主人公の暮らしを書く上で大変に大変に参考になる資料です。
 そして、触れて良いものには触れ、学芸員や職員の方に声を掛けて、使い方の分からないものについては使用方法をレクチャーして頂きます。普通、このような郷土資料館はさーっと一通り見る方がほとんどだと思いますが、取材旅行では、事務室のドアをこんこんと、いや、もうどんどんっと激しくたたき、学芸員の方に展示室まで出て来てもらい、分からないことは分かるまで教えて頂きます。更に、必ずこちらの来意を告げ、後から関連資料を見つけたり思い出した時に連絡を頂けるよう、名刺を置いて行くことも重要です。
 こうして、今回の資料館取材では「道具」や「生活背景」への知識を深め、小説のディテールを豊かにするための基礎作りをすることが出来ました。

          *

 取材旅行、最後の大目的は、関係者へインタビューを行うことです。前回は、土地の古老に当たる方。今回は、明治から昭和まで、主人公一家の親子三代を知る親戚筋の方にお話を伺いました。
 ご年配の方へのインタビューは、耳が遠くなられていたり、方言を聞き取ることが難しい、というあたりがなかなか苦労の多い点なんどえすが、やはり直接お話を伺うと思いもかけないエピソードがぽろりとこぼれ出し、いつも足を運んで良かった!と思わされます。
 今回も、これまで調べた中では発見出来ていなかった、初代の戦時中のユーモラスなエピソードを聞き出すことが出来、また、思いがけなく、初代が子ども時代に奉公に出されていたお寺へと案内もして頂き、とても実りの多い取材となりました。

         *

 ‥‥このように、今秋終わりの実際の執筆開始まで、日々、地道な準備が続きます。今回は現地へと出掛けて行く、比較的‘アクティブな’取材をご紹介しましたが、東京で黙々と行う準備も実に様々と存在しています。
 冒頭に書きましたように、これから折に触れて記して行きたいと思いますので――時には書けない苦しみ爆発、という愚痴のような回もあるか知れませんが――本が出来るまでの舞台裏をゼヒ覗き見に来て頂ければ嬉しく思います。
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桜ともみじが一つの幹になった大変珍しい「桜楓の木」と、春の雪と、誕生日 2015/04/08



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四月八日、花祭りの今日、東京には本当に珍しいことに朝から雪が降り、我知らず三島由紀夫の名作『春の雪』を想い返してしまいます。
そして実は今日は私の四十五回目の誕生日でもあるのですが、この日に雪が降っていたのは、本当に、生まれて初めてのことです。
実は、我が家の庭には、とても珍しい木があります。
日本人は古来より、春は桜の花見、秋は紅葉狩りを楽しんで来たのは皆様もご存知の通りで、よく絵画や歌の題ともなっていることもご存知のことかと思います。私は特に、上野の東京国立博物館が所蔵する桃山時代の屏風絵『花下遊楽図』が、何とも言えないけだるい憂いをたたえている――と、とてもとても好きで、最も愛している日本絵画の一つですが、この桜ともみじという主題はきものや帯の画題としてもよく描かれ、桜と楓(もみじのこと)を一枚に描く桜楓模様は、春にも秋にも、緑の楓なら初夏にも着られて重宝だったりもします。
ところで、実は我が家の庭には、この桜の木も紅葉の木も植わっているのですが、何と、二つの木の枝が下の写真のように、根元の方で一体化しているものがあるのです↓
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左がもみじの木、右が桜の木の幹となります。
実は、私が小学生の頃、この桜はまだほんの細い木で、あまり日が良く差さない日陰に立っていたため、大きくは育たないのではないかと心配するほどでした。
それがいつからか立派な青年の木となり、そして、たぶん10年ほど前からだったでしょうか、その桜の下に、庭の大きなもみじの木から落ちた種が芽を出して育ち、やがて二つの幹がくっついて共生するようになったのでした!
桜楓が一つの幹として伸びている‥これはもう奇観と言って良い、かなり珍しい姿ではないかと思っています。

毎年、四月八日、私の誕生日の頃にはこの珍しい「桜楓の木」に桜の花が咲きもみじにも葉が芽吹き、真の桜楓模様となって大変おめでたいのですが、今年は更にこの珍しい春の雪が舞うという三重のおめでたさが重なったので、ゼヒ写真に、と思い撮影したのがブログの一番上に上げた写真です。残念ながら雪は上手く写すことが出来ませんでしたが、こんな珍しい誕生日を迎えられた今年、四十代も半ばとなり、実は今が人生で最も楽しく、充実した日々を過ごしています。新しい一年も、今自分の手につかんでいるこの流れを継続出来るように、そしてもっともっと大きなことを実現したいと、まるで桜と楓と雪とを腕にかかえるように欲張りに幾つかの夢を持っていますので、一つ一つ地道に努力を続けて行きたいと思います。
どうぞ皆様良かったらこれからもお見守りを頂けたらと存じます。

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春の訪れ 庭の草木 2015/03/17



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春の始まり、我が家の庭の草木たちにも次々と若い葉が芽吹き、ついつい庭で長い時間を過ごしてしまいます。
(…って原稿の〆切があるのですが、いい気分転換になります)

若芽の小さくも鮮やかな緑に心を寄り添わす日本的な感性ばかりでなくーーそれももちろんありますがーーもっと科学的な、哲学的な、宇宙があり、太陽系があり、地球が公転し、細胞分裂が行われ…存在とは何か、という思考を春の陽に当たりながら巡らせてしまう、因果な哲学科卒業生なのでした。

写真の一枚目は紫陽花、二枚目は木瓜の枝を撮りました。
紫陽花はあと半月、木瓜は一週間もすれば伸び伸びと葉を広げることでしょう。
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お雛様飾り、今年はちょっとずるをした飾り方で 2015/03/04



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昨日は雛祭り。皆様も雛人形を飾ったり、ちらし寿司や雛あられを召し上がったりして楽しまれたでしょうか?
我が家にも、私が生まれた時に母方の祖父母から贈られた七段飾りがあり、今年は頑張って全部飾りました‥と言いたいところなのですが、上の写真を見て頂ければお分かり頂ける通り、何かが変‥??
そう、実は、二段目以降は床置きの形で飾ってみたのでした。

他のお宅の七段飾りはどうか分からないのですが、我が家の七段セットは、とにかく台を組み立てるのが大変です。とても大きく重いステンレス製で、組み立ての仕組みも複雑。もう「プチ工事」というかんじになります。
それでも、私が大学生頃までは、毎年家族みんなで大奮闘して組み立てていたのですが、就職して仕事が忙しくなった頃から情熱が薄れ、とにかく台を全面省略。お雛様とお内裏様だけを、緋毛氈を敷いて、玄関の棚に飾るようになってしまいました。
つまり、かれこれ20年程、三人官女以下のお人形は日の目を見なかったことになります。(その恨みで嫁き遅れたのでしょうか‥笑)

ところが、今年は発想の転換。
たまたま我が家の和室の床の間は下にものがしまえる棚状の変形式になっているのを良いことに、お床から緋毛氈を垂らし、三人官女以下は床に並べてみようと思いついたのでした。
実は、この発想は、ある企画のために江戸時代の暮らし方の史料を調べていた時、当時は床に直接緋毛氈を敷いて、お人形をばーっと並べる、そんな飾り方をしていたと知ったことから生まれました。当時から段飾りもありましたが、他の飾り方もあったということです。

実際に飾ってみると、もう、至極簡単。
お人形たちも、ずーっと物置で「ああ、今年も日の目を見なかった‥」と待っているより、台はなくても出してもらった方が嬉しいのではないかと思います!
本当は、お人形も道具類も正面向きに、人形が奥で道具類が点前に飾る方が正式だとは思いますが、人形は人形、道具類は道具類でまとめた方が何か見た目の感じが良いので、こんな風に並べてみました。そして、一部の人形とお道具を、少し傾きを付けて並べています。

実は、よく見ると、何故か貝桶の蓋がなくなっていたり、箪笥が一部行方不明になっていたりと、長い年月の間に欠けてしまっているお道具もありますし、お雛様の冠が少し曲がっているのは、今の猫がまだ子猫だった時にいたずらしてずれてしまったせいだったりするのですが、完璧ではなくてもとにかく飾ってしまう方が楽しいですよね。そして何より、贈ってくれた祖父母が喜んでくれると思います。
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↑また、緋毛氈の一番手前には、七段飾りセット以外のお雛様たちもいて、上の写真の立ち雛は、戦中生まれの母が大きな雛人形を買ってもらえず、この小さなお雛様を大切にしながら、戦中・戦後の混乱期の少女時代を過ごしたという思い出の品。小さいけれどとても良いお顔をしています。
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↑また、こちらの和紙と古布で作られた豆雛は、とてつもなく手先の器用な母方の大叔母が、数年前にプレゼントしてくれたもの。もう八十代なのですが指先の技術は全く衰えず、美しい出来栄えです。

それにしても、こうしてみるとなかなかに圧巻。実は我が家にはもう一対お雛様がいるのですが、そちらは今年玄関に飾り、ブログでは来年ご紹介出来たら‥と遠大な計画を立てています。
20年ぶりに、我が家のお雛様全員登場の春。せっかくですからもうしばらく飾って置こうと思います。
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郊外に住む幸せ‥吉祥寺、冬の午後の井の頭公園散歩 2015/02/19



ここのところ、単発の或る大きめのお仕事で、大量に、もう本当に大量に資料を読み込み、そして原稿にまとめる‥ということを、延々と2週間半ほど繰り返しています。
もちろん、その合間に別のお仕事の取材が入ったり、時には友人と出掛けたり、日々の食事の買い物にだって出掛けているのですが(基本的に毎日食事は手作りしています)…あまりにも目を酷使し過ぎたためについに一昨日の夜から、眼球の奥底の方から痛みがピリッと走り、更にめまいまでするようになってしまいました。
とは言うものの、仕事には〆切がある上に、もうその次の仕事の予定も入って来ているので、今の仕事のペースは絶対に落とせない。なかなかに絶対絶命な状況です。
そこで、とりあえず昨日から、PC断ち。昔ながらの「原稿用紙に手書き」で、原稿を書き進めて行くことにしました。一日の終わりに入力の時間を取って、誤字が多くてもとにかくざっと入力してしまい、最終〆切の前にしっかり見直せば良いかな、と。

そして、今日は、思い切って少し仕事量を減らし、お散歩をすることにしました。
向かったのは、井の頭公園と井の頭動物園。資料とPC。近くばかり見ているので目の筋肉が固定して疲労につながるのですから、井の頭公園の並木と動物舎でも眺めて、目を動かしましょう、外の空気もゆっくり吸いましょう、と思ったのです。

↓そして出かけた井の頭動物園。冬の午後、遅めの時間は、こんな風にゆったりとした空気がただよっています。
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武蔵野の雑木林の中にちらほらと動物舎が散らばっていて、彫刻館(上の写真)もあって。平日の午後、遅めの時間は人もまばら。私のように一人で歩いている人もたくさんいました。皆さんここに疲れた体や心を解き放ちに来ているのかも知れません。

↓鹿舎では、一匹の鹿さんが私をじっと見つめてくれました。この子は絶対私のことを好きだと思う♡
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↓一番の目当てだった象の花子は(国内最高齢の象なんです)、高齢のため3時以降はお部屋に入ってしまうということで、残念ながら会えませんでした‥涙
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↓でも、象舎の中を実況してくれているカメラ映像で、花子の様子は見られました(また会いに来るネ)
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↓ベンガルヤマネコはやっぱり猫!我が家の猫と同じように耳の後ろをかかかかっと掻いていたりして、笑ってしまいました。
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↓こちらは、マーラという南米の動物。ウサギに似ています。この子は食べ物についていた花がちょうど耳に載っていて、髪飾りのようで何ともかわいらしかったのでした。
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↓何気なく鶴もいます!そして何気なく梅の花も満開。
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この他にも、猿山も山羊さんもリス舎もモルモット舎も‥どの動物たちともとても距離が近くて、武蔵野らしく大型施設ではないのでのんびりと眺めることが出来、建物もカラフルではなく落ち着いたモスグリーンなどで塗られて雑木林に溶け込んでいるから、午後のひと時、すっと神経が休まって行くのを感じました。
もちろん、目の疲れもぐっと取れて、ああ、本当に散歩に出て良かったな、と。

↓帰り際には大分陽も落ちて、井の頭公園まで足を延ばすと、はっとするほどに美しい夕景が眺められました。
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↓それから、甘いものを飲みながら、原稿書き。町中がカフェと雑貨屋さんで出来ていると言っても過言ではない吉祥寺ですから、どこに入ろうかと迷ってしまいますが、今日はLindltに入ってホットチョコレートとマカロンを。
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ホットチョコレート、本当に美味しいのですが、惜しむらくは、BGMにアメリカのヒットチャートを流し続けていること。冬の午後のチョコレートの気分と全く合わないので、やめてほしかった(音響も悪いし)。ゆったりアコースティックギター、或いは、クラッシックのピアノソロなんかを流せばいいのに。吉祥には他にも無数に良いカフェがあるので、音楽を変えないならこの店に行くことはもうないかな‥

↓原稿は、まだ目が本調子ではないため、ノートブックPCではなく原稿用紙に。意外と書けてしまうものですね。
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‥と、心の空気の入れ替えをした冬の午後でした。いつも思うのですが、井の頭公園は吉祥寺の気の中心。おへそのような場所。公園があって、すぐ近くにカフェがあって、毎日の野菜やお醤油を売っている店がまたそのそばにあって‥やっぱり私は郊外暮らしが一番落ち着きます。

↓おまけの一枚は、動物園のたぬき舎で撮ったもの。これが本当のたぬき寝入り!
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雪と水仙 2015/01/30



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東京は、今日、雪。
本当は昨日・今日と、本の取材のために山梨の奥地の村を訪ねるはずだったのですが、万が一大雪になって閉じ込められたらいけないと、取りやめにしました。
そんな訳で、3センチくらいでしょうか、我が家の庭に浅く積もった雪を眺めながら過ごしています。写真は、雪の中でもけなげな花壇の水仙の列と、石段に積もった雪。

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今年は、勝負の年 ~新年のご挨拶と決意表明日記~ 2015/01/03



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皆様、新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

年が明けて、「今年はこんな年にしたい」と抱負をお持ちの方も多いのではないかと思います。かく言う私は、と言えば、抱負を超えて、決意。今年は自分にとって“勝負の一年”になると考えています。
と言うのも、以前にこちらのブログでもお知らせさせて頂いた通り、今年は、「本を書く」という仕事が控えているためです。実際に書き始めるのは秋の終わり頃になりますが、それまでに約一年をかけて、(他のお仕事もしつつ)取材や資料読みを行います。そして、何百回も何千回も繰り返し繰り返し、頭の中で書き出しや構成をシミュレーションしつつ日々を暮して行くことになると思います。

実は私はこれまでにもゴーストライターとして数冊本を上梓しているため、長物を書くのが初めてという訳ではありません。
執筆に大体どれくらい時間がかかりそうか、どんな心理状態になるかは体験済みで、特に、最後の一生に入ったあたりからは、書いている世界の中に自分が入り込んで抜けられないような状態と、早く脱稿したいという思い、そしてやはり文章作品は最後が肝心であるため、どう着地させるのか?という緊張感も加わり、いつもかなり危ない精神状態に陥ってしまいます。しかも初めて自分の名前で出す単著となったらその“危なさ”は倍加するのではないか、と‥。

が、人の人生には、ここと勝負を賭ける局面があるのだと思います。
この一年、常にその勝負の意識を持ちながら毎日を送る所存でございますので、お友だちの皆様、そして大変ありがたいことにいつもブログを読みに来て下さっている皆様、どうか温かく見守って頂けたら幸いです。
本年もどうぞ何卒よろしくお願い申し上げます。

(写真は、我が家の庭の梅の枝。一見枯れ枝に見えても小さな固いつぼみが、じっと開花の時を待っているんですよね)
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本を書くことになりました+その打ち合わせには結城縮み×博多の帯で 2014/09/17



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この度、東京の或る出版社様から依頼を頂いて、ノンフィクションを執筆することになりました。
…と言っても今すぐ書き始める訳ではなく、これから半年~八か月ほどかけて資料を読み込み、もちろん取材も行い、その後、半年ほどかけて、じっくりと執筆する予定です。(ですので、まだまだ他のお仕事もお受けいたしますので~‥出版社の皆様)

          *

依頼を下さったのは、明治時代創業の老舗出版社。
考古学や江戸民俗史を中心に、歴史・文化関連の学術書と学術雑誌を出版し続けている、日本の“知の良心”とも言える出版社です。
再来年に創業百年を迎えるに当たり、明治から平成まで、途中に太平洋戦争を挟んだ激動の日本現代史の渦の中で、数々の苦労を重ねつつ、“知の灯”を守り抜いて来た人々の波乱万丈の物語を、ノンフィクションとしてまとめて行きます。

…と、こう書くと、何だか朝ドラのあらすじみたいだと思いませんか?
実際、既に創業者一族のお話を伺い始めているのですが、ドラマの一場面に出来そうなエピソードが数々埋もれています。
特に、明治期というのは国としてもまだ若く社会制度が未発達だったこともあり、人々の行動がその日暮らしの破天荒。大学も、出版業も、考古学もおぎゃあと生れて立ち上がったばかり。試行錯誤の連続です。だからこそ、ドラマが生まれるんですね。
一方、時代が移って戦中戦後は、とにかく物資不足。出版をしようにも、そもそも紙がない。その中で創業者が亡くなり、会社としての理念が崩れ去りそうになる時、名物編集者がやって来て…やがて更に時代は移り変わってバブルを迎え…とこんなかんじです。
これから大量の資料を読み込み、人にお会いし、“ドラマ”の舞台となった地を訪ねることで、よりいっそう、物語の輪郭は明確になって来ると考えています。
今日のブログの最初に上げている写真は、出版社から我が家に送られて来た、第一弾の資料。まずはこれを読み込んだ後、日記類や関連資料を読み…長い長い準備期間が続きます。
2016年春に出版の運びとなりますので、皆さま、ゼヒお楽しみにお待ち頂ければと思います。

          *

そして、お着物好きの皆様には、先週、この本の打ち合わせの日に着て行ったコーディネイトを。考古学や古代史に強いこちらの出版社が手がけた埴輪人形と一緒です↓
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女流文士っぽいコーディネイトを!と思ったのですが、よく分からず普通になってしまいました…。今後、一度くらいは、“束髪風の髪型に、大正女流作家風きものコーデ”で打ち合わせに行ってみたい!
しかも写真では、蛍光灯の光のせいできものの色も帯のもようも良く出なかったので、帰宅後に床に置いて撮ってみました。
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きものは、頂きものの単衣。たとうに「結城縮み」とあり、結城縮みだと思います。蚊絣が織られています。
きものの色味が地味なので、帯は少し華やかに。ワインレッドの唐草模様博多帯に、道明のさくら色?(我が家に古くからある一本で、色の名前が分からなくなっています)の冠組で。帯揚げは香色の縮緬のものを入れていたのですが、写真に撮り忘れました。すみません。
それにしても、女流文士っぽいコーディネイトってどんなものなのでしょうか??
ちょっと研究してみたいと思いますが、アイディアがある皆さまは、ゼヒメールをくださいませ。

          *

これから出版までの間、やはりそれなりに生みの苦しみがあると思います。
実はこれまでにもゴーストライターとして数冊本を送り出しており、「本を一冊書き上げる」ということが、どんなにか難仕事か…そのことは、身にしみて理解しています。
もちろん、こちらのお仕事と並行して他のお仕事も受けて行きますので毎日はかなり多忙になると思われ、その間の心の動き、取材を通して思ったことなど、折に触れて書いて行きたいと思います。
皆さま、ゼヒ時々覗きにいらして下さい。
「人が一冊本を書く間に、どんなことが起こるのか、どのような心理状態を経過するのか」、そんなもう一つのノンフィクションとなるかも知れません!

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プロフェッショナルとして文章を書くということ 2014/09/14



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快晴の三連休、フェイスブックのお友だちの皆さんの楽しそうな投稿を横目に見ながら、私は原稿書きにいそしんでいます。
写真は、原稿を書く時にいつも目に入る風景。PCのすぐ横に置いている写真立てを撮ったもので、先代猫フレディの写真を入れています。
そこに貼ってあるメモに、何が書いてあるのかお分かり頂けるでしょうか?
そう、今書いている原稿の字数を、一目瞭然となるよう書き出しています。

プロフェッショナルとして文章を書くということは、すなわち、字数との闘い。
常にこの数字を横目に見ながら、何を書き、何を削るのか?同じ意味を持つ単語のうちで、どの言葉を選ぶのか?どこで改行するのが効果的か?――判断を積み重ねることになります。
そんな判断の集大成が、雑誌に掲載される文章。
プロフェッショナルとして書くということは、好きなように文章を運べるブログやSNSの投稿とは、全く違う行為なのです。

          *

字数とは、つまり、エディトリアルデザイナーが組み上げた美しいレイアウトから、必然として割り出されて来る数字。
文章のプロフェッショナルなら、そこにぴったりと収まるように書くのは当たり前のこと。更にその中で、自分らしい文体も、深みのあるメッセージも、追求しなければなりません。
楽しいお誘いを断念するのはつらいけれど、やはり“プロとして書く”というこの行為は、私にとって、人生最高の楽しみでもあるのだから――
幸い今日は昨日までのスランプを脱し、快調に言葉が紡ぎ出されています。長い夜をこのまま歩きいて行けると信じて、熱い紅茶でも淹れてみましょうか。

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8月初日、雑誌のお仕事でロケハンへ! 2014/08/01



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首都圏は連日猛暑が続いていますが、皆さまお元気にお過ごしでしょうか。
私はお蔭様でたくさんのお仕事に声をかけて頂き、もう、正直言って暑いとか暑くないとか全く気にしていられない、〆切までに何とか高いクオリティの原稿を仕上げて納品するために、日夜邁進しています。(諸事情で一部遅れている原稿もあり、申し訳ありません‥!)

そんな中、今日は都内の某工房に、撮影前のロケハンへ行って来ました。
一昨年より毎年秋に発売されているきもの雑誌「いろはにキモノ」、本年度号の準備が始まっています。その中のある企画について、どのようなページ構成にすべきか?作品は何をどうご紹介するのが良いか?当日、最も効率良い撮影段取りは?‥といったことを探るため、フォトグラファーと一緒にロケハンをさせて頂いたのでした。
こうして企画を膨らませる時間は、ライターや編集という仕事の大きな大きな醍醐味の一つです!

写真は、その工房の壁にかけられていた刷毛。
この刷毛を操るのはどんな職人さんなのか?楽しみにしていて下さいね!

…という訳で、暑さもものともせず頑張っております。今日はこの後深夜まで、ひたすら別件のお仕事の原稿書きにいそしみます!
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アキラ(寺尾聰)に夢中!  2014/07/12



皆様、土曜日の午後、ご機嫌麗しくお過ごしでしょうか。
ところでワタクシ、この1週間ほど、「早く週末が来ないかしら」と楽しみに待っておりました。
と言いますのも、歴女の私は毎週大河ドラマ「軍師官兵衛」を楽しみに見ているのですが、先週より登場した徳川家康に心を鷲づかみにされてしまったのです。

今回の徳川家康は、寺尾總さんが演じています。
寺尾聰さんと言えば、私が小学生の頃夢中になって見ていた「ザ・ベスト10」で、「ルビーの指輪」が15週連続1位を獲得してルビー色の特別シートが出来るなど、私の世代にはまず歌手・作曲家の印象が強い方でした。
けれど同時に俳優でもあり、「半落ち」や「博士の愛した数式」などの名演技で映画賞も数々受賞している名優だとは、情報として認識していました。それからまた、とにかく黒いスーツとサングラスが似合う“おしゃれなおじさま”という認識もあったのでした。

「官兵衛」で、徳川家康は誰が演じるのだろう?と、一時期ネット上では竹野内豊さんの名前が取り沙汰されたりもしていましたが、結局寺尾さんに決まり、その時の私の感想は、だから、「ふーん、寺尾聰って素敵な人だし演技も上手いと思うけど、ちょっと徳川家康をやるには痩せ過ぎてるんじゃない?」といった程度のものでした。
なので、それほど期待せずに先週の放送を見ていたのですが‥

…そう、見た瞬間に心を奪われてしまいました。
徳川家康と言うと、我々の心の中にあるのは、子ども時代に人質として辛酸を嘗めたが故に容易に本心を明かさない、じっと最良の機が熟すのを待つことの出来る“たぬき爺”。正にそのイメージそのままの、腹の底に何重もの企みを隠し持った狡猾、且つ大胆な野心を持つ武将が姿を現していたのでした‥!
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(テレビ画面を映したのが上の写真です。余計な青い光が写り込んでいることお見逃しください)

    *

世の中には、ただ外見が自分の好みであればその俳優さんなり女優さんなりのファンになる、という方も多いと思うのですが、私は、演技力を絶対重視しています。いくら好きな外見でも、演技が稚拙なら全く魅力を感じません。
これまでに好きだった俳優さんと言えば、香港のレスリー・チャン、トニー・レオン、チャウ・シンチー、韓国のイ・ビョンホンさんなどがいますが、どの俳優さんも役ごとに全く別の人格を作り出せる、抜群の演技力を持った人。その才能と外見のバランスに惚れ惚れしてしまうのです。
日本の俳優さんだとこれまでに、野村萬斎さんが素晴らしいなと思っていましたが、先週以来、すっかり寺尾聰さんに心奪われることになったのでした。
早速wikipediaで調べてみると、「ルビーの指輪」をはじめほとんどの曲を自ら作曲。あれだけの大ヒットを出した上に、黒澤明に演技を認められた愛弟子で、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞も受賞。日本の芸能界史上、レコード大賞とアカデミー賞最優秀賞を共に獲得しているのは寺尾さんしかいないのだそうです。素敵過ぎます‥!
早速なつかしい「ルビーの指輪」や名曲「予期せぬ出来事」の入ったアルバム「Reflections」も購入したのでした♡

    *

背中を丸めながら
指のリング抜き取ったね‥

何しろ「ルビーの指輪」が流行った頃は小学生だったので、訳も分からず歌詞を丸暗記していましたが、今になってから聴くと大人の悲しい恋を唄った曲だったんですね‥

俺に返すつもりなら
捨ててくれ…

街でベージュのコートを見かけると
指にルビーのリングを探すのさ
あなたを失ってから‥

かっこいい‥
そしてyoutubeに映像がないか探してみると、当時、四十歳くらいでしょうか、コンサートで「ルビーの指輪」を唄う映像が上がっていました。

これがもう、「ルビーの指輪」の歌詞の中の男性そのものです!日本歌謡曲史上、ここまで歌詞と唄う人のイメージが一致したこともなかったのではないでしょうか!

*

…と言う訳で、にわかに總さまのファンになった私です。
聰さまのような方に、

誰も邪魔は出来ないぜ
あなたをさらった  (予期せぬ出来事)

…言われてみたいです!
…下らな過ぎてすみません!!
もともと「官兵衛」は脚本が面白く毎回楽しく見ていましたが、ますます週末が楽しみになって来ました。
ストーリーは今週が本能寺の変で、これからいよいよ家康が実力をじわじわと伸張して行く展開になるのは必定ですから、出番もきっと多いハズ。日曜夜8時は私に電話しないでください♪
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憧れの女性(ひと) 2014/03/30



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 人生にはさまざまな喜びごとがあるけれど、師と呼べる人、「この人を目標にしたい」と思えるような人と出会うことは、その中でも最も嬉しい出来事の一つではないだろうか。
 ありがたいことに、私にはそんな出会いが何回かあって、その中のお一人のお名前を松井扶江(まついともえ)先生と言う。上の写真で、私の右側で微笑んでいらっしゃる女性がその人だ。今日のブログでは、その松井先生との出会いや、何故私が先生に憧れ、人生の何を教えて頂いたのかを書きつづってみたいと思う。

超一流の女性和裁士
 先生のお仕事は、和裁士だ。渋谷区内で和裁所を主宰され(写真の背景にその一部が写っている)、首都圏の様々な呉服店からの――老舗も、若手が経営する新しいきものブランドからも――お仕立てを請け負って来た。また、NHKの朝ドラや映画『ラスト・サムライ』をはじめとして、テレビやCM、日舞など、舞台衣装の制作も多数行って来た。
 ‥と、ここで「来た」と書いたのは、先ごろ先生が和裁所をお弟子さんに譲られたためだ。と言ってもこれからも顧問としてお弟子さんたちの相談には乗るし、これまでに先生が培って来られた和裁の知識を後進に残すために、新たなプロジェクトも動き出している。完全引退は、まだまだ周りが許さないのだろう。

江戸時代の帯が結んでくれた縁
 そんな松井先生と私が出会ったのは、昨年の梅雨の終りのことだった。
 その頃私は、江戸時代の女性のきもの姿を再現する“江戸着物ファッションショー”というイベントを企画・制作していて、7月7日の開催に向け、血眼になって準備に取り組んでいた。
 そのイベントでは、合計で八体の着姿を再現する予定にしており、中でも目玉の一つと考えていたのが、大名家や江戸城の奥で、夏の間だけ着用する特殊な着姿の再現だった。
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 その姿が上の写真になるのだけれど、麻の生地に草花や風景図を藍を基調に染めた“茶屋辻”と呼ばれるきものを着て、上に、堤帯(さげおび)或いは附帯(つけおび)と呼ばれる帯を締める。
 この帯は、上方ではだらりと下に下げて締めるんどあけれど、江戸城大奥ではつんと上に向かせ、それより何より、体の横からかなりの長さで出っ張っているために、廊下で女中同士がすれ違う時やトイレに入る時は、横に蟹歩きをしなければならなかったという、何とも奇妙奇天烈な着姿を作り出していた。 

 ファッションには、時に、こういう奇妙な現象が起きる。
 例えば現代に置き換えてみても一時期ルーズソックスが大流行したことがあったし、ヤマンバギャルが一世を風靡していた時代もあった。私が中学生の頃は何故か女性たちの間でうなじの刈り上げが流行したし、大学生の頃には、ロボットのような肩パッドが街を席巻していた。
 そのどれも、今見ると笑うしかない姿になってしまったけれど、こんな風に、ファッションは時に暴走に向かうことがあって、江戸時代の堤帯姿も正にその暴走の産物ではないかと思っている。しかもそれが町方ではなく、プライドの塊である奥女中の世界で起こっていたのが面白く、是非とも再現したいと思っていた。何しろこの堤帯姿は、江戸幕府瓦解以来、舞台でも映画でもテレビドラマでも、人体の上では一度も再現されたことがないと言われていたのだ。どうしてもどうしても私がやりたいと願っていた。

あらゆる帯仕立て職人さんから断られた私の帯
 さて、そんな私の“江戸きものドリーム”を実現に移すべく、八方に連絡を取り、茶屋辻きものについては、京都の“栗山工房”という名門染め工房が再現した作品を貸してくださることになった。
 残りは帯ということになるけれど、一部の特権階級の女性が、しかも夏の間だけ締めた特殊な帯だっただけに、数が少ないのだろう、日本中どこのアンティークきもの屋さんもお持ちではなかった。もちろん博物館にはあるのだけれど、所蔵品を実際に人体に着せつけるとなると、貴重な布が傷むのが心配だと断られてしまう。
 そこで、借りるという道は不可能だと判断し、再現製作に切り替えようと決断したのが、6月の始め頃だった。本番まで、残された時間は一か月しかない。

 その時から、今度は、帯を作ってくれる業者さん探しが始まった(もちろん製作費もお支払いする)。
「作ると言ったって、そんな昔のもの、どうやって作るんですか?」
 と疑問に思われるかも知れないが、まず、元になる帯地は、私が汗だくになってあちこちのアンティークきもの屋さんを回り、現存品に近い帯地を調達していた。
 そして、帯を作るための寸法は、実はちゃんと寸法を記録した江戸時代のパターン図が残っているし、着姿や帯の締め方を描いた絵も残っているのだ。
「これだけ準備が整っていれば、プロの和裁士さんなら絶対に再現出来るはず!」
 と、片っ端から帯専門の仕立て屋さんに連絡を取ったのだけれど、案に反してことごとく断られてしまった。
 その数、八、九軒くらい、いやもっと多かっただろうか。困り果てて途中からはなじみの呉服屋さんに泣きつき、出入りの帯屋さんにも聞いてみてもらったのだけれど、そちらでも、四、五軒頼んで総て断られたと連絡が入った。どうも皆さん、面倒くさいからやったことのないものは作りたくない。或いは、失敗して同業者に笑われるのが怖い。そんな風に考えて断りを入れて来るようだった。打つ手がなく、私は正に八方塞がりの状態に追い込まれてしまっていた。

松井先生との出会い
 そして、こうして私があたふたとしている間に、当然のことながらどんどん時は過ぎていた。その時、本番まで、もう二週間ほど。このままでは、ご厚意で茶屋辻を貸して下さる栗山工房さんに会わせる顔がなくなるじゃないか。一体どうしようと泣き出したい気持ちだった。
 それでも、とにかく私は、この帯を縫ってくれる和裁士さんを見つけるしかないんだ。絶対に何とかするんだ、と、再度PCを立ち上げ、心労のあまり若干震え気味な手で、「和裁所 帯」だったか「和裁士 舞台衣裳」だったか、正確な検索ワードはもう忘れてしまったけれど、一からやり直しの気持ちで検索をかけるべく再びマウスをクリックすると、“松井扶江プロきものスクール”という和裁所の名前が目に飛び込んで来た。これが、先生との出会いの瞬間だったのだ。

 恐らく、これまでの検索でも名前が挙がっていたのに見落としてしまっていたか、或いは検索ワードが悪かったのか、とにかくその時初めて見る名前で、日舞をはじめ舞台衣装の製作も請け負うと書いてある。もう、ここしかない。藁をもすがる気持ちで――本当に、この時の私ほど藁をもすがる気持ちを体験した人もそういないと思う――資料を添付したメールを送り、依頼の電話をかけてみた。すると、出た方が、
「先生に見せてみるから、また後でかけてください」
 とおっしゃった。何とかなるかも知れない、と一筋の光が差して来た思いだった。そして、数時間後、その時も震え気味の手で和裁所の番号をダイアルすると、先ほど電話を受けてださった方が出られて先生を電話口へと呼んでくださった。そして、
「やりますよ、面白そうだから」
 と先生はおっしゃったのである。この瞬間、私のハートが真っすぐに先生に撃ち抜かれていた。

 その後、私はすぐさま帯地を持参して和裁所に伺い、製作に向けて打ち合わせをした。この時で本番まで2週間ほどの時間があった訳だけれど、先生とお弟子さんは1週間ほどで仕上げて下さり、着装を担当して下さった全日本きものコンサルタント協会の堀井みち子先生のチームと、事前着装テストさえ実施することが出来た。まさに、松井先生と出会えたことで、大負けだった賭けのカードが一気に勝ちに裏返ったのだ。

やったことがないことだから面白い
 その後、先生とは、お食事をしたり和裁所の産地見学研修に混ぜてもらったり、最近では私の和裁の勉強のために、作業を見学させてもらったりしている。その折々に私が震える手で電話を掛けた、先生との最初の出会いのことが話題に上るのだけれど、先生はいつもこうおっしゃる。
「あなたの依頼を断った、他の人たちの気持ちが私には分からないわね。だって、やったことがないことをやるのが面白いじゃないですか」
 先生は今、七十代。人によっては、新しいことには一切耳を貸さない。自分がこれまでやって来たやり方だけが絶対で、新しいやり方をする下の世代を攻撃する。そんな人もいるご年齢ではないかと思う。けれど先生は正にその逆で、七十にして新しいことをきらきらと探していらっしゃるのだ。そう言えば、最初に電話を受けて下さったお弟子さんも後から聞くと、
「お話を聞いて、あ、これ、先生が好きそうだなって、見せようと思ったんです」
 とおっしゃっていた。話をした途端に切られるような和裁所もあったのに、である。

    *
 
 私が先生に憧れ、先生が好きでたまらないのは、先生のお仕立ての技術と知識がとてつもないことや、先生自身のおきもののセンスが素敵過ぎることや、いつも全身を身ぎれいにしておられることや(先生のお爪がきれいでみんな釘づけになるのです!)、言うべき時はびしっと言われる武士っぽさや‥色々色々理由はたくさんあるのだけれど、最も根本的なことは、このこと、常に新しいことに挑戦しようとされている、先生のその気持ちの持ち方に何より惹きつけられている。

 そして、我が身を振り返れば、私は先生よりずっと若輩であるにも関わらず、時に挑戦を尻込みしたり、新しいことを始める際につきものの様々な面倒を予想して、はなから逃げに回ることさえ、告白すればある。
 けれど、例えば昨年、多くのきもの業者が集結した一大イベント“きものサローネ”を先生と回った時に、あちこちのブースから「松井先生!」と、一言でも先生に挨拶しようと業界人が裾をからげんばかりに飛び出しあて来る、先生のそのまぶしい輝きは、誰もが頭では知っているのに実践するのは難しいこと、“挑戦を忘れない”、ただその心構えに由来するのだと思う。一流の人ほど現状に安住せず、軽々と次の挑戦に飛び込んで行く――そのことを、先生のそばにいるとつくづくと思い知らされるのだ。
 考えてみれば、現在ならいざ知らず、先生の若かりし頃は女性は結婚して家に入るのが当たり前だった。その時代に、家庭を持ちながらも和裁の道を極め、一流呉服店やNHKからさえ依頼が来るほどの和裁所を経営する。更に弟子の育成にも当たる――先生の人生の全てが、私には想像もつかないほどの挑戦の連続だったのだろう。

まずはネイルから♪――先生に憧れて
 実は、先生と深くお話をするようになった昨年秋から、私はネイルサロンに通うようになった。茶道を学んでいるのでごく薄い、一色塗りの目立たないものだけれど、先生の、きれいに手入れされた美しい爪を見ていたら、むしょうに真似したくなってしまったのだ。
 もちろん、これは、ごくごく小さな始まりに過ぎない。けれど、これからも私は先生に憧れて、先生を追いかけ続けると思う。何より、先生の、挑戦を恐れない心。この心構えこそ、ぬけぬけと真似し続けて行きたい。真似とは普通安易な道であるけれど、中には強い意志と勇気を要する、そんな真似びもあるのだから。

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新年に寄せて~今年の抱負と、きものコーディネイト写真も! 2014/01/05



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皆様、新年明けましておめでとうございます。
そろそろお屠蘇気分も抜けて来た頃ではありますが、今日の日記では昨年を振り返りつつ、新年の抱負など、したためたいと存じます。

思い返せば、昨年は、本当に良い一年だったとしみじみ言えるような、そんな年になりました。
夏にきものイベント“江戸着物ファッションショー”を成功裡に開催することが出来た他、まだ皆様にちゃんとお知らせ出来ていないのですが、出雲を旅して日本社会の過去―現在―未来について思いを巡らせた大型エッセイを、アート誌に発表することも出来ました。(これについては近々別に日記を設けてお知らせ致します)
また、「いろはにキモノ」誌、「伊勢丹アイカード通信」誌できものに関する取材・執筆を担当したり、「美しいキモノ」誌と「季刊きもの」誌に私自身へのインタビューをして頂く、という晴れがましい場も頂きました。
本当に、満点と言えるくらい嬉しいお仕事の続いた一年だったのでした。

          *

私は自分の人生に、三つの大きな努力目標を持っています。
その一つは、すぐれた文章作品を発表すること。
これは、分野は、時に随筆であり時にノンフィクションであり、そして、今後は、小説も書きたいという願いも持っています。
昨年発表した出雲に関するエッセイは、この一つ目の目標「文章作品を書くこと」を最良の形で実現したものとなりました。編集者とプロデューサーの方の深いご理解のお蔭で字数と時間とをたっぷりと頂き、100%納得の行く作品を書き上げられたことは、私にとって昨年1年間で、最大の喜びでした。


          *

私の人生の二つ目の目標は、愛してやまないきものに関わる仕事をすることです。
私自身はあまり手先が器用ではないので、自分で布を織ったりきものを縫ったり図案を描けたりする訳ではありませんが、きものがこれからもこの世界に存在して行けるよう、援護射撃をする仕事がしたい。
きものにまつわる大小様々なイベントを企画・制作したり、また、文章が書けるという特技を生かして、きもの雑誌や一般のファッション誌・情報誌などで、きものに関する記事を担当出来たらどんなに素敵だろう!絶対そういう仕事をしたい!――そんな風にこの数年思い続けて来た夢が、本当に現実となったのが昨年後半でした。これがどんなに嬉しいことだったかは、皆様にも想像して頂けるかと思います。

けれど――少しだけ浪花節めいた話になってしまいますが――この夢は、ただ机の前に座ってぼんやりお茶を飲んでいたらいつの間にか現実になっていた、そんな甘いものだった訳ではありません。
きものに興味のない方でもおそらくぼんやりとはお分かり頂けるように、きもの、というこの世界は、織りの種類や模様の種類、はたまた着こなしの変遷などについて、勉強しても勉強してもきりがないほどに深い歴史をその背後に蓄積しています。ただ「私、きものが大好きなんです!」「文章も書けます!」と騒いでも、私の前には既にたくさんのその道のプロフェッショナルがいらっしゃるのですから、とても食い込めそうにない。そのことを、この数年、少し売り込みをしてみてまざまざと感じていました。
だったらどうするのか?きものの仕事をしたい、というこの夢をあきらめてしまうのか?――実は私は2年ほど前までは、そんな悩みを抱えていたのでした。

その一方で、私自身には、とにかく子どもの頃から歴史が好きで好きでたまらないという“典型的歴女”の傾向があり、博物館で歴史的なきものの展示がある時にも出かけて行ってそれを眺めるのは素敵だけれど、でも、「本当に、このきものたちを人体に着せつけて、過去を目の前に再現出来たら‥!」という、いたって単素朴、歴史好きなら誰もが抱く妄想めいた夢を、常に博物館のガラスケースの前で、ぼんやりと吹き出しのように浮かべていたのでした。

そして、もう一昨年のことになりますが、2012年の秋頃に、思ったのです。
どうせこのまま「きものの仕事をさせてもらえませんか?」と各誌の編集部を回っても、決して相手にはしてもらえることはないだろう。だったらここで大きな博打を打ってみたらどうなのだろうか?と。
私が本当に見てみたい、きもののイベント。それは、江戸時代の人が今によみがえったように本物の着姿を再現するイベント。そんなこと、ちょっと考えただけでもあまりにも困難が多そうで(だってそもそもどこから江戸時代のきものをどこから調達すれば良いのでしょう??)、「素敵!」ときもの好きなら誰もが夢見がちに思うものの結局手をつけられないこと。それを自分が本当に実現出来たなら、この、日本の海千山千のきもの界の人々も、私の方へ振り向いてくれるのではないか?――そう思ったのです。

そう、いくら求愛しても相手にしてくれないお姫様に認めてもらうためには、武士は戦場で一旗揚げる必要があるのです。その一旗、いや、一か八かの大博打が、私にとっての“江戸着物ファッションショー”でした。
今でこそ「成功の裡に幕を閉じました」、と笑って書けますが、始めた時は、成功出来るかどうか、全く分からない。何しろきもの界にほぼ何のコネクションもない私だったのですから。
唯一、帯締の名門・道明の当主夫人であり、服飾研究家でもある道明三保子先生と家族ぐるみのおつき合いをさせて頂いていた、という一点のみ。ここを突破点としてまず先生、にイベントで講義をして頂けるようお願いに上がり、オーケーのお返事を頂戴した後、「道明先生が出ますから」という看板を掲げながら、「ここは!」と狙いをつけたきもの学校、呉服屋さん、全国の美術館、アンティークきもの店さんなどなどに突撃のプレゼンを繰り返しました。もちろん撃沈も数多くありましたが、一歩ずつ、本当に一歩ずつ、一点また一点ときものが集まり、スタッフが決まり、出演者が決まり‥7月のイベントへと結実して行ったのでした。

         *

思い返すに、その中でも最も象徴的だったのは、「着付けを担当頂きたい」と、装道礼法きもの学院様へプレゼンに伺った日のことです。
私自身は装道の卒業生でも何でもなく、ただ、友人の友人が「かつて装道で時代きもの着付けを習っていた」という細い細い、今にも切れそうなかすかな糸を頼りに、本部の方へのプレゼンの段取りを作って行きました。
時代きものの着付けというのは、現在私たちが着るきものの着付けとは大きく異なっているため、どうしても、専門の知識と技術を持った方に担当して頂かなければなりません。しかもその時点でイベントに利益が出るかどうかが分からなかったため、最悪、ボランティアになってしまうことをご承知おきの上で、依頼を受けて頂かなければなりませんでした。
こんな悪い条件で、しかも主催者は、きもの界で全く実績のない私。無謀にもほどがあるプレゼンでしたが、けれどこの着付け師が見つからない限り、イベント自体を行うことが出来ないのですから、私は本当に決死の覚悟で装道さんへ向かったのでした。
今ではよく笑って友人に話すのですが、その日、私は、白地のきものを着用していました。その上に閉めた帯は、細かな更紗文様を織り出した、赤地の一本。
白地のきものに、赤い帯。
そう、日の丸の取り合わせです。私の心はその日、本気で“日の丸特攻隊”でした。そのくらい強い強い気持ちで、このプレゼンに臨んでいたのです。

苦労したのはこうしたプレゼンや、時代考証的に正しいきものを一枚一枚、日本のどこかから探し当てて来ることだけではありませんでした。資金集めにも苦労しましたし、予算組も総て自分で行い、当日の進行台本も作成。宣伝の依頼を各媒体にしたのも私でしたし、クラウドファンディングで資金を集めたので、そのリターンの読み物配信も書かなければなりませんでした。更に、スタッフを雇うお金がないため、出演者のきものの襦袢の丈出しも、当然私自身が担当。おかげで襦袢の袖の運針は実はめちゃくちゃでしたが、まあ、客席から襦袢の中は見えませんので!――という話はここで閑話休題にして、これら全ての過程は、本当に誇張ではなく、命がすり減るようなものだったとしみじみ思います。

けれど、まるでその苦労に対するきものの神様からのご褒美のように、今、きもの業界にちらほらと私を応援をして下さる方々を得、また、準備過程で知己を得た「美しいキモノ」編集部様から「いろはにキモノ」のお仕事を頂き、その取材を通して更に新しいきもの業界のご縁が広がる‥と、そう、昨年私が打った一か八かの賭けは、どうやら吉と出たようです。
いや、吉と出た、と言うのはちょっと違うのかも知れません。本当のところは、吉にしなければ私にはもう後がない。このイベントに失敗したら、二度と私がきもの界に出せる顔はないだろう、というその強い背水の陣の決意が、むりやりさいころの目を変えたようにも思うのです。

        *

本当に、全力疾走の一年でした。
何しろこの江戸着物ファッションショーの総ての過程を、先に書いた、現時点での私の全知力・全魂をそそぎ込んだ文章作品である出雲のエッセイを書く作業と並行して行っていたのですから、我ながら、若干狂気じみた一年だったと言ってもいいような気もします。
更に、これもまた自分でも驚くべきことに、これらの仕事の他にも、無署名で書くビジネス系のインタビューなどのお仕事も、毎日の生活費を稼ぐために日々並行して行っていた訳で、本当に、昨年は、一年中走り回っている間にあっと言う間に暮れて行った感があります。

そして、そんな昨年を引き継ぐ今年は、では、ちょっと小休止したいのかと言えばそんな気持ちは毛頭ありません。むしろこの波をもっともっと加速させて行きたい。
何故なら――とここでしみじみと思うのですが、私は好きなことを仕事にしているのだから、根本的には全ての過程は苦ではなく楽であり、また、好きなことを仕事にしていてまだ不平を言うのは罰が当たるというものだ、と思うからです。
世の中には、「本当に好きなことは仕事にしない方がいい」とおっしゃる方がいて、その意見も理解出来ます。また、心から好きなことがあるものの、それに人様が対価を払ってくれる、そのやり方を上手く見つけられない、という方もいらっしゃるでしょう。或いはそこまでのレベルには到達出来ていない、という方もいらっしゃるのかも知れません。
そんな中、私は好きなことで何とかお金を頂くことが出来ているのだから(特に儲かってはいませんが‥)、やはりここで怠けていてはいけないと思うのです。

何かを本気で極めようとしたら、それが仕事であろうとなかろうと、楽しいことばかりではないのは当たり前のことではないかと思います。本気で極めることには必ず「現状を越えること」という課題が現れるのであり、それは楽々と達成出来るようなものではないと思うからです。
楽々と行えるなら、それは趣味であり、極めることとは違う。人生においてどちらが格上ということはないのでしょうが、自分は極めることを選び、更にそこから何がしかのお金を得られるなら、こんなに幸せなことはないじゃないか、と思うのです。

そのような訳で、今年もよりいっそう、うるさいくらいにぶんぶん飛び回り、仕事に邁進して行きたいと思います。
既に、今、きものに関する文章のお仕事で新しい企画が動き始めています。また、きものイベントの第二弾も実現するべく、少しずつ関係先とコンタクトを取り始めました。
どんな仕事も一人では決して実現出来ないもの。昨年も多くの方に支えて頂いたように、新しい一年も皆様のご協力や応援を頂けたら、大変大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願い致します!

(写真は、先日、目白のきものショップ“花想容”に打ち合わせで伺った時に撮って頂きました!ほっこり暖かい焦げ茶色の色無地結城紬に、赤地に更紗文様の帯を合わせています。
そうそう、人生の三つめの目標については‥長くなってしまうのでまたいつかの機会に☆)
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伯父の葬儀 2013/12/27



師走の曇り空の中、今日は朝から父方の伯父の密葬に参列していました。

我が家は、この伯父の父、つまり私の祖父が、大阪は河内松原の大庄屋だった封建的な家風を嫌い、また、学問への夢断ちがたく、密航同然でアメリカの大学へと渡ったところから新たな家族の歴史を始めました。
曽祖父が祖父の行動を許さず、勘当を申し渡したため、(随分後には和解したのですが)分家にならざるを得なかったのです。

          *

そんな祖父の信念により、我が家の宗旨は無宗教。
そのため、葬儀では読経や賛美歌などは一切なく、伯父の娘、つまり私の同い年の従妹が、伯父の人生をまとめた文章を披露して、また、伯父の息子、私にとっての“従兄のお兄ちゃん”が、伯父とはどういう人間だったのかについて、自身の見解を語る、という率直な語りが主の葬儀となりました。
そして、伯父の好きだった音楽を流し、参列者が献花。従兄は“音楽葬”と呼んでいましたが、ただ真率な心情だけが表れた、とても良い式だったと思います。

          *

亡くなった伯父は、一言でいえば、偏屈で、変わり者。
そのため、精進落としの食事の間は、そんな伯父の“偏屈ぶり”の思い出をみんなが次々と披露し、笑いが絶えないものになりました。

皇国少年として育ち、学徒出陣すると宣言して祖母を泣かせていた矢先、終戦を迎えた伯父。
戦後は一転、アメリカの大学で学び、アメリカの価値観を自分の信条とするように。古き良きアメリカの精神を愛するアメリカびいき、或いは、どこかアメリカかぶれ、いや、もしかしたら戦後日本を体現するような人物だったとも言えるのかも知れません。

それにしても、今日のような明るい葬儀というのも、とても良いものだと思います。
伯父はきっと、ちょっと苦笑いをしながら、自分でも自覚していた“面倒くさい人間”である自分の横を、根っからの楽天的な性格ですたすた歩きながら2年前にがんで急死した伯母とともに、大好きなアメリカと、子や孫たちのいる日本の空の上を行ったり来たり飛び回っているのではないかと思います。
「やれやれやっと本当に自由になれたよ」
と、ちょっと肩をすくめて笑いながら。
そんなことを思った冬の日の葬儀でした。

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私、という見知らぬ誰か 2013/11/24



最近、突然、クラッシック音楽を聴きたいと思うようになった。
実は長い間、クラッシックは私にとって敬遠の対象だった。私の両親は大のクラッシックファンで、特に父はヨーロッパ暮らしが長く向こうで様々な名コンサートに通い詰めた、まあクラッシック狂と言って良い人なのだけれど、そんな親のもとに育ったにもかかわらず娘の私は、どうしてもクラッシクが好きになれなかった。どうもクラッシックの――特に古典クラッシクの――あの重厚長大性が重苦しくてたまらず、長年敬して遠ざかっていたのだ。
それなのに、である。どうしてか最近、クラッシック音楽が無性に聴きたくなってしまった。相変わらず古典はそれほど聴きたいとは思わないけれど、ロマン派や新ロマン派のピアノコンチェルト、など。また、ピアノの小品を心から聴きたいなと思う。そして部屋でかけながら仕事をしたりメールを書いたり猫と遊んだりしていると、何故だかとても調子がいいのだ。
どうしてこんな風に突然クラッシックが私の元にやって来たのか?理由は全く不明である。

              * 

思い返せば、今こんなにきものきものと騒いでいる私だけれど、二十代の頃は、
「私って何だかきものが似合わない」
と、若干コンプレックスさえ持っていた。だからきものに興味はあるものの、着るのは年に数えるほど。こちらは何と言うか、気後れの対象だった。
それが今では日々きもの、きもの、である。
じゃあ、今は似合うようになったのか?という質問などもう関係なく、とにかくきものが着たくなってしまったのだから、着る。きものにまつわる総てが楽しいし、ずっときものを着ていたい‥というこのきもの熱も、そう言えばいつから始まったのかと考えてみれば、ある日、仕事の関係で「ちょっとさわりだけ習う」つもりで通ったお茶の稽古へ着て行った日に、何故だかもう脱ぎたくなくなってしまっていた。それまでだってお正月だの友人の結婚式だのお雛様を出した日など折々には着ていたのに、何故かその日に限って、まるで植物の種が或る日突然殻を破って中から芽を吹き出すように、私の中できものにまつわる何かが爆発したのだ。

              *

そうやって考えてみれば、そもそもその茶の湯だって、今は熱心に学んでいるけれどそれまではいつも「面倒くさそう」とクラッシックと同じく敬遠の対象にしていた。
昔、華道の教室で姉弟子たちと、「お花は自分の意志で創意工夫出来るところが楽しいけれど、お茶は決まりごとばかりで嫌よね」「そうですよねえ、私、お茶は絶対習いません」と話していたことが今となってはなつかしくも赤面ものである。
そしてこの15年以上、私の人生において大きなウェイトを占めている中国への関心も、或る日、たった一本の香港映画を観て心を奪われたことがきっかけだった。それまでの私はどちらかと言うとヨーロッパかぶれでイタリアにホームステイなどもしていて‥と、今となってはヨーロッパかぶれの自分など、一体誰のことかと思い出せないくらい遠いことになってしまったのだが。

              *

こうやって振り返ってみると、人の好みの変化は自分自身にすら全く予想のつかないものだとしみじみ気づかされる。
当然、今まで書いて来たことと逆の現象もあって、つまり、人生の一時期相当打ち込んでいたのに今では関心を持てなくなっていることというものも、誰の人生にもちらほらと存在するだろう。
私の場合はそれは写真であり、アンダーグラウンドミュージックであり‥では、中国が生き残ってアンダーグラウンドミュージックが消えてしまったのは何故なのか?それともまた何かのきっかけで再燃することがあるのだろうか?‥と、そういうことも自分では全く分からないというのも、考えてみれば何とも頼りない話ではないか。

              *

そう、“自分自身”などというものはずいぶんあやふやな、まるで他人のようなものだな、と思う。
人の体の細胞の多くの部分は定期的に入れ替わっていると耳にするし、逆に生まれた時から一度も細胞の入れ替わりをしないという脳も、日々入力される新しい知見によって神経細胞の網の目自体は刻々とその様相を変えている。つまり、昨日の自分と今日の自分は同じ人間ではない、ということだ。
そんな、よく分からない自分、という他人のような誰かを、いかにも馴れたセーターのように着こなしたつもりで今日も生きている。もしかしたらその誰かは突然明日中東文化に興味を持つかも知れないし、バイクに凝り始めてツーリングに出かけるのかも知れない。朝寝坊の私が早寝早起き生活に一気に転換してしまうのかも知れない。明日の私とは、いやそもそも今日の私とは、一体誰なのだろうか?


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宇野千代自伝『生きて行く私』に見る股のゆるさと宇野千代きものについて 2013/11/04



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 3、4年ほど前、歯医者の待合室だかどこかで偶然手に取った女性誌で、ファッションディレクターだったかアートディレクターだったか今ではもう忘れてしまったけれど、何かしゃれた職業の女性が宇野千代の自伝『生きて行く私』を自分の好きな本と紹介していて、以来、いつかこの本を読んでみたいと思っていた。
 それからわりと忙しく日々を過ごしてあっと言う間に3年ほどが過ぎてしまったのだけれど、特にこの10か月ほどは一日も休みなく仕事に追われていた生活がほんの少し小休止したので、そうだ、『生きて行く私』を読んでみようと、飛びつくように読み始めたのだった。
 宇野千代の小説はこれまで一冊も読んだことがなかったけれど、八十歳でも振袖を着ているとか、桜が好きで一年中桜のきものを着ているとか、「私、死なないような気がするんです」という有名な台詞などは耳にしたことがあって、面白そうな女性だなと興味は持っていた。
 それに、そのカタカナ職業の女性も、“生き方に一つの美学を貫いた凛とした女性の一代記”といった紹介をしていたから、きもの好きの私としては人生の美学ときものの美学とが美しく一体化したような、何かとてつもなくしゃれた随筆が読めるのではないかと期待したのだ。

          *

 さて、ページをめくり、四分の一ほどしたところで、その美しい期待は大きな見当違いだったということにつくづく気づかされた。だからと言って読む価値がないかと言えばそんなことはなく、むしろ無類に面白い。
 では、一体この自伝はどんな書物なのか、と言えば、それは、宇野千代という女性の股の話だ。宇野千代先生が行く先々ですぐ男性に股を開き、人々がえっと仰天する。ここでもここでも股を開いているけれど、おそらく行間のここでも股を開いていて、だけど何かはばかりがあってここについては書いていないな、と同性ならすぐ読み取れてしまう。そんな風にあっけらかんとそこかしこで股を開きまくっている女の一代記が、この自伝随筆集なのだ。
 ‥とこう書いてしまったら身も蓋もないと思われるかも知れないけれど、これこそが彼女の人生の総てを集約した一言なのだ、ということに、『生きて行く私』を読めば気づいて頂けると思う。
もちろん、千代先生は野間文芸賞や芸術院賞を受賞し、うるさ型の小林秀雄をも驚嘆せしめた偉大な作家だった。また、一時代を築いたファッション誌の編集長をしていたこともあるし、趣味のいいきものを世に送り続けたきものデザイナーでもあった。
 しかし、女が前に出るのが今よりもずっと難しかった時代、何が彼女をそこまでの場所へと押し上げたのかと考えてみれば、その心底根底にあったものは、「あら、この男、ちょっと素敵」と思った瞬間すぐに股を開き、それでもなびかない男の元には毎日毎日職場にまで押しかけて「あの、私の股は開いてますけれど」と執拗に知らせ続ける、その、周囲の目を一切気にせず自分の欲望に向かって素直に自分を全開に出来る純粋無垢な魂のようなもの。それを彼女が保持し続けていたからこそ、あの時代に大きな成功と幸せをつかみ取ることが出来たと分かるのだ。

 もちろん、そのようないわゆるふしだらで自堕落な生き方をしていたらそれなりのしっぺ返しはある訳で、その中で、よりくっきりと見えて来る人生悲喜劇の輪郭が、おそらく彼女の小説の主題となったのではないか、ということにも、読んでいれば自然に思い至る。そうなると私などはがぜんこの上は、千代先生の代表作も読んでみようじゃないかという気にもさせられるのだった。

          *

 ‥という訳で、私が最初に雑誌で読んだしゃれた職業の女性に言いたいことは、股の話は股の話だとちゃんと書いてほしい、ということだ。
 確かに千代先生の偉いところは股だけの女に終わらずそれを偉大な作品や事業に変え得る知恵と文才とセンスを持っていたことにあるけれど、股がゆるかったことがまたその人生の最大の特徴であり、その股ゆえにこそ知恵も磨かれたのだ、ということを、女性誌的にこぎれいにまとめるのはどういう安全策なのだろう、と一人文句を言いながら表紙を見返したりもしたのだった。

          *

 ところで、千代先生の名誉のために付け加えておけば、人生のごく一時期を除いて、先生は誰にでも彼にでも股を開いていた訳ではなかった。尾崎士郎、北原武夫、東郷青児‥彼女が股を開いた男の列伝には綺羅星のような名前が並ぶ。そして、彼女は、あきれるほどに分かりやすい“イケメン好き”でもあった。才能がある上に見た目も美しい男性と恋仲だったのだから、何とも痛快な話ではないか。
 そんな“宇野千代”の名前を冠したきものが、今も綿々と作られていることはきもの好きなら誰もが知っているだろう。先生の股の開き具合を思うと正直うら若い娘さんの振袖にはどうかと思うが、三十五過ぎた女が小紋などに着るとしたら、何ともしゃれている、と思うのだ。


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【ちょっと近況】私のyoutube語学学習法 2013/09/11



 怒涛の撮影週間が終わり、これからしばらくはひたすら家で原稿を書く日々が続きます。
 忙しいことは忙しいけれど移動時間は減るので、しばらく休んでいた語学学習を再開しよう!とやる気満々です。

‥と言っても、youtubeで自分の学びたい語学の様々な映像を渉猟するだけなのですが‥、でも、この勉強法、リスニング力を上げるのに非常に有効なので、皆さんもゼヒ試してみて下さいね。
 ちなみに私は今日、金城武さんのインタビュー(字幕なし)を見ました。大体全部聞き取れたかな。

              *

 今日は字幕なしでしたが、勉強のためには本当は字幕付きの方が良いと思います。
 もちろん、日本語訳ではなく、画面で話されている言葉をそのままただ字幕に落としたものを探すことがコツ。
 基本、字幕は見ずに流し聞き。2回目に、1回目に見た時に分からなかった表現のところで止めて、字幕をチェック‥というやり方が良いと思います。
飛躍的にリスニング力が上がりますよ!

              *

私はどうも英語が好きになれず、あまり得意ではないのですが、そうも言っていられない場面も増えそうなので、これからは中国語に加え、英語の勉強も始めようと思います。ふ~。


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日本ブログ村からご覧になって頂いた皆さんへ~エラー表示のお侘び 2013/05/13



大変申し訳ありません。
先ほどアップ致しました私のブログ「帰って来た着物日記~~人間国宝・中村勇次郎訪問着」なのですが、現在ブログを動かすプラットフォームMOVABLE TYPEと私のPCの何かが当たり、画像がアップされずに文章部分だけがアップされている現象が起きています。
「お茶会の日に着た着物です。下の写真をご覧ください」などと書いているのですが、肝心の写真がない状態。これでは着物日記の意味がないですよね。本当に申し訳ありません。

即座に、プラットフォーム側のエントリを消したのですが、何故かブログ村からは消去前の状態につながってしまいます。(IT音痴のため、何故このような現象が起こるのかが分かりません)
更に、では、とブログ村のエントリ情報の方を消そうとしたのですが、いくら探してもどうやって消したら良いのか、これまた分からず途方に暮れています。

そんな訳で、現在、ブログ村から日記に飛んで頂いた方には、文章だけで写真のない着物日記が閲覧出来る状態かと思います。本当に申し訳ありません。
急遽、ウェブサイトを作って頂いたデザイナーの方に、何故写真だけがアップ出来ないのか、確認作業をして頂いています。原因解明出来次第、写真付きで再度アップ出来ると思いますので、いましばらくお待ちください。

Windowsを最新バージョンにすると出るこの現象。本当に途方に暮れています。MOVAVLETYPE、使い手が悪いのでしょうか。復帰第一弾だったのに‥とても悲しいです。
本当に申し訳ありません。

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最近の忙しさと、仕事についてのご報告~~気鋭の仕事人への連続インタビュー、始まりました! 2013/03/13



 先日、或る和文化関係の勉強会に出席したところ、参加メンバーの中にこのブログを読んで下さっている方がいらっしゃり(本当にありがたいことです)、
「最近更新がないですよね。お忙しいのか、それとも、中国関係のエントリーで何か右翼の人から攻撃されたりとかしてお休みしてるのかと思ってました」
 と言われてしまいました‥!
 大丈夫です。西端真矢、元気に生きています!むしろ右翼の方からは励ましのメールなど頂いたりしています!左翼の方からも!‥と、自分の周りに起こっていることを見渡すだけでも、今の日本が対処すべき問題が従来通りの右・左の考え方からははみ出し始めているのだなと感じるこの頃なのですが‥
 
 そんな中、年明け以来、仕事が本当に忙しく、朝から晩まで、取材、勉強会、ランチミーティング、原稿書き、資料読み、プレゼン、ビジネスメール、打ち合わせ‥とぐるぐるぐるぐる働く日々が続いています。ごくたまに親しい友人たちとお食事するのが唯一の息抜き。あ、それから、イ・ビョンホンさんの写真を見ることでもかなり癒されています。他に、猫と遊ぶ、資料以外の本を読む‥そんな時間以外は毎日毎日一生懸命働く日々が続いています。
 でも、一つ一つのお仕事、全て、意義深いお仕事だったり、自分から企画しているものだったり、前からずっと発注して下さっている方からのお仕事だったりするものばかりなので、毎日は充実しています。なかなかブログまでたどり着けないことだけが残念ですが、あと少しでピークを脱する予定ですので、気長にお待ち頂ければと思います。書きたい話題も頭の中のネタ帳に満載していますので!

             *

 さて、そんな中、最近のお仕事のご紹介です。
 以前、このブログで、新宿にあるシェアオフィスHAPONをご紹介したことがあるのを覚えていらっしゃるでしょうか。HAPONもオープンから1年以上が経ち、様々な方が入居されるようになりました。
 そこで、HAPONのホームページで、HAPONに拠点を構えてお仕事をされる方々の、そのお仕事の内容と仕事観、更には社会観なども含めてお話を聞く連続インタビューが設けられることになり、私がその取材・執筆を担当することになりました。
 題して、「HAPON人インタビュー」。下のURLでそのページに飛んで頂けます。
http://hapon.asia/shinjuku/news/post2261/
 第1回目のゲストは、Epiphany Worksの林口沙里さんと信田眞宏さん。
 数名のプロデューサーが集まってプロジェクトを企画・制作する会社をプロデューサーズ・カンパニーと言いますが、Epiphany Worksはその代表格のような会社です。
 しかも特徴的なのは、音楽、映像、美術展、写真展のプロデュース、アーティスト・マネジメント‥ここまではごく普通のプロデューサーズ・カンパニーの業務内容なのですが、その他に、脳科学者が出演するイベントをプロデュースしていたり、ダライ・ラマと共に般若心経を学ぶアプリを制作していたり、かと思えば、富山の小さな里山への旅行ツアーや富山の伝統工芸を生かしたプロダクトのプロデュースも‥と、相当な異領域を自在に行き来してお仕事を展開されているのです。
 
 想像出来るのは、恐らく、好きなこと・興味を惹かれることを手繰り寄せて行くうちに自然にこの業務内容になったのだろうな、ということですが、実はそういう風に仕事をして生計を立てて行くのってなかなか難しいことだな、とも実感します。
 そこでお二人へのインタビューでは、好きなことを仕事にして、しかもいい仕事をする。更に生活も成り立って行く。更に次のプロジェクトへ投資するお金も残す。そういう風に仕事をして行くためには、どんな秘訣やどんな意志が働いているのか?そんなことをお聞きして行こうと思いました。今回は、全3回のうちの1回目です。どうぞお楽しみください!

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今さらですが‥年頭抱負 2013/01/27



 皆様、本当に本当に今さら‥なのですが、新年明けましておめでとうございます。
年明けからばたばたと忙しく、また、この冬大流行中のインフルエンザ(A型)にかかって寝込んでいたりしたため、なかなかブログを更新することが出来ませんでした。
 しかし、こんなに遅くなってではありますが、今年最初のブログであることは間違いないので、今回は昨年の自分を振り返りつつ、今年の抱負なども書いてみたいと思います。

          *

 さて、昨年の私にとって一番大きな出来事は、前回のエントリーにも書きましたが、9月に発表した日中関係についてのブログがとてつもなく大きな反響を呼んだことでした。昔からの友人たちは皆、私がいかにIT音痴かを知っているので、そんな私がSNS時代の恩恵を最も受けるというのも(自分でも言うのも何ですが)天然の馬鹿力というかんじで不思議な思いがします。
 右翼の方からも左翼の方からも、そしてそのどちらにも属さない大多数の市民層の方からも、たくさんのシェアやメールを頂き、「中国とどう向き合うべきなのか」という、この問題が、今の日本人にとってどれほど大きな課題であり、棘であるか。私自身も改めて実感させられました。そしてそのことの意味を今も考え続けています。

          *

 また、昨年の私にとって、もう一つ印象深かった出来事は、某エンタテイメント企業様のクレドとクレドブックの文章制作を担当したことでした。いつもブログを読んで下さっている皆様ならご存知の通り、私の特徴は“長過ぎるにもほどがあると文句を言いたくなるくらい長い文章”ですが、この仕事では、一行、或いは数行で読み手の心をとらえる必要があり、広告コピー制作に近い文章作りに取り組むことになりました。
 野球のバッターにホームラン型とヒット型があるように(とあまり分かっていない癖に知ったかぶりして野球比喩を使っています!)、文筆も、長文型と短文型に、もしかしたら分けることが出来るのかも知れませんが…、いざ取り組んでみると、意外にも生きのいいコピー的文章が次々と浮かび、いい仕事になったと思います。クライアント様からも高評価を頂き、並みいる取引先様の中から“年間最優秀パートナー”に選んで頂いた上に、全社会議で表彰もして頂いたことは、本当に嬉しい出来事でした。そして、短文で勝負することの面白さにも目を開かされたのでした。
 また、これは、文章自体を書いたのは更に前年の2011年だったのですが、三島由紀夫についての論考を歴史書籍の老舗出版社・雄山閣様のホームページに発表することが出来たことも、大変に嬉しい出来事でした。
(この論考は現在も下記のURLで読めるので、ご興味を持って頂けた方にはゼヒご高覧頂ければ幸いです。前半が文学理論系、後半が、9月の日中関係ブログの内容にもつながる、“三島を軸にして現代日本を考える”といった内容となっています。文学理論に興味のない方は、前半は飛ばし読みして下さい)
http://www.yuzankaku.co.jp/test/untitled/fuhen.pdf          

          *

 さて、このようにかなり実り多い一年だった昨年を通過して、では、今年は何をするつもりなのかと言えば、よりアクセルを踏み込んで、力を出し続けて行く、ということに尽きると思います。
 私はこれまで、何が世の中に受けるかということは全く考えたことがなく、むしろ、「中国なんか行ってどうするの?イギリスに留学しなよ」「あなたのブログは長文過ぎるのがいけない」「ウェブやゲームの世代に複雑な論考を投げかけても彼らは解読出来ない」などなど、「そんなことやっても無理!」と言われることがどうしてもやめられませんでした。自分がそこに心を引きつけられるのだから、半ばやけくそ的にもうどうにでもなれと、徹底的に(でも本当は時に弱気でしたが‥)取り組んで来たつもりです。そして、そうやって択んで来たことは、結局、今、多くの日本の方の心に突き刺さるテーマ、そして方法論になって来ていると思うのです。
 だから、私は少々の自信を持って確信しています。今、私が強く心引かれること…そう、きっとこれから着物も見直されて行くと思うし、日本人は明治以降の、我々の現代史の負の部分に向き合わざるを得なくなって行くと、そうとしか私には思えません。そして日本の女はもっと自立せざる得なくなって来るだろう、とも思います。
 一つ一つはばらばらの事象に見えるだろうし、恐らくどれも今、誰に話してもほとんどの方には鼻で笑われるだけなのだろうとも思います。けれど、私は、自分の嗅覚を信じています。その嗅覚が引き寄せられることを、徹底的に追求したい。そういう一年を歩いて行きたいと思います。

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日記を書けない日々 2012/12/20



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毎日非常に忙しくなってしまい、なかなかブログを更新出来ない日が続いています。
某ウェブサイトのための取材で都内や東京近郊の県をあちこち移動したり、と或る企業の販促物の原稿を書いたり、と或るイベントの企画書を書いたり打ち合わせをしたり‥
まだ来週半ばまで、ばたばたした日々が続くので、年内あと一回ブログを更新出来るかどうか‥
気長に待って頂けたらありがたく思います。

写真は、群馬県へ取材に行った日、移動の電車の中で撮ったもの。
売店に売っていた豆こけし(たったの350円!)があまりにもかわいかったので、旅のお伴に。

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ヴェネツィアの夜~~或る有名建築家と過ごした一晩に学んだ人生の大切なこと 2012/10/08



突然ですが、質問を一つ。
「あなたは見栄っ張りですか?」
と訊かれたら、どう答えるだろうか?
私の推測では、「うん。僕は見栄っ張りだよ」と答える人はそんなにはいないのではないかと思う。最終的に「見栄っ張りだ」と答えるにしても、「男っていうのはみんなどこかで虚勢を張って生きている見栄っ張りな生き物でさ」などと注釈がついたりして、なかなかストレートには認めようとしないのではないか。そのくらい、見栄っ張りというのは、何かいじましくて堂々としない、負のイメージがつきまとう一つのあり方であり、往々にして自分のコンプレックスや弱点と結びついていることが多いようにも思われる。

例えば、根っからのお金持ちはぺらっとしたどこかの屋台ででも買ったようなバッグを持っていても平気でいられるけれど、たいていの庶民はブランドものを持っていないと貧乏だと見破られるのではないかと思い、落ち着かない。特に庶民からちょっと成り上がった人ほど、全身をブランドもので固めていたりするものだ。
かく言う私も見栄っ張りはみっともないから矯正しようと努力しているとは言え、ついついやらかしてしまうことも多い。だからよけいに人の見栄っ張り度合いが気になるし、つい観察をやめられないのだ。
そして、見栄っ張りとは真反対に、「私は何も出来ませんからへりくだり」「何もほしくないし、人と競争しようとも思わないんですふわり」と麻のワンピースか何かを着て玄米を食べながら言う人を見ると、それはそれで何か偽善のにおいを感じて背中がかゆくなって来るなこの人、とか、みんながみんな競争心ゼロになったらこの国は国際競争に負けて滅びてしまうのではないか?などと余計な心配に頭をめぐらせ、多少の見栄っ張りも人生には必要悪なのかしら?などと思ってみたりもする。見栄と向上心、或いは人生のバイタリティは、紙一重のところにあるからとても難しい。

そんなことを考えていると思い出すのは、二十代の頃に会った或る人のことだ。会ったと言ってもただ一晩食事を共にしただけのことなのだけれど、15年以上経った今でも折りに触れて思い返す。その人と会ったのは夏のヴェネツィアだった。
その頃、私は会社を辞めて次の仕事まで定職に就かずふらふらしていた時期で、ちょうど当時父がイタリアに長期単身赴任していたため、時々父を訪ねてイタリアに遊びに行っていた。そして何回目かの訪問の時に、或るプロジェクトのためにヴェネツィアに滞在している日本人のグループと知り合いになった。
そのグループの人々は皆、アート、建築、学問の分野で既に名を成したり、頭角を現し始めているキラキラした人たちだった。一方、まだ二十代の初めで何事も成し得ていない小娘の私は、「たまたま異国で若い同国人に出会ったから」程度の理由で部屋に入ることを許された、名前のない影法師のような立場だった。そしてキラキラした彼らの仕事ぶりを、ぼんやりと映画でも眺めるようにただ眺めていた。

そんな彼らと、ある日食事をすることになった。15年以上昔のことなのではっきりとは覚えていないけれど、確かいよいよ彼らが取り組んで来た共同プロジェクトが完成し、打ち上げ食事会のような意味合いの夜だったと思う。
私たちはヴェネツィアの運河の真上にテラスを出した、地元でも美味しいと評判のリストランテにテーブルを一列陣取って座った。周りは全てイタリア人、或いはヨーロッパの人々で、その中で東洋人として意味ある仕事を成し遂げたことに、全員が少し高揚した気分で席についていた。食事は美味しく、運河が張りめぐらされたヴェネツィアの夜は湿気に満ちてどこかけだるく、会話は次から次へ弾んで止まることがなかった。もちろん、小娘の私には口をはさむ余地などなく、控え目に聞いていることしか出来なかったのだけれど。

そんな時、何かのきっかけから、話題が日本の古美術のことになった。これもまた15年以上前のことなので詳しいことは覚えていないのだけれど、琳派のことが話題に上った。誰かが何かのことから琳派に言及し、その席にいた建築家――仮にXさんとする――が、「琳派って結局どんなことしたの?」とか「酒井抱一って誰だっけ?」とか、何かそんなようなことを言ったのだ。
私は思わずXさんの顔を見つめてしまった。と言うのも、それがあまりにも基本的な質問だったからだ。Xさんと言えば、日本の建築界のスターで、建築界の内側の人々どころか一般人でもちょっとアートや建築に詳しい人なら――そう、当時まだ『Casa Brutus』は創刊されていなかったけれど、今で言うなら『Casa Brutus』など愛読して建築についてあれこれ蘊蓄を傾けるような人なら、誰でも知っているスター建築家だった。
もちろん、建築と日本の古美術では分野は大分異なっている。それでも、造形芸術という点では同じ分野にいるし、日本人が芸術作品を携えて外国へ出て行く時、必ず自分の中の日本人性や、また、日本の歴史をどう捉えているかということが問われ、自分自身でもそれを自問自答をすることになる。そしてそれが作品に影響を与える。Xさんのそれまでの作品には日本的美の感覚を押し出したものがいくつもあったから、私は、Xさんが琳派についてこんな基本的な質問をすることが本当に意外だった。いや、もっと正確に言えば、こんなことも知らないのか、と驚いたし、こんな有名な人がこんな基本的なことも知らないことをさらけ出すことに、「恥ずかしくないのかしら?私ならとても出来ない」
と驚いたのだった。

           *

実は私は、日本美術史や琳派には特別な思い入れを持っていた。と言うのも、私の母が日本美術史の研究者で、それも琳派を専門にしていたからだ。だから小さい頃から母につれられて琳派をはじめ日本画をたくさん見ていたし、最新の学説についても折りに触れて教えてもらっていた。だからその時もこのくらいの基本事項なら――と、Xさんに解説を始めようかと思ったのだけれど、何も言わずに口をつぐんだ。と言うのも、その席には、当時若手美術史家として頭角を現し始めていたYさんという方がいたからだ。
YさんはすぐさまXさんに解説を始めた。解説と言っても、Yさんが本当に何も知らないので専門的な話ではなく、高校の美術の教科書にでも書いてあるようなごくごく基本的な内容だった。
Yさんの説明が一段落すると、Xさんがまた質問をした。その質問もまた、耳学問で日本美術史の知識を仕入れている私からすれば、あまりにも基本的なつまらない内容だった。たぶんYさんもそう思ったはずだけれど、そんなことはおくびにも出さず丁寧に解説をする。するとXさんはまた質問する。またYさんが答える。またXさんが質問する。またYさんが答える。私はそのやり取りをぼんやりと聞いていた。こういう時は脇役になった者は笑ったりうなずいたりする必要もないから、食事を片づけるにはいいタイミングだった。特に私は人より食べる速度が遅いと自覚しているから、今だとばかりにせっせとナイフとフォークを動かし続けていた。
けれどXさんの6回目か7回目の質問の時、思わず私は手を止めた。そして顔を上げてXさんの顔をまたまじまじと見つめてしまった。何故ならばXさんのその質問が、あまりにも的を射たものだったからだ。
ちょうどその夏、ヴェネツィアへ飛び立つ前、東京で母から聞いていた最新の学説。それを答えとせざるを得ないような質問を、Xさんは投げかけていたのだ。つまりXさんの知性と探究心は全くの0からスタートして、質問を重ねるたびに琳派の概要を一段一段と把握し、やがていつの間にかその最も本質を捉えていたということになる。一流の人とはこういうものか、と、私は心底胸ふるえる思いだった。

           *

以来、私はその夜のことを“ヴェネツィアの夜”と名づけている。
今では日本の枠を超えて、世界のスター建築家の一人として活躍されているXさん。あれ以来Xさんにお会いしたことはないけれど、きっと今でもXさんは、自分の知らないことがあれば子どものように素直に「それ知らない。教えて」と訊いているのではないかと思う。そして誰よりも鋭敏な知性で相手の答えを聞き取り、その全てを自分の養分に変えてしまうのだと思う。
凡人の私はあの夜のことを“ヴェネツィアの夜”などと名づけて大切に思っている癖に、それでも、今でも、「こんなこと訊いたらバカと思われないかしら」とためらったり、外国人の友人と話している時に話を途中で止めては悪いと、聞き取れていないのに分かったふりをしてしまうことがある。
もちろん、Xさんがあんなにも素直に「知らない」と言えるのは、彼が「知っている」ことのレベルがあまりにも深く高く、そこに揺るぎない自信があるからだろう。だから見栄を張る必要もないのだろうけれど、でも、それでもやはり、一角の名を成した後にそれでもまだ「知らない」と言える勇気は、若い頃に「知りません」と言う勇気よりもずっとずっと大きいと思うのだ。

そして私は今日も誰かとテーブルを挟み、つい、見栄っ張りの私が顔を出しそうになった時には、一瞬目を閉じて自分を戒める。その時、私の前に下りるのは、重く、湿り気を帯びてざわついた、あの、ヴェネツィアの夜――

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ちょっと珍しい柄の手ぬぐい入手!+草の根の被災地支援 2012/08/15



先週、書家の友人の作品展示を見に行った日のご報告日記を書きましたが、今日はその会場で買い求めた手ぬぐいをご紹介します。
下の写真の中の、右から二番目の手ぬぐいが、私が買ったもの。
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紋様のアップはこちらです↓
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新橋色の地によろけ縞の紋様なのですが、これが、よく見ると竹になっている!そう、江戸小紋にもある「竹縞」の文様なのですね。これが手ぬぐいになっているのは結構珍しいと思います。しかもよろけというのが粋!

この日私がおじゃましたのは、「ROSES 2012」というイベントでした。
http://www.roses-art.com/about/
ROSESは、発展途上国の子どもたちへの教育支援、そして昨年の311地震発生以降は、被災地の子どもたちのための支援や、被災地域の地場産業を応援する活動を行っている団体です。
昨年以来、年に一度、表参道ヒルズでチャリティ展覧会を行っており、そこに、先週ご紹介した書家の友人・土屋翠香さんも作品をチャリティで書作品を出品していた…という訳です。

その会場で、何故に私がこの手ぬぐいを入手出来たかと言うと、実はこの手ぬぐい、被災地である仙台の地場産業“仙台手ぬぐい”なのです。
仙台市青葉区にある「染の工房 なとりや」というお店のお品で、私が今回買った竹縞をはじめ、江戸以来の伝統の型紋様を使った注染手ぬぐいを多数生産しているのだとか。うーん、素敵です。
なとりやのHP→http://www12.plala.or.jp/natoriya/

上のHPを見て頂くと分かるように、伝統紋様だけでなく、新しい文様もたくさんあるので、手ぬぐいを探している方やパーティーなどの記念品を探している方はゼヒご覧になってみて下さい。通販もOK。素敵な柄でありつつ被災地企業を支援出来るなんて、一石二鳥ですよね♪
たとえば、下の写真でちょっと見切れてしまっているのですが、右端に写っている辛子色の手ぬぐい。今回のROSESにちなんで薔薇の文様が染められているのがお分かりになるでしょうか?とてもおしゃれです。
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            *

今回のROSES 2012には、被災地企業のプロダクトだけではなく、多数のアーティストがチャリティで作品を出品していました。写真作品、アクセサリー、絵画、雑貨…よくよくお名前を見ていると、時々知っている名前が!そう、かつて広告代理店に勤めていた頃によく耳にしていたスタイリストさんや、ディレクターさん、ムービーカメラマンさんなどがちらほら参加しているようなのです。
その後、ROSES展の運営に、私と土屋さんの会社勤務時代の先輩、コピーライターの町田さんが参画されていることを知り、ビックリ。手ぬぐいのなとりやさんの参画も、町田さんの人脈によるものだそうです。
会場で会った町田さんと少しお話しすると、「震災のもう3日後くらいから、いても立ってもいられなくなって」、何か出来ないかと、被災地の産業、つまり商品の販売を助けることを思いつかれたのだそうです。私のいた広告代理店は外資系だったのですが、その海外支社ネットワークを通じて、なとりやさんの手ぬぐいを世界各国で販売したり、募金の活動も行っているということでした。
会社を辞めて、5年。書家がいたり、草の根からチャリティ活動を興す先輩がいたり…いい仲間がいた場所だったのだなあとしみじみ思わされた一日でした。
それにしても、私が買った竹縞の柄、とても素敵なので浴衣にもしてほしいー!

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日々雑感と、中国・薄熙来事件 2012/04/19



進 こんな私のつたない日記を必ず読みに来て下さる方がいてとてもとてもありがたく、なるべく週1回は更新したいと思っているのですが、今週は何だか忙しく、まとまった日記を書く余裕がありません。そこで覚書日記を。

 そもそも何故こうも毎日がばたばたしているのか、その理由を考えてみると、

1 仕事がそこそこ忙しい
ありがたいことです‥。

2 お茶が忙しい
実は今週末、通っている教室のお茶会があり、私も薄茶を点てることになりました。そのため毎日1~2回、自宅の和室にて最初から最後まで通しで点前の稽古をしています。
そして通し稽古の後は、苦手な部分のみを繰り返す割り稽古。あっと言う間に1時間は過ぎてしまいます。更に稽古の後は道具を洗ったり乾燥させたりといった片づけ作業あり、これを一日2セットやっているとかなりの時間を消費するのですね。

3 家事が忙しい
私は独身で、両親が住む実家の別棟で“半一人暮らし”をしています。食事は基本毎日自分で作りますし、掃除洗濯、買い出しももちろん自分で。やはり家事に使う時間はバカになりません。何とか掃除をしないで生きて行けないものでしょうか‥。

4 薄熙来で忙しい
特に中国に詳しくない方でも、最近、「薄熙来」、この名前を耳にすることがあるのではないでしょうか?
薄熙来、はくきらい、中国語ではポー・シイライと発音します。中国の政治エリートで、将来国家主席になる可能性だってなかったとは言えなかった人物。ところがそのイケイケの彼に、今年2月大事件が勃発。それをきっかけに、中国政局のすさまじい暗闘が浮き彫りになり、現在目が離せない情勢となっているのです。
一体どうすさまじいのか?
それをしっかり書いていると何時間あっても足りないので残念ながら全てカットしますが、中国政治の実権を握ろうと、現在の国家主席である胡錦濤も含め、最上層部に君臨する数十名が日々押したり戻したりの権力闘争を展開しているのですね。
中国はやはり国が大きい。たとえば三人の組織で何かを伝えようと思ったら静かな声で語りかけても十分理解してもらえますが、それが百人の組織だったら、大声を出さなければ全員には聞こえません。そして後ろの方の人にもこちらの意志がしっかり伝わるように、何らかのパフォーマンスが必要となります。この例えと同様、中国は国がばかでかいが故に、全ての政治的振る舞いが日本とは比べ物にならないくらいの大きさに増幅されてしまうのです。
だから中国の現代史は、その巨大な増幅でわんわん耳がつぶれそうなほどの暗闘の連続でした。大躍進失敗、文化大革命、劉少奇失脚、林彪謎の死、四人組、華国鋒失脚、胡耀邦失脚、天安門事件、趙紫陽失脚…中国に興味のない皆さんも、このどれか一つくらいは耳にしたことがあるのではないでしょうか。
私が中国に興味を持ったのは、1996年。勉強すればするほど中国政治のすさまじさに圧倒され、しかしその全ては既に“勉強の対象”であって、自分が実際に目撃したものではありませんでした。
それが、今、目の前で、間違いなく500年後1000年後にも歴史の教科書に記述され、繰り返し繰り返し映画や小説などの題材になるであろう、そう、おそらくロールプレイングゲームの題材にだってなるだろうすさまじい政治劇が繰り広げられているのです。現在進行形であり、明日は何が起こるのか予測がつかない状態。中国マニアとして、これにどうしようもなく心惹きつけられてしまうのはやむを得ないではありませんか!
…と言う訳で、日々ネットを検索し、中国語サイト、日本語サイト、英語サイトを渉猟。気がつくと1時間、2時間が経っているのでした。薄熙来で忙しい。笑いごとではありません…

…という訳で、相変わらずばたばたと日々を過ごしています。とにかく今週末でお茶会は終わるので、来週からは少し楽になるはず。薄熙来事件の鎮静化を望みますが、何しろ脇役だけでも、美貌の妻によるイギリス政商殺人事件、フェラーリを乗り回す甘いマスクの放蕩息子…と役者は十分。それに加えて、軍を動員したクーデター計画の噂、巨額の裏金海外送金、恐怖の文革時代へと回帰する意味不明の政治運動、数々の冤罪でっちあげ捜査、拷問、これまでじっと爪を隠していた胡錦濤の鮮やかな反撃…とすさまじい展開を見せています。来週も忙しくなるかも知れません…

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友の訃報 2012/04/10



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 友人が心筋梗塞で突然亡くなり、昨日、告別式に参列した。
 一時期、私はほぼ毎週末クラブで遊んでいた時期――10年近い期間――があって、彼とはその頃に知り合いになった。「毎週末」と書いたが考えてみると当時はシーンが一番盛り上がっていた時期で様々な音楽的実験が東京中のあちこちで行われていたから、週末だけではなく、平日にもたくさん素晴らしいパーティーがあった。私は当時会社勤めで激務の仕事を終えて渋谷のど真ん中に借りていたアパートにぽんと仕事のバッグを置くと、深夜12時、1時から、歩いてすぐのクラブへDJたちの音を聴きに行っていた。そんな中によく彼の顔もあったのだ。
 私たちが集まっていたのは通称「小箱」と呼ばれる小さなクラブで、平日の夜だとせいぜい15人、多くてもたかだか30人くらいしか客は集まっていなかった。だからみんなが顔見知りだった。規模は小さかったけれど――実は後にそれはそこそこに大きなムーブメントへ成長して行くのだが――そこには最高に新しく、最高にレベルの高い音楽が流れていた。そして昼の時間に私たちを支配する金や地位とは一切関係のない、真の平等王国が開かれていた。大してお酒の飲めない私はせいぜいラムコークとかモヒートとか、そんなお酒を2、3杯道連れに、音楽に全身をひたしていた。翌朝にはまた10時にオフィスへと出かけて行かなければならないと分かっていても、睡眠時間を削ることを少しも惜しいとは思わない、絶対的な価値がそこにはあった。

          *

 葬儀の後、その“クラブ時代”の友人たちと食事に行った。色々思うところがあって今の私はほとんどクラブには顔を出さなくなっているから、私の中ではあの頃は“クラブ時代”と区分されているのだ――苦笑してしまうけれど。
 そしてその食事の席では誰がそうしようと決めた訳でもないのに、みんながぽつりぽつりと亡くなった彼の話題をリレーのように交代で話し続けていて、そこには当時のクラブと同じように、自由で“本当のかんじ”が流れているのだった。
 クラブに集まる人間の常として、どこかものぐさだったり適当だったり常識はずれな習慣を持っていたりするものだけれど、亡くなった彼にもその特徴はほぼ全てあった。だから私たちは彼のそのひどさを笑い、だらだらと共に過ごした時間をぼんやりと思い出し、どこにも着地点のない会話がいつまでもいつまでも続いていた長い夜や午後が切れ切れにそのとき私たちの座るチェーンレストランのテーブルの上に一瞬よみがえっていた。
 そして、そんな風にぼんくらそのもである癖にこれと思い決めた一点だけにはあきれるほどの頑迷さを示すのもまたクラブに集まる人間の常であり、彼も、譲れないその一点においては、アフリカの奥地の金鉱を開拓する商社マンにも劣らぬ情熱で未開の地を切り拓こうとしていた。ただ商社マンと決定的に違うのは、小箱のクラブに集まるような人間のやることには絶望的に金がついて来ないということだけなのだ。もちろん私たちは彼のその情熱的な一面についても語り合った。

 彼は、文筆を志していた。友人の一人が生前彼からもらったという分厚い原稿の束を持って来ていて、私が初めて見るその小説の題は『カシューとナッツ』というものだった。
 ぱらぱらと目を通すとカシューとナッツという二人の主人公が形而上的な課題の周りをぐるぐるダンスしているような、そんな話のようで、哲学科出身でヴィトゲンシュタインを崇拝する私は、こういうことはもう全て後期ヴィトゲンシュタイン思想によって完璧な形で成し遂げられてしまっているから、後から何をやっても無自覚の、色褪せたエピゴーネンになってしまうだけなのに、と言いたくなってしまうのだが、でも、文学は自由区域の楽市楽座なのだ。やりたいことをやる人を止める権利は誰にもない。それにもしかしたらそこからたとえ当初意図したものとはまるで違っていたとしても、新しい地平が開けることだってあるかも知れないではないか。

 一方、彼の棺には村上春樹の『風の歌を聴け』が納められていたことを私は思い出す。私には彼があの小説に出て来る鼠のように思えてならない。鼠もまた小説を書いていた。そして鼠が主人公の「僕」に1年に1度その原稿を送って来るように、彼もまた友人たちに自分の小説を配り続けていた。
 鼠は金持ちの家に生まれ、誰にでもやさしくそしてちょっと頼りなかった。彼もまた金持ちの家に生まれ誰にでもやさしくどこか頼りなく、けれど違っている点は、鼠は全く小説を読まなかったけれど彼は多くの小説を読み、そして、鼠は最後に一つの意志を持って死んで行くが、彼は突然落とし穴に落ちるように死に吸い込まれて行ったということだ。たぶん彼はまだ自分が死んだことを分かっていないのではないだろうか。

          *

 彼と最後にまともに話をしたのは3年くらい前だったと思う。
 季節は夏で、そのときですら私にとってはもう久々に訪れる場所だった青山のクラブで、明け方、店の外に置かれたぱっと見ベッド台のように見える変てこな椅子の上に座って話をした。彼は最近発見したという若い詩人のことを興奮して喋っていた。その人を世に出すためにzineを出すなど、出来ることを何でもしたいと言っていた(のちに彼はそれを本当に実行することになる)。
 また、別の日、それは冬のことで、畳敷きの居酒屋で開かれた仲間同士の忘年会の席で彼と話をした。そのとき、どういう話の流れでそういうことになったのかまるで覚えていないのだけれど、私が、「将来こういうものを書きたいと思っていて、今、こういう資料を読んでるの。いつか書けるといいんだけど」といったようなことを話すと、「書けるよ、絶対」と彼は即答してくれた。
 こういうとき、「そうか、頑張ってね」と答えるのが一般的だと思うし私自身もそうすると思うのだけれど、そのとき彼はそう即答し、そう断定した。それはやはり私にとってとても嬉しいことだったし、彼が何かを断言するのをそれまであまり聞いたことがなかったから、今でも強く印象に残っている。顔を見ると静かに微笑んでいた。

 この二つの記憶のどちらが先でどちらが後の出来事だったのか、今ではもう思い出せない。とにかく私の中にある最後の彼の記憶は、こんな風に、少し熱を帯びている。
 昨日、一緒に食事をした仲間の一人が彼の「いい顔の写真がある」と見せてくれた写真があった。「これがヤツの決め顔なんだよね」とみんなで覗き込んでちょっと笑った、そのいい顔を、最後の二つの記憶の中で彼は私に見せてくれていたのだ。その記憶は一生消えることはないだろう。彼に出会えたことを心から感謝して、心から冥福を、祈る。

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新世界遺産・平泉への旅。道すがら俳句も詠んでみました。 2011/10/12



先週、仕事の取材旅行で、今年夏に世界遺産に登録されたばかりの奥州平泉(岩手県)へ行って来ました。今回、諸事情でフォトグラファーと編集者は1週間前に撮影旅行を済ませていたので、完全に一人きりでの取材旅行でした。
実は私は一人旅が絶対出来ない方で、昔々、もつれた恋の悲しみに暮れるあまり勢いでセンチメンタルジャーニー(笑)に出た…ことがただ一度あるだけ。黙々と名所を回って一人食事を食べる…という行為を繰り返していると、どうにも気持ちが暗くなってしまうのです。
かつて一度、ヨーロッパに住む友人を訪ねて旅へ出かけたときも、途中でその友人に急な仕事が入ってしまい、予想外の一人旅に。そのあまりの淋しさに早々と予定を切り上げ、帰国してしまった…ほどの一人旅アレルギーです。
しかし今回は、仕事のための取材旅行。淋しいだのなんだのと甘えたことは言ってられません。良い原稿を書くために見ておかければならない場所は山ほどあるし、お話を伺わなければならない方もいる。新幹線の中でじっと地図を広げ、旅の順路をねったのでした。

さて、お昼に平泉に到着後、まず毛越寺(もうつうじ)へ向かいました。
そしていきなりお昼ご飯です↓
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毛越寺の中の茶屋で頂ける、お餅まんじゅう膳。岩手県名物の柔らかいお餅に、胡麻だれ、あんこだれ、味噌だれなど、たれがどれも美味しい~。

その後、毛越寺をゆっくりと回りました。
毛越寺は、かつてこの地に栄えた奥州藤原氏の二代目、藤原基衡が建立した寺院。建物は火災により焼失してしまいましたが、当時の池や優美な人工川=曲水がそのままの形で残っています。平安時代の優雅な庭園の面影を楽しめるなんて素晴らし過ぎる!
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          *

その後、中尊寺へ向かいました。
今回の旅、私は駅前でレンタル自転車を借り、快適に遺跡から遺跡をめぐりました。平泉は町の規模がそれほど大きくないので、自転車で回るのがまさにぴったりだと思います。

さて、中尊寺では、長い長い、非常に急な参道をひたすら徒歩でのぼります。両側には樹齢数100年と思われる高い杉木立が風に揺れ、この寺が、山を切り開いて作られたのだということを実感させられます。
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そして金色堂へ。奥州藤原氏の初代・清衡が建てたお堂で、中の仏像が全て金で彩られていることはあまりにも有名ですね。そのまばゆいことと言ったら…!
この光堂は、松尾芭蕉がかつて「おくのほそ道」の旅で訪れています。その時の読んだ句がかの有名な、

  五月雨の 降り残してや 光堂

そこで私も芭蕉にちなんで一句。

  秋の杉 翁を見たか 中尊寺
              真矢
       *

中尊寺には金色堂の他に、大小様々なお堂や能舞台が点在しています。また、藤原時代の素晴らしい仏像や仏具などを展示した博物館もあるので、じっくり見て回っているとかなり時間がかかります。
また、服飾史好きとしては、博物館に、金色堂に納められた藤原氏のミイラが着ていた麻の小袖(下着)が展示されていたことに感動。当時の衣服がそのままの形で出て来るなんて、世界中見渡してもなかなかないことだと思います。恐らくお棺の中のミイラは、狩衣など、正式な装束も着せられていると思うのですが、それは展示しないのでしょうか?

この日は毛越寺と中尊寺、そして或る方へのインタビューで終了。夜は武蔵坊というホテルに泊まり、源泉かけ流し!の大浴場に心ゆくまでつかりました。重度の肩こり症の私には至福の時です。

          *

二日目は、朝もう一度たっぷりホテルの温泉につかった後、無量光院跡、伽羅御所跡、柳之御所跡と、「跡地」系を自転車で回りました。藤原氏は来年の大河ドラマで取り上げられる平清盛と同じく、源頼朝によって滅ぼされてしまうのですが、滅亡前はこの平泉の地で、空前の繁栄を誇っていました。
その御所があった場所が今は、がらんとした平地になり、御所内にかつてあった池や、柱の跡、井戸や道の跡だけが復元されています。かすかな手がかりだけが残されていることがかえって詩情をそそるのです。
「かつてここに、平等院にも負けない優美で巨大な伽藍があったんだな…」
「ここで藤原氏が臣下を謁見していたのか…」
と空想が始まると、歴女の心はもう平安末期へ一っ飛びです。ふと見ると、遠く離れた場所でやはり静かにたたずむ妙齢の男性が一人。ああ、彼もきっと歴男なのでしょう。歴男・歴女の孤独な旅は続きます。

       *

ところで、このかつての御所跡を見て芭蕉が詠んだのが、これもまたあまりにも有名な

   夏草や 兵どもが 夢の跡

の句です。奥州藤原氏は武士でもあり、最後は頼朝の軍と戦って敗れましたから、ここで「つわもの」という言葉が使われている訳です。芭蕉が訪れた当時はもちろんまだ発掘などされておらず、ただ荒れ果てて草だけが生い茂っていたのでしょう。日本文学史上に不滅の名を刻む名句です。

その後、柳之御所資料館と平泉文化遺産センターで一しきり発掘品を鑑賞。柳之御所からは下駄が出土していて、驚かされました。今とほとんど変わらない形をしていて、服飾史好きはまた感動の坩堝に!この他に、烏帽子も出土しているそうです(本当に貴重!!!)。
また、当時の人々が食事に使った土師器(かわらけ)という食器のかけらが大量に出土しているそうで、何と柳之御所資料館では、「本物です!」とそのかけらを生で展示。自分の手に持って見て、古代の人々と同じ感触を確かめることが出来ます。大量に出土するからこその大判振る舞い。すごいです。

そして柳之御所では、まだまだ発掘が続いています↓
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これから何が出て来るのだろうと、歴史好きは新たな発見を期待せずにはいられません。今回の世界遺産認定に当たって、柳之御所は「浄土教の教えを具現化した文化遺産」という趣旨からは外れているため認定外となってしまったのですが、私個人に限って言えば、ここが一番胸をワクワクさせられた遺跡でした。柳之御所資料館に行ったときに、私があまりに熱心に一つ一つの展示物を凝視していたせいか館員の方が話しかけて下さりしばしお話をすることになったのですが、
「この遺跡本当にいいですねー!」
と言うと、
「世界遺産からは外れちゃったんですけどね…」
と淋しそうにつぶやいていらっしゃいました。でも、そんなこと関係ない!古代史ファンの皆さん、歴女・歴男の皆さん、平泉に行ったら柳之御所は外せません!ゼヒ足を運んでみてくださいね!

             *

その後、平泉駅にほど近い中尊寺通りの「食事処 民家」にて、はっとう汁を食べました。はっとうとは小麦粉で作る太いうどんのようなもので、ちょっとほうとうに似ています。このはっとうが豚汁のようなお汁に入っているのがはっとう汁です。
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今年は世界遺産に選ばれたお祝いの年だということで、金箔が浮かんだ金色のはっとう汁。美味。

          *

お腹がいっぱいになった後は、かつて源頼朝から逃れた義経がかくまわれていた「高舘」という建物があった丘に登りました。
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ここから一望する風景は、今も平安時代の面影を宿しているようでもあります↓
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平泉を回って思ったのは、どこか飛鳥に似ているなということ。自転車で重要史跡を全部回れるコンパクトなサイズ。そして、この家の下にも、あの畑の下にも、まだまだ遺構や貴重な文物がたっぷり埋まっているに違いない!と思わされるワクワク感。
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また、町中どこを曲がっても田んぼにぶち当たるゆったりとした雰囲気も本当に気に入ってしまいました。今回は仕事のための駆け足の旅行でしたが、またゆっくりと、1週間くらい逗留してみたいものだなと思います。

最後に、一句。毛越寺の思い出に。

   人びとの 夢のかけらの 萩の花
                  真矢

京都に強く憧れながらも自らのホームグラウンドである平泉、いや、東北の地を深く愛し、ここに現世の極楽浄土を出現させようとした藤原氏。その寺院も今は芭蕉が詠んだように夢の彼方に消えてしまったのですが、わずかにかつての美しい池の跡をとどめた毛越寺の庭には、まるでその栄華の忘れ形見のように、濃い紫の萩の花が咲いていたのでした…

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逃げる・逃げない論 2011/03/29



福島原発近隣住民の方々に避難勧告や屋内退避勧告が出ている今、原発に非常に近い5キロ圏内に住む方々の中に、断固として避難を拒んでいらっしゃる方がいるというニュースを報道で見た。そして、思わず涙がこぼれた。
このニュースに連動したmixi日記の中に、

「彼らは父祖の地に殉じようとしているのだ。この行動を笑う者は人間ではない」

と書かれている方がいて、私も全く同じように感じている(注*現在その日記にたどり着けなくなってしまったため、私の記憶で書いています。一部語句が違う箇所があるかと思いますがご了承ください)。そしてますます涙が流れた。
世の中には、「土地に全く執着しない」という人がいる。
私の友人の中にも、「僕はニュータウン育ちで土地への思い入れは全くない。どこででも生きて行けるし、日本という国についても強い思い入れはないから、どこか無国籍な、ニューヨークのような街で暮らすのが一番自分に合っていると思う」と公言している人もいる。
私はそういう人が心底羨ましい。自分もそんな風になれたらどんなに気が楽だろうと思う。私はもっとお涙ちょうだいな、演歌調な人間で、自分が育ったこの東京の街をひどく愛してしまっている。日本という国の欠点は重々承知しているけれど、それでもやっぱりこの国が好きで、この国がいつまでも地球の一角に栄えていてほしいと心から思う。だから今回の地震と原発事故により、日本が、そして私が育ったこの関東の地が、このような事態に陥ってしまったことにとてもとても大きな精神的打撃を受けている。

             *

一方、地震発生以来、東京から関西や九州方面、或いは海外へと避難されている方々がいる。そしてそれを「逃げる」と侮蔑し、非難を浴びせる論調をネット上にいくつも読んだ。私はそれはおかしいと思う。逃げる…とは何だろうか?逃げることはそんなにいけないことなのだろうか?と。
私は、逃げることは、生きることと同義だと思う。それは生物の最も根源的な本能の一つだ。自分の生命を脅かす巨大な恐怖を察知したとき、そこから全力で抜け出そうとあらゆる努力をすること。これは生きようとする力そのものだ。何故これを否定したり、侮蔑することが出来るのだろうか?

一方で、「逃げない」という選択肢もまた確実に存在する。
例えば現在福島原発でメルトダウンの恐怖と闘いながら必死で作業を続けている方たち。おそらくこの方たちに「絶対に現場に行け」という命令は出ていない筈だ。彼らは最終的には、個人個人の自己判断で現場に行く・行かないを決められている。熟考の末に、「逃げない」という道を選択された方々。その勇気に限りない、限りない尊敬の念を抱くのは、私たちが「逃げる」ことの重要性を本能で理解しているからだ。だからこそ「逃げない」という選択肢は限りなく輝くのだ。

             *

逃げる、逃げない
そのどちらの選択肢にも、私たちは共感することが出来る。
死んでしまったらおしまいだ。何としても、どんな手を使ってでも、絶対に生き延びるんだ、という意志。
一方で、「ただ生きているだけでは生きている意味はない」、そのような意志も存在する。自分が目指す生の充実、そこに限りなく近づけたときに初めて、人は本当に「生きた」と言えるのだ、という意志。

この二つの人生観に対して、どちらが正しいという答えは永遠にない。もちろん、優位性も、永遠に確定出来ない。どちらも正しいし、どちらも理解出来る。どちらかがどちらかに自分の正しさを・自分の優位性を押しつけることも出来ない。ただそこにその人がいる、と、しか言いようがない答え。そのような問いとそのような答えの前に、今私たち首都圏の人間は直面させられている。


             *

さて、今後私自身はどうするだろう?と考える。今後福島で最悪の事態が起こってしまったとき、或いは考えたくないことだけれど、例えば東海地震が連鎖的に起こって浜岡原発までもが制御不能というような最悪中の最悪の事態に陥ったときに、私は東京から逃げ出そうとするだろうか?と。或いは私はカナダ生まれでカナダの市民権を持っているので、日本国籍を捨てて、カナダ人になろうと思うようになるだろうか?と。分からない。全ては分からない。そのときに直面してみなければ何も分からない、と思う。

ただ、今の私は、ここから出たいとは思わない。私はこの土地で育ちこの土地から楽しい時間をもらい、それを人間の愚かさによって汚そうとしている今この事態に直面したときに、そうですか、じゃあさようならと、あっさり出て行くことがただあまりにも忍びないのだ。私が涙や笑いをこぼしたこの土地、私を眠らせ私を歩かせてくれたこの土地に対してただあまりにも申し訳ないのだ。それを笑いたい人は笑ってくれればいいと思う。笑う人はあまりにも人間というものを一面でしか理解していないというただそれだけのことだ。

写真家の蜷川実花のブログで知ったのだが、彼女の父・演出家の蜷川幸雄は、地震発生時に仕事で韓国に滞在していのだたという。ところが、
「演劇人としてちゃんとこの状況を体験しておかないなんて耐えられない」
と、わざわざ日程を早めて安全な韓国の土地から、まっしぐらに東京に帰国したそうだ。私はこの蜷川幸雄の一念に共感することが出来る。私もこれから日本語で文章を書く仕事を続けて行きたいと思っているから、この動揺の中に出来得る限り踏みとどまり、日本が立ち直るならその姿を、堕ちて行くならやはりその姿を、自分の全身でその渦中で感じて、その上で言葉を紡ぎ出して行きたいと思うのだ。それが今の私の覚悟であり、それが今日の時点での私の「答え」だ。

だからと言って私は逃げ出す人を否定したりしない。
私の周りにも何人も、子どものために、或いは自分の精神的不安が極限に達したために、東京以外の地域に避難している人々がいる。放射能汚染という前例のない恐怖を前にして、このような行動を取る人が出て来るのは生物として当然のことだ。この人たちは何よりもまず生きようとしている。その上で自分の人生を築こうとしている。それは一つの立派な見識であり、100パーセント正しいと思う。我慢する必要なんてない。逃げることはちっとも卑怯なことなんかじゃない。逃げたいと思ったら、そのときは逃げるということが一番正しい選択肢だ。心からそう思う。

そして、これからのことを思う。事態が最悪を迎えるとしても、或いは辛くも最悪の事態を免れるとしても、2011年は今この宇宙の中を一刻一刻と過ぎ去って行っている。この宇宙の中で、本当に本当にちっぽけな、本当に本当にちっぽけな私たち、と私たちが重力によってへばりつき、木や鳥や草や花や川や山が息づくこの土地を生き延びさせるために、私たちはどう生きればいいのかを、この混乱の中で必死に考え続けている。


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極度の緊張下の東京から 2011/03/17



東日本大震災発生から7日。ここ東京では毎日あまりにも非日常なことが続き、まるで長い夢の中を生きているようです。
特に福島原発の危機的状況が明らかになった4日目からは、おそらく首都圏に住む一人一人の胸の中にたとえようもないほど巨大な恐怖が生まれ、それが度重なる余震の揺れによって限りなく増幅され、自分自身の存在を溶かして、消してしまうような‥そのような感覚に襲われたのは決して私一人ではないと思います。

今、極度の緊張と、不安の下で、一日一日を生きている私たち。昨日、病院に行く用事があり、その道筋でいつも贔屓にしている呉服屋さんの前を通りかかりました。店の灯りは消え、「ああ、やはり休業中なのだな」と行き過ぎようとすると、中では番頭さんたちが品物の整理をしていたようで、「まやさん!」と電源の入っていない自動ドアを押し開けて、大声で皆さんが呼び止めて下さいました。震災以来、私は日用必需品の買い出し以外ほとんど家で息をひそめて家族とだけ過ごしていたので、以前の平和な暮らしの中で顔を合わせていた人々と話をするのはそれが初めての体験でした。懐かしい、皆さんの顔を見ていると、しみじみと、生きていることのありがたさと、そして人と人とのつながりの温かさが身にしみて来るのを感じました。
これまで、私は、それなりに大きな仕事もして海外で暮らしたこともあり、人の裏切りや人の死や、恋、成功、挫折、努力、それなりの人生体験をして来たと思っていましたが、それでも、やはり、人生の本当の姿をごく一部分でしか理解出来ていなかったのだと、今つくづく思います。

昨日、番頭さんの一人が、
「この地震で僕の人生観は変わってしまいました」
と仰っていましたが、私も全く同じように感じます。あの日、自分自身の身体に揺れを感じ、そして、東京の街を人々が黙々と列になって歩いて行くあの黒い影を自分のこの目で目撃し、幾度も幾度も余震におびやかされ、テレビを点ければ全てのチャンネルから映し出される信じられない映像に胸がつぶれ、どこにも心の行き場がない!と思う。そうするうちにも商店の店先からパンが消え、牛乳が消え、米が消え、ちり紙が消え‥いつものスーパーに入るのに入場制限をかけられ、中に入ることすら出来ない!
いつもにぎやかな吉祥寺の街を人々は思い詰めたような顔つきで食料品を満載にした袋を抱えて速足ですれ違い、店々はどこも半分ほどの灯りで営業しているのでまるで休業しているように見える…やがて私の住む町では輪番停電が開始され、毎日、毎日、明日の停電時間は何時なのか、その情報を入手することが生活の最重要事項になる‥そんな、ほんの1週間前まで誰も想像すら出来なかった生活の中で、余震の振動に震えながら更に信じられない現実、吹き飛ぶ原発の屋根、むき出しになった鉄骨、空に上がる白い煙を、私たちはテレビの四角い箱の中に見つめたのでした。

        *

三島由紀夫の『仮面の告白』の中に、私が偏愛し、幾度も幾度も繰り返し読んで来た一節があります。

「ようやく起き上がれるようになったころ、広島全滅のニュースを私は聞いた。
最後の機会だった。この次は東京だと人々が噂していた。私は白いシャツに白い半ズボンで街を歩き廻った。やけっぱちの果てまで来て、人々は明るい顔で歩いていた。一刻一刻が何事もない。ふくらましたゴム風船に今破れるか今破れるかとと圧力を加えてゆくときのような明るいときめきが至るところにあった。そでれでいて一刻一刻が何事もない。あんな日々が十日以上続いたら、気が違う他はないほどだった。」

これは、1945年、太平洋戦争敗戦の直前の東京の街を描写した一文です。そのときの東京はアメリカ軍の度重なる攻撃によって街は瓦礫の山と化し、更に、広島からは新型爆弾、そう、原爆の噂が届いていました。個人が想像し、自分の力で支え切れる限界を越えた恐怖と不安、緊張の中を、一瞬一瞬、まるで僥倖のように、まだ自分は生きている!と思いながら生きる――
私の夢は――もしもこのまままだ生き延びることが出来たとしたらそのときの夢は――昭和の戦争と現在の日本を接続させる本を書くことですが、そのために、これまで数えきれないほどの資料を読んで来て、それでも、どのように想像力を働かせても、決してたどり着けない地点があると感じていました。それは、当時の人々が日々感じていた恐怖と緊張、そしてその中に生まれるあきらめや笑いの感覚、それを本当に自分のものとして感じとることでした。
今、この東京にいて、私は、当時の日本人がありありと感じていただろうものと同じ恐怖を感じることが出来るようになったと思います。それは、体験してみない限り決して理解出来ない性質のものでした。今この時以降、「日本人」と一つの言葉では言ってみたとしても、この恐怖感と非日常感を今、日本にいて実際に感じた人間とそうでない人間とでは、もう同じ日本人とは言えないくらいに巨大な体験の差が日々生まれているのだと感じます。
また、今現在関東にいて体でこの恐怖を体験している人間と関西以南の人との間では、やはりその切迫感には大きな違いがあり、その差はもう決して埋めることは出来ない。どのように説明しても、中にいて感じるこの恐怖を共有することは出来ないと思います。
そして、同じように、東京にいて、まだ少なくとも無傷でいられる私たちも、被災地の方々の恐怖と絶望を、原発と今現在まさに戦っている方々と恐怖と勇気を、決して理解することは出来ない。その絶望感に、時々、呆然としていることがあります。

          *

今、毎日は、朝起きて、「ああ、まだ生きている」と思うことから始まります。正真正銘の夜型人間で、取材で早い時間のアポイントがあるとき以外はいつも昼頃に起き出していた私も、今は朝早くから行動を開始しています。何故なら、午前中に行動しないと、ほしい食料品を手に入れることが出来ないからです。
それから朝起きて一番にすることは、携帯のニュースで原発の現在の様子を知ること。そしてテレビのニュースを点けて更に最新のニュースを確認し、同時に、地域のケーブルテレビで今日の輪番時間が昨日の夜の時点での発表と変わっていないかを確認します。それから、一日の行動が決まる――これが今の私の毎日です。
震災前はゆっくりと、時間をかけて新聞を読みながら朝食を取ることが私の日課でしたが、今は手早く済ませ、吉祥寺に買い出しに回ります。昨日手に入れられなかった食パンを今日は意外な店で買うことが出来たり、昨日まではたくさんあった卵が棚に一つもなくなっていたり(ああ、買っておけばよかった‥)。毎日の食料品の購入は偶然と小さな運、不運に満ちています。
そして、手に入れられなくて困るのは食料品ばかりではなく、トイレットペーパー、電池、そして生理ナプキン‥父、母、私、それぞれがばらばらの場所に出掛けて行って12時頃に帰宅し、今日の成果を報告し合う、そんな毎日が震災以来続いているのでした。

           *

昼からは、食器や花瓶などのガラス器や倒れやすい家具を移動する作業をしたり、家族と安否確認の方法を決めたり、少し仕事をしたり。
でも、絶えずテレビやネットから情報収集をせずにはいられず、実際には仕事はなかなかはかどりません。特に最初の3日間ほどは、仕事はほとんど手に着かない状態で、じゃあ本を読もうと思っても内容が頭に入って来ない。今思い出そうとしても何をしていたのか、はっきり思い出せないような毎日でした。
また、現在のこの東京の様子を何とか外の人たちへ発信しようと思い、ブログを書こうとするのに、どうしても言葉が出て来ない。子どもの頃から文章を書くことが好きで好きでたまらない私ですらそうなのです。そうやって今日まで、ひたすら日々が流れて来ました。

       *

一昨日、15日は、私の写真展の初日で、夕方からのオープンに備え、作品の搬入をしなければなりませんでした。
本当はもっと前から計画的に会場である映画館に搬入出来ている筈だったのに、地震でなかなか作業が手に着かず、前日の14日までに会場に送れていた額は、6枚。あと3枚――しかもその3枚は前日までの6枚よりもさらに大きなサイズだったのですが――それらを何とか当日会場に持ち込まなければいけませんでした。
しかし、15日当日の天気予報は午後から雨。額は非常に大きく重く、両手に分けて持たない限り運ぶことが出来ません。それはつまり、雨が降っても傘を差せないことを意味します。いつ原発が爆発して死の灰が降って来るかも分からない状況の中で、傘を差すことが出来ない。タクシーをつかまえれば良いとは言え、そのような状況下で確実にタクシーをつかまえることが出来るという保証もありません。会場である映画館は原宿駅からやや歩く距離にあり、しかもそもそも、額に入れるために特注したマットと呼ばれる台紙を、まずは新宿の画材店まで引き取りに行かなければならない状況でした。
何とか雨が降る前に搬入を終えなければ!‥と、朝食もそここに家を飛び出して新宿へ向かい、マットを引き取って、「ああ、まだ雨が降っていない!」 そこからタクシーで原宿の映画館まで向かいました。
映画館では、スタッフがまだ出勤していない時刻なのでその入り口前の石畳に座って、マットを写真を張り付け、額にセットする作業をしたのでした。

そうやって向かった原宿までの道のり、途中の電車の中ではピンヒールにミニスカートの女性を見かけたり、英語のテキストを真剣に読みふけっている男性がいたり。新宿の画材店には、こんなときに画材店に来るのは私くらいのものだろうと思っていたのに、このさ中、マットを発注に来ている人の姿が他にもちらほらありました。タクシーの窓からは新宿御苑を散歩している老夫婦の姿が見え、無事映画館の前に額を置いて立ち去った後、帰りは千駄ヶ谷駅まで歩いたその道沿いの幾つものカフェではきれいにお化粧をして集まっている女性のグループを見かけたりもしました。いつ核の灰が降って来るか分からない、いつ余震に巻き込まれるか分からない状況の中で、そのときはそのときでもう仕方がない、と、日常を続ける人たちがいて、おそらく、大きな額を抱えて街を歩いている私もその一人に見えていたのかも知れません。まさに戦争中の日本人が生きた「やけっぱちの果てまで来て、人々は明るい顔で歩いていた」という世界の中を、いつの間にか私は生きていたのでした。

          *

幸いなことに、その日、まだ福島原発は持ちこたえ、富士山を震源としたその夜の大きな地震も東京の街を壊滅させるほどの規模は持ちませんでした。おそらく、あの富士山からの地震に身をさらしたとき、そしてそれが富士山を震源とすると知った瞬間が、震災以来、東京に住む人々の恐怖が最も増幅された瞬間だったのではないかと思います。
そして、「ああ、まだ生きている」と、今日は生きながらえたその恐怖がまたいつ再び私たちの上に舞い戻って来るのかも分からない、その現実の中を今まだ私たちはかろうじて生きているのでした。

         *

このような極度の緊張が続く毎日の中で、私の感情はひどく麻痺し、父や母と食事に向かいながらも、じっと押し黙ってしまうこともよくありました。かわいがっている猫を膝に乗せ、一心にその柔らかい毛を撫でていても心はどこか別の所にあるような――
それでも、昨日、子宮がん検診のために婦人科へ行かなければならず、婦人科では避けて通れない、あの、とてつもなく苦しい診療――股を開き、そこに棒を突っ込まれるというとてつもない苦行の時間を引き受けながら、更に、「ああ、今この瞬間に地震が来たらどうしよう」という絶望的な恐怖を味わって乗り越えたとき、自分の中で何かが大きく動いているのを感じました。
そう、そのとき、ぎゃはは、とこの最低最悪の状況を笑っているもう一人の私が私の中のどこかにいるのを感じたのです。ねえねえ、あなた何やってるの?こんなさ、今にも原発が爆発して巨大な余震がぐらっと来るかも知れないってときにさ、股を広げてその間に棒を突っ込まれちゃってるなんて。「もー先生しっかり頼みますよ!ぐらっと来ても絶対逃げないで下さいね!先生だけが頼りなんですから!」と、どこかで冗談を言っている自分がいるのでした。

その後、病院を出て、吉祥寺の街を歩いていると、ただ恐怖と死の覚悟だけに包まれていた頭の中が晴れ、力がみなぎって来るのを感じました。
おそらく、自分の極限なまでに無力な状態を身体を使ってしっかりと体感したことで、ただ、頭の中でだけ増幅されていた恐怖を、どこかで客観視出来るようになったのだと思います。それとも、「やけっぱちの果てまで来て、人々は明るい顔で歩いていた」、それを、ただより強いレベルで私は生きているだけなのでしょうか。今の私にはそれを判断することは出来ませんが、ただ、少しだけ気力を回復して私は街を歩き続けたのでした。

           *

そして、昨夜、家に帰ると私の目からは涙が流れるようになりました。昨日まで、嘆息し、恐怖だけを見つめ、ただじっと押し黙っていた感情が外に動き出し、初めて涙という形で流れ出すようになっていたのです。
世界中の人々が日本に同情し、支援の手を差し伸べてくれているという暖かいニュース。それに触れたとき、初めて涙が流れました。けれど、それは、裏返せば自分の祖国・日本が、これほどまでに手ひどいダメージを負い、世界中の憐れみを買う存在になってしまったということ。これほどまでに傷ついた日本――その現実が、あまりにも悲しくて、涙が後から後から流れて来て止まらないのでした。昨日の夜、私は、目が大きく腫れあがるまで泣いて、そしてようやく眠りに就きました。

‥‥これが、昨日までの私の心の動きです。今日から、明日から、それがどう動きどう変わって行くのか、自分でも全く想像がつきません。
それでも、この緊張下の中で人々は何とかいつも通りの生活を続けようと努力し、私も、来週早々には次の仕事の打ち合わせを編集者と行おうと考えています。今週末には月に一度のお茶の稽古があり、集まれる人だけで行おうという話も出ています。両方とも、もしものときにも歩いて1時間以内には帰宅出来る場所であり、社会に負担をかける恐れのない範囲で、笑い、お互いの体験を話し合い、言葉を掛け合う時間を、それぞれの人が持ち始めていることを多くのブログなどから確認しています。

今、このような極限状況の中で、ただ、ひたすら願うのは、いつか、日常を取り戻したいということ。けれどその日常は、震災前に持っていた日常の感覚とは、恐らく全く違ったものになるのだろうと思います。そのときをまだ想像することも出来ないまま、一日一日が私たちの上を流れて行きます。

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「梅雨が怖い + ジャ・ジャンクー監督インタビュー翻訳」 2010/07/07



目が覚めると、雨が降っていた。雨はもう三日も東京の街に降り続き、京子は起き上がると窓に頬を近づけて、昨日と変わらない分厚い灰色の雲を眺めた‥
‥といった風に、凡庸に始まる小説が好きだ。小説の始まり方は凡庸であればあるほど良いと思っている私だけれど、梅雨のことは年々激しく憎むようになっている。小説家が読者の予想に反して物語を突然終わらせることがあるように、何とか今年の梅雨を早めに終わらせることは出来ないのだろうか?

‥と言った文学風の前置きは良いとして(何のためにこんなことをやっているのか自分でも分からない)、よく、母に、冗談で「あなたってロボットなんじゃない?」と言われる。30度を越える真夏の日にもめったに冷房を使わず、扇風機だけで暮らしているからだ。
「暑ければ、手と足と首にちょっとだけ水を掛ければ、すぐ涼しくなるよ」などと言って、「江戸時代の人みたい」とも笑われている。夜眠るときもこの数年、冷房を使ったことがない。
では、だからと言って寒がりかと言うと、実はそういう訳でもない。
北京に留学していたときなどすぐにあの町の厳寒の冬に慣れてしまい、ミニスカートで街を歩き回っていた。「こんなに薄着の日本人を初めて見た!」と何人もの中国人に目を丸くされたほどだ。暑さにも寒さにも強い、鋼鉄のロボットのような私なのだ。
‥けれど、湿気には‥湿気にはめっぽう弱い。それから「季節の変わり目」という、毎日の天気が安定しない時期にも、真夏や真冬とは別人のようにしょんぼりしてしまう。今日は晴れ。でも明日は大雨。そういう短いスパンで気圧がくるくる動く変化の季節に、体がついていかないのだ。

‥そんな訳で、毎年、3月・7月・10月は危険な季節だ。私の場合体調不良になると、肩の辺りの血が回らなくなってしまう。それはつまり頭に血が行かなくなるということだから、頭痛と倦怠感が延々と続くことになる。過去には何回か、激しいめまいに見舞われて救急に運ばれたことさえある。その度に脳のCTスキャンを撮るけれど、いつも異常はない。要するに、肩と首辺りの血行不良なのだ。
‥そんな私だけれど、今年はちょっと様子が違っている。相変わらずぼんやりと頭痛が続いているものの、更に新たな症状まで加わってしまったのだ。何かと言うと、(ご飯を食べている人がいたらごめんなさい)それは、「手足のぽつぽつ」という悩ましい症状だ。
「じんましん」と呼べるほど、大きな発疹でもない。本当に小さなぽつぽつとしたふくらみが、最初は腕から、やがて足へ、どんどんどんどんと広がってしまった。一か所が治まって来たかと思うとまた違う場所に現れ、そこが治まって来たかと思うとまた最初の場所にぽつぽつが戻る‥そんな状態が、もう2週間近く続いている。
なるべく化学物質の薬を飲みたくない私だけれど、たまらずに皮膚科へ駈け込んでみた(何しろぽつぽつは見た目が非常に気持ち悪いので)。ところがお医者様は、「こういうのはね、原因は医者にも分からないんですよ」と言う。「梅雨の時期には時々、同じような症状の方がいらっしゃいますよ。皆さんどうしても体調を崩されてしまうのでね」‥と、どうやら私もその典型のようで、だましだましつき合って行くしか方法はないらしいのだ。

‥そんな訳で、発疹が一番広範囲に広がっていた3日間だけ飲み薬を服用したものの、後は塗り薬を頂いて、まさにだましだまし過ごしている。飲み薬が強過ぎて、その3日間は1日中頭がかすみ、ぐったりと廃人状態。仕事の原稿も大幅に遅れてしまったため、もう金輪際、薬は飲まないと決めた。塗り薬を塗れば1日程度でぷつぷつは消えてくれるから、何とか梅雨の終わりまで、出て来た発疹をもぐら叩きのようにつぶして、やり過ごしていこうと思う。それも目立つ所だけにして、服で見えない部分にはなるべく塗りたくはない。
だって、体のバランスが崩れているから、毒素を出そうとして皮膚の表面にぶつぶつが出来るのだ。それをむりやり人工の化学物質で押さえつけるのは、決して良いことではないと思う。あくまで見た人に不快感を与えないように‥そのためだけに薬を使いたい。

それにしても、本当に梅雨はつらい。あと一体何日、今年の梅雨は続くのだろうか?何とか体のバランスを少しでも整えようと、発疹が出始めて以来野菜を多めに食べるようにしているけれど、付け焼き場過ぎて今年の梅雨にはまだ効果は出ないだろう。
それでもこの体調不良に、何か新しい対策を立てずにはいられない。ちょうどいいことに、イタリア人と結婚して、14年間ミラノに住んでいた私の一番の幼馴染・Tちゃんが、この春から夫と双子の子どもともども日本移住を決意。うちの一軒隣りにある彼女の実家に引き移って来たので、時間を合わせて夜に二人でジョギングをすることにした。これもすぐには効果が出ないだろうけれど、来年の梅雨、或いは、今年の夏から秋への変わり目の時期に、助けになることを期待したい。
西洋医学は、「何何病」と、病名がハッキリしているものにはそれなりに効果があるけれど、謎の頭痛や謎の発疹、身体のバランスから来る問題にはほとんど無力と言っても良いのではないだろうか。地道に体を整えて、「気圧」という、地球規模の大きな敵と戦うしかないのだ。それにしても今日も頭が痛い‥

         *

‥と言いながら、ついつい、一番手頃なネットばかり見て時間を過ごしてしまう毎日なのだが、そんな中で、面白いインタビューにも出会うことになった。今、世界で最もホットな映画監督の一人、中国のジャ・ジャンクー(賈樟柯)監督の最新作にまつわるインタビュー記事を見つけたのだ。

ちょうど頭が痛くて真面目な仕事原稿を書くのが難しかったので、ついつい手ずさみに訳してみてしまった。mixi内の「ジャ・ジャンクー監督コミュニティ」に掲載してみたところ、なかなか反応も良かったので、ここにも掲載しておこうと思う。
まず、元のインタビュー記事はこちら↓
http://ent.cn.yahoo.com/10-07-/352/2ag8l.html
それから、新作『海上伝奇』の予告編youtubeはここに↓
http://www.youtube.com/watch?v=ujGaocNjJQY
          *

(以下、インタビュー記事の抄訳。ところどころ()付きで私のつぶやきも挿入しています)

ジャ・ジャンクー監督の最新作『海上伝奇』は、上海の100年をつづるドキュメンタリー映画。
八十人以上に及ぶ上海現代史に関わる人物に取材を行い、
そのうち十八人が今回の作品に登場します。
その中には、蒋介石の最後の警護隊長を務めた人物、
初期の共産党運動に関わり、国民党側の特務組織・軍統から暗殺された人物の娘、
オールド上海の闇社会の支配者・杜月笙の娘が語る一家のその後、
そして、現在の中国言論を代表する若手作家・韓寒などが含まれているとのこと。
(杜月笙の娘が出て来るとは何ともすごいですね!)

特に韓寒は、監督にとって、今の上海の思潮・気分を代表する人物。
「理性的で、現実的でありながら、だからといって理想を失っている訳でもない。
彼こそ現在の上海を代表する人物であり、未来の上海を代表する人物でもある」とのことです。

また、取材した八十人が語った上海にまつわるエピソードはどれも非常に深い内容を持っているので、
昨年末にはテレビ用に別のドキュメンタリー番組を一本作り、
今後は取材内容を基にして、本も書く予定とのこと。
「こうすれば、この豊かな素材を無駄にしないで済むからね」
とジャ監督は言っています。

この作品の制作費の3分の2は、
海外に上映権を売ることにより既に回収出来ているので、
中国国内での興行収入は気にしないでも良いとのこと。
このところ、ジャ監督を含む第六世代の監督に対して、
「自己満足的だ」といった批判が出ていることについては、
この10年間の中国映画は「いくら稼いだ」ということばかりが話題になるが、
「中国映画の面目を保った」ということになれば、
第六世代がいなかったら一体どうなっていただろう? 」と反論しています。
(確かにその通り!)
「僕は僕ら第六世代の活動に誇りを持っているし、
人々は僕らがどんなにか苦境に立っているだろうといらぬ想像をしているようだけど、
みんなとても楽しく暮らしているよ!」とのこと。

今後、9月からは初の商業映画となる『大清朝』の撮影を開始。
その後は、何と!!!マギー・チャンと共に『双雄会』を撮るそうです。

続々と上映されるだろうジャ監督の新作を楽しみに待ちたいですね。

          *

youtubeの予告編を見ると、色はジャ監督独特の彩度を下げたシアン系(青)系・ブルー(紫)系の色。内容は、上海現代史好きにはたまらない、複雑な重層的なドキュメンタリーとなっているようで、一刻も早く観たくてたまらなくなる。一体いつ日本で公開されるのだろうか?
しかもよくよく見てみると、登場人物の中に『欲望の翼』でレスリーの義母役を演じた強烈な存在感の女優・潘迪華(レベッカ・パン)もいるではないか!この人選、何とも唸らされる。
世界のアート映画のトップを走るジャ監督が、世界の新たな中心地、上海を撮ったドキュメンタリー映画。早く観たくて、焦急等待!=居ても立ってもいられなくなってしまう!

「凝り性の女」 2010/06/04



たぶん、私は、ものすごく凝り性だと思う。
肩こりがひどくて過去に何度か頭に血が回らなくなって倒れたことがあるけれど、それと同じくらい、物事に一旦はまるととことん止まらなくなる方の凝り性も、かなり重症だとやっと自覚するようになった。
一般的に、凝り性な人は得てして飽きっぽくもあるものだけれど、私の場合は非常に粘着質で、ずっとずっと、一旦はまったものを追いかけ続ける。だから毎日やることがいっぱいあり過ぎて目まぐるしく、きっとこうやってバタバタしているうちに死んで行くのだろうとも思う。もうこれ以上のめり込む対象を増やしたくはないのだけれど、そういうものは恋と同じように、ある日突然どこから飛んで来て私たちの心をとらえるのだ。逃げようがない。私たちは否応なしにそれに取り込まれてしまう。

          *

思えば、この凝り性の兆候は、小学生の頃からあった。
小学校の3年か4年の頃、突如私は日本古代史に目覚めて、毎日毎日卑弥呼だの邪馬台国だの古墳だの埴輪だの大化の改新だの縄文土器だのに明け暮れ、宿題が出ていた訳でもないのに、勝手に「古代新聞」や長い長い絵巻物のような古代年表を作り、先生に教室の壁に貼り出してもらっていた。勉強嫌いの同級生から見たら、かなりうざったい同級生だっただろう。
やがて6年生になる頃には、子ども用の歴史書は全て読破してしまい、物足りなくなって来て図書館の大人室(と呼んでいた)に出入りするようになった。司書の人に驚かれながら、梅原猛先生の『隠された十字架』などを読みふける小学6年生。豆古代史マニアだった。
 
          *

この頃の私の古代史熱中ぶりには、その後の人生全ての熱中のプロトタイプがあるように思う。
つまり、私の場合、たとえばリカちゃん人形や何かのキャラクターのように、ただ「小さくてかわいい」とか、アイドルスターのようにただ「憧れの存在」とか、自分でお料理を作ると「美味しくて楽しい」とか、楽器を弾いたりスポーツをしたりして「体を使って何かを楽しむ」とか、そういうことはそれなりにたしなむものの、大して熱中は出来ないのだ。私の場合、そこに何か歴史とか思想とか壮大で重厚なストーリーがどこまでもこまでもつながっている、そういうものに心をつかまれる傾向があるようだ。
それも、私の場合、漫画や歌謡曲、テレビドラマ、アイドル、B級おもちゃ、アングラ演劇‥そういうサブカル的なものでは――私に限っては――“降りて”来ない。私が心をつかまれるのはいつも、正統的で、伝統的で、オーソドックスで、学問的な何か。そういうものが10年に1度くらいのタームで、運命的な恋のように私にとり憑いてしまう。そういう人生をどうやら私は生きているらしいのだ。

          *

小学校後半の古代史熱は、そんな私の面倒くさい人生傾向の“序曲”として幼い私を訪れ、中学に入るとスッと冷めてしまった。その頃、人並みに思春期を迎えた私は社交活動に忙しく、たぶん一旦気が散ってしまったのだと思う。
本格的に“狂信的な熱中”が私をとらえるのは、高校1年のときだ。その年、倫理社会の授業で私は青柳先生という先生の講義を受けた。先生は高校生だからと見くびることなく、私たちに正統的な西洋哲学の講義を堂々と開陳して下さった。先生こそは私が恩師と呼べる方だと思っているが、そこで私は初めて本格的な西洋哲学の魅力に触れ、「哲学的に考えること」、要するに「哲学をする」ということの面白さに、熱狂的にとり憑かれてしまったのだった。
時はバブル経済の真っただ中。私は今思い出しても吐き気がするような浅薄な同級生が大半を占める軟弱私立高校の中で(彼らにはせっかくの青柳先生の講義も、1ミリもその価値が伝わらなかったに違いない)、一人、「哲学科に進学しよう」と決意を固めていた。私の高校は大学までの一貫教育だったので、よっぽどひどい成績を取らなければそのまま上に進学出来たけれど、哲学科はない。
「外の大学に出て、西洋哲学を基礎からしっかり学ぶんだ」
と、高校2年の終りから突如受験の猛勉強を始めることになった。大学も、哲学科のある所しか受けない、と心に誓う。学科で受験出来る大学は全て哲学科で受験した。そして1年後、念願の哲学科生になり、ソクラテスから始まって延々現代へと続く、哲学の道の一巡礼者になったのだ。――これが私の最初の凝り性だった。

私の場合、何かに凝り始めると、それは趣味というおとなしい領域にとどまってはくれず、生活の、いや、人生の全てに影響し始める。まだバブル真っ盛りだった当時ですら、「哲学科なんかに進学して、就職が大変よ」としたり顔で忠告してくれる人がいたけれど、そんなことは意に介さなかった。これは熱病であり恋であり、後先など考えていられない。ヨシオさんのことが好きだけど、彼、お金がないから、将来のことを考えるととっても不安。結婚はヒロシさんとするわ‥なんてことは私には出来ない。一切の打算なく、つぎ込める愛の全てつぎ込む。それが私の凝り性であり、正に純愛そのものと言っていいと思う。

そして、その哲学という凝り性は、二十六歳のときに突如終焉を迎えた。それは、この年に、「哲学が分かった」と思ったからだ。特に最後の1年は、美容ジャーナリストの斉藤薫さんの事務所でアシスタントのアルバイトをしながら、定時に家に帰るとひたすら家にこもり、ヴィトゲンシュタインの本を一字一字、血のにじむような思いで読み込んでいた。彼の『哲学探究』という分厚い著作を、「分かるまで次の行に進んではいけない」というルールを決めて、徹底的に読み込んでいたのだ。イギリスから英語版も取り寄せて詳細に文章を比較し、分からないときは日本語と英語、両方でひたすらヴィトゲンシュタインの言葉を写経した。休みの日もどこへも出かけなかった。心配した母親から、「少しは遊びに行ったら?」と言われたほどの集中状態。そして1年ほど経ったとき、「哲学が分かった」と思ったのだった。

その頃のノートと『哲学探究』
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          *

その解脱体験の後、少ししてから次の熱中が訪れた。
それは哲学のときと同じように、或る日突然空から私の心臓めがけて降って来た恋だった。いや、正確に言うと空からではなく、それは映画館のスクリーンの上から降って来た。その情熱の名前を“中国”と言う。
このことについては前にmixi日記で書いたことがあるので詳しくは書かないけれど、或る日観た王家衛(ワン・カーウァイ)の映画が、私の心に決定的な刻印を残した。その日、家に帰ってからも映画の中の音楽が耳を離れず、目の上にスクリーンが張りついてしまったように、登場人物たちが私の前で体をくねらせていた。私は、
「決めた。明日から、毎日中国映画を1本ずつ観る」
と誓った。私の恋愛はいつも処女的であり心中的であるから、心に決めたことは必ず実行する。その日から、私は本当に、1年間、1日1本ずつ、中国・台湾・香港映画を見続けた(1日に1本以上の映画を観ると印象が混乱するので、必ず1日に1本と決めている)。そして、このような素晴らしい映画を産み出せる中国という文化は、一体どこから生まれ、今どういう状態にあり、これからどこへ行くのか?と、突如として足繁く図書館の中国史コーナーに通うようになった。
もちろん、中国映画、特にその頃隆盛を誇っていた香港映画への傾倒もどんどん深みへとはまってゆき、あらゆる香港映画特集の雑誌を買いまくってレオン・カーファイだのトニー・レオンだのレオン・ライだのといった紛らわしい名前を漢字表記と併せてまるで受験勉強のように次々と頭に叩き込み(あまりにも楽しい受験勉強!)、中華映画友の会的なクラブにも入会して嬉々としてイベントに参加した。そして、或る日、図書館の中国本も読みつくし「もう読むものが何もないなあ」と思うようになった頃、何かの啓示のように、
「私、中国に留学する」
と決めたのだった。一言も中国語が喋れなかったのにも関わらず‥。
それからは語学学校に通って中国語を猛勉強。お金も最小限を除いてひたすら留学費用のために貯金して、北京の映画学校・北京電影学院へ留学した。それから今日まで、1日たりとも中国への愛が薄れたことはない。

          *

その次に私を訪れたのは、“写真”という情熱だった。
それは、これまでとは違い、ゆっくりと、スローモーションの速度で、気がつくとまるでからめら取られたようにはまり込んでしまっていた情熱だった。私は1ミリたりとも「写真家になろう」という夢など持ったことはなかったのに、たまたま家にある父の古いカメラを手にして撮影し、思うような写真にならなかったことが悔しくて何度も挑戦しているうちに、どんどんどんどん深みにはまってしまったのだ。
恋愛だって、色々なパターンがある。最初からどきゅんと一目ぼれして恋に落ちる場合もあれば、最初は「気に食わないヤツ」と嫌い合っていたのに、後から大恋愛に発展するケースもある。写真との出会いは私にとって、正にそういう恋愛だった。

当時私は広告代理店に勤めていて、そのビルが銀座に近かったから、打ち合わせも銀座近辺で行うことが多かった。銀座と言えば中古カメラ店のメッカ。打ち合わせの後、「あと10分だけ、あと5分だけ‥」と、腕時計を気にしながらカメラ屋さんのショウウインドウにぴたりとおでこをつけて、レンズを物色するのが本当に楽しみだった。
上司の中に一人だけカメラ好きのおじさんがいて、一緒に打ち合わせに行くと、二人でカメラ屋の前に立ち止まって、じーっとショウウインドウを眺めていた。何しろ上司公認だから時間を気にしなくていい。「わー、28mmAiのF2が5万かあ、安いですね!」「そうだな。ちょっと外観へこんでるから安いんだろ」「ほんとだ」などと話し合い、「何か男の後輩と話してるみたいだなあ」と笑われたこともある。広告代理店時代の心温まるエピソードの一つだ。
そしてほんの趣味で始めたつもりの写真だったのに、凝り性はどんどんエスカレートして湯水のようにお金をレンズにつぎ込み(或る描写がほしいと思ったら、或るレンズの力を借りなければならないことがある!)、やがて写真屋さんにやってもらうプリントでは色や濃度の納得がいかず、ついには自分で暗室に通うようになり‥そして今では自分の家に暗室を作り上げてしまった‥
その頃、本当に激務だった仕事の合間を縫って、いつも写真のことを考えていたような気がする。あのレンズがほしい、あの印画紙でプリントしたらどんな彩度になるのだろう?どうしてあのときあの絞りではダメだったんだろう?引き延ばし機のレンズを、今度はあのメーカーに変えたらどういう描写になるんだろう?‥‥

          *

そして今、写真への情熱は深く静かに脈々と保ちながら、また新たな情熱が私の中に生まれて来ている。
一つは、2年前、2008年の2月に私の心臓めがけて飛び込んで来た情熱だ。それは、「日中戦争、太平洋戦争とは何だったのか?」という情熱。これは、いつの日か必ず、文章作品という形でこの世に投げかけようと心に誓っている。
あまり日記には頻繁には書いていないけれど、その2008年2月以来、私はずっと、常に古本屋を回り、様々なシンポジウムに参加して、研究書から民間の方の体験記まで幅広く目を通してこつこつと勉強を続けている。今後は中国にも数カ月間滞在して、向こうでしか集められない資料を集めていく予定だ。しつこい性格なので、絶対にあきらめないし、途中で投げ出したりもしない。必ず作品にしようと心に誓っている。そう言えば今日も午後から、朝日新聞主宰のシンポジウム「検証 昭和報道」へ行くのだ。この情熱はたぶん私の今後の人生を、死ぬまで激しく振り回し続けるだろう。

          *

そして、もう一つ、本当にごく最近私にとり憑いた情熱は、“着物”という名の情熱だ。これは言ってみれば幼馴染みとの恋愛のようなもので、曽祖母の代からの着物狂いのDNAが、“着物”を私の許嫁と定めていたのかも知れない。それを私が知らなかっただけなのかも知れない、と思う。
今年の冬の終わりから、お茶の稽古のために着物を着ることになったとたん、今はとり憑かれたように毎日暇さえあれば着物のことを考えている。中国映画にはまり始めたときも、カメラにはまり始めたときも、はまり始めるといつも私はカメラのカタログやら「香港映画ガイドブック」やらを日がな一日眺めて頁をめくり続けていたものだけれど、今、正にその状態にある。ウェブ上の膨大な着物ブログや着物屋のサイトを次々とクリックして着物コーディネイトを吸収し、図書館や本屋で続々と着物関係の本を見つけて来ては、仕事や食事の合間に読みふけっている。
「もう、また着物の話?」
と母からは嫌がられているけれど、着物のことばかり考えてしまうから仕方がない。今、生きている時間の軽く3分の1は、着物のことを考えていると思う。(夢でまで呉服屋さんで着物を買っていたり‥)

まずは家にある着物を全部把握しようと、曽祖母の代からの膨大な着物・帯・羽織コレクションを1枚1枚写真に撮影し、図録めいたものを作り始めてもいる。あまりにも量が多いため、そうしないと「これに合う黄色っぽい帯があったはずだけど、どこにしまってあるんだっけ‥?」と分からなくなってしまうからだ。
また、足袋や襦袢、半衿、草履などの小物は傷んでいるものも多いから、新しく買い替えが必要だ。それを一々「どこで買おうか」「何色にしようか」などと考えて、実際に買いに行くまでの過程がたまらなく楽しい。
もちろん、ライター仕事で取材に行くときは、必ず前日にその町の呉服屋さんをインターネットで検索しておき、取材の後に訪れてみる。昨日は高円寺に取材に行って、南口近くの和装小物屋さんでレースの足袋、しかも21.5cm!を発見。涙して購入した。足が小さい私は、着物のときも苦労の連続なのだ。
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最近は、今まで目に留まらなかったmixi上のお着物コミュニティにも続々と参加するようになった。たくさんの方々が自分の着物コーディネートをアップしているので、とても参考になる。
ついこの間など、「実家の蔵から出て来たおばあちゃんの着物、サイズが小さいのでお安くお分けします」という素敵な会があったので、もちろん参加して粋な着物をゲットした。気をつけて見ていると、こういった着物好き同士の集まりや、着物屋さん主宰の特別イベントは東京のあちこちでかなり頻繁に開かれているようだ。少しずつ、着物ブームが訪れている予感がする。

          *

考えてみれば、この“着物”という最新の情熱は、やはり今までの私の凝り性のプロトタイプを全く離れていないと思う。何故ならば、着物は衣服という日常生活に密着しているものでありながら、その上には日本の長い長い文化史の全てが集約されているからだ。文様や色の組み合わせなど、勉強することが山ほどあり、伝統的で、正統的。まさに私がはまりやすい対象そのものなのだ。
しかも着物は、きれい!さわれる!着ることが出来る!気分がウキウキする!女子的要素を満載しつつも、勉強&歴史好きの好奇心も満たしてくれる。何て素晴らしいのだろう!新しく始まった着物というこの情熱も、長く長く私の人生を支配する…という予感がしてならない。

こうして生活のあちこちにのめり込む対象を持ちながら、私の人生はあたふたと前に進んでいく。願わくばただでさえ忙しいこの毎日の中で、これ以上新しい“恋”に出会わないことを。着物という情熱を、人生最後の恋にしようと思うのだ。(たぶん‥)

「連休雑感と習うより慣れろ」 2010/05/14



ゴールデンウィークも終り、日常生活が戻って来た感があるこの頃。
私のゴールデンウィークは、結構仕事をして過ごしていた。ライター仕事の取材があったり(夜勤明けの看護師さんに‥)、暗室作業をしたり、急ぎの原稿を書いたり。そしてその合い間には色々考え事。ふう。
もちろんちょこちょこ遊びにも出かけていた。お食事会や、まったりメロウグルーヴィングなDJを聞きながらの夕飯会や、3日のExTのイベントでは、物販のお手伝いもしたり(こういうの大好き!音源買ってくれる二十代の若い音楽ファンとお喋りしたりして、楽しかった~)。
そして、このExTイベントでは、物販担当の時間以外にいくつかのライブを聴くことが出来て、とても感動させられるものがあった。
と言うのも、思い返せば6、7年前、まだ私が会社勤めをしつつ週2ペースでクラブに通い写真を撮っていた頃は、私の撮影対象はDJばかりで、ライブをやる人はほとんどいなかったからだ。もちろん皆その頃から家で音源を作っていたとは思うのだけど、人前で発表する段階には至っていなかったのだ。
それが、今では、次から次へと昔からの知った顔がステージに上がり、最高度に切れ味のよいエレクトロニック・ミュージックのライブをする。100%、自分たち自身で作り出した曲だ。そしてそれに若いお客さんたちがストレートに反応している。ライブをする側にも、ドリアンくんのように若い新しい世代が生まれつつある。ぐっと胸に迫るものがあった。

もちろん、私は、音源を作る人が偉くて、DJはその次だなどと言いたい訳ではない。それは二つの独立したアート活動だ。でも、例えば、文体も構成も素晴らしい卓越した文芸批評家がいたとして、彼らが批評している小説が全てヨーロッパ・アメリカの文学だったら、それはとても悲しいことではないだろうか?やはり、同じ国の中に素晴らしい作家も、素晴らしい文芸批評家もいることが一番正しいし、楽しい姿だと思う。5日の日に、だから私は一人感動していたのだった。

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そんな連休の終り頃、仕事の資料を買いに本屋さんへ行って、平積みのコーナーにモデルのジェシカの本が置かれているのを見つけた。
モデル事情に詳しくない方のためにちょこっとご紹介すると、ジェシカとは、女性ファッション誌のモデルとして人気が出て、今ではテレビCM出演やファッションブランドのアドバイザー、数々のトークショー出演までをこなす日本のスーパーモデル・道端ジェシカのことだ。西洋人とのハーフで、顔はかなり洋モノ系。FIレーサーのジェンソン・バトンを恋人に持つ‥
‥そんなジェシカが、自分の美の秘密や凛とした生き方の心得を語った本、ということで、売れ行きもなかなか好調のようだ。

その日、本屋さんで、私はしばらく本棚の前に立ち止まってしみじみとそのジェシカの本を眺めた。特にジェシカのファンという訳ではないのだけれど(あ、でも、とても努力家で好感持てる人だなーとは思う)、そのとき、「ジェシカ、すごく出世したな‥」と感慨深かったのだ。
と言うのも、実は私は、ジェシカがまだ「その他大勢のモデルの一人」だった頃から、ずっと彼女に注目し続けていた。「この子はきっと伸びる」という、理由の分からない予感が強くしたのだ。そのことについてこの後書いてみようと思う。

        *

そもそも、当時私が何故ジェシカに早くから注目していたかと言うと、そこには已むに已まれぬ個人的な事情があった。
当時(上に書いた、週2ペースでクラブに通って写真を撮りまくっていた頃)、私は広告代理店のプロデュース部門で働いていて、若い女の子をターゲットにした或るメガ商品のCM制作を担当していた。
日本の広告では、いわゆる“タレント広告”=有名人を起用する広告が他国に比べて非常に大きな割合を占めているけれど、私が担当していた商品にも、長年或る有名女優が出演していて、かなりの成功を収めていた。しかし、その女優も当然のことながらOLの年代からミセス、或いはママと呼ばれる年代に入り始め、商品の若いブランドイメージを維持するためには、そろそろタレントの首をすげ替えなければいけない時期が来ていたのだった。

そこで、私たち代理店社員には、今の女優でCMを作りつつ、裏では“次の顔”を探せ!というミッションが下された。そのとき、内心私は「困ったなあ」と思ったのだった。と言うのも、実は私は日本の連続ドラマがどうしても面白いと思えず、ほとんど見たことがない。更にもっと苦手なのがお笑いやバラエティ番組で、100%、全く見たことがない。映画は観るけれど、単館で上映されるような地味なアート系映画ばかり‥そんな生活だから、旬のタレントが誰かということが全く分からなかったのだ。
「どうしよう、女性向け人気商品の“次の顔”を探せるような当てが、全然ない‥」

更にもう一つ困ったことがあった。それは、タレントの好みについて、私が徹底的にマイナー志向だったということだ。
何しろ、小学生のときに一番最初に好きになったアイドルが、私の場合、ひかる一平だった。この人、一応ジャニーズ事務所所属だったのだけど、芽が出ずにすぐ脇役タレントへ‥。
その後に好きになったのは、一世を風靡したたのきんトリオのトシちゃん!でもなく、マッチ!でもなく、よっちゃん‥。
クラスの女子がトシちゃん派とマッチ派に二分され、「どちらがよりいけてるか?」と議論が巻き起こっていたその渦の中で、たった一人孤高を守り、よっちゃんがワニブックスから出したエッセイ本を買っていた私‥。皆から笑われまくっていた。

女性タレントも、松田聖子と河合奈保子が人気を博していた時代に、河合奈保子の方を応援‥やがて消えてゆく河合奈保子‥。その後は少女隊と伊藤つかさがかなり好きだったけど、どちらも一発屋で消えてしまった‥。
いつも一緒にテレビにかじりついて『ザ・ベストテン』を見ていた弟には、「中森明菜はすぐ消えるよ」「工藤静香は長くない」と予言したのに全く当たらなかったし、その後、大学生になったときに訪れたスーパーモデル・ブーム時にも、グッチによく出ていたイタリア人モデルが好きで、彼女が出そうなショーは『ファッション通信』を録画してまで追いかけていたのに、全く芽が出ず‥後になってクラウディア・シファーやクリスティ・ターリントンのカリスマ性に気づいたのだった‥(こんな安っぽいモデル、ダメでしょ、とバカにしていたのに)
‥要するに、私には、“これから売れる人”を見抜く目が全くないのだ。「それなのにメガブランドの次の顔を探せなんて」‥どうしようと途方に暮れてしまっていた。

        *

しかし、とにかく仕事である。お金を頂いているのだから、何としてでも良い提案を行わなければならない。
まず、キャスティング事務所のディレクターに会社に来てもらって、20代の、「競合他社と契約していない」女性タレント一覧を出してもらった。その中から更にキャスティングディレクターが「有望そう」と思うタレントの、ビデオ資料や写真資料をかき集めてもらう。そして毎日、それらをひたすら、見る。しかし、わ、分からない‥どの子もみんなかわいいし、どの子の演技力も同じくらい‥この中から、後になって伸びる子を探すなんて‥
それでも何人か、キャスティングディレクターが強く推すタレントさんには会社に来て頂き、面談のような・オーディションのようなことを行った。その中には、今は大きな女優さんになっている方も何人かいたけれど、そのときの私には、正直言って誰が一番伸びるのか、全く判断がつかないのだった。

一方、タレント・女優系の人材を探すと同時に、私たちがもう一つ進めている線があった。それは、ひたすらファッション誌やコスメ誌(VOCEなど)を見まくり、次に来るモデルを探すことだった。
えびちゃんこと海老原友里が一番分かりやすい例だと思うけど、今は、雑誌モデルから女の子の人気を一身に集めるスターが生まれて来ることが多い。“次の顔”を探すために、ファッション誌のチェックも欠かせなかった。
そして、来る日も来る日もOggi、sweet、JJ、Cancam、JILL、non-no、MORE、VOCE、美的などのページをめくり、これは?と思う子にはやはり会社に来て頂いてお話をする。或いはちょっとしたカメラテストをしたりもする。どの子もかわいいし、どの子も礼儀正しくていい子。でも、誰がスターになるかって言われると‥?全く見当がつかなかった。

      *

そんな日々を送りながら、何回かクライアントに「タレント提案」のミーティングを行った。
もちろん、タレントの提案は私一人でやる訳ではなく、クリエーティブディレクター、CMプランナー、ADと何回も話し合い、オーディションにも常に参加してもらって、チーム全体として提案する人を決める。
クライアントにプレゼンする前の事前ミーティングで、いつも「マヤちゃんはどう思う?」「誰が一番いいと思う?」と営業やクリエーティブディレクターに訊かれた。そして全く自信がないまま、「○×花子さんですかねえ」などと答えるしかない私だった。他のチームメンバーは次々と意見を出し、やがてそんな話し合いの中から、社として誰を推すかが決まるのだ。

‥しかし、私たちが提案したタレントやモデルは、なかなかクライアントの気に入らなかった。当時、めぼしいタレントは皆競合他社のCMに出演していたり、まだ出演はしていなくても裏でひそかに青田買い契約が結ばれていたりした。少し名前が知られている人の中から“次の顔”を選ぼうとすると、どうしても二番手・三番手クラスの人しか空いていない。クライアントが現在契約を結んでいる女優さんはかなり大きなクラスの人だったから格落ち感が否めず、「うーん」と二の足を踏まれてしまうのだった。かと言って、まだやっと人気が出て来たばかりの新顔で博打を打つのも怖い。それがクライアントの本音だった。
かくして、最初に「次のタレントを」の指示が出たときから延々2年。いつまでも“次の顔”は決まらなかった。その間、私は、来る日も来る日もタレント資料やモデル資料を見まくることになった。もちろん、ただぼんやりと見ていた訳ではない。何しろお金がかかっているのだから真剣勝負だ。築地魚市場で上物のネタを探す鮨屋さんのごとく、私は女子タレントや女子モデルに(分かりもしないのに)ひたすら目を光らせていたのだった。

‥すると、不思議なことが起こった。ある頃から急に、私の中に女性タレントを見る「目」が出来て来たのだ。何がその「目の」基準になっているのかは、自分でも分からなかった。でも、2年を過ぎる頃から雑誌のページをめくっていると、ふと「この子、光ってる」「このモデル、伸びるんじゃない?」と手が止まるようになった。何と言うか、ページの中で、その子だけが少し前に飛び出して見えるような、そんなかんじがするようになったのだ。
タレント事務所から送られて来る資料を見ているときもそうだった。ふと手が止まる。どの資料にも、カメラのレンズをしっかりと見つめている、売り出し中の女性タレントの写真が大量に添付されている。その中で、伸びそうな子の写真は、何かすぐ動き出しそうな、こちらに向かって何かを訴えかけているような、そんなかんじがただよっているのだ。「この子、大きくなりそう‥」気がつくと、そう呟くことが出来る自分がいた。

その頃から、それまでは業務上仕方なくやっていたこの仕事が、だんだんと面白くなり始めていた。チーム内で開くミーティングに参加するときにも、クライアントが好みそうなド真ん中タイプの子と、それとは全然違うけれど、この子ならこういう広告展開の仕方が出来ますよ、と説明出来るようなタイプの子を、何人か提案出来るようになっていた。チームのクリエーティブディレクターからも、「うん、面白い視点だね。クライアントに出す案にマヤちゃんの案を入れておこう」という言葉がかかる。今でも、初めてディレクターにそう言われたときのじわっと嬉しかった気持ちは忘れることが出来ない。
また、代理店の社員は、通常一つのクライアントしか担当しないということはあり得ず、私も、女性向け商品とは全く違う、食品系のクライアントのCMも担当していた。そしてそちらのキャンペーンで若い女性モデルを起用するという話が出たときも、「じゃあ、この人はどうでしょうか?」と、自分からどんどんプレゼンが出来るようになっていた。クリエーティブスタッフも頼りにしてくれて、「じゃあ、モデル案出しは全部任せるよ」と言ってくれる。これも私にはとても嬉しい出来事だった。
「いつの間にか私、あんなに苦手だった仕事が結構出来るようになっているじゃない???」
しかも、一番重要なことは、自分が「いいな」と感じたタレントやモデルが、その後少しすると確実に人気が上がるようになったことだ。
たとえば、女性モデルがたくさん出ている雑誌の中で、私が注目していた子が、数ヵ月後、「エリナの休日ファッション」といった題をつけて、ピンで数ページを任されている。読者からの反響も良いのだろうし、編集部の人も良いと思うからフィーチャーされるのだろう。
そう、以前はどの子が伸びるのか全く分からなかった私だったのに、いつの間にか、自分の中にそれを見抜くプロの目が育っていたのだ。そしてその「伸びる」と思ったモデルの中に、冒頭に書いたジェシカもいたという訳だった。

        *

‥長々と書いたこの経験から私が得た教訓はこうだ。
日本には、昔から「好きこそものの上手なれ」という諺がある。確かにその通りだとも思う。でも、好きではなくても、それどころかかなり不得意なことでも、毎日こつこつと作業を積み重ねていけば、どうやら或る程度の所までは行けるようだし、その面白さも分かるのではないか。それが私がそのときの実体験で得た教訓だ。

そう言えば、ピアノでもバレエでもお能でも書道でも、およそ芸事と名のつくものは何でも、とにかく繰り返し基本の型を練習させる。特に日本のお稽古事は、「最初から独創性など発揮出来ると思うな。まずは昔から伝えられて来た基本の型を、徹底的に身体にしみこませるべし」という考え方だと思う。
また、昔、中国に留学していたとき、同じ寮内にカンフー黒帯(とは言わないのかな?)の香港人男子学生がいて、その子に「お願い。カンフー教えて!師匠、お願いします!」と頼み込んで週1回レッスンを(むりやり)つけてもらったときも、結局ひたすら両手を交互に前に出すことしか教えてもらえなかった。
彼曰く、「3年間これをやり続ければ、基本は出来たことになる‥」、と。えーん、私はもっとかっこいい、くるっと腰を回転させながらその隙に腕をシュッと前に伸ばして相手を倒しちゃうような技が、(形だけでも)出来るようになりたいんだよーと思ったけれど、芸事でもスポーツでも、ひたすらバカになって基本の型や動作を繰り返さなければいけないことに何ら変わりはないのだろう。

もちろん、或る程度精進を積んでその基本を身につけた後には、また違った道のりがあるはずだ。そこから本物の第一人者になるためには、独創性が、自分の頭で考えることが、或いは生まれついての才能というものが求められる。これらのことはもしかしたら、いくら真面目に練習を積んでも身につけられるものではないのかも知れない。
それでも、私が卑近な例で書いた通り、全く得意ではないことでも、全く好きではないことでも、訓練を積んでいけば、或る程度の所までは行けるし、面白さもそれなりに分かって来るものなのだ。そしてそれがいつか別のことの飯のタネになったりもするだと思う。
だから、今、目の前の仕事や義務に気が進まず、悩んだり投げやりになっている人がいたら、とりあえず頭を真っ白にして、バカになって、自意識を捨てて、今やらなければいけないことを徹底的に、黙々と、丁寧にこなしていってほしいと思う。実は私が今日この日記を書こうと思ったのには理由があって、このところ、
「どうしても自分がやっている仕事に生きがいが感じられず、嫌々ふてくされながらやっているけれど、体中に発疹が出てもうどうしようもないんです。限界」
とか、
「夢見ていたことと現実に今目の前にある仕事とのギャップが激し過ぎて、ノイローゼに。現在休職中」
とか、そんな相談を受けたり、心の病気になって引きこもっている若い知人の噂を聞くことがとても多いのだ。

或る友人の説によれば、日本にこんなにもすぐポキッと折れてしまう弱々しい若者が増えたのは、SMAPのあの「世界に一つだけの花」の歌が原因なのだそうだ。「君だけの」「一つだけの花」が、誰にでももともと備わっていると思い込んで、自分探し・自分探しとわめき散らすんじゃねー!‥とその友人は息巻いていたけれど、確かにその説には一理あると思う。
二十代半ばそこそこの、自分では広いと思い込んでいるかも知れないけれど狭い狭い世界の中で、小さな人間関係の中だけで生きて来た人間に、本当の自分なんて、実際はまだない。ちょうど私がいくらたくさんの資料を見ても、どのタレントが伸びるかが分からなかったとき、タレントの可能性を見る「目」が育っていなかったのと同じように。自分探しをしている若い人は、目がないのに自分の目を探している、そんな存在なのではないだろうか?ないものを探したって見つかる訳がない。目は、バカバカしいくらいに単純な、基本的な型を、丁寧に、自分を無にして、繰り返し繰り返し行うことを通じてゆっくりと生まれ来るものなのだ。そしてそのとき、目は、探さなくてもそこにある。

だから、この日記を読んで下さっている若い方々、その中で、「今、つまずいてしまっている‥」と思い悩んでいる方には、まず、「上手く出来ない」とか「輝けない」とか「唯一無二の存在になれない」という自意識を捨ててほしいと思う。代わりに、「自分はまだ入門したてのウブな初心者なんだから、出来る訳ないじゃない」、という意識を持ってほしい。
そして、出来るようになるために、目の前にある仕事、それでお金を頂けている仕事を、バカバカしいくらいに真面目に、基本通りにしっかりとこなしていってほしいと思う。もちろん、1日や1カ月のことではなく、年単位でそれに精進してほしい。その後でやっと、目、らしきもの、自分らしきものが生まれて来る。悩むのはそこからであって、今はまだ悩む時期を履き違えているだけなのだということを理解してほしい。

     *

「ちょっと待って、悩むのはそこからって、自分が出来た後にまだ一体何を悩むと言うんですか?」と言われてしまうだろうか?でもそうなのだ。実は、自分を得たその先に続いている道は、意外にも、もっと険しい。或いは、とても温かい。
どういうことかと言うと、或る程度自分が出来てくれば、自ずから分かって来ることがある。それは一言で言えば、自分の分(ぶ)ということだ。
自分は本当に、この芸事の世界で唯一無二の、名人と言われるような存在になれる人間なのだろうか?自分にはその器があるのだろうか?或いは、自分はそもそも本当に唯一無二の存在になりたいのか?(そのような存在になるためにはこれまでの比ではない厳しい挑戦が待っている。しかもそれは一生死ぬまで続いていく。自分はそれに耐えられる人間なのか?)
それとも、そこそこの存在で良いから、或る程度面白さも分かって来たこの世界の中で、それなりに役目を果たしつつ、心安らかに人生を送って行くべきなのか?
或いは、何年か頑張ってそれなりにこちらの世界の面白さも分かって来たけれど、でも、やっぱり、ここではなくあちらが自分の世界だと、本当に、心の底から思うのか?そしてあちらの世界でまた一から、丁稚奉公をやれる覚悟があるのか?
そういう風に考えられるようになることが、本当に自分が出来て来たということではないだろうか。自分は、探すものではない。もともとどこかに今は目に見えないけれど確実に存在しているものでもない。自分とは、自ら作り、育てていくものなのだと私は思っている。

習うより慣れろ、或いは、見る前に飛べ、と言う。“自分”や“本当にやりたいこと”や“本当に自分に合うこと”‥そんなものはいくら探しても探しているだけでは見つからない。だから、まずは適当に妥協した方がいい、と、今悩んでいる人にはお伝えしたいと思う。生きて行くためのお金を頂ける場所で、お金を頂ける仕事を、5年から8年くらい、丁寧に、自意識を捨てて、バカになって真剣にやってほしい。「え?そんなに長く」と思うかも知れないけれど、人生はそんなに甘くない。そのくらいやって初めて、やっと自分は出来て来るものだという、厳しい認識を持ってほしい。全ては、習うより慣れろ、である。

       *

‥と、ジェシカの話から始まって今日の日記はかなり偉そうなことを書いてしまいましたが、この数年、あまりにも同じような悩み相談を若い方々から受けるので、まとめてどん!と回答してみました。
いつものこの日記を読んで下さっている方々の中の、今、つまずき中の皆さん、そして、たまたま何かの検索で引っ掛かってここのページに来て下さった方々の中の、今つまずき中の皆さん、あなたたちの全てに今日の日記を捧げます。

「宝くじに当たったら」 2010/03/24



「ねえねえ、もしも今1億円の宝くじに当たったら何に使う?」
というのは、ドライブ中とか飲み会既に4時間経過とか、残業夜の終わらない見積書を前に、同僚同士でつぶやく定番の話題。

私は、もしも1億円当たったら、一生大学に通って過ごしたい。
受けるのは、ダンゼン日本史学科。それも現代史を学びたい。大正デモクラシーから満州事変、二・二六事件、日中戦争、太平洋戦争へと続く暗い暗い日本人狂気の時代。
私は既に4年制大学を一度卒業してるから、3年からの学士入学でオーケーのはず。一生懸命勉強して目のさめるような素晴らしい卒論を書き、そのまま大学院に進む。もしも大学院の入試ではねられたら、何しろ1億円も持っているのだから、裏金を積んででも大学院に進みたい。それが私の夢。

         *

それからもう一つの夢は、北京・上海・香港の小ぶりのホテルの常連になること。それも、出来るだけ伝統的な中国建築の面影を残しているホテルがいい。ポーターに「いらっしゃいませ=歓迎過来」じゃなく、「おかえりなさい=您回来了」と言われる存在。1年のうち3分の1は、中国で暮らしたい。それが私のもう一つの夢。

もちろん、写真を撮るための様々な機材も好きなだけ買い集める。
広角から望遠までマミヤとハッセルのレンズを一式(ニコンはもう1式持ってるからいらない)。
照明道具の基本的なものを2セット。
フジの6×9も買いたいかな。
あと、色温度メーター(高いんだ、これが)。
撮影に行くときは車で家まで迎えに来て機材を全部積みこみ、終わったら家まで送り届けてくれる運転手のバイトさんを雇う(今は非力な体で全部一人で運んでいてもー死にそう!)。
それから写真を焼くときは、液の調合を全部やってくれるバイトさんにも来てもらう。(今は全部一人でやっていて面倒くささに憤死しそう)
ああ、こんな写真生活を送れたら、本当にどんなにストレスは少ないだろう。

それから、2年くらいは、日本美術史の講座にも併行して通いたい。その後は書道も習いたいし、造園の知識も身につけたい。ああ、そうそう、韓国語の勉強も!

‥‥でも、それくらいなのだ、1億円の使い道は。消費大好きなアラフォー世代らしくもなく、何だかやけにガリ勉なかんじ。若い頃は、「1億当たったら、5千万は洋服に使う」なんて言っていたものだけど、そんなすがすがしい博打は今はもう想像でも打てそうにない。

         *

さて、現実に戻ると、今日も私の前には山積みのライター仕事。せっせと立ち向かうけれど大したお金にはならず、時間ばかりが過ぎてゆく。
それでも、なけなしのお金をはたいて、昭和史の本を買い、レンズを買い、フィルムを買い‥。せっせと貯金をして、中国とも行ったり来たりをかなえたい。
mixi日記から引っ越して来たこちらのページで今日からそんな日常を綴っていくので、ゼヒご愛読下さい!