西端真矢

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気象病の友たちへ (2024/09/01 )
術後一年 (2024/06/25 )
あじさいの花再び咲く (2024/06/16 )
胸ときめきくバッグと和歌のこころと (2024/06/05 )
うさぎや閉店と変わる阿佐ヶ谷の街 (2024/05/22 )
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定期検査へ――癌サバイバーの日常 (2024/02/04 )
新年ご挨拶 (2024/01/09 )
一周忌 (2023/12/27 )
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初めの一歩~~子宮体がんロボット手術回復記 (2023/07/25 )
退院のご報告 (2023/07/06 )
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新年明けましておめでとうございます。 (2016/01/03 )
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一人お茶の稽古で心を静める午後 (2015/10/04 )
“大好きな有名人に身近に会える運”野宮真貴さん篇、10月9日きものサローネで!予告! (2015/09/27 )
雑誌のページが出来るまでの最初の作業を、休日に。 (2015/09/19 )
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冷やし干し柿で猛暑を乗り切り+浴衣で数時間娑婆に出た日 (2015/08/13 )
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喪の日のきものと、厳しかった大学時代恩師の思い出(コーディネイト写真付き) (2015/06/19 )
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郊外に住む幸せ‥吉祥寺、冬の午後の井の頭公園散歩 (2015/02/19 )
雪と水仙 (2015/01/30 )
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本を書くことになりました+その打ち合わせには結城縮み×博多の帯で (2014/09/17 )
プロフェッショナルとして文章を書くということ (2014/09/14 )
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最近の忙しさと、仕事についてのご報告~~気鋭の仕事人への連続インタビュー、始まりました! (2013/03/13 )
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友の訃報 (2012/04/10 )
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気象病の友たちへ 2024/09/01



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私のブログを読んでくださる方の中に、何人、気象病の方が何人いらっしゃるだろうか。
ジョギング並みというふざけた速度でいやがらせのようにいつまでも日本列島周辺をうろつく台風10号のせいで、不調この上ない日々を送られているのではないだろうか。
かく言う私も長年の気象病持ちで、症状の出方は人それぞれと言うが、最接近当日よりもその二日から一日前ほどが非常に苦しい。今回も、一昨日30日から不調が続いている。
       *
私の場合、始まりは、常に左肩からだ。
何か左肩がしくしくするような、筋肉痛に似たしびれのような感覚が続き、やがてそれが右肩にも広がり、「肩に板が入っている」状態に変わっていく。
下敷き。そう、下敷きが肩から背中にかけて入っている感覚。たまらない不快感に、「何とかしてこの板を取り除けないものか!」と様々な指圧グッズを正確にピンポイントでツボにぐうっと入れていく。気象病持ちはたいていふだんから肩こりだから、気に入りの指圧グッズを持っているし、自分のツボの位置も正確に把握している。しかしどうにもならない。
そのうちに痛みがやって来る。肩の輪郭線に沿ってところどころで、じんわりと痛みが起こる。傷もないのに痛む。考えてみればなかなかに深刻な疾患ではないだろうか。

そうこうしているうちに次の段階、頭痛が始まる。
こうなるともう椅子に座っていることがどうにも、だるい。「だるい」という言葉以外に表現のしようがない。そして気がつくと横になっている。ベッドやソファに、ではない。自分の今いる場所の床にそのまま寝てしまっている。もはや人間が床に落ちている状態である。「少しだけ、少しだけ、横になろう‥‥」と考えた記憶がいつもぼんやり残っているが、ほぼ生理反応的に横になってしまうようなのだ。
      *
‥‥と、大体ここまでが通常の台風、および梅雨時の症状で(梅雨も気象病の好発期だ)、なかなか大変な疾患なのだなと思って頂けたのではないかと思うが、前回、8月16日の台風では、更に吐き気、そして左耳後ろの血管の拍動まで起こり、最高レベルに達した。こうなるともう非常な恐怖をともなう。
決して初めてのことではない。それでも、毎回、「くも膜下‥‥?」という恐怖にとらわれてしまう。だって何しろ頭の後ろの血管がずきん、ずきん、ずきんと脈打つのが自分で分かるのだ。そして断続的に吐き気が襲って来る。
「救急車呼んだ方がいいかな‥‥」と思う。でも、「いや、待って、台風が来てるんだから、きっと気象病だろう。でも今回ばかりはくも膜下だったら‥‥?」
そんな無限ループの問いを繰り返す。そして相変わらず背中には下敷きが角張り続け、肩はじんじんとしびれ続けている。
これらすべてのことがただただ気圧の変化のために起こる!我々気象病患者とは大気という神の猛りを己の肉体に受けとめるシャーマンなのかも知れない。
        *
‥‥と、今現在も東海地方という、我が家のある東京から微妙に離れた地点に低気圧に変わってもまだ台風10号がぐずぐず居座り続けているせいで、肩、そして前回拍動した左後頭部に再びしびれの感覚が強く起こり、思いのたけをぶちまけてみた。

聞けば、ヨーロッパでは、気象病は広く社会に認知され、毎日の天気予報で「気象病注意報」を放送している国さえあると言う。一方、日本ではまだまだ理解は浅いだろう。
今はなき「ためしてガッテン」のおかげで(気象病回を画面にめり込みそうになりながら見た!)、多少認知は広がったものの、それでも、特に梅雨時にぐったりしていると、「たかが雨で寝込むぐうたら者」と白い目で見られがちだ。
この悲しい状況を打開すべく今回のポストを綴ってみたが、どうかたまたま健康な三半規管に生まれついた幸運な皆さん(気象病は三半規管の不全で起こる)、気象病患者に理解を!
これは精神ではどうにもならないのだ。何しろ我々は大気という途方もなく巨大な敵と戦っている。しかも連戦連敗で深く傷ついている。湯船につかる、車酔いの薬を飲むなど対策も言われているが、少なくとも私には効果は出ていない。
それでも何とか生きている。床に落ちながら。肩に下敷きを入れながら。気休めに気圧変化アプリをじっと眺めながら。台風の通過をひたすら祈り続けている。

術後一年 2024/06/25



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昨日は子宮体がん手術から一年目に行う精密検査の日だった。
胸から骨盤内まで、子宮がんが転移しやすい部位全体にべったりとCTを撮る。それもただのCTではなく、造影剤という液体を血管に流し込んだ上で撮る精度の高いもので、昨年2月、子宮に異常があると診断が出た日から手術前までに山ほど検査を受けて来たけれど、一つだけまだ受けたことのない検査だった。
今回で、ついに、エコー(超音波)、単純CT、MRI、PET CT、そして造影剤CT。がんにまつわる画像検査をすべてコンプリートしたことになる!‥‥ってもちろん、こんなことをコンプリートしたくはなかったのだけれど。

それにしても、こうして一年が過ぎ再び同じ季節を迎えると、やけに手術当日ことを思い出す。
もちろん、手術自体は麻酔で眠っている間に行われたから記憶はまったくないけれど、その麻酔が切れ、自分が独房のような小部屋に一人で寝ていることに気づいた時の、何とも言えない奇怪な感覚がよみがえるのだ。

そこは「ICU」と呼ばれる二畳ほどの小さな個室で、手術後の患者が一人ずつ個別に収容される部屋だった。
――と、今ではそう知っているけれど、術前にいちいち部屋のディテールの説明はないから、麻酔が切れるとただ自分がそこに置かれているという状況だった。
部屋には一切の装飾がなく、什器も、医療機器さえも備えつけられていなかった。つるりとしたクリーム色の壁と、狭い天井。それだけが目に見える情報だった。周りに人影もなく、一体ここはどこなのか。麻酔から目覚めたことを誰かに知らせたいと思ったけれど、起き上がろうとしても体はまったく動かない。指一ミリを持ち上げることさえ出来なかった。そして全身に管がつながれていた。
管はマスキングテープのようなもので貼り付けられているものもあったし、血管に刺してあるものもあった。それどころか腹の中から飛び出している管さえあったのだけれど、その瞬間にはそこまでは分からなかった。とにかく自分が無数の管につながれている。それだけのことが感じとれた。そして空っぽの部屋に一人で放り出されていた。

その時私はまるでカフカの小説に出て来る巨大な虫のようだった。
あるいは一尾だけ売れ残り、冷凍倉庫に放置された氷漬けの鮭。あるいは血なまぐさい作風で創作された現代美術作品の――フランシス・ベーコンあたりの――ただ中に、知らぬ間にオブジェとして、強制的に、私の肉体を、私の存在を使用されている‥‥
やがて〝火〟を感じた。火は私の腹の中にあった。腹の中が熱く、ちかちかして、まるで火が燃えているようなのだ。ぼうぼうと燃え盛る強い炎ではなかった。小さく、周期は短く、けれど鋭いナイフのような火がちろちろと腹の中で燃え続けている。目を閉じるとまぶたの裏が赤く染まっていった。

――そのような状態で、どれくらいそこにいたのか分からない。一分くらいのことだったのかも知れないし、一時間ほどの記憶が断片的に残っているのかも知れない。
実際には、私は放置されていたのではなかった。呼吸や脈拍はすべて少し離れたところにあるコントロールセンターでモニタリングされ、看護師さんが見回りに来ていた。
私が手術を受けた病院は都内でも最大級の病院の一つに数えられ、手術室は二十室近くもあり、朝、一斉に各科の手術が行われる。そして術後の患者たちはそれぞれこの独房めいた部屋に収容され、集中管理されているのだった。

実際には、部屋はまったく空という訳ではなかった。頭の後方に、体から出た管の何本かをつないだモニター機器のワゴンが置かれていて、私がそれに気づいていなかったのだ。
やがて看護師さんが二人、部屋に入って来た。モニターの数値を記録して、あれこれと問診を行い、そしていきなり私の体に油性マジックペンを向け、ぐーっと線を描いて来る。しかも何か所も。一体何てことをするのだろう。もちろん医療上の理由があってのことなのだけれど、そしてそれがなかなか面白い話なのでまた別の回で書きたいと思っているのだけれど、いきなり他人からマジックペンで体に落書きされることも、おそらく人生でそうは起こらないだろう。

とにかくそのようにして、私はそのカフカ的な、実存的な部屋を出て行くことになった。
腹の中で火はまだ燃え続けている。内臓が二つ切り取られ、リンパ管も切断されたのだから、血は止まったかも知れないけれど傷口はまだただれ脈打っている。それが火のように熱く感じられるのだ。それでもストレッチャーに横たえられたまま、私はからからとその部屋を出た。

     *

――そんな手術の日から、一年が過ぎた。幸い昨日の検査の結果は良好で、転移は見られないという。
これまで経過観察のために二ヶ月に一度通院しなければならなかったけれど、今後は三カ月に一度で大丈夫でしょう、と回数も減らせることになった。本当にありがたいことだと思う。

とは言え、日々の生活の上では、まだ完全回復とは言えない状態にある。
子宮と卵巣を取ったことで腹腔内での腸の位置が定まらず、特に食後に大きな不快感が出る。一、二時間、まったく何も出来ず、ただ座っているしかないこともままある。とても疲れやすく、二日続けて外出はしないように、出来れば二日は空けるように予定を調整して、静かに暮らしてもいる。
それでも、とにかく、一番恐ろしいこと、転移は免れているのだからもう十分だろう。あの何とも言えない奇怪な感覚を再び生きることは、出来れば回避したい。とにかく一年を生き延びたのだ。

(写真は、昨年、入院中に病室で撮ったもの。少しずつ減っていくが体にはあれこれ管がつながっていて、トイレに行く時などは一緒に移動する。お腹に差し込まれている一段太い赤い管、ドレーンは、退院前日にようやく抜かれた)

あじさいの花再び咲く 2024/06/16



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三年間、花をつけなかったあじさいが、今年また咲き始めた。
それも今までにないほど多くの花をつけて枝がしなり、土にこぼれそうなほどに。

もともとこのあじさいはとても元気な木で、人の顔ほどもある大きな花をつけたこともあったし、すっきりとした青の色が好みだから、毎年六月を楽しみにしていた。
それが三年前、不意に咲かなくなってしまった。若い小さなつぼみがちらほらあったのにそれ以上育たず、そのまま葉に埋もれて終わってしまった。
おととしと去年はそのつぼみさえつかず、がっかりと六月を見送るしかなかった。何が原因だったのか分からない。虫がついて葉を食い荒らされたわけでも、隣り合った木の日蔭になったわけでもない。土もいじっていなかった。

もちろん、植物にも寿命はある。
たとえば私が物心ついた時にはもう大木だった庭の二本のもみじの木の一本は、六年前に立ち枯れ始めた。家族の一人のような木だったから悲しかったけれど、倒れる危険性を考えれば切り倒すしかなかった。
けれどこのあじさいの場合は、葉は生き生きとしていて枚数も大きさも普通の年と変わらない。むしろとても健康そうに見えるのに、花だけがつかないのだ。そんな例を見たことがなかった。

そのあじさいが、今年、再び咲き始めた。
どうして今年は咲くことにしたのか、それもまったく分からない。周りの草花を抜いて栄養が行き渡るようにしたわけでもないし、むしろすぐ隣りの車輪梅の木が今年は狂い咲きと言うほどに咲いて、ああ、養分を吸い取られた、今年もまたダメかと案じていたくらいだったのに。

機嫌を直した、とでも言う他ないが、あるいは、あじさいはちょっと疲れていたのかも知れない。毎年毎年どうしてそう律義に花をつけなきゃいけないの?花をつけるって大変なのよ。私だって少し休みたい時もあるわよ。
そんな風にほっぺたをふくらませて言う声が聞こえて来る気がする。私もこの数年人生に大変なことばかりが続いたから、分からないでもないのだ。そう思って見ていると、あじさいの丸い花がどれもぷっとふくれた頬のように思えて来る。

とにかく、あじさいは再び咲き始めた。来年はまたご機嫌ななめかも知れないが、それでも構わない。気まぐれに咲いたり咲かなかったり。そんなわがままな木もかわいいではないか。


胸ときめきくバッグと和歌のこころと 2024/06/05



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三つ前の投稿で、手持ちの、太田垣蓮月の和歌の短冊をご紹介した。崩し字で書かれていて私には読めないため、分かる方がいらしたら教えてくださいと書いたところ、お友だちがすぐに読み下してくださった。
気になっていた方もいらっしゃると思うのでご紹介したいと思う。
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たび人のかつぐひとへのひのきがさ
うちぬくばかりふるあられかな

漢字にすると、

旅人の担ぐ一重の檜笠
打ち抜くばかり降るあられかな

信州の名産で、檜で作る「檜笠」という笠があるようで、その笠を打ち抜かんばかりにあられが降る情景を詠んだ、なかなかに激しさのある歌なのだった。
そう言えば、広重の「東海道五十三次」にまさに同じ画題があったことを思い出す。二人は同時代の人だから、無意識に、幕末という激動の時代の美意識を通底させていたのかも知れない。もちろん、蓮月が広重の浮世絵を見ていた可能性もある。
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さて、そんな、崩し字をすらすらと読み解いてしまう麗しき教養人に会いに行って来た。
観世あすかさん。
冒頭では話を進めるために〝お友だち〟と書いてみたが、私のような無学の者が友だちなどと名乗るのはおこがましく、知人の末席の末席におずおずと座らせて頂いている。あすかさんは日本の古典芸術全般に通じられた美術商で、同時に、「アトリエ花傳(かでん)」という一点もののバッグブランドを主宰されている。以前、私のブログでもご紹介したので覚えていらっしゃる方もいるだろうか。

その花傳のバッグにずっと憧れがあり、私も一つ持ちたいと願っていた。コロナ禍や自分の病気で延び延びになっていたけれど、ようやくアトリエにお邪魔出来るはこびとなり、生地など見せて頂きながらオーダーのご相談を、と思っていたら‥‥一目惚れの子に出会い、そのままお迎えするという疾風怒濤の展開が訪れたのだった!その子(と呼びたくなる)が、こちらの一点だ。
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今はもう織られていないというリヨン製の最上質のグログラン生地に、手芸作家下田直子さんのビーズレースが縫い留められているという贅沢。レースはココリコ(雛芥子)の花のモチーフで、可憐でありながらどこか凛と、強い。
この二つの最高の素材が焦げ茶×白という配色で並び立ち、更に、ハンドルと側面部分に藤色の布が当てられている‥‥という、この配色の飛躍に私は最も心をつかまれた。
もともと紫系統が好きで、その紫が、常識的な黒や白やピンク系の布ではなく、焦げ茶色にめあわされているところに激しく胸がときめくのだ。
更に降る雪のように白のレースが加わって、三色が拮抗している。美しいものを知り尽くしたあすかさんによる、色の飛躍の冒険に魅せられてしまった。
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中を開くと、内布には赤茶色の花模様の布が張られている。
こちらはフランスのトワルドジュイと呼ばれる生地で、ブルボン王朝に代々生地を納めてきた生地店「メゾン・シャールブルジェ」の制作だとのこと。マリー・アントワネットが小トリアノン離宮の装飾に好んで使用した生地と言われ、当時から続く伝統的な手法で作られているのだそう。

隅々まで美意識のみなぎった、「ル・ココリコ」と名づけられたこのバッグ。きものにも洋服にもふさわしく、頭の中でコーディネイト妄想が始まっている。依然としてぼんやりとした体調不良が続く毎日ではあるのだけれど、美しいものは人を元気にしてくれる、というよく言われる真実を改めて実感している。

うさぎや閉店と変わる阿佐ヶ谷の街 2024/05/22



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今週、阿佐ヶ谷の和菓子店うさぎやが閉店してしまった。
上野と日本橋にもまったく同名のうさぎやがあって、三店は親戚同士だけれど、阿佐ヶ谷店だけが閉店する。常にお客さんが絶えない人気店だったから、経営不振が理由ではなく、「店主高齢化のため」とのこと。跡継ぎがいらっしゃらないのだろうか。悲しくてたまらない。

私は一日一つ上生菓子を食べる上生菓子マニアで、好みも自分なりにうるさく、きんとんは吉祥寺の亀屋萬年堂(特に百合根きんとん)、黄身しぐれは青山の菊家、薯蕷饅頭はお茶の水のささま、こなしは大久保の源太‥‥などなど、どこの店の何、というところまで細かく決まっている。
その中で、阿佐ヶ谷のうさぎやは練切の店だった。ここの練切が東京で一番好きだったから、はかり知れない打撃を受けている。
   
最後にうさぎやの練切を食べたのは3月28日だった。
桜の形の練切で、こし餡であることも私の好み通りだ。我が家からうさぎやまでは中央線で三駅。いつも電話で取り置きしてから買いに行くが、その日は「上生菓子は、桜の練切一種類しかないのですが、よろしいですか」と言われ、少し変だなとは思った。うさぎやには常に雪片や薯蕷饅頭など数種類の上生菓子が並んでいるのに。そうか、この季節は桜の注文が大量に入るから、それしか作らないのね‥‥と勝手に決め込んでしまって、その時に、どうしてですかと質問していれば、閉店のことを教えてもらえたのかも知れないと思うと悔しくなる。

それから十日ほど後、フェイスブックで偶然うさぎや閉店のニースを知った。何とかあと二回でも三回でも、この世から消えてしまう前にあの練切を食べておきたい。ゴールデンウィークは混むだろうと予想して、4月15日週の平日の朝、いつも通りまず電話をかけると、自動音声の回答で「すべての予約は締め切りました。直接のご来店のみお受けしています」という。
それで、とにかく店に向かったが、長蛇の列が出来ていた。あまりの人出のため警備員さんを雇ったらしく、店とは何のゆかりもない警備保障会社の制服を着た、お菓子のことには詳しくなさそうな中年の警備員さんが汗水たらして行列の監督をしていた。ああ、こんなにもうさぎやは愛されているのだ、と呆然と列に並ぶしかなかった。

けれど、悲しいことに、その日、練切は買えなかった。
うさぎやは何と言ってもどら焼きが一番の人気商品だ。店としては、「最後にどら焼きを食べたいんです!!!」という人々の切実な思いに答えるために、とにかくどら焼きを大量に作らなければならない。上生菓子は作るのに時間がかかるため、職人にもう余裕がないんです‥‥と、ようやく三十分ほど並んで店に入った時に教えてもらった。
それでも気を取り直して、せめてうさぎ饅頭を買って帰ろうと思った。これは二番目に人気のお菓子で、うさぎの形をした何とも言えずかわいい薯蕷饅頭だ。母の好物で、私も好きだからよく二人でおやつに食べていた。けれどそれさえももう売り切れだという。私は半べそ顔になり、唯一買えた鹿子を買ってすごすごと帰宅するしかなかった。
       *
それでも、もう一度、ゴールデンウィーク明けにうさぎやに行った。
もう練切を食べられないことは仕方がない。せめて最後にうさぎ饅頭を買って母の遺影に供え、空の上の母と美味しいねとお喋りして食べたいと思った。
日にちはもちろん平日を狙った。休日はもう到底無理に違いないけれど、平日ならきっとまた三十分ほども並べば買えるだろう‥‥駅から早足で商店街に入ると、店の前には誰も並んでいなかった。ああ、良かった。人波のピークは過ぎたのだ、と胸をなでおろした時、横からあの警備員さんが現れた。
「皆さんに、あちらの公園に並んで頂いています」と言う。「二時間ほどかかると思います」
それで、もう、あきらめて家に帰るしかなかった。二時間並んでうさぎ饅頭が買えるのならいいけれど、売り切れてしまうかも知れない。しかも今、あまり体調がすぐれず無理も出来ない。何もかも、見通しが甘過ぎた自分が悪いのだ‥‥
      *
実は、うさぎやに行くと、いつも帰りには商店街の先の河北病院に寄っていた。母が肺がんの化学療法と、また、もう一つの持病の治療のために通っていた病院だった。2017 年からは認知症が始まり、予約手続きや薬の受け取りを失敗するようになったために、毎月、私が付き添って通っていた。
やがて2021年には母は寝たきりになり、それからは介護タクシーをチャーターして、私は車椅子を押して毎月各科やら検査室やらを必死で回ることになった。廊下の曲がり角一つ一つに、介護の思い出がびっしりと詰まっている。
それなのに、あれほどつらく悲しい日々だったのに、院内を歩いているとまだ母と一緒にいるような気がして、車椅子を押して一緒に歩いているように思えて、いつも用もないのにしばらくぶらぶらと、うさぎやの袋を下げて歩き回ってしまうのだ。
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けれど、その3月28日に訪ねた時、近くの広大な空き地に巨大なクレーンが建っていた。掲示板を見ると「河北病院新院建設工事」と書かれている。
これまでは、三つの病棟が時代を追ってばらばらに建てられ、それらを渡り廊下でつないだ複雑きわまりない構造の、そしてだいぶ古びた病院だった。けれどどうやらぴかぴかの高層インテリジェントビル病院に生まれ変わるらしい。患者さんや、その患者さんに付き添う家族のためには、もちろんその方が良いに決まっているのだけれど‥‥

うさぎやも閉店して、河北も新しくなって、もう、阿佐ヶ谷にママの思い出は何もなくなってしまう。そう思うとたまらなく悲しくなった。
もちろん、街も変わるし、人も変わっていく。この世界に変わらないものなんて何もない、と鴨長明の昔から言われているしそんなことは知っていたけれど、知っていたことと実際に感じることとは違うのだ。もう阿佐ヶ谷なんて来ないよ、と意味不明にやさぐれてその日は駅まで歩き、それでも、最後にもう一度食べたいと二度までも足を運んだのにうさぎ饅頭さえ食べられないまま、私と阿佐ヶ谷の縁は切れようとしているのだった。
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上の写真は、2年前の2月に、うさぎやさんの春の初めの季節の定番、うぐいすの練切を撮ったもの。おそらくほんのりと抹茶を練り込んでいて美味しく、梅の模様の薩摩焼の茶碗とともに頂くのが毎年の楽しみだった。
そして、冒頭の写真は、最後に桜の練切を買った、今年3月28日のウィンドウ。
桜の練切とうさぎ饅頭が飾られていて、今となれば何だか私の恨みの結晶のような一枚になってしまったのだけれど、やはり撮っておいて良かったと思う。
人生の他の数々の思い出と同じように、本当に美味しかった食べもののその味の記憶は、一生、胸に残ると思う。そして柔らかくあたたかな春の霧のように、ゆっくりと口中によみがえって来る。
うさぎやさん、ありがとう。長い間、杉並と、その周りの地域に住む私たちの毎日に、小さな、けれど生きる支えとなる楽しみを運んでくれた。長い間、本当にお疲れ様でした。ありがとう。

花と歌と猫と映画、生存報告 2024/05/14



しばらくSNSから遠ざかっていたので、生存報告を。
特に何か理由があった訳ではなく、仕事の原稿が重なると更に文章を書くのは脳がさすがに疲れてしまう‥‥というただそれだけのことで、若干の体調不調はあるものの元気にしているので、ご安心ください。
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基本は家にいて、原稿を書いたり、構成を考えたり。
上の写真は、少し前に庭の白山吹が満開になったので、床の間に生けたもの。
白山吹はとても好きな花の一つで、敢えて同じ白磁の花器に生けてみた。
北海道で作陶されている高橋里美さんの手になるもので、中肉中背ほどの白磁の花器がほしいな、でもお高いし‥‥と思っていたら、たまたまお茶に入った青山Maduで見つけ、しかもびっくりするほどお安く、即決で購入した。
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後ろのお軸は、絵更紗の大変しゃれた短冊掛けで、父方の祖父の遺品の中にあった。「と志子描」と箱書きがあり、祖父は大学教授で女性のお弟子さんも多かったので、そのどなたかが贈ってくださったものではないかと思う。
そのお軸に、太田垣蓮月の短冊を掛けた。コロナ禍中に気がくさくさしていた時に、古書店のサイトから購入したもので、「あられ」と題された歌が書かれている。崩し字が読めないため、実は内容は分かっていないのだけれど、「あられを詠んだ歌って、何だかいいな」と、ただそれだけで購入した。女性の手になるお軸に、女性の文字を掛けたいという思いもあった。
読める方、ぜひ読み下しをお願い致します!
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少し前に皮膚がんの手術で左前脚の指を一本切除した猫のチャミは、その後は元気いっぱいに暮らしている。私を追い越して階段を駆け上ったり、棚から棚へ大ジャンプをしたり。今思えば、がんが進行していた頃は、やはり指が痛かったのだろう、動きがおとなしかった。何だか若返ったようで、嬉しくて涙ぐんでしまう。
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上の二枚の写真は、仕事をしている私の机の下で寝ているところと、おもちゃで遊びながら寝てしまったところ。食欲もものすごく、がんで痩せたのにかなりリバウンドしている‥‥
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一本、中国映画も観た。最も愛する俳優、トニー・レオン主演の「無名」。
日本軍、汪兆銘政府、共産党、それぞれのスパイがうごめく1940年代上海の汪兆銘政権内部を描いた作品で、つまりはアン・リー監督の「色、戒(ラスト・コーション)」とまったく同じ題材を扱っている。実はこの汪兆銘政権で私の母方の曾祖父が経済顧問を務めていた(日本政府から派遣された)。個人的に長く関心を持ち続けている時代だ。

「ラスト、コーション」の公開時、汪兆銘政権という、中国人にとっては政治的に非常に微妙な題材を扱っていたためか、主演の湯唯(タン・ウェイ)が数年にわたり謹慎状態に置かれるという事件があった。しかし、もう一人の主演俳優であるトニー・レオンは変わらず活躍が続き、不可解とも言われていた。
その同じテーマを描く作品に再びトニーが出演するのは政治的にかなり冒険ではないか、と心配して足を運んだが、うすうす予想していた通り、結局、勝つのは栄光の共産党!という方向でまとめられていた。まあ、実際勝ったのだけれど、今の中国の検閲体制ではこう描くしかないのだろう。

そんな中で、トニーの演技は、相変わらず化け物のように素晴らしい。
特に、冒頭、共産党からの寝返り者を尋問する場面。相手を安心させようと温厚な態度を装う汪兆銘政権幹部、という難シチュエーションを神業的演技で表現している。この一場面だけでも代金を払う価値がある。
映画自体は、冒頭に述べたように、日本軍、汪兆銘政府、共産党、三者のスパイがそれぞれ自分の立場を隠して駆け引きを繰り広げ、誰が裏切り者なのか二転三転して分からないところに面白さがある。日本で言う〝考察〟系の作品に当たる。
ただ、その謎の提出のし方が、時間軸をばらばらにした編集で観る側を煙に巻く手法に頼っているところもあり、つまるところは娯楽映画。人間性の深淵を描き出した「ラスト、コーション」には遠く及ばない。けれど、娯楽映画としては上質の作品だと思う。他の俳優たちの演技も素晴らしかった。
それにしても、トニーが暗い顔をして執務室に座っていると、どうしても「ラスト、コーション」の易(イー)に見えてしまい、頭が混乱してしまう一本でもあった笑。
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時には人生から小さな贈りものも届く。
SHIPSの顧客向けキャンペーンに当選し、バッグが届いた。ケリーバッグのデザインをナイロン素材で作ったもので、とてもハンサム。デニムやだぶっとしたワンピなど、自分の好きなスタイルに合いそうで嬉しい。
SHIPSには、井の頭公園の手前に店舗があった時代からずっと通って来た。一年に一、二枚買う程度だけど、時にはこんなお返しももらえるのだ。
‥‥という訳で、変わらず低め安定(?)に生きている。また思い出したように更新するので、時々生存確認に来て頂けますよう。

母を偲ぶ会(二)記念の品 2024/03/28



母を偲ぶ会では、参加くださった皆様に記念の品を差し上げた。
一つは大倉陶園の小皿で、もう一つは、特別に誂えた上生菓子。
どちらも母を思い出して頂くよすがとなるよう、母にちなんだ意匠のものを準備した。
元来、私は、何かしらの会の趣旨に添って記念品を準備する、という行為が好きだ。それはおそらくそこに〝ストーリーを考える〟という要素があるからなのだと思う。今回のストーリーを見て頂けたらと思う。  
   *
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小皿は、大倉陶園の定番模様の一つである「プチ・ローズ」シリーズから択んだ。直径15センチほどで、チョコレートなどの小さなお菓子や、食事で使うのなら、オードブルなど小さなおつまみを載せるのに適していると思う。女性の方だったらアクセサリー置きにするのも良いかも知れないと思って択んだ。こちらを二枚組にして差し上げた。
プチ・ローズを択んだのは、母が、この柄のモーニングカップで毎朝ミルクコーヒーを飲んでいたからだ。上の写真の右側に写っているのがそのカップで、二十年近く使っていたから、よく見るとカップの縁にほどこされていた金が剥げてしまっている。
左側の、今回用意したお皿には、もちろん金がきれいに載っている。この日の会に参加頂いた方々は特に母と親しかった方ばかりで、お酒好きの方も甘いもの好きの方もいらっしゃるから、時々母を思い出して使って頂けたらいいなと思っている。
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ところで、このお皿を、今回は日本橋の三越で発注したのだけれど、ちょっと感動したことがあった。
店員の方に会の趣旨を説明すると、「では、包装紙は青色のもの、お持ち帰り用の紙袋も黒一色のものに致しましょう」と提案頂いたのだ。
三越の包み紙と言えば、ピンクがかった強いレッドの、水玉のような気泡のような抽象模様が紙いっぱいに飛び跳ねているあのデザインが思い浮かぶ。日本人なら誰でも目にしたことがある包装紙だろう。その青色版があるということを、今回初めて知った。慶弔の弔の用途の品を包む時のために、静かな青色バージョンがちゃんと用意されているのだ。
それは、平成になって登場した森口邦彦デザインの紙袋も同様で、本来は規則的に点在する赤の四角模様が黒で表現され、全体がモノトーンとなっている。いかにも日本人らしい、老舗のこんな心配りにはぐっと来てしまう。
    *
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そして、もう一つの記念の品の和菓子は、この数年大変親しくしている、地元吉祥寺の茶の湯菓子店「亀屋萬年堂」さんで誂えた。
〝茶の湯菓子店〟とは、文字通り、茶席の菓子だけを専門に作る菓子店のことで、店舗は持たず、茶会の亭主の相談を受け、会の趣旨に沿ったその日一日のためだけの菓子を作る。当日茶会の水屋まで届けてくれるのだ。
亀屋さんは、ルーツは京都で、明治維新とともに東京へやって来た。飯田橋と銀座にもまったく同じ名の亀屋萬年堂という店があるが、東京移転以後に分かれた親戚だとのこと。このような筋目正しいお店が地元にあるのは何てありがたいことだろう!今回のお菓子も、ぜひとも亀屋さんで誂えたいと思ったのだ。
    *
出来上がったお菓子は、二つ。素晴らしい意匠に作って頂き、食べるのが惜しいくらいだった。
まず、右の練切は、黒い薔薇の花をかたどったもの。
母の結婚二年目の年、吉祥寺の今の家を建てた時、遠縁の大叔母がお祝いにと黒薔薇の苗をプレゼントしてくれた。その苗をフェンスにからませて育て、母は自分の花と見なしてとても大切にしていた。大好きだった宝塚の機関誌に劇評を投稿する時のペンネームも「黒薔薇」だった。
だから、和菓子にしてはなかなか異例の意匠ではあるけれど、どうしても黒薔薇の練切にしたくて、おそるおそるご主人の長野祐治さんに相談してみた。快く引き受けてくださって、上生菓子作りの担当は長男の貴弘さんだから、現代の感覚もどこかにただよわせながら、品格高く、美しく仕上げてくださった。お味もこくがありつつも控えめな甘さで、本当に、すべてが素晴らしい出来栄え。大変大変嬉しかった。

もう一つ、左の薯蕷饅頭には、蝶の焼き型を押して頂いた。日本には古くから蝶を死者の使いとみなす考え方があるから、大事にしていた黒薔薇の傍らに母がやって来た‥‥というストーリーをつむいでみたのだ。
プチ・ローズのゆかりとも合わせ、そんなことをつらつらとまとめたお手紙もお付けして、会の最後に、皆様にお渡しした。皆様のためにお作りしたものだけれど、その準備の過程を私が一番楽しんだと思う。なかなかいいじゃない、これなら私の面目も立ったわ、と空の上で母が言っていてくれているならいいなと思う。美しいものが大好きな母だったから。

母を偲ぶ会(一)会を終えて 2024/03/20



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先々週の日曜日、美術史学界の、特に母と親しかった友人の皆さんが偲ぶ会を開いてくださり、私が家族代表で出席した。
場所は母の気に入りの店の一つだった吉祥寺の聘珍楼で、私は、母が十年ほど前に一目惚れで購入した紬訪問着を着て参加した(きものの詳細は、後日、別の回のブログにて)。

発起人は、東京学芸大学名誉教授で現在は遠山記念館館長の鈴木廣之さんと、母が生前奉職した三井記念美術館主任学芸員の清水実さん。
実践女子大学名誉教授で秋田県立近代美術館館長の仲町啓子さん、国立西洋美術館前館長の馬渕明子さん、先ごろ静嘉堂美術館の新館長に就任されたばかりの安村敏信さん、学習院大学名誉教授の佐野みどりさん、実践女子大学教授の宮崎法子さん、美術ライターの州之内啓子さん、東京国立博物館元研究員の田沢裕賀さん、十文字学園大学教授の樋口一貴さん、清泉女子大学教授の佐々木守俊さんがお集まりくださった。
皆さん、本当は「先生」と呼ばなければならない学界の重鎮や気鋭の研究者の方々ばかりだけれど、私は幼い頃から親しく接して育ったので「さん」で呼んでいる。
     *
さて、当日は、皆さん、母と本当に親しかった方ばかりなので、温かい、気のおけない会になって、それが何とも言えず嬉しかった。
宮崎さんと佐野さん曰く、
「一緒に旅行すると、周子さんはトランクからとにかく荷物をぜーんぶ出しちゃって」
「そうそう。それを部屋中のあちこちの引き出しに分けてしまうのね」
などといった、友だちならではのエピソードがあれこれ語られたり、母はとにかく滅法お酒に強かったため、酒豪伝説エピソードも数々飛び出した。
とある偉い先生が母につぶされ、転んだか何かして眼鏡が壊れてしまった話、論客として有名な若手研究者(当時)が母との飲み比べに挑戦したものの破れ去ったエピソードなどなど‥‥
皆さんが口を揃えておっしゃるのが、「天真爛漫な人だった」‥‥本当に、娘の私から見ても、人を出し抜いたり裏をかこうといったことを思いつきもしない、正直一本槍の母だった。そのために資料の獲得などで損をした面もあったかも知れないけれど、誰からも好かれ、「周子さんといるととにかく楽しかった!」と振り返ってもらえるのだから、やはり良い人生だったのだと思う。
    * 
私からは、会場に、少女時代から始まる母の珠玉の(と私が思う)写真を集めたアルバムを持参した。
たまたま仕事の締め切りと重なったために最後は徹夜で写真を選び、更にカードにキャプションを書いて写真の下に添え、朝、鳥の声を聞きながらもはや頭は朦朧としていたけれど、皆さんに大変好評だったので、頑張った甲斐があった。
下の写真はその第一ページ目。キャプションは、「小原周子、十五歳。初々しい、少女時代の姿です」‥‥
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    *
そして、母の死から一年あまりという時期に行われたこの会が終わり、今、どこか虚脱状態に陥っている自分がいる。
そもそも母はとにかく人と集うことが好きな人だったから、本当はお葬式をするべきだった。
けれど四年間、私のすべてを捧げてかなりかなり壮絶な介護を続け、それが突然に終わってしまった空白の中で洩れることなく友人知人の方々に連絡をして葬儀を準備し、当日はご参列頂きありがとうございました、ありがとうございましたと頭を下げ続ける気力が、あの時、私の中に一滴も残っていなかった。
もちろん、当時はまだコロナ禍も完全に収束していなかったから、うちのお葬式から感染者を出すようなことがあってはいけないという考えもあって、それで密葬にしようと父と決めたのだけれど、これで良かったのかという思いはずっと胸に引っかかっていた。
社交的だった母のことを考えれば、あまりにも寂し過ぎたから。

だから、鈴木さんと清水さんが話し合って下さり、会を持ちたいと申し出て下さった時、本当に嬉しかった。
実は私は二月の頭ほどから手術の後遺症が出て体調がすぐれず、けれど、どうしてもどうしても偲ぶ会に出るんだ!という思いで(家族代表の私が出席しなければ会は流れてしまう)、食事をコントロールし、重いものは一切持たず、長い時間も歩かず、とにかく体調に気をつけて気をつけて過ごしていた。そしてアルバムを作り、出席頂く皆様へどんな記念品をお渡ししようかとあれこれ知恵を絞って準備を進めていた(記念品については、後日のブログで)。華やかな、楽しいことが好きだった母のために最後に私が出来ることだった。
      *
だから、今、会が終わり、もう一度母を亡くしてしまったようなむなしさの中にいる。
もう本当に私の介護は終わり、もっともっと母のために何かをしてあげたいけれど、出来ることはもう何もないのだ、と、夜、一人で部屋にいる時など、しみじみと悲しくなる。
けれど、一方で、今回皆様に集まって頂いたことで、どこかほのかな明るさが胸に宿ったことも感じている。それはやはり、母が本当に盟友と思っていた皆様にとても楽しく送り出してもらえた、そのことを実感したからだと思う。

人が一人亡くなった時、家族がその代理人のようになって、お悔やみを受け、生前はありがとうございましたなどと言う。それが昔から変わらない世の中の常だが、私はこの一年あまり、どこかおこがましさを感じていた。
何故ならば人は家族の中だけで生きている訳ではないし、家族だけのものでもないと思うからだ。家族にだからこそ言えないこともあるし、仕事や趣味の仲間とは、同じフィールドにいる者同士だけが分かち合える達成感や苦心がある。世の中には家族がすべてという人もいるかも知れないが、別にそれが最高の幸せである訳でもない、と私は思っている。人は本来もっと多面的な可能性を持つ存在だと思う。
だから、心から母を愛した私だけれど、今回、盟友だった方々がわいわいと母を振り返っている姿を見て、深く安堵する思いがあった。四年間、認知症という特殊な状況だったためにやむなく私が母を独占して来たけれど、やっと本来の母に戻って、仲間たちと陽気に楽しみ、そしてお別れをした。そんな気がしたのだ。
これでようやく母は本当に旅立って行った気がする。もう一度母に会いたい。どうして母はここにいないのだろう。その思いは変わらないけれど、これからは私も自分の人生を再び構築していかなければいけないのだ、と思い始めている。母のために出来ることは、もう本当に何もない。むなしさと不思議なすがすがしさがそこには同時に満ちている。


定期検査へ――癌サバイバーの日常 2024/02/04



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あっと言う間に今年ももうひと月が過ぎてしまった。今週は、子宮体癌手術後、2カ月に一度の定期検査があった。再発がないか、転移がないか、言ってみれば2カ月に一度の〝天からのテスト〟のようなものだ。癌サバイバーは皆このテストを受けている。

定期検査の日は、いつもより少し早く起きて杏林大学病院に向かう。着いたらまず地下の採血室へ直行する、という手順もすっかり身についてしまった。
採血室は常に野戦病院のように混んでいて、中に入るためだけに15分以上並ぶこともあるのだけれど、何故か今回は奇跡的にすいていた。半信半疑で入口の整理係の人を振り返り振り返りしながら中へ進む(ちょっと、まだ中に入れませんよ、と怒られないか心配なのだ)。
しかしすいているとは言え30人待ちほどではあるので、長椅子に座り、自分の番号が来たらスムーズに採血してもらえるよう、コートを脱いで待機する。目の前の採血ブースで、中に入ってからあわててコートを脱いでいる人を眺め、
「素人さんか‥‥」
と、ふっと笑みがもれてしまうベテランなのである。
     *
さて、無事採血が終わると、3階の婦人科へ上がる。今採血した血液の検査結果が出るまで1~2時間かかり、それまでは呼ばれないことももう承知しているから、受付に名前を通したらゆったりトイレに行ったり、自動販売機で飲み物を択んだり、持ち込んだ文庫本を読んだりする。ここでの過ごし方ももう板について来た。

時々本から目を上げ、通路を行き来する人を眺める。
3階には整形外科や麻酔科(手術前に必ず麻酔科でレクを受ける)などもあるから、多くの人が行き来している。中でも私が目を留めてしまうのは、老齢の親と付き添いの中年の娘、或いは息子という二人組だ。たいていは親が車椅子に乗っていて、子がそれを押している。親の表情がぼんやりしていればおそらく認知症を患っている方だろう。そしてそういう二人組を見ていると、不意に泣いてしまいそうになる。2年前の私の姿だからだ。
もちろん、彼らは、私が泣きそうになっていることになど気づかな。その理由も私には分かる。周りを見ている余裕なんてないからだ。両手を開けておくために斜め掛けのバッグを下げ、中には親の診療カード、保険証、介護保険症、介護タクシーの電話番号カード、自分の分のペットボトルと親の分のペットボトル、万が一のための替えオムツ‥‥などなどがぎっしりと詰め込まれている。
人にぶつからないように慎重に車椅子を押して、突然医師からあそこへ行けと指示された「何とか室」を必死で探して前に前に通路を進んでいるその人の背中に、頑張ってね、とエールを送る。もちろん声は出さずに。
     *
やがて診察室に呼ばれ、まず、この2カ月間の体調を先生に報告する。左腿のつけ根の腫れぼったい感覚が、最近は消えたこと。でも右のつけ根にはまだ残っていること。出血やおりものはないこと。重いものを持つと右の傷口の奥の方が痛むこと。かたかたと先生がPC上のカルテに打ち込んでいく。
お正月にきものを着たら、胃なのか腸なのか、腰紐で圧迫されたせいかとてつもなく不調になってしまったことも話したが、子宮・卵巣摘出との因果関係は考えられないと言われ、がっかりしする。原因が分からないと対策の立てようがないが、これは私には大問題なので、着付け方法を変えるなど、様々に試して様子を見ていこうと思っている。
その後、例の婦人科の自動大股開き椅子に座り、触診とエコー検査を受ける。内部に腫れはなく、手術痕にも化膿などの異常はないとのこと。いつものようにその場で教えて頂く。そして小刀状の器具で、わずかに膣内部の組織を削り取る。しくっとした、ごくかすかな痛み。この組織が細胞診検査に回される。
     *
再び先生の席に戻り、2ケ月前に採った細胞診の結果を見せてもらう。ここが今日の診察のハイライトだ。異常なし。今のところ再発はない。続けて今日の血液検査の結果票も広げられ、転移がある場合異常が出ることが多い幾つかの項目がすべて正常値だと説明を受ける。
そう、今回の天のテストは通過したのだ。
     *
2ケ月後の予約を取って、病院を後にした。体調がいい時はバスに、疲れている時はタクシーに乗る。車窓に井の頭公園が見えて来ると「帰って来た」と思う。まるで旅から帰って来た時のように。
それからスコーンを食べに行く。定期検査の後は吉祥寺で何か好きなものを食べて帰ることに決めていて、今回は公園入口の紅茶専門店に寄った。出来たての、ほくほくのスコーン。文庫本の続きをゆっくりと読んで、日常が帰って来る。とにかくあと2ケ月は命が延びたのだ。公園の池の水面が冬の空気に澄みわたっている。
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新年ご挨拶 2024/01/09



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大変遅くなってしまいましたが、皆様、新年明けましておめでとうございます。
今年は年頭からつらいニュースが続きますが、被災地以外の場所にいる人間に今出来ることは、寄付。うんじゃらかんじゃらきれいな言葉を並べるヒマがあったら、現金。そう感じています。
もちろん自分の生活に見合った金額で良い訳で、私も微力ではありますが寄付を行おうと思います。そしてもう少し経ったら、能登や周辺地域の特産物を購入したい。美しいもの、美味しいものがいっぱいありますものね。世界に冠たる地震国の我が国は、明日は我が身。こうやって助け合っていくしかないことをまたしみじみと感じる新年となりました。

私事では、昨年は、母を見送った悲しみから立ち直る間もなく、年頭少し後から体調不良が続き、春から初夏にかけて検査、検査の不安な日々を過ごしました。
最終的に子宮体がんが見つかり、6月終わりに手術。歩くのにも苦労するところから少しずつ回復していく‥‥という、ひたすら自分の体と向き合う一年となりました。
現在はだいぶ元気になっていて、一例を挙げれば、12月のはじめに仕事の原稿が〆切目前でどうしても気に入らず、2日間ほとんど眠らず書き直しをしたのですが、特に疲労が残ることなくふだん通りに過ごすことが出来ました。
実はその2ヶ月ほど前の秋の初め、やはり〆切目前で原稿が気に入らず一晩徹夜をした時はとてつもなく疲れてしまい、2日ほどふらふら過ごしたことを思えば、急速に体力が回復しているように思います。

とは言え、ロボット手術のメス跡である五カ所の手術痕周りの皮膚、そしてその深部には、今も姿勢によっては強く痛みが走り、無理は出来ません。早足も小走りも出来るようになりましたが、長く走るのは到底不可能だと感じます。重いものもまだ長時間は持つことが出来ません。
このように体力が回復途上にあるため、今年は大きな目標は立てず、その時その時出来る範囲のことを確実にこなしていこうと思っています。どうか皆様も引き続きお手柔らかにお願い致します。

写真は、7日に東京国立博物館へ、生け花の師である真生流家元 山根由美先生と副家元の奈津子先生のお作を拝見に伺った時のもの。清新で凛としたお花に触れ、また、由美先生と写真を撮って頂き楽しくお話もさせて頂き、何とも楽しい時間となりました。
実は術後初めてのきものでの外出でウキウキだったのですが、この少し後、帰宅途中で絶不調となってしまい‥‥その話は次回に書きたいと思いますが、やはりまだ回復途上。ゆっくりゆっくりと進んで行かなければいけないと実感しています。どうぞ皆様本年もよろしくお願い致します。

一周忌 2023/12/27



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少し前のことになるが、十月半ばに母の一周忌を迎えた。
その日は何も予定を入れず、近所に買い物にさえ出かけず、家で猫と静かに過ごした。毎年この時期は我が家の庭には咲いている花がなく、唯一、芙蓉の木が花をつけているのだけれど、今年も同じようにたくさんの花をつけていて、見ていると、亡くなった日のまだこれは夢なのではないかと信じたい気持ちと、もう本当に終わってしまったのだとあきらめ認めている気持ちと、そのどちらもがない交ぜになった、混乱したあの日の自分が再び帰って来たようだった。

一年が過ぎて、悲しみが薄らいだかと言えばそのようなことはなく、何かスープなどを煮詰めていくとおりがたまる、そのおりの中に閉じ込められて毎日を生きているように感じる。
私の場合は特に母が認知症になってしまったことが何よりもつらかったから、その苦しさがいつも悲しみの中枢にある。
どうしてなんだろう?どうしてママが認知症にならなきゃいけなかったのだろう?――もちろんそんなことを考えてもどうしようもないことは理解しているのだけれど、それでもまた同じことを考え思考が堂々めぐりする。生きるということは、きれいに割り切れることだけで成り立っている訳ではなく、割り切れないことを割り切れるとこじつける偽善が私は何より嫌いだから、ただ、その悲しみをじっと感じて立っている。そんな一年だった。

芙蓉を見上げていたら、足もとにいつの間にか小さな黄色い蝶が飛んで来ていて、もしかしたら母が来てくれたのだろうか、などと思ったりもする。
久し振りに写真を撮りたくなって、もちろんそんな時はスマートフォンでもなくデジタルカメラでもなくフィルムで撮りたいのだから、ジェラルミンケースから古いニコンFM3Aを引っ張り出してみたりもした。以前は特に好きでも嫌いでもなかった芙蓉の花が、いつの間にか好きな花になっていた。
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社交復帰中 2023/10/03



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だいぶ投稿が空いてしまいました。
先月半ばより仕事に復帰して、まだとても疲れやすいため都内限定ですが、取材に出ています。
プライベートでも、地元の友人と近所のカフェでお茶をしたり、生け花の師である真生流家元 山根由美先生の花展を拝見に伺ったり。少しずつ行動半径を広げています。

そんな中、今日はホテルオークラへ。
大倉集古館で開催中の「恋し、こがれたインドの染織」展と連動したランチパーティーに参加しました。雑誌『美しいキモノ』主催のパーティーです。
ご参加の皆さん、更紗やタッサーシルクなど、何かしら今日のテーマ「インド染織」に則したきものや帯を身につけられていて、きょろきょろと拝見しました。
残念ながら私はまだ手術の傷跡に触るため、腰紐を締めることが出来ず、洋服での参加です。内心悔しい思いもあるのですが、何せ根っからの着物好きですから、人様のきもの姿を見るだけでも楽しくなります。
更にトークショーでは、副編集長の吉川明子さんが進行を務められ(右下写真)、少しの時間ですが、立ち話も出来て嬉しく‥‥!他にも、きものつながりのお友だちにも再会出来て。

思えば、昨年秋まで四年間、母の介護とコロナ禍が重なってほぼ引き篭もって暮らし、その母の死去後はしばらく呆然と過ごし‥‥。
ようやく少しずつ人と会い始めた時に、今度は自分に病気が見つかって‥‥。
五年間、とにかく静かに静かに、修行僧のように暮らして来たので、何か山の上から町に下りて来たような、久し振りに社交の場に帰って来たな、という気がしています。

その社交復帰、初めの一歩がとても華やかな場になったのは、今日のパーティーに声をかけてくださった観世あすかさんのお蔭です。
美術商であり、一点もののバッグブランド「アトリエ花傳」のディレクター。一緒に写真を撮って頂きましたが(左上写真)、素晴らしく力のみなぎった上物手のインド更紗の帯を締めていらっしゃいますので、おきもの好きの方はぜひ拡大してご注目ください。
あすかさんの今日のバッグも素晴らしいものでした(右上、左下写真)。もちろんご自身でデザインされた、花傳の一品です。
インドのサリー生地を表に使い、口を開けない限り見えない内側の生地に、やはり上物手の貴重なインド更紗を配して。今日のパーティーの主旨にこれ以上ふさわしいものはない、素晴らしく贅沢な一品でした。

あすかさんと私の間に立っているイケメン男子も、皆さん気になることでしょう!
スウェーデン出身のモデル、アントン・ウォールマンさん。私は世事に疎くなってしまっているので知らなかったのですが、YouTuberとしてとても有名なのだそうですね。
日本が大好きで、東京に移住。さすがモデルさんだけあって、着物もさらりと着こなしていらっしゃいました。見た目が麗しいだけではなく、真率な、気持ちのいい方で、こんな素敵な青年が日本を好きになってくれたのだと思うと、何とも嬉しい気持ちになります。

‥‥と、久し振りの華やかな場を楽しんだお昼のひと時でした。
「恋し、こがれたインドの染織」展は10月22日まで開催。「美しいキモノ」秋号でも更紗特集が組まれています。ぜひどちらもチェックなさってみてください。

新しい椅子と、新しい毎日 2023/09/02



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最近、新しい椅子を買った。
デンマーク・ワーナー社のシューメーカーチェアという椅子で、正面から見るとサリーちゃんのパパの髪型のような、不思議な形をしている。退院後、まだ一歩も外出出来ない時期に、目がチカチカするほどネット検索をしてこの椅子を択んだ。そのくらい、どうしても必要な一脚だった。

6月終わりの子宮体がん手術で命を長らえたものの、それと引き換えに、実は、私の体には「リンパ浮腫」という新たな病気の可能性が宿ることになってしまった。子宮、卵巣に加えてリンパ節も摘出したためで、その結果、下半身のリンパ液の流れがとどこおりやすくなってしまった。そうするとこの病気の発症可能性が高まるのだ。
具体的にどのような症状が出るかと言えば、左右どちらかの足が非常に強くむくんでしまう。上手く足が曲がらないなど日常生活に影響が出るし、外見からも一目で分かるほどのむくみだから、心の苦しみも大きい。出来れば発症したくはないけれど、今の医学では完全な予防法はなく、完治の方法もない。なかなかに厄介な疾患だ。
     *
そのリンパ浮腫の予防のために、新しい椅子が必要になった。
私たちリンパ節摘出者には予防のためのたくさんのTO DO LISTがあるのだけれど、その一つが、
「長時間椅子に座る時は、足を上げ、オットマンに載せること」
足を下げっぱなしにしていると、体を上へ上へとのぼっていくリンパ液の流れがとどこおってしまうからだ。

ちなみにTO DO LISTには、他にこんなものがある。
長時間同じ姿勢を取らないこと(一ヵ所にリンパ液が溜まってしまうため)。激しい運動をしないこと。飛行機に乗る時は着圧ソックスを履く。一日一回、リンパ液の流れを良くするために、セルフマッサージも行わなければならない。
2枚目の写真は、今週、病院でそのマッサージの講習を受けた時にもらったプリントだ。これを見ると、なかなかに複雑なマッサージだと分かってもらえると思う。左右どちらの足に症状が出るか分からないから、右半身、左半身、必ず両側に行わなければならない。全体で2、30分ほどの時間がかかる。
     *
そんな事情があって、この椅子を買った。
私の仕事上、PCの前に長時間座ることは避けられない。愛用している椅子とピッタリ同じ42センチの高さで、しかも毎日目に触れるものだから、変なデザインのものは買いたくない。そうやって探し始めると、意外と42センチの高さのオットマンは少なく、しかも良いデザインのものとなると、もうなかなか見つからない。ようやくたどり着いたのがこのシューメーカーチェアだった。

もともとはデンマークの靴職人=シューメーカーが使う椅子で、長時間座っていても疲れないよう工夫する中で、このフォルムが生まれたという。つまり、サリーちゃんパパみたいと思った独特の窪みは、職人のお尻の形なのだ。
けれど私はそこに足を伸ばす。
そして中央のサリーちゃんパパの髪の盛り上がった部分に、ふくらはぎを軽くもたれかけさせて置くのが気に入っている。木の丸みが肌に当たって心地よく、軽く押されることでリンパ液が流れるのか、ふっと足全体が楽になっていく。とても気分がいい。
ネット上の画像で見た時から、そんな使い方が出来るのではないかと思って購入したが、案の定だった。本来の使い方とは違うからデンマークの職人さんはびっくりするだろうか? でも、東洋の片隅で、つらい病気の予防という切実な目的にこんなにも役立っているのだから、きっと喜んでくれるはず‥‥などと思っている。
       *
そんな私の近況は、ゆっくりゆっくりと体力を取り戻しつつあるところだ。
8月10日過ぎ頃から、近所の吉祥寺に買い物に出られるようになって、でも、とてつもなくゆっくりとしか歩けず、疲れてタクシーで帰宅する日もあった。それが、先週、気づいたら普通の速度で歩いていて、
「あれ? 私、みんなと同じ速度だ!」
と、道に立ち止まってびっくりしてしまった。
そうかと思えば日によっては全身がだるく、横にならずにいられない時もあるし、夕方、猫と毛玉ボールを投げて遊ぶのが日課なのだけれど、そのために階段を駆けのぼることが、出来たり出来なかったりする。「走る」という行為はどうやら体にとって非常に大きなエネルギーを要する冒険的営みらしい‥‥と初めて知った。

インターネットで検索すると、同じ手術を受けていても、退院1週間で仕事復帰して元気いっぱいです!という鉄の女性もいる。自分とのあまりの差にため息が出てしまうが、考えてみれば、筋力、心臓の弁の強さ、胃腸の強靭さ‥‥人の体は一人一人まったく違っているのだから、ガタピシと動く自分というこのCPUをいたわって歩いて行くしかないのだろう。

実は、来週から、仕事に復帰する。2か月半ぶりほどに取材に出るのだ。
大丈夫かな、電車に乗れるかなと心配もあるが、たぶん何とかなるだろう。そのために出張美容師さんに家に来てもらい、髪も切って気分一新した(三鷹・吉祥寺で活動されている「結」さん/3枚目写真)。4枚目の写真は、病院に行った日に、ガラスに映っていた自分を撮ったものだ。何だかお忍び外出中の芸能人みたい、とおかしくなって撮った。
こんな風にして、行きつ戻りつ、時々立ち止まったりもしながら、ゆっくりゆっくりと。新しい毎日を歩き始めている。


二つの訃報 2023/08/17



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毎年、お盆には亡き人の御霊を迎え、偲ぶが、今年は格別悲しい年になってしまった。八月十五日、一日に二人の友人の訃報を受け取った。

一人は、Mさんという。
「美しいキモノ」編集部で長く助手を務め、同時に自分自身でも着付け教室を主催していた女性だった。
彼女と初めて話したのがいつだったのか、まったく思い出せない。打ち合わせや入稿のために編集部に行くと、彼女がいて、仕事上の接点はそれほど多くはないけれど、何か気が合うものがあった。気がつくと仲良くなっていた。
最初は仕事の合間に、編集部のストックルームや廊下の壁にもたれて、ひそひそお喋りをした。それが楽しくてやがて二人で銀座の高級リサイクルきもの店巡りをしたり、美味しいケーキを食べに行ったり。話に夢中になり過ぎ、て気がつくとカフェの窓の向こうが真っ暗に暮れていて、ご家族のある彼女は、大変!晩ご飯作らなきゃ!と慌てて解散した日もあった。

やがて、私が世話人役を務めていたプライベートな染織講座で、母の介護のためにその役が出来なくなってしまった時、彼女に後を頼んだ。
染織に造詣が深く、しかも細やかに気が回り、実行力のある人。
私などより何倍も適役で、我ながらいい人選だわとほくそ笑んだりもした。ちょうどコロナ真っただ中の時期だったけれど、「収束したらこんな企画をやってみたい」「ツアーを組んでこんな所に行くのはどうかな」と、彼女の特徴である大きな目をキラキラさせて話してくれた。

その彼女が病におかされ、長期の療養に入ったと知ったのは、母を見送って少し経った、今年の年明けだった。
最初、私は彼女の闘病を知らず、講座に関連することで、あるお願いのメールを送った。すると彼女は、長く座っていることも出来ないほど衰弱していたのに、何も言わず、まず私の依頼を実行してくれた。その後で、実は、と病気のことを打ち明けた。そういう深い心配りを、さらりとやってのける彼女だった。とてつもない心身の痛みの中で。

     *

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もう一件、受け取ったのは、吉澤暁子さんの訃報だ。
着付け師、スタイリスト、着付け教室主催、振袖レンタル事業の経営‥‥大阪を拠点に幅広く活動する、きもの界のスーパースターだ。
彼女と私は同い年で、2015年、私が或るきものイベントの運営を手伝った時に知り合った。
彼女の活動の中心が関西ということもあって、顔を合わせた回数は少ないけれど、世の中には「お互い何故か気になる存在」という人がいる。彼女とはまさにそんな関係だった。SNSで常に互いの活動は把握していて、時々やり取りを交わして。タイミングを見て私の雑誌連載に出てもらおうとも考えていた。

そんな彼女が体調を崩し、療養に入っていると公表したのは、今年の春だった。ちょうど私も手術が決まり、メールを送った。彼女の病名は分からなかったけれど、一緒に乗り切って行こうとと伝えたかった。
「東でポンコツの西端も何とか頑張ってるから、吉澤さんがつらい気持ちになることがあったら思い出して」
そんなことを書いて送ると、「今、関西に親戚爆誕したから」「大阪人だからお節介焼くから」と、いかにも大阪の人らしい冗談で笑わせてくれながら、私の闘病を応援するから、と返事をくれた。病気を抱えながらも、仕事を続ける。そういう新しいライフスタイルを世に問うていくつもりだとも明かしてくれた。それなのに‥‥

最後に彼女が私のブログに「いいね!」を押してくれたのは、8月1日のエントリだった。病理診断の結果、私の癌が最も初期の状態だったことが確定して、抗がん剤治療から免れたことを知らせる内容だったが、その時、彼女はどんな気持ちで、いいね!を押してくれたのだろう。
彼女は自分の葬儀について意志を残していたという。そんな状態の中で、私の癌が初期だったことを喜んでくれたのだ。それを思うと、胸が張り裂けそうになる。その心の大きさに打ちのめされる。

    *

今、目を閉じると、二人のきものの着こなしが浮かんで来る。二人とも抜群に趣味が良く、そして、語っても語っても語り尽くせぬほどにきものを愛していた。もっともっとおしゃれを楽しみたかっただろう。これから晩夏へと向かう季節、あの帯を締めたい、中秋の季節にはあの帯、と‥‥。人生のプランもいくつもあっただろう。その無念を思うと悲しくてたまらない。もう一度、二人に会いたい。

ただただ二人の素晴らしさを伝えたかったから、何とか気持ちを奮い起こしてこのブログを書いた。
写真は、2016年に吉澤さんと撮ったものと、もう一枚は、我が家の睡蓮鉢を撮った。この数年咲かなかったのに、訃報を聞いた日とその翌日、神々しいほどに美しい花を咲かせていた。優しく、そして美しかった二人は、今、きっと、二人を愛したたくさんの人のもとを順番に回り、私の所にもちょっと立ち寄ってくれたのだ。そう信じたい。ただ、静かに二人を偲ぶ。合掌

#吉澤先生と一緒

幸運の空~~子宮体がんロボット手術回復記 2023/08/01



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昨日は、退院後、初めての通院だった。
手術から一ヶ月。このタイミングで傷の経過を見るのが標準らしい。大量の患者でごったがえす一階ロビーを通り抜けると、戦地再訪の思いがするのだった。

婦人科の診察室で名前を呼ばれ、再び大股開きのあの台に座る。座り方など、もうベテランの域かも知れない。股の間から腹部へエコーカメラが入り、ライブ映像を先生が確認していく。子宮、卵巣、卵管、リンパ節。それらの臓器が切り取られた箇所は、すべてきれいに傷がふさがっているということだった。

その後、台から降りて、ベッドへ移るように言われた。お腹表面の切開痕を目視確認するという。
ロボット手術では、おへそのラインに五つ、等間隔で直径2センチほどの穴を空け、そこからロボットアームが入り、切った貼ったを行う。
だから、今、私のお腹には、惑星直列のように五つ手術痕が並んでいる。ちなみに中心はおへそだ。おへそからもアームを入れている。五つともしっかりふさがっているということで、続けて抜糸を行った。左の四つの穴は溶ける糸で縫われていて自然に体に吸収されつつあるが、一番右の穴だけは、老廃物を体外に出すために、術後、ドレーンという管を入れていた。
その穴だけは、退院前日に普通の糸で縫合したため、今回、抜く必要があるのだ。チクリとするのを我慢。3本の糸が無事体から抜け出て行った。

     *

そして、椅子へと座り、今日のハイライト、病理検査の結果説明が始まった。いよいよだな、と思う。この一ヶ月、ずっと案じ続けていたことだった。さすがに胸がドキドキしていた。
実は、子宮がんの治療は、手術が最終地点ではない。
摘出した子宮、卵巣、卵管、リンパ節は、術後すぐ病理部へ送られ、がんの進行がどの段階にあるのか、細胞レベルで精査されるのだ。その進行タイプによっては、潜在的な転移の可能性があり、予防のために抗がん剤治療を行わなければならない。だから、手術でがんを取りました!きれいさっぱり大団円!とはならない。

よく知られているように、抗がん剤は、がん細胞だけではなく健康な細胞も一部破壊してしまう。その結果として強い倦怠感や食欲不振、髪が抜けること‥‥多くの重い副作用に苦しむことになる。
非常な勇気を振り絞ってつらいつらい手術を乗り越えたのに、また同じほどにつらい治療が始まるのだ。どうか受けないで済むように。誰だってそう願うだろう。

‥‥それでも、覚悟はしていた。
医療用ウィッグのウェブサイトを閲覧して、このかつらならいいかも、とブックマークまでしていたし、愛する猫のチャミをまたもや留守番のストレスにさらすことを思うと、入院ではなく、通いで抗がん剤治療を受ける!そんなことも考えていた。

幸いなことに、結果は最良のものだった。
私の子宮の表皮は22ミリの厚さだったそうだが、がんの進行は、わずか1ミリまで。リンパ管、リンパ節への浸潤もまったく見られない。正真正銘に最初期のがんだということが、ようやく科学的に確実になったのだ。よって、抗がん剤治療の必要も、ない。
「良かったですね。今後は2ヶ月に一度、定期診察を行います。血液検査やCT検査で再発がないかをしっかり監視していきます」
そう先生がおっしゃり、深々と頭を下げる。訊くのを忘れてしまったが、この定期診察は、たぶん5年間続くはずだ(どの医療サイトにもそう書いてある)。もちろん、再発の可能性はある。これからの人生を常にその可能性を抱えながら生きていかなければならない。けれどとにかく、ただちに再び苦しい治療に入ることは免れたのだ。

     *

病院を出ると、夏らしい澄んだ青い空に、ぽこぽこと白い雲が浮かんでいた。その広い空の中へ、深い安堵の気持ちが吸い込まれていく。
けれど、同時に、同じ手術をして、ここから更につらい治療に入る人もいるのだということに思いが向かう。これまで苦しかったから、その人たちの苦しさを思うと、ただただ嬉しいと単純に喜ぶことは、もう出来ない。

屋上から、ドクターヘリが旋回して飛び立って行くのが見えた。
どこか、この近くに、今この瞬間、生きるか死ぬか、命の危機に直面している人がいるのだ。手術の日、自分が、手術室の銀色の天井を見つめながら、生きるか、死ぬかだと思った、その時の気持ちが不意によみがえった。ここから先、もう自分に出来ることは何もない。自分の命を医師団という他人に預けるしかない。どうして自分はこんなことになってまったのだろう?――あの、風に吹かれる一本の草のような、よるべない無力感がよみがえる。
とにかく、これからまだしばらくは、そのような命の危機を免れた。自分の幸運に感謝しながら傷をかばい、ゆっくり、ゆっくりとタクシー乗り場までを歩いて行く。ドクターヘリの爆音が空を遠ざかって行く。

初めの一歩~~子宮体がんロボット手術回復記 2023/07/25



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子宮体がんの手術から、明日で4週間。退院から3週間が経ち、少しずつ体力を取り戻している。
退院から初めの2週間は、お腹内部の傷も、外側の、皮膚表面の手術痕も、ふとした時にじんと痛んだ。今はよっぽど無理な姿勢を取らない限り痛みを感じることはなくなっているから、傷は順調にふさがっているのだろう。

何よりきつかったのは、毎回、食事の後、30分ほどするととてつもない倦怠感に襲われることだった。座っていることもしんどく、畳の部屋に敷きっぱなしにしているマットレスに、とにかく横になる。そうすると必ず1時間半ほど眠ってしまった。一日中寝てばかりの毎日だった。

思うに、これまでの人生、腸君は(私の中で、腸は男子)、子宮ちゃんや卵巣ちゃん(もちろん女子)にちょっともたれたりしながら、日々の消化のお仕事を行っていたのだろう。
ところが突然彼女たちが消えてしまって、でろーんと伸びた状態で腹部空間に放り出された。え?え? 自分の姿勢がつかめないまま、次々と送り込まれて来る食べ物たち。えい!っとねじれてみたり、びよーんと伸びてみたり。変な姿勢で行う消化活動が、何とも言えない違和感を作り出していたのではないだろうか。
それがだんだんと腸君も新姿勢をつかんだようで、10日ほど過ぎると、倦怠感は朝食後だけになった。たぶん、夕食から朝食まではかなり時間が空くので、朝だけは、姿勢を取り戻すのに時間がかかったのだろうと推測している。
そして数日前からは、朝食後もずっと座っていられるようになった。これは本当に嬉しく、回復を実感している。

そんな中、今週は、行政上の手続きのため、どうしても吉祥寺に出なければならない用事が控えている。もちろん、バスや徒歩で出るのはまだ無理なので、タクシーを使うのだけれど、それにしてもいきなりの外出は無謀だろう。予行演習をしようと、先週木曜の夕方、涼しかったこともあって、家の前の道を歩いてみることにした。
久し振りにスニーカーを履いて、玄関の外へ出る。何だか胸がドキドキしてしまう。一歩、一歩、こんなことになるとは思わず、春先に買っていた新しいウォーキング用シューズで道を踏みしめる。
‥‥けれど、部屋の中にいる時にはまったく感じなかった違和感、肉が引きつれるような感覚が、やはり腹部に現れ出て来るのだった。自然と少し前かがみの姿勢になってしまう。そして手で軽くお腹の上を押さえていないと歩けない。ゆっくり、ゆっくり、とてつもなくゆっくりと歩く。一歩、一歩、とにかくむこうの角まで。70メートルほどだろうか、たどり着いた時、
「帰りもあるんだよ、これ以上は危険!」
と、体の中から警告が聞こえた。引き返して、合計140メートル。本州を縦断したくらいの達成感だった。翌日もこの道歩きリハビリを続けたけれど、翌々日朝、起きると足全体がひどくだるくて、とても歩ける気がしない。暑さが戻って来たこともあって、道歩きリハビリは中断のままとなっている。

それでも、リンパ節を取った関係でとてつもなく腫れ、じんわりと傷みもあった太もも周りがだいぶ落ち着いて来たし(この太もも周りの話はまた後日)、全体に、体もよく動くようになって来たことを感じている。たぶん、今週の外出も何とかなるだろう。
完全回復までにはまだまだ遠い道のりが続いているけれど、一歩ずつ歩き始めている。

退院のご報告 2023/07/06



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子宮体がんの治療で、先週より手術、入院していましたが、昨日5日、無事、退院して家に戻ってまいりましたことをご報告致します。
当初は「10日ほどの入院」と言われていたのですが、予後すこぶる良好ということで、手術日を入れてわずか1週間という、最短期間での退院となりました。現代医療の最先端の術式である「ロボット手術」の威力を実感しています。

‥‥とは言え、内臓を三つ(子宮、卵巣、卵管)、更にリンパ節も切除しているので、言ってみればお腹の中は一度ごうごうと火を噴いた後の状態。今でも体の動きによっては、相当な痛みが走ることがあります。
また、全身麻酔は呼吸を止めて(!)行い、術中、気管に人工呼吸器の管を入れるのですが、その影響で、のどの周辺が今もじんわりと腫れて痛く、また、肺のダメージも完全回復には2週間ほどかかるのだそうです。
そんなこんなでとてつもなく疲れやすく、正直言えば、あと3、4日は病室でごろごろしていたかった‥‥。

しかし、子宮がんの場合、切った箇所までカメラを入れることが出来るため、診察でライブ画像を確認した主治医の先生は、「すごくきれいにつながってます」と満足気。手術チームの他の先生方もうんうんとうなずき‥‥めでたく‥‥退院となったのでした。
        *
‥‥こうしてよろよろと病院を放り出されたわけですが、猫のチャミと再会出来ることは、とてつもなく嬉しく。
入院中、毎晩10時と時間を決めて、病室から家に電話をかけ、父に受話器をチャミの顔の前まで持って行ってもらい、「チャミちゃん!」と呼びかけ。チャミ「にゃー!」と答える‥‥ということを繰り返していたのですが、それでも、声だけが聞こえることが怖いのか、状況の意味が分からずストレスを感じるのか、いつも数回やり取りするとぷいっと逃げてしまうチャミでした。父によると、とにかく一日中寝て過ごしていたそうです。
帰宅してみると、何だか毛がばさばさしていて、顔も険しくなっている。
私が部屋に入って行くと駆け寄って来て、にゃー!と、すりすり。その後、ひたすら私の後をついて回り、不意に部屋の少し離れた場所で、意味なく大声で鳴き叫んだり。
「本当に帰って来たんだね!」
「もうどこにも行かないんだね?」
と訴えているのかな?と涙がこぼれてしまいました。

夜になると、喜びと興奮で疲労困憊したのか、お気に入りの座布団で眠りこけ、「お姉ちゃん寝るからね」と呼びかけても、薄目を開けるだけ。
けれど、明け方、2階の私の寝室へ上がって来てベッドに飛び乗り、いつもの定番の位置、私の右膝に手とあごを載せて、ゴロゴロとのどを鳴らしているのが振動で伝わってきました。チャミ、本当に頑張ったね。ずっと待っていてくれてありがとう。
         *
こうして、今、よろよろと日常を取り戻しつつあります。写真は、今日午後、膝に乗って甘えて来たチャミと自撮りしたものです。
そもそも家の階段を上れるかしら?と不安になるほど、病院内をゆっくりゆっくりと、それもお腹を軽く押さえながらしか歩けない状態で帰って来たのですが、意外と動けるし、階段は上れるし(ゆっくりと、ですが)、今朝などは庭に出て洗濯物も自分で干してしまいました。
そして、そんなごく当たり前の家事をしただけで、棒切れのように細くなっていた足にみるみる筋肉が戻っていくことに驚かされます。

とは言え、腸に接する内臓を切除したせいか、毎回、食事の後は、腹部を中心に全身にとてつもない倦怠感があり、1時間半ほどは横になっていないと過ごすことが出来ません。これは入院中からずっと続いている現象です。

その食事の準備も、入院中、DEAN AND DELUCAのラザニアが無性に食べたかったので父に買って来てもらい、それを電子レンジ嫌いのため、フライパンで軽く温め、他にサラダも買って来てもらったのでお皿に盛りつけて‥‥という、まったく調理とも言えない、わずか10分ほど台所に立っただけのことで、とてつもない疲れで椅子にへたり込んでしまいます。
まだまだ体力の回復までは、長い道のりとなりそうです。
       *
そう言えば、いつも聞いているNHKのラジオ英会話も、どうも頭への入り具合が悪いことを感じます。
読書も、小説やコラムは良いのですが、論文は読み続けていくための根気が続かない。体だけではなく、知能もダメージを受けているのでしょう。

先生からは、「7月いっぱいは家で安静に。外出は、近所での日常品の買い物までが望ましい」「自転車禁止」「シャワーのみ。湯船はダメ」「極力虫に刺されないよう注意(リンパ浮腫の誘因となるため)」とあれこれ指示が出ており、とにかく狭い半径の中で、静かに過ごす夏になります。
この体力と免疫の落ちた状態でコロナに感染したら悲惨な状態になることも目に見え、第9波到来らしき今、その意味でも、家でじっとしているのが良さそうです。
「家事で動く程度が、ちょうど良いリハビリなんです」
とは、看護師さんの言葉。あくまで慎重に、でも、少しだけ身体を動かして。基本はチャミのおざぶの横でごろごろ。生産的なことは何もしない。そもそも4年間、母の介護で頑張りに頑張って来ました。今は、とにかく休みたい。思い切りぐうたらに過ごそうと思います。
       *
最後になりましたが、手術前、手術後、たくさんの皆様から温かいメッセージを頂きましたことを、深く深く御礼申し上げます。とても大きな慰めと励ましとなりました。
少しずつお返事を出来たらと思っております。どうぞ気長にお待ち頂けましたら幸いです。

岡田知子さん個展『物語絵』へ 2023/05/12



昨日は青山「イトノサキplus」にて開催中の岡田知子個展『物語絵』に伺いました。
イラストレーター、挿画家である岡田さんとは「美しいキモノ」のお仕事で知り合い、今ではカフェで何時間もお喋りが止まらない、大の仲良しの友人としておつき合いしています。
今回の個展は、『赤ずきん』『親指姫』『セロ弾きのゴーシュ』『ハーメルンの笛吹き男』『長靴をはいた猫』『山月記』などなど、誰もが知る童話の一場面を切り取った作品を集めたもの。幼い頃に迷い込んでいた物語の世界が、鉛筆と淡い水彩によって、額縁の中で再びがたごとと動き出します。
会場の様子はこちら↓
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一作、一作、それほど大きくないサイズだからこそ、とても親しく感じられるのです。

会場にて、岡田さんと↓
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そして、私も一作、お迎えすることにしました!
下の写真で手に持っている額縁がそれです↓
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子どもの頃大好きだった、『ブレーメンの音楽隊』の一場面。「見捨てられていた小さな子が、やがて運をつかみ幸せになる」系統のお話が異常に好きで、自分でも空想の物語を作ったりしていて。
『ブレーメンの音楽隊』もまさにその系統のお話。しかも痛快な風もある。その痛快場面がこうして絵になっているのですから、お迎えせずにはいられません!

私のきものは、こちら↓
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淡い黄色地、細い横縞模様の単衣の大島に、蝶を大きく型染した塩瀬名古屋帯。祖母の作品なのですが、この配色がとても好きで、特に気に入っている一本です。
帯締めは、道明の「麹塵」色の冠組。帯揚げは、麻の葉模様に小さな絞りがポツポツと散っているもので、ゑり正製。淡いクリーム色の草履は、浅草の辻屋さんで一から誂えたものです。

岡田知子個展『物語絵』は、「イトノサキplus」にて、5月14日まで開催。
住所は、港区南青山4-1-5 KFビル3F 外苑前駅から徒歩5分ほどです。
ぜひ足を運んでみてください!

母を送る 2023/02/12



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四ヶ月前の今日、昨年十月十二日に母を見送った。
三年前から寝たきりになり、庭の見える一階のリビングに置いたベッドで終日過ごしていた母だった。毎年心待ちにしていた庭のもみじが赤や黄色に変わる景色を最後に見せてあげたかったけれど、昨年の秋は暖かったから、一枚も変わらないうちに逝ってしまった。

母を失って、はかり知れない打撃を受けている。
寝たきりになる前の一年間を含めて、介護を続けて来た四年間、母が私の人生のすべてだった。
毎日毎食、母に何を食べさせるか。種類×時間で順列組合せのように複雑な何種類もの薬を、きちんと間違えず服薬させられているか。通院のための介護タクシーの手配、それが在宅医療に切り変わってからは週に四日、ヘルパーさん、医師、看護師、入浴サービスチームを家に迎え、サービスの終わりには送り出すこと(その度に仕事の原稿は中断される)。オムツや服薬ゼリーやスポンジ状歯ブラシなどなどなどなど介護に関するあらゆる品を一つも欠かさず揃えておくこと。一日に一度か二度、父とともに行うおむつ替え(ヘルパーさんや看護師さんに来てもらっていても家族がまったくおむつ替えをしなくて済む訳ではない)‥‥
毎日、介護に関する数えきれないほどのタスクがあった。しかもコロナウイルスに感染させないようにあらゆる局面で気を配りながら、だ。私の人生は母という軸の周りをぐるぐる回転していて、文字通り、母のために、この街を東奔西走していた。でも、それで構わなかった。母に何としても生きていてほしかったから。母が家にいたいと望んでいるのだから、何としてでもかなえてあげたかった。
もちろん、こんな毎日が永遠に続く訳ではないことは分かっていた。
母は末期癌だったし、脳の病気も持っていたし、認知症でもあった。だから、その日がいつ来ても受け入れられる覚悟は持っていたつもりだったけれど、でも、失ってみるとそんなやわな覚悟は木っ端みじんに吹き飛んでしまっていた。もう開かない母のまぶたをぼんやりと見つめていた時、負けた、と思った。何に負けたのか、誰に負けたのか、自分でも分からない。ただ、負けた、と思った。それはすべての人類が、生命体が、意識というものを持った瞬間から数十億年繰り返して来た敗北なのだろう。私も凡庸にその列に加わって、今、ふらふらと毎日をさまよっている。

(写真上右が、母と私。私が一歳頃。母はこの写真を気に入っていて、定期入れに入れて持ち歩いていた。今は写真立てに飾り私の机の上にある)

       *

母という人のことを振り返ると、どうしても、少し変わった少女だったのではないかと思えてならない。
何故なら、祖父も祖母も母に特に勉強をしろと強制したことがなかったし、自立した女性になってほしいなどともまったく望むことはなく、当時の女性の一般的な生き方、普通に結婚して家庭を築いてくれればそれで良いと思っていたのに、何故か母は自分からわざわざ一浪までして東大に進学した人だったから。今でこそ〝東大女子〟は特に珍しくもないけれど、当時としては相当にぶっ飛んだ選択だったはずだ。実際、祖母も、笑ってしまうのだけれど、
「あなた、お嬢さんを東大なんかに入れて、赤になるわ!」
と友人から叫ばれたという(現代史に詳しくない方へ‥‥〝赤〟とは共産主義者のことです)。
母には負けず嫌いなところがあったから、地頭が良く子どもの頃から勉強が出来ているうちに、「東大に行ってやろう」という気持ちが芽生えたのだろうか? 今になると聞いておけば良かったと思うけれど、母が東大を出たことは家族の中であまりに自明の事実過ぎて、とうとう聞かずに終わってしまった。そういうことは他にもいくつもある。

       *

やがて母は学問の道を志したが、最初から学者になろうと思っていた訳ではなかった。一人の教授との出会いが、母の人生を決定的に転換させた。そのことは何度も私に、「またその話?」と生意気につぶやかせるほど繰り返し繰り返し話し続けていた。
その恩師の名を、山根有三先生という。
日本美術史という学問に富士の山のように屹立する大学者で、数々の業績を残した。私も何度もお会いしているが、全身から日本美術への愛がほとばしり出ている方で、その圧倒的な熱量に多くの若者が惹きつけられ、数々の後進が育っていった。全国の主要な美術館の館長クラスには山根先生の弟子がごろごろ転がっているが、そんな先生に、母もすっかり魅了されてしまったのだった。
東大では入学後二年間、一般教養の過程があり、三年に進学する時に初めて専攻を決める。各教授が学生たちに〝勧誘〟のスピーチをするそうで、その時の山根先生の話が「あんまり面白かったから」、母は美術史学科に進むことを決めたのだった。

とは言え、そこには、もう一つ別の要素もあったと思う。
我が家では、祖母が、着物の染めをしていた。母が中学に入った頃から、最初はまったくの〝主婦の趣味〟としてろうけつ染めを始め、やがて、芹沢銈介門下の教室の一つに入門して型染に転じてから、本格的に取り組むようになった。毎年開かれる門下展に出品して作品は結構売れていたし、銀座の松屋で小さな個展を開いたこともある。お弟子さんも十人くらい取っていた。
せっせと型を彫って、染めて、乾かして。居間の天井の端から端へ反物を渡して乾かすような環境だったから、母の中に、自然と、日本的な美意識、日本美術への興味が育っていたのだと思う。そこに山根先生との出会いがあって、一生の道が決まった。そう思っている。
(写真下左、恩師山根有三先生と若き日の母。おそらくまだ学部生の頃)

        *

母は日本美術史の中でも、琳派、主に尾形光琳を研究した。その理由は聞いてみたことがあるが、自分でもよく分からない、山根先生に勧められたこともあったし、何となくいいと思って‥‥などと、いつもごにょごにょむにゃむにゃ言っていた。自分でも本当によく分からないまま光琳へ導かれていったのだろう。
ただ、そこにも、育った環境の影響はあったのではないかと思う。光琳は、京都の着物商の出身で、その作品は装飾的な要素が強いとされる。確かに、ザ・絵画を描こうとする狩野派などと比べると、世界の捉え方にどこか抽象性が見て取れる。無意識に世界を大きく捨象して捉え、平面に固定する。それは、光琳が日常的にきものの図案を見て育ったからなのかも知れないし、母の育ち方と共通するようにも感じられるのだ。
ともかく、母は琳派を専攻し、多くの研究論文を残した。五十年代に一度唱えられたことがある学説、国宝の『燕子花図屏風』の燕子花が実は同じ一群を繰り返し配置して、まるで着物の型染のような手法で描かれている‥‥という学説を再検証して発表した時は、『燕子花図屏風』の大きな図版をリビングの――母が最期の日々を過ごしたリビングの――床に広げ、這いつくばって絵の中の燕子花をトレースしていた姿を覚えている。私が小学生の頃だった。日常的に祖母の型染を見ていたから、この学説の正しさがひらめいた、と話していた。
その他にも、母の論文にはいくつか非常に優れたものがあり、多く引用されているという。また、或る一本は、論拠の立て方の見本として、必ず読むようにゼミの学生に勧めていた先生もいらっしゃると聞いたことがある。やがて母は琳派のみならず、「日本人が草花をどう描いて来たか」を特に近世美術に焦点を当てて研究し、このフィールドでも多くの論文を発表した。いわゆるスター学者のような華々しさはなかったが、立派な学者だったと思う。
(写真上左が、母の著書)

       *

とは言え、そんな母のキャリア形成は、決して平坦なものではなかった。
母が大学院に進んだ当時、女子学生はほとんど存在せず、就職先はなかなか決まらなかった。いや、ポストはあったけれど、女性であるために採用されなかったのだ。明らかに自分よりへぼな論文しか書いていない男子学生が、次々と美術館や大学に就職が決まっていく。母は大学院の途中で結婚していて、父は同じ東大の助教授だったから、誰が見ても家計は安定している。職がなければ生きていけなくなる、というわけではなかった。
「家族を養う必要がないんだから、ポストなんかなくたっていいじゃないか」
という主旨のことを、言われたこともあったという。
「悔しくて、ひたすら仏像を見て回って、気持ちを紛らわしていたのよ」
と、後年時々私に話していた。確かに、私が小学校中学年の頃あたりに、やたらと京都に行っていたように思う。琳派作品の所有者のもとへ作品の調査に出向く〝調査旅行〟がほとんどだったけれど、仏像だけを見に行っていた日もあったのかも知れない。そう言えば、やたらと文楽、歌舞伎を見まくっていた時期もあった。
女が働くにはタフな時代だったのだ。

       *

やがて、杉野女子大学、立正大学で非常勤講師を務めた後、ついに「三井文庫別館」に研究員として迎えられた。ここは日本橋の「三井記念美術館」の前身の美術館で、新井薬師にあった。私が中学生の時のことで、いかに長い時間就職出来なかったか‥‥改めて、母の悔しさを実感として思う。

三井では、円山応挙の『雪松図』(国宝)をはじめ、三井家から寄贈された莫大な量の美術品のうち、主に絵画作品の分類整理を担当した。年数回の展覧会も企画している。
日本服飾史の第一人者である丸山伸彦先生(母にとっては東大のかわいい後輩「丸山君」)とともに、三井家所蔵のひいな型(江戸時代のきもの図案帳のこと)の調査も行った。もちろん、その間に数々の論文を発表している。今も三井記念美術館を切り盛りされている学芸員の清水実先生を二人三脚の盟友として、日本橋で大々的に開館する前の下地を作ったのだ。非常に充実した研究員生活だったと思う。
そう言えば、私の人生最初のアルバイトは、高校時代の春休み、この「三井文庫別館」での受付のバイトだった。母と一緒に電車とバスを乗り継いで、新井薬師へ向かった。事務職員の皆さんにやさしくして頂いて、ぎこちなく入場券のもぎりをしたり、ロビーの無料のお茶のお湯の交換をしたりした。何しろ働くことが初めてだったから、すべてが珍しく、新鮮だった。母という繭に包まれた、何て幸せな思い出だろう。

       *

その後、母は東京家政学院大学からお声がけを頂いて移籍し、日本美術史の教授として教鞭をとった。
わりと人気のある教授だったらしく、学生さんが家に遊びに来て盛大な女子会が開かれたこともあったし、母は(私と同様)ファッションビクティム気味の、おしゃれが大好きな人だったから、女子大生たちの注意を引いた。何と、毎回の講義時の母のファッションを記録して分析する学生まで現れたという。
――そして、このことからも分かるように、母は決していかめしい人ではなく、気さくで、とかくインドア傾向の私などよりも何十倍も社交的で、非常に友だちの多い人だった。
何より、決してあきらめず粘り強く研究を続けてポストを獲得したことで、後に続く女性の学者たちに道を拓いた。私はよく母にくっついて様々な美術展のレセプションにお邪魔していたけれど、或る美術館の女性学芸員の方から、
「お母様を見て、女性が結婚して、子どもを持っても、研究を続けることが出来るんだ!と初めて実感出来ました。とても嬉しかった。お母様は私たちのロールモデルです」
と言って頂いたこともある。今、日本美術史には女性の研究者があふれている。母のことを、同じ働く女性の一人として、心から誇りに思う。

(写真下右は、母への取材記事。辺見じゅん氏が書いて下さっている。「ママさん研究者」という見出しからも、子育てをしながら研究をする女性がまだまだ少なかったことが分かる)

    *

そして、だからこそ、母に認知症の症状が表れ始めた時、私の打撃ははかり知れないほど大きかった。
もちろん、どのような人にとっても、肉親が認知症を患うことは深い苦しみであるだろう。けれど、我が家は学問の家なのだ。論理を組み立て、言葉を武器とする。その学者の論理能力が失われることは、ピアニストが腕を失うこと、マラソン選手が足を失うこと、料理人が舌を失うことに等しい。どうしてなのだろう。どうして運命はこんなに残酷なのだろう。四年間、毎日、そう思って、怒り、悲しんで来た。今でも胸が割れるほど苦しく、傷ついている。
それでも、母を施設に入れるという選択は、私には1パーセントの可能性も考えられないことだった。私は聖人ではないから、言うことを聞かない母に怒ってしまったことも数え切れないほどあったけれど、本気で投げ出そうと思ったことは一度もない。それはただ一つに、母から受けた愛の記憶のためだったと思う。
母が亡くなった後、たくさんの母の友人知人の方から、お手紙やお電話を頂いた。皆さんがおっしゃるのが、母がいつも私の話をしていた、ということだった。
「またお嬢さんの話?と、からかうこともあったのよ」
とおっしゃる方もいた。母はどうしてか私のことが大好きで、そして、私の成功を盲目的に信じ、願っていた。子どものから常に私の文章が無条件に好きで、一番の理解者だった。この絆が特に強く私を母に結びつけている。そんな母をどうして見捨てることが出来るだろうか。

認知症と言っても、母の場合は最重度ではなかった。自分が誰かは分かっていたし、家族、それから、猫のチャミこともはっきりと認識していた。多くの記憶が失われていたけれど、今、目の前に見えているものについては健常者と変わらないほど普通に会話を続けられた。そして、本当に不思議なことだったけれど、時々霧が晴れたように、込み入った複雑な話を理解していることがあった。

だんだんものが食べられなくなって、夏の初め頃からスープなどの流動食、それすらうまく呑み込めなくなって、ヨーグルト中心の日々が一か月ほど続いた。そして、とうとう点滴に変わってから三日目に、息を引き取った。
その日は、午後、看護師さんが来る日だった。処置をしてもらっている間は私は自室で待機するのだけれど、そろそろ終わる頃かなという時刻に、看護師さんがすごく慌てて私の名前を呼んでいるのが耳に入った。リビングへ入って行くと、
「呼吸が、呼吸が、停止しかかっています」
というようなことを叫んでいて、医療従事者ではない私にはそれが危篤を意味していることが分からなかった。不思議なことに、チャミが――何か予感があったのだろうか――廊下でひどくにゃーにゃ―と鳴いていて、だから、ベッドに近づきながら、
「チャミ、こっちにおいで!」
と何度か声をかけた。すると母の口元がほころびかすかに微笑みが浮かぶのが見えた。チャミの声が聞こえていたのだと思う。そして、枕元へ着いた時、どうしてなのか――だって危篤だとは分かっていなかったのだから――今でも不思議なのだけれど、
「ママ、私、ちゃんとやるよ。しっかりやるからね」
と口にしていた。二ヶ月ほど前の夏の盛りの頃のある日、〝霧が晴れた〟日があって、母と約束していたことがあった。そのことについて私は言っていたが、母には伝わっていたと思う。たぶん、最後の瞬間に力を振り絞って、そして再び、霧が晴れたのだ。母は私の目を見て、もう声は出なかったけれど、うん、とうなずいた。そして右の眼から一筋すっと涙が流れ、目を閉じた。それが最後だった。その後も耳だけは聞こえていたのならいいのにと思っている。どうして最後にかけた言葉が、自分のことだったのだろう。ママ、ありがとう。ママ、大好きだよ、と伝えたかった。本当に、私はいつも母から受け取るばかりだった。それなのに母が願っていたほどの成功も、到底見せてあげることは出来なかった。何を思っても、もう取り返すことは出来ない。
ただ、最後に旅立つ時に、すぐ隣りにいてあげられたこと、一人ではないと感じて旅立たせてあげられたことだけは、良かったと思っている。運命は残酷だったけれど、最後の瞬間だけは、やさしかった。

       *

昔々、mixiが全盛だったはるか昔から、ずっと私の文章を読んで、応援して来てくれたが方々いらっしゃるから、本当はもっと早くに、母の死をご報告したいと思っていた。
けれど、まずは母の友人知人の方へのお知らせと、その後膨大に届いたお花やお線香、そしてお手紙などへのお礼を、まずは最優先にして来た。あまりにも数が多いため、実は今もまだお礼状を書き続けている。
更に大きな仕事がいくつも入り、年末には多少は大掃除などもしていたり――そんな何もかもで、瞬く間に今日まで時が過ぎてしまった。仕事があることで、どっとふさぎ込んでしまうことを回避出来ている気もするし、けれど、どんなに頑張っても、もう母に見てもらうことは出来ないのだ、と、良い原稿が書けた時ほどむなしくなってしまうこともある。
それでも、最後に母と約束したのだから、と、何とか気持ちを立て直して生きている。急に元気になることは出来ないし、これからもこんな浮き沈みを繰り返して生きていくのだろう。母がいなければ、もう本当の幸せというものは私の人生にはないようにも思うけれど、とにかく、ようやくこうして皆さんにご報告出来たことに、今はほっとしている。これから少しずつ、四年間の介護の日々についても書いていきたいと思っているけれど、今はここまでしか書けない。最後に、母を送った数日後に詠んだ歌を書き添えて筆を擱きたいと思う。

母であり友でもあったその人を 
見送る秋の空の静かさ

絶食生活三日目に心に浮かぶつれづれ 2022/06/08



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 東京もいよいよ梅雨入りして気圧変化に弱い一群の人々には何とも気の滅入る季節が始まった今週、さらに私は、絶食生活を送っている。
 最今流行の優雅なファスティングなどでは、ない。 
 一昨日6日深夜、突然の腹痛で目覚め、尾籠な話で恐縮だが血便もあり‥‥。朝一番で病院へ駆け込むと、「虚血性大腸炎」と診断された。要は、腸の一部が激しくただれ、出血している状態。CT画像を見ると腸壁と腸壁の隙間?がすっかりつぶれているそうで、先生が「ほら、こんなに一体化しちゃってます」と感慨深げに患部をペンで指していた‥‥。

 この病気は命にかかわることはないものの、体を動かすと振動で傷が広がってしまうし、また、食事をして消化活動が始まると、当然腸が動いてやはり傷が広がってしまう。そのため、とにかく安静に過ごさなければならない。そして3日から1週間ほど、完全に絶食!栄養分と抗生剤は点滴で体に取り入れる‥‥というのが標準の治療だそうだ。
 「数日間入院した方がいい」とも言われたが、私には母の介護があるからそれは出来ないと訴えた。何しろ、看護師さんやヘルパーさんが来てくれる日でも、24時間の滞在ではないのだから、一日最低1回は家族がオムツ替えしなければならない。来ない日は、それが2回か3回。更に食事の準備や介助もあり、これらすべてを父一人にさせることはあまりに負担が大き過ぎる。切々と訴えると、最低限の介護行為だけを行い、あとは静かに寝て過ごすこと‥‥ということで自宅治療のオーケーが出た。
       *
 もちろん、点滴には通わなければならない。毎日午前中に病院へ行き、2時間の点滴。かなりの長時間のはずだが、やはり体内で炎症が起っていて身体が疲れているのだろう、ぐっすり寝ているうちに終わっている。
 病院への行き帰りには、タクシーを使う。何しろ腸が痛いから、数メートルほど以上は続けて歩けない。家から徒歩10分くらいの距離の病院だから近過ぎて運転手さんには申し訳ないけれど、どなたも快く運んでくださる。母が寝たきりになる前、通院付き添いをしていた時も、タクシーの運転手さんには本当に良くしてもらっていた。病人にとってタクシーはなくてはならない頼もしい存在だ、と改めて思う。
       *
 さて、絶食三日目の今日、点滴で栄養を入れているせいか、あるいはまだ腸の痛みがあるせいか、不思議と空腹感はない。
 そして、「食べないと、時間がいっぱいあるな」と実感する。
 何しろふだんなら、どこか外から帰って来るとすぐお茶を入れてお菓子をつまむ。一日家にいる日でも、甘党の私はちょこちょこお茶を入れてお菓子を食べる。もちろん三度三度の食事も取る。その度にお皿を洗うし、食材やお菓子の買い出し、そして調理に時間がかかるのは自明のことだろう。さらに「明日と明後日の夕食には何を、どこで買うのか」「今週は何曜日にどこのお菓子を食べようかナ、そのためには明日の仕事の帰りに**に寄って上生菓子を買って、その後**でビスケットを買って」‥‥と調達の計画をすること自体に実は相当の時間を使っていることに気づかされた。
 食べなければ、これらすべての時間が消滅する。0時間0分。
 どこかのIT企業の社長が「食べることに時間を使うのがもったいない」と、日々サプリメントとウィダーインゼリー的なものだけで生活しているという記事を読んだことがあるが、確かに、食に執着がないなら、そういう生活もいいのかも知れない。人類は食にあまりにも多くの時間を使っている。食に拘束されている。食のことを考えなくていい生活は、魂の開放、食という鎖からの自由!とすら感じる。
       *
 一方で、空腹感こそないものの、「食感」、或いは「味感(あじかん)」とでも言ったらいいのだろうか、そういう何かを求めている自分がいることも実感する。お腹はすいていないけれど、何かが口の中を通った感触がほしい。それも、何でも良い訳ではない。自分が好む味の感触でなければいけない、と切実に思う。
 毎朝食べている気に入りのパンの上に乗った、あの半分溶けかかったチーズのあたたかさ。上生菓子の餡と、その餡を外側から包む練り切り、或いはきんとん部分が舌の上で混ぜ合わさる感触。美味しく炊けた白いお米の一粒一粒の内側からはじき出されて来る熱のかたまり‥‥。それらをむしょうに求めている。

 しかし、今の私に許されているのは、白湯、お茶、スポーツドリンクだけだ。
 番茶の味にもいいかげん飽きてしまったし、スポーツドリンクはどこか薬めいた味がする。そうだ、スポーツドリンクが良いなら、ヤクルトでも大体同じだろう、と、本当はいけないのかも知れないが、こっそり飲んでしまった。
 ヤクルトはふだんから毎日飲んでいる。最近人気のヤクルト1000などの高級ラインよりも、一番安い、標準ヤクルトの味が好きだ。その味の感覚がのどを通過すると、何かが少し満たされた気がする。
 それにしても、三日目でこうなのだから、あと何日我慢出来るだろうか。とりあえず、明日、再び検査を受けて、そこで絶食を終えても良いかどうかの判断が下る。それまでは白湯、お茶、スポーツドリンクの無限ループ。そしてじっと白い皿を眺める。

新年ご挨拶 2022/01/10



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皆様、だいぶ遅れてしまいましたが、新年明けましておめでとうございます。
どうぞ本年もよろしくお願い申し上げます。

寝たきりの母を介護しながら、よっこらしょ、と年を越えました。
認知症とアミロイドアンギオパチー(脳の疾患)、そして末期肺がんの三重苦を抱えた母は、どんなに長くても昨年春までと言われていましたが、まだもう少し命は続きそうです。お医者様にも「奇跡」と言われています。

その分私と父の介護の負担は大きく、精神的にも体力的にも今までのペースで仕事を続けることは難しくなり、昨年後半は多くのお仕事をお断りすることになりました。三十案件ほどはお断りしたと思います。心苦しいばかりですが、どうかご理解頂けますように。年賀状もお送りせず失礼しておりますがお許しください。ブログやSNSも頻繁に更新することは難しく、すべてがぼちぼちと過ぎていきます。

このようなことなので、今年も引き続き静かな一年になるかと思います。何とか母を「家族に見守られている」という安心の中で送り出せるように。そして、無理のない範囲で自分の楽しみや仕事にも取り組めるように。そんな風にささやかに願う年の始まりです。どうか皆様お見守り頂ければ幸甚にございます。どうぞ本年もよろしくお願い申し上げます。
(写真は、久し振りに生けたお正月花。元日の朝に撮りました。ヤフオクで入手した虎のお軸を掛けて)

ananの五十周年パンダと五十代をゆっくり生きることと 2021/06/24



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先日、仕事でマガジンハウスへ行くと、エントランスホールに巨大なパンダのぬいぐるみが置いてあった。
「ananの創刊50周年だから」
と、一緒にいたヘアメイクの高松さんが教えてくれる。そう言えば、ananのキャラクターはパンダだった。表紙の隅にパンダのイラストがレイアウトされていた時期もあったような記憶がある。お上りさん的に記念写真を撮ってもらい、そうか、ananと私はほぼ同年齢なのか、とぼんやり思った。そして、自分の“調子”のことを考えた。

少し前に、女優の深田恭子さんが、適応障害でしばらく仕事を休むと発表した。一昨日には小池百合子都知事が、極度の疲労で一週間ほど静養すると報道された。
これまで元気いっぱいに活動していた女性たちが、どっと疲れてしまう。そんなトレンドがあるようにも見えるが、だとしたら私は最先端にいるかも知れない。彼女たちほど深刻ではないけれど、このところ、今まで普通にこなしていたことが、何倍もしんどくかんじられる。少し休んだ方がいいよ、と肩のあたりに座っている見えない小さな女の子が、耳元でささやいている。

五十代は、更年期の真っただ中だ。意欲の低下や疲れやすさはよくある更年期症状の一つだから、まさにそのせいなのかも知れないし、それから、私の場合は、物理的に母の介護で疲れてしまっていることも大きいように思う。
介護は、もう2年半続いている。しかも去年からは、「コロナ感染させないように」という尋常ではない神経戦付きだ。疲れるのも無理ないよね、と、また女の子が耳元でささやく。

だから、少し、ゆっくり生きようと思う。
介護を休むことは出来ないけれど、納期その他、自分にとって負担の大きい仕事はお休みする。面倒な人とは関わらない。人生には色々な時期があっていいと思う。がむしゃらに走り抜ける時期もあるし、縁側に座ってお茶を飲んでさてまた寝ましょうかねーという時期もあっていい。それぞれが何歳の時に来るのかは、人それぞれで分からない。

モーレツからビューティフルへ、という有名なコピーのことも、不意に思い出した。確かあのコピーはananが創刊された頃に生まれたはずだ。とは言え、かけ声倒れでなかなかこの国に浸透することはなく、バブル時代などモーレツにより加速がかった時期もあったけれど、ようやく50年を過ぎた今、根づこうとしているのかも知れない。少なくとも深田さんや知事を厳しく非難する人はいないのだから。そんなあれこれを、私よりもずっと若い深田さんに、ささやいてくれる女の子がいるといいな、と思う。

ワクチン予約顛末記 2021/05/06



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本日、私の住む武蔵野市は、高齢者のワクチン接種受け付け開始日。
我が家では、二人の高齢者を抱えている。彼らの生命のためにも、私の安心のためにも、一刻も早く打ってもらいたい。
しかし、「要介護4」の母は、歩くことはおろか、車椅子に30分ほど座りの姿勢を保つことも難しい。接種会場に行くこと自体が、不可能。日々診て頂いている在宅診療の先生から、「在宅の方には、専門に回るチームを作り、家で打てるよう市に要望書を出しましたから」と聞いているので、その結果待ち。
今日、勝負を賭けるのは、父なのである。

その父は、昨夜、自分で電話とネットでトライするから大丈夫、と宣言した。
既に予約が始まっている自治体のニュースを見ていると、電話はパンク状態になるはず。ネットが苦手の父、大丈夫なのだろうか‥‥と案じながらも、今日、私は締め切りの原稿を抱えている。朝10時半まで頑張り、ようやく完成。しかし、あと一回、少し時間を空けてプリントアウトを読み返したいので、一旦、仮眠。12時半に目覚めると、「全然つながらないんだ‥」と、父は途方に暮れているのだった。

しかし、まずは母に昼食を食べさせ、そして、毎週木曜日午後1時には、近所の公園にお野菜、お総菜、お米などの移動販売のおじさんがやって来る。ここで今晩と明日のお総菜(とても美味しい)を、私は絶対に仕入れたいのである!
せっせと択んでいると、横では、年輩主婦の皆様が井戸端会議中。もちろん、ワクチン予約の話でもちきりだった。「全然つながらないのよ」などの声が耳に入り、気になって仕方がない。支払いを済ませて輪に入れて頂くと、
「私は8時から電話してるけどダメ」
「サイトにも入れない」
「お隣りの練馬区は明日からですって」
「NTTが一時的にパンクしたのよ(本当???)」
などなど、玉石混交の情報が手に入る。
「コンサートのチケットとは違うんだから、少し待てば必ず打てるんだし、もういいわ」
と、早々にあきらめている方もいらっしゃる。
一人だけ、「夫の分と二人分、取れた」という強者がいて、それは、自力ではなく、他県に住む娘さんに依頼して、ネットから取ってもらったのだという。
「市内からじゃない方がつながるのね」
と、うなずく皆さん。本当だろうか‥?

さて、帰宅し、父の予約番号とパスワードを確認。電話はどう考えても難しいはずなので、ネットでトライすることにする。
とは言え、まあ、無理かな、という気分。朝食兼昼食を食べつつ、鼻歌交じりでサイトのURLを入力するが、これが、異常に長い。特に目の悪いお年寄りには厳しいはずだ。どうしてもっと簡単なものに出来ないのか、と眉間にしわが寄って来る。
それでも、とにかく入力終了。ところがそれは予約ガイドページで、「今回のワクチン確保数5347、現在の予約数2734」などというリアルタイム情報も掲載されている(数字はおおよその記憶で書いています)。
そして、本当の予約サイトは「ここをクリック!」という仕組みになっていた。しかしその「ここをクリック!」が、かなり見つけにくい。このようなやり方では、インターネットに慣れないお年寄りには、訳が分からないのではないだろうか? また非常に心配になってしまう。

それでも、とにかく私は予約サイトを、クリック。出て来たトップページに予約番号とパスワードを入れると、すっと違うページに遷移した。え?え?これはもしや、予約ページでは??100回は連打することを覚悟していたのに、何と、たった1回で予約ページに入っていたのだった。
しかし、あまりにスムーズなことが信じられず、「きっとここは、ただ名前を登録するだけのページなのかもね?」と疑うが、希望の接種日時や、会場を選ぶタブがある。れ、れっきとした予約ページ!初めての宝くじで一等当選パンパカパーン!だった。

こうして首尾よく予約を完了し、まだ信じ切れないので、何度も出来上がったマイページに出たり入ったりしてみるが、毎回ちゃんと予約がされていた。とにかく、これで一人、心配を軽減出来るのだ、と心からほっとする。

その後、母の摘便(もう自力で便が出せないので、浣腸で出してもらう)のため、訪問介護ステーションの看護師さんがやって来る。予約が取れたことを報告すると、
「ええ!」と大きくのけぞっていた。「今日、朝から回ってますけど、初めて取れた人を聞きました」
とのこと。やはり本当に激戦だったらしい。
「予約開始の朝8時から1時間くらいは、市内全体のネットがつながりにくくなって、私たちのタブレットからの報告も打てなかったりで、困ったんですよ。1回で入れたなんて信じられない」
とのことで、少し前に訪問したお宅では、わざわざネット予約のために八王子に住む娘さんが遠征して来ていて、それでも取れていなかったそうだ。

ああ、ふだんビンゴやくじなど、ほとんど当たることがないのに、今日は本当に運が良かった。
コロナ時代のリモート会議で時にカクカクしがちな我が家のj:com回線を不甲斐なく思っていたけれど、今日は頑張ってくれたのだろうか。それとも、1時20分頃、という、ちょうどおじいちゃんおばあちゃんたちがお昼ご飯を食べて、うとうと眠くなっていた時間帯にトライしたのが良かったのか。いやいや、日頃まじめに母の介護に走り回っているので、天からのご褒美だと思うことにしよう。
こうして何か一大事業を成し遂げた気分。こういうことの悲喜こもごものディテールも、コロナの流行が収束すればあっという間に忘れてしまいそうなので、書き留めておく。

コロナ禍の暮らしの中に生まれた新しい小さなものたち 2021/03/04



最近、ふと部屋を見回すと、1年前には存在していなかった“小さなもの”が増えていることに気づいた。すべて、この1年のコロナ禍に対処するために、自然発生的に作り出していた小さな工夫の産物で、たぶん、小さなことだけに、コロナが収束したらあっという間に片づけて消えてしまうのではないかと思う。そして、忘れてしまうのではないかと思った。
だから、記録してみたい。歴史好きとしては、民衆が未曽有の事態をどう生きたかの記録を残すべきだ、という考えもある。
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↑さて、まず一つめは、こちらのおもちゃのアイスクリームのような小物。何だか分かる方はいらっしゃるだろうか?
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↑ふだんはこんな風に部屋に置いて使っている。私の部屋は、玄関を入ってすぐ右横の場所にあり、そのドアを開けたすぐ足元に、マグカップに立てて置いている。
正解は‥
電気のスイッチ押し機!
(ポケットから道具を取り出したドラえもん風に)
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↑こちら、柄の部分を見て頂くと、「マルゴット・シュミット」というブランド名が入っている。私は知らなかったのだけれど、ネットで調べると、ドイツのブラシ会社らしい。通販好きの母が認知症発症以前に購入していたもので、馬の毛を使ったボリュームアップ効果抜群のカーラーを、それも何種類も、用途によって銀色の棒の部分に付け替えて使う。
‥しかし、私はそういうことが面倒なので断捨離しようかと思っていたら、コロナ生活に役に立つじゃない!と雷に打たれたように気づいたのだった。

そう、コロナ禍の今、外出から帰って来たらまずしなければならないのは手洗いだ。しかし、夕方以降に帰宅すると、とにかく家の中が暗い。だから手洗いの前に電気のスイッチを押さなければ、洗面所にうまく直行出来ない。しかし、コロナに汚染されている‥かもしれない手でスイッチを押せば、スイッチが感染源になってしまう可能性がある、という理屈は、この一年で全国どなたも身に染みているだろう。
そこで、この“元ブラシの柄”ちゃんを使う。この子をドアのすぐ横の場所に立てておき、帰宅して部屋に入る際にさっとつかんで柄の先の銀の棒状部分で押せば、明かりはつくし、スイッチも汚染されない。しかも、手で押した場合に必要な消毒の手間も省けるのだ。
しかし、私は性格は武士的にきっぱりしているものの乙女かわいい心満載な方なので、棒状部分のむき出しの状態がどうも落ち着かない。そこで草木染のハンカチを巻いてみることにした。黒×ミントで、何だかチョコミントアイスみたい。きゃーかわいい!ということで、かなり気に入った小物になった。
ちなみに私の部屋の洗面所の蛇口は押し上げ式なので、この子で押し上げることも出来る。お家に「マルゴット・シュミット」の柄がなくても、例えばドライバーで同じように代用出来るはずなので、スイッチの消毒に飽き飽きしている皆さんはぜひお試しください!

そして次は、こちら↓
%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%AF%E5%AF%84%E3%82%8A.jpg 本棚に下がった謎のフック。こちらは、こんな風に使っている↓
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じゃーん、「マスク掛け」!
我が家では、母が認知症だけではなく肺がんも患っているため、感染させたら、即、死。そのため、家の中でも、母の部屋に行く時はマスクをしなければらならない。しかし、さすがに一回ごとに使い捨てるのはもったいないので、一日一枚使用、と決めている(外出時のマスクはまた別)。このマスクをどこに置くか、が悩ましかった。
そこで思いついたのが、「S字フック」を使うこと。S字フックは、もう、羅針盤に匹敵する一大発明、と個人的には思っている大好きアイテムで、どっさり持っている。
中でも、吉祥寺に山ほどあるおしゃれ雑貨店のどこかではるか昔に買った焦げ茶色ツヤ消し仕上げのS字フックに、ちょっと高級なリボンを巻いてみると、インテリアを壊すこともなく、しかもマスクの内側面はどこにも触らず、清潔をキープ。どうでしょう?こちらも著作権フリーなので、家でもマスクをしなければならない事情のある皆さんは、じゃんじゃん真似してください。
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それにしても、万事マスク着用でなければ外出もままならぬ世の中。
何と言ってもこの一年で一番買ったものと言えば、マスクだと思う。一時期まったく購入出来なかったあの頃の焦燥感が染みついているため、常に多めに買って、洗面所の棚にこのようにストックしている。さらにここの他にもまだ数箱蓄えている。
コロナ前は、この写真の棚の中央に、籐の箱を置いていた。それがいつしか左側に寄せられ、マスクの箱を置くようになった。自分では、いつからこうし始めたのか覚えていないけれど、これもコロナ生活の一つの風景だと思う。

         *

さて、買い物から帰宅したら、買ったものを一旦どこかに仮置きして、消毒すべきものは消毒、その後、使用したり本格的に収納したりする。これもコロナ生活での新生活習慣になった。
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↑私の部屋では、上の写真のように、もはや骨董の部類の古い踏み台を“一旦置き場“に使い、その後‥
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↑“消毒しないグループ”に仕分けた食べ物は、こちらの別の籠に仕訳けるようにしている。いざ食べる時は手で開封し、中身をお皿などに移し、手の方を洗えば感染のリスクはない。ただ、手を洗い過ぎて指先が荒れて来たりもするため、薄手ビニール手袋をして開封することもある。そのビニール手袋を‥
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↑こんな風に、また別の籠に入れて台所の片隅に床置きしている。
この籠は、近所の東急百貨店の催事で母が買い物をした時に、おまけでもらって来たもの。本来は花生けなのだけれど、こうして使うのにぴったりの大きさだと気づき、目的外使用することにした。
実は、最初は、手袋を布のバッグに入れて壁にかけていた。でも、布だと強度がないため、ふわふわ軽いビニール手袋が中に沈んでいってしまうことも多い。籠なら、使用後にさっと素早く手を抜き取れば、手袋はセミの抜け殻のように元の形を保って放置出来る。次に使う時は、差し入れ口の端に少し手を添えるだけですっと入れることも出来る。非常に便利で気に入った使い方になった。

       *

コロナ生活と言えば、毎日こまめに検温をするようになった方も多いのではないだろうか。私もその一人で、しかも手持ちの体温計がかなり古いものだったため、途中で最新のものに買い直すことにした。ところが‥
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↑上が、自分用に買い直したもの。下が、父のために買ったもの。
父は、元祖父母の家だった、同じ敷地内の離れで主に居住しているため、もう一本必要だろうと買って来た‥が、“妻や娘が良かれと渡したものを決して使わない男”として有名なわが父。今回もまた使わないかもねー、と思っていたらやはり使おうとしないため、結局、私が二本使いすることに。‥すると、珍事が発生したのだ。写真で温度の部分を見て頂くと分かるのだが、同じオムロン製であるにも関わらず、毎回常に約1度の差がある!
これにはなかなか当惑させられる。1度の差はかなり大きいのではないだろうか?と言っても、考えても理由も分からないし結果も変わらないため、今では間を取って、「真ん中の値が今の体温」と思うことにしている。
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そんなコロナ生活も悪いことばかりでもない。
多くのカルチャーセンターがオンライン講座を始めたのは、仕事の取材や締め切りの日程が常に不定期で、決まった曜日の講座に通いにくい私には嬉しい変化だった。
早速、武蔵野大学サテライト教室の講座に申し込むことにした。前から勉強したかった「論語を読む」を受講。生ではなく録画配信のため質問は出来ないけれど、その分、すき間時間に少しずつ勉強出来るのが、とてつもなく勝手がいい。しかも大学レベルの先生方の授業が聞けるのだから、こんないいことはないと思う。コロナが終わっても、各校、ぜひ配信授業は続けてほしいと願っている。

もう一つ、コロナで始めた新しいことは、昼間にゆっくりお茶を飲むこと。夜型の私は原稿は夜に書き、その前に、まず抹茶を点て、上生菓子を一つ頂く、というのを仕事前の儀式のようにしているのだけれど、コロナで家にいる時間が増えた分、昼にもお茶を飲みたいと思うようになった。
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↑そこで、こんな風に、簡易な“昼お茶”セットで和室で、庭を眺めながら点てるようになった。
茶の湯各流儀の“盆略点前”よりさらに簡単、かつ自己流の、自分のための一揃い。
釜で沸かすと後の片づけが大変なため、南部鉄瓶で代用。ガスコンロで沸かしたものをそのまま持って来る。水指はなし。茶巾で拭く、ということもしない。写真には写っていないけれど、建水は左に置いて使っている。
そして、お茶だけは、購入したそのままの缶ではどうもやっつけ感が出て美意識的に許容出来ないため、棗に移して。ちょうど父の知り合いの方から頂いた、木地に金で七宝模様が象嵌されたとても品の良いものがあるので、もっぱらこれを愛用している。
こうして、省略出来るところは全部省略して、簡単に、気楽に。そうすれば長く続けられる。
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↑ちなみに、知りたい方もいらっしゃると思うので、この写真の日の梅の絵柄の茶碗は、十四代沈壽官による薩摩焼。お菓子は阿佐ヶ谷「うさぎや」の鶯の練り切り。梅に鶯の組み合わせで頂きながら、庭の梅の木のつぼみから開花までを眺めて過ごした。
まだしばらくは続くだろう忍耐の日々を、小さな工夫とともに乗り切っていきたいと思う。

新年ご挨拶~~コロナ禍でのこれまでとこれから 2021/01/06



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皆様、新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
     *
年頭に当たり、近況報告も兼ねて、コロナ禍の中での来し方行く末について、雑感と抱負のようなものを記してみたいと思う。「です、ます」ではなく「だ、である」が自分自身の文体であるため、ここから突然文体が変わることをお許し頂きたい。

さて、きわめて個人的に昨年一年を振り返れば、重度の肺癌、かつアミロイドアンギオパチー(脳の疾患)、かつ中程度の認知症という三重苦の持病を持つ母を抱えて介護生活二年目に入ったところで、コロナという新たな困難が突然背中にのしかかって来た。
泣きっ面に蜂と言うのか、弱り目に巨大な祟り目とでも言ったらいいのか‥殴られても殴られても何とか立ち上がって来たのに、これ以上まだ殴られるのか、という思いだった。
もしも私がどこかでコロナをもらって来て母にうつせば、ほぼ百パーセント、その死は免れない。自分が親の死の原因になってしまうかも知れない、というたとえようもない恐怖にさらされながら、一年間、一日一日、毎分毎秒を生きることになった。
正直、もうくたくたであり、時々、立ち上がることも出来なくなって、しばらくぺたっと床に座っている時がある。私の味わっている苦しさは、同じ立場に立たされた人以外、決して分からないだろうと思う。
       *
一方、こうして一年を通過する間に母の癌は一段と進み、現在、いわゆる“最終ステージ”に入っている。秋の初めに、もしかするともう年は越せないかも知れないと主治医に言われ、通院での治療ではやれることがないということで、在宅治療に切り替えることなった。
それでも、まだ、母は生きている。
末期癌につきものの痛みも今のところはなく(もちろん痛みを抑える薬は投与している)、ベテランのケアマネさんの話では、家で過ごす患者さんは不思議と痛がらない人が多いとのことで、母もこのまま逝ければ良いな、と心から願っている。
おそらく、来年のお正月は、もう一緒に迎えることは出来ないだろう。静かに、平和に、母を送り出すことが出来るように。ここまで最善を尽くして来たという自負があるから、心残りはもう何もない。今まで続けて来たことを、最後の日まで、丁寧に、淡々と続ける。それだけを思って毎朝母の顔を見る。
       *
こうして介護の日々を送りながら、一方で、仕事も続けて来た。
二年前、母の調子(特に頭の調子)がいよいよ悪くなってきた時に決めたことは、仕事は絶対に手放さない、ということだった。
フリーランスの文章書きという私のような立場の人間は、一度前線を離脱してしまえば人のつながりは切れてしまうし、自分が得意とする分野の最新の動向にもどうしても疎くなってしまう。「介護は一年だけ」と決まっているならまだ見通しも立つけれど、何年続くか分からない中で一度手放せば、終わった時に残るのは空っぽの自分だけだろう。冗談じゃない、という思いだった。
けれど、このコロナ騒動では、期せずしてしばらく仕事を休むことになった。連載も休載になったし、新しい仕事の依頼もパタリと止み、注文が来ないのだから自分のせいじゃない。やりようがない。前から書きたいと思っていたものの時間が取れずに書けないでいた長いものを書いているうちに、秋になる頃からまた依頼のペースが戻って来て、気がつけば連載も一つ増えていた。今はかなりと言うか、非常に忙しく過ごしている。
もちろん、第三波、或いは第四波と続く中でまた依頼も途切れるのかも知れないけれど、このまま流れるまま、呼ばれるまま、呼ばれる限りは一つ一つの機会に全力を尽くして書き続けていきたい。
       *
そして、こうして介護と仕事に力を傾ければ、どうしても、プライベートと言うのか、遊びの時間――趣味の時間や人との交際の時間は、犠牲にせざるを得ない。これは仕方のないことだと思っている。もちろん、私の場合は、仕事と趣味が重なっているところが多いし、もともと出不精なこともあって、この状況はさほど苦になっていない。
と言うか、たぶん、根本的にもともと欲張りではなく、更にまったく完璧主義者でもないため、何もかもを全部しっかり、いわゆる“素敵な生活”的にきちんとこなそうとか、人が楽しんでいることは自分も全部楽しみたいという気持ちがはじめからないから、苦を感じずに済んでいるのだろう。SNS映えはまったくしないけれど、コロナという、人を地味にさせる状況下では、期せずして強みを発揮する性質、なのかも知れない。
       *
そして、このコロナという誰も経験したことのなかった新しい状況に対処していく中では、よく言われることだけれど、人の特性がはっきりと見え、この一年、驚くこと、失望することも多かった。もちろん、私も誰かを失望させているのかも知れない、とも思う。
けれど、先ほども書いたように、もともと完璧主義者ではない分、誰とでも仲良くしようという気持ちもないから、ざっくばらんに言ってしまえば、もうたくさん、と見切りをつけた人も多い。あまりに軽率な人。その反対に、あまりにヒステリックに恐怖の感情をまき散らす人。一方でバカの一つ覚えのように、ひたすらポジティブを押しつけて来る人。それぞれ、もう結構です、と胸の中で区分けした。
冷たいと言われるかも知れないけれど、それで結構。こちらも親の生き死にがかかっている中で必死で生きているのだから、つき合う相手を選ぶのは当然のことだと思う。
仕事も、人間関係も、流れるままに。流れの中で、必要のないもの、もともと縁の薄かったものはきれいに剥がれ落ちていく。すっきりと、さっぱりと、生きていこうと思う。  
       *
ところで、冒頭の写真は、昨年一躍知られることとなった“アマビエ”をかたどったお菓子(三田の「大坂屋」製)。本来なら知恵を尽くして美しいお皿に載せるべき上生菓子を、敢えて、漆がひび割れ、もう捨てるしかないぼろぼろのお皿に載せてみた。
そう、これは、赤い日の丸の見立て。今、ぼろぼろに傷ついている日本というこの国に、そろそろアマビエが立ちのぼり、ゆっくりとでも活力を取り戻していける年となるように。そんな願いを込めて――一日一日を生きていく。

一日一日 2020/11/17



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この二週間ほど、とても難しい、大きな仕事が重なって緊張が続き、一段落したらほっとして廃人になってしまった。
やっとこちら側に戻って来て、まずはきものでリハビリを、などと称して最近父の知り合いの方がまとまって譲ってくださった手の込んだきものや帯の中でも特に好みの何枚かを広げてうっとりと眺めていると(写真の緑地の帯と絞りのきもの、濃い紫地にぽつぽつと模様が散ったきもの)、ふと、母が以前購入して、なかなか素敵なのだけれど手持ちのきものに合うものがなかった帯と、よく合いそうだと気づきほくほくしたりする。

庭を見れば、いつの間にかツワブキが強い黄色の花をあちこちで開いていて、我が家にやって来る野良猫の中でもご飯くださーい!ご飯くださーい!と鳴く声が歴代最高にギャーギャーうるさく“ギャー子”と名づけた灰色の猫がうとうととまるで我が家の猫ですという風情で日向ぼっこをしている。肩をすくめて部屋に戻ると正真正銘の我が家の猫チャミも私のベッドの日差しの領分で昼寝をしていて、私が近づいて声をかけてもすぐまた目を閉じてしまうのだった。

世間ではコロナウイルスが三度目の流行に入り、でも、肺がん持ちの母を家に抱える私は仕事の打ち合わせと取材、書の稽古、日々の買い物。あとはたまに美術館に行くぐらいでそもそもほとんど出かけていないから、生活はこの十か月間と何も変わらない。
その母は、認知症が進んで一緒に語り合える思い出は波に侵食されてやがて消えてゆくて小さな島のように日々その土地を失ってゆき、そして、精密検査によればがんは確実に体中に散らばりを見せている。命の尽きる日もそう遠くないことを思い知らされる。
それでも、一日一日を、ただ生きている。私も、母も。ツワブキに蝶がとまり庭の上の空を太陽がゆっくりと動いてゆく。

マスクと人情、そして国家 2020/05/25



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ようやく首都圏の緊急事態宣言も解除されようとする今、この、誰も経験したことのなかった混乱と緊張の日々をともにして来たマスクを、一堂に並べてみている。
実は、この写真に写っているマスクは、すべて、友人から頂いたものだ。
3月上旬、全国でコロナウイルスの市中感染が加速化していた頃、ブログを書いた。我が家には、肺と脳に重度基礎疾患を持つ母がいて、感染させたらほぼ確実に死を免れない。だから、このコロナウイルス禍の中、私は最も厳しい条件を生きることになってしまった。その苦しい状況に同情を寄せてくれた日本のあちこちの町の友人、そして海外の友人が、次々とマスクを送って来てくれたのだった。

この中には、洋裁のプロの友人から頂いたマスクもある。現在、仕事としてマスク製作も請け負い大変多忙にもかかわらず、私には無料、「送りつけます!」と冗談めかして送って来てくれた。
それから、手先が器用な友人が、ちゃちゃっと手ぬぐいを縫って作ってくれたマスクもある。ちゃちゃっとと言っても裏側はガーゼになっている、素晴らしく快適なものだ。
また、写真の手前1枚目と2枚目のマスクは、広島の和裁工房「シルフィールド」の岡上誠さんから頂いた。おしゃれな上に、銀イオン抗菌という最先端の抗菌生地を使ったもので、市販されているものだ。その「試作段階のサンプル品だから、お金は取れないよ」と、断固として代金を受け取ってくださらなかった。
(シルフィードのマスクを購入されたい方は下記URLから)
https://www.akin-do.com/shop/products/list.php?category_id=2

       *
それから、ここには写っていないマスクもある。
香港の二人の友人から、「マスクを2,3箱送りたいから、真矢の住所教えて」とメールが来た。二人とも、日本語はそれほど出来ない。それでもふだんから近況をメールし合っているし、ブログの漢字を拾い読みして状況を察し、送ろうと思い立ってくれたようだった。

この二人からの申し出は、気持ちだけ、心からありがたく受け取って辞退した。
昨年来、香港の政治状況は大変厳しく、抗議活動を続ける市民に対して、香港政府が「覆面禁止令」を出したことを記憶している方も多いと思う。その数か月後、コロナウイルスが発生して、一転、香港政府は厳しく「マスク着用」を義務づけるという皮肉な成り行きになっているが、けれど、いつまた「覆面禁止令」が復活するとも限らない、とも思う。その時に、不織布マスクだけは、まだ1、2年は終息しないだろうこのコロナウイルスの感染予防の観点から、政府は禁止することは出来ないはずだ。
だから、不織布マスクは、友人たちが抗議デモに参加する際に身元を隠すための、命綱になるかも知れない。そう思うと、とてももらうことは出来ないと思った。どうか大切に、万が一の時のために家に保管しておいてほしい。私には、遠く離れた土地から私のことを思ってくれた、その友情だけで十分だった。

       *

最後に、手前から3枚目のマスクは、日本人の友人から届いた。
これは手作りの布マスクではなく不織布マスクで、真新しい60枚入りの一箱が送られて来た中の一枚だ。街中どこにもマスクがなく、毎朝、薬局の前に行列が出来、時には小競り合いさえ起こっていた頃のことだ。箱を開けるとぎっしり60枚、白いマスクが詰まっていて、夢かとさえ思った。
「地方に住む母が私にと送ってくれたものだけど、その母の許可も得て、大変な思いをしている西端さんに送ります」
そんな内容のメッセージが添えられていた。「人は本来、分かち合って生きるものだと思うから」ということも書かれていた。

‥‥これらの一枚一枚のマスクを受け取った日のことを思い返すと、今でも涙がこぼれそうになる。そして、ともすれば力尽きそうにもなった厳しい毎日を、再びしゃんと背筋を伸ばして暮らしていく気力を、彼らの友情が支えてくれことを思い出す。いつか、このコロナウイルスが終息した後も、このマスクたちは私の一生の宝物になるだろう。
       *
そして、ひるがえって、この国の政府のことを考える。
実は、一箱頂いた不織布マスク60枚の半分は、訪問介護ステーションに寄付することになった。このコロナ禍でも、いつもと変わらず母の定期診療に来てくれていた訪問介護ステーションの看護師さんに、或る日、マスクの調達はどうしていますか?と訊ねると、もうストックを使い果たして、国からの支給もまったくないとため息まじりに話してくれた内容に驚愕した。
「毎朝、私も含め、看護師、リハビリ療法士、事務職員、交代で薬局に並び、今日は3袋買えた!とか喜び合ってるんです」
その話を聞いて、これはもう絶対に寄付しなければいけない、と思った。世界でも最も高齢化が進んだこの国で、プロフェッショナルの助けなしには、我が家のような介護者家族の生活は成り立たない。だから、介護従事者は、日本社会を支える絶対に必要不可欠な大切な人材だ。

その彼らに、国から、一枚のマスクも届いていない!
このコロナ状況下、彼らは、一軒一軒、「自分の見ている高齢者さんに感染させないように」と神経をすり減らしながら担当の家を回り、リハビリや看護を行っている。それなのに、あろうことか、寒空の下、一般の人に混じって薬局に並ぶという新たな重荷を背負わされていた。先進国であるはずの日本で、こんなことが起こっていいのだろうか?
30枚の新品のマスクを渡すと、看護師さんは涙ぐんでいて、私も胸がいっぱいになってしまった。でも、ここは泣くところじゃない。怒るところなんだ、と、ぐっと唇をかみしめた。心の底から日本政府に対して怒りがこみ上げて来た。

       *

もちろん、今回の事態は、どこの国も経験したことのない未知の災厄だ。政府も、市民も、マニュアルのない新しいサバイバルゲームの中に突然放り込まれ、でも、だからこそ、個人であっても、政府であっても、その真価が浮き彫りにされたと思う。
あまりにも多くのことが起こったから、もう記憶が薄れかけてさえいるけれど、思い出してみれば、流行の初期、国民一人一人が肌感覚で「もうお願いだから、今は中国の人を入国させないでほしい」と、街を闊歩する中国人観光客に恐怖を感じていた。それなのにこの国の政府はずるずると、「もう本当にここまで来たら危ない」という瀬戸際まで、彼らを入国させ続けた。
家賃が払えなくなるかも知れない、従業員の給料を出せないかも知れない、そういう不安を抱える人が出始めていたにもかかわらず、国会議員の間では「和牛お肉券を配る」という、冗談としか思えない“救済案”が議論されていたことも思い出す。来月の資金繰り、数週間後の資金繰りに焦っている人々に、複雑極まりない手続きをしなければ支給されない給付金制度を始めようともしていた。
そして極めつきがあのアベノマスクだ。

私は、布マスクの配布自体は、100パーセント悪いアイディアだったとは思わない。
たとえば、今、無印良品が販売しているようなシンプルビューティーなマスク、或いは小池都知事のマスクのような、ちょっとしゃれた布を使ったマスクだったら、多くの国民が積極的に使ってみたいと思ったのではないだろうか。
日本は、昨日戦争に負けて、瓦礫と闇市の中から立ち上がろうとしているド貧乏な1945年の日本ではない。或いは、政府支給の物品を黙々と受け取る往年の共産主義国でもない。高度成長とバブル経済を経て、世界でも相当レベルのファッション大国、デザイン大国として、今、2020年のこの日本は存在している。その国民に、半世紀以上時間をさかのぼったような超絶古くさいデザインの、しかも何故か現在の平均的マスクサイズからは異様に小ぶりのマスクを送りつける。「ださ過ぎてつけたくない」「何かの悪い冗談?」「こんなものをつけたら笑い者になる」と国民が思うのは当然だ。(ちなみに私は家の中で母と接する時にだけ使っている。とても外につけて出て行く勇気はない)
       * 
一体どうしてこれほどのずれまくった顛末になったのか?
工場に発注に出す時に、必ず仕様書があったはずだし、おそらくサンプルも作っただろう。誰もチェックしなかったのだろうか?国家事業でそんなことはあり得ないだろう。
その段階で、別に有名デザイナーではなくても良かったから(もちろん有名デザイナーが超クールデザインのマスクを打ち出し、世界から「日本すげー!」と思われる展開だったらもっと良かった)、どこかのアパレルメーカーか、或いはふだんからマスクを販売している花王のような会社の内部デザイナーに依頼していたら、こんなばかばかしいデザインは絶対に出て来なかったはずだ。おそらく最初に挙げた無印のマスクに近い、シンプルで、機能的なデザインが上がって来たことだろう。

私は、このマスクの一事に、今の日本政府のすべてが象徴されているように思う。
「国民はマスクで困っている。だからとにかくマスクを与えておけばいい」
という、形式主義。けれど、先進国の生活は、その「マスク」なら「マスク」という一つの事物に美や情緒が投影され、それを享受することを標準としている。良い悪いの価値判断はさておき、それが先進国の「豊かさ」、形式の内側にある内実というものだろう。
その豊かさをまるまるはぎとったものを平気で送りつけて来るということは、政府は、国民の標準の感覚、つまりは生活の内実に全く思いを寄せられていない。そう結論するしかない。
「はいはい、マスクがほしいんでしょ。だから、はい、マスク。これでいいでしょ」という、「やった」という実績だけ残せばいいという姿勢。まさに形式主義の極みだ。或いは、「和牛券を提案すれば、肉業界の票がもらえる」という、これも、実に短絡的で、国民全体の苦しみという内実に目が届かない、選挙病の形式主義と言えるだろう。

もちろん、政府は、ともかくここまでは、感染の大爆発を抑えることには成功した。この点は高く評価すべきだと思う。生命と医療システムを守るという生活の最も基礎のライン=形式の維持には成功したのだ。
しかし、生活には内実があり、それは経済であり、日々の無数の小さな営みの数々であり、そこに寄り添った政策をどれだけ打ち出せて来たか、という点では低評価にならざるを得ない。感染爆発防止に成功したにもかかわらず、各種調査で政府への評価が非常に低いという世界でも珍しい現象は、だからこそ起こっているのだと思う。
     *
ただ、今回、良かったことは、この政府の激しくずれた形式主義に、その都度、主にSNSを中心として、大きな怒りの声が上がったことだと思う。そしてそのうねりが間を置かず政策を動かすという、新しい流れも生まれて来た。
これまで、私たちは、選挙という非常に時差のある手段でしか政策評価行動を取れなかったけれど、SNSの生活インフラ化により、知らぬ間に、リアルタイムでの評価行動が取れるようになっていた――本当はずっと以前から起こっていたこの大きな変革を、新型コロナウイルスを生き抜こうとする苦しい過程で、多くの人がはっきりと意識するようになった。それが、この冬から春にかけて私たちが経験したくさんの変化のうちでも、最も大きな変化の一つなのかも知れない、ということを、マスクを眺めながら思ってみたりしている。

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stay home 新誂えの江戸小紋で、インターネット茶会に参加の巻(コーディネイト付き) 2020/05/15



東京ではまだ緊急事態宣言が続いています。そんな中、先週末は、“インターネット茶会”という新しい試みに興味を感じ、参加してみることにしました。
洋服での参加でもまったく構わなかったのですが、仕立て上がりほやほや、廣瀬雄一さんのところで新しく誂えた江戸小紋があるのですから、この日をお披露目と決めました。
今日のブログではその茶会の様子ときものの詳細、そしてコーディネイトをご紹介します。
      *
まずは茶会について。
コロナウイルス蔓延で、生活の様々なことが変化を余儀なくされて来たこの数か月。
お茶の世界でも、各お家元が、今はお稽古を休んで自服の時を過ごすようにと通達を出したり、流行が収まるまでは濃茶の回し飲みはしないようにとの呼びかけもあるようです。
そんな中、表千家の若き宗匠、岡田宗凱さんは、ふだんから行っている茶の湯ワークショップ「世界茶会」のzoom開催を始められました。
どんなことでも、先陣を切って行うのは、勇気も困難も、後から行く人より数倍多いもの。その心意気に感じたことと、単純に、インターネットでどんな風に茶会が出来るのだろう?という興味から参加しました。

当日は、東京、長野、淡路島、姫路など九カ所の皆さんのご自宅とつながり、リモートワークでおなじみのあの小さな枠の中に皆さんの顔が映ります。
たまたまでしょうか、今回、全員きものでの参加。和室の方もいらっしゃれば、洋室の方、また、テーブルでお茶を点てている方もいらっしゃるようでした。
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私は、折角家に和室があるのだから、と風炉を置いて、和室から参加。その様子が上の写真です。
この部屋は、茶室ではなく、奈良に住んでいた父方の祖父が度々仕事で上京するため、滞在時用に作った書斎。新型コロナの感染者数が日に日に増え、これは日本も非常事態宣言が避けられない‥と見えて来た時、真っ先に思ったのが、「風炉を買おう」ということでした。家での時間が増えるのなら、ちゃんとお茶を点てて呑む時間も出来るはず。恥ずかしながら、これまで自宅で点前を確認する時は、電気プレートにちょっとおしゃれなデザインのホーロー鍋を置いて代用していたのですが、この機に風炉を手に入れようと思ったのです。
と言っても、コロナのため、連載も一時休載を余儀なくされている緊急財政下、つつましく、中古品を探そうと毎日ヤフオクとにらめっこ。運良く、ほとんど、いや、一回も使われていないのでは?という風炉と釜の一式を購入出来ました。
水指と茶碗は、この部屋を使っていた祖父と交流のあった、奈良の赤膚焼きの松田正柏によるもの。風炉先屏風は、友人のおばあ様の遺品を頂いたものです。
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さて、茶会は、席主である岡田先生より、五月の茶事の位置づけなどについてミニレクチャーがあった後、先生のお点前。ここでは先生が大写しになります。そして事前に送って頂いていたお干菓子を頂き、各自がお茶を点て、一緒に頂く‥という風に進みました。テーブルでされている方もいらっしゃるので、お茶を点てるその手順は、正式でなくても構いません。要はお湯とお茶と茶筅があれば良い訳です。私も、茶筅すすぎは茶会開始前にしておいて、いざお湯を組む時も水指の蓋は閉じたまま、略式で点てて頂きました。形式より、皆さんと同じスピードで進めたかったのです。
このような形で、全体で一時間ほど。お茶をいただく際には、上のように画面にご相伴の皆さんの顔が映し出され、同時に頂くことが出来ます。

全体を振り返ると、まず、一方的に席主が話すのではなく、お茶をいただいた後は双方向の会話の時間も作られていて、人と交流している、という感覚があるのは、家族以外の人と話す機会がほとんどない今、非常に大きな気分転換になりました。
また、実際の茶会では、席に座るとすぐお運びの方がお菓子をお持ちになり、それをきちんと受け取らなければ、そそうのないよう隣りの人に回さなければ、もたもたしないように食べなければ‥などなどやることが多く、案外ご亭主のお点前をしっかり見ることが出来ないことが多いと思うのですが(私だけ?)、インターネット茶会ではじっくりとお点前を拝見出来るのは、一つの利点だなと思いました。
‥そんなこんなであっと言う間の一時間。皆様もこうしたインターネット茶会に参加したり、親しい人同士で茶会を開くのも楽しいかも知れませんよ!

  *

ここからは、新しい江戸小紋の詳細を。
ブログでもご紹介していた通り、昨年末に廣瀬さんの工房に伺い、あれこれ型紙を見せて頂いた中から「斜め格子」の一枚を択びました。江戸小紋の典型である極小柄ではなく、中形に当たるほどの大きさになります。
今回の誂えの目的は、手持ちの様々な帯の“最高の舞台”となる一枚を作ること。模様も色も、あまりにかわい過ぎたり個性が強過ぎることなく、でも、人とは少し違うものにしたい。
また、ちょっとした食事会や目上の人に会う際にも着ていけるレベルの“きちんとさ”はほしい。
そんな要望を廣瀬さんにお話しし、淡いベージュに染めて頂きました。寄って撮ったのがこちらの写真です↓
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手持ちの帯をあれこれ合わせてみると、狙い通り、青系、グリーン系、臙脂系、黄色系、黒系、白系、すべての色系統、また、模様も、はんなり系もキリリ系もどちらも受けとめてくれます。
廣瀬さんが択んでくれた、変わりうろこ文様の八掛もかわいらしく。
この春は自宅デビューとなりましたが、次の袷のシーズン、秋から大活躍してくれそうです。
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そして、この日のコーディネイトが上の写真です↑
「渡文」のしゃれ袋帯を合わせてみました。本当に茶会に出かけて行く場合にはカジュアル過ぎる帯ですが、自宅からのインターネット茶会なので、その日の気分に合った帯で良いかと。
まるで染めたかのように、織りで繊細に花鳥の文様を織り出しているところが気に入っています。帯揚げは、こちらも非常に気に入っていてヘビーローテーションの、「ゑり正」の麻の葉絞りの一枚を。帯の模様より一段明るい冠組の帯締めを全体を引き締めて。
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↑お茶会終了後、一人でもう一服していると、猫のチャミが覗きに来ました。
この子は、これまでも稽古をしているといつもやって来て…建水や水指の水を、飲みます笑
点前が始まったばかりでまだ建水が空の時は、「お水が‥?ないのですが‥?」と見上げて来たり。今日は外にのらちゃんが来ていたので、お茶より庭が気になっています。

東京ではまだもう少し緊急事態宣言が続きます。
解除後も、これまでとまったく同じ生活が戻って来る訳ではないし、第二波、第三波が来る可能性も少なくはないと思っています。その中でも、お茶やきものを楽しむ時間を大切にしたい。改めて、どちらも自分にとって本当にかけがえのないものなのだということを、このstay home生活で感じています。

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お宝写真 2020/04/20



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コロナ巣ごもり生活の中、私は仕事の原稿書きで猛烈に忙しく(でもこの後は暇になると思う…)、資料を探していたら、こんな写真を発見。
推定七、八カ月頃の、私。
やりたくもないぶら下がりジャンプ器に吊り下げられた、無力感。
運動嫌いはこの頃からだったのか‥
母よ、父よ、こんな冴えない赤子を棄てずに育ててくれてありがとう…
くさくさしがちな毎日、笑って頂けましたら幸いです。

感染=死。肺の重度基礎疾患持ちを家族に抱えてコロナウイルス下を生きる 2020/03/12



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2か月前、もしも誰かが私に、
「今から2か月後、あなたは深夜、熱湯に或るものを浸し、割り箸しでゆさゆさ揺するようになります。それは何でしょう?」
と質問しても、まったく見当もつかなかったに違いない。
今、私は、深夜にお湯を沸かし、沸騰後、たらいにそそいでその日に使ったマスクを入れ、割り箸でゆさゆさと揺すっている。数10秒揺すったら裏返し、また数10秒揺すったら裏返す。それを数回繰り返す。まるで天麩羅でも揚げているようで笑うしかないが、新型コロナウイルス流行と深刻なマスク不足によって生まれた、新たな日常風景だ。

今、日本のあらゆる街で、いや、もう世界中の街でと言った方がいいのだろう、2カ月前には想像もしなかった風景が日常を侵食し続けている。まるでウイルスのように。
多くの人が不安や緊張を強いられて日々を送っていると思うが、中でも私のそれは普通の方をはるかにはるかに超えるものだと思っている。何故なら、私は、同じ家の中に、肺の重度基礎疾患持ちの母を抱えているからだ。
そう、あらゆる通達や報道で、「重症化しやすい」「死に至ることも」と記される、肺の基礎疾患持ち。母の疾患はその最も高いレベルにある。
今日のブログでは、そのような基礎疾患者を抱える私が何を感じ、思いながら、この新型コロナウイルス下を生きているか、そしてこれからを生きようとしているか、を書いてみたいと思う。

      *

私の母は、15年前に肺癌を患い、右肺の5分の2を切除した。だから普通の人より呼吸を出来るスペースが絶対的に足りていない。更に5年前、癌は左肺へ転移し、現在、投薬治療を行っている。悪いことには約1年半前から、新たに脳の血管の病気を患うようになり、それを押さえるための強い薬も服用している。こういう人が新型コロナウイルスに感染した場合、ほぼ確実に、死に至る。

新型コロナウイルスに関する報道が始まり、重症化する人の特徴が分かって来た時、だから、私は激しいパニックに襲われた。それは何か、目に見えない巨人のような存在に首根っこをぎゅっとつかまれたような、或いは見えない斧のようなもので頭を二つに割られたような、言いようのない恐怖の感覚だった。
母は足が悪く、外に出ることが出来ない。だから、万が一新型コロナウイルスに感染するとしたら、それは、私か父がもたらすものということになる。
自分が、母の、死の原因になるかも知れない!
――そう思い当たった時、私は恐怖に縛りつけられたのだ。

     *

もう世界中の人が理解しているように、今回のウイルスの厄介な点は、感染しても発症までに長い時間がかかるケースが多いことだ。更には症状が出ない人も多く、また、現状、日本では無症状者は検査を受けさせない方針のため(その方針は正しいと思う)、自分が感染しているのかいないのか、確かめる術がない。そして、症状が出ていなくても、感染力は相当に強い。
これらすべてのことは、基礎疾患持ちを家に抱えている者にとって、そう、最悪の条件にあると言って良いだろう。

だから私は今、狂ったように1時間に数回も体温を測り、外出から帰宅後は、通りがかりの人が見たら笑ってしまうくらい熱心に玄関のドアノブを除菌ティッシュで清めてからやっと家に入る(そもそも玄関脇に除菌ティッシュを置いて備えている)。
もちろん即座に手を念入りに洗い、猫が私の顔に自分の顔をすりつけたがるので、顔も一緒に洗っておく。これは、母もしじゅう撫でてかわいがっている猫が、感染の媒介になってしまうことを防ぐためだ。
脱いだ衣類は、洗えるものはすぐ洗濯機に放り込む。ニットやコートなど洗えないものは決まった場所にハンガーで吊るし、スチームアイロンで蒸気消毒をする。もちろん日にも干す(紫外線にはウイルス死滅効果がある)。

外出時にも、トイレや店先のアルコール液などあらゆる機会を見つけて手を清めているし、洗い過ぎてひび割れが出来るとそこからウイルスが入ると聞き、ハンドクリームも必ず塗り込むようにしている。そもそも家を出る前に、本来は顔に吹きつけて使う花粉・ウイルスブロックスプレーIHADAを、手にも吹きつけてウイルスガードしている。

仕事のために電車に乗れば、マスクなしで大声で笑い、話す人が近くにいる時は、即座に違う車両へ移動し、出席者が近距離で座り、資料を回し見することの多い会議に参加する日は、事前にメンバーにメッセージを送り、入室前に必ず手を洗ってもらうよう依頼した(そのうちの何人かが会議中もマスクをしてくれたのを見た時は、涙が出るほどありがたかった)。楽しみに楽しみにしていた菊之助さんの舞台もあきらめ、飲食を伴うお茶の稽古も、流行の鎮静化までは自主的に欠席にしている。
…その他その他、気をつけていることは山ほどある。神経過敏だと笑われてもいい。たった一度の失敗が、油断が、母の死につながるかも知れないのだ。どこの世界に自分の親の死の感染源になりたい人がいるだろうか?

     *

そんな緊張と恐怖の日々が、もう1カ月以上続いている。
そして分かったことは、人間は、極限の精神の緊張を持ちこたえられない、ということだ。
恐らく狂ってしまわないための防御反応なのだろう、20日ほどを過ぎたあたりから、どこかにやけっぱちの気持ちが生まれて来るのを感じた。そして恐怖心はいつしか以前より、鈍く、薄らいでいた。
或いは、こうも言えるのかも知れない。恐怖に心が麻痺してしまった、と。
もちろん、表面的には、なのだろう。胸の奥底には今も真っ黒な恐怖が渦巻いているけれど、それでも、どこかに、狂ったように手を洗う自分を空の上から眺めて笑っているような、もう一人の自分がいることも、感じている。

     *

一体、この陰鬱な緊張の日々は、いつまで続くのだろう?
終息の見通しについては、専門家の間でも意見が分かれているようだ。
徹底的な移動・交流の制限をすれば、1、2カ月ほどで押さえ込める、とする専門家もいるし、事実、台湾やマカオは押さえ込みに成功しているように見える。
一方、今後もこの流行は世界規模で長期化する、或いは、ウイルスは弱体化した後(多くのウイルスは徐々に弱体化していくそうだ)、インフルエンザのような、毎年毎年つき合っていかなければならない常在ウイルスとなる、という考え方もあるようだ。
今のところ誰にも見通せないのは、新型なのだから仕方がないだろう。

もしも1、2カ月の強力な封鎖が有効であるなら、一時的な経済の痛みはともなっても、やはり全国民で協力しなければならない、と考える。
日本経済は内需のみで成り立っている訳ではないから、世界から「安全だ」と認めてもらえない限り、日本人に対する入国制限は解除されず、どこの国にも商談に行けないし、「日本に旅してみよう」というマインドも全世界的に戻って来ないからだ。
「春節需要を逃したら、経済が‥」という最初期のためらいが水際阻止の絶好の機会を奪ったように、どこかの業界に配慮して五月雨式にしていたら、永遠に封じ込めは出来ないし、経済も永遠に回復しない。配慮してもらった業界の人も、結局長く苦しむことになる。誰も傷つかない解決はない、という意識を持たなければならないのだろう。全員が傷つきながら、協力し合うしかない。

一方で、全世界的に長期化が避けられず、しかもこのウイルスの毒性が大して弱体化しない場合には、私のような近親に基礎疾患持ちを抱える人、また、基礎疾患持ちそのものの方は、或る程度生活を変えなければいけなくなるかも知れない――ということまで、考えざるを得ない。
例えば、地下で、窓がなく、小規模。けれど素晴らしい板前さんがいるお料理屋さん、といった店での会食に参加することは難しくなるし、同じような条件の劇場やライブハウスにも、出かけることは難しい。屋内でのスポーツ観戦や換気の悪いスポーツジム、或いは茶の湯での濃茶の回し飲みも不可能になるだろう。

けれど、だからと言って、すべての活動が不可能になる訳でもないように思う。
たとえば茶の湯なら、事前にご亭主に事情をお話しして、自分だけは回し飲みには参加せず、お茶碗の受け渡しだけにする、など、少しやり方を変えれば出来ることも多くあるのではないだろうか。
会食の場所も、他のメンバーに事情を話して、テーブルとテーブルの間にゆったりと距離があり、換気の良い店の窓側の席にしてもらえば良いだけのことだし(事実、私は、先日、そのようなお店でのビジネスランチには参加した)、一方、身近に基礎疾持ちを抱えず、自分自身も元気な人たちは、“狭く、換気は悪くても、味の良い素敵なお店”で楽しく集えばいい。
ただしその後2週間程度は、基礎疾患持ちやその家族、また、高齢者と、至近距離でマスクなしで話すことがないよう配慮するべきだ。

一般的な買い物や、美術館での作品鑑賞は、いわゆる“激込み”状態でなければ誰でも問題ないだろうし、屋外での様々な活動も、至近距離での接近や接触がなければ、何ら問題ないのではないだろうか(ただし帰宅後は必ず手を洗う)。
何もかも制限してしまえば経済そのものが破綻し、それはそれでパンデミックと同等レベルの災厄となってしまうように思える。

もちろん、お店の経営者やイベントの主催者も、これまでと同じ考えでいてはいけないのだろう。
感染は密集状態、且つ、つばや汗が飛び散る環境で起こることがはっきりしているのだから、とにかく何よりも、換気を確保する。「お客様と従業員の安全のために、当店では45分に1回窓を開けて空気を入れ替えます!」としたっていいし、席と席の距離もこれまでより広く取る。1時間に1回備品をアルコール消毒するなど、ありとあらゆる知恵を絞ってそれを顧客にアピールしなければ、結局じり貧になっていくのではないだろうか。

     *

あれこれと書いたが、それは、自分の周囲の人々のSNS上などでの発言を見渡していると、自分が健康体で、かつ、重症化しやすい家族を抱えていない人の群(健康群)と、重症化しやすい人、或いは重症化しやすい近親者を抱えている人の群(重症群)とでは、今回の事態の見え方も、心のあり方も、大きく違っているように思えるからだ。
ざっくばらんに言ってしまえば、健康群の人には、重症群の危機意識は過剰で社会の自由を縛るものに見えているし、重症群の人からは、健康群の人の無防備な行動や発言が非常に無神経に見えている。今後流行が長期化すれば、社会に分断が生まれていくのではないか、と危惧している。

そして、もちろん、そのような事態は最も避けなければいけないだろう。
健康群の人は、上に私が書いたような、重症群の人が抱えている強い恐怖を理解して配慮をもって行動するべきだし、重症群の人は自ら防御を強くして、多少は我慢やあきらめることもあるのは仕方がないとし、社会を縛り過ぎないよう振る舞うべきではないか、と考える。
互いに非難し合ったり、一方の側の声だけが大きくなるようなことは、最も避けるべきだ。どちらかの側が強く委縮し、結局社会は停滞して、全員の経済が苦しくなるだけではないだろうか。互いを理解して、協力し合う。そんなごく当たり前の、成熟した態度が求められていると思う。

もちろん、最も良いのは、特効薬が開発されることだ。伝統的に科学・医学分野に強いこの国で、その先陣を切れたら文句なしにカッコイイのだけど‥と願いつつ、もう一度、今日何十回目かに、体温を測ってみたりする。


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去年今年 2020/01/06



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新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

毎年、年の瀬に清水寺で発表される「今年の一字」にならってみるならば、昨年の私の漢字は、「介」と「港」だった。
一字には絞り切れない。
「介」は、母の介護。「港」は香港騒乱を表している。
年初より、七十六歳の母の持病と認知症が急激に進行して介護に明け暮れつつ、初夏には香港の激しい抗議活動が始まり、自分の意思を明らかにする必要に迫られた。そして常に友人たちを案じながら半年を送って来た。

思えば、四十代のうちから親の介護をするというのは、日本社会の標準から言えばやや早い方だし、香港の問題は、対岸の火事と言えば言えなくもない。
けれど、見方を変えれば、どちらもすべての日本人に――濃淡の差はあるとしても――影を投げかけている事象であり、おそらくこれからその影がより深まっていく事象でもあるだろう。だから、積極的な見方をすれば、自分は時代の最も先鋭的な部分を歩いているし、経験と思考を先取りして積み重ねている。そう考えることにしている。

もちろん、たとえば戦国時代にも、それからあのアジア太平洋戦争の時代にも、日々の中に小さな楽しみはいくつもあったように、私の毎日にも心嬉しいことは存在している。
美しいものを見ること、深い知的な営みに触れること、解かれていない歴史の事象に思いを馳せること(私は、歴史とは一種の推理小説であると思っている)、そして本当に気の合う人たちとの会話の時を過ごすこと。猫と遊ぶこと。
何より書くことを愛しているから、今年も、頂いた依頼に対して常に自分が最初に定めた限界設定を超えるレベルの原稿を返せるように、また、それとは別に、自分自身のプロジェクトも進めていきたいと思う。

年が終わる頃、今年の一字はどのような字だと感じるだろうか?
未来に対して、天真爛漫な予期は持っていない。淡々と、心を尽くして生きていく。

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一枚のきものと別れる日 2019/11/01



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 今年の秋はこの国にあまりにも厳しいことばかりが続いて心が苦しくなってしまうけれど、その中にも祝い事はあって、或る会に、華やかさのある銀杏の小紋を着て出かけた。
 四十年ほど前、祖母が、当時三十代だった母、そしてゆくゆくは私も着るようにと染めてくれたもので、二人で合計すれば三十回近くは着ているだろうか。大好きな一枚だった。

 けれど、数年ほど前から、着ていて何だか落ち着かなくなっていた。どこがどうと言われると説明出来ないけれど、何とはなしに、顔と生地とが互いに離れて行くような感覚がある。まるで愛し合っているのに倦み始めた恋人同士のように。
 つまりは私が年を取って、顔つきや肌がもうこのきものを受けとめられくなっているのだけれど、あまりにも、このきものの模様つけ方や染めの調子が好きだったから、毎年一度ほどは未練がましく着ていた。そんな着物だった。

 けれど、もう潮時だ。今回で最後にしようと思った。
 そしてそう思って袖を通すと万感の思いがこみ上げて来た。
 もちろん、やさしい知人たちは「まだまだ全然おかしくないですよ」と言ってくれる。また、「幾つになったって、好きなものを着ればいいんです」とも。
 もちろんその通りで、〇歳になったら地味な色を着なければいけなどという法律がある訳ではないし、誰かに迷惑をかける訳でもない。
 また、確かに世の中にはいくつになっても若々しい色や模様のきものを着ていてちっともおかしくない方もいるし、もしかしたら私のこのきものも、もうあと一、二年なら、何とかそう珍奇な見映えにならずに着ていられるかも知れない。
 けれど、一方で、老いた肌に可憐な色のきものを着て、視界に入った瞬間にぎょっとするようなおばさまが存在する。おしゃれとはバランスだ、と私は考えていて、こうなってしまえばおしゃれとは程遠いことは私にとってははっきりしている。そして自分がそういう状態に陥ることに耐えられない。何より自分自身が、もうこの小紋を着ていると落ち着かなくて落ち着かなくてそわそわしてしまうのだ。こんなに愛しているのに。悲しいけれど。

          *

 だから、恥ずかしながら今日のブログに掲げた写真は、この着物との別れの記念だ。そう思いながら着られたことは、やはり良いことだった、と、今は思っている。
 人生には、たくさんの不意の別れがある。いつでも会えると思っていたのに、明日会えると思っていたのに、それどころか朝家を出て夜にはまたいつもと変わらず会えると思っていたのに、会えなくなってしまうこともある。それに比べれば、さよならと言いながら別れられることは得難い幸せなのかも知れない、と。

 家に帰り、二日ほど陰干しをして風を入れ、たとうへとしまいながら、このきものを通してたくさんの楽しい時間を贈ってくれた祖母に心から感謝した。糸をほどき帯に仕立て変えれば、またこの布と一緒にいられるかも知れない。けれどきものでいる今の姿を、壊したくない、とも思う。
別れてもまだ一枚のきものに心を迷わされている。

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東大病院にて 2019/09/26



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今日は朝7:30出発でチャーターした介護タクシーに乗り、3ヶ月に一度の母の東大病院脳外科での診察に付き添っています。
認知症持ちで、起き抜けは特にポンコツ度が増す母を着替えさせ、無理やり少し食べさせて薬を飲ませ、トイレに行かせ、保険証、診察券、水、そして万が一のために替えのオムツも忘れずバッグに入れて…と、まあ、幼児との外出と同様です。
今は無事到着して、母はMRI中。私は廊下で待機しています。
とにかく巨大な東大病院には、謎の部屋がいっぱい。「体外衝撃波破砕室」って???身体中の細胞が木っ端みじんになるイメージですが、大丈夫なのか…?

母の救急搬送とフェミニズム課題と、香港の政治運動と。 2019/06/19



フェミニズムの問題、ジェンダー課題について書いた前回のブログの反響が大変大きく、すぐに次のブログを‥と思っている間に、またたく間に2週間近くが過ぎてしまった。
実は、母が発作を起こして病院に救急搬送され、毎日がとてつもなくバタバタとしていた(現在も入院中)。その間、香港では大規模な政治デモが起こり、また、前回のブログの反響を受けても、老親の介護ということについても、考えさせられることが多い。今日はそんなあれこれを胸に浮かぶつれづれのままに、書いてみたいと思う。

"私のフェミニズム"の余波       
まず、時間軸順で、ジェンダー課題、「私のフェミニズム」の話題から。
前回のブログでは、私が「婦人画報」で上野千鶴子先生を取材した記事とからめて、私自身が直面して来たジェンダー問題について書いた。大変反響が大きく、たくさんの方がコメントを書き込んだり、シェアーをしてご自分自身の意見を書いてくれたり、また、ご自身の大変厳しいジェンダー意識にまつわる被害体験を、初めて公にされた方もいた。改めて、書くことの責任をひしひしと感じている。
世の中全体を見渡してみても、この2週間ほどの間に新しくパンプス強制反対運動、パタハラ左遷問題、続く少子化問題が大きく話題になり、ジェンダー課題についてのニュースを見ない日はないほどに、声を上げる人々が増え続けていることを感じている。

実は、この「声を上げる」ことについては、上野先生の取材でも話が上がっていた。先生はそれを「女たちががまんしなくなった」と表現されていて、日本のフェミニズム運動40年の一つの達成として総括していらっしゃるのだけれど、私自身にも、以前、こんな体験があったことを思い出した。
数年前のある時、私は、私と同世代の女性たち数人と、その中に一人だけ年配の男性が混じる‥という顔ぶれで話をしていた。どういう話の流れだったのか、話題が、女性の容姿や年齢、結婚の有無をからかうような発言をするべきではない、という話になった。するとその男性が、
「昔はしても良かったんだけどね、今は時代がダメってことになってるからね」
 というようなことを言ったのだった。その時、私は、それは違うだろうと怒りが湧いて、
「昔だって言うべきではなかったんです。昔は、女性たちががまんしてくれていたから、許してくれてたから、言えただけです。今は女性たちももうがまんしなくなりましたから」
 と言って、その男性は黙ってしまったのだった。
「時代の雰囲気がダメな方向になっているから」、だからセクハラはしてはいけない、という発言をするような男性は、事の本質を全く分かっていない。昔の女性は懐が深くて、今の女にはそれがない、という意見もそこには垣間見えるが、もちろん、昔の女性だって今の女性と同様に不愉快に思っていたし、傷ついてもいた。ただ、力がなかったから、がまんしていただけのことなのだ。
けれど、パッとしない景気やグローバル化による産業構造の変化の中で専業主婦が消滅しつつある今、夫婦二人で家計を支えること、或いは、女性が自分の職業を持つこと、つまりは女性が収入を持つことが当たり前になりつつあり、ついに、がまんをやめた、ということだ。昨年、アメリカで「me,too」運動が起こり、日本ではアメリカほどの爆発的盛り上がりは見せなかったものの、少し遅れて、じわじわと波が起こり、その波は止まらない、ということではないだろうか。将来振り返った時、今年から数年は、潮目の変わった時期と言われるような、そんな予感がする。

母の再入院と、自分の弱さを認めることと
そんなあれこれを考えている中、母が持病の発作を起こし、救急搬送されるという家族の大事件があった。
母は、肺癌、そしてやや進んだ認知症に加え、アミロイドアンギオパチーという脳の血管の持病も持っている。その発作が深夜に起きてしまったの。
実は、母がこの発作を起こすのは今回が2回目で、初めてではない。ただ、前回はお友だちとの旅行の帰り道の新幹線の中での出来事だったので、私たち家族は目の当たりにしなかった。だから初めての体験ということになる。
最初は、トイレに行こうとして、でもどうも上手く歩けないというところから始まった。ふだん通り深夜に原稿を書いていた私が付き添い、それでもうまく歩けない、と言うより立てないので父も起こして介添えしようとしているうちに、一歩も動けなくなった。そして意識を失っていった。救急を呼び、付き添いで、人生で初めて救急車に乗ることになった。救急車の中で、二度、大きな発作が起こった。
ただ、その時点では、まだアミロイドアンギオパチーが原因なのか、それともくも膜下出血など他の脳の病気が原因なのかは、分かっていなかった。分かったのは、病院に着いて、CTを撮ってからのことで、サイレンとともに進む救急車の中では、まるで深い霧をさまようように、何が正しい処置なのか、その道筋はまったく見えていなかった。そんな中で、文字通り母の命を預かり、最善の処置を尽くす救急救命士の方々には本当に頭が下がった。どれほど恐ろしく、どれほど勇気のいる仕事だろうか?そう、後になってしみじみ考えた。
当たり前の話だが、人は、たとえどんなにお金を持っていても、外見の美や、社会的な成功を手にしていても、命を助けてくれる人がいなければ死ぬしかないのだ。最も尊い仕事をしているのは、間違いなく救命に携わるこの人たちで、彼らがベストな精神状態、経済環境で暮らせるように、正当な報酬が払われていなければいけないだろう。一体どのくらいの収入を得ているのだろう、ということも気になって調べてみると、激安給料という訳ではないものの、そう高いという訳ではないようだ。これで良いのだろうか、と言うことも気になっている。

さて、母については、幸い発作はアミロイドアンギオパチーによるもので、命にすぐ別状がある訳ではない。現在は入院して体力の回復に努めているけれど、これから先、家に帰って来てからのことを考えると、実は憂鬱になってしまう。
今回の発作は、それに先立つ1週間前に、無理な外出をして疲労したことが誘因となって起こった。もちろん、私も、父も、そんな無理な外出はやめてほしいと何度も止めていた。家中で、猫がおびえるほどの言い合いになっても、それでも本人だけが、「自分はまだまだ大丈夫」という自己像を描き変えることが出来ない。一人の大人を力ずくで家に縛りつけることには、家族の側にもためらいがあるから、もう勝手にすれば、とさじを投げることになった。その結果が今回の発作というわけだ。弱い自分を認めることは、どうしてこんなに難しいのだろう?――そう、ため息が出る。
でも、我が家だけではないのだろう。日本中のあちこちで、この問題に頭を悩ませている家族がいるはずだし、その数はこれからますます増え続けるのだろう。せめて私たちの世代は――バブル崩壊を二十代で経験して来た世代は――と思う。強いこと、イケイケどんどんだけが素晴らしいのではない、自分の弱さを認めることが、なめらかな社会の基礎になるのだ、という意識を持たなければいけないと思う。そして、「自分もいずれ必ず弱くなる」ということが分かれば、人は、今、弱い状態にいる人にもやさしくなれると思うのだ。それは未来の自分の姿なのだから。
   
香港の政治運動について、思うこと
――と、そんなことを、日々の病院見舞いの行き帰りに考えている中、香港で、大きな政治運動が始まっていた。私のブログを読んでくださっている皆さんにはよく知って頂いている通り、私はかつて中国に留学し、中国語で言うところの「両岸三地」、中国、香港、台湾の三つの地域に、それぞれ、たくさんの大切な友人がいる。
もちろん、私は香港市民を支持している。大躍進、文化大革命、天安門事件。中国共産党の残虐さと愚かさは目を覆うばかりであり、悲しいことに、その残虐さと愚かさは少しも磨耗していないことを、日々の報道から、SNSでの情報収集から、実感している。

そして、しみじみと、初めて中国を訪れた年、北京に留学した1998年のことを思い出す。
当時の中国は経済が上向き、どことなく、政治的自由も拡大していくような楽観的な空気がただよっていて、北京の街の上には明るい風が吹いていた。
何より、インターネットが世界的に大きく広がり始めていた時期で、中国一国で統制することなど不可能なここから、必ず、言論の自由が広がっていくと確信していた。これから自由貿易の世界に中国が進出して行けば行くほど、民主主義の空気に触れ、この国も変わらざるを得ないだろう。そう確信していた。まさかこんな未来が待っているとは想像もつかなかった。
それでも、香港は抵抗し、今日までのところは一定の成果を収めた。けれど中国共産党がこんなことであきらめる訳はないだろう。2年後なのか、3年後なのか、彼らは必ずつけ込んで来る。もちろんその時香港市民は再び戦うだろうし、台湾も同様だろう。では、日本人に出来ることは何だろうか? と考える。
私は、伝え続けることだと思っている。
ビジネス上の取り引きで、プライベートで、接点のある大陸中国人に伝え続けること。ただ経済力だけをつけても、科学力だけを持っても、国として世界からまったく尊敬されていないことを伝え続ける。かつてアメリカやヨーロッパが世界の覇権を独占していた時代のように、憧れの対象とはなっていないのは何故なのか。それは、尊敬は、力ではなく文化からもたらされるからだ。文化は言論の自由がなければ開花しない。外に現れ出ることもない。
もちろん、一人一人の大陸中国人には、善良な人も、聡明な人も多い。私にも大切な友人が何人もいる。中国共産党のやり口に、彼らが責任がある訳でもない。彼らとの友情やビジネス関係を崩してしまいかねない時に性急に伝える必要はないし、互いの関係の中で、話せる機が熟した時に話せばいいと思う。それよりも、今出来ることは、インターネット上で、SNS上で伝え続けることだと思う。今では中国人も多く国外に出る。そこにたくさんのメッセージをまかれていることが重要だと思う。
清朝の終わりに弱国化して以来、200年、中国人は常に、名誉と面子に餓えている。名誉や面子が何によってもたらされるかを伝え続けなければいけない。そういう空気を作り、次の世代、その次の世代を通じて、たとえゆっくりとでも、彼ら自身の常識を変え、それが法制化される道を作っていかなければいけないと思う。

最後に、香港や台湾の民主社会に対して、大陸中国人――共産党に飼いならされてしまった大陸中国人、という意味だ――がよく言う反論や言い訳について、切り返し方をお伝えしたいと思う。
まず第一に、今回のような大規模デモに参加している市民のことを、彼らは「アメリカからバイト料をもらって参加しているのだろう」と言うことがよくある。実際、今回の香港でのデモについて、中国のSNS上にそのような言説が流れていた。
これは、中国共産党自身が、市民に一書き込みあたり「5毛(5円ほど)」の報酬で、共産党に都合の良い言説をネット上に書き込みさせていることから派生した、実にチープなデマ言説だ。大陸中国人にとっては、「香港でもそのようなことがあるのだろう」と受け入れられやすいのだ。中国で、このようなバイトをする人のことを「五毛党」と呼ぶが、その五毛人たちが、今回も、「アメリカからバイト料」というデマをせっせと書き込んでいると思われる。
しかし、このような主張に対しては、今回、youtube上で、香港人(或いは台湾人)が書いていたコメントが的確な反論になっていると思う。その人は、こう書いていた。
「(アメリカ政府が)香港人を、一日一人100ドルでデモに参加するようにと雇ったとして、10万人なら、一日で1000万ドルが消える。どこの外国勢力がそんな金を使うんだ?」
確かにその通りで、実際は200万人の参加者なのだから、日本円にしたら2百億、3百億という規模の予算を、たった一日のデモのために使うことなど出来る訳がない。一体どこに計上するというのだろう?しかもデモは何日も続いているのだ。
また、よく言われる言説として、「中国は広く、人口が多い。この広大な国を治めるには民主政治では不可能であり、中央集権的な独裁勢力が必要不可欠だ」というものがあるが、では、インドはどうなるのだろうか?
もちろん、インドの民主主義も完全に成熟し切れているとは言えないだろうが、それなりに機能し、その上で、国は年々発展し、映画に代表される文化が育って世界を魅了し始めている。

‥‥と、そのようなことを、つれづれと考えていた2週間だった。
自分の周りの小さな世界も、地球の別の場所に住む友人たちの広い世界も、物事はすっきりとは収まっていないが、それでも生きて、考え続けていくしかない。そしてこの国では特に、一人一人の小さな世界のあり方が、壊れ、変わりつつあり、それが国全体の大きな問題と深い根の底でつながっていることを、強く感じている。

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キラキラ系SNSとどんより系SNSと、そして。 2019/03/27



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一か月ほど前、母の介護についてブログを書いた。
決して明るいとは言えない内容で、これまで私はブログにネガティブな話題はあまり書かなずに来たので、真矢さんどうしちゃったの?と批判的に受け取られるかなと思っていたけれど、個別にメールをくださる方がいたり、FBの方からコメント欄にご自分の介護体験や介護論のようなことを書いてくださる方がいたり、また、「気分転換に」との温かい思いを込めて、お茶やお菓子など心遣いの品を送って来てくださった方もいた。

SNSが生活の中に根づいてから、15年ほど経っただろうか。
そのほとんどの投稿は、ざっくり言えば、“キラキラ系”と“どんより系”に大別されるのではないかと思う。(他に“意見主張系”もあるけれど、今日は採り上げないでおく)
キラキラ系とはもちろん、“インスタ映え”に代表される、素敵で前向きな私の日常をつづるもので、どんより系は、その反対に、自身のネガティブな世界観や、脱け出そうにも脱け出せない状況(ブラック職場、束縛家族などなど)に対する呪詛の念をつづる‥などということは、わざわざ書く間でもなく、誰もが日々暗黙裡に認知していることだろう。

基本的には、読む人の心を暗くし、また、うんざりもさせるどんより投稿は控えるのが大人の分別というものではあるけれど、とは言え、毎度毎度のポジティブ充実素敵な私の毎日キラキラ投稿に、おつき合いで「いいね!」など押しつつ、なわけねーだろ、うそくさ!と誰もがげんなりしているのが、この2019年、SNSが日々の暮らしのインフラストラクチャーとさえなった現在の実情ではないかと思う。

当然のことながら、人生365日1日24時間5年10年15年、毎日ハッピーキラキラ前向き・建設的・道徳的に生きられる訳もなく、程度の差はあれ、誰の人生も山あり谷ありだろう。
そんな中で、まがりなりにも私は人様の話を聞きに行き、文章を書くことでお金を得ているのだから、自分の投稿もそういう人生の真実に近づいていなければ恥ずかしいことだと思う。

だから、時々見かけるように、介護につきもののネガティブな側面は一切書かないのが美学と決め込み、たとえば、今日、桜が咲いた。母を車椅子に乗せて近所を散歩。幼い日、その母と見た桜の記憶がよみがえりどうたらこうたら‥といったきれいにまとめ感動系の介護投稿や、養護施設にいる親を時々訪ねるだけで実際のシモの世話は全部人に任せている、という事実は忘れたふりをして、私を産み育ててくれた母が今は子どもに帰った姿を見て、涙があふれる、そしてこれまでの母に感謝、的な、やはりきれいにまとめ感動系介護投稿は、そういう嘘は、書きたくない、と思う。
(注・親を介護施設に入居させること自体を非難している訳では、もちろん、ない。私もいずれはそうすることになると思っている)

かと言って、もちろん、ただ何の芸もなく、ひたすらどんより真っ暗な投稿を投下することも、文章を仕事にしている人間がするべき所為ではないだろう。
自分を冷たく見つめる客観性と、少しのユーモアと。この職業についている以上、そのような矜持を保ちつつ、毎日の泣き笑いを伝えられるように心がけていきたいと思っている。つまりは、“人生ぼちぼち系投稿”ということになるだろうか。良かったらこれからもおつき合いください。
          *
そんなぼちぼちなこの頃の近況を――皆様からご心配の声も頂くので――ご報告すると、まず、その母は、持病の発作から併発した肺炎を、無事、2週間ほどの入院で完治。今は家に戻って来ている。
もちろん、普通ならおめでたさ100パーセントのはずの退院という出来事が、家族にとってはそうとも言えないのが介護の悲しいところだ。
毎日毎回の食事の手配から始まり、薬を間違いなく飲ませること、2週間に一度ほどの病院付き添い、トイレ関係の失敗処理などなどなどなど、読みたい本、行きたい展覧会、そして、ただ静かにぼーっと過ごす時間。そういった自分の人生の時間を削って、母の世話に充てている。

それでも、私も父も、もう介護が日常に溶け込んだこの毎日に心が順応して、お互いのスケジュールを調整し合いながら、つまりは父が出かける日は私が、私が出かける日は父が家に、というように交代制にして、仕事、そしてそれぞれの社交ライフも、若干ペースは落としながらも楽しむようにしている。すべてを介護にそそぐ、というようなやり方は、かえってストレスがつのり止めた方が賢明だろう。

だからこの1カ月ほどの間に、もちろん楽しいことだってちらほらとあった。
たとえば或る日は茨城の山里へ、漆の林を取材に出かけたり(写真上左)、関わっている社団法人の1周年記念で、理事長が会席をご馳走してくださり、筍のしんじょが絶品だったり(写真上中)、猫のチャミに新しく専用ベッドを買ってみたところ、気に入って、私が仕事をしている机の下でくうくうと眠っていたり(写真上右)。猫は好き嫌いが激しく、買ってあげてもまるっきり無視、お金をどぶに捨てたあららー‥ということもしばしばあるので、これはかなり嬉しかった。

そしてそしてこの1週間ほどは、たぶん10カ月ぶりくらいだろうか、「〆切がない!」という奇跡の時がやって来た。「今日は午後、何しよう~?」などと、午後にやるべきことを、わざわざ考えなければならない。常にあわただしく〆切、〆切に追われる毎日だったので、本当に何やら夢の中のような心地がした。(今はもう新たな〆切が来ていますが‥)

それで何をしたかと言えば、不器用No.1のくせに布製携帯カバーを手作りしてみたり(写真下中)、認知症のせいもあってまったく片づけの出来なくなった母に代わり、開かずの間の整理を始めてみたら、かわいい鎌倉彫の硯箱を発見してほくほくしたり(写真下左)。
本当は、その硯箱を脇に置きつつ稽古している書も、それこそドヤ顔キラキラ系にお見せしたいところだけれど、下手過ぎて出せなかったり(写真ナシ)。
そして、母がついている杖は、これも認知症のせいなのだろうか、どうも上手く使いこなせず落としてばかりで、持ち手の塗装がはがれてしまっているのが悲しくて(写真下右)。
こうしてぼちぼちと過ぎていく春のはじめ。プレーヤーにかける音楽はもちろん、電気グルーヴの「SHANGRI-LA」。頑張れ卓球!人生は続いていく。

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雪と介護、母の入院 2019/02/10



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東京に今年最初の雪が降った今日、母が入院した。
もともと二つの大きな持病を抱え、それに加えてこの数年は、まだら状にゆっくりと認知症が進みつつあり、更に重度の外反母趾などの原因から歩行にも困難が多く‥と、満身創痍の母なのだけれど、先々週の持病の発作から肺の感染症にかかってしまい、今日、入院が決まった。
ちょうど介護認定を受けようとしていた矢先のことで、猫のチャミはしょんぼり寂しがっているし、もちろん、私も父も心細げな母を病室に残して帰宅する時は胸が痛んだけれど、反面、ほっとしてもいる。

これからしばらくの間、おそらく一週間か十日ほどは、夜の間の失禁の心配をしなくて良いし、仕事の取材から帰宅した後の母の夕食の段取りも考えなくて良いし、大人のおむつを山と抱えながらその他の買い物でもバッグを膨らませて道を歩かなくても良いし、仕事の原稿を中断してトイレに付き添う必要もない。
帰宅が遅くなる日に順列組み合わせ的に複雑な青や白や赤のロゴが書かれた薬を間違いなく揃えて「夕飯の後はこれを飲んでね」と言い聞かせてから出かける必要も、ない。(しかし折角間違いなく並べて出たのにきっぱり飲み忘れられている日はさすがに泣けて来る)‥‥

介護とは、つまり排泄である。
糞尿との格闘である。
人間の尊厳は足腰に多くを負っている。

‥‥ということを嫌と言うほど噛みしめさせられているこの頃、しばらくは排泄のことはきっぱり忘れて、病院に任せて良いのだ。もちろん食事も、薬のことも任せて良いのだし、何しろ面会時間が限られているのだから、その時間を外れれば私に出来ることは何もないのだ。本当にないのだ。ぐっすり眠って良いのだ‥‥

それも、まれに見るほど取材やら〆切やらビジネスディナーやら打ち合わせやらが立て込んでいて、一体この介護という難業とどうやり繰りするのか考えただけで胸がドキドキしていたここからの十日ほどの、ちょうどその期間にぴったり収まるような具合に入院が決まったのは、ごくごく淡い今日の雪と同様、天からの敢闘賞的どっきりプレゼントなのか、それともふだんあまり気が利くとは言えない母からの、珍しく最高に気の利いた贈り物なのか‥‥
帰宅して久し振りに静かに落ち着いた夜を過ごし、庭に出るともう雪はやんでいて、空気は少し暖かかった。

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新年ご挨拶(新しい染め帯写真付き) 2019/01/04



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皆様新年明けましておめでとうございます。
昨年は、お蔭様で仕事もお友だちの方々との日々のおつき合いも楽しいことばかりで、充実した一年となりました。
ただ一つ、実は昨年は母の老化がめっきりと進み、介護という新たな問題が持ち上がった年でもあったのですが‥四十代も後半となれば誰もが直面すること。日々、きれいごとばかりでは済まされない、なかなかに大変なことも起こっていますが、試行錯誤しながら何とか取り組んでいきたいと思います。
そして、この介護問題があるため、以前の私よりは疲れ気味と言うのか、若干パワーダウン気味の姿を見かけることもあるかと思いますが、どうか優しく見守ってくださいませ。

それでは皆様、今年もよろしくお願い申し上げます。
写真は、祖母が染めた帯の反物を、お正月用に新しく仕立てたもの。初春にふさわしく、鶴や梅が優しい色合いで染められています♪


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三重県「椿大神社」へ、奉納舞いを拝見に(きものコーデ付き) 2018/09/30



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雨降りばかりで何だか気の滅入る毎日の中、奇跡のように一日だけ晴れていた一昨日28日、日帰りで三重県へ。鈴鹿市にある椿大神社へ奉納舞いを拝見に伺った。
伊勢国一宮である椿大神社は、紀元前3年創建つまりは記紀の時代に由来を持つ古いお社で、猿田彦神、そして芸能の神様である天鈿女をお祀りしている。その本殿で、この日、日本舞踊「吾妻流」宗家、二代目吾妻徳穂先生が奉納舞いをされることとなり、東京や大阪からのお客様とともにうかがった。
     *
この奉納舞いは、一般社団法人「緑麗学舎(りょくれいがくしゃ)」が企画したもの。実は、今年の春に創立されたばかりのこの真新しい法人に、文章執筆やコンテンツ企画の分野で参加している(常勤ではなく、外部スタッフとして参加)。
国に提出した設立目的に、日本伝統文化の推進を掲げる緑麗学舎。今回の奉納舞いを第一回目のプロジェクトとして動き出した。今後、染織(きもの)、日本舞踊、茶の湯を中心として、様々な企画を運営・実行していく予定なので、ぜひお心に留めて頂きたいと思う。
大きな企画として、4年後、2022年の実施予定で、出版と展覧会が連動したプロジェクトがもう動き出している。もちろんその他にも、舞踊公演や文化講座など、中規模、小規模のプロジェクトを行っていく予定なので、いつもブログを読みに来て下さっている皆様には、ご興味を持って頂けた企画にはぜひご参加頂けたらと思う。大いにご期待ください!
     *
それにしても椿大神社は大らかな素晴らしい場所だった。山一つを大きな大きなお社として、樹齢4百年、5百年の木々が参道の両側に鬱蒼とそびえている。中には1200年の命を保つ木もあるというのだから、平安時代から、一体どれだけの人の世の変遷を見て来たのだろう!
不思議なことに、今日のブログでトップに置いた参道の写真が、縦長モードで撮ろうとしていなかったのに、何故か超縦長で写っている。これも由緒ある神社の神意というものだろうか?
その本堂で、吾妻先生は、『五障――女人の情念を舞いに託して』と題し、女性の情念と執着の苦しみ、そこからの浄化を主題とした新作を踊られた。笛と箏の音の合間には風の音や滝の音が聞こえ、先生の舞いは狂おしく、やがて清々しく、自然に抱かれた中で舞踊を拝見するのも実に良いものだなと感じた。
今回のプロジェクトでは、私は、本堂いっぱいにお越しくださったお客様にお配りした演目解説のパンフレット文を制作し、中には大変熱心にお読みくださっているお客様もいらして、その姿をこっそり拝見出来たのも嬉しい一瞬だった。
奇跡のような晴天と言い、まだ歩き出したばかりの新法人「緑麗学舎」の門出の一日をこうして文句のつけようのないほど順調に過ごすことが出来た。今後もたくさんの奇跡を起こせるよう、誠心誠意取り組んでいきたいと思う。
    *

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最後に、おきもの愛好家の皆様に、この日のコーディネイトを。
きものは、淡玉子色地の裾ぼかし単衣付下げに、帯は紗の袋帯。菊と藤模様で、春単衣の時期は藤を、秋単衣の頃には、今回のように菊模様の部分を前帯にして締めている。帯締めは道明の糸竹組み。後ろに写っている立派なお社がまだ本堂ではないのだから、椿大神社の大きさがお分かり頂けると思う。

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ジュンク堂書店吉祥寺店と私 2018/09/18



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ありがとう、ジュンク堂書店吉祥寺店。
また今日も閉店10分前に飛び込み、急に必要になった資料を祈る思いで探すと、行儀良くその背表紙は本棚に並んでいるのだった。
小さくて店主の趣味のこもった書店の存在が重要なことは言うまでもないけれど、私のような仕事には巨大書店が自分の町にあることの価値は計り知れない。
さて、いそいそと新しい本のページをめくり、長い夜は続いていくのである。

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新しい渋谷 2018/09/14



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今日、仕事で渋谷に行くと、10年前、この街に住んでいた頃、恵比寿方面へ行く時にてくてく歩道橋を上ったり下りたりしなければならず難儀していた交差点のその向こう側に渋谷ストリームという名の新しい“街”が出現していて驚く。

試しに少し歩いてみると、かつて川があったところにはちゃんと川が流れていて、そう言えば、その川にかかっていた細い橋を渡ったすぐのところにいかがわしい本やビデオを売っている小さな店があって、散歩の途中、普通の本屋さんと勘違いして入ってしまい、私も困惑したけれど店の中にいた男性陣はもっと困惑していた、という思い出の店はもちろん跡形もなくおしゃれ広場に変わっていて、バンドが演奏したりしている。
そして交差点の上空には新しい空中回廊がかかり、今はまだ工事中の渋谷駅といずれはつながるよう設計されているのだろう。
そう言えば、かつてタルコフスキーが首都高赤坂見附付近の未来都市ぶりに目を見張って「惑星ソラリス」の冒頭で延々長回しをしていたけれど、それ以上にソラリス化した風景が今の渋谷には広がっているのだった。

そんなおしゃれ広場にこれでもかと並ぶおしゃれカフェの中でも一番混んでいるハンバーガー店では、フルーツとヨーグルト、100パーセントまがいものなしで作るというスムージーが売っていて心惹かれテイクアウトしてみると、プラスチックではなく紙ストローがついて来る。
そう言えば、子どもの頃、田舎に旅行した時だったかやはり紙ストローが出て来たことがあって、そう、こんな風な舌触りだった、と更に古い記憶がよみがえって来るのだけれど、紙ストローはプラスチックの要領で吸うとすぐにへなへなとしおれてしまい、900円もするスムージーがなかなか上がって来てくれない。そうか、これからの世界では、この紙ストローのやさしい吸い方を会得しなければならないのかと思い知らされ、やはり渋谷は何もかも新しい街なのだった。

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ご近所一人ご飯 2018/07/31



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野菜と肉をじゃっと炒めるだけ、などといった簡単なものですが、毎日自分の食べるものは自分で作っています‥が、この数日、お仕事天下分け目の戦いに入り、もう野菜を切る心の余裕さえ、ない!「マヤの好きなメンチカツ、作っておいたよ~」
と机に運んでくれる優しいダンナ様も、いない!
だから、外食です。前から気になっていた近所の定食屋さんで一人ご飯。大好きなアジフライが‥美味しい。
傍らには原稿のプリントアウトを置き、青色のペンであれこれ修正を入れたり続きの部分の構成を考えたりしながら食べるのですが、環境を変えて読むことで、そうか、同じこのことをこっちの角度から書いてみたら変化がつくんじゃない?などと、思いがけない発想が生まれると利点もあるのです。
すっかり元気回復したところで、夜の風に吹かれながら自転車で帰宅。また資料をめくりながら原稿に取り組みます‥

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武家な京都を訪ねて(きものコーデネイト付き) 2018/07/20



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引き続き猛暑の京都。
今日は朝から二条城へ。何しろ武家好きなので、戦国の城がそのまま残っているここを見ずには帰れません!
自分が三万石の大名だったらここで待って、ここを歩いて…お側役人をしていたらここを歩いて…などと一人妄想の世界に遊びましたが、方向音痴ゆえ、本当に勤めていたらしじゅう迷子になってヤクタ扱いされていたであろう、城は複雑かつ広大なな構造なのでした。
そして最高度の格調に満ちた石組の庭に、遠州様~💓とうっとりと見入って。

その後は壬生に移動。
かつて新撰組の宿舎が置かれ、芹澤鴨粛清の場となった八木家住宅を見学、と京都武家な朝からお昼間。
しっかり二軒のお菓子舗にも立ち寄りましたが、別エントリーでご紹介致します。
まずはこれから大阪へ移動します!


お菓子舗三軒と和フレンチ川床へ 2018/07/20



昨日は俵屋吉富、玉寿軒、鶴屋吉信、三軒の和菓子舗を回って、夜は京都住まいの大学時代の同級生の案内で、鴨川の川床へ。
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上の写真、外郎に白餡の黄色い花(名前忘れました…)のお菓子が俵屋吉富、焼き皮にこし餡を包んでいるのが鶴屋吉信製です。

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こちらは、大徳寺や妙心寺の御用を務める玉寿軒。喫茶コーナーはないので、ホテルで夜に頂く持ち帰り用に。基本はお寺や茶会に納めるお菓子を作っておられるので、生菓子の小売りは一日数個とのこと。買えて良かった!和菓子の神様のはからいに違いありません。

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そして、夜は、和食を取り入れたフレンチの川床「メゾン・ド・ヴァン・鶉亭」へ。鴨川からの冷気で思いの外涼しく、凝った和フレンチを堪能しました。京都の地形や土質に詳しい友人家族が、京都の寺院で使われている石の素性を教えてくれて、目から鱗がぽろり。自然科学の視点から文化を見るのも面白い。
昨日の京都は気温39.8度まで上昇したそうですが、暑さに強い私にはそれほどこたえず、またもや充実の一日でした♪

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今日は京都の西側を 2018/07/19



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39度まで気温上昇中の京都を、今日も元気にきもので歩き回っています。
本日は西陣など御所の西側中心。写真のお庭は、御所のすぐ横の京都平安ホテルの庭園。近代随一の庭師と言われる小川治兵衛による、小ぶりで端正なお庭を散歩しました。

今日のきものは、藍色の絽の江戸小紋です。真っ白に葡萄唐草を織り上げた帯に、帯締めで少しだけ色を入れた「京都なのにお江戸風」コーデネイト。鶴屋根吉信の本店茶室で撮って頂きました。

ぷりっとかわいい猪は、これも御所近くの護王神社の狛犬ならぬ狛猪ちゃん。
はるか奈良時代に足を病んだ和気清麻呂を猪が運んで助けたとのことで、足の病気にご利益があると言われるこの神社。
実は、母が現在とても足を悪くしており、少しでも良くなるようにとお守りを頂きに来たのでした。

神社を西へ進むと、私が何かとご縁のある方が多い、武者小路千家官休庵。
そして更に西へ歩くと西陣の中心地に出ます。
その中でも大きな問屋さんの一つ「冨田屋」さんが町屋を公開してくださっているので見学に伺いました。

写真のような夏の設えの客間やお蔵など、見所満載です。設えは毎月季節の行事に沿って変わるとのこと。また訪れたいものです。
今日回ったお菓子舗はまた別にアップいたします!


祇園のカウンター割烹にて 2018/07/19



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何故かブログの写真がみんな横向き表示になってしまっているとお友だちが教えてくれたのですが、こういうことが苦手な上に旅先で時間もないので、ここからはコラージュ写真で。

京都の晩ご飯、昨夜は、祇園のカウンター割烹「大神」へ。
私のお茶の先生がこちらの大将をかわいがって長いおつき合いが続いているため、お稽古の時によく話を聞いていて、一度訪ねてみたいと思っていたのでした。
期待に違わず、季節の食材が時にオーソドックスに、時に意外な味を引き出されて繰り出され、大満足。
最後は大将と話し込んで長い夜になりました。

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東女、京都に遊ぶ(きものコーデネイト付き) 2018/07/18



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少し仕事も混じってはいるのですが、週末まで夏休みを頂きまして、関西旅行に来ています。
出張ではない旅行は久し振り。昼間は予定を詰め込みつつ、甘いものへの執着をここで発揮せずどうする、と、この数週間、詳細に地図に和菓子舗を書き込みまくって、用事の場所の近くで行き当たったお店にどんどん入って行く方式です。我ながらどうしてこれほどまでに甘いものが好きなのか…
そうして入ったお店では、原稿を書かねばならず、夜もホテルで書かねばならず、実はあまり東京と変わらない生活のような気もするのですが、やはり場所が変われば大きく気分が変わっていることを感じます。これが時に人が旅に出なければならない所以ですね。
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上の写真は、泊まっているANAクラウンプラザホテルのロビーに展示されていた、染色家の吉岡幸雄先生による、祇園祭の京町屋の設え。
17世紀の更紗を先生が復原された布などを拝見出来、たまたまこのホテルに宿泊を決めたのですが、きもの好き、布好きとしてはとても幸先よく感じたのでした。
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↑ちなみに今日の私のきものは、昼顔の柄の絽の型染め小紋に、紗献上を締めて。帯揚げは淡い玉子色を入れています。

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↑そして、お菓子屋さん一軒目。
ホテルのすぐ裏の、二条若狭へ。ここはお店でお抹茶とともに頂けるので、外郎に白餡の上生菓子を。山鉾の意匠がかわいい💓
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もう一軒、二条駿河屋も訪ね、こちらは、夜、ホテルの部屋で食べる用の生菓子をを確保。葛のお菓子にしました。


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祇園祭中の京都、通りかかった誉田屋さんの前には鯉の幕(と言えば良いのでしょうか?)が。
京都は38度の熱気がそのままゼリー状の空気になってしまったような、大変な暑気ですが、一歩神社仏閣に入ればひんやりとします。
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私は花は真生流で学び、池坊の徒ではありませんが、花の上達を願って六角堂にお詣りしました。

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そして今は、然花抄院(きもの好きにとっては、お召のあの矢代仁の向かい!)でカステラを。ああ、四日間で何軒のお菓子舗を訪問出来るでしょうか。
ここには、町屋を改造してカフェとギャラリーにしたお店の作りにも興味があって訪ねましたが…
実は、日頃上菓子を載せるお菓子を探し歩いていまして、今日はこのギャラリーで出会いがあったかも!しかし、意外にも一度で買い物を決められず、必ず一晩か二晩寝かして考える方なのでまだ購入はしていません…

この後は河原町界隈の和装小物屋さんをぐるっと回ってて、夜は会社時代の先輩と祇園の割烹に行く予定。お料理も夜にアップ出来るよう頑張ります。
東女の旅は続く…!


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文章を書く、或いは見直すのに最適の場所 2018/06/26



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資料が手元にないと不安、聴ける音楽の幅がとても狭い…という二つの理由から、長いこと、自分の部屋でしか原稿が書けないでいたのだけれど、この一年ほど、時には外で書きたい、と思うことが増えて来た。
と言っても、第一稿を上げるまでは、やはり自室で。
その後推敲に入った時に、外のカフェや喫茶店で、或いは意外にも、電車の席でプリントアウトを見直してみると良い言葉が浮かんで来ることが多い。

‥とは言え、音楽の選択は生理的なものなので絶対譲れない条件で、ロックやポップス、テクノのかかる店はダメ。ハウスミュージックも、ふだんは好む音楽の一つなのだけれど、原稿書きにはまったく適さない。クラシックか、ラウンジミュージック、ボサノバ(ボサノバのかかる店もほとんどないけれど)あたりの音楽が、それも小さめの音量で流れている店に限られる。
不思議なのは、何故か香港ポップスは平気だということで(中国語好きだからだろうか…)、反対に、「ここ、いいな」と思うレトロ喫茶は多いものの、煙草アレルギー気味のため喫煙可の店はすべてNG。ギャルやおばさまがきゃっきゃと大きめの声で話している店も、気が散ってしまうので、やはりどんなに素敵なインテリアでも、どんなにケーキが美味しくても、遠慮したい。
         *
‥とあれこれ条件を付けているとどこでも良いという訳ではないものの、近所の吉祥寺にはなかなかに適した店も多い。第一ホテルのラウンジもよく利用する場所の一つで、4階分の吹き抜けになっていて空間が広く、ビジネスの打ち合わせの人が多いので、秘密保持のため皆さんひそひそ声。まさに原稿書きに最適の環境ではないか。

…ということで、今日も一本ぶじに着地点が見え、この後は、途中まで書いている次の原稿に取りかからなければ。
こちらはコピーの仕事で、街をぐるぐる歩き回ったり、反対に家でごろごろ寝転がりながら他の人が書いたコピーを読んでいると何故か言葉が浮かんで来ることが多い。長いものと短いものではたぶん脳の使い方が違うのだろうな、ということを、「場所」という、無意識に択び取る身体条件から実感している。


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畠山記念館にて、不昧公展を。 2018/06/01



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松平不昧公没後二百年の今年。
東京では二つの大型企画展が開催され、その事跡を体系的にたどることが出来ます。
先日、三井記念美術館の不昧公展を鑑賞したのに引き続き、今日は畠山記念館へ。二つの展示を通じて、不昧公の偉大さをより深く理解することが出来、ただただ沈思黙考。
…が、しかし甘いものは決して素通り出来ない私、「お菓子付き」の言葉に惹かれ、黙考は黙考として館内茶室で頂けるお茶はしっかりと頂きました。松江「桂月堂」のお菓子に舌鼓を打ち、またかの地に行きたくなります。

そして…実は織部が大の苦手なのですが、不昧公好みの菊香合には深く魅了されてしまった今日なのでした…。

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きものde自動車免許 2018/05/07



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連休明け、自動車運転免許証の更新に行って来ました。
たぶん脳に何か穴が開いているんじゃないかと思うくらい左側の車体感覚が著しく悪く、いつか必ず重大事故を起こす…と三十歳頃に自覚して以来のペーパードライバーなのですが、人生何が起こるか分からない。いつの日か、田舎の誰も通らない広い道を何か物を運搬するために車を走らせる日が来るかも知れない…という千万分の一の機会のために、律儀に更新を続けています。

前回からは、きもので写真を撮ることに。
これは、更新センターへ来ている方々に向け、きもので免許だって何だってたいていのことは出来るんですよー、とさりげなくアピールする私なりの運動のつもり。
大雨の予報のため、雨に強い大島で出かけました。

講習が面倒、嫌いという方も多いかと思いますが、私は、様々な事故事例の紹介ビデオにギリシャ悲劇的な劇性を感じ、いつもしみじみと鑑賞しています。
狭い講習室内で、隣りの女性がアスペルガー症候群気味なのか、一時もじっとしていられずもぞもぞと動き続けるのがきつかったのですが…

それでも、昔は威張りくさった係員さんも多かったけれど、今は皆さんとても親切。きものは良いですね~私も着付け習います、と言ってもらえてほっこり。
様々な人生が一瞬交差して今日も一枚一枚免許証が発行されていくのですね。

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お花見嫌い 2018/03/25



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花見というものがどうも好きになれない。
もともとばか騒ぎが好きではないこともあるけれど、ほとんど白に近いくらいごく淡い色をつけて咲くあのはかない花の姿を、ただ静かに眺められれば十分幸福だと思うのだ。
もちろん、ごく親しい人と、花の下を静かに歩く花見なら好ましい。けれど歌や踊りや酔って大声を出しどうでもいい冗談を飛ばし合うことが、何故必要なのかと思ってしまう。ある時代々木公園の花見に呼ばれ、トランスやらダブやらが拡声され酔ってしゃがみ込む老若男女のみにくい姿をつくづくと眺め、金輪際二度と一生、大人数の花見には参加しないと胸に誓った。

‥そんな訳で、毎年桜の花はひっそりと慈しんでいる。
我が家の庭にも小さな桜の木があるし、近所に穴場中の穴場と言える公園があって、そこを晴れた日の午後にゆっくりと散歩する。長方形のその公園には見事な桜の木が十本ほど等間隔に植わっていて、近所の人がぽつぽつとやって来てはベンチに座り、深呼吸するように桜を眺め、やがてそれぞれの家にひっそりと帰って行く。
たぶんそこへ来る人はみな私と同じように花見のばか騒ぎを好きになれない人たちで、この大切な場所を誰にも教えたりはしないから、いつまでも好ましい静けさが守られているのだろう。
こうしてまた桜の季節がやって来た。ひねくれ者にはひねくれ者の小さな春が、今年も満開に花をつけている。


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今日の美味しく甘いもの~吉祥寺「A.K.Labo」のケーキ2種 2017/10/29



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諸事情で雑誌4誌の〆切が同時に重なり、標本の蝶のように仕事部屋の椅子に釘付けになっています。
散歩に行くこともままならず、息抜きは、香川照之先生の「昆虫すごいぜ!」を見ることと(面白過ぎてずっと見てしまうので注意)、やはり、甘いもの。
和洋中、美味しい甘いものがあればどこへでも出かけて行きますが、近所に名店があるのは嬉しい。

今日はその「A.K.Labo」のケーキを、2種。
抹茶味のスポンジと生クリームがしましま状になっている細長ケーキは、いつも定番で買っているもの。もう一つ、紅茶クリームの下にプディング‥と聞くからに美味しそうな新しい一品も買い求めてみました。
恐ろしいことに、ケーキ二つくらいだと、ぺろりと5分ほどで食べてしまえるのです。
さすがにそれはもったいないので、もう少しゆっくり食べるよう自らをコントロールしていますが、今晩の仕事のお伴として、深夜のうちに私のお腹におさまることでしょう。我ながらどうしてこんなに食べられるのか‥
また時々、私の好きなお菓子をご紹介したいと思います。


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蛍ぼかしの着物で、出版祝いランチ会と蒔絵展へ 2017/06/16



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先週のこの日記で私の初めての単著「歴史を商う」の出版のお知らせをしたところ、たくさんの方から「いいね!」を頂きました。お蔭様で売れ行きも思いがけぬほど上々で、誰よりも私が一番驚いています。皆様の応援に、深く、深く感謝。本当にありがとうございます。
          *
実は、出版後、ほっとして、若干自律神経失調気味になってしまいました。毎日めまいがしたり、座っているのもつらい時間が多く、ぐったりと過ごして‥。しかし、数日前から、また元気が出て来ています。と言うのも、どうやら「次にこういうものが書きたいな」と、頭の中にぼんやり筋が浮かび始めたから。こんな所に取材に行こう、主人公はこういう女性で、などと妄想、いやプロットを繰り広げていると、みみるうちに頭がしゃっきりして来たようなのです。やはりどうもただぼんやりとは過ごせない性分のようです。

本当は、こうして皆様に応援を頂いているお礼に、今日のブログは、今回の「歴史の商う」を書くために様々な資料を読み込んだ中から見つけた、明治・大正期の面白事件をご紹介する回にしようと思っていたのですが、まずはお礼をお伝えすることと、再び元気に、大好きな着物も着て過ごしています!ということをお知らせする回とすることにしました。明治大正珍事件などなど(他にも面白いネタがあります)については、また後日のお楽しみにお待ち頂ければと思います。
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そして、元気復活してきもので出かけた、その今日のきものはこちら↓
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…と、まずは足元から。蛍ぼかしの桜色地の単衣に、同じ淡い桜色の台の「神田胡蝶」の草履で、青山の「リストランテ・ヒロ」に向かいました。実は、今日は、大学時代の学科の女友だち三人が、出版祝いのランチ会を開いてくれたのです。デザートの時に登場したのが、下の写真の素敵なプレート。涙がじわっとにじんでしまいました↓
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私の人生で、これまで何度か選択の場面がありましたが、エスカレーター式に上がることが出来たはずの某私大に進まないと決めて受験を選び、そして上智大学のこの年の哲学科に進学したことは、五本の指に入る良い選択だったと思っています。
当時、バブル経済に浮かれた軽佻浮薄の日本で、「関係とは関係の関係が関係するところの関係の関係である」(‥だったかな)などと書かれた哲学書に頭を抱えながらもとにかく立ち向かっていた、その、「本当に」考えるということ、論理を追究しようとすることの心構えが、今に生きているように思えるのです。一人一人の仲間が、今、社会の中で、実にそれぞれのキャラクターに合った姿で活躍をしている様子にとても励まされています。そしてみんながとても優しい。今日もたくさんの元気と、そして心のぬくもりをもらいました。三人のお友だちに、心から感謝♡

お店の選択がまた素敵で、私は初めて出かけたのですが、「リストランテ・ヒロ」は、老舗でありながら常に新しい試みを続ける人気店なのですね。花ズッキーニ(下・上の写真)の花の中にリコッタチーズを詰めて揚げたフリット(下・下の写真)が絶品でした↓
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楽しい会の後は、徒歩1分程の「ふくい南青山291」ビルで開かれている、蒔絵展へ。蒔絵の名匠・松田眞扶さん、松田祥幹さん父子の作品と、祥幹さんが主宰する「祥幹スタジオ」の皆さんの作品展が開かれています。下の作品は、私のお茶仲間で、この「祥幹スタジオ」に通っている友人の作品↓
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蒔絵キャリアは6年ほどとのこと。美術大学出身でもない彼女がゼロから始めて、こんな精緻な作品が作れるようになるのかと驚きます。
会場には、こんな斬新な作品も↓
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↑金継ぎクラスもあるようで、作品が展示されていました。こちらも楽しそうですね。
「眞扶・祥幹・祥幹スタジオ作品展」は、青山の「ふくい南青山291」で、18日までの開催です。ここには写真を掲載出来なかった、両先生の素晴らしい作品も展示されています。ぜひ足をお運びください。
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↑今日の着物の寄りの写真は、こちら。「蛍ぼかし」文様のきものに、「片輪車」文様の絽綴れに絽刺の帯で。帯揚げは絽縮緬です。
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↑そして、こちらは、お友だちから頂いたお祝いのお花。「和にも洋にも合うアレンジ」という主旨で作ってくれたそうです。カラーは大好きな花。大切に眺めながら、また次の作品のことを考えて行こうと思います。


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初夏の庭の花 2017/06/04



今週末は雑誌の大きな原稿書きがあり、出かけたかった会合も、習い事のお茶と書もパスして家に籠っています。
…とは言え、大分めどがついて来たことと、少しは休憩も必要なので、庭の草花を愛でて。少し前の4月半ば頃が、赤や黄色など色鮮やかな花が多く、一年で最も“花々しい”季節だったのですが、初夏の今もすっきりとした花たちを楽しめます。

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↑こちらは朝遅い時間から午後3時頃まで、睡蓮鉢に咲く寝坊の睡蓮の花。浄土の花と言われるのもうなずける、うっとりするような美しさです。
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↑これからが楽しみなのが、あじさいです。白い蕾がたくさん。近所ではもう咲き始めているお家も見かけるのですが、我が家は来週後半くらいからでしょうか。
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↑野薔薇。この春は大量のアブラムシが発生し、輪郭が丸みを帯びて変わるほどにびっしりと取りつき葉もべたべたになって大変だったのですが、ナチュラル系農薬を吹きつけたところ絶滅しました。しかしその途中、一部を手で取っていたときに風が吹き、風向きのせいで私の目の中に粉のように入り込み‥あの瞬間を「アブラムシの逆襲」と名づけています。
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↑こちらは1週間ほどの前に撮ったもの。アヤメの最後の一本です。その周りのドクダミは現在も満開中。名前が悪過ぎますが、可憐な花。美肌も効果もあるくらいなのだから、もっと良い名に改名してあげたい。
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↑和室の縁側の沓脱石の前に、数年前から蛍袋が咲くようになりました。誰も植えていないのに、庭に出入りする野良猫の毛についてでもして、種が運ばれて来たのでしょうか。嬉しいことです。
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↑最後の一枚は、くちなし。この花は、カタカナではなくひらがなで書きたい。
我が家の中でも日当たり悪く、裏庭部分に当たる場所に何か植えたいなと思っていたところ、近所の花屋さんの店先に売れ残り特売品としてうら悲しく並べられていたのがこの子でした。それから4年ほど。翌年には花をつけたのですが、一昨年、去年と沈黙し、今年もどうやら咲かないようです。‥が、新しい葉が続々と出ていることが、写真からお分かり頂けるでしょうか。
実は一昨年夏の終わり頃だったか、蛾の幼虫に、一晩にしてほぼ丸坊主になるほど葉を喰われるという悲惨な目に遭ったのですが、何とかここまで回復しました。一本だけ、ひと際背の高い枝のてっぺんに付いている葉。当時この子だけが無傷で生き残っていたので、事あるごとに「大変だったね」「新しい葉が出るまで頑張って」と話しかけていたのが効いた気がします。今では仲間もいっぱい。来年は花をつけてくれますように‥

…と、こうして花の写真だけ並べてみるととっても素敵な庭のように見えるかも知れませんが、庭全体の管理は日本一美的センスのない我が父が、がむしゃらにただ切ったり植えたりしているのでめちゃくちゃです。一つ一つの子たちはこんなに美しいのだから、と日々心をなだめながら眺めているのでした。


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本の最終ゲラ引き渡し 2017/05/02



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昨日は私にとってとても大切な日でした。
3年ほどの時間をかけて取り組んで来たノンフィクション小説の最終校正ゲラを、編集者さんにお渡ししたのです。
第一稿を書き上げたのは、昨年のちょうど今頃。それから諸事情で書き直しが続き、また別の諸事情で校正に手間取り…それでもようやく印刷所に入れるところまでにたどり着きました。
上の写真に写っているのが、その最終ゲラ。ところどころにまだ朱字を入れていて、これを出版社の側で反映したものが印刷所に入ります。全部で400ページほど。題は、「歴史を商う」。来月終わりか6月上旬の発売になります。ここには写っていませんが、表紙のデザインもほぼ決定しました。
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夕方、編集者さんが、私の住む吉祥寺まで校正ゲラを取りに来て下さり、カフェにて引き渡しつつ、朱字部分の説明。その後、同じ吉祥寺のビストロ「Hutch」で、二人で打ち上げの食事をしました。ああ、シャンパンが、鴨肉が、細胞の隅々にまで染みわたります。一夜明けた今日、「もう本をやらなくていいんだ」という事実をまだ上手く理解出来ていません。
これまでずっと応援をくださっていた皆様、取材にご協力くださった皆様、長い間本当にありがとうございました。今しばらくだけお待ち頂ければと思います。


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出光美術館「古唐津」展 2017/03/26



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最終日ギリギリに、出光美術館「古唐津」展に駆け込む。
朝鮮唐津、奥高麗など、長年ごちゃごちゃになって混乱していた頭がすっきりと系統立てられた。
お茶コーナーから見える江戸城は、今日も美しい…

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深夜の偶然、或いは必然 2017/02/05



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本日、深夜、本の後書きを書いている。
2014年12月から取材調査を始め、執筆開始が2015年12月。2017年2月の今、やっとここまでたどり着いた。
時々頭を休めるため、お茶を点てる。
お茶碗は、山梨県の土地の焼き物、能穴焼き。
山梨にお住いだったという友人のおばあ様の形見を頂いたもので、今晩、何となくこの茶碗を択んでいたのだが、途中ではっと手が止まる。考えてみれば今書いている本の最初の三章は、この窯にごく近い、武川牧原という村が舞台なのだ。もしかすると本の登場人物が今夜、小さな茶目っ気をはたらかせたのかも知れない。
とにもかくにもあと一息である。本文の執筆にくらべ後書きに向かうことの、何とせいせいと気の楽なことか‥

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帝国ホテルで取材中。 2017/01/30



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今日は取材で朝日賞の贈呈式に来ています。
帝国ホテルの巨大な宴会場が満員。華々しい限りです。
受賞者のお一人である浅田次郎先生とすれ違いましたが、紋付き袴でカリスマ光を発しておられました!

徹夜明けにて 2017/01/20



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本日、久々の徹夜で三日間ほど苦しんでいた原稿を書き上げ、先ほど編集部にメール送りした。
不思議なもので、取材も楽しく、書きたいこともたくさんあってうずうずしているのに何故か上手く書けない原稿があり、いま一つ盛り上がらない取材だったり内容が複雑重厚だったりしているのに、するっとまとまってしまうものもある。
今回は完全に前者の方で、難航した原因は、書き出しがどうにも上手く行かなかったこと。最初の二日はほぼ書き出しに使ってしまい、三日目の深夜、と言うか本日早朝4時を過ぎてもどうしてもまだ気に入らず、そのまずさのせいで中盤から後半も調子が出ていないことにひしひしと自分が一番気づいている。
「もうこのまま出すしかないのか‥」
敗北感に打ちひしがれながら、あまりの敗北感のためか気づくと40分くらい眠ってしまっていて更に高まる敗北感。けれど、目が覚めた後、突然するすると冒頭がまとまり、後半までそのまま波に乗って書き直すことが出来た。ああ、ご機嫌である。眠っている間に脳の中で何かが起こっていたのだろうか‥

ともかく、今日のところは一仕事終えてまた次の原稿に向け頭を切り替えていこう。「こんなもの書いていないで、早く寝なさい!」というやさしい友人たちの声が耳鳴りがするほど聞こえて来るが、今、お風呂が沸くのを待っている間に、眠ってしまわないようこの文章を書いているのだ。お風呂に入らずに眠ったことは、人生で二度ほどしかない。

(写真は、ダミー文章が入ったページレイアウトと、原稿を書くために使った資料を重ねたもの。赤文字の数字は、レイアウトから字数を計算したもの。雑誌の仕事は常に字数との闘いである)


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新年にあたり今年の抱負を。 2017/01/02



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皆様、新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
昨年、私は、前半半年は国会図書館での調べもの以外ほぼどこへも外出せず、ひたすら家で本の原稿を書く日々。
後半からは、その本の初稿の修正や校正をしつつ、日々大変多くの雑誌のお仕事を頂き、これ以上にないほど充実した一年を送ることが出来ました。
新しい、丁酉平成二十九年の今年は、まず、まだ校正の続いているその本の最終校正を終え、出版をすること(2月頃の発売になると思います)。そして、引き続きたくさんの編集者、プロデューサーの皆様から声をかけて頂けるよう、より質の高い仕事を目指して行きたいと思っています。

          *

一方、仕事以外の時間については、まず、今年は、書道元年にしたいと思っています。
元来読書好き、そして中国に留学していたこともあって無条件に「字」というものが好きなわりに、とにかく不器用なせいでどうにも書道を敬遠して来てしまいました。しかし、やはりこれではいけないと一念発起。今年は書の稽古を始めます!
‥と、いかにも自発的なようですが、昨年秋に或る茶会に招かれ、お持ちするお祝いの熨斗紙に名前を書こうとしたもののあまりにもまずい字のため結局フェルトペンで書いて持って行った‥という挫折体験が深く心に染み込み、やっと重い腰を上げたのでした。
本当は、ずっと習いたかった先生がいたのですが、教室が家から若干遠く、しかも日にちが固定しているとなると、私の性格、そして仕事の都合上からも、どうしても通うことが出来そうにない。家の近所で通える良い先生が見つかりそうで、そんなこともあって何年来の課題に取り組んで行けそうです。まあ、何しろ縦線、横線から始めるので、多少なりともましな字が書けるようになるにはまだまだ時間はかかるでしょうが‥
          *
そして、もう一つ、今年は、「自由な文章を書く機会を作る」ことを心がけたいと思っています。
文筆業をしていますから、もちろん文章は常に書き続けている訳なのですが、仕事で書いている以上、媒体・編集者さん・取材対象者さんの意向が反映され、実は、常に100パーセント自分の思うことを思う通りに書ける訳ではありません(もちろん、書ける場合も多くあります)。そして、驚かれるかもしれませんが、時には文体を一部変更されることさえもあるし、もちろんそもそも字数の制限もあります。
これらのことは仕事である以上不可抗力ではあるのですが、それとは全く別の世界として、やはり自分の思うことを100パーセント自分の文体で書く時間を作らなければいけないということを、この頃つくづくと実感するようになりました。そうしないといつか心を病んでしまうでしょう。

振り返ってみればこの3年程は、次々とお仕事をいただけるというこの状況に、やはり自分がまだ慣れていなかった。新しい状況に自分を順応させることで手一杯でやって来ましたが、今年は、自分の暮らしと心の状態をもっと上手にコントロールして、書きたいことを書きたいように書く時間を作って行きたいと思っています。
具体的には、5,6年前のこのブログや、もっとさかのぼったmixi全盛の頃に書きまくっていたコラム的な文章を、またこのブログ上で発表して行きたい。この3,4年程はほとんどきものコーディネイト日記とお仕事のご報告だけになっていた状況を改善し、mixiの頃からずっと応援してくださっている方々に、また楽しんで頂けるようなものを書いて行きたい。そしてそれが長年の夢であるエッセイの出版に結びついて行ければいいなと願っています。やはり私は文章を書くというただそのことが、本当に単純に好きで好きでたまらないのです。

‥という訳で、新しい年も胸の中は自分なりの野望でいっぱいです(他にもここに書いていない夢もあります)。不束者ではありますが、どうぞ今年も応援、お導き、お仕事のご発注、そして時には一緒にお茶やお食事を、皆様どうぞよろしくお願い申し上げます。

(画像は、祖母が染めた帯地から。昨年、「もうないだろう」と思っていたのに、まだ仕立てていない反物が見つかった、その中の一本です)

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北国にて 2016/12/23



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クリスマスを含むロマンチック3連休、新幹線に乗って、大切な人を訪ねに来ています…
…と、大切な人は大切な人なのですが、実は、或る素晴らしい方への取材で、東北の山奥に出張に来ているのでした。
これが今年最後の取材。真剣勝負が続いています。

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ハセ政宗ロス!~~スピンオフ制作をNHKにリクエストしよう運動 2016/12/19



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昨日で最終回を迎えた「真田丸」。1年間、数々の名場面と名優陣に楽しませてもらいましたが、私が最も心奪われたのは、長谷川朝晴さん演じる伊達政宗です。
…そして、そう思ったのは、どうやら私一人ではではないようで、いの頃からかネット上には「ハセ政宗」という呼び名が登場。今、日本のあちこちで「終わってしまった‥これからどうすればいいの?」「もっとハセ政宗を見たいんだけど‥」とロス現象が起こっているのではないかと思います。もちろん私もその一人です。
   *
そんなハセ政宗の何が素敵なのかと言えば、まず第一は、三谷幸喜さんによる人物造詣がいい。
伊達政宗と言えば、戦国好きなら誰でもその事績をよく知っており、人の心をつかむ意外性のある行動がしゃれていて「伊達者」という語の語源になった人物(ただ単にお洒落というだけではない訳です)。けれど今回の脚本は、その政宗を更に意外に仕立てているところが良いと思うのです。

例えば、政宗と言えば、豊臣秀吉になかなか臣従せず、ようやくぎりぎりのところで頭を下げに出向く際、その覚悟を示す白の死装束で現れて人々の度肝を抜いたエピソードが有名であり、また、料理好きの伊達というエピソードもよく知られていますが、この二つから更に話を膨らませて、今回、「自らずんだ餅をつき、歯の浮くようなお世辞で秀吉をヨイショする」という、ちょっと思いつかない政宗像を展開↓
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しかしその同じ夜、「現状、秀吉に従っておくより仕方ないから今日はあんなことやっておいたけどヨ」と、内心に渦巻く悔しさを真田信繁に吐露。「従わなければならない以上、徹底的にヨイショした」、という戦略的な行動だったことが判明します↓
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その後も、他の大名に先駆けて抜け目なく徳川家と宴席関係を結んだり‥(下の画像は、いち早く徳川家の意図を見抜いた場面の、顔、と言うか、目の演技。素晴らしかった↓)
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軍議の場で豊臣恩顧を笠に着る武将への反感や、政治上の動きが怪しい真田信幸を軽く威嚇するために、自らの官位を一々名前の下につけて発言する嫌味パフォーマンスをしたり…↓
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行動の一つ一つに意外性があって目が離せない!
‥とは言うものの、ただ奇をてらっているだけの行動なら「変な人」で終わる訳で、その裏に周到な計算があるところがいいのですね。こんな男性がいたら素敵だな、と心をわしづかみにされてしまいました。
     *
もちろん、いくら脚本が良くても、役者に力がなければパッとしないまま終わるのでしょう。
恥ずかしながら、この5年ほど仕事に追われてほとんどドラマや映画を観る時間がなく、また、もともと舞台はあまり見ない方なので、長谷川朝晴さんのことを知らなかったのですが‥脚本の意図を深くくみ取り、見事に新しい政宗像に結実させたその才能に、惚れ惚れといたしました。もちろんお顔もたたずまいも、しゅっとしていて素敵過ぎます♪

これほどまでに魅了されるハセ政宗様を、もう一度、そして、もっと深く、長く観たい!
NHKでは折々大河ドラマや朝ドラのスピンオフ篇が作られますが、ぜひハセ政宗で制作頂きたいものです。
例えば、関ヶ原の合戦の最中、東北で伊達と上杉が戦った「慶長出羽合戦」を舞台にするのはどうでしょうか。今回の「真田丸」では、遠藤憲一さん演じるお屋形様(上杉景勝)と村上信五さん演じる直江兼続の主従コンビの名演技も話題になりました。
特に、常に腹に一物持つ苦虫顔の村上直江とハセ政宗の対決を主軸に出羽合戦を描いたら、非常に面白いドラマになるのではないでしょうか。
もちろん、ハセ政宗主演ならどんな物語でも構わないのですが‥

ということで、ハセ政宗に魅了された皆様、ぜひ、NHKにスピンオフ篇をリクエストいたしましょう。
下のURLに、メール・電話・ファックス・手紙、すべての宛て先が載っています。
https://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html

もう一度、ハセ政宗に会うために…!

おまけ*着物好きで、特に武士の着物、中でも直垂(ひたたれ)という装束が大好きな私は、ハセ政宗様のこの直垂姿にもハートを射抜かれました♪↓
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出雲・奥出雲へ取材旅行に 2016/11/30



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取材旅行で、出雲と奥出雲地方へ来ています。
昨日・今日とまず奥出雲を回り、江戸時代、山深くで行われていたたたら製鉄の現場跡地や、たたらを支えた豪商の邸宅を訪ね、夜は出雲国風土記にも登場する湯村温泉へ。野鴨の囲炉裏やきに舌鼓みを打ち、深夜には二度目の湯に浸かりに行くと、一人温泉独占の贅沢。本を持ち込んで、夢の「温泉読書」をすれば良かった…
今日の夕方出雲市内に入り、明日早朝に大社を参拝した後、明後日まで宍道町、平田、出雲、松江を取材に回ります。かなりのハードスケジュールですが、手ごたえある時間が続いています。

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本の最後の朱字入れ 2016/10/18



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今晩から、本の原稿に最後の朱字を入れ始めている。
全体で、350頁。その一字一字に最後の修正を入れ、全体の文の調子を整える。

思えば最初の一行を書き始めたのは、昨年の十二月だったか‥
あの頃毎晩流していた同じ音楽を流すと、金雄さん、という主人公の人物がすぐ私の前に現れて来て、明治の東京の街を歩き始める。また会えたね、と思わず声をかけたくなる。あの場面もあの場面も、頭によみがえって来る。
皆様にお届け出来る日まで、あと少しだけ、お待ち頂けたらと思う。


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雑誌の撮影にて 2016/10/08



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連休中ですが、今日と明日は撮影のためにスタジオに入っています。
とてもとても美しいものの撮影。
そしてそこにはただ美しいというだけではない、
その美とどう向き合うかについての思想が存在しています。
いつもながら今日も、仕事であると同時に楽しみでもあるような時間が流れて行きます‥‥

(写真に写っているついたての向こうに、その「美しいもの」があります)
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「千家十職展」とウエストのケーキ~取材と取材の間の過ごし方 2016/09/02



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今日は1時から銀座某所でロケハン、その後時間がずいぶん空いて、6時から同じ銀座で取材。
間の時間に日本橋へ移動して、三越で、人にもみくちゃにされながら「千家十職展」を見る。
私は、お茶は、お点前より道具が楽しい方なので、もみくちゃに耐えながら、やはり楽しい。今回初めて見た作品にこの子好きー!(例えば七代長入の赤楽など)というものが多々あり、大満足。
会場を出てすぐの催事場では、道明さんが出店されていた。二人の番頭さんと少しお喋り。ちょうど練
色の冠組が大分汚れて来ているので購入…?と思ったものの、やはり池ノ端で買いたくなり、また伺います、とご挨拶のみで。
そして、鈴木時代裂研究所の当代の講演をたまたま聞くことが出来、幸運を喜ぶ。最後にきねやさんで数寄屋袋を買ってしまった。

その後、銀座に移動。ウエストで一休みしながら本の最終
原稿の読み返しを。
私は音楽の好みの幅が非常に狭く、それが外で原稿を書けない理由の一つになっているのだけれど、ここはごく控えめな音量でクラッシックが流れているだけなので邪魔にならない。
懐かしい味に体も頭の中も癒されて行く…


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忙中楽あり~極上和菓子、文豪写真、猫、真田丸、長唄、神楽坂 2016/08/03



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トークショーのお仕事からほっと息つく暇もなく、今度は雑誌のお仕事でとてつもなくタイトなスケジュールを過ごしています。締切間近の原稿を多数抱えながら、日中は、取材、取材の毎日。広告代理店時代から忙しいことには慣れっこで生きていますが、それでもさすがにふらふらになるスケジュール。こういう時は決まって肩が切り立った崖のように固くなって行きます。
それでも、取材から取材の間に、原稿書きの合間のひと時に、そして時には取材から家に帰る途中の道に、少しの自由時間を見つけて楽しんでいます。
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例えば、上の写真は、或る日、神楽坂のスタジオでの取材・撮影の後に立ち寄った場所で撮ったもの。或る方に急ぎでアポ取りの電話をする必要があり、入った「la kagu」のカフェ。この日持ち歩いていた布バッグは、以前勤めていた女性だけの編集プロダクション「斉藤オフィス」の30周年記念に頂いたもの。気に入った持ち物がそばにあるだけで心楽しく過ごせます。
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同じ「la Kagu」の2階では、運営会社の新潮社秘蔵の文豪写真展が開催されていました。三島には思い入れがあるので、少しの間、この写真をじっと眺めて。窓に展示されているため、背景に並木の緑が見えるのも気分良いのです。
      *
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その日はアポ取り無事終了の後、駅近くの「梅花亭」で和菓子を購入して帰宅しました。夏らしい主菓子と大福も購入して。
夕食の後、そして原稿書きの間に頂いたのですが、まあ、驚くほどの美味しさ。甘いもののお伴がないと原稿を書けない性質ですが、この日のお伴は格別。肩の崖が数層分、氷解していました。
      *
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また或る日は、都心での取材の後、お友だちが出演する長唄の公演を、途中から、二曲半だけ聴きに伺いました。上の写真はそのプログラム。赤い緋毛氈を引いた雛壇にずらりと黒紋付きの男性陣が並んでいる姿を見るだけで胸がすっとしますが、三味線と鼓が日本のリズムでたんたんたんたんとたたみ上げ、そこに朗々と長唄の人声が加わると、正に晴れ晴れと魂がホールを抜け出して空を飛び回って行くようで、こんな寄り道がやはり人生には必要です。
     *
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そんな中、昨夜は本当―――に久し振りに、「何も書かないで良いし、何も校正もしなくて良い」時間が出来ました。そこで、録画していた「真田丸」を一人鑑賞。秀吉の老いを描く三谷幸喜の物語作りの腕が冴え、思わず涙目に。
しかし小日向文世の秀吉は、もう今回以降、この人以外秀吉は出来ないのじゃないか、というくらい素晴らしいと思います。来週はいよいよ「難波のことも夢のまた夢」となるのでしょうか。そしてその死後を狙い、虎視眈々と動き出している各大名家の動きを描く筆にもまたしびれます。何しろ「陰謀渦巻く系」の物語が大好きなのです。
それにしても今年の大河は、とにかく演技達者が揃って痛快至極。全話欠かさず観ていて、大きな大きな娯楽になっています。
     *
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そしてそして、飼い猫のチャミは、やはり最高の癒しです。
「頬っぺたすりすりしたいー!」とかなりかなり原稿書きの邪魔に来るし、出掛けようとするとがっくりと肩を落として見上げるその表情があまりにも哀れで謝りに行ったり‥と、相当仕事の足枷にはなっているのですが、やはり涙が出るほど愛らしい。今週金曜に一誌校了したら、来週は家にいる時間が増えるので、思いっきり甘えっ子しようね☆と言い聞かせています。
そして、こうして、字数も関係なく何のしがらみもなく、好きなように文章を書く時間が最大の気分転換になります。何と言っても結局、書くことが好きでたまらないのです。


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本から雑誌へ、雑誌から本へ 2016/07/13



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本のお仕事の校正がまだまだ続き、更に来週はトークショーがあるのでその準備にも忙しい毎日なのですが、「どうやら西端の本の仕事が一段落したらしい」と風のウワサが流れているのか、雑誌のお仕事の発注がちらほら‥から急展開で怒濤のように入り、今何本抱えているのか‥またもや大忙しの日々になりそうです。
こんな私の毎日を見て、
「少しは休めばいいのに」
と言って下さるお友だちも多いのですが、そんな時いつも会社を辞めてフリーになりたてだったの頃のことが蘇ります。一カ月先のスケジュール帳が、真っ白。もちろんその次の月も、更に次の月も‥このままどこからもお仕事をいただけなかったら、私、生きて行けなくなってしまう‥
あの時の何とも言えないほど心細い気持ち、そして恐怖感‥あれがあるからついつい目いっぱい仕事を入れてしまうのですよね。今は自分から営業に行かなくても、こうして声を掛けて下さる方々がいる!これほどの幸せはないなとやはり思います。旅行に行きたいと夢見ていましたが、秋までお預けでしょうか‥
(写真は、我が家の庭の片隅のぼけの木についた実。結構大きいのです)


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謎の足の腫れ 2016/06/12



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皆さま、日曜日の夕方をまったりと過ごされている時刻ではないかと思います。そんな時に拙足の写真で恐縮なのですが、私は昨日から謎の足の腫れに悩まされています。
先ほど近所に買い物に行った時に撮った上の写真、右足くるぶし辺りがかなり腫れているのがお分かり頂けるでしょうか。昨日土曜の朝、起きたら何だかずきずきしていて、どうしたんだろうと見たら腫れていたのでした。眠る前は何ともなかったのに、本当に不思議です。
私はわりと寝相が悪い方なので、寝ている間にベッドの近くにある家具を何か蹴っ飛ばした?とも思ったのですが、距離的に無理があり、虫に刺された?雑菌が入った?と思ったもののどこにも傷口がなく。正に原因不明です。
静かにしていればじんじんしているくらいでものすごく痛いという訳ではないのですが、いざ歩こうとすると軽く引きずってしまって、普通には歩けません。それに、押すととても痛いのです。もう、一体何なのでしょうか。
とにかく明日は病院へ行こうと思います。原因不明に関節など腫れた経験のある方、いらっしゃるでしょうか??

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国会図書館にて 2016/06/03



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このところまた家にこもって、本の仕事の最後の修正作業を進めています。
外出は、打ち合わせと近所のウォーキング、そして図書館での調べもののみ。
図書館は、近所の図書館で済むこともありますが、国会図書館か千代田図書館に行かないとない資料も多く、この二館にこれまで何回こもったことでしょうか。

実は、国会図書館と私の体、或いは脳は何か相性が悪く、来るといつもかなり具合が悪くなってしまいます。
この辺りは戦前陸軍省の関連施設が集まっていた所なのでそのせいか(永田鉄山暗殺とか)…と思って調べてみたりもしましたが、国会図書館の敷地自体はドイツ大使館だった模様。その前の江戸時代はと更に調べてみると細川家支藩の大名屋敷だったようで、そこで何かが…?
が、私の祖先と熊本も何も関係ないはずなので、このだるさはやはり原因不明です。私の読む資料はマイクロフィルムが多く、ぐるぐる位置を動かすことで船酔いのようになりがちなこともいけないのかも知れません。
もう一館の千代田図書館の方は、出版業界史の書籍を多数所属していることで知られています。国会図書館にない本がこちらにあることも。
両館を行ったり来たりしていますが、探していた事実を発見出来た時の勝利感は格別。今日はまだそんな資料を掘り当てていませんが…引き続き格闘を続けたいと思います。

(写真は、中庭から新館を見上げたところ。ここでよく休憩しています)
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ウォーキング始めました。 2016/05/19



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またまた家にこもって、本の原稿を手直しする日々が始まり、それに伴い今週からウォーキングを始めました。
昨年末からゴールデンウィーク前まで、四か月半ほどかけて初稿を書いていた間に、もう、最後の一ヶ月ほどは、肩が上がらないほど体ががちがちになってしまいました。その反省から、これからは一日おきくらいにウォーキングをしようと心に誓った次第です。

実は、元陸上部なので、歩くこと、走ることは大好きです。
10年ほど前、広告代理店に勤務していた頃に激務とストレスから倒れたことがあって、その時にもお医者様からウォーキングを薦められました。当時は渋谷パルコ裏といういわゆる「大都会」に住んでいたので、深夜も人の波が途切れず、いたって安全。毎晩、夜11時、12時に見積作成残業や、プレゼン資料残業や編集スタジオ残業から帰宅した後、ランニングウェアに着替えて深夜の渋谷の道をせっせと歩いていました。
3か月ほどそんなことを続けた後だったでしょうか、或る晩スイッチが入り、
「私、走りたい‥!」
その夜、一気に代々木公園の外周を一周走ってもまだまだ元気だったことを覚えています。恐らく数か月のウォーキングで、体がだんだんと陸上部体質に戻っていたのでしょう。
それからは、週に2、3回、毎回1時間ほど走るようになりました。今、「裏渋谷」と言われている神山町の辺りを中心に、北参道や初台までを楽々と往復していました。その後、会社を辞めて、実家に戻った吉祥寺の方が走る環境はずっと良いはずなのに、何となく走らなくなっていましたが‥でも、元が陸上部体質。こうしてウォーキングを続けるうちにまた走りたくなるような気もしています。
とにかく、文章を書く仕事は、実は生活のリズムと体力のコントロールが非常に重要だと思っています。まずはウォーキングで徐々に体を慣らして行くとしましょうか。


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狂気の中の誕生日 2016/04/08



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皆様、私の誕生日である今日、メールやFBメッセージ、そしてFBへのお祝い投稿を頂き本当にありがとうございます。
今年の誕生日、私はどこへも出かけずに部屋にこもり、頭の中は極度の興奮状態にあります。多くの方に知って頂いているように、晩秋より書き始めた本の第一稿が、いよいよあと少しで書き上がるためです。
あくまで「私の場合は」になりますが、新しく一行一行を書き進めている時よりも、書き上げた後、最初から文章を直して行く時の方が、一種異様な精神状態に陥ってしまいます。一語一語が精神病的に気になり、直しても直してもまたどこかが気になって、永遠に終わらないかのような修正を続けてしまうためです。

それでも、印刷の〆切もあり、あと少しのところまでやって来ました。
本当は、誕生日の今日、担当編集の方に総ての原稿をお送り出来たらと頑張っていたのですが、とても間に合わず、いじましく、予告編のように序章だけを送りました。
全体ではあと十九章分あり、今日、そして週末の二日間で、何とか終わりまで修正を完成させるつもりです。そう、物語自体はもう少し前に、書き終わっているのです(書き終えた時、さすがに涙が流れました)。

長い物語を書くというのはとても不思議な体験です。
たくさんの現場取材と資料を読みを通して世界の中に入り込み、苦しい、早く書き終わりたい、早くこの世界から抜け出したいと願いながら、一方で、私が追いかけている一人一人の登場人物や、彼らが息をしている世界と別れることをたまらんく淋しくも感じます。
とにもかくにも、彼らとともに生きる時間もあとわずかとなりました。この後も追加の事実調査やゲラの校正でもう一回だけ狂気の修正作業の時は来るとは言え、そこできっぱりと彼らと別れなければなりません。今日の写真に上げた大好きな花、雪柳も、もう大分散ってしまいました。

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不思議な水仙 2016/04/04



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庭の真ん中に、突然、水仙の花が咲いていた。
いや、水仙は以前から庭の北の方にある花壇に群生していたのだけれど、この花は、今年になって突然、庭のちょうど真ん中辺りに庭いじりが趣味の父が後で何かに使おうと思って置いたままにしていた石の横に、一人長い茎を背筋良く伸ばしていたのだ。

だけど、水仙って、球根植物じゃなかったっけ?
他の花なら、庭に遊びに来る鳥や虫や野良猫たちが受粉した花粉を体のどこかにくっつけて、そしてたまたま立ち止まった所でその花粉がふわりと土に落ちて花が咲くことは、分かる。だけど球根植物では?
もしかしたら、この水仙は、球根のまま花壇から庭の真ん中までころころ転がって来たのだろうか?それとも土の中をもぐらのようにずんずん掘り進んで来た?いやいや最近よく我が家の庭に顔を出す白黒模様のでっぷりとした野良猫が、土を掘り返して一しきり、おもちゃのように転がして運んで来たのかも知れない。
気になって、調べてみると、水仙は普通、土の中で分球して増えて行くと書かれている。けれどごくまれに、受粉によって新しい株が出来ることもあるということで、なるほどね、と納得しながら心のどこかで、庭をころころ自分で転がって来たのだと思いたい。そんな凛とした横顔の水仙なのである。

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新年明けましておめでとうございます。 2016/01/03



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皆様、新年明けましておめでとうございます。
昨年はたくさんのやりがいあるお仕事をお任せ頂き、また、お友だちの皆さんには折々楽しいお喋りやお食事や茶の湯の時間をご一緒して頂き、本当にありがとうございました。
世の中朝活ブームですが、夜にならないと頭が働かない私は、新年も変わらず「夜活」で原稿を書いています。四十代も半ばを過ぎて、いよいよ生活の型が定まり、物事や人の好き嫌いもいっそうはっきりして来たように思います。もうこの先、根本のところでは、自分の型は変えられないのでしょう。今年も、人に何を言われようとも、我が道を突き進むのみと決意しております。
こんな不束者の私ではございますが、おつき合い頂ける皆様にはどうぞ本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

(写真は、冬の寒さの中にもしっかりと蕾をつけている庭の梅の木。昨年も同じ木を撮りましたが、今年は暖冬のせいか、蕾も少し柔らかなようです)


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仕事を断る冬 2015/12/24



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私の辞書に、一つ、ない言葉がありました。そこだけぽっかりと空白の行になっていた言葉、それは、「仕事を断る」。
今の仕事が大好きなことと、また、かなりかなりの義理人情浪花節的な性格から、断ったことなどこれまでにはないのです。
‥でも、今、きっぱりとお断りしています。一週間に一つほどは断っています。断ったことがないので大変胸が苦しく、もう、肺がでんぐりかえってねじれてぎゅぎゅぎゅぎゅっと雑巾絞りをされているような気持ちですが、仕方がありません。本を書かなければならないのですから。
原稿料を前金で頂いています。出版記念トークショーの会場も、日程も、もうばっちりと押さえられています(良かったらおいで下さい♪)。これで印刷のタイミングまでに書き上げられなかったら、人間失格というものでしょう。二度と顔を上げて表通りを歩くことは出来ません。
だから、三月までは、新しい仕事は受けられません。お断りした皆様、すみません。晴れて脱稿したら、またよろしくお願い致します。
(写真は、取材ノートや資料‥の一部です)


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一人お茶の稽古で心を静める午後 2015/10/04



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ありがたいことに日々たくさんのお仕事を頂き忙しく過ごしています。仕事が大好きなので嬉しいことなのですが、何しろ〆切に追いかけられるのはちょっときつい。どこか心が疲れてしまい、そしてどうも今月お茶の稽古に行けないかも知れない状況のため、30分ほど、一人で自主稽古をしました。
…と言っても実際に点てた訳ではなく(濃茶ですし)、エアーで点前の確認をしただけなのですが、それでもやはり心が静まります。
ああ、お茶は良いです。この後お薄を点てて自服しようかしら。
お茶碗は、備前の浦上善次さんのもの。最晩年の一作です。

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“大好きな有名人に身近に会える運”野宮真貴さん篇、10月9日きものサローネで!予告! 2015/09/27



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皆様、日曜日、いかがお過ごしでしょうか。
突然ですが、私の人生にはちょっと嬉しい運勢がありまして、それは名づけて“大好きだった有名人に身近に会える運”!です。
例えば、小学生から中学生にかけて大大大ファンで、少ないお小遣いをこつこつ貯めて写真集など集めていた薬師丸ひろ子さんに、二十代で雑誌の仕事をしていた頃、その雑誌に薬師丸さんがエッセイを連載することになり、何と私が担当を拝命!毎月お会い出来るようになったり、二十代後半に中華圏映画に熱中していた頃、「素敵な俳優さんだな」と、毎年末、日本の中華映画マニアが投票する「好きな中華圏映画&俳優ベスト10」で助演男優賞に投票していた俳優さんに、好きが昂じて留学した中国の映画学校で、改めて映像の勉強をしに来ていた彼と同じ寮生として出会えて友だちになったり(彼は今も台湾のテレビ・映画業界で中堅俳優として活躍しています)。
そんな私の何だか嬉しい運勢に、新しい一章が加わりそうです。
それは‥野宮真貴さん!
そう、言わずと知れたPizzicato Fiveのヴォーカルとして、90年代、世界を魅了したヴォーカリストです。私も大の“ピチカートマニア”で(この言葉、なつかしい!)、もちろんCDは全部持っているし、ノベルティなども一部保管していたり。Pitticatoが解散した時は本当に悲しかったし、でも、解散前の最後のアルバム「さ・え・ら ジャポン」は本当に名盤だと思って、今でも時々威儀を正して聴いています(初めて聴いた時は本当に泣きました)。

そんな野宮真貴さんがきもの好きということは、もちろんファンなので知っていたのですが、何と、私が実行委員会に加わっている今年のきものサローネに、出演されることになったのです!きものスタイルでミニライブを開くとのこと。
私は今年のサローネに、そもそもは広報物のライターとして加わっていたはずなのですが、何故かいつの間にか当日のステージ進行周りを手伝うことになっていまして…、最終的に割り当てられた役割は、出演者の方々のアテンド全般総責任者。要するに、楽屋に張り付き、ステージ横の演出家とインカムでやり取りしながら、全体進行をスムーズに進めて行く役回りです(嗚呼、責任重大です)。
…と言うことは‥!野宮さんとずっと一緒ではありませんか。
きゃーーー当時の私に教えてあげたい!「さ・え・ら ジャポン」にサインしてもらおうか‥いやいや公私混同はいけませぬ。お仕事お仕事あるのみですが、それにしても嬉し過ぎます。

…という訳で、かつてのピチカートマニアの皆様、そして、モダンきものを愛する皆様は、これ以上ないほど完璧な姿でモダンきものを着こなす野宮さんをうっとりと眺めに、10月9日(金)18:00~ゼヒ「きものサローネClub Night」にお越しください。
場所は、COREDO日本橋1三井ホール。野宮さんのライブの他に、みんなでネオ盆踊りを楽しむ「Bon Odori」(最近盆踊りが人気爆発ですよね。楽しそう♪)や、「5時に夢中」「スッキリ!」のコメンテーターとしておなじみの湯山玲子さんのトークショーも同時開催。そして楽屋で奮闘する私のことを思い出して、そっと涙をぬぐってくださいね♡
もちろん、「Bon-Odori」ではちょっとは私も踊りたいし、野宮さんのライブも楽屋を抜け出して少しは聴きに行っちゃうと思います!

「きものサローネClub Night」の詳細やチケット購入はこちらからどうぞ↓
http://kimono-salone.com/kimononight/#day-10-9

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雑誌のページが出来るまでの最初の作業を、休日に。 2015/09/19



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連休初日…ですが、今日は家で仕事をしています。
カメラマンさんより、火曜日の取材のいい写真が上がって来て、にっこり。
更にその取材内容をどうページに構成するか、頭を悩ませて描いたラフコンテが編集者様に一発OKとなり、すこぶる快調。更に新しいお仕事のお話も入って嬉しく♡
あとは今晩中に一本別の原稿を仕上げて‥と。
万事快調に過ぎて行く休日の夕暮れです。

(写真は取材ノートとコンテを撮ったものですが、内容はもちろん発売まで企業秘密のため、わざと流し撮りして撮っています)
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秋の初め、雑誌と本の取材が続いています~染織工房と山梨の農村へ 2015/09/15



今日、そして週末の土曜日と、仕事の取材で、忙しくも楽しい時間を過ごしていました。
まず、今日は、朝5時起き!雑誌のお仕事で、東京郊外の或る染織工房へと向かいました。
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今ではもう日本全国を見渡してもごくわずかな工房しか出来る所がないという、或る貴重な制作工程を取材。これがかなりかなりかなり複雑な工程で、もちろん事前の勉強はした上でうかがっているのですが、分からないことが続出。根掘り葉掘り質問をする私に本当に丁寧にご説明を頂きました。染織好きとして、これ以上ないほど幸せな取材の時間。この成果は11月発売の「いろはにキモノ」にてレポート致します。ゼヒお楽しみにお待ちくださいませ!

      *

一方、週末の土曜日は、晩秋から書き始めるノンフィクション本の取材のため、山梨県の「武川村」という小さな村へ向かいました。
この村を訪ねるのは、今回で3回目。主人公が明治末に耕していた田んぼがあった土地は今も変わらず田んぼのままで、その風景を、冬、春、夏と追いかけて来ました。
この村の最寄り駅は、中央線の日野春駅。そこから小さな山一つ分を下り、釜無川という大きな川を越えると武川村にたどり着きます。今まではタクシーを利用したり、出版社の方の取材動向がある時はその車に乗せてもらって向かっていたのですが、今回は明治期の主人公の暮らしぶりを理解するため、一人でこの山道を徒歩で向かうことにしました。「野猿返し」という名前のついた道です。
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途中には秋の予感。栗やどんぐりが落ちていました↓
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↑ふだんのきもの生活の癖で、スニーカーなのに内股気味になってしまっているのが若干苦笑。
そして山道は、途中かなり細いところもある上に誰もすれ違う人もなく、遭難したら大変とちょっと緊張しました↓
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この日は台風が去って間もない日。山を抜けて渡る釜無川の水量も相当に上がり、どうどうという怖いような音が山の中に響いて来ていたのでした↓
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やがて武川の水田地帯にたどり着くと、いきなり台風で倒れてしまっている稲があり、心配になります↓
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でも、見渡すと、大部分の田んぼでは元気な稲が風に揺れ、もう少しで収穫の秋を迎えようとしていました↓
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↑或る畑の脇にはコスモスの花が。
あと一度、刈り入れの時にここを訪れたら、いよいよ原稿を書き始める予定です。だんだんと心の緊張が高まって来ています。
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冷やし干し柿で猛暑を乗り切り+浴衣で数時間娑婆に出た日 2015/08/13



しばらくブログを更新出来ずにいました。
ただただ仕事が忙しかったためで、思えば7月中旬頃からひたすら仕事!仕事!仕事!の毎日。花火に浴衣パーティーに素敵なお店の1周年記念イベントに…総て、キャンセル!でしたが、ようやく今日これから最終校正読みに行けば一つの山を越える気配。8月後半はかなり楽になる予定なので、遅れて来た大学デビューさんのように、自由を満喫したいと思います。
そう言えば、ちょうど私が特に目を吊り上げていた8月1日頃から先週半ばくらいまで、毎日35度台の猛暑が続いていましたが、振り返ってみればその猛暑の中で文章を考え考えするという二重の苦しみを何とか乗り切れたのは、このお菓子のおかげなのではないかと思うのです↓
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じゃーん、冷やし干し柿!です。
私はふだんから干し柿が大好物で、特に、デパートに並んでいるような高級系の干し柿ではなく、田舎の普通のお家で作られているものに時々本当にびっくりするほど美味しいものがあるなと思っています。親の知り合いの方などからそんな干し柿を頂く機会があると、天にも昇る心地で頂いているのでした。
…が、その干し柿を、冷凍庫に冷やしておいて、夏の間も美味しく食べる方法があったとは‥!

先月の31日、ちょうど一つ前のブログエントリーになりますが、雑誌のお仕事で栃木の養蚕農家さんへ取材に伺ったところ、そちらのお母さんが「おやつに」と出して下さったのがこの冷やし干し柿でした。
干し柿は常温がベストなのでは?と、何しろ干し柿好きなので内心半信半疑で食べてみると‥干し柿特有の味のまろやかみはそのまま、ほのかにひんやりとした食感が‥美味しい‥!
感動にうちふるえている様子から本当に干し柿好きなことが伝わったらしく、「持って行って」と大量にジップロックに詰めてお土産にして頂きました。もったいないので一日おきに一つずつ食べ食べして、何とか猛暑と猛烈な〆切の波を乗り切った、この夏の絵日記前半なのです!
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そう言えばそんな中で、一日だけ娑婆に出た日がありました。
上の写真がその日のコーディネイトで、黒地の絞りの浴衣に、麻の半幅帯を締めています。この帯の色、柿の皮の色に似ていませんか?(*^^*)
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この日は、今関わっているお仕事でお世話になっている、著述家の湯山玲子さんのお誕生日パーティーでした。最近は「スッキリ!」や「5時に夢中」のコメンテーターとして、お茶の間にもその鋭い批評眼がじわじわ浸透しつつある湯山さん。最新刊『男をこじらせる前に』が本当に面白そうで、読まなくちゃ!
80年代ディスコを再現した趣向のこの日のパーティーには数時間だけ顔を出して、また仕事!仕事!でも、今日のブログ冒頭にも書いたように、ここからは大分楽―に過ごせそうなので、浴衣で出かけられる日も何日かはあるでしょうか。何しろまだ8月は半分残っているのだから!ウキウキと過ごしたいと思います。るん!

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深夜の叙事詩セブンイレブン篇 2015/07/29



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深夜、某誌の原稿を校正中、
フリクション赤ボールペンのインクが切れる。

近所のセブンイレブンに電話にて問い合わせた。

「お取り置きしましょう」店員さんの声が聞こえる。

疾走する、闇。自転車にて。

無事フリクション赤ボールペンを手に入れる。
ついでにコピーまで取り、
もう一つ用事を片づけた私は歌う。

‥開いてて良かった。
セブンイレブン、いい気分。

――深夜の叙事詩でした!

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銀座の小さなカフェで、忙中閑あり 2015/07/22



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今日はお仕事が複数重なり、東京の街をあちらこちらへ。
合間の時間に今、銀座の小さな中国茶カフェ「掌」でほっと一息ついています。
1933年ものの普茸茶に、烏龍茶味の寒天ゼリー。汗がすっと引き、締め切り間近の原稿の言葉もすらすら浮かんで来ます。

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連休中、細胞について考えてみたり 2015/07/20



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SNSのタイムラインに上がるお友だちの楽しそうな休暇の様子を横目で見ながら、私はこの連休、複数の〆切を抱えて必死でPCと資料に向かっています。
特に大きな比重を占めているのが、或る健康関連企業様の広告物のお仕事で、もともと医学・生理学の知識がほとんどないため、クライアント様からレクチャーを受けたり様々な資料のページをあちらこちらと広げるなどして、何とか原稿へとまとめ上げている毎日です。

‥とは言うものの苦労ばかりではなく、やはりどんな分野でも、新しい知識を得ることは素直に楽しく感じます。
特に人体の免疫や代謝のシステムは、知れば知るほど何と精緻に出来ているのだろうと驚嘆することばかり。
自分の体が60兆個もの細胞から出来ていて、その60兆個一つ一つの中に更に小さな部位であるミトコンドリアさんが300から1000個もうようようごめていて酸素を取り込んでいたり、胃や小腸で分解された極小物質が筋肉やら肌になるために別の物質へと作り変えられていたり――などということを、本人が知らないうちに勝手にやってくれているのだと考えると、頭が下がると言うか何と言うか。
総合本部?であるこの西端真矢という人間は、もう少し何か、ミトコンドリアさんや熱ショックタンパク質さんやナチュラルキラー細胞さんたちの努力に見合うだけの何事かを成し遂げなければいけないのではないか?などと反省したりもしてしまうのでした。

そして、例えば仕事をしていたり遊びに出掛けたりしていると日々様々な人と出逢い、中には、この人、どうしてこうも仕事のカンが悪いのか? 或いは、どうしてもこうもコミュニケーションがおかしいのか?(例えばストーカー的な人など)…と、首をかしげざるを得ない人にも出会ってしまう訳ですが、そんな人々のその不調具合も、例えばそれが仮にAさんだとしたらAさんという有機体のごくごく表面の小さな一部分の不調であるに過ぎない。
Aさんの60兆個もの細胞さんやその中のミトコンドリアさんたちのほとんど総ては、しっかりと仕事を果たしていらっしゃるのだな、と知ると、何か少し優しい目と言うか、少なくともAさんの細胞の中の60兆×300個のミトコンドリアさんには親しみの気持ちを抱いてしまうのでした。
‥と、そんな、愚にもつかないことを考えながら、仕事の続きに励む私です。ではでは。

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人生をふわりと持ち上げてくれる音楽について 2015/07/17



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突然ですが、皆さんは、仕事をする時、音楽をかけるでしょうか?或いは文章を書く時は?大事なメールを書く時、仕事の重要書類を作る時、ブログを書く時はどうでしょうか?自分にとって大切なことをする時、音楽の力を借りる人はどのくらいいるものなのでしょうか?

文章屋として仕事をしている私は、実は、音楽に大きく助けられています。或る場合にはひどく左右されてしまっていると言ってもいいかも知れません。
特に人の情緒に訴えかけるような文章を書こうとする時は、その目指す情緒にふさわしい音楽が流れていることが、私には絶対に必要です。悲しみを表現しようとしている時にポップな音楽が流れていたら、一歩も前へ書き進められません。
とは言うもののメランコリーな曲なら何でも良いという訳ではなく、或る文章には演歌がふさわしく、或る文章にはクラッシクがふさわしく、また或る文章にはJPOPのあの淋しい曲が‥といったように、書こうとする「悲しみ」の質感にふさわしいとか感じる――あくまで私が主観的に感じるものですが――曲が流れていなければならない‥というこういう細かさは、私だけのこだわりではないと思っていますがどうなのでしょうか。
   
          *

とにかく、そんな訳なので、文章を書く前にまずは音楽を選ぶことに相当時間がかかってしまいます。
エリック・サティで始めたもののやっぱり何かが違うのでリンドストロームにチェンジし、それもやっぱりしっくり来ないのでBPM遅めのメランコリーなディスコダブに変えてみたもののやはりアコースティックギターのあの曲に…と何度もステレオと机の間を行ったり来たり。その間、ラップトップに打たれているのはたった一行半のだけ‥

こんな私なので、外のカフェで仕事をすることは絶対に不可能です。資料をぎっしり並べた本棚が後ろにないと安心出来ないということも原因の一つですが、もう一つ、この 「その時書こうとする気分」にぴったりとした音楽が店に流れている可能性が、限りなく低いためです。
友人のライターやエッセイストの中には、常にカフェで原稿を書いている人もいますが、私には絶対に真似出来ません。何だかノマド(死語?)でかっこいいな、とは思うのですが‥

          *

ところで、そんな私の「その時書こうとする文章にぴたりとする音楽」選びは、実は恥ずかしいほどに単純でもあります。
例えば中国について書いている時は中国箏の古典音楽を流し、日本の東北について書いているなら、東北っぽい(と私が感じる)演歌の曲、雨降る日の情景を書くエッセイなら雨を歌ったポップスに‥といった単純さ。
ところが雨の歌のCDを聴くことは数年に一度であるかないか、棚の中のどこにしまったのか分からなくなっていて、そのCDを探し当てるだけで優に1時間。そうだ、雨の曲だけを並べて音楽ファイルを作り、永遠ループさせながら書いちゃおう!と思いつくと更に1時間。もしも横で担当編集者の方が見ていたら、イライラと貧乏ゆすりが出る頃でしょう‥

          *

そんな中、私にとって鉄板と言えるCDがあります。
私がお引き受けするお仕事やブログへと書く内容の中には、人の深い情緒や複雑な思索に訴えかけるものもありますが、もっと気軽にフラットに、事実や情報、または日々の暮らしの中でふと気に留めた小さな出来事(今日の日記がまさにそうです)を伝えることを目的とするものも多くあります。そんな時、とにかくこのCDをかけてみれば何かしら言葉が浮かんで来てすらすらと原稿が書けてしまう、全くもって魔法のような一枚なのです。
今日のブログ冒頭の写真のCDがそれなのですが、アーティストは、Fantastic Plastic Orchestra。略称FPMと呼ばれる日本のDJ兼ミュージシャンです。
この方の「LUXURY」というCDは、おそらく2002年頃に出たもので、それ以来15年以上、私の「深刻過ぎない文章の気分」を整える手助けをしてくれていることになります。
BPM120から110あたりの速過ぎないリズムと、低俗に行き過ぎないメロディーライン。複雑な音色(おんしょく)‥どこをとっても趣味のいい曲が13曲並ぶ名盤です。
実は私は聴ける音楽の幅が人よりかなり狭く、特にへヴィメタル、トランスに至っては吐き気がすることもあります。三半規管が弱いことと何か関係があるのでしょうか。現代の趣味のいい音楽家のアルバムにはたいてい異ジャンルの曲が混在しているものですが、こんな風に私の耳の許容範囲が極度に狭いため、必ず「この曲はダメだ」という曲に当たってしまい、一々スキップをするのがわずらわしい。ところがこのアルバムには、そういう、耳に当たる曲が一曲もないのです。
特に2曲目の「There must be an angel (Playing with my heart)」と8曲目の「Lotto」に差し掛かる時私の脳の回転は限りなくなめらかに回り、言葉や文章の切れ端が、まるでDJがすっとレコードを送る時のように、頭から流れ始めます。まさに黄金の一枚としか言いようがありません。

不思議なことにこのCDは、部屋の片づけをする時にもしごく効率を高めてくれるように感じます。また、何の用事もない晴れた日曜日の朝、とりあえずもう一杯紅茶を飲んで本屋さんへ行こうかお風呂をぴかぴかに磨こうか、それとも写真でも撮ってみようかしらなどと考えている時のささやかな幸せの感覚を、最高度に盛り上げてくれるようにも思います。まるで燕尾服を着た目に見えない音楽の小人たちがステレオの後ろでビックバンドを組んで、私のために演奏をしてくれているように。
もちろん人生はいつも、このCDの気分がぴたりと当てはまる局面ばかりではありません。それでも、過ぎて行く日々と日々の間でふと一息をつく朝、あなたはどんな音楽を聴いているでしょうか?

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友を送る茶会に、オリジナルの主菓子をあつらえて(お菓子&きものコーディネイト写真付き) 2015/06/24



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先週末、通っている茶道の教室で、大切な茶会がありました。
私たちの会は、美術史家の先生に茶道のお点前とお道具について教えて頂いているのですが、発足時以来の古参男子メンバーMさんが、ご家庭の事情で故郷へと帰ることになったのです。
そこで、心づくしの「名残之茶会」を開くことになりました。お点前が安定していて美しい方は、炭点前やお濃茶など、お点前の担当に。すぐ順番を間違えてお点前はダメダメ劣等生の私は、お菓子の担当です。そう、この日の茶会に出すお菓子をどこのお菓子舗に注文するのか、どんな題材のお菓子にするのか、総てを決める権限(と責任)があります。

          *

そこで散々に知恵を絞りました。
現在、盛りの花は、例えば紫陽花。或いは、梅雨入りしたということで、雨や水、傘などをモチーフにしたお菓子も良いかも知れません。けれど、この日は友を送る「名残之茶会」。何か私たちの会にちなんだものか、Mさんにちなんだものにしたい。私の仕事は文筆業で、いつも「話の流れ」ということに頭を使ってお金をもらっているのだから、ここでストーリー性のあるお菓子を作れなければ名折れというものではないか!
‥と、しばし悩んだ末、妙案が浮かびました。それは、「銅鑼」をモチーフにするというものです。しかし、何故銅鑼なのか?
下の写真は、淡交社「原色茶道大事典」の中の「銅鑼」の解説写真を撮ったものですが‥↓
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このように、黒や茶色の鉦(かね)で出来た合図を鳴らす道具が、銅鑼である訳です。
実は、茶道では、銅鑼は大切なお道具の一つです。
正式な茶事の際に、途中で休憩時間のような「中立ち」という時間があるのですが、その「中立ち」が終わって「また茶事の続きを始めますよ。どうぞ茶室にお入りください」と呼びかける、その合図に銅鑼が使われるのです。
そんな銅鑼を、どうして今回の「名残之茶会」のお菓子のモチーフにしようと思ったのか?それは、過去の茶道の歴史の中に銅鑼にまつわる、或るエピソードがあったためです。

           *

江戸時代後期に当たる安永・文化期、表千家第七代如心齋の愛弟子に、川上不白という方がいました。後に江戸千家の流祖となる方です。
この不白は三十代の初めに、江戸の或る大名より「千家の茶を江戸でも教えてほしい」と出仕の要請を受けました。師である如心齋は愛弟子を手放したくはなかったでしょうが、大名の要請とあれば受けない訳には行きません。そこで、万感の思いを込めて、いよいよ不白が京都を旅立つ日、「名残之茶会」を開くことにしました。
この茶会で、如心齋はちょっと変わった銅鑼の打ち方をします。七回打つことと決まっている「中立ち」後の銅鑼を、敢えて一回少なく打ったのです。そして、いよいよ茶事が終わって不白が茶室を離れるその瞬間に、最後の一打を打ったといいます。
これは、恐らく次のようなメッセージをその裏に込めているものでしょう。「今、私たちは別れ別れに暮らす時を迎えたけれど、またいつかきっと再会して茶室に集い、共に茶を楽しもう」‥何とも深い、惜別の思いを込めた銅鑼の使い方であると思います。
     
           *

「茶道は決まりごとばかりだから嫌い」と言う人がいますが、それは非常に浅薄な理解に過ぎないと私は思っています。
まず、決まり事をしっかりと、自家薬籠中のものにする。その上で、自分の心からの思いや思想を表現するために、その決まり事を自由な発想で駆使すること。そこに茶道という高等な遊びの本質があると思うのです。

           *

いつの日かの稽古の折りに先生から教えて頂いていたこの如心齋と川上不白との銅鑼のエピソード。今正に同門のMさんを送ろうとする私たちの茶会でお出しする主菓子に、ふさわしい主題となり得ると思いました。
しかし、銅鑼のお菓子など、どこのお菓子舗も作ったことはないでしょう。当然これは、新たに特注で発注するしかない。では一体どこにお願いしようか‥
そこで思いついたのが、このブログで5月7日にご紹介した、神楽坂「梅花亭」でした。
http://www.maya-fwe.com/4/000350_J.html
この時は、きものイベント「わーと日本橋」に出掛け、会場内に作られた空中茶室での茶会に参加しましたが、その日のお菓子を担当していたのが「梅花亭」さんだったのです。空中茶室にふさわしい、成層圏や雲をイメージしたお菓子。こんな大胆な発想を持つお菓子処なら、きっと「銅鑼をモチーフに」というリクエストにも応えてくれるに違いない。
実は、「わーと日本橋」の後、ご主人の井上豪さんが私のおきもの友だちの元同級生だと知ったこともあり、何だかぐっと頼みやすくなった気もして、思い切ってメールをお送りしてみました。すると、快く「やりましょう」というお返事。何とも嬉しい瞬間でしたが、一つだけ心配だったのが、銅鑼は何と言っても茶色や黒と地味な色合いで、茶会の菓子としてあまりにも華がないことでした。
そこで、
「ばちの柄には赤を使うことが多いようなので(先ほどの解説写真のバチでも赤を使っています)、茶色の銅鑼の上に、赤いバチが置いてある意匠ではどうでしょうか?」
と提案してみました。しかし、私のこの素人くさいアイディアは直ちに却下(笑)。確かに今になって想像してみると、小学生が家庭科の時間に作るお菓子のようで、まるで大人の茶会の品格がありません。
十日ほど、試作を試みて頂いていた後、「梅花亭」井上豪氏のオリジナル作品として、下の写真のような銅鑼のお菓子が完成しました。
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色は、格調高い白。万感の惜別の念を表して、一片の金箔がその上を飾ります。友を送る私たちの心の中で鳴る銅鑼の音を象徴化する、素晴らしいお作となりました。銘をつける権限も与えられている私は、「名残之音(なごりのね)」としたことを書き添えておきます。

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この日の茶会は万事滞りなく進み、お点前をする人は心を込めて、先生のお道具組も格調高く惜別の念がこもり、また、門人全員からMさんに贈った茶道具一揃えの中のお棗は、蒔絵も学んでいる仲間による手ずからのものでした。
もちろん、お菓子も大変に好評で、そして、先生よりこのお菓子の由来を説明する口上を申し付けられた私は、先ほど書いた如心齋と不白のエピソード、そしてMさんを送る思いとを、五分ほどの時間をかけて心を込めてお話ししました。Mさんや他のお仲間が涙ぐんで下さったので、きっと成功していたのではないかと思います。

          *

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そんな素晴らしいお菓子を作って下さった井上豪さんと、茶会前日、お菓子を受け取りに行った際に撮ったのが上の写真です。
神楽坂「梅花亭」は昭和十年の創業。神楽坂駅に近い店内はいつもたくさんのお客様でにぎわっています。神楽坂ポルト内にも支店があり、実は私は以前から、度々、おまんじゅうなどは買い求めていました。お菓子にはうるさい甘党の私の厳しい~舌にかなうお菓子処です!
その秘訣の一つは、お菓子の皮に合わせて餡の豆を何種類にも炊き分けていること。私たちの茶会の日のお味も、もちろんびっくりするほど美味しいものでした。大切な茶会のお菓子をこちらにお願いして、本当に良かった…!
  
          *

最後に、蛇足のようですが、私のコーディネイトを楽しみにしてくださっている方もいらっしゃるので(ありがとうございます!)、帯に寄った写真も。
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この日のおきものは、村山大島の単衣。とんでもなく精緻な板締めで、燕などの文様を表したものです。今、一番気に入っているこちらのおきものについては、また別の回に詳しくご紹介したいと思います。
帯は、祖母から伝わった八寸名古屋帯。破れ七宝模様のこの帯に、明るめの黄色の洋角組帯〆を入れています。
茶会当日のきものは、また別の回に。
今はとにかく、心血を注いだお茶会が無事に終わり、心からほっとしています。大切な友を送り出すのは寂しいものですが‥

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喪の日のきものと、厳しかった大学時代恩師の思い出(コーディネイト写真付き) 2015/06/19



少し前のことになりますが、大学時代の恩師が亡くなり、お通夜に参列しました。
きものブログはたくさんありますが、あまり喪の日のきものを採り上げる例はないように思うので、今日は、ご参考になればと写真付きで書いてみました。そして、亡くなった恩師――とても厳しい先生でした――と、先生のもとで真剣に学問に取り組んだ大学時代の思い出も、少し。

     *

この日のお通夜は、キリスト教式で行われました。私はミッション系の上智大学の出身で、先生は教授であり、神父様でもあった方です(私自身は無宗教です)。大学内のイグナチオ教会という、講堂のような大きな教会が会場でした。
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上の写真が、当日に着た喪服です。
一般に、お通夜はお葬式よりも略式で構わず、とり急ぎ駆けつけた気持ちを表せば良いとされているかと思います。私もこの日は、色喪服で参列しました。
この色喪服は友人のお祖母様の遺品を頂いたもので、ひげ紬のようなひげが出ていますが、やわらかものです。色は、紫がかった茶色のような、何とも言いがたき色(この写真と、下にもう一枚出て来る写真の中間の色目です)。八掛には黒を入れており、紋は入っていません。
そして、帯は、喪服用の唐花文様す。これに、黒の帯揚げと帯〆を入れました。
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↑会場に着くまで、帯付きの喪服姿で街を歩くのもどうも気持ちが落ち着かず、上の写真の羽織を羽織っていました。こちらは私自身の祖母から伝わったもので、般若心経柄。背には一つ紋が入っています。
般若心経は、全ての仏教会派に共通するということで、よく喪服の模様として使われているかと思います。ただ、この日はキリスト教式だったため、会場の敷地の20メートル前程で脱ぎ、持参した黒布の手提げ袋にしまっていました。そして式が終わり、敷地外に出てしばらく歩いてからまた羽織ります。
髪は後ろで一つに束ね、その束ねた所を黒いリボン付きのバレッタで留め、バレッタの先に付いているネットの中に入れ込みました。たまたま家にあった、このような黒リボン付きのバレッタは、一つ持っているとふだんにも、そして今回のような機会にも役立つと実感しました。
以上、お通夜の日のきものについて、皆様のご参考になることがあれば幸いです。

        *

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ここからは、亡くなった恩師と、その恩師の元で過ごした日々を振り返って綴りたいと思います。(上の写真は、式が行われたイグナチオ教会)

この日、最後のお別れをしたエセイサバレナ先生は、享年九十歳。スペイン、バスク地方のご出身でした。
バスク地方は、ご存知の方も多いかと思いますが、一応スペインに属してはいますがフランス国境に近く、独自の文化を誇り、スペイン語ともフランス語とも異なる、バスク語という言語を話します。独立運動も度々うねりを見せる地域のようです。
そんな複雑な地域で生まれた先生は、若くして信仰の道に入り、はるか歴史の昔のフランシスコ・ザビエルと同様、全く縁もゆかりもない東の小国へと派遣されることになりました。その信仰の心はどれほどまでに強く、純粋だったのだろうと思います。

          *

しかし、私たちが教えを受けていた頃、既に七十歳を迎えられていた先生は、ひたすらに真面目で実直な信仰の人、と言うにはかなり違う、独特の風をお持ちでした。柔らかな言葉で言えば、ユーモアの人、強い言葉で言えば、かなりの皮肉屋‥
実は、先生に教えを受けていた頃、私は先生をひどく憎らしく思っていました。私が学んだ哲学科は、全体的に真面目な校風の上智大学の中でも特に学問に厳しく、大学1・2年の間、毎日1限目に設定された第一外国語の授業(必修)に、年間で3回遅刻すると、即、留年となりました。遅刻だけで留年。相当に厳しい方ではなかったかと思います。

そんな上智の哲学科は、伝統的にドイツ哲学が強く、ほとんどの同級生は第一外国語にドイツ語を選択していました。その中で、七名だけ、変わり種のラテン語専攻の仲間がいて、実は、私もその一人です。そしてエセイサバレナ先生は当時、ラテン語の担当教授でいらっしゃったのでした。

          *

ラテン語というのは、要するに、日本語で言うところの古文であり、現在、ヨーロッパ生まれのヨーロッパ人にとっても十分に難しい言語です。もちろん、現実生活で使い機会は全くと言っていいほどありません。

この言葉の難しさは、活用にあります。
何しろ、動詞はもちろんのこと、名詞、形容詞までいちいち総ての語が活用をするのです。しかも、単数形・複数形、男性名詞と女性名詞があり、時制は一体いくつあるのやら‥要するに、一つの文章の主語、動詞、形容詞、目的語‥に全て活用があり、しかもその時々の時制や数量に合わせて正確に活用していなければならい。‥そんな気が狂いそうに複雑な言語でした。
しかも全くのゼロから始めているにも関わらず、何しろ毎朝1限に授業があるために文法だけはどんどん前に進み、半年もすればもう、あのローマの雄弁家キケロの原文を読む、という恐ろしくレベルの高い授業が行われていました。

‥が、そのようなハイスピードのため、当然どうしても覚えられない活用や、読み取れない箇所が頻出するようになります。私たちは日々の宿題や授業中の指名の度に頭を抱えることになった訳ですが、そんな時エセイサ先生は決まってこう言いました(日本語で)。
「キケロのおばあちゃん」
これは一体どういうことかと言えば、あれこれ考えてみても仕方がない。語学には、何故こう活用するのか、何故この発音なのかという問いに対して、理由など何もない。キケロも、キケロのおばあちゃんもみんなこう喋っていたから、こう喋るんだ、ということを意味しています。
語学というものの真実をたった一言でユーモラスに言い当てている名句だと思うのですが、けれど、当時、留年におびえながら活用に頭を悩ませている時に微笑混じりに言われれば、どうにも憎らしく腹が立ったものです。一体、私たちラテン語組は2年間で何回この「キケロのおばあちゃん」を聞いたでしょうか。

          *

式の後、その仲間たちで、なつかしい四谷の街で食事をしました。
みんなが口々に「ほんと、あの頃のエセイサは憎らしかった」と言い、当時から夜型だった私は毎朝1限ギリギリに飛び込んでみんなをはらはらさせていたこともぼんやりと思い出しました。
『パパラギ』『蠅の王』『夜と霧』など、1年次の必修授業「人間学」で読んだ課題図書に、今になって思えば非常な良書が選ばれていたことや、そのためみんなが内容を鮮明に記憶していること、確実に今の自分たちの思考の血肉になっていることにもまた気づかされ,、それぞれが書き上げた卒論についても話し‥と、話題は尽きることがないのでした。

          *

けれど、ざっくばらんに言ってしまえば、今、そんな私たちの中で、ラテン語の知識を役立てられる仕事に就いている人は、一人もいません。あまりにも複雑なラテン語のあの活用文法は、その複雑さの故に今はきれいさっぱり脳髄から消去されてもいます。では、あの時間は無駄だったのか?と問えば、そこはそうではないように思うのです。
私たちが大学に入学した頃は、まだバブルの花が最後の腐臭を放ちながら、かろうじて咲き誇っていた浮かれ時代の最終章。そんな時代の空気の中で哲学を学ぼうなどという人間は、子ども時代から何らかのやむにやまれぬ哲学的命題に頭を悩ませ(例えば、「“本当に理解する”とはどういうことか」「1+1は何故2なのか」などなど…)、それを何とか解き明かしたい、そういう、切迫した決意を持って入学を決めたはずです。少なくとも、私はそうでした。
けれどそんな人間にとっても、禅問答オンパレードの哲学書を読むことはやはり相当に難易度が高く、非常な根気が必要とされる出来事でした。
だからこそ、一切甘えのきかない態度で私たちの前に立ちはだかったエセイサ先生をはじめ、上智哲学科の、キリスト教ならではの生真面目な環境が役立ったと思います。すぐに落第、留年となってしまう環境では怠けることは許されず、カントでもデカルトでもキルケゴールでも、課題となった哲学書を線を引き引き読み通さざるを得ない。それが4年間続くことで、もともと持っていたそれぞれの論理的な傾向が徹底的に磨きをかけられ、血肉化し、卒業して20年を経た今、仕事をする上での大きな武器になっていることは、その夜集まった全員の共通認識でした。
もちろん、こういった理論的傾向は、問題解決を最後の最後では情緒で紛らわしがちな日本社会においては、「理屈っぽい」と摩擦を引き起こすこともあります。
けれど、どのようなことでも、中途半端が最も意味がない。4年間で磨き上げられ、とにかく、抜けのない論理的思考方法を持てるようになったこと。それをどう使いこなすかは、それぞれの謂わば人間力次第であり、また別の話なのだと思います。
「キケロのおばあちゃん」とエセイサ先生に憎らしく微笑まじりに言われたこと。
それは今になってみれば、たまらなく心楽しい思い出です。そう言えるほどには私たちが成長したことを伝えたいと思った時、もう先生はここにいないのでした。
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我が家の庭の巨大紫陽花 2015/06/14



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我が家の庭の紫陽花が、巨大な花をつけました。
どれくらい大きいか、比較のために母のガラパゴス携帯を横に置いて撮ってみましたが‥何だか別の花のような巨大ぶりです。今にもパンっとはじけそう。
この紫陽花の木は、15年程前、どうしてか庭の片隅に自生していたものを父が植え替えたところ、立派な木へと成長しました。とは言え、大きな花をつけたのは、今年が初めてです。紫陽花の木の樹齢を知りませんが、今が盛りの時なのかも知れません。

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人生を左右する“頭にピッタリの枕”問題について 2015/06/10



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何やらこんまりさん風の題名をつけてみた今日のブログなのですが、皆様、毎朝の目覚めは快適でしょうか?
実は私、枕にはとてもうるさい人間です。
どのくらいうるさいかと言えば、小学校低学年にして既に「枕が合わない!」と日夜親に訴え、困った父親が特製枕を作ってくれたほど、枕には一家言持っておりました。これから詳しく書きますが、これまでに渡り歩いた枕の数は相当数。枕放浪記が書けそうな勢いです。

☆枕の合う合わないは、体型に起因する
では、どうしてこれほどまでに枕に敏感体質なのか?どうやらそれは、私の体型に起因しているようです。
これまでに複数の枕アドバイザーさんに指摘されたのですが、私の体型は、背中のS字湾曲がかなり大きめ。そのため、お尻側と上手くバランスを取って頭側からこの深めのカーブを支える枕を見つけることが、難しいようなのです。
私の身長や首の長さ、肩の厚みから言って、「標準的にはこのくらいの枕が良い」という高さがあるようなのですが、どうもそれでは高過ぎる。事実、これまでに枕アドバイザーさんからお薦めされた枕は、どれも合いませんでした。
また、売り場では必ずサンプルの枕に寝てみるのですが、そのような試し寝も役に立ちません。その場では、「これなら大丈夫そう!」と思って購入しても、家で使ってみるとNG。どうやら、寝心地というものは枕だけで決まるのではなく、ベッドの固さも影響するらしい、ということも、最近になって知りました。
つまり、このようなことが結論されます。理想の枕とは、「枕自体の高さ・素材が体型に合っていること×ベッドの固さが適した時」に誕生する。何とも、難しい。

☆過去、二度の枕問題深刻化を体験。現在、三度目に遭遇…
そんな枕問題の難しさを、恐らく体型のせいで早くも小学生の時から実感せざるを得なかった私である訳なのですが、この時の枕騒動は、冒頭にも書きましたように父のお手製枕が解決してくれました。
その後、後に詳述しますが、三十代で二度目の深刻な枕問題に突入。更に四十代のごく最近、実は人生三度目の枕騒動が勃発してしまいました。今、この問題がなかなかに深刻なのです。

☆枕は厚い派?薄い派?
そもそも皆様は、厚い枕派でしょうか?薄い枕派でしょうか?
私はダンゼン“薄い枕派”です。よく、ホテルに宿泊すると、「これはもしや…?クッションなのでは?」と思うほどに分厚い枕が、しかも二段に重ねられて豊乳自慢の女性のように、今にも中綿をはち切らせんばかりにして並べられています‥が、あのような枕で寝ることは私には、到底考えられません。
実は、若かりし頃、試しにホテルの枕にそのまま寝てみたことがあるのですが、翌朝、ベッドから起き上がって一歩歩き始めたとたん、「も、もしかしたら私の首‥もげた?」と勘違いするほど、例えて言えば頭と首が左右にずれた状態でかろうじて糸一本でつながっているような、とてつもない不快感に襲われました。しかもその不快感は一日中続いたのです。
以来、私がホテルの部屋に入ってまずすることは、おしゃれで見栄えの良い分厚い枕をベッドからぜーんぶ取り払うこと。そしてバスルームからタオルを持って来て、三つ折りして枕代わりにして寝ています。これだと多少低過ぎではあるのですが、数日の旅行の間なら何とか過ごせます。
また、ホテルによっては、フロントに問い合わせてみるとそば殻枕を用意している所もあります(何と、中国のホテルでも用意していました)。そば殻のものは、ホテルによってはかなり薄いタイプがあり、完璧ではないもののしのげることも多いため、愛用している次第ですす。

☆お金をどぶに捨てた十の枕
こうして子どもの頃から常に枕に!問題意識を!持って来た私。
ここで、今日のブログ冒頭の写真を再び掲載するのでご覧ください↓
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枕が六つ、積み重なっています。実はこれらは9年前、三十代の頃の私が、人生二度目の“枕騒動”で悩んでいた頃にあれこれ買ってみては頭に合わず、お蔵入りとなってしまったもの。
現在手元に残っているのは写真の六枕なのですが、この他に、まだ三つか四つほどありました。それらは、或る時、フリーマーケットに、
「一度だけ使って頭に合わなかった枕です。たった一度しか使っていないのでとてもきれいです。100円でどうぞ」
と書いた紙と共に並べておいたら、お嫁に行ってくれました。しかし、まだ六つは残っていて、家の押入れを占領しているという訳です。(どなたかほしい方、いらっしゃらないでしょうか?もちろん無料で差し上げます!)

☆三十年間愛用した父の手製枕の優秀構造
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この二度目の枕騒動の頃、私は三十代の半ば。それまでは、何と冒頭に書いた小学生の頃に父が手作りしてくれた特製枕を、三十年近く使い続けていました。
それがどんな枕だったか、私のように枕問題で悩んでいる方のご参考のために、ちょっとご説明したいと思います。(上の図もご参考下さい)
1)お布団の中綿に入れるようなほわほわと柔らかい綿を、
2)やはり柔らかめでかなり薄手の、伸縮性のあるナイロン布で作った袋に入れて閉じ、
3)更に、頭が載る辺りの場所にそば殻を入れた袋を、横長に縫い付けたもの。
このそば殻袋の寸法は、縦は、大体頭の長さと同じ。横幅は、頭より5センチほど左右に出たものでした。
つまり、頭の重みをまずそば殻袋で受けとめ、しかも袋の底が直接マットに着くのではなく、一旦綿で柔らかく沈み込むように受け止める構造。これが、私の深めのS字湾曲体型に非常にマッチしたようです。似たような体型で悩んでいる方はゼヒ試してみて下さい。
どうやって父がこの形にたどり着いたのか、もう本人も覚えていないそうなのですが、とにかく非常に調子良く、三十年間使い続けることになりました。

しかし、万物は流転し、形あるものは必ず壊れる。これほど素晴らしかった父の手製枕も、9年前、ついにそば殻部分の袋が破れ始め、ぼろぼろとこぼれ出るようになってしまいました。30年も使い続けていたのだから、当然のことです。
そこで修復を施して、同じ枕を維持しながら使い続ければ良かったのに…と今になっては思うのですが、まさか自分がそこまで枕にうるさい人間だとは、その頃は想像出来なかった私は(何しろ前回の枕騒動が小学生のときだったので‥)、結構簡単に次の枕も見つかるだろうと、その手製枕を惜別の想いにかられながらも処分してしまったのです。

☆三十代、枕放浪記第二章始まる
ところが、それから、買っても買っても、頭にピッタリ来る枕が見つかりません。その結果が先ほどの六枕写真なのですが、全部で十個ほど買っては無駄となり、その中には1万円台後半のお高いものから3千円ほどの手頃のものまで、中身も、そば殻からウレタン、天然綿、ポリエステル綿、ビーズ‥実に様々なものがありました。
基本的には、どれも「最も薄い」サイズのものを買っているし、先ほども書いたように枕アドバイザーさんのお薦めを買ったり、売り場で試し寝もしているのですが、総て、合わない。もう、朝、起きてベッドから降りた瞬間に、「く、首が、もげてる…」状態となり、お金をどぶに捨てたことが分かるのです。
そんな中で、素晴らしいと思ったのは、テンピュールでした。
実はテンピュールの枕も「もげてる…」状態になってしまい、私には結局合わなかったのですが、あのブランドには、貸出制度があります。確か千円ほどで2、3日借りることが出来、自分に合うか合わないかを判断することが出来ました。かなり高額な商品だということを考慮しての制度なのでしょうが、すごく良心的な会社だなと思ったことを覚えています。

☆幼児用枕に落ち着く
そんな人生2度目の枕騒動に遭遇して十個ほどの枕を無駄買いした9年前、結局たどりついたのは、幼児用枕でした。
何だかかなり情けない話なのですが、ものすごーく薄い、二、三歳児用の枕です。中にはポリエステル綿が入っていて、厚みは2センチほどだったでしょうか。
これは、フェリシモのカタログで偶然見つけたもので、それまでに十個分トライしていましたから、もう、すがるような気持ちで、ダメ元で買ってみたものでした。値段は確か3千円ほどのお安いものだったと思います。
ところが、これが、劇的にピッタリと来ました。起きた時に、普通に、首と頭がつながっている!幼児用だって笑われたっていい!フェリシモさん、ありがとう、ありがとう!そんな気持ちでした。
‥この時、一生困らないように、4、5個まとめ買いをしておけば良かった、と、今となってはまたまた後悔の念に襲われます。何しろ一つ3千円ほどだったのですから、五つ買っても1万5千円。何故買っておかなかったのか‥そう、その枕は今、販売されていません。
そして9年を経た今、さすがに中綿がへたって薄くなり過ぎ、一月ほど前からでしょうか、“人生三度目の枕騒動”が勃発してしまったのです。

☆たとえ薄枕派でも、「薄過ぎ」はダメ
今度の枕問題は、これまでの「厚い」問題とは逆に、許容範囲を超えて綿が薄くなり過ぎたことが原因です。
本当は、このフェリシモ幼児枕の現在の状態をお見せしたいところなのですが、あまりにへたれ過ぎていて何とも悲しくみすぼらしく、私のありもしないかも知れないパブリックイメージに関わるため、非公開とさせて頂くことをお許しくださいっっ。
‥と、それほどにぺちゃんこになっているのですが、枕は、「厚過ぎる」場合には再三書いたように、首がもげる系の不快感に苦しみますが、「薄過ぎる」場合は、背中が痛み出すことが今回分かりました(そんなこと分かりたくなかったのですが‥)。
どうも1か月ほど前から背中や肩が痛み、次第にきものの帯を結ぶために後ろに手を回すこともつらいほどに。ちょうどその頃、階段で足を踏み外して転倒していたためてっきりそのせいだと思っていたのですが、「どうも枕が薄いような気がする」という違和感もあったのでバスタオルを二つ折りにして枕の上に重ねてみたところ、翌朝、きれいさっぱり痛み解消。手をぐるぐる回しても痛くない!そうか、転倒ではなく枕が原因だったのか、と思い当たりました。

そこで、「ぺちゃんこ枕+バスタオル」方式で過ごそうと思ったのですが、何故かその翌朝は、また背中の痛みが戻っている。けれど翌々日とその翌日は大丈夫。でもその翌日は痛い‥
どうやら、その日その日のタオルのたたみ方や寝相、綿の寄り具合によって、微妙に高さが変わってしまうようなのです。これは、根本的に枕を買い替えなければいけない、と思い当りました。

☆四十代、枕放浪記第三章。新たに薄型枕を購入したけれど‥
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‥そんな訳で、現在、三代目枕購入問題に、文字通り頭を悩ませています。私は吉祥寺に住んでいるので、街に幾つかあるデパートや枕専門店、インテリアショップを行脚。半月ほど悩みに悩んだ末に、つい先週、私の枕コレクションに新たな一つが加わりました。それを撮ったものが、すぐ上の写真です。
寝具メーカー「ロフティー」から出ている最も薄いサイズで、下の寄りの写真をご覧頂くと分かる通り、ジュニア用。身長80~100センチのお子さんのための枕です↓
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身長80センチ用!何だか泣けて来ますが、背に腹は代えられない。いや、頭に首は代えられない気持ちです。
現在、この枕で寝て、四日目。快調です、と言いたいところなのですが、実は微妙に調子が良くないことを感じ取っています。ものすごく悪い訳ではないけれど、何となく、肩や背中が不調。明日あたり、背中に激痛が走るか、なつかしの「首がもげる感」が再び起こるような悪い予感もただよっています。ロフティーさんの枕がダメなのではなく、単に私の特殊体型と合わない。やはりまだ厚いのではないか?この枕から更に中の綿を抜き取り、自分なりの改造をして行くしかないのかも知れません。或いは、また幼児用枕を探すのか‥枕放浪記、四十代疾風怒濤編はまだ始まったばかりです。
大袈裟ではなく、健康を、そう、人生を左右する一大問題。
三十年以上前、初代の特製枕を作ってくれた父は、今回買った新しい枕ではなく、中綿のへたった二代目枕に手を加えて使い続ける方式を強く薦めています。そう、ここだけは過去の教訓を生かし、幸いまだ二代目枕は捨てていません。新たな枕放浪記は、どんな結末を迎えるのでしょうか‥旅はまだまだ続いています。

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季節の花を生ける 2015/05/26



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 少し前のことになりますが、端午の節句の頃、庭に咲いたあやめの花を手折り部屋に生けてみました。
 横に細長い長方形の花器に、あやめだけの一種生けです。

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 私は大学生の頃から生け花を習い(流派は真生流)、実は花がとても好きなのですが、花は、まず花を選び、花器を選び、そして生け始めると納得するまで何度も何度も生け直しが続くため、完成までに相当な時間を必要とします。真剣に花を学んだ人ほどそのことが分かるから、ちょっと時間が空いたくらいではなかなか生けようという気にはなれないのではないかと思います。(一輪挿しの花瓶にさっと挿すくらいなら別ですが‥)
 私もその例に漏れず、この一年ほど絶えず急ぎの〆切を抱えて全く時間の余裕がなかったため、「ああ、庭にあの花が咲いてるな、生けたいな」と思っても、到底無理とあきらめることばかりでした。
それが、ちょうどこの間の連休の少し前、急ぎの〆切が一旦途切れることが見えて来ると、「もう、この連休は絶対花を生ける!」と心待ちにしていたのでした。

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 そうして生けた今回の花は、実は、少し邪道の生け方をしています。
 と言うのも、普通、日本の生け花では主となる枝を三本で生け、二本で生けることはないためです。
「三本が基本」、これは、日本に花道が成立した室町時代からの鉄則で、日本の伝統美意識は、三点の均衡に美を見出していたと言えるでしょう。
 ‥が、今回あれこれ試してみましたが、どうしても三本目が良い位置に入らなかったため、家で、家族が見るだけ、ということもあり、このような生け方をしてみました。我が家では母も生け花をするため若干渋い顔で眺めていましたが‥気にしません!

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 それにしても、いざ花器の前に立つると、仕事のこと、人間関係の悩み、あれを買いに行かなくちゃ、あ、そうだあれも、そう言えばあのお食事会の段取りは‥といった毎日毎時間頭を占めている雑事が一瞬のうちに透明に色をなくして頭の中から消えてしまい、今、自分の目の前にある草花の、その茎の長さ、つぼみの開き具合、葉の長短やしなり具合、途中から分かれた細い葉を切るべきなのか残すべきなのか、この花とそちらの花、どちらを前に挿すか‥そういった、ただ花に関することだけに意識が自然に集中されて行きます。そうしなければ目の前にあるこの空間は決して埋められることがないのだから、集中する以外にない。この、花だけを見つめる、純粋な時間がとてもとても好きです。

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 そして、花は、自然から頂いて来たものであり、「この枝のこの花があと少しこちら向きについていたら…そうすればもう一本の枝と最高の調和が取れるのに…」などと思っても、それを変えることは出来ません。草花の種類によっては「ため」という技術を使えば或る程度枝の向きを変えることは出来るのですが、細い枝では折れてしまうし、不可能なことも多いのです。
 こうして、自然からの制約を受けながら、その制約の中で最高の調和を取って行く‥この真っすぐな努力こそが生け花であり、時間は瞬く間に過ぎて行きます。
 そして、日常の総てを忘れ、花だけを見つめていた無我の境地は知らぬ間に心にこびりついていた汚れを洗い落としてくれるようで、生けている間はずっと立ち続けた体は疲れているはずなのに、いつも、不思議なくらい、生け終わった時の心は清々しく、新しい力がみなぎっています。私は書道や武道はたしなみませんが、恐らく同じような心境を体験するのではないでしょうか。

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 それにしても、と思います。私は趣味を仕事にしているようなところがあって仕事が好きで好きで毎日が楽しくてたまりませんが、やはり時にはこうして、その総てを消し去ることも必要だ、と。
 真っさらな、無我の境地へと没入して行くこんな時間を、今年はあとどれくらい持てるでしょうか?願わくば、季節に一度か二度ほどは、花の前に立つ時があることを‥!

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本を書くために必要なこと――その一、舞台となる村を訪問する 2015/05/18



 私は今年、出版社と契約を結び、秋の終わりから執筆開始予定で、ノンフィクション小説の準備をしています(2016年5月発売予定)。こちらのブログで、これから時折り、その過程を写真もまじえドキュメントして行ったら面白いのではないか、と思いつきました。
 一体、本が一冊出来上がるまでに、作り手の側はどんなことを思い、具体的に何をしているのか?よく、作家が執筆前に「山のような資料を読んだ」というのを聞くけれど、では、一体どんな資料を読んでいるのか?そもそもその資料はどうやって入手するのか?取材ではどんな人と会い、どんな場所を訪ねているのか?装丁やタイトルはどうやって決めるのか?本当の意味で覗き見出来る機会は、意外と少ないのではないかと思うのです。そして、心の中の葛藤――例えば、書けない時に何を思うのか――も、時に記して行ければと思います。

          *

 さて、そんなドキュメントの第一回目は、取材旅行について書いてみたいと思います。
 先週の金曜日、前回の日記でご報告した手の大炎症も全くおさまらない中、担当編集者の方や今回の版元の皆さんと、山梨県北杜市の武川村という小さな村へ、取材旅行に出掛けました。

 この武川村は、「武川米」というブランド米の産地で、飛鳥時代から鎌倉時代までは、天皇に献上する名馬の産地としても知られた土地でした。戦国時代には武田信玄の配下に入り、戦となれば武田軍に参加した在地農民武士もいたようです。
 私がこれから書くノンフィクションは、明治から平成まで、小粒ながら良書を出し続けている老舗出版社を経営する、或る家族の物語。武川村は、その初代の出身地であり、明治43年、二十五歳で青雲の志を抱いて東京へと向かうまで、青年時代をこの地で過ごしました。
 もちろん、村についての資料は、東京でも、地方史資料を多く集める広尾図書館などで或る程度調べることは出来ます。作家の中には、現地に行かないで資料と想像力だけで書いた方が良いものに仕上がる、という考えの方もいらっしゃいますが、私は、出来る限り現地に足を運ぶべきと考えています。
 やはり、土地特有の空気のかんじは、写真や文字資料だけでは分からない。特に私は東京育ちで田舎暮らしの経験がないため、四季それぞれに一度は村を訪れ、自分の目と体で、村の空気、光、山からの風が肌に当たるその感覚、畑の間をくねって流れる小川の水音に耳を澄ませること――そういう体験が絶対に必要だと考えるのです。

          *

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 そう、実は、武川を訪れるのは今回が初めてではありません。
 上の写真は、前回、冬、一月に訪問した時のもの。
 この時は一人で訪れ、一泊したのですが、とても運良く、一日目が快晴、二日目には雪となって二様の風景を見ることが出来ました。一枚目の写真の真ん中ほどには、薄っすらと富士山が写っているのがお分かり頂けるでしょうか?

 そして、下の写真二枚が、今回、春、先週金曜日に訪れた時のものです。
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↑一枚目の写真は、冬の一枚目の写真とほぼ同じ場所を撮ったもの(今回の方がカメラを左に振っています)。田んぼに水が張られ、稲が植わり、いよいよ今年の米作りが動き始めたことが分かります。
 こうして、実際に自分の足で田んぼの間を歩き回り、時に立ち止まり、この小さな盆地の村を囲む甲斐の国の山々と、富士山とを眺める。そう、主人公がそうしていたように――取材旅行の第一目的は、この、「ただ現場の土地を歩き、立ち止まること」にあります。

          *

 そして、取材旅行のもう一つ重要な目的は、その土地に来なければ見ることの出来ない資料を探し当てることです。
 前回は、武川村の図書館を訪ね、司書の方に来訪目的をお伝えしたところ、村の古老たちに昔の思い出を語ってもらった「聞き書き集」を大量にコピーさせて頂くことが出来ました。このようなローカルな史料は、やはり現地に来なければ探し当てることの出来ないものです。
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 一方、今回は「北杜市郷土資料館」を訪問しました。上の三枚の写真はその内部で撮ったものですが、この資料館には、明治から昭和初期頃までの、この地方の典型的な農家が移築展示されています。また、当時この地方で使われていた農具や生活道具も大量に展示されているため、つぶさに観察して写真に収めました。私にとっては、主人公の暮らしを書く上で大変に大変に参考になる資料です。
 そして、触れて良いものには触れ、学芸員や職員の方に声を掛けて、使い方の分からないものについては使用方法をレクチャーして頂きます。普通、このような郷土資料館はさーっと一通り見る方がほとんどだと思いますが、取材旅行では、事務室のドアをこんこんと、いや、もうどんどんっと激しくたたき、学芸員の方に展示室まで出て来てもらい、分からないことは分かるまで教えて頂きます。更に、必ずこちらの来意を告げ、後から関連資料を見つけたり思い出した時に連絡を頂けるよう、名刺を置いて行くことも重要です。
 こうして、今回の資料館取材では「道具」や「生活背景」への知識を深め、小説のディテールを豊かにするための基礎作りをすることが出来ました。

          *

 取材旅行、最後の大目的は、関係者へインタビューを行うことです。前回は、土地の古老に当たる方。今回は、明治から昭和まで、主人公一家の親子三代を知る親戚筋の方にお話を伺いました。
 ご年配の方へのインタビューは、耳が遠くなられていたり、方言を聞き取ることが難しい、というあたりがなかなか苦労の多い点なんどえすが、やはり直接お話を伺うと思いもかけないエピソードがぽろりとこぼれ出し、いつも足を運んで良かった!と思わされます。
 今回も、これまで調べた中では発見出来ていなかった、初代の戦時中のユーモラスなエピソードを聞き出すことが出来、また、思いがけなく、初代が子ども時代に奉公に出されていたお寺へと案内もして頂き、とても実りの多い取材となりました。

         *

 ‥‥このように、今秋終わりの実際の執筆開始まで、日々、地道な準備が続きます。今回は現地へと出掛けて行く、比較的‘アクティブな’取材をご紹介しましたが、東京で黙々と行う準備も実に様々と存在しています。
 冒頭に書きましたように、これから折に触れて記して行きたいと思いますので――時には書けない苦しみ爆発、という愚痴のような回もあるか知れませんが――本が出来るまでの舞台裏をゼヒ覗き見に来て頂ければ嬉しく思います。
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桜ともみじが一つの幹になった大変珍しい「桜楓の木」と、春の雪と、誕生日 2015/04/08



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四月八日、花祭りの今日、東京には本当に珍しいことに朝から雪が降り、我知らず三島由紀夫の名作『春の雪』を想い返してしまいます。
そして実は今日は私の四十五回目の誕生日でもあるのですが、この日に雪が降っていたのは、本当に、生まれて初めてのことです。
実は、我が家の庭には、とても珍しい木があります。
日本人は古来より、春は桜の花見、秋は紅葉狩りを楽しんで来たのは皆様もご存知の通りで、よく絵画や歌の題ともなっていることもご存知のことかと思います。私は特に、上野の東京国立博物館が所蔵する桃山時代の屏風絵『花下遊楽図』が、何とも言えないけだるい憂いをたたえている――と、とてもとても好きで、最も愛している日本絵画の一つですが、この桜ともみじという主題はきものや帯の画題としてもよく描かれ、桜と楓(もみじのこと)を一枚に描く桜楓模様は、春にも秋にも、緑の楓なら初夏にも着られて重宝だったりもします。
ところで、実は我が家の庭には、この桜の木も紅葉の木も植わっているのですが、何と、二つの木の枝が下の写真のように、根元の方で一体化しているものがあるのです↓
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左がもみじの木、右が桜の木の幹となります。
実は、私が小学生の頃、この桜はまだほんの細い木で、あまり日が良く差さない日陰に立っていたため、大きくは育たないのではないかと心配するほどでした。
それがいつからか立派な青年の木となり、そして、たぶん10年ほど前からだったでしょうか、その桜の下に、庭の大きなもみじの木から落ちた種が芽を出して育ち、やがて二つの幹がくっついて共生するようになったのでした!
桜楓が一つの幹として伸びている‥これはもう奇観と言って良い、かなり珍しい姿ではないかと思っています。

毎年、四月八日、私の誕生日の頃にはこの珍しい「桜楓の木」に桜の花が咲きもみじにも葉が芽吹き、真の桜楓模様となって大変おめでたいのですが、今年は更にこの珍しい春の雪が舞うという三重のおめでたさが重なったので、ゼヒ写真に、と思い撮影したのがブログの一番上に上げた写真です。残念ながら雪は上手く写すことが出来ませんでしたが、こんな珍しい誕生日を迎えられた今年、四十代も半ばとなり、実は今が人生で最も楽しく、充実した日々を過ごしています。新しい一年も、今自分の手につかんでいるこの流れを継続出来るように、そしてもっともっと大きなことを実現したいと、まるで桜と楓と雪とを腕にかかえるように欲張りに幾つかの夢を持っていますので、一つ一つ地道に努力を続けて行きたいと思います。
どうぞ皆様良かったらこれからもお見守りを頂けたらと存じます。

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春の訪れ 庭の草木 2015/03/17



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春の始まり、我が家の庭の草木たちにも次々と若い葉が芽吹き、ついつい庭で長い時間を過ごしてしまいます。
(…って原稿の〆切があるのですが、いい気分転換になります)

若芽の小さくも鮮やかな緑に心を寄り添わす日本的な感性ばかりでなくーーそれももちろんありますがーーもっと科学的な、哲学的な、宇宙があり、太陽系があり、地球が公転し、細胞分裂が行われ…存在とは何か、という思考を春の陽に当たりながら巡らせてしまう、因果な哲学科卒業生なのでした。

写真の一枚目は紫陽花、二枚目は木瓜の枝を撮りました。
紫陽花はあと半月、木瓜は一週間もすれば伸び伸びと葉を広げることでしょう。
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お雛様飾り、今年はちょっとずるをした飾り方で 2015/03/04



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昨日は雛祭り。皆様も雛人形を飾ったり、ちらし寿司や雛あられを召し上がったりして楽しまれたでしょうか?
我が家にも、私が生まれた時に母方の祖父母から贈られた七段飾りがあり、今年は頑張って全部飾りました‥と言いたいところなのですが、上の写真を見て頂ければお分かり頂ける通り、何かが変‥??
そう、実は、二段目以降は床置きの形で飾ってみたのでした。

他のお宅の七段飾りはどうか分からないのですが、我が家の七段セットは、とにかく台を組み立てるのが大変です。とても大きく重いステンレス製で、組み立ての仕組みも複雑。もう「プチ工事」というかんじになります。
それでも、私が大学生頃までは、毎年家族みんなで大奮闘して組み立てていたのですが、就職して仕事が忙しくなった頃から情熱が薄れ、とにかく台を全面省略。お雛様とお内裏様だけを、緋毛氈を敷いて、玄関の棚に飾るようになってしまいました。
つまり、かれこれ20年程、三人官女以下のお人形は日の目を見なかったことになります。(その恨みで嫁き遅れたのでしょうか‥笑)

ところが、今年は発想の転換。
たまたま我が家の和室の床の間は下にものがしまえる棚状の変形式になっているのを良いことに、お床から緋毛氈を垂らし、三人官女以下は床に並べてみようと思いついたのでした。
実は、この発想は、ある企画のために江戸時代の暮らし方の史料を調べていた時、当時は床に直接緋毛氈を敷いて、お人形をばーっと並べる、そんな飾り方をしていたと知ったことから生まれました。当時から段飾りもありましたが、他の飾り方もあったということです。

実際に飾ってみると、もう、至極簡単。
お人形たちも、ずーっと物置で「ああ、今年も日の目を見なかった‥」と待っているより、台はなくても出してもらった方が嬉しいのではないかと思います!
本当は、お人形も道具類も正面向きに、人形が奥で道具類が点前に飾る方が正式だとは思いますが、人形は人形、道具類は道具類でまとめた方が何か見た目の感じが良いので、こんな風に並べてみました。そして、一部の人形とお道具を、少し傾きを付けて並べています。

実は、よく見ると、何故か貝桶の蓋がなくなっていたり、箪笥が一部行方不明になっていたりと、長い年月の間に欠けてしまっているお道具もありますし、お雛様の冠が少し曲がっているのは、今の猫がまだ子猫だった時にいたずらしてずれてしまったせいだったりするのですが、完璧ではなくてもとにかく飾ってしまう方が楽しいですよね。そして何より、贈ってくれた祖父母が喜んでくれると思います。
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↑また、緋毛氈の一番手前には、七段飾りセット以外のお雛様たちもいて、上の写真の立ち雛は、戦中生まれの母が大きな雛人形を買ってもらえず、この小さなお雛様を大切にしながら、戦中・戦後の混乱期の少女時代を過ごしたという思い出の品。小さいけれどとても良いお顔をしています。
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↑また、こちらの和紙と古布で作られた豆雛は、とてつもなく手先の器用な母方の大叔母が、数年前にプレゼントしてくれたもの。もう八十代なのですが指先の技術は全く衰えず、美しい出来栄えです。

それにしても、こうしてみるとなかなかに圧巻。実は我が家にはもう一対お雛様がいるのですが、そちらは今年玄関に飾り、ブログでは来年ご紹介出来たら‥と遠大な計画を立てています。
20年ぶりに、我が家のお雛様全員登場の春。せっかくですからもうしばらく飾って置こうと思います。
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郊外に住む幸せ‥吉祥寺、冬の午後の井の頭公園散歩 2015/02/19



ここのところ、単発の或る大きめのお仕事で、大量に、もう本当に大量に資料を読み込み、そして原稿にまとめる‥ということを、延々と2週間半ほど繰り返しています。
もちろん、その合間に別のお仕事の取材が入ったり、時には友人と出掛けたり、日々の食事の買い物にだって出掛けているのですが(基本的に毎日食事は手作りしています)…あまりにも目を酷使し過ぎたためについに一昨日の夜から、眼球の奥底の方から痛みがピリッと走り、更にめまいまでするようになってしまいました。
とは言うものの、仕事には〆切がある上に、もうその次の仕事の予定も入って来ているので、今の仕事のペースは絶対に落とせない。なかなかに絶対絶命な状況です。
そこで、とりあえず昨日から、PC断ち。昔ながらの「原稿用紙に手書き」で、原稿を書き進めて行くことにしました。一日の終わりに入力の時間を取って、誤字が多くてもとにかくざっと入力してしまい、最終〆切の前にしっかり見直せば良いかな、と。

そして、今日は、思い切って少し仕事量を減らし、お散歩をすることにしました。
向かったのは、井の頭公園と井の頭動物園。資料とPC。近くばかり見ているので目の筋肉が固定して疲労につながるのですから、井の頭公園の並木と動物舎でも眺めて、目を動かしましょう、外の空気もゆっくり吸いましょう、と思ったのです。

↓そして出かけた井の頭動物園。冬の午後、遅めの時間は、こんな風にゆったりとした空気がただよっています。
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武蔵野の雑木林の中にちらほらと動物舎が散らばっていて、彫刻館(上の写真)もあって。平日の午後、遅めの時間は人もまばら。私のように一人で歩いている人もたくさんいました。皆さんここに疲れた体や心を解き放ちに来ているのかも知れません。

↓鹿舎では、一匹の鹿さんが私をじっと見つめてくれました。この子は絶対私のことを好きだと思う♡
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↓一番の目当てだった象の花子は(国内最高齢の象なんです)、高齢のため3時以降はお部屋に入ってしまうということで、残念ながら会えませんでした‥涙
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↓でも、象舎の中を実況してくれているカメラ映像で、花子の様子は見られました(また会いに来るネ)
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↓ベンガルヤマネコはやっぱり猫!我が家の猫と同じように耳の後ろをかかかかっと掻いていたりして、笑ってしまいました。
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↓こちらは、マーラという南米の動物。ウサギに似ています。この子は食べ物についていた花がちょうど耳に載っていて、髪飾りのようで何ともかわいらしかったのでした。
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↓何気なく鶴もいます!そして何気なく梅の花も満開。
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この他にも、猿山も山羊さんもリス舎もモルモット舎も‥どの動物たちともとても距離が近くて、武蔵野らしく大型施設ではないのでのんびりと眺めることが出来、建物もカラフルではなく落ち着いたモスグリーンなどで塗られて雑木林に溶け込んでいるから、午後のひと時、すっと神経が休まって行くのを感じました。
もちろん、目の疲れもぐっと取れて、ああ、本当に散歩に出て良かったな、と。

↓帰り際には大分陽も落ちて、井の頭公園まで足を延ばすと、はっとするほどに美しい夕景が眺められました。
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↓それから、甘いものを飲みながら、原稿書き。町中がカフェと雑貨屋さんで出来ていると言っても過言ではない吉祥寺ですから、どこに入ろうかと迷ってしまいますが、今日はLindltに入ってホットチョコレートとマカロンを。
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ホットチョコレート、本当に美味しいのですが、惜しむらくは、BGMにアメリカのヒットチャートを流し続けていること。冬の午後のチョコレートの気分と全く合わないので、やめてほしかった(音響も悪いし)。ゆったりアコースティックギター、或いは、クラッシックのピアノソロなんかを流せばいいのに。吉祥には他にも無数に良いカフェがあるので、音楽を変えないならこの店に行くことはもうないかな‥

↓原稿は、まだ目が本調子ではないため、ノートブックPCではなく原稿用紙に。意外と書けてしまうものですね。
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‥と、心の空気の入れ替えをした冬の午後でした。いつも思うのですが、井の頭公園は吉祥寺の気の中心。おへそのような場所。公園があって、すぐ近くにカフェがあって、毎日の野菜やお醤油を売っている店がまたそのそばにあって‥やっぱり私は郊外暮らしが一番落ち着きます。

↓おまけの一枚は、動物園のたぬき舎で撮ったもの。これが本当のたぬき寝入り!
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雪と水仙 2015/01/30



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東京は、今日、雪。
本当は昨日・今日と、本の取材のために山梨の奥地の村を訪ねるはずだったのですが、万が一大雪になって閉じ込められたらいけないと、取りやめにしました。
そんな訳で、3センチくらいでしょうか、我が家の庭に浅く積もった雪を眺めながら過ごしています。写真は、雪の中でもけなげな花壇の水仙の列と、石段に積もった雪。

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今年は、勝負の年 ~新年のご挨拶と決意表明日記~ 2015/01/03



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皆様、新年明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

年が明けて、「今年はこんな年にしたい」と抱負をお持ちの方も多いのではないかと思います。かく言う私は、と言えば、抱負を超えて、決意。今年は自分にとって“勝負の一年”になると考えています。
と言うのも、以前にこちらのブログでもお知らせさせて頂いた通り、今年は、「本を書く」という仕事が控えているためです。実際に書き始めるのは秋の終わり頃になりますが、それまでに約一年をかけて、(他のお仕事もしつつ)取材や資料読みを行います。そして、何百回も何千回も繰り返し繰り返し、頭の中で書き出しや構成をシミュレーションしつつ日々を暮して行くことになると思います。

実は私はこれまでにもゴーストライターとして数冊本を上梓しているため、長物を書くのが初めてという訳ではありません。
執筆に大体どれくらい時間がかかりそうか、どんな心理状態になるかは体験済みで、特に、最後の一生に入ったあたりからは、書いている世界の中に自分が入り込んで抜けられないような状態と、早く脱稿したいという思い、そしてやはり文章作品は最後が肝心であるため、どう着地させるのか?という緊張感も加わり、いつもかなり危ない精神状態に陥ってしまいます。しかも初めて自分の名前で出す単著となったらその“危なさ”は倍加するのではないか、と‥。

が、人の人生には、ここと勝負を賭ける局面があるのだと思います。
この一年、常にその勝負の意識を持ちながら毎日を送る所存でございますので、お友だちの皆様、そして大変ありがたいことにいつもブログを読みに来て下さっている皆様、どうか温かく見守って頂けたら幸いです。
本年もどうぞ何卒よろしくお願い申し上げます。

(写真は、我が家の庭の梅の枝。一見枯れ枝に見えても小さな固いつぼみが、じっと開花の時を待っているんですよね)
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本を書くことになりました+その打ち合わせには結城縮み×博多の帯で 2014/09/17



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この度、東京の或る出版社様から依頼を頂いて、ノンフィクションを執筆することになりました。
…と言っても今すぐ書き始める訳ではなく、これから半年~八か月ほどかけて資料を読み込み、もちろん取材も行い、その後、半年ほどかけて、じっくりと執筆する予定です。(ですので、まだまだ他のお仕事もお受けいたしますので~‥出版社の皆様)

          *

依頼を下さったのは、明治時代創業の老舗出版社。
考古学や江戸民俗史を中心に、歴史・文化関連の学術書と学術雑誌を出版し続けている、日本の“知の良心”とも言える出版社です。
再来年に創業百年を迎えるに当たり、明治から平成まで、途中に太平洋戦争を挟んだ激動の日本現代史の渦の中で、数々の苦労を重ねつつ、“知の灯”を守り抜いて来た人々の波乱万丈の物語を、ノンフィクションとしてまとめて行きます。

…と、こう書くと、何だか朝ドラのあらすじみたいだと思いませんか?
実際、既に創業者一族のお話を伺い始めているのですが、ドラマの一場面に出来そうなエピソードが数々埋もれています。
特に、明治期というのは国としてもまだ若く社会制度が未発達だったこともあり、人々の行動がその日暮らしの破天荒。大学も、出版業も、考古学もおぎゃあと生れて立ち上がったばかり。試行錯誤の連続です。だからこそ、ドラマが生まれるんですね。
一方、時代が移って戦中戦後は、とにかく物資不足。出版をしようにも、そもそも紙がない。その中で創業者が亡くなり、会社としての理念が崩れ去りそうになる時、名物編集者がやって来て…やがて更に時代は移り変わってバブルを迎え…とこんなかんじです。
これから大量の資料を読み込み、人にお会いし、“ドラマ”の舞台となった地を訪ねることで、よりいっそう、物語の輪郭は明確になって来ると考えています。
今日のブログの最初に上げている写真は、出版社から我が家に送られて来た、第一弾の資料。まずはこれを読み込んだ後、日記類や関連資料を読み…長い長い準備期間が続きます。
2016年春に出版の運びとなりますので、皆さま、ゼヒお楽しみにお待ち頂ければと思います。

          *

そして、お着物好きの皆様には、先週、この本の打ち合わせの日に着て行ったコーディネイトを。考古学や古代史に強いこちらの出版社が手がけた埴輪人形と一緒です↓
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女流文士っぽいコーディネイトを!と思ったのですが、よく分からず普通になってしまいました…。今後、一度くらいは、“束髪風の髪型に、大正女流作家風きものコーデ”で打ち合わせに行ってみたい!
しかも写真では、蛍光灯の光のせいできものの色も帯のもようも良く出なかったので、帰宅後に床に置いて撮ってみました。
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きものは、頂きものの単衣。たとうに「結城縮み」とあり、結城縮みだと思います。蚊絣が織られています。
きものの色味が地味なので、帯は少し華やかに。ワインレッドの唐草模様博多帯に、道明のさくら色?(我が家に古くからある一本で、色の名前が分からなくなっています)の冠組で。帯揚げは香色の縮緬のものを入れていたのですが、写真に撮り忘れました。すみません。
それにしても、女流文士っぽいコーディネイトってどんなものなのでしょうか??
ちょっと研究してみたいと思いますが、アイディアがある皆さまは、ゼヒメールをくださいませ。

          *

これから出版までの間、やはりそれなりに生みの苦しみがあると思います。
実はこれまでにもゴーストライターとして数冊本を送り出しており、「本を一冊書き上げる」ということが、どんなにか難仕事か…そのことは、身にしみて理解しています。
もちろん、こちらのお仕事と並行して他のお仕事も受けて行きますので毎日はかなり多忙になると思われ、その間の心の動き、取材を通して思ったことなど、折に触れて書いて行きたいと思います。
皆さま、ゼヒ時々覗きにいらして下さい。
「人が一冊本を書く間に、どんなことが起こるのか、どのような心理状態を経過するのか」、そんなもう一つのノンフィクションとなるかも知れません!

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プロフェッショナルとして文章を書くということ 2014/09/14



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快晴の三連休、フェイスブックのお友だちの皆さんの楽しそうな投稿を横目に見ながら、私は原稿書きにいそしんでいます。
写真は、原稿を書く時にいつも目に入る風景。PCのすぐ横に置いている写真立てを撮ったもので、先代猫フレディの写真を入れています。
そこに貼ってあるメモに、何が書いてあるのかお分かり頂けるでしょうか?
そう、今書いている原稿の字数を、一目瞭然となるよう書き出しています。

プロフェッショナルとして文章を書くということは、すなわち、字数との闘い。
常にこの数字を横目に見ながら、何を書き、何を削るのか?同じ意味を持つ単語のうちで、どの言葉を選ぶのか?どこで改行するのが効果的か?――判断を積み重ねることになります。
そんな判断の集大成が、雑誌に掲載される文章。
プロフェッショナルとして書くということは、好きなように文章を運べるブログやSNSの投稿とは、全く違う行為なのです。

          *

字数とは、つまり、エディトリアルデザイナーが組み上げた美しいレイアウトから、必然として割り出されて来る数字。
文章のプロフェッショナルなら、そこにぴったりと収まるように書くのは当たり前のこと。更にその中で、自分らしい文体も、深みのあるメッセージも、追求しなければなりません。
楽しいお誘いを断念するのはつらいけれど、やはり“プロとして書く”というこの行為は、私にとって、人生最高の楽しみでもあるのだから――
幸い今日は昨日までのスランプを脱し、快調に言葉が紡ぎ出されています。長い夜をこのまま歩きいて行けると信じて、熱い紅茶でも淹れてみましょうか。

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8月初日、雑誌のお仕事でロケハンへ! 2014/08/01



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首都圏は連日猛暑が続いていますが、皆さまお元気にお過ごしでしょうか。
私はお蔭様でたくさんのお仕事に声をかけて頂き、もう、正直言って暑いとか暑くないとか全く気にしていられない、〆切までに何とか高いクオリティの原稿を仕上げて納品するために、日夜邁進しています。(諸事情で一部遅れている原稿もあり、申し訳ありません‥!)

そんな中、今日は都内の某工房に、撮影前のロケハンへ行って来ました。
一昨年より毎年秋に発売されているきもの雑誌「いろはにキモノ」、本年度号の準備が始まっています。その中のある企画について、どのようなページ構成にすべきか?作品は何をどうご紹介するのが良いか?当日、最も効率良い撮影段取りは?‥といったことを探るため、フォトグラファーと一緒にロケハンをさせて頂いたのでした。
こうして企画を膨らませる時間は、ライターや編集という仕事の大きな大きな醍醐味の一つです!

写真は、その工房の壁にかけられていた刷毛。
この刷毛を操るのはどんな職人さんなのか?楽しみにしていて下さいね!

…という訳で、暑さもものともせず頑張っております。今日はこの後深夜まで、ひたすら別件のお仕事の原稿書きにいそしみます!
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アキラ(寺尾聰)に夢中!  2014/07/12



皆様、土曜日の午後、ご機嫌麗しくお過ごしでしょうか。
ところでワタクシ、この1週間ほど、「早く週末が来ないかしら」と楽しみに待っておりました。
と言いますのも、歴女の私は毎週大河ドラマ「軍師官兵衛」を楽しみに見ているのですが、先週より登場した徳川家康に心を鷲づかみにされてしまったのです。

今回の徳川家康は、寺尾總さんが演じています。
寺尾聰さんと言えば、私が小学生の頃夢中になって見ていた「ザ・ベスト10」で、「ルビーの指輪」が15週連続1位を獲得してルビー色の特別シートが出来るなど、私の世代にはまず歌手・作曲家の印象が強い方でした。
けれど同時に俳優でもあり、「半落ち」や「博士の愛した数式」などの名演技で映画賞も数々受賞している名優だとは、情報として認識していました。それからまた、とにかく黒いスーツとサングラスが似合う“おしゃれなおじさま”という認識もあったのでした。

「官兵衛」で、徳川家康は誰が演じるのだろう?と、一時期ネット上では竹野内豊さんの名前が取り沙汰されたりもしていましたが、結局寺尾さんに決まり、その時の私の感想は、だから、「ふーん、寺尾聰って素敵な人だし演技も上手いと思うけど、ちょっと徳川家康をやるには痩せ過ぎてるんじゃない?」といった程度のものでした。
なので、それほど期待せずに先週の放送を見ていたのですが‥

…そう、見た瞬間に心を奪われてしまいました。
徳川家康と言うと、我々の心の中にあるのは、子ども時代に人質として辛酸を嘗めたが故に容易に本心を明かさない、じっと最良の機が熟すのを待つことの出来る“たぬき爺”。正にそのイメージそのままの、腹の底に何重もの企みを隠し持った狡猾、且つ大胆な野心を持つ武将が姿を現していたのでした‥!
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(テレビ画面を映したのが上の写真です。余計な青い光が写り込んでいることお見逃しください)

    *

世の中には、ただ外見が自分の好みであればその俳優さんなり女優さんなりのファンになる、という方も多いと思うのですが、私は、演技力を絶対重視しています。いくら好きな外見でも、演技が稚拙なら全く魅力を感じません。
これまでに好きだった俳優さんと言えば、香港のレスリー・チャン、トニー・レオン、チャウ・シンチー、韓国のイ・ビョンホンさんなどがいますが、どの俳優さんも役ごとに全く別の人格を作り出せる、抜群の演技力を持った人。その才能と外見のバランスに惚れ惚れしてしまうのです。
日本の俳優さんだとこれまでに、野村萬斎さんが素晴らしいなと思っていましたが、先週以来、すっかり寺尾聰さんに心奪われることになったのでした。
早速wikipediaで調べてみると、「ルビーの指輪」をはじめほとんどの曲を自ら作曲。あれだけの大ヒットを出した上に、黒澤明に演技を認められた愛弟子で、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞も受賞。日本の芸能界史上、レコード大賞とアカデミー賞最優秀賞を共に獲得しているのは寺尾さんしかいないのだそうです。素敵過ぎます‥!
早速なつかしい「ルビーの指輪」や名曲「予期せぬ出来事」の入ったアルバム「Reflections」も購入したのでした♡

    *

背中を丸めながら
指のリング抜き取ったね‥

何しろ「ルビーの指輪」が流行った頃は小学生だったので、訳も分からず歌詞を丸暗記していましたが、今になってから聴くと大人の悲しい恋を唄った曲だったんですね‥

俺に返すつもりなら
捨ててくれ…

街でベージュのコートを見かけると
指にルビーのリングを探すのさ
あなたを失ってから‥

かっこいい‥
そしてyoutubeに映像がないか探してみると、当時、四十歳くらいでしょうか、コンサートで「ルビーの指輪」を唄う映像が上がっていました。

これがもう、「ルビーの指輪」の歌詞の中の男性そのものです!日本歌謡曲史上、ここまで歌詞と唄う人のイメージが一致したこともなかったのではないでしょうか!

*

…と言う訳で、にわかに總さまのファンになった私です。
聰さまのような方に、

誰も邪魔は出来ないぜ
あなたをさらった  (予期せぬ出来事)

…言われてみたいです!
…下らな過ぎてすみません!!
もともと「官兵衛」は脚本が面白く毎回楽しく見ていましたが、ますます週末が楽しみになって来ました。
ストーリーは今週が本能寺の変で、これからいよいよ家康が実力をじわじわと伸張して行く展開になるのは必定ですから、出番もきっと多いハズ。日曜夜8時は私に電話しないでください♪
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憧れの女性(ひと) 2014/03/30



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 人生にはさまざまな喜びごとがあるけれど、師と呼べる人、「この人を目標にしたい」と思えるような人と出会うことは、その中でも最も嬉しい出来事の一つではないだろうか。
 ありがたいことに、私にはそんな出会いが何回かあって、その中のお一人のお名前を松井扶江(まついともえ)先生と言う。上の写真で、私の右側で微笑んでいらっしゃる女性がその人だ。今日のブログでは、その松井先生との出会いや、何故私が先生に憧れ、人生の何を教えて頂いたのかを書きつづってみたいと思う。

超一流の女性和裁士
 先生のお仕事は、和裁士だ。渋谷区内で和裁所を主宰され(写真の背景にその一部が写っている)、首都圏の様々な呉服店からの――老舗も、若手が経営する新しいきものブランドからも――お仕立てを請け負って来た。また、NHKの朝ドラや映画『ラスト・サムライ』をはじめとして、テレビやCM、日舞など、舞台衣装の制作も多数行って来た。
 ‥と、ここで「来た」と書いたのは、先ごろ先生が和裁所をお弟子さんに譲られたためだ。と言ってもこれからも顧問としてお弟子さんたちの相談には乗るし、これまでに先生が培って来られた和裁の知識を後進に残すために、新たなプロジェクトも動き出している。完全引退は、まだまだ周りが許さないのだろう。

江戸時代の帯が結んでくれた縁
 そんな松井先生と私が出会ったのは、昨年の梅雨の終りのことだった。
 その頃私は、江戸時代の女性のきもの姿を再現する“江戸着物ファッションショー”というイベントを企画・制作していて、7月7日の開催に向け、血眼になって準備に取り組んでいた。
 そのイベントでは、合計で八体の着姿を再現する予定にしており、中でも目玉の一つと考えていたのが、大名家や江戸城の奥で、夏の間だけ着用する特殊な着姿の再現だった。
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 その姿が上の写真になるのだけれど、麻の生地に草花や風景図を藍を基調に染めた“茶屋辻”と呼ばれるきものを着て、上に、堤帯(さげおび)或いは附帯(つけおび)と呼ばれる帯を締める。
 この帯は、上方ではだらりと下に下げて締めるんどあけれど、江戸城大奥ではつんと上に向かせ、それより何より、体の横からかなりの長さで出っ張っているために、廊下で女中同士がすれ違う時やトイレに入る時は、横に蟹歩きをしなければならなかったという、何とも奇妙奇天烈な着姿を作り出していた。 

 ファッションには、時に、こういう奇妙な現象が起きる。
 例えば現代に置き換えてみても一時期ルーズソックスが大流行したことがあったし、ヤマンバギャルが一世を風靡していた時代もあった。私が中学生の頃は何故か女性たちの間でうなじの刈り上げが流行したし、大学生の頃には、ロボットのような肩パッドが街を席巻していた。
 そのどれも、今見ると笑うしかない姿になってしまったけれど、こんな風に、ファッションは時に暴走に向かうことがあって、江戸時代の堤帯姿も正にその暴走の産物ではないかと思っている。しかもそれが町方ではなく、プライドの塊である奥女中の世界で起こっていたのが面白く、是非とも再現したいと思っていた。何しろこの堤帯姿は、江戸幕府瓦解以来、舞台でも映画でもテレビドラマでも、人体の上では一度も再現されたことがないと言われていたのだ。どうしてもどうしても私がやりたいと願っていた。

あらゆる帯仕立て職人さんから断られた私の帯
 さて、そんな私の“江戸きものドリーム”を実現に移すべく、八方に連絡を取り、茶屋辻きものについては、京都の“栗山工房”という名門染め工房が再現した作品を貸してくださることになった。
 残りは帯ということになるけれど、一部の特権階級の女性が、しかも夏の間だけ締めた特殊な帯だっただけに、数が少ないのだろう、日本中どこのアンティークきもの屋さんもお持ちではなかった。もちろん博物館にはあるのだけれど、所蔵品を実際に人体に着せつけるとなると、貴重な布が傷むのが心配だと断られてしまう。
 そこで、借りるという道は不可能だと判断し、再現製作に切り替えようと決断したのが、6月の始め頃だった。本番まで、残された時間は一か月しかない。

 その時から、今度は、帯を作ってくれる業者さん探しが始まった(もちろん製作費もお支払いする)。
「作ると言ったって、そんな昔のもの、どうやって作るんですか?」
 と疑問に思われるかも知れないが、まず、元になる帯地は、私が汗だくになってあちこちのアンティークきもの屋さんを回り、現存品に近い帯地を調達していた。
 そして、帯を作るための寸法は、実はちゃんと寸法を記録した江戸時代のパターン図が残っているし、着姿や帯の締め方を描いた絵も残っているのだ。
「これだけ準備が整っていれば、プロの和裁士さんなら絶対に再現出来るはず!」
 と、片っ端から帯専門の仕立て屋さんに連絡を取ったのだけれど、案に反してことごとく断られてしまった。
 その数、八、九軒くらい、いやもっと多かっただろうか。困り果てて途中からはなじみの呉服屋さんに泣きつき、出入りの帯屋さんにも聞いてみてもらったのだけれど、そちらでも、四、五軒頼んで総て断られたと連絡が入った。どうも皆さん、面倒くさいからやったことのないものは作りたくない。或いは、失敗して同業者に笑われるのが怖い。そんな風に考えて断りを入れて来るようだった。打つ手がなく、私は正に八方塞がりの状態に追い込まれてしまっていた。

松井先生との出会い
 そして、こうして私があたふたとしている間に、当然のことながらどんどん時は過ぎていた。その時、本番まで、もう二週間ほど。このままでは、ご厚意で茶屋辻を貸して下さる栗山工房さんに会わせる顔がなくなるじゃないか。一体どうしようと泣き出したい気持ちだった。
 それでも、とにかく私は、この帯を縫ってくれる和裁士さんを見つけるしかないんだ。絶対に何とかするんだ、と、再度PCを立ち上げ、心労のあまり若干震え気味な手で、「和裁所 帯」だったか「和裁士 舞台衣裳」だったか、正確な検索ワードはもう忘れてしまったけれど、一からやり直しの気持ちで検索をかけるべく再びマウスをクリックすると、“松井扶江プロきものスクール”という和裁所の名前が目に飛び込んで来た。これが、先生との出会いの瞬間だったのだ。

 恐らく、これまでの検索でも名前が挙がっていたのに見落としてしまっていたか、或いは検索ワードが悪かったのか、とにかくその時初めて見る名前で、日舞をはじめ舞台衣装の製作も請け負うと書いてある。もう、ここしかない。藁をもすがる気持ちで――本当に、この時の私ほど藁をもすがる気持ちを体験した人もそういないと思う――資料を添付したメールを送り、依頼の電話をかけてみた。すると、出た方が、
「先生に見せてみるから、また後でかけてください」
 とおっしゃった。何とかなるかも知れない、と一筋の光が差して来た思いだった。そして、数時間後、その時も震え気味の手で和裁所の番号をダイアルすると、先ほど電話を受けてださった方が出られて先生を電話口へと呼んでくださった。そして、
「やりますよ、面白そうだから」
 と先生はおっしゃったのである。この瞬間、私のハートが真っすぐに先生に撃ち抜かれていた。

 その後、私はすぐさま帯地を持参して和裁所に伺い、製作に向けて打ち合わせをした。この時で本番まで2週間ほどの時間があった訳だけれど、先生とお弟子さんは1週間ほどで仕上げて下さり、着装を担当して下さった全日本きものコンサルタント協会の堀井みち子先生のチームと、事前着装テストさえ実施することが出来た。まさに、松井先生と出会えたことで、大負けだった賭けのカードが一気に勝ちに裏返ったのだ。

やったことがないことだから面白い
 その後、先生とは、お食事をしたり和裁所の産地見学研修に混ぜてもらったり、最近では私の和裁の勉強のために、作業を見学させてもらったりしている。その折々に私が震える手で電話を掛けた、先生との最初の出会いのことが話題に上るのだけれど、先生はいつもこうおっしゃる。
「あなたの依頼を断った、他の人たちの気持ちが私には分からないわね。だって、やったことがないことをやるのが面白いじゃないですか」
 先生は今、七十代。人によっては、新しいことには一切耳を貸さない。自分がこれまでやって来たやり方だけが絶対で、新しいやり方をする下の世代を攻撃する。そんな人もいるご年齢ではないかと思う。けれど先生は正にその逆で、七十にして新しいことをきらきらと探していらっしゃるのだ。そう言えば、最初に電話を受けて下さったお弟子さんも後から聞くと、
「お話を聞いて、あ、これ、先生が好きそうだなって、見せようと思ったんです」
 とおっしゃっていた。話をした途端に切られるような和裁所もあったのに、である。

    *
 
 私が先生に憧れ、先生が好きでたまらないのは、先生のお仕立ての技術と知識がとてつもないことや、先生自身のおきもののセンスが素敵過ぎることや、いつも全身を身ぎれいにしておられることや(先生のお爪がきれいでみんな釘づけになるのです!)、言うべき時はびしっと言われる武士っぽさや‥色々色々理由はたくさんあるのだけれど、最も根本的なことは、このこと、常に新しいことに挑戦しようとされている、先生のその気持ちの持ち方に何より惹きつけられている。

 そして、我が身を振り返れば、私は先生よりずっと若輩であるにも関わらず、時に挑戦を尻込みしたり、新しいことを始める際につきものの様々な面倒を予想して、はなから逃げに回ることさえ、告白すればある。
 けれど、例えば昨年、多くのきもの業者が集結した一大イベント“きものサローネ”を先生と回った時に、あちこちのブースから「松井先生!」と、一言でも先生に挨拶しようと業界人が裾をからげんばかりに飛び出しあて来る、先生のそのまぶしい輝きは、誰もが頭では知っているのに実践するのは難しいこと、“挑戦を忘れない”、ただその心構えに由来するのだと思う。一流の人ほど現状に安住せず、軽々と次の挑戦に飛び込んで行く――そのことを、先生のそばにいるとつくづくと思い知らされるのだ。
 考えてみれば、現在ならいざ知らず、先生の若かりし頃は女性は結婚して家に入るのが当たり前だった。その時代に、家庭を持ちながらも和裁の道を極め、一流呉服店やNHKからさえ依頼が来るほどの和裁所を経営する。更に弟子の育成にも当たる――先生の人生の全てが、私には想像もつかないほどの挑戦の連続だったのだろう。

まずはネイルから♪――先生に憧れて
 実は、先生と深くお話をするようになった昨年秋から、私はネイルサロンに通うようになった。茶道を学んでいるのでごく薄い、一色塗りの目立たないものだけれど、先生の、きれいに手入れされた美しい爪を見ていたら、むしょうに真似したくなってしまったのだ。
 もちろん、これは、ごくごく小さな始まりに過ぎない。けれど、これからも私は先生に憧れて、先生を追いかけ続けると思う。何より、先生の、挑戦を恐れない心。この心構えこそ、ぬけぬけと真似し続けて行きたい。真似とは普通安易な道であるけれど、中には強い意志と勇気を要する、そんな真似びもあるのだから。

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新年に寄せて~今年の抱負と、きものコーディネイト写真も! 2014/01/05



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皆様、新年明けましておめでとうございます。
そろそろお屠蘇気分も抜けて来た頃ではありますが、今日の日記では昨年を振り返りつつ、新年の抱負など、したためたいと存じます。

思い返せば、昨年は、本当に良い一年だったとしみじみ言えるような、そんな年になりました。
夏にきものイベント“江戸着物ファッションショー”を成功裡に開催することが出来た他、まだ皆様にちゃんとお知らせ出来ていないのですが、出雲を旅して日本社会の過去―現在―未来について思いを巡らせた大型エッセイを、アート誌に発表することも出来ました。(これについては近々別に日記を設けてお知らせ致します)
また、「いろはにキモノ」誌、「伊勢丹アイカード通信」誌できものに関する取材・執筆を担当したり、「美しいキモノ」誌と「季刊きもの」誌に私自身へのインタビューをして頂く、という晴れがましい場も頂きました。
本当に、満点と言えるくらい嬉しいお仕事の続いた一年だったのでした。

          *

私は自分の人生に、三つの大きな努力目標を持っています。
その一つは、すぐれた文章作品を発表すること。
これは、分野は、時に随筆であり時にノンフィクションであり、そして、今後は、小説も書きたいという願いも持っています。
昨年発表した出雲に関するエッセイは、この一つ目の目標「文章作品を書くこと」を最良の形で実現したものとなりました。編集者とプロデューサーの方の深いご理解のお蔭で字数と時間とをたっぷりと頂き、100%納得の行く作品を書き上げられたことは、私にとって昨年1年間で、最大の喜びでした。


          *

私の人生の二つ目の目標は、愛してやまないきものに関わる仕事をすることです。
私自身はあまり手先が器用ではないので、自分で布を織ったりきものを縫ったり図案を描けたりする訳ではありませんが、きものがこれからもこの世界に存在して行けるよう、援護射撃をする仕事がしたい。
きものにまつわる大小様々なイベントを企画・制作したり、また、文章が書けるという特技を生かして、きもの雑誌や一般のファッション誌・情報誌などで、きものに関する記事を担当出来たらどんなに素敵だろう!絶対そういう仕事をしたい!――そんな風にこの数年思い続けて来た夢が、本当に現実となったのが昨年後半でした。これがどんなに嬉しいことだったかは、皆様にも想像して頂けるかと思います。

けれど――少しだけ浪花節めいた話になってしまいますが――この夢は、ただ机の前に座ってぼんやりお茶を飲んでいたらいつの間にか現実になっていた、そんな甘いものだった訳ではありません。
きものに興味のない方でもおそらくぼんやりとはお分かり頂けるように、きもの、というこの世界は、織りの種類や模様の種類、はたまた着こなしの変遷などについて、勉強しても勉強してもきりがないほどに深い歴史をその背後に蓄積しています。ただ「私、きものが大好きなんです!」「文章も書けます!」と騒いでも、私の前には既にたくさんのその道のプロフェッショナルがいらっしゃるのですから、とても食い込めそうにない。そのことを、この数年、少し売り込みをしてみてまざまざと感じていました。
だったらどうするのか?きものの仕事をしたい、というこの夢をあきらめてしまうのか?――実は私は2年ほど前までは、そんな悩みを抱えていたのでした。

その一方で、私自身には、とにかく子どもの頃から歴史が好きで好きでたまらないという“典型的歴女”の傾向があり、博物館で歴史的なきものの展示がある時にも出かけて行ってそれを眺めるのは素敵だけれど、でも、「本当に、このきものたちを人体に着せつけて、過去を目の前に再現出来たら‥!」という、いたって単素朴、歴史好きなら誰もが抱く妄想めいた夢を、常に博物館のガラスケースの前で、ぼんやりと吹き出しのように浮かべていたのでした。

そして、もう一昨年のことになりますが、2012年の秋頃に、思ったのです。
どうせこのまま「きものの仕事をさせてもらえませんか?」と各誌の編集部を回っても、決して相手にはしてもらえることはないだろう。だったらここで大きな博打を打ってみたらどうなのだろうか?と。
私が本当に見てみたい、きもののイベント。それは、江戸時代の人が今によみがえったように本物の着姿を再現するイベント。そんなこと、ちょっと考えただけでもあまりにも困難が多そうで(だってそもそもどこから江戸時代のきものをどこから調達すれば良いのでしょう??)、「素敵!」ときもの好きなら誰もが夢見がちに思うものの結局手をつけられないこと。それを自分が本当に実現出来たなら、この、日本の海千山千のきもの界の人々も、私の方へ振り向いてくれるのではないか?――そう思ったのです。

そう、いくら求愛しても相手にしてくれないお姫様に認めてもらうためには、武士は戦場で一旗揚げる必要があるのです。その一旗、いや、一か八かの大博打が、私にとっての“江戸着物ファッションショー”でした。
今でこそ「成功の裡に幕を閉じました」、と笑って書けますが、始めた時は、成功出来るかどうか、全く分からない。何しろきもの界にほぼ何のコネクションもない私だったのですから。
唯一、帯締の名門・道明の当主夫人であり、服飾研究家でもある道明三保子先生と家族ぐるみのおつき合いをさせて頂いていた、という一点のみ。ここを突破点としてまず先生、にイベントで講義をして頂けるようお願いに上がり、オーケーのお返事を頂戴した後、「道明先生が出ますから」という看板を掲げながら、「ここは!」と狙いをつけたきもの学校、呉服屋さん、全国の美術館、アンティークきもの店さんなどなどに突撃のプレゼンを繰り返しました。もちろん撃沈も数多くありましたが、一歩ずつ、本当に一歩ずつ、一点また一点ときものが集まり、スタッフが決まり、出演者が決まり‥7月のイベントへと結実して行ったのでした。

         *

思い返すに、その中でも最も象徴的だったのは、「着付けを担当頂きたい」と、装道礼法きもの学院様へプレゼンに伺った日のことです。
私自身は装道の卒業生でも何でもなく、ただ、友人の友人が「かつて装道で時代きもの着付けを習っていた」という細い細い、今にも切れそうなかすかな糸を頼りに、本部の方へのプレゼンの段取りを作って行きました。
時代きものの着付けというのは、現在私たちが着るきものの着付けとは大きく異なっているため、どうしても、専門の知識と技術を持った方に担当して頂かなければなりません。しかもその時点でイベントに利益が出るかどうかが分からなかったため、最悪、ボランティアになってしまうことをご承知おきの上で、依頼を受けて頂かなければなりませんでした。
こんな悪い条件で、しかも主催者は、きもの界で全く実績のない私。無謀にもほどがあるプレゼンでしたが、けれどこの着付け師が見つからない限り、イベント自体を行うことが出来ないのですから、私は本当に決死の覚悟で装道さんへ向かったのでした。
今ではよく笑って友人に話すのですが、その日、私は、白地のきものを着用していました。その上に閉めた帯は、細かな更紗文様を織り出した、赤地の一本。
白地のきものに、赤い帯。
そう、日の丸の取り合わせです。私の心はその日、本気で“日の丸特攻隊”でした。そのくらい強い強い気持ちで、このプレゼンに臨んでいたのです。

苦労したのはこうしたプレゼンや、時代考証的に正しいきものを一枚一枚、日本のどこかから探し当てて来ることだけではありませんでした。資金集めにも苦労しましたし、予算組も総て自分で行い、当日の進行台本も作成。宣伝の依頼を各媒体にしたのも私でしたし、クラウドファンディングで資金を集めたので、そのリターンの読み物配信も書かなければなりませんでした。更に、スタッフを雇うお金がないため、出演者のきものの襦袢の丈出しも、当然私自身が担当。おかげで襦袢の袖の運針は実はめちゃくちゃでしたが、まあ、客席から襦袢の中は見えませんので!――という話はここで閑話休題にして、これら全ての過程は、本当に誇張ではなく、命がすり減るようなものだったとしみじみ思います。

けれど、まるでその苦労に対するきものの神様からのご褒美のように、今、きもの業界にちらほらと私を応援をして下さる方々を得、また、準備過程で知己を得た「美しいキモノ」編集部様から「いろはにキモノ」のお仕事を頂き、その取材を通して更に新しいきもの業界のご縁が広がる‥と、そう、昨年私が打った一か八かの賭けは、どうやら吉と出たようです。
いや、吉と出た、と言うのはちょっと違うのかも知れません。本当のところは、吉にしなければ私にはもう後がない。このイベントに失敗したら、二度と私がきもの界に出せる顔はないだろう、というその強い背水の陣の決意が、むりやりさいころの目を変えたようにも思うのです。

        *

本当に、全力疾走の一年でした。
何しろこの江戸着物ファッションショーの総ての過程を、先に書いた、現時点での私の全知力・全魂をそそぎ込んだ文章作品である出雲のエッセイを書く作業と並行して行っていたのですから、我ながら、若干狂気じみた一年だったと言ってもいいような気もします。
更に、これもまた自分でも驚くべきことに、これらの仕事の他にも、無署名で書くビジネス系のインタビューなどのお仕事も、毎日の生活費を稼ぐために日々並行して行っていた訳で、本当に、昨年は、一年中走り回っている間にあっと言う間に暮れて行った感があります。

そして、そんな昨年を引き継ぐ今年は、では、ちょっと小休止したいのかと言えばそんな気持ちは毛頭ありません。むしろこの波をもっともっと加速させて行きたい。
何故なら――とここでしみじみと思うのですが、私は好きなことを仕事にしているのだから、根本的には全ての過程は苦ではなく楽であり、また、好きなことを仕事にしていてまだ不平を言うのは罰が当たるというものだ、と思うからです。
世の中には、「本当に好きなことは仕事にしない方がいい」とおっしゃる方がいて、その意見も理解出来ます。また、心から好きなことがあるものの、それに人様が対価を払ってくれる、そのやり方を上手く見つけられない、という方もいらっしゃるでしょう。或いはそこまでのレベルには到達出来ていない、という方もいらっしゃるのかも知れません。
そんな中、私は好きなことで何とかお金を頂くことが出来ているのだから(特に儲かってはいませんが‥)、やはりここで怠けていてはいけないと思うのです。

何かを本気で極めようとしたら、それが仕事であろうとなかろうと、楽しいことばかりではないのは当たり前のことではないかと思います。本気で極めることには必ず「現状を越えること」という課題が現れるのであり、それは楽々と達成出来るようなものではないと思うからです。
楽々と行えるなら、それは趣味であり、極めることとは違う。人生においてどちらが格上ということはないのでしょうが、自分は極めることを選び、更にそこから何がしかのお金を得られるなら、こんなに幸せなことはないじゃないか、と思うのです。

そのような訳で、今年もよりいっそう、うるさいくらいにぶんぶん飛び回り、仕事に邁進して行きたいと思います。
既に、今、きものに関する文章のお仕事で新しい企画が動き始めています。また、きものイベントの第二弾も実現するべく、少しずつ関係先とコンタクトを取り始めました。
どんな仕事も一人では決して実現出来ないもの。昨年も多くの方に支えて頂いたように、新しい一年も皆様のご協力や応援を頂けたら、大変大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願い致します!

(写真は、先日、目白のきものショップ“花想容”に打ち合わせで伺った時に撮って頂きました!ほっこり暖かい焦げ茶色の色無地結城紬に、赤地に更紗文様の帯を合わせています。
そうそう、人生の三つめの目標については‥長くなってしまうのでまたいつかの機会に☆)
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伯父の葬儀 2013/12/27



師走の曇り空の中、今日は朝から父方の伯父の密葬に参列していました。

我が家は、この伯父の父、つまり私の祖父が、大阪は河内松原の大庄屋だった封建的な家風を嫌い、また、学問への夢断ちがたく、密航同然でアメリカの大学へと渡ったところから新たな家族の歴史を始めました。
曽祖父が祖父の行動を許さず、勘当を申し渡したため、(随分後には和解したのですが)分家にならざるを得なかったのです。

          *

そんな祖父の信念により、我が家の宗旨は無宗教。
そのため、葬儀では読経や賛美歌などは一切なく、伯父の娘、つまり私の同い年の従妹が、伯父の人生をまとめた文章を披露して、また、伯父の息子、私にとっての“従兄のお兄ちゃん”が、伯父とはどういう人間だったのかについて、自身の見解を語る、という率直な語りが主の葬儀となりました。
そして、伯父の好きだった音楽を流し、参列者が献花。従兄は“音楽葬”と呼んでいましたが、ただ真率な心情だけが表れた、とても良い式だったと思います。

          *

亡くなった伯父は、一言でいえば、偏屈で、変わり者。
そのため、精進落としの食事の間は、そんな伯父の“偏屈ぶり”の思い出をみんなが次々と披露し、笑いが絶えないものになりました。

皇国少年として育ち、学徒出陣すると宣言して祖母を泣かせていた矢先、終戦を迎えた伯父。
戦後は一転、アメリカの大学で学び、アメリカの価値観を自分の信条とするように。古き良きアメリカの精神を愛するアメリカびいき、或いは、どこかアメリカかぶれ、いや、もしかしたら戦後日本を体現するような人物だったとも言えるのかも知れません。

それにしても、今日のような明るい葬儀というのも、とても良いものだと思います。
伯父はきっと、ちょっと苦笑いをしながら、自分でも自覚していた“面倒くさい人間”である自分の横を、根っからの楽天的な性格ですたすた歩きながら2年前にがんで急死した伯母とともに、大好きなアメリカと、子や孫たちのいる日本の空の上を行ったり来たり飛び回っているのではないかと思います。
「やれやれやっと本当に自由になれたよ」
と、ちょっと肩をすくめて笑いながら。
そんなことを思った冬の日の葬儀でした。

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私、という見知らぬ誰か 2013/11/24



最近、突然、クラッシック音楽を聴きたいと思うようになった。
実は長い間、クラッシックは私にとって敬遠の対象だった。私の両親は大のクラッシックファンで、特に父はヨーロッパ暮らしが長く向こうで様々な名コンサートに通い詰めた、まあクラッシック狂と言って良い人なのだけれど、そんな親のもとに育ったにもかかわらず娘の私は、どうしてもクラッシクが好きになれなかった。どうもクラッシックの――特に古典クラッシクの――あの重厚長大性が重苦しくてたまらず、長年敬して遠ざかっていたのだ。
それなのに、である。どうしてか最近、クラッシック音楽が無性に聴きたくなってしまった。相変わらず古典はそれほど聴きたいとは思わないけれど、ロマン派や新ロマン派のピアノコンチェルト、など。また、ピアノの小品を心から聴きたいなと思う。そして部屋でかけながら仕事をしたりメールを書いたり猫と遊んだりしていると、何故だかとても調子がいいのだ。
どうしてこんな風に突然クラッシックが私の元にやって来たのか?理由は全く不明である。

              * 

思い返せば、今こんなにきものきものと騒いでいる私だけれど、二十代の頃は、
「私って何だかきものが似合わない」
と、若干コンプレックスさえ持っていた。だからきものに興味はあるものの、着るのは年に数えるほど。こちらは何と言うか、気後れの対象だった。
それが今では日々きもの、きもの、である。
じゃあ、今は似合うようになったのか?という質問などもう関係なく、とにかくきものが着たくなってしまったのだから、着る。きものにまつわる総てが楽しいし、ずっときものを着ていたい‥というこのきもの熱も、そう言えばいつから始まったのかと考えてみれば、ある日、仕事の関係で「ちょっとさわりだけ習う」つもりで通ったお茶の稽古へ着て行った日に、何故だかもう脱ぎたくなくなってしまっていた。それまでだってお正月だの友人の結婚式だのお雛様を出した日など折々には着ていたのに、何故かその日に限って、まるで植物の種が或る日突然殻を破って中から芽を吹き出すように、私の中できものにまつわる何かが爆発したのだ。

              *

そうやって考えてみれば、そもそもその茶の湯だって、今は熱心に学んでいるけれどそれまではいつも「面倒くさそう」とクラッシックと同じく敬遠の対象にしていた。
昔、華道の教室で姉弟子たちと、「お花は自分の意志で創意工夫出来るところが楽しいけれど、お茶は決まりごとばかりで嫌よね」「そうですよねえ、私、お茶は絶対習いません」と話していたことが今となってはなつかしくも赤面ものである。
そしてこの15年以上、私の人生において大きなウェイトを占めている中国への関心も、或る日、たった一本の香港映画を観て心を奪われたことがきっかけだった。それまでの私はどちらかと言うとヨーロッパかぶれでイタリアにホームステイなどもしていて‥と、今となってはヨーロッパかぶれの自分など、一体誰のことかと思い出せないくらい遠いことになってしまったのだが。

              *

こうやって振り返ってみると、人の好みの変化は自分自身にすら全く予想のつかないものだとしみじみ気づかされる。
当然、今まで書いて来たことと逆の現象もあって、つまり、人生の一時期相当打ち込んでいたのに今では関心を持てなくなっていることというものも、誰の人生にもちらほらと存在するだろう。
私の場合はそれは写真であり、アンダーグラウンドミュージックであり‥では、中国が生き残ってアンダーグラウンドミュージックが消えてしまったのは何故なのか?それともまた何かのきっかけで再燃することがあるのだろうか?‥と、そういうことも自分では全く分からないというのも、考えてみれば何とも頼りない話ではないか。

              *

そう、“自分自身”などというものはずいぶんあやふやな、まるで他人のようなものだな、と思う。
人の体の細胞の多くの部分は定期的に入れ替わっていると耳にするし、逆に生まれた時から一度も細胞の入れ替わりをしないという脳も、日々入力される新しい知見によって神経細胞の網の目自体は刻々とその様相を変えている。つまり、昨日の自分と今日の自分は同じ人間ではない、ということだ。
そんな、よく分からない自分、という他人のような誰かを、いかにも馴れたセーターのように着こなしたつもりで今日も生きている。もしかしたらその誰かは突然明日中東文化に興味を持つかも知れないし、バイクに凝り始めてツーリングに出かけるのかも知れない。朝寝坊の私が早寝早起き生活に一気に転換してしまうのかも知れない。明日の私とは、いやそもそも今日の私とは、一体誰なのだろうか?


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宇野千代自伝『生きて行く私』に見る股のゆるさと宇野千代きものについて 2013/11/04



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 3、4年ほど前、歯医者の待合室だかどこかで偶然手に取った女性誌で、ファッションディレクターだったかアートディレクターだったか今ではもう忘れてしまったけれど、何かしゃれた職業の女性が宇野千代の自伝『生きて行く私』を自分の好きな本と紹介していて、以来、いつかこの本を読んでみたいと思っていた。
 それからわりと忙しく日々を過ごしてあっと言う間に3年ほどが過ぎてしまったのだけれど、特にこの10か月ほどは一日も休みなく仕事に追われていた生活がほんの少し小休止したので、そうだ、『生きて行く私』を読んでみようと、飛びつくように読み始めたのだった。
 宇野千代の小説はこれまで一冊も読んだことがなかったけれど、八十歳でも振袖を着ているとか、桜が好きで一年中桜のきものを着ているとか、「私、死なないような気がするんです」という有名な台詞などは耳にしたことがあって、面白そうな女性だなと興味は持っていた。
 それに、そのカタカナ職業の女性も、“生き方に一つの美学を貫いた凛とした女性の一代記”といった紹介をしていたから、きもの好きの私としては人生の美学ときものの美学とが美しく一体化したような、何かとてつもなくしゃれた随筆が読めるのではないかと期待したのだ。

          *

 さて、ページをめくり、四分の一ほどしたところで、その美しい期待は大きな見当違いだったということにつくづく気づかされた。だからと言って読む価値がないかと言えばそんなことはなく、むしろ無類に面白い。
 では、一体この自伝はどんな書物なのか、と言えば、それは、宇野千代という女性の股の話だ。宇野千代先生が行く先々ですぐ男性に股を開き、人々がえっと仰天する。ここでもここでも股を開いているけれど、おそらく行間のここでも股を開いていて、だけど何かはばかりがあってここについては書いていないな、と同性ならすぐ読み取れてしまう。そんな風にあっけらかんとそこかしこで股を開きまくっている女の一代記が、この自伝随筆集なのだ。
 ‥とこう書いてしまったら身も蓋もないと思われるかも知れないけれど、これこそが彼女の人生の総てを集約した一言なのだ、ということに、『生きて行く私』を読めば気づいて頂けると思う。
もちろん、千代先生は野間文芸賞や芸術院賞を受賞し、うるさ型の小林秀雄をも驚嘆せしめた偉大な作家だった。また、一時代を築いたファッション誌の編集長をしていたこともあるし、趣味のいいきものを世に送り続けたきものデザイナーでもあった。
 しかし、女が前に出るのが今よりもずっと難しかった時代、何が彼女をそこまでの場所へと押し上げたのかと考えてみれば、その心底根底にあったものは、「あら、この男、ちょっと素敵」と思った瞬間すぐに股を開き、それでもなびかない男の元には毎日毎日職場にまで押しかけて「あの、私の股は開いてますけれど」と執拗に知らせ続ける、その、周囲の目を一切気にせず自分の欲望に向かって素直に自分を全開に出来る純粋無垢な魂のようなもの。それを彼女が保持し続けていたからこそ、あの時代に大きな成功と幸せをつかみ取ることが出来たと分かるのだ。

 もちろん、そのようないわゆるふしだらで自堕落な生き方をしていたらそれなりのしっぺ返しはある訳で、その中で、よりくっきりと見えて来る人生悲喜劇の輪郭が、おそらく彼女の小説の主題となったのではないか、ということにも、読んでいれば自然に思い至る。そうなると私などはがぜんこの上は、千代先生の代表作も読んでみようじゃないかという気にもさせられるのだった。

          *

 ‥という訳で、私が最初に雑誌で読んだしゃれた職業の女性に言いたいことは、股の話は股の話だとちゃんと書いてほしい、ということだ。
 確かに千代先生の偉いところは股だけの女に終わらずそれを偉大な作品や事業に変え得る知恵と文才とセンスを持っていたことにあるけれど、股がゆるかったことがまたその人生の最大の特徴であり、その股ゆえにこそ知恵も磨かれたのだ、ということを、女性誌的にこぎれいにまとめるのはどういう安全策なのだろう、と一人文句を言いながら表紙を見返したりもしたのだった。

          *

 ところで、千代先生の名誉のために付け加えておけば、人生のごく一時期を除いて、先生は誰にでも彼にでも股を開いていた訳ではなかった。尾崎士郎、北原武夫、東郷青児‥彼女が股を開いた男の列伝には綺羅星のような名前が並ぶ。そして、彼女は、あきれるほどに分かりやすい“イケメン好き”でもあった。才能がある上に見た目も美しい男性と恋仲だったのだから、何とも痛快な話ではないか。
 そんな“宇野千代”の名前を冠したきものが、今も綿々と作られていることはきもの好きなら誰もが知っているだろう。先生の股の開き具合を思うと正直うら若い娘さんの振袖にはどうかと思うが、三十五過ぎた女が小紋などに着るとしたら、何ともしゃれている、と思うのだ。


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【ちょっと近況】私のyoutube語学学習法 2013/09/11



 怒涛の撮影週間が終わり、これからしばらくはひたすら家で原稿を書く日々が続きます。
 忙しいことは忙しいけれど移動時間は減るので、しばらく休んでいた語学学習を再開しよう!とやる気満々です。

‥と言っても、youtubeで自分の学びたい語学の様々な映像を渉猟するだけなのですが‥、でも、この勉強法、リスニング力を上げるのに非常に有効なので、皆さんもゼヒ試してみて下さいね。
 ちなみに私は今日、金城武さんのインタビュー(字幕なし)を見ました。大体全部聞き取れたかな。

              *

 今日は字幕なしでしたが、勉強のためには本当は字幕付きの方が良いと思います。
 もちろん、日本語訳ではなく、画面で話されている言葉をそのままただ字幕に落としたものを探すことがコツ。
 基本、字幕は見ずに流し聞き。2回目に、1回目に見た時に分からなかった表現のところで止めて、字幕をチェック‥というやり方が良いと思います。
飛躍的にリスニング力が上がりますよ!

              *

私はどうも英語が好きになれず、あまり得意ではないのですが、そうも言っていられない場面も増えそうなので、これからは中国語に加え、英語の勉強も始めようと思います。ふ~。


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日本ブログ村からご覧になって頂いた皆さんへ~エラー表示のお侘び 2013/05/13



大変申し訳ありません。
先ほどアップ致しました私のブログ「帰って来た着物日記~~人間国宝・中村勇次郎訪問着」なのですが、現在ブログを動かすプラットフォームMOVABLE TYPEと私のPCの何かが当たり、画像がアップされずに文章部分だけがアップされている現象が起きています。
「お茶会の日に着た着物です。下の写真をご覧ください」などと書いているのですが、肝心の写真がない状態。これでは着物日記の意味がないですよね。本当に申し訳ありません。

即座に、プラットフォーム側のエントリを消したのですが、何故かブログ村からは消去前の状態につながってしまいます。(IT音痴のため、何故このような現象が起こるのかが分かりません)
更に、では、とブログ村のエントリ情報の方を消そうとしたのですが、いくら探してもどうやって消したら良いのか、これまた分からず途方に暮れています。

そんな訳で、現在、ブログ村から日記に飛んで頂いた方には、文章だけで写真のない着物日記が閲覧出来る状態かと思います。本当に申し訳ありません。
急遽、ウェブサイトを作って頂いたデザイナーの方に、何故写真だけがアップ出来ないのか、確認作業をして頂いています。原因解明出来次第、写真付きで再度アップ出来ると思いますので、いましばらくお待ちください。

Windowsを最新バージョンにすると出るこの現象。本当に途方に暮れています。MOVAVLETYPE、使い手が悪いのでしょうか。復帰第一弾だったのに‥とても悲しいです。
本当に申し訳ありません。

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最近の忙しさと、仕事についてのご報告~~気鋭の仕事人への連続インタビュー、始まりました! 2013/03/13



 先日、或る和文化関係の勉強会に出席したところ、参加メンバーの中にこのブログを読んで下さっている方がいらっしゃり(本当にありがたいことです)、
「最近更新がないですよね。お忙しいのか、それとも、中国関係のエントリーで何か右翼の人から攻撃されたりとかしてお休みしてるのかと思ってました」
 と言われてしまいました‥!
 大丈夫です。西端真矢、元気に生きています!むしろ右翼の方からは励ましのメールなど頂いたりしています!左翼の方からも!‥と、自分の周りに起こっていることを見渡すだけでも、今の日本が対処すべき問題が従来通りの右・左の考え方からははみ出し始めているのだなと感じるこの頃なのですが‥
 
 そんな中、年明け以来、仕事が本当に忙しく、朝から晩まで、取材、勉強会、ランチミーティング、原稿書き、資料読み、プレゼン、ビジネスメール、打ち合わせ‥とぐるぐるぐるぐる働く日々が続いています。ごくたまに親しい友人たちとお食事するのが唯一の息抜き。あ、それから、イ・ビョンホンさんの写真を見ることでもかなり癒されています。他に、猫と遊ぶ、資料以外の本を読む‥そんな時間以外は毎日毎日一生懸命働く日々が続いています。
 でも、一つ一つのお仕事、全て、意義深いお仕事だったり、自分から企画しているものだったり、前からずっと発注して下さっている方からのお仕事だったりするものばかりなので、毎日は充実しています。なかなかブログまでたどり着けないことだけが残念ですが、あと少しでピークを脱する予定ですので、気長にお待ち頂ければと思います。書きたい話題も頭の中のネタ帳に満載していますので!

             *

 さて、そんな中、最近のお仕事のご紹介です。
 以前、このブログで、新宿にあるシェアオフィスHAPONをご紹介したことがあるのを覚えていらっしゃるでしょうか。HAPONもオープンから1年以上が経ち、様々な方が入居されるようになりました。
 そこで、HAPONのホームページで、HAPONに拠点を構えてお仕事をされる方々の、そのお仕事の内容と仕事観、更には社会観なども含めてお話を聞く連続インタビューが設けられることになり、私がその取材・執筆を担当することになりました。
 題して、「HAPON人インタビュー」。下のURLでそのページに飛んで頂けます。
http://hapon.asia/shinjuku/news/post2261/
 第1回目のゲストは、Epiphany Worksの林口沙里さんと信田眞宏さん。
 数名のプロデューサーが集まってプロジェクトを企画・制作する会社をプロデューサーズ・カンパニーと言いますが、Epiphany Worksはその代表格のような会社です。
 しかも特徴的なのは、音楽、映像、美術展、写真展のプロデュース、アーティスト・マネジメント‥ここまではごく普通のプロデューサーズ・カンパニーの業務内容なのですが、その他に、脳科学者が出演するイベントをプロデュースしていたり、ダライ・ラマと共に般若心経を学ぶアプリを制作していたり、かと思えば、富山の小さな里山への旅行ツアーや富山の伝統工芸を生かしたプロダクトのプロデュースも‥と、相当な異領域を自在に行き来してお仕事を展開されているのです。
 
 想像出来るのは、恐らく、好きなこと・興味を惹かれることを手繰り寄せて行くうちに自然にこの業務内容になったのだろうな、ということですが、実はそういう風に仕事をして生計を立てて行くのってなかなか難しいことだな、とも実感します。
 そこでお二人へのインタビューでは、好きなことを仕事にして、しかもいい仕事をする。更に生活も成り立って行く。更に次のプロジェクトへ投資するお金も残す。そういう風に仕事をして行くためには、どんな秘訣やどんな意志が働いているのか?そんなことをお聞きして行こうと思いました。今回は、全3回のうちの1回目です。どうぞお楽しみください!

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今さらですが‥年頭抱負 2013/01/27



 皆様、本当に本当に今さら‥なのですが、新年明けましておめでとうございます。
年明けからばたばたと忙しく、また、この冬大流行中のインフルエンザ(A型)にかかって寝込んでいたりしたため、なかなかブログを更新することが出来ませんでした。
 しかし、こんなに遅くなってではありますが、今年最初のブログであることは間違いないので、今回は昨年の自分を振り返りつつ、今年の抱負なども書いてみたいと思います。

          *

 さて、昨年の私にとって一番大きな出来事は、前回のエントリーにも書きましたが、9月に発表した日中関係についてのブログがとてつもなく大きな反響を呼んだことでした。昔からの友人たちは皆、私がいかにIT音痴かを知っているので、そんな私がSNS時代の恩恵を最も受けるというのも(自分でも言うのも何ですが)天然の馬鹿力というかんじで不思議な思いがします。
 右翼の方からも左翼の方からも、そしてそのどちらにも属さない大多数の市民層の方からも、たくさんのシェアやメールを頂き、「中国とどう向き合うべきなのか」という、この問題が、今の日本人にとってどれほど大きな課題であり、棘であるか。私自身も改めて実感させられました。そしてそのことの意味を今も考え続けています。

          *

 また、昨年の私にとって、もう一つ印象深かった出来事は、某エンタテイメント企業様のクレドとクレドブックの文章制作を担当したことでした。いつもブログを読んで下さっている皆様ならご存知の通り、私の特徴は“長過ぎるにもほどがあると文句を言いたくなるくらい長い文章”ですが、この仕事では、一行、或いは数行で読み手の心をとらえる必要があり、広告コピー制作に近い文章作りに取り組むことになりました。
 野球のバッターにホームラン型とヒット型があるように(とあまり分かっていない癖に知ったかぶりして野球比喩を使っています!)、文筆も、長文型と短文型に、もしかしたら分けることが出来るのかも知れませんが…、いざ取り組んでみると、意外にも生きのいいコピー的文章が次々と浮かび、いい仕事になったと思います。クライアント様からも高評価を頂き、並みいる取引先様の中から“年間最優秀パートナー”に選んで頂いた上に、全社会議で表彰もして頂いたことは、本当に嬉しい出来事でした。そして、短文で勝負することの面白さにも目を開かされたのでした。
 また、これは、文章自体を書いたのは更に前年の2011年だったのですが、三島由紀夫についての論考を歴史書籍の老舗出版社・雄山閣様のホームページに発表することが出来たことも、大変に嬉しい出来事でした。
(この論考は現在も下記のURLで読めるので、ご興味を持って頂けた方にはゼヒご高覧頂ければ幸いです。前半が文学理論系、後半が、9月の日中関係ブログの内容にもつながる、“三島を軸にして現代日本を考える”といった内容となっています。文学理論に興味のない方は、前半は飛ばし読みして下さい)
http://www.yuzankaku.co.jp/test/untitled/fuhen.pdf          

          *

 さて、このようにかなり実り多い一年だった昨年を通過して、では、今年は何をするつもりなのかと言えば、よりアクセルを踏み込んで、力を出し続けて行く、ということに尽きると思います。
 私はこれまで、何が世の中に受けるかということは全く考えたことがなく、むしろ、「中国なんか行ってどうするの?イギリスに留学しなよ」「あなたのブログは長文過ぎるのがいけない」「ウェブやゲームの世代に複雑な論考を投げかけても彼らは解読出来ない」などなど、「そんなことやっても無理!」と言われることがどうしてもやめられませんでした。自分がそこに心を引きつけられるのだから、半ばやけくそ的にもうどうにでもなれと、徹底的に(でも本当は時に弱気でしたが‥)取り組んで来たつもりです。そして、そうやって択んで来たことは、結局、今、多くの日本の方の心に突き刺さるテーマ、そして方法論になって来ていると思うのです。
 だから、私は少々の自信を持って確信しています。今、私が強く心引かれること…そう、きっとこれから着物も見直されて行くと思うし、日本人は明治以降の、我々の現代史の負の部分に向き合わざるを得なくなって行くと、そうとしか私には思えません。そして日本の女はもっと自立せざる得なくなって来るだろう、とも思います。
 一つ一つはばらばらの事象に見えるだろうし、恐らくどれも今、誰に話してもほとんどの方には鼻で笑われるだけなのだろうとも思います。けれど、私は、自分の嗅覚を信じています。その嗅覚が引き寄せられることを、徹底的に追求したい。そういう一年を歩いて行きたいと思います。

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日記を書けない日々 2012/12/20



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毎日非常に忙しくなってしまい、なかなかブログを更新出来ない日が続いています。
某ウェブサイトのための取材で都内や東京近郊の県をあちこち移動したり、と或る企業の販促物の原稿を書いたり、と或るイベントの企画書を書いたり打ち合わせをしたり‥
まだ来週半ばまで、ばたばたした日々が続くので、年内あと一回ブログを更新出来るかどうか‥
気長に待って頂けたらありがたく思います。

写真は、群馬県へ取材に行った日、移動の電車の中で撮ったもの。
売店に売っていた豆こけし(たったの350円!)があまりにもかわいかったので、旅のお伴に。

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ヴェネツィアの夜~~或る有名建築家と過ごした一晩に学んだ人生の大切なこと 2012/10/08



突然ですが、質問を一つ。
「あなたは見栄っ張りですか?」
と訊かれたら、どう答えるだろうか?
私の推測では、「うん。僕は見栄っ張りだよ」と答える人はそんなにはいないのではないかと思う。最終的に「見栄っ張りだ」と答えるにしても、「男っていうのはみんなどこかで虚勢を張って生きている見栄っ張りな生き物でさ」などと注釈がついたりして、なかなかストレートには認めようとしないのではないか。そのくらい、見栄っ張りというのは、何かいじましくて堂々としない、負のイメージがつきまとう一つのあり方であり、往々にして自分のコンプレックスや弱点と結びついていることが多いようにも思われる。

例えば、根っからのお金持ちはぺらっとしたどこかの屋台ででも買ったようなバッグを持っていても平気でいられるけれど、たいていの庶民はブランドものを持っていないと貧乏だと見破られるのではないかと思い、落ち着かない。特に庶民からちょっと成り上がった人ほど、全身をブランドもので固めていたりするものだ。
かく言う私も見栄っ張りはみっともないから矯正しようと努力しているとは言え、ついついやらかしてしまうことも多い。だからよけいに人の見栄っ張り度合いが気になるし、つい観察をやめられないのだ。
そして、見栄っ張りとは真反対に、「私は何も出来ませんからへりくだり」「何もほしくないし、人と競争しようとも思わないんですふわり」と麻のワンピースか何かを着て玄米を食べながら言う人を見ると、それはそれで何か偽善のにおいを感じて背中がかゆくなって来るなこの人、とか、みんながみんな競争心ゼロになったらこの国は国際競争に負けて滅びてしまうのではないか?などと余計な心配に頭をめぐらせ、多少の見栄っ張りも人生には必要悪なのかしら?などと思ってみたりもする。見栄と向上心、或いは人生のバイタリティは、紙一重のところにあるからとても難しい。

そんなことを考えていると思い出すのは、二十代の頃に会った或る人のことだ。会ったと言ってもただ一晩食事を共にしただけのことなのだけれど、15年以上経った今でも折りに触れて思い返す。その人と会ったのは夏のヴェネツィアだった。
その頃、私は会社を辞めて次の仕事まで定職に就かずふらふらしていた時期で、ちょうど当時父がイタリアに長期単身赴任していたため、時々父を訪ねてイタリアに遊びに行っていた。そして何回目かの訪問の時に、或るプロジェクトのためにヴェネツィアに滞在している日本人のグループと知り合いになった。
そのグループの人々は皆、アート、建築、学問の分野で既に名を成したり、頭角を現し始めているキラキラした人たちだった。一方、まだ二十代の初めで何事も成し得ていない小娘の私は、「たまたま異国で若い同国人に出会ったから」程度の理由で部屋に入ることを許された、名前のない影法師のような立場だった。そしてキラキラした彼らの仕事ぶりを、ぼんやりと映画でも眺めるようにただ眺めていた。

そんな彼らと、ある日食事をすることになった。15年以上昔のことなのではっきりとは覚えていないけれど、確かいよいよ彼らが取り組んで来た共同プロジェクトが完成し、打ち上げ食事会のような意味合いの夜だったと思う。
私たちはヴェネツィアの運河の真上にテラスを出した、地元でも美味しいと評判のリストランテにテーブルを一列陣取って座った。周りは全てイタリア人、或いはヨーロッパの人々で、その中で東洋人として意味ある仕事を成し遂げたことに、全員が少し高揚した気分で席についていた。食事は美味しく、運河が張りめぐらされたヴェネツィアの夜は湿気に満ちてどこかけだるく、会話は次から次へ弾んで止まることがなかった。もちろん、小娘の私には口をはさむ余地などなく、控え目に聞いていることしか出来なかったのだけれど。

そんな時、何かのきっかけから、話題が日本の古美術のことになった。これもまた15年以上前のことなので詳しいことは覚えていないのだけれど、琳派のことが話題に上った。誰かが何かのことから琳派に言及し、その席にいた建築家――仮にXさんとする――が、「琳派って結局どんなことしたの?」とか「酒井抱一って誰だっけ?」とか、何かそんなようなことを言ったのだ。
私は思わずXさんの顔を見つめてしまった。と言うのも、それがあまりにも基本的な質問だったからだ。Xさんと言えば、日本の建築界のスターで、建築界の内側の人々どころか一般人でもちょっとアートや建築に詳しい人なら――そう、当時まだ『Casa Brutus』は創刊されていなかったけれど、今で言うなら『Casa Brutus』など愛読して建築についてあれこれ蘊蓄を傾けるような人なら、誰でも知っているスター建築家だった。
もちろん、建築と日本の古美術では分野は大分異なっている。それでも、造形芸術という点では同じ分野にいるし、日本人が芸術作品を携えて外国へ出て行く時、必ず自分の中の日本人性や、また、日本の歴史をどう捉えているかということが問われ、自分自身でもそれを自問自答をすることになる。そしてそれが作品に影響を与える。Xさんのそれまでの作品には日本的美の感覚を押し出したものがいくつもあったから、私は、Xさんが琳派についてこんな基本的な質問をすることが本当に意外だった。いや、もっと正確に言えば、こんなことも知らないのか、と驚いたし、こんな有名な人がこんな基本的なことも知らないことをさらけ出すことに、「恥ずかしくないのかしら?私ならとても出来ない」
と驚いたのだった。

           *

実は私は、日本美術史や琳派には特別な思い入れを持っていた。と言うのも、私の母が日本美術史の研究者で、それも琳派を専門にしていたからだ。だから小さい頃から母につれられて琳派をはじめ日本画をたくさん見ていたし、最新の学説についても折りに触れて教えてもらっていた。だからその時もこのくらいの基本事項なら――と、Xさんに解説を始めようかと思ったのだけれど、何も言わずに口をつぐんだ。と言うのも、その席には、当時若手美術史家として頭角を現し始めていたYさんという方がいたからだ。
YさんはすぐさまXさんに解説を始めた。解説と言っても、Yさんが本当に何も知らないので専門的な話ではなく、高校の美術の教科書にでも書いてあるようなごくごく基本的な内容だった。
Yさんの説明が一段落すると、Xさんがまた質問をした。その質問もまた、耳学問で日本美術史の知識を仕入れている私からすれば、あまりにも基本的なつまらない内容だった。たぶんYさんもそう思ったはずだけれど、そんなことはおくびにも出さず丁寧に解説をする。するとXさんはまた質問する。またYさんが答える。またXさんが質問する。またYさんが答える。私はそのやり取りをぼんやりと聞いていた。こういう時は脇役になった者は笑ったりうなずいたりする必要もないから、食事を片づけるにはいいタイミングだった。特に私は人より食べる速度が遅いと自覚しているから、今だとばかりにせっせとナイフとフォークを動かし続けていた。
けれどXさんの6回目か7回目の質問の時、思わず私は手を止めた。そして顔を上げてXさんの顔をまたまじまじと見つめてしまった。何故ならばXさんのその質問が、あまりにも的を射たものだったからだ。
ちょうどその夏、ヴェネツィアへ飛び立つ前、東京で母から聞いていた最新の学説。それを答えとせざるを得ないような質問を、Xさんは投げかけていたのだ。つまりXさんの知性と探究心は全くの0からスタートして、質問を重ねるたびに琳派の概要を一段一段と把握し、やがていつの間にかその最も本質を捉えていたということになる。一流の人とはこういうものか、と、私は心底胸ふるえる思いだった。

           *

以来、私はその夜のことを“ヴェネツィアの夜”と名づけている。
今では日本の枠を超えて、世界のスター建築家の一人として活躍されているXさん。あれ以来Xさんにお会いしたことはないけれど、きっと今でもXさんは、自分の知らないことがあれば子どものように素直に「それ知らない。教えて」と訊いているのではないかと思う。そして誰よりも鋭敏な知性で相手の答えを聞き取り、その全てを自分の養分に変えてしまうのだと思う。
凡人の私はあの夜のことを“ヴェネツィアの夜”などと名づけて大切に思っている癖に、それでも、今でも、「こんなこと訊いたらバカと思われないかしら」とためらったり、外国人の友人と話している時に話を途中で止めては悪いと、聞き取れていないのに分かったふりをしてしまうことがある。
もちろん、Xさんがあんなにも素直に「知らない」と言えるのは、彼が「知っている」ことのレベルがあまりにも深く高く、そこに揺るぎない自信があるからだろう。だから見栄を張る必要もないのだろうけれど、でも、それでもやはり、一角の名を成した後にそれでもまだ「知らない」と言える勇気は、若い頃に「知りません」と言う勇気よりもずっとずっと大きいと思うのだ。

そして私は今日も誰かとテーブルを挟み、つい、見栄っ張りの私が顔を出しそうになった時には、一瞬目を閉じて自分を戒める。その時、私の前に下りるのは、重く、湿り気を帯びてざわついた、あの、ヴェネツィアの夜――

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ちょっと珍しい柄の手ぬぐい入手!+草の根の被災地支援 2012/08/15



先週、書家の友人の作品展示を見に行った日のご報告日記を書きましたが、今日はその会場で買い求めた手ぬぐいをご紹介します。
下の写真の中の、右から二番目の手ぬぐいが、私が買ったもの。
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紋様のアップはこちらです↓
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新橋色の地によろけ縞の紋様なのですが、これが、よく見ると竹になっている!そう、江戸小紋にもある「竹縞」の文様なのですね。これが手ぬぐいになっているのは結構珍しいと思います。しかもよろけというのが粋!

この日私がおじゃましたのは、「ROSES 2012」というイベントでした。
http://www.roses-art.com/about/
ROSESは、発展途上国の子どもたちへの教育支援、そして昨年の311地震発生以降は、被災地の子どもたちのための支援や、被災地域の地場産業を応援する活動を行っている団体です。
昨年以来、年に一度、表参道ヒルズでチャリティ展覧会を行っており、そこに、先週ご紹介した書家の友人・土屋翠香さんも作品をチャリティで書作品を出品していた…という訳です。

その会場で、何故に私がこの手ぬぐいを入手出来たかと言うと、実はこの手ぬぐい、被災地である仙台の地場産業“仙台手ぬぐい”なのです。
仙台市青葉区にある「染の工房 なとりや」というお店のお品で、私が今回買った竹縞をはじめ、江戸以来の伝統の型紋様を使った注染手ぬぐいを多数生産しているのだとか。うーん、素敵です。
なとりやのHP→http://www12.plala.or.jp/natoriya/

上のHPを見て頂くと分かるように、伝統紋様だけでなく、新しい文様もたくさんあるので、手ぬぐいを探している方やパーティーなどの記念品を探している方はゼヒご覧になってみて下さい。通販もOK。素敵な柄でありつつ被災地企業を支援出来るなんて、一石二鳥ですよね♪
たとえば、下の写真でちょっと見切れてしまっているのですが、右端に写っている辛子色の手ぬぐい。今回のROSESにちなんで薔薇の文様が染められているのがお分かりになるでしょうか?とてもおしゃれです。
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            *

今回のROSES 2012には、被災地企業のプロダクトだけではなく、多数のアーティストがチャリティで作品を出品していました。写真作品、アクセサリー、絵画、雑貨…よくよくお名前を見ていると、時々知っている名前が!そう、かつて広告代理店に勤めていた頃によく耳にしていたスタイリストさんや、ディレクターさん、ムービーカメラマンさんなどがちらほら参加しているようなのです。
その後、ROSES展の運営に、私と土屋さんの会社勤務時代の先輩、コピーライターの町田さんが参画されていることを知り、ビックリ。手ぬぐいのなとりやさんの参画も、町田さんの人脈によるものだそうです。
会場で会った町田さんと少しお話しすると、「震災のもう3日後くらいから、いても立ってもいられなくなって」、何か出来ないかと、被災地の産業、つまり商品の販売を助けることを思いつかれたのだそうです。私のいた広告代理店は外資系だったのですが、その海外支社ネットワークを通じて、なとりやさんの手ぬぐいを世界各国で販売したり、募金の活動も行っているということでした。
会社を辞めて、5年。書家がいたり、草の根からチャリティ活動を興す先輩がいたり…いい仲間がいた場所だったのだなあとしみじみ思わされた一日でした。
それにしても、私が買った竹縞の柄、とても素敵なので浴衣にもしてほしいー!

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日々雑感と、中国・薄熙来事件 2012/04/19



進 こんな私のつたない日記を必ず読みに来て下さる方がいてとてもとてもありがたく、なるべく週1回は更新したいと思っているのですが、今週は何だか忙しく、まとまった日記を書く余裕がありません。そこで覚書日記を。

 そもそも何故こうも毎日がばたばたしているのか、その理由を考えてみると、

1 仕事がそこそこ忙しい
ありがたいことです‥。

2 お茶が忙しい
実は今週末、通っている教室のお茶会があり、私も薄茶を点てることになりました。そのため毎日1~2回、自宅の和室にて最初から最後まで通しで点前の稽古をしています。
そして通し稽古の後は、苦手な部分のみを繰り返す割り稽古。あっと言う間に1時間は過ぎてしまいます。更に稽古の後は道具を洗ったり乾燥させたりといった片づけ作業あり、これを一日2セットやっているとかなりの時間を消費するのですね。

3 家事が忙しい
私は独身で、両親が住む実家の別棟で“半一人暮らし”をしています。食事は基本毎日自分で作りますし、掃除洗濯、買い出しももちろん自分で。やはり家事に使う時間はバカになりません。何とか掃除をしないで生きて行けないものでしょうか‥。

4 薄熙来で忙しい
特に中国に詳しくない方でも、最近、「薄熙来」、この名前を耳にすることがあるのではないでしょうか?
薄熙来、はくきらい、中国語ではポー・シイライと発音します。中国の政治エリートで、将来国家主席になる可能性だってなかったとは言えなかった人物。ところがそのイケイケの彼に、今年2月大事件が勃発。それをきっかけに、中国政局のすさまじい暗闘が浮き彫りになり、現在目が離せない情勢となっているのです。
一体どうすさまじいのか?
それをしっかり書いていると何時間あっても足りないので残念ながら全てカットしますが、中国政治の実権を握ろうと、現在の国家主席である胡錦濤も含め、最上層部に君臨する数十名が日々押したり戻したりの権力闘争を展開しているのですね。
中国はやはり国が大きい。たとえば三人の組織で何かを伝えようと思ったら静かな声で語りかけても十分理解してもらえますが、それが百人の組織だったら、大声を出さなければ全員には聞こえません。そして後ろの方の人にもこちらの意志がしっかり伝わるように、何らかのパフォーマンスが必要となります。この例えと同様、中国は国がばかでかいが故に、全ての政治的振る舞いが日本とは比べ物にならないくらいの大きさに増幅されてしまうのです。
だから中国の現代史は、その巨大な増幅でわんわん耳がつぶれそうなほどの暗闘の連続でした。大躍進失敗、文化大革命、劉少奇失脚、林彪謎の死、四人組、華国鋒失脚、胡耀邦失脚、天安門事件、趙紫陽失脚…中国に興味のない皆さんも、このどれか一つくらいは耳にしたことがあるのではないでしょうか。
私が中国に興味を持ったのは、1996年。勉強すればするほど中国政治のすさまじさに圧倒され、しかしその全ては既に“勉強の対象”であって、自分が実際に目撃したものではありませんでした。
それが、今、目の前で、間違いなく500年後1000年後にも歴史の教科書に記述され、繰り返し繰り返し映画や小説などの題材になるであろう、そう、おそらくロールプレイングゲームの題材にだってなるだろうすさまじい政治劇が繰り広げられているのです。現在進行形であり、明日は何が起こるのか予測がつかない状態。中国マニアとして、これにどうしようもなく心惹きつけられてしまうのはやむを得ないではありませんか!
…と言う訳で、日々ネットを検索し、中国語サイト、日本語サイト、英語サイトを渉猟。気がつくと1時間、2時間が経っているのでした。薄熙来で忙しい。笑いごとではありません…

…という訳で、相変わらずばたばたと日々を過ごしています。とにかく今週末でお茶会は終わるので、来週からは少し楽になるはず。薄熙来事件の鎮静化を望みますが、何しろ脇役だけでも、美貌の妻によるイギリス政商殺人事件、フェラーリを乗り回す甘いマスクの放蕩息子…と役者は十分。それに加えて、軍を動員したクーデター計画の噂、巨額の裏金海外送金、恐怖の文革時代へと回帰する意味不明の政治運動、数々の冤罪でっちあげ捜査、拷問、これまでじっと爪を隠していた胡錦濤の鮮やかな反撃…とすさまじい展開を見せています。来週も忙しくなるかも知れません…

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友の訃報 2012/04/10



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 友人が心筋梗塞で突然亡くなり、昨日、告別式に参列した。
 一時期、私はほぼ毎週末クラブで遊んでいた時期――10年近い期間――があって、彼とはその頃に知り合いになった。「毎週末」と書いたが考えてみると当時はシーンが一番盛り上がっていた時期で様々な音楽的実験が東京中のあちこちで行われていたから、週末だけではなく、平日にもたくさん素晴らしいパーティーがあった。私は当時会社勤めで激務の仕事を終えて渋谷のど真ん中に借りていたアパートにぽんと仕事のバッグを置くと、深夜12時、1時から、歩いてすぐのクラブへDJたちの音を聴きに行っていた。そんな中によく彼の顔もあったのだ。
 私たちが集まっていたのは通称「小箱」と呼ばれる小さなクラブで、平日の夜だとせいぜい15人、多くてもたかだか30人くらいしか客は集まっていなかった。だからみんなが顔見知りだった。規模は小さかったけれど――実は後にそれはそこそこに大きなムーブメントへ成長して行くのだが――そこには最高に新しく、最高にレベルの高い音楽が流れていた。そして昼の時間に私たちを支配する金や地位とは一切関係のない、真の平等王国が開かれていた。大してお酒の飲めない私はせいぜいラムコークとかモヒートとか、そんなお酒を2、3杯道連れに、音楽に全身をひたしていた。翌朝にはまた10時にオフィスへと出かけて行かなければならないと分かっていても、睡眠時間を削ることを少しも惜しいとは思わない、絶対的な価値がそこにはあった。

          *

 葬儀の後、その“クラブ時代”の友人たちと食事に行った。色々思うところがあって今の私はほとんどクラブには顔を出さなくなっているから、私の中ではあの頃は“クラブ時代”と区分されているのだ――苦笑してしまうけれど。
 そしてその食事の席では誰がそうしようと決めた訳でもないのに、みんながぽつりぽつりと亡くなった彼の話題をリレーのように交代で話し続けていて、そこには当時のクラブと同じように、自由で“本当のかんじ”が流れているのだった。
 クラブに集まる人間の常として、どこかものぐさだったり適当だったり常識はずれな習慣を持っていたりするものだけれど、亡くなった彼にもその特徴はほぼ全てあった。だから私たちは彼のそのひどさを笑い、だらだらと共に過ごした時間をぼんやりと思い出し、どこにも着地点のない会話がいつまでもいつまでも続いていた長い夜や午後が切れ切れにそのとき私たちの座るチェーンレストランのテーブルの上に一瞬よみがえっていた。
 そして、そんな風にぼんくらそのもである癖にこれと思い決めた一点だけにはあきれるほどの頑迷さを示すのもまたクラブに集まる人間の常であり、彼も、譲れないその一点においては、アフリカの奥地の金鉱を開拓する商社マンにも劣らぬ情熱で未開の地を切り拓こうとしていた。ただ商社マンと決定的に違うのは、小箱のクラブに集まるような人間のやることには絶望的に金がついて来ないということだけなのだ。もちろん私たちは彼のその情熱的な一面についても語り合った。

 彼は、文筆を志していた。友人の一人が生前彼からもらったという分厚い原稿の束を持って来ていて、私が初めて見るその小説の題は『カシューとナッツ』というものだった。
 ぱらぱらと目を通すとカシューとナッツという二人の主人公が形而上的な課題の周りをぐるぐるダンスしているような、そんな話のようで、哲学科出身でヴィトゲンシュタインを崇拝する私は、こういうことはもう全て後期ヴィトゲンシュタイン思想によって完璧な形で成し遂げられてしまっているから、後から何をやっても無自覚の、色褪せたエピゴーネンになってしまうだけなのに、と言いたくなってしまうのだが、でも、文学は自由区域の楽市楽座なのだ。やりたいことをやる人を止める権利は誰にもない。それにもしかしたらそこからたとえ当初意図したものとはまるで違っていたとしても、新しい地平が開けることだってあるかも知れないではないか。

 一方、彼の棺には村上春樹の『風の歌を聴け』が納められていたことを私は思い出す。私には彼があの小説に出て来る鼠のように思えてならない。鼠もまた小説を書いていた。そして鼠が主人公の「僕」に1年に1度その原稿を送って来るように、彼もまた友人たちに自分の小説を配り続けていた。
 鼠は金持ちの家に生まれ、誰にでもやさしくそしてちょっと頼りなかった。彼もまた金持ちの家に生まれ誰にでもやさしくどこか頼りなく、けれど違っている点は、鼠は全く小説を読まなかったけれど彼は多くの小説を読み、そして、鼠は最後に一つの意志を持って死んで行くが、彼は突然落とし穴に落ちるように死に吸い込まれて行ったということだ。たぶん彼はまだ自分が死んだことを分かっていないのではないだろうか。

          *

 彼と最後にまともに話をしたのは3年くらい前だったと思う。
 季節は夏で、そのときですら私にとってはもう久々に訪れる場所だった青山のクラブで、明け方、店の外に置かれたぱっと見ベッド台のように見える変てこな椅子の上に座って話をした。彼は最近発見したという若い詩人のことを興奮して喋っていた。その人を世に出すためにzineを出すなど、出来ることを何でもしたいと言っていた(のちに彼はそれを本当に実行することになる)。
 また、別の日、それは冬のことで、畳敷きの居酒屋で開かれた仲間同士の忘年会の席で彼と話をした。そのとき、どういう話の流れでそういうことになったのかまるで覚えていないのだけれど、私が、「将来こういうものを書きたいと思っていて、今、こういう資料を読んでるの。いつか書けるといいんだけど」といったようなことを話すと、「書けるよ、絶対」と彼は即答してくれた。
 こういうとき、「そうか、頑張ってね」と答えるのが一般的だと思うし私自身もそうすると思うのだけれど、そのとき彼はそう即答し、そう断定した。それはやはり私にとってとても嬉しいことだったし、彼が何かを断言するのをそれまであまり聞いたことがなかったから、今でも強く印象に残っている。顔を見ると静かに微笑んでいた。

 この二つの記憶のどちらが先でどちらが後の出来事だったのか、今ではもう思い出せない。とにかく私の中にある最後の彼の記憶は、こんな風に、少し熱を帯びている。
 昨日、一緒に食事をした仲間の一人が彼の「いい顔の写真がある」と見せてくれた写真があった。「これがヤツの決め顔なんだよね」とみんなで覗き込んでちょっと笑った、そのいい顔を、最後の二つの記憶の中で彼は私に見せてくれていたのだ。その記憶は一生消えることはないだろう。彼に出会えたことを心から感謝して、心から冥福を、祈る。

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新世界遺産・平泉への旅。道すがら俳句も詠んでみました。 2011/10/12



先週、仕事の取材旅行で、今年夏に世界遺産に登録されたばかりの奥州平泉(岩手県)へ行って来ました。今回、諸事情でフォトグラファーと編集者は1週間前に撮影旅行を済ませていたので、完全に一人きりでの取材旅行でした。
実は私は一人旅が絶対出来ない方で、昔々、もつれた恋の悲しみに暮れるあまり勢いでセンチメンタルジャーニー(笑)に出た…ことがただ一度あるだけ。黙々と名所を回って一人食事を食べる…という行為を繰り返していると、どうにも気持ちが暗くなってしまうのです。
かつて一度、ヨーロッパに住む友人を訪ねて旅へ出かけたときも、途中でその友人に急な仕事が入ってしまい、予想外の一人旅に。そのあまりの淋しさに早々と予定を切り上げ、帰国してしまった…ほどの一人旅アレルギーです。
しかし今回は、仕事のための取材旅行。淋しいだのなんだのと甘えたことは言ってられません。良い原稿を書くために見ておかければならない場所は山ほどあるし、お話を伺わなければならない方もいる。新幹線の中でじっと地図を広げ、旅の順路をねったのでした。

さて、お昼に平泉に到着後、まず毛越寺(もうつうじ)へ向かいました。
そしていきなりお昼ご飯です↓
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毛越寺の中の茶屋で頂ける、お餅まんじゅう膳。岩手県名物の柔らかいお餅に、胡麻だれ、あんこだれ、味噌だれなど、たれがどれも美味しい~。

その後、毛越寺をゆっくりと回りました。
毛越寺は、かつてこの地に栄えた奥州藤原氏の二代目、藤原基衡が建立した寺院。建物は火災により焼失してしまいましたが、当時の池や優美な人工川=曲水がそのままの形で残っています。平安時代の優雅な庭園の面影を楽しめるなんて素晴らし過ぎる!
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          *

その後、中尊寺へ向かいました。
今回の旅、私は駅前でレンタル自転車を借り、快適に遺跡から遺跡をめぐりました。平泉は町の規模がそれほど大きくないので、自転車で回るのがまさにぴったりだと思います。

さて、中尊寺では、長い長い、非常に急な参道をひたすら徒歩でのぼります。両側には樹齢数100年と思われる高い杉木立が風に揺れ、この寺が、山を切り開いて作られたのだということを実感させられます。
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そして金色堂へ。奥州藤原氏の初代・清衡が建てたお堂で、中の仏像が全て金で彩られていることはあまりにも有名ですね。そのまばゆいことと言ったら…!
この光堂は、松尾芭蕉がかつて「おくのほそ道」の旅で訪れています。その時の読んだ句がかの有名な、

  五月雨の 降り残してや 光堂

そこで私も芭蕉にちなんで一句。

  秋の杉 翁を見たか 中尊寺
              真矢
       *

中尊寺には金色堂の他に、大小様々なお堂や能舞台が点在しています。また、藤原時代の素晴らしい仏像や仏具などを展示した博物館もあるので、じっくり見て回っているとかなり時間がかかります。
また、服飾史好きとしては、博物館に、金色堂に納められた藤原氏のミイラが着ていた麻の小袖(下着)が展示されていたことに感動。当時の衣服がそのままの形で出て来るなんて、世界中見渡してもなかなかないことだと思います。恐らくお棺の中のミイラは、狩衣など、正式な装束も着せられていると思うのですが、それは展示しないのでしょうか?

この日は毛越寺と中尊寺、そして或る方へのインタビューで終了。夜は武蔵坊というホテルに泊まり、源泉かけ流し!の大浴場に心ゆくまでつかりました。重度の肩こり症の私には至福の時です。

          *

二日目は、朝もう一度たっぷりホテルの温泉につかった後、無量光院跡、伽羅御所跡、柳之御所跡と、「跡地」系を自転車で回りました。藤原氏は来年の大河ドラマで取り上げられる平清盛と同じく、源頼朝によって滅ぼされてしまうのですが、滅亡前はこの平泉の地で、空前の繁栄を誇っていました。
その御所があった場所が今は、がらんとした平地になり、御所内にかつてあった池や、柱の跡、井戸や道の跡だけが復元されています。かすかな手がかりだけが残されていることがかえって詩情をそそるのです。
「かつてここに、平等院にも負けない優美で巨大な伽藍があったんだな…」
「ここで藤原氏が臣下を謁見していたのか…」
と空想が始まると、歴女の心はもう平安末期へ一っ飛びです。ふと見ると、遠く離れた場所でやはり静かにたたずむ妙齢の男性が一人。ああ、彼もきっと歴男なのでしょう。歴男・歴女の孤独な旅は続きます。

       *

ところで、このかつての御所跡を見て芭蕉が詠んだのが、これもまたあまりにも有名な

   夏草や 兵どもが 夢の跡

の句です。奥州藤原氏は武士でもあり、最後は頼朝の軍と戦って敗れましたから、ここで「つわもの」という言葉が使われている訳です。芭蕉が訪れた当時はもちろんまだ発掘などされておらず、ただ荒れ果てて草だけが生い茂っていたのでしょう。日本文学史上に不滅の名を刻む名句です。

その後、柳之御所資料館と平泉文化遺産センターで一しきり発掘品を鑑賞。柳之御所からは下駄が出土していて、驚かされました。今とほとんど変わらない形をしていて、服飾史好きはまた感動の坩堝に!この他に、烏帽子も出土しているそうです(本当に貴重!!!)。
また、当時の人々が食事に使った土師器(かわらけ)という食器のかけらが大量に出土しているそうで、何と柳之御所資料館では、「本物です!」とそのかけらを生で展示。自分の手に持って見て、古代の人々と同じ感触を確かめることが出来ます。大量に出土するからこその大判振る舞い。すごいです。

そして柳之御所では、まだまだ発掘が続いています↓
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これから何が出て来るのだろうと、歴史好きは新たな発見を期待せずにはいられません。今回の世界遺産認定に当たって、柳之御所は「浄土教の教えを具現化した文化遺産」という趣旨からは外れているため認定外となってしまったのですが、私個人に限って言えば、ここが一番胸をワクワクさせられた遺跡でした。柳之御所資料館に行ったときに、私があまりに熱心に一つ一つの展示物を凝視していたせいか館員の方が話しかけて下さりしばしお話をすることになったのですが、
「この遺跡本当にいいですねー!」
と言うと、
「世界遺産からは外れちゃったんですけどね…」
と淋しそうにつぶやいていらっしゃいました。でも、そんなこと関係ない!古代史ファンの皆さん、歴女・歴男の皆さん、平泉に行ったら柳之御所は外せません!ゼヒ足を運んでみてくださいね!

             *

その後、平泉駅にほど近い中尊寺通りの「食事処 民家」にて、はっとう汁を食べました。はっとうとは小麦粉で作る太いうどんのようなもので、ちょっとほうとうに似ています。このはっとうが豚汁のようなお汁に入っているのがはっとう汁です。
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今年は世界遺産に選ばれたお祝いの年だということで、金箔が浮かんだ金色のはっとう汁。美味。

          *

お腹がいっぱいになった後は、かつて源頼朝から逃れた義経がかくまわれていた「高舘」という建物があった丘に登りました。
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ここから一望する風景は、今も平安時代の面影を宿しているようでもあります↓
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平泉を回って思ったのは、どこか飛鳥に似ているなということ。自転車で重要史跡を全部回れるコンパクトなサイズ。そして、この家の下にも、あの畑の下にも、まだまだ遺構や貴重な文物がたっぷり埋まっているに違いない!と思わされるワクワク感。
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また、町中どこを曲がっても田んぼにぶち当たるゆったりとした雰囲気も本当に気に入ってしまいました。今回は仕事のための駆け足の旅行でしたが、またゆっくりと、1週間くらい逗留してみたいものだなと思います。

最後に、一句。毛越寺の思い出に。

   人びとの 夢のかけらの 萩の花
                  真矢

京都に強く憧れながらも自らのホームグラウンドである平泉、いや、東北の地を深く愛し、ここに現世の極楽浄土を出現させようとした藤原氏。その寺院も今は芭蕉が詠んだように夢の彼方に消えてしまったのですが、わずかにかつての美しい池の跡をとどめた毛越寺の庭には、まるでその栄華の忘れ形見のように、濃い紫の萩の花が咲いていたのでした…

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逃げる・逃げない論 2011/03/29



福島原発近隣住民の方々に避難勧告や屋内退避勧告が出ている今、原発に非常に近い5キロ圏内に住む方々の中に、断固として避難を拒んでいらっしゃる方がいるというニュースを報道で見た。そして、思わず涙がこぼれた。
このニュースに連動したmixi日記の中に、

「彼らは父祖の地に殉じようとしているのだ。この行動を笑う者は人間ではない」

と書かれている方がいて、私も全く同じように感じている(注*現在その日記にたどり着けなくなってしまったため、私の記憶で書いています。一部語句が違う箇所があるかと思いますがご了承ください)。そしてますます涙が流れた。
世の中には、「土地に全く執着しない」という人がいる。
私の友人の中にも、「僕はニュータウン育ちで土地への思い入れは全くない。どこででも生きて行けるし、日本という国についても強い思い入れはないから、どこか無国籍な、ニューヨークのような街で暮らすのが一番自分に合っていると思う」と公言している人もいる。
私はそういう人が心底羨ましい。自分もそんな風になれたらどんなに気が楽だろうと思う。私はもっとお涙ちょうだいな、演歌調な人間で、自分が育ったこの東京の街をひどく愛してしまっている。日本という国の欠点は重々承知しているけれど、それでもやっぱりこの国が好きで、この国がいつまでも地球の一角に栄えていてほしいと心から思う。だから今回の地震と原発事故により、日本が、そして私が育ったこの関東の地が、このような事態に陥ってしまったことにとてもとても大きな精神的打撃を受けている。

             *

一方、地震発生以来、東京から関西や九州方面、或いは海外へと避難されている方々がいる。そしてそれを「逃げる」と侮蔑し、非難を浴びせる論調をネット上にいくつも読んだ。私はそれはおかしいと思う。逃げる…とは何だろうか?逃げることはそんなにいけないことなのだろうか?と。
私は、逃げることは、生きることと同義だと思う。それは生物の最も根源的な本能の一つだ。自分の生命を脅かす巨大な恐怖を察知したとき、そこから全力で抜け出そうとあらゆる努力をすること。これは生きようとする力そのものだ。何故これを否定したり、侮蔑することが出来るのだろうか?

一方で、「逃げない」という選択肢もまた確実に存在する。
例えば現在福島原発でメルトダウンの恐怖と闘いながら必死で作業を続けている方たち。おそらくこの方たちに「絶対に現場に行け」という命令は出ていない筈だ。彼らは最終的には、個人個人の自己判断で現場に行く・行かないを決められている。熟考の末に、「逃げない」という道を選択された方々。その勇気に限りない、限りない尊敬の念を抱くのは、私たちが「逃げる」ことの重要性を本能で理解しているからだ。だからこそ「逃げない」という選択肢は限りなく輝くのだ。

             *

逃げる、逃げない
そのどちらの選択肢にも、私たちは共感することが出来る。
死んでしまったらおしまいだ。何としても、どんな手を使ってでも、絶対に生き延びるんだ、という意志。
一方で、「ただ生きているだけでは生きている意味はない」、そのような意志も存在する。自分が目指す生の充実、そこに限りなく近づけたときに初めて、人は本当に「生きた」と言えるのだ、という意志。

この二つの人生観に対して、どちらが正しいという答えは永遠にない。もちろん、優位性も、永遠に確定出来ない。どちらも正しいし、どちらも理解出来る。どちらかがどちらかに自分の正しさを・自分の優位性を押しつけることも出来ない。ただそこにその人がいる、と、しか言いようがない答え。そのような問いとそのような答えの前に、今私たち首都圏の人間は直面させられている。


             *

さて、今後私自身はどうするだろう?と考える。今後福島で最悪の事態が起こってしまったとき、或いは考えたくないことだけれど、例えば東海地震が連鎖的に起こって浜岡原発までもが制御不能というような最悪中の最悪の事態に陥ったときに、私は東京から逃げ出そうとするだろうか?と。或いは私はカナダ生まれでカナダの市民権を持っているので、日本国籍を捨てて、カナダ人になろうと思うようになるだろうか?と。分からない。全ては分からない。そのときに直面してみなければ何も分からない、と思う。

ただ、今の私は、ここから出たいとは思わない。私はこの土地で育ちこの土地から楽しい時間をもらい、それを人間の愚かさによって汚そうとしている今この事態に直面したときに、そうですか、じゃあさようならと、あっさり出て行くことがただあまりにも忍びないのだ。私が涙や笑いをこぼしたこの土地、私を眠らせ私を歩かせてくれたこの土地に対してただあまりにも申し訳ないのだ。それを笑いたい人は笑ってくれればいいと思う。笑う人はあまりにも人間というものを一面でしか理解していないというただそれだけのことだ。

写真家の蜷川実花のブログで知ったのだが、彼女の父・演出家の蜷川幸雄は、地震発生時に仕事で韓国に滞在していのだたという。ところが、
「演劇人としてちゃんとこの状況を体験しておかないなんて耐えられない」
と、わざわざ日程を早めて安全な韓国の土地から、まっしぐらに東京に帰国したそうだ。私はこの蜷川幸雄の一念に共感することが出来る。私もこれから日本語で文章を書く仕事を続けて行きたいと思っているから、この動揺の中に出来得る限り踏みとどまり、日本が立ち直るならその姿を、堕ちて行くならやはりその姿を、自分の全身でその渦中で感じて、その上で言葉を紡ぎ出して行きたいと思うのだ。それが今の私の覚悟であり、それが今日の時点での私の「答え」だ。

だからと言って私は逃げ出す人を否定したりしない。
私の周りにも何人も、子どものために、或いは自分の精神的不安が極限に達したために、東京以外の地域に避難している人々がいる。放射能汚染という前例のない恐怖を前にして、このような行動を取る人が出て来るのは生物として当然のことだ。この人たちは何よりもまず生きようとしている。その上で自分の人生を築こうとしている。それは一つの立派な見識であり、100パーセント正しいと思う。我慢する必要なんてない。逃げることはちっとも卑怯なことなんかじゃない。逃げたいと思ったら、そのときは逃げるということが一番正しい選択肢だ。心からそう思う。

そして、これからのことを思う。事態が最悪を迎えるとしても、或いは辛くも最悪の事態を免れるとしても、2011年は今この宇宙の中を一刻一刻と過ぎ去って行っている。この宇宙の中で、本当に本当にちっぽけな、本当に本当にちっぽけな私たち、と私たちが重力によってへばりつき、木や鳥や草や花や川や山が息づくこの土地を生き延びさせるために、私たちはどう生きればいいのかを、この混乱の中で必死に考え続けている。


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極度の緊張下の東京から 2011/03/17



東日本大震災発生から7日。ここ東京では毎日あまりにも非日常なことが続き、まるで長い夢の中を生きているようです。
特に福島原発の危機的状況が明らかになった4日目からは、おそらく首都圏に住む一人一人の胸の中にたとえようもないほど巨大な恐怖が生まれ、それが度重なる余震の揺れによって限りなく増幅され、自分自身の存在を溶かして、消してしまうような‥そのような感覚に襲われたのは決して私一人ではないと思います。

今、極度の緊張と、不安の下で、一日一日を生きている私たち。昨日、病院に行く用事があり、その道筋でいつも贔屓にしている呉服屋さんの前を通りかかりました。店の灯りは消え、「ああ、やはり休業中なのだな」と行き過ぎようとすると、中では番頭さんたちが品物の整理をしていたようで、「まやさん!」と電源の入っていない自動ドアを押し開けて、大声で皆さんが呼び止めて下さいました。震災以来、私は日用必需品の買い出し以外ほとんど家で息をひそめて家族とだけ過ごしていたので、以前の平和な暮らしの中で顔を合わせていた人々と話をするのはそれが初めての体験でした。懐かしい、皆さんの顔を見ていると、しみじみと、生きていることのありがたさと、そして人と人とのつながりの温かさが身にしみて来るのを感じました。
これまで、私は、それなりに大きな仕事もして海外で暮らしたこともあり、人の裏切りや人の死や、恋、成功、挫折、努力、それなりの人生体験をして来たと思っていましたが、それでも、やはり、人生の本当の姿をごく一部分でしか理解出来ていなかったのだと、今つくづく思います。

昨日、番頭さんの一人が、
「この地震で僕の人生観は変わってしまいました」
と仰っていましたが、私も全く同じように感じます。あの日、自分自身の身体に揺れを感じ、そして、東京の街を人々が黙々と列になって歩いて行くあの黒い影を自分のこの目で目撃し、幾度も幾度も余震におびやかされ、テレビを点ければ全てのチャンネルから映し出される信じられない映像に胸がつぶれ、どこにも心の行き場がない!と思う。そうするうちにも商店の店先からパンが消え、牛乳が消え、米が消え、ちり紙が消え‥いつものスーパーに入るのに入場制限をかけられ、中に入ることすら出来ない!
いつもにぎやかな吉祥寺の街を人々は思い詰めたような顔つきで食料品を満載にした袋を抱えて速足ですれ違い、店々はどこも半分ほどの灯りで営業しているのでまるで休業しているように見える…やがて私の住む町では輪番停電が開始され、毎日、毎日、明日の停電時間は何時なのか、その情報を入手することが生活の最重要事項になる‥そんな、ほんの1週間前まで誰も想像すら出来なかった生活の中で、余震の振動に震えながら更に信じられない現実、吹き飛ぶ原発の屋根、むき出しになった鉄骨、空に上がる白い煙を、私たちはテレビの四角い箱の中に見つめたのでした。

        *

三島由紀夫の『仮面の告白』の中に、私が偏愛し、幾度も幾度も繰り返し読んで来た一節があります。

「ようやく起き上がれるようになったころ、広島全滅のニュースを私は聞いた。
最後の機会だった。この次は東京だと人々が噂していた。私は白いシャツに白い半ズボンで街を歩き廻った。やけっぱちの果てまで来て、人々は明るい顔で歩いていた。一刻一刻が何事もない。ふくらましたゴム風船に今破れるか今破れるかとと圧力を加えてゆくときのような明るいときめきが至るところにあった。そでれでいて一刻一刻が何事もない。あんな日々が十日以上続いたら、気が違う他はないほどだった。」

これは、1945年、太平洋戦争敗戦の直前の東京の街を描写した一文です。そのときの東京はアメリカ軍の度重なる攻撃によって街は瓦礫の山と化し、更に、広島からは新型爆弾、そう、原爆の噂が届いていました。個人が想像し、自分の力で支え切れる限界を越えた恐怖と不安、緊張の中を、一瞬一瞬、まるで僥倖のように、まだ自分は生きている!と思いながら生きる――
私の夢は――もしもこのまままだ生き延びることが出来たとしたらそのときの夢は――昭和の戦争と現在の日本を接続させる本を書くことですが、そのために、これまで数えきれないほどの資料を読んで来て、それでも、どのように想像力を働かせても、決してたどり着けない地点があると感じていました。それは、当時の人々が日々感じていた恐怖と緊張、そしてその中に生まれるあきらめや笑いの感覚、それを本当に自分のものとして感じとることでした。
今、この東京にいて、私は、当時の日本人がありありと感じていただろうものと同じ恐怖を感じることが出来るようになったと思います。それは、体験してみない限り決して理解出来ない性質のものでした。今この時以降、「日本人」と一つの言葉では言ってみたとしても、この恐怖感と非日常感を今、日本にいて実際に感じた人間とそうでない人間とでは、もう同じ日本人とは言えないくらいに巨大な体験の差が日々生まれているのだと感じます。
また、今現在関東にいて体でこの恐怖を体験している人間と関西以南の人との間では、やはりその切迫感には大きな違いがあり、その差はもう決して埋めることは出来ない。どのように説明しても、中にいて感じるこの恐怖を共有することは出来ないと思います。
そして、同じように、東京にいて、まだ少なくとも無傷でいられる私たちも、被災地の方々の恐怖と絶望を、原発と今現在まさに戦っている方々と恐怖と勇気を、決して理解することは出来ない。その絶望感に、時々、呆然としていることがあります。

          *

今、毎日は、朝起きて、「ああ、まだ生きている」と思うことから始まります。正真正銘の夜型人間で、取材で早い時間のアポイントがあるとき以外はいつも昼頃に起き出していた私も、今は朝早くから行動を開始しています。何故なら、午前中に行動しないと、ほしい食料品を手に入れることが出来ないからです。
それから朝起きて一番にすることは、携帯のニュースで原発の現在の様子を知ること。そしてテレビのニュースを点けて更に最新のニュースを確認し、同時に、地域のケーブルテレビで今日の輪番時間が昨日の夜の時点での発表と変わっていないかを確認します。それから、一日の行動が決まる――これが今の私の毎日です。
震災前はゆっくりと、時間をかけて新聞を読みながら朝食を取ることが私の日課でしたが、今は手早く済ませ、吉祥寺に買い出しに回ります。昨日手に入れられなかった食パンを今日は意外な店で買うことが出来たり、昨日まではたくさんあった卵が棚に一つもなくなっていたり(ああ、買っておけばよかった‥)。毎日の食料品の購入は偶然と小さな運、不運に満ちています。
そして、手に入れられなくて困るのは食料品ばかりではなく、トイレットペーパー、電池、そして生理ナプキン‥父、母、私、それぞれがばらばらの場所に出掛けて行って12時頃に帰宅し、今日の成果を報告し合う、そんな毎日が震災以来続いているのでした。

           *

昼からは、食器や花瓶などのガラス器や倒れやすい家具を移動する作業をしたり、家族と安否確認の方法を決めたり、少し仕事をしたり。
でも、絶えずテレビやネットから情報収集をせずにはいられず、実際には仕事はなかなかはかどりません。特に最初の3日間ほどは、仕事はほとんど手に着かない状態で、じゃあ本を読もうと思っても内容が頭に入って来ない。今思い出そうとしても何をしていたのか、はっきり思い出せないような毎日でした。
また、現在のこの東京の様子を何とか外の人たちへ発信しようと思い、ブログを書こうとするのに、どうしても言葉が出て来ない。子どもの頃から文章を書くことが好きで好きでたまらない私ですらそうなのです。そうやって今日まで、ひたすら日々が流れて来ました。

       *

一昨日、15日は、私の写真展の初日で、夕方からのオープンに備え、作品の搬入をしなければなりませんでした。
本当はもっと前から計画的に会場である映画館に搬入出来ている筈だったのに、地震でなかなか作業が手に着かず、前日の14日までに会場に送れていた額は、6枚。あと3枚――しかもその3枚は前日までの6枚よりもさらに大きなサイズだったのですが――それらを何とか当日会場に持ち込まなければいけませんでした。
しかし、15日当日の天気予報は午後から雨。額は非常に大きく重く、両手に分けて持たない限り運ぶことが出来ません。それはつまり、雨が降っても傘を差せないことを意味します。いつ原発が爆発して死の灰が降って来るかも分からない状況の中で、傘を差すことが出来ない。タクシーをつかまえれば良いとは言え、そのような状況下で確実にタクシーをつかまえることが出来るという保証もありません。会場である映画館は原宿駅からやや歩く距離にあり、しかもそもそも、額に入れるために特注したマットと呼ばれる台紙を、まずは新宿の画材店まで引き取りに行かなければならない状況でした。
何とか雨が降る前に搬入を終えなければ!‥と、朝食もそここに家を飛び出して新宿へ向かい、マットを引き取って、「ああ、まだ雨が降っていない!」 そこからタクシーで原宿の映画館まで向かいました。
映画館では、スタッフがまだ出勤していない時刻なのでその入り口前の石畳に座って、マットを写真を張り付け、額にセットする作業をしたのでした。

そうやって向かった原宿までの道のり、途中の電車の中ではピンヒールにミニスカートの女性を見かけたり、英語のテキストを真剣に読みふけっている男性がいたり。新宿の画材店には、こんなときに画材店に来るのは私くらいのものだろうと思っていたのに、このさ中、マットを発注に来ている人の姿が他にもちらほらありました。タクシーの窓からは新宿御苑を散歩している老夫婦の姿が見え、無事映画館の前に額を置いて立ち去った後、帰りは千駄ヶ谷駅まで歩いたその道沿いの幾つものカフェではきれいにお化粧をして集まっている女性のグループを見かけたりもしました。いつ核の灰が降って来るか分からない、いつ余震に巻き込まれるか分からない状況の中で、そのときはそのときでもう仕方がない、と、日常を続ける人たちがいて、おそらく、大きな額を抱えて街を歩いている私もその一人に見えていたのかも知れません。まさに戦争中の日本人が生きた「やけっぱちの果てまで来て、人々は明るい顔で歩いていた」という世界の中を、いつの間にか私は生きていたのでした。

          *

幸いなことに、その日、まだ福島原発は持ちこたえ、富士山を震源としたその夜の大きな地震も東京の街を壊滅させるほどの規模は持ちませんでした。おそらく、あの富士山からの地震に身をさらしたとき、そしてそれが富士山を震源とすると知った瞬間が、震災以来、東京に住む人々の恐怖が最も増幅された瞬間だったのではないかと思います。
そして、「ああ、まだ生きている」と、今日は生きながらえたその恐怖がまたいつ再び私たちの上に舞い戻って来るのかも分からない、その現実の中を今まだ私たちはかろうじて生きているのでした。

         *

このような極度の緊張が続く毎日の中で、私の感情はひどく麻痺し、父や母と食事に向かいながらも、じっと押し黙ってしまうこともよくありました。かわいがっている猫を膝に乗せ、一心にその柔らかい毛を撫でていても心はどこか別の所にあるような――
それでも、昨日、子宮がん検診のために婦人科へ行かなければならず、婦人科では避けて通れない、あの、とてつもなく苦しい診療――股を開き、そこに棒を突っ込まれるというとてつもない苦行の時間を引き受けながら、更に、「ああ、今この瞬間に地震が来たらどうしよう」という絶望的な恐怖を味わって乗り越えたとき、自分の中で何かが大きく動いているのを感じました。
そう、そのとき、ぎゃはは、とこの最低最悪の状況を笑っているもう一人の私が私の中のどこかにいるのを感じたのです。ねえねえ、あなた何やってるの?こんなさ、今にも原発が爆発して巨大な余震がぐらっと来るかも知れないってときにさ、股を広げてその間に棒を突っ込まれちゃってるなんて。「もー先生しっかり頼みますよ!ぐらっと来ても絶対逃げないで下さいね!先生だけが頼りなんですから!」と、どこかで冗談を言っている自分がいるのでした。

その後、病院を出て、吉祥寺の街を歩いていると、ただ恐怖と死の覚悟だけに包まれていた頭の中が晴れ、力がみなぎって来るのを感じました。
おそらく、自分の極限なまでに無力な状態を身体を使ってしっかりと体感したことで、ただ、頭の中でだけ増幅されていた恐怖を、どこかで客観視出来るようになったのだと思います。それとも、「やけっぱちの果てまで来て、人々は明るい顔で歩いていた」、それを、ただより強いレベルで私は生きているだけなのでしょうか。今の私にはそれを判断することは出来ませんが、ただ、少しだけ気力を回復して私は街を歩き続けたのでした。

           *

そして、昨夜、家に帰ると私の目からは涙が流れるようになりました。昨日まで、嘆息し、恐怖だけを見つめ、ただじっと押し黙っていた感情が外に動き出し、初めて涙という形で流れ出すようになっていたのです。
世界中の人々が日本に同情し、支援の手を差し伸べてくれているという暖かいニュース。それに触れたとき、初めて涙が流れました。けれど、それは、裏返せば自分の祖国・日本が、これほどまでに手ひどいダメージを負い、世界中の憐れみを買う存在になってしまったということ。これほどまでに傷ついた日本――その現実が、あまりにも悲しくて、涙が後から後から流れて来て止まらないのでした。昨日の夜、私は、目が大きく腫れあがるまで泣いて、そしてようやく眠りに就きました。

‥‥これが、昨日までの私の心の動きです。今日から、明日から、それがどう動きどう変わって行くのか、自分でも全く想像がつきません。
それでも、この緊張下の中で人々は何とかいつも通りの生活を続けようと努力し、私も、来週早々には次の仕事の打ち合わせを編集者と行おうと考えています。今週末には月に一度のお茶の稽古があり、集まれる人だけで行おうという話も出ています。両方とも、もしものときにも歩いて1時間以内には帰宅出来る場所であり、社会に負担をかける恐れのない範囲で、笑い、お互いの体験を話し合い、言葉を掛け合う時間を、それぞれの人が持ち始めていることを多くのブログなどから確認しています。

今、このような極限状況の中で、ただ、ひたすら願うのは、いつか、日常を取り戻したいということ。けれどその日常は、震災前に持っていた日常の感覚とは、恐らく全く違ったものになるのだろうと思います。そのときをまだ想像することも出来ないまま、一日一日が私たちの上を流れて行きます。

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「梅雨が怖い + ジャ・ジャンクー監督インタビュー翻訳」 2010/07/07



目が覚めると、雨が降っていた。雨はもう三日も東京の街に降り続き、京子は起き上がると窓に頬を近づけて、昨日と変わらない分厚い灰色の雲を眺めた‥
‥といった風に、凡庸に始まる小説が好きだ。小説の始まり方は凡庸であればあるほど良いと思っている私だけれど、梅雨のことは年々激しく憎むようになっている。小説家が読者の予想に反して物語を突然終わらせることがあるように、何とか今年の梅雨を早めに終わらせることは出来ないのだろうか?

‥と言った文学風の前置きは良いとして(何のためにこんなことをやっているのか自分でも分からない)、よく、母に、冗談で「あなたってロボットなんじゃない?」と言われる。30度を越える真夏の日にもめったに冷房を使わず、扇風機だけで暮らしているからだ。
「暑ければ、手と足と首にちょっとだけ水を掛ければ、すぐ涼しくなるよ」などと言って、「江戸時代の人みたい」とも笑われている。夜眠るときもこの数年、冷房を使ったことがない。
では、だからと言って寒がりかと言うと、実はそういう訳でもない。
北京に留学していたときなどすぐにあの町の厳寒の冬に慣れてしまい、ミニスカートで街を歩き回っていた。「こんなに薄着の日本人を初めて見た!」と何人もの中国人に目を丸くされたほどだ。暑さにも寒さにも強い、鋼鉄のロボットのような私なのだ。
‥けれど、湿気には‥湿気にはめっぽう弱い。それから「季節の変わり目」という、毎日の天気が安定しない時期にも、真夏や真冬とは別人のようにしょんぼりしてしまう。今日は晴れ。でも明日は大雨。そういう短いスパンで気圧がくるくる動く変化の季節に、体がついていかないのだ。

‥そんな訳で、毎年、3月・7月・10月は危険な季節だ。私の場合体調不良になると、肩の辺りの血が回らなくなってしまう。それはつまり頭に血が行かなくなるということだから、頭痛と倦怠感が延々と続くことになる。過去には何回か、激しいめまいに見舞われて救急に運ばれたことさえある。その度に脳のCTスキャンを撮るけれど、いつも異常はない。要するに、肩と首辺りの血行不良なのだ。
‥そんな私だけれど、今年はちょっと様子が違っている。相変わらずぼんやりと頭痛が続いているものの、更に新たな症状まで加わってしまったのだ。何かと言うと、(ご飯を食べている人がいたらごめんなさい)それは、「手足のぽつぽつ」という悩ましい症状だ。
「じんましん」と呼べるほど、大きな発疹でもない。本当に小さなぽつぽつとしたふくらみが、最初は腕から、やがて足へ、どんどんどんどんと広がってしまった。一か所が治まって来たかと思うとまた違う場所に現れ、そこが治まって来たかと思うとまた最初の場所にぽつぽつが戻る‥そんな状態が、もう2週間近く続いている。
なるべく化学物質の薬を飲みたくない私だけれど、たまらずに皮膚科へ駈け込んでみた(何しろぽつぽつは見た目が非常に気持ち悪いので)。ところがお医者様は、「こういうのはね、原因は医者にも分からないんですよ」と言う。「梅雨の時期には時々、同じような症状の方がいらっしゃいますよ。皆さんどうしても体調を崩されてしまうのでね」‥と、どうやら私もその典型のようで、だましだましつき合って行くしか方法はないらしいのだ。

‥そんな訳で、発疹が一番広範囲に広がっていた3日間だけ飲み薬を服用したものの、後は塗り薬を頂いて、まさにだましだまし過ごしている。飲み薬が強過ぎて、その3日間は1日中頭がかすみ、ぐったりと廃人状態。仕事の原稿も大幅に遅れてしまったため、もう金輪際、薬は飲まないと決めた。塗り薬を塗れば1日程度でぷつぷつは消えてくれるから、何とか梅雨の終わりまで、出て来た発疹をもぐら叩きのようにつぶして、やり過ごしていこうと思う。それも目立つ所だけにして、服で見えない部分にはなるべく塗りたくはない。
だって、体のバランスが崩れているから、毒素を出そうとして皮膚の表面にぶつぶつが出来るのだ。それをむりやり人工の化学物質で押さえつけるのは、決して良いことではないと思う。あくまで見た人に不快感を与えないように‥そのためだけに薬を使いたい。

それにしても、本当に梅雨はつらい。あと一体何日、今年の梅雨は続くのだろうか?何とか体のバランスを少しでも整えようと、発疹が出始めて以来野菜を多めに食べるようにしているけれど、付け焼き場過ぎて今年の梅雨にはまだ効果は出ないだろう。
それでもこの体調不良に、何か新しい対策を立てずにはいられない。ちょうどいいことに、イタリア人と結婚して、14年間ミラノに住んでいた私の一番の幼馴染・Tちゃんが、この春から夫と双子の子どもともども日本移住を決意。うちの一軒隣りにある彼女の実家に引き移って来たので、時間を合わせて夜に二人でジョギングをすることにした。これもすぐには効果が出ないだろうけれど、来年の梅雨、或いは、今年の夏から秋への変わり目の時期に、助けになることを期待したい。
西洋医学は、「何何病」と、病名がハッキリしているものにはそれなりに効果があるけれど、謎の頭痛や謎の発疹、身体のバランスから来る問題にはほとんど無力と言っても良いのではないだろうか。地道に体を整えて、「気圧」という、地球規模の大きな敵と戦うしかないのだ。それにしても今日も頭が痛い‥

         *

‥と言いながら、ついつい、一番手頃なネットばかり見て時間を過ごしてしまう毎日なのだが、そんな中で、面白いインタビューにも出会うことになった。今、世界で最もホットな映画監督の一人、中国のジャ・ジャンクー(賈樟柯)監督の最新作にまつわるインタビュー記事を見つけたのだ。

ちょうど頭が痛くて真面目な仕事原稿を書くのが難しかったので、ついつい手ずさみに訳してみてしまった。mixi内の「ジャ・ジャンクー監督コミュニティ」に掲載してみたところ、なかなか反応も良かったので、ここにも掲載しておこうと思う。
まず、元のインタビュー記事はこちら↓
http://ent.cn.yahoo.com/10-07-/352/2ag8l.html
それから、新作『海上伝奇』の予告編youtubeはここに↓
http://www.youtube.com/watch?v=ujGaocNjJQY
          *

(以下、インタビュー記事の抄訳。ところどころ()付きで私のつぶやきも挿入しています)

ジャ・ジャンクー監督の最新作『海上伝奇』は、上海の100年をつづるドキュメンタリー映画。
八十人以上に及ぶ上海現代史に関わる人物に取材を行い、
そのうち十八人が今回の作品に登場します。
その中には、蒋介石の最後の警護隊長を務めた人物、
初期の共産党運動に関わり、国民党側の特務組織・軍統から暗殺された人物の娘、
オールド上海の闇社会の支配者・杜月笙の娘が語る一家のその後、
そして、現在の中国言論を代表する若手作家・韓寒などが含まれているとのこと。
(杜月笙の娘が出て来るとは何ともすごいですね!)

特に韓寒は、監督にとって、今の上海の思潮・気分を代表する人物。
「理性的で、現実的でありながら、だからといって理想を失っている訳でもない。
彼こそ現在の上海を代表する人物であり、未来の上海を代表する人物でもある」とのことです。

また、取材した八十人が語った上海にまつわるエピソードはどれも非常に深い内容を持っているので、
昨年末にはテレビ用に別のドキュメンタリー番組を一本作り、
今後は取材内容を基にして、本も書く予定とのこと。
「こうすれば、この豊かな素材を無駄にしないで済むからね」
とジャ監督は言っています。

この作品の制作費の3分の2は、
海外に上映権を売ることにより既に回収出来ているので、
中国国内での興行収入は気にしないでも良いとのこと。
このところ、ジャ監督を含む第六世代の監督に対して、
「自己満足的だ」といった批判が出ていることについては、
この10年間の中国映画は「いくら稼いだ」ということばかりが話題になるが、
「中国映画の面目を保った」ということになれば、
第六世代がいなかったら一体どうなっていただろう? 」と反論しています。
(確かにその通り!)
「僕は僕ら第六世代の活動に誇りを持っているし、
人々は僕らがどんなにか苦境に立っているだろうといらぬ想像をしているようだけど、
みんなとても楽しく暮らしているよ!」とのこと。

今後、9月からは初の商業映画となる『大清朝』の撮影を開始。
その後は、何と!!!マギー・チャンと共に『双雄会』を撮るそうです。

続々と上映されるだろうジャ監督の新作を楽しみに待ちたいですね。

          *

youtubeの予告編を見ると、色はジャ監督独特の彩度を下げたシアン系(青)系・ブルー(紫)系の色。内容は、上海現代史好きにはたまらない、複雑な重層的なドキュメンタリーとなっているようで、一刻も早く観たくてたまらなくなる。一体いつ日本で公開されるのだろうか?
しかもよくよく見てみると、登場人物の中に『欲望の翼』でレスリーの義母役を演じた強烈な存在感の女優・潘迪華(レベッカ・パン)もいるではないか!この人選、何とも唸らされる。
世界のアート映画のトップを走るジャ監督が、世界の新たな中心地、上海を撮ったドキュメンタリー映画。早く観たくて、焦急等待!=居ても立ってもいられなくなってしまう!

「凝り性の女」 2010/06/04



たぶん、私は、ものすごく凝り性だと思う。
肩こりがひどくて過去に何度か頭に血が回らなくなって倒れたことがあるけれど、それと同じくらい、物事に一旦はまるととことん止まらなくなる方の凝り性も、かなり重症だとやっと自覚するようになった。
一般的に、凝り性な人は得てして飽きっぽくもあるものだけれど、私の場合は非常に粘着質で、ずっとずっと、一旦はまったものを追いかけ続ける。だから毎日やることがいっぱいあり過ぎて目まぐるしく、きっとこうやってバタバタしているうちに死んで行くのだろうとも思う。もうこれ以上のめり込む対象を増やしたくはないのだけれど、そういうものは恋と同じように、ある日突然どこから飛んで来て私たちの心をとらえるのだ。逃げようがない。私たちは否応なしにそれに取り込まれてしまう。

          *

思えば、この凝り性の兆候は、小学生の頃からあった。
小学校の3年か4年の頃、突如私は日本古代史に目覚めて、毎日毎日卑弥呼だの邪馬台国だの古墳だの埴輪だの大化の改新だの縄文土器だのに明け暮れ、宿題が出ていた訳でもないのに、勝手に「古代新聞」や長い長い絵巻物のような古代年表を作り、先生に教室の壁に貼り出してもらっていた。勉強嫌いの同級生から見たら、かなりうざったい同級生だっただろう。
やがて6年生になる頃には、子ども用の歴史書は全て読破してしまい、物足りなくなって来て図書館の大人室(と呼んでいた)に出入りするようになった。司書の人に驚かれながら、梅原猛先生の『隠された十字架』などを読みふける小学6年生。豆古代史マニアだった。
 
          *

この頃の私の古代史熱中ぶりには、その後の人生全ての熱中のプロトタイプがあるように思う。
つまり、私の場合、たとえばリカちゃん人形や何かのキャラクターのように、ただ「小さくてかわいい」とか、アイドルスターのようにただ「憧れの存在」とか、自分でお料理を作ると「美味しくて楽しい」とか、楽器を弾いたりスポーツをしたりして「体を使って何かを楽しむ」とか、そういうことはそれなりにたしなむものの、大して熱中は出来ないのだ。私の場合、そこに何か歴史とか思想とか壮大で重厚なストーリーがどこまでもこまでもつながっている、そういうものに心をつかまれる傾向があるようだ。
それも、私の場合、漫画や歌謡曲、テレビドラマ、アイドル、B級おもちゃ、アングラ演劇‥そういうサブカル的なものでは――私に限っては――“降りて”来ない。私が心をつかまれるのはいつも、正統的で、伝統的で、オーソドックスで、学問的な何か。そういうものが10年に1度くらいのタームで、運命的な恋のように私にとり憑いてしまう。そういう人生をどうやら私は生きているらしいのだ。

          *

小学校後半の古代史熱は、そんな私の面倒くさい人生傾向の“序曲”として幼い私を訪れ、中学に入るとスッと冷めてしまった。その頃、人並みに思春期を迎えた私は社交活動に忙しく、たぶん一旦気が散ってしまったのだと思う。
本格的に“狂信的な熱中”が私をとらえるのは、高校1年のときだ。その年、倫理社会の授業で私は青柳先生という先生の講義を受けた。先生は高校生だからと見くびることなく、私たちに正統的な西洋哲学の講義を堂々と開陳して下さった。先生こそは私が恩師と呼べる方だと思っているが、そこで私は初めて本格的な西洋哲学の魅力に触れ、「哲学的に考えること」、要するに「哲学をする」ということの面白さに、熱狂的にとり憑かれてしまったのだった。
時はバブル経済の真っただ中。私は今思い出しても吐き気がするような浅薄な同級生が大半を占める軟弱私立高校の中で(彼らにはせっかくの青柳先生の講義も、1ミリもその価値が伝わらなかったに違いない)、一人、「哲学科に進学しよう」と決意を固めていた。私の高校は大学までの一貫教育だったので、よっぽどひどい成績を取らなければそのまま上に進学出来たけれど、哲学科はない。
「外の大学に出て、西洋哲学を基礎からしっかり学ぶんだ」
と、高校2年の終りから突如受験の猛勉強を始めることになった。大学も、哲学科のある所しか受けない、と心に誓う。学科で受験出来る大学は全て哲学科で受験した。そして1年後、念願の哲学科生になり、ソクラテスから始まって延々現代へと続く、哲学の道の一巡礼者になったのだ。――これが私の最初の凝り性だった。

私の場合、何かに凝り始めると、それは趣味というおとなしい領域にとどまってはくれず、生活の、いや、人生の全てに影響し始める。まだバブル真っ盛りだった当時ですら、「哲学科なんかに進学して、就職が大変よ」としたり顔で忠告してくれる人がいたけれど、そんなことは意に介さなかった。これは熱病であり恋であり、後先など考えていられない。ヨシオさんのことが好きだけど、彼、お金がないから、将来のことを考えるととっても不安。結婚はヒロシさんとするわ‥なんてことは私には出来ない。一切の打算なく、つぎ込める愛の全てつぎ込む。それが私の凝り性であり、正に純愛そのものと言っていいと思う。

そして、その哲学という凝り性は、二十六歳のときに突如終焉を迎えた。それは、この年に、「哲学が分かった」と思ったからだ。特に最後の1年は、美容ジャーナリストの斉藤薫さんの事務所でアシスタントのアルバイトをしながら、定時に家に帰るとひたすら家にこもり、ヴィトゲンシュタインの本を一字一字、血のにじむような思いで読み込んでいた。彼の『哲学探究』という分厚い著作を、「分かるまで次の行に進んではいけない」というルールを決めて、徹底的に読み込んでいたのだ。イギリスから英語版も取り寄せて詳細に文章を比較し、分からないときは日本語と英語、両方でひたすらヴィトゲンシュタインの言葉を写経した。休みの日もどこへも出かけなかった。心配した母親から、「少しは遊びに行ったら?」と言われたほどの集中状態。そして1年ほど経ったとき、「哲学が分かった」と思ったのだった。

その頃のノートと『哲学探究』
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          *

その解脱体験の後、少ししてから次の熱中が訪れた。
それは哲学のときと同じように、或る日突然空から私の心臓めがけて降って来た恋だった。いや、正確に言うと空からではなく、それは映画館のスクリーンの上から降って来た。その情熱の名前を“中国”と言う。
このことについては前にmixi日記で書いたことがあるので詳しくは書かないけれど、或る日観た王家衛(ワン・カーウァイ)の映画が、私の心に決定的な刻印を残した。その日、家に帰ってからも映画の中の音楽が耳を離れず、目の上にスクリーンが張りついてしまったように、登場人物たちが私の前で体をくねらせていた。私は、
「決めた。明日から、毎日中国映画を1本ずつ観る」
と誓った。私の恋愛はいつも処女的であり心中的であるから、心に決めたことは必ず実行する。その日から、私は本当に、1年間、1日1本ずつ、中国・台湾・香港映画を見続けた(1日に1本以上の映画を観ると印象が混乱するので、必ず1日に1本と決めている)。そして、このような素晴らしい映画を産み出せる中国という文化は、一体どこから生まれ、今どういう状態にあり、これからどこへ行くのか?と、突如として足繁く図書館の中国史コーナーに通うようになった。
もちろん、中国映画、特にその頃隆盛を誇っていた香港映画への傾倒もどんどん深みへとはまってゆき、あらゆる香港映画特集の雑誌を買いまくってレオン・カーファイだのトニー・レオンだのレオン・ライだのといった紛らわしい名前を漢字表記と併せてまるで受験勉強のように次々と頭に叩き込み(あまりにも楽しい受験勉強!)、中華映画友の会的なクラブにも入会して嬉々としてイベントに参加した。そして、或る日、図書館の中国本も読みつくし「もう読むものが何もないなあ」と思うようになった頃、何かの啓示のように、
「私、中国に留学する」
と決めたのだった。一言も中国語が喋れなかったのにも関わらず‥。
それからは語学学校に通って中国語を猛勉強。お金も最小限を除いてひたすら留学費用のために貯金して、北京の映画学校・北京電影学院へ留学した。それから今日まで、1日たりとも中国への愛が薄れたことはない。

          *

その次に私を訪れたのは、“写真”という情熱だった。
それは、これまでとは違い、ゆっくりと、スローモーションの速度で、気がつくとまるでからめら取られたようにはまり込んでしまっていた情熱だった。私は1ミリたりとも「写真家になろう」という夢など持ったことはなかったのに、たまたま家にある父の古いカメラを手にして撮影し、思うような写真にならなかったことが悔しくて何度も挑戦しているうちに、どんどんどんどん深みにはまってしまったのだ。
恋愛だって、色々なパターンがある。最初からどきゅんと一目ぼれして恋に落ちる場合もあれば、最初は「気に食わないヤツ」と嫌い合っていたのに、後から大恋愛に発展するケースもある。写真との出会いは私にとって、正にそういう恋愛だった。

当時私は広告代理店に勤めていて、そのビルが銀座に近かったから、打ち合わせも銀座近辺で行うことが多かった。銀座と言えば中古カメラ店のメッカ。打ち合わせの後、「あと10分だけ、あと5分だけ‥」と、腕時計を気にしながらカメラ屋さんのショウウインドウにぴたりとおでこをつけて、レンズを物色するのが本当に楽しみだった。
上司の中に一人だけカメラ好きのおじさんがいて、一緒に打ち合わせに行くと、二人でカメラ屋の前に立ち止まって、じーっとショウウインドウを眺めていた。何しろ上司公認だから時間を気にしなくていい。「わー、28mmAiのF2が5万かあ、安いですね!」「そうだな。ちょっと外観へこんでるから安いんだろ」「ほんとだ」などと話し合い、「何か男の後輩と話してるみたいだなあ」と笑われたこともある。広告代理店時代の心温まるエピソードの一つだ。
そしてほんの趣味で始めたつもりの写真だったのに、凝り性はどんどんエスカレートして湯水のようにお金をレンズにつぎ込み(或る描写がほしいと思ったら、或るレンズの力を借りなければならないことがある!)、やがて写真屋さんにやってもらうプリントでは色や濃度の納得がいかず、ついには自分で暗室に通うようになり‥そして今では自分の家に暗室を作り上げてしまった‥
その頃、本当に激務だった仕事の合間を縫って、いつも写真のことを考えていたような気がする。あのレンズがほしい、あの印画紙でプリントしたらどんな彩度になるのだろう?どうしてあのときあの絞りではダメだったんだろう?引き延ばし機のレンズを、今度はあのメーカーに変えたらどういう描写になるんだろう?‥‥

          *

そして今、写真への情熱は深く静かに脈々と保ちながら、また新たな情熱が私の中に生まれて来ている。
一つは、2年前、2008年の2月に私の心臓めがけて飛び込んで来た情熱だ。それは、「日中戦争、太平洋戦争とは何だったのか?」という情熱。これは、いつの日か必ず、文章作品という形でこの世に投げかけようと心に誓っている。
あまり日記には頻繁には書いていないけれど、その2008年2月以来、私はずっと、常に古本屋を回り、様々なシンポジウムに参加して、研究書から民間の方の体験記まで幅広く目を通してこつこつと勉強を続けている。今後は中国にも数カ月間滞在して、向こうでしか集められない資料を集めていく予定だ。しつこい性格なので、絶対にあきらめないし、途中で投げ出したりもしない。必ず作品にしようと心に誓っている。そう言えば今日も午後から、朝日新聞主宰のシンポジウム「検証 昭和報道」へ行くのだ。この情熱はたぶん私の今後の人生を、死ぬまで激しく振り回し続けるだろう。

          *

そして、もう一つ、本当にごく最近私にとり憑いた情熱は、“着物”という名の情熱だ。これは言ってみれば幼馴染みとの恋愛のようなもので、曽祖母の代からの着物狂いのDNAが、“着物”を私の許嫁と定めていたのかも知れない。それを私が知らなかっただけなのかも知れない、と思う。
今年の冬の終わりから、お茶の稽古のために着物を着ることになったとたん、今はとり憑かれたように毎日暇さえあれば着物のことを考えている。中国映画にはまり始めたときも、カメラにはまり始めたときも、はまり始めるといつも私はカメラのカタログやら「香港映画ガイドブック」やらを日がな一日眺めて頁をめくり続けていたものだけれど、今、正にその状態にある。ウェブ上の膨大な着物ブログや着物屋のサイトを次々とクリックして着物コーディネイトを吸収し、図書館や本屋で続々と着物関係の本を見つけて来ては、仕事や食事の合間に読みふけっている。
「もう、また着物の話?」
と母からは嫌がられているけれど、着物のことばかり考えてしまうから仕方がない。今、生きている時間の軽く3分の1は、着物のことを考えていると思う。(夢でまで呉服屋さんで着物を買っていたり‥)

まずは家にある着物を全部把握しようと、曽祖母の代からの膨大な着物・帯・羽織コレクションを1枚1枚写真に撮影し、図録めいたものを作り始めてもいる。あまりにも量が多いため、そうしないと「これに合う黄色っぽい帯があったはずだけど、どこにしまってあるんだっけ‥?」と分からなくなってしまうからだ。
また、足袋や襦袢、半衿、草履などの小物は傷んでいるものも多いから、新しく買い替えが必要だ。それを一々「どこで買おうか」「何色にしようか」などと考えて、実際に買いに行くまでの過程がたまらなく楽しい。
もちろん、ライター仕事で取材に行くときは、必ず前日にその町の呉服屋さんをインターネットで検索しておき、取材の後に訪れてみる。昨日は高円寺に取材に行って、南口近くの和装小物屋さんでレースの足袋、しかも21.5cm!を発見。涙して購入した。足が小さい私は、着物のときも苦労の連続なのだ。
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最近は、今まで目に留まらなかったmixi上のお着物コミュニティにも続々と参加するようになった。たくさんの方々が自分の着物コーディネートをアップしているので、とても参考になる。
ついこの間など、「実家の蔵から出て来たおばあちゃんの着物、サイズが小さいのでお安くお分けします」という素敵な会があったので、もちろん参加して粋な着物をゲットした。気をつけて見ていると、こういった着物好き同士の集まりや、着物屋さん主宰の特別イベントは東京のあちこちでかなり頻繁に開かれているようだ。少しずつ、着物ブームが訪れている予感がする。

          *

考えてみれば、この“着物”という最新の情熱は、やはり今までの私の凝り性のプロトタイプを全く離れていないと思う。何故ならば、着物は衣服という日常生活に密着しているものでありながら、その上には日本の長い長い文化史の全てが集約されているからだ。文様や色の組み合わせなど、勉強することが山ほどあり、伝統的で、正統的。まさに私がはまりやすい対象そのものなのだ。
しかも着物は、きれい!さわれる!着ることが出来る!気分がウキウキする!女子的要素を満載しつつも、勉強&歴史好きの好奇心も満たしてくれる。何て素晴らしいのだろう!新しく始まった着物というこの情熱も、長く長く私の人生を支配する…という予感がしてならない。

こうして生活のあちこちにのめり込む対象を持ちながら、私の人生はあたふたと前に進んでいく。願わくばただでさえ忙しいこの毎日の中で、これ以上新しい“恋”に出会わないことを。着物という情熱を、人生最後の恋にしようと思うのだ。(たぶん‥)

「連休雑感と習うより慣れろ」 2010/05/14



ゴールデンウィークも終り、日常生活が戻って来た感があるこの頃。
私のゴールデンウィークは、結構仕事をして過ごしていた。ライター仕事の取材があったり(夜勤明けの看護師さんに‥)、暗室作業をしたり、急ぎの原稿を書いたり。そしてその合い間には色々考え事。ふう。
もちろんちょこちょこ遊びにも出かけていた。お食事会や、まったりメロウグルーヴィングなDJを聞きながらの夕飯会や、3日のExTのイベントでは、物販のお手伝いもしたり(こういうの大好き!音源買ってくれる二十代の若い音楽ファンとお喋りしたりして、楽しかった~)。
そして、このExTイベントでは、物販担当の時間以外にいくつかのライブを聴くことが出来て、とても感動させられるものがあった。
と言うのも、思い返せば6、7年前、まだ私が会社勤めをしつつ週2ペースでクラブに通い写真を撮っていた頃は、私の撮影対象はDJばかりで、ライブをやる人はほとんどいなかったからだ。もちろん皆その頃から家で音源を作っていたとは思うのだけど、人前で発表する段階には至っていなかったのだ。
それが、今では、次から次へと昔からの知った顔がステージに上がり、最高度に切れ味のよいエレクトロニック・ミュージックのライブをする。100%、自分たち自身で作り出した曲だ。そしてそれに若いお客さんたちがストレートに反応している。ライブをする側にも、ドリアンくんのように若い新しい世代が生まれつつある。ぐっと胸に迫るものがあった。

もちろん、私は、音源を作る人が偉くて、DJはその次だなどと言いたい訳ではない。それは二つの独立したアート活動だ。でも、例えば、文体も構成も素晴らしい卓越した文芸批評家がいたとして、彼らが批評している小説が全てヨーロッパ・アメリカの文学だったら、それはとても悲しいことではないだろうか?やはり、同じ国の中に素晴らしい作家も、素晴らしい文芸批評家もいることが一番正しいし、楽しい姿だと思う。5日の日に、だから私は一人感動していたのだった。

        *

そんな連休の終り頃、仕事の資料を買いに本屋さんへ行って、平積みのコーナーにモデルのジェシカの本が置かれているのを見つけた。
モデル事情に詳しくない方のためにちょこっとご紹介すると、ジェシカとは、女性ファッション誌のモデルとして人気が出て、今ではテレビCM出演やファッションブランドのアドバイザー、数々のトークショー出演までをこなす日本のスーパーモデル・道端ジェシカのことだ。西洋人とのハーフで、顔はかなり洋モノ系。FIレーサーのジェンソン・バトンを恋人に持つ‥
‥そんなジェシカが、自分の美の秘密や凛とした生き方の心得を語った本、ということで、売れ行きもなかなか好調のようだ。

その日、本屋さんで、私はしばらく本棚の前に立ち止まってしみじみとそのジェシカの本を眺めた。特にジェシカのファンという訳ではないのだけれど(あ、でも、とても努力家で好感持てる人だなーとは思う)、そのとき、「ジェシカ、すごく出世したな‥」と感慨深かったのだ。
と言うのも、実は私は、ジェシカがまだ「その他大勢のモデルの一人」だった頃から、ずっと彼女に注目し続けていた。「この子はきっと伸びる」という、理由の分からない予感が強くしたのだ。そのことについてこの後書いてみようと思う。

        *

そもそも、当時私が何故ジェシカに早くから注目していたかと言うと、そこには已むに已まれぬ個人的な事情があった。
当時(上に書いた、週2ペースでクラブに通って写真を撮りまくっていた頃)、私は広告代理店のプロデュース部門で働いていて、若い女の子をターゲットにした或るメガ商品のCM制作を担当していた。
日本の広告では、いわゆる“タレント広告”=有名人を起用する広告が他国に比べて非常に大きな割合を占めているけれど、私が担当していた商品にも、長年或る有名女優が出演していて、かなりの成功を収めていた。しかし、その女優も当然のことながらOLの年代からミセス、或いはママと呼ばれる年代に入り始め、商品の若いブランドイメージを維持するためには、そろそろタレントの首をすげ替えなければいけない時期が来ていたのだった。

そこで、私たち代理店社員には、今の女優でCMを作りつつ、裏では“次の顔”を探せ!というミッションが下された。そのとき、内心私は「困ったなあ」と思ったのだった。と言うのも、実は私は日本の連続ドラマがどうしても面白いと思えず、ほとんど見たことがない。更にもっと苦手なのがお笑いやバラエティ番組で、100%、全く見たことがない。映画は観るけれど、単館で上映されるような地味なアート系映画ばかり‥そんな生活だから、旬のタレントが誰かということが全く分からなかったのだ。
「どうしよう、女性向け人気商品の“次の顔”を探せるような当てが、全然ない‥」

更にもう一つ困ったことがあった。それは、タレントの好みについて、私が徹底的にマイナー志向だったということだ。
何しろ、小学生のときに一番最初に好きになったアイドルが、私の場合、ひかる一平だった。この人、一応ジャニーズ事務所所属だったのだけど、芽が出ずにすぐ脇役タレントへ‥。
その後に好きになったのは、一世を風靡したたのきんトリオのトシちゃん!でもなく、マッチ!でもなく、よっちゃん‥。
クラスの女子がトシちゃん派とマッチ派に二分され、「どちらがよりいけてるか?」と議論が巻き起こっていたその渦の中で、たった一人孤高を守り、よっちゃんがワニブックスから出したエッセイ本を買っていた私‥。皆から笑われまくっていた。

女性タレントも、松田聖子と河合奈保子が人気を博していた時代に、河合奈保子の方を応援‥やがて消えてゆく河合奈保子‥。その後は少女隊と伊藤つかさがかなり好きだったけど、どちらも一発屋で消えてしまった‥。
いつも一緒にテレビにかじりついて『ザ・ベストテン』を見ていた弟には、「中森明菜はすぐ消えるよ」「工藤静香は長くない」と予言したのに全く当たらなかったし、その後、大学生になったときに訪れたスーパーモデル・ブーム時にも、グッチによく出ていたイタリア人モデルが好きで、彼女が出そうなショーは『ファッション通信』を録画してまで追いかけていたのに、全く芽が出ず‥後になってクラウディア・シファーやクリスティ・ターリントンのカリスマ性に気づいたのだった‥(こんな安っぽいモデル、ダメでしょ、とバカにしていたのに)
‥要するに、私には、“これから売れる人”を見抜く目が全くないのだ。「それなのにメガブランドの次の顔を探せなんて」‥どうしようと途方に暮れてしまっていた。

        *

しかし、とにかく仕事である。お金を頂いているのだから、何としてでも良い提案を行わなければならない。
まず、キャスティング事務所のディレクターに会社に来てもらって、20代の、「競合他社と契約していない」女性タレント一覧を出してもらった。その中から更にキャスティングディレクターが「有望そう」と思うタレントの、ビデオ資料や写真資料をかき集めてもらう。そして毎日、それらをひたすら、見る。しかし、わ、分からない‥どの子もみんなかわいいし、どの子の演技力も同じくらい‥この中から、後になって伸びる子を探すなんて‥
それでも何人か、キャスティングディレクターが強く推すタレントさんには会社に来て頂き、面談のような・オーディションのようなことを行った。その中には、今は大きな女優さんになっている方も何人かいたけれど、そのときの私には、正直言って誰が一番伸びるのか、全く判断がつかないのだった。

一方、タレント・女優系の人材を探すと同時に、私たちがもう一つ進めている線があった。それは、ひたすらファッション誌やコスメ誌(VOCEなど)を見まくり、次に来るモデルを探すことだった。
えびちゃんこと海老原友里が一番分かりやすい例だと思うけど、今は、雑誌モデルから女の子の人気を一身に集めるスターが生まれて来ることが多い。“次の顔”を探すために、ファッション誌のチェックも欠かせなかった。
そして、来る日も来る日もOggi、sweet、JJ、Cancam、JILL、non-no、MORE、VOCE、美的などのページをめくり、これは?と思う子にはやはり会社に来て頂いてお話をする。或いはちょっとしたカメラテストをしたりもする。どの子もかわいいし、どの子も礼儀正しくていい子。でも、誰がスターになるかって言われると‥?全く見当がつかなかった。

      *

そんな日々を送りながら、何回かクライアントに「タレント提案」のミーティングを行った。
もちろん、タレントの提案は私一人でやる訳ではなく、クリエーティブディレクター、CMプランナー、ADと何回も話し合い、オーディションにも常に参加してもらって、チーム全体として提案する人を決める。
クライアントにプレゼンする前の事前ミーティングで、いつも「マヤちゃんはどう思う?」「誰が一番いいと思う?」と営業やクリエーティブディレクターに訊かれた。そして全く自信がないまま、「○×花子さんですかねえ」などと答えるしかない私だった。他のチームメンバーは次々と意見を出し、やがてそんな話し合いの中から、社として誰を推すかが決まるのだ。

‥しかし、私たちが提案したタレントやモデルは、なかなかクライアントの気に入らなかった。当時、めぼしいタレントは皆競合他社のCMに出演していたり、まだ出演はしていなくても裏でひそかに青田買い契約が結ばれていたりした。少し名前が知られている人の中から“次の顔”を選ぼうとすると、どうしても二番手・三番手クラスの人しか空いていない。クライアントが現在契約を結んでいる女優さんはかなり大きなクラスの人だったから格落ち感が否めず、「うーん」と二の足を踏まれてしまうのだった。かと言って、まだやっと人気が出て来たばかりの新顔で博打を打つのも怖い。それがクライアントの本音だった。
かくして、最初に「次のタレントを」の指示が出たときから延々2年。いつまでも“次の顔”は決まらなかった。その間、私は、来る日も来る日もタレント資料やモデル資料を見まくることになった。もちろん、ただぼんやりと見ていた訳ではない。何しろお金がかかっているのだから真剣勝負だ。築地魚市場で上物のネタを探す鮨屋さんのごとく、私は女子タレントや女子モデルに(分かりもしないのに)ひたすら目を光らせていたのだった。

‥すると、不思議なことが起こった。ある頃から急に、私の中に女性タレントを見る「目」が出来て来たのだ。何がその「目の」基準になっているのかは、自分でも分からなかった。でも、2年を過ぎる頃から雑誌のページをめくっていると、ふと「この子、光ってる」「このモデル、伸びるんじゃない?」と手が止まるようになった。何と言うか、ページの中で、その子だけが少し前に飛び出して見えるような、そんなかんじがするようになったのだ。
タレント事務所から送られて来る資料を見ているときもそうだった。ふと手が止まる。どの資料にも、カメラのレンズをしっかりと見つめている、売り出し中の女性タレントの写真が大量に添付されている。その中で、伸びそうな子の写真は、何かすぐ動き出しそうな、こちらに向かって何かを訴えかけているような、そんなかんじがただよっているのだ。「この子、大きくなりそう‥」気がつくと、そう呟くことが出来る自分がいた。

その頃から、それまでは業務上仕方なくやっていたこの仕事が、だんだんと面白くなり始めていた。チーム内で開くミーティングに参加するときにも、クライアントが好みそうなド真ん中タイプの子と、それとは全然違うけれど、この子ならこういう広告展開の仕方が出来ますよ、と説明出来るようなタイプの子を、何人か提案出来るようになっていた。チームのクリエーティブディレクターからも、「うん、面白い視点だね。クライアントに出す案にマヤちゃんの案を入れておこう」という言葉がかかる。今でも、初めてディレクターにそう言われたときのじわっと嬉しかった気持ちは忘れることが出来ない。
また、代理店の社員は、通常一つのクライアントしか担当しないということはあり得ず、私も、女性向け商品とは全く違う、食品系のクライアントのCMも担当していた。そしてそちらのキャンペーンで若い女性モデルを起用するという話が出たときも、「じゃあ、この人はどうでしょうか?」と、自分からどんどんプレゼンが出来るようになっていた。クリエーティブスタッフも頼りにしてくれて、「じゃあ、モデル案出しは全部任せるよ」と言ってくれる。これも私にはとても嬉しい出来事だった。
「いつの間にか私、あんなに苦手だった仕事が結構出来るようになっているじゃない???」
しかも、一番重要なことは、自分が「いいな」と感じたタレントやモデルが、その後少しすると確実に人気が上がるようになったことだ。
たとえば、女性モデルがたくさん出ている雑誌の中で、私が注目していた子が、数ヵ月後、「エリナの休日ファッション」といった題をつけて、ピンで数ページを任されている。読者からの反響も良いのだろうし、編集部の人も良いと思うからフィーチャーされるのだろう。
そう、以前はどの子が伸びるのか全く分からなかった私だったのに、いつの間にか、自分の中にそれを見抜くプロの目が育っていたのだ。そしてその「伸びる」と思ったモデルの中に、冒頭に書いたジェシカもいたという訳だった。

        *

‥長々と書いたこの経験から私が得た教訓はこうだ。
日本には、昔から「好きこそものの上手なれ」という諺がある。確かにその通りだとも思う。でも、好きではなくても、それどころかかなり不得意なことでも、毎日こつこつと作業を積み重ねていけば、どうやら或る程度の所までは行けるようだし、その面白さも分かるのではないか。それが私がそのときの実体験で得た教訓だ。

そう言えば、ピアノでもバレエでもお能でも書道でも、およそ芸事と名のつくものは何でも、とにかく繰り返し基本の型を練習させる。特に日本のお稽古事は、「最初から独創性など発揮出来ると思うな。まずは昔から伝えられて来た基本の型を、徹底的に身体にしみこませるべし」という考え方だと思う。
また、昔、中国に留学していたとき、同じ寮内にカンフー黒帯(とは言わないのかな?)の香港人男子学生がいて、その子に「お願い。カンフー教えて!師匠、お願いします!」と頼み込んで週1回レッスンを(むりやり)つけてもらったときも、結局ひたすら両手を交互に前に出すことしか教えてもらえなかった。
彼曰く、「3年間これをやり続ければ、基本は出来たことになる‥」、と。えーん、私はもっとかっこいい、くるっと腰を回転させながらその隙に腕をシュッと前に伸ばして相手を倒しちゃうような技が、(形だけでも)出来るようになりたいんだよーと思ったけれど、芸事でもスポーツでも、ひたすらバカになって基本の型や動作を繰り返さなければいけないことに何ら変わりはないのだろう。

もちろん、或る程度精進を積んでその基本を身につけた後には、また違った道のりがあるはずだ。そこから本物の第一人者になるためには、独創性が、自分の頭で考えることが、或いは生まれついての才能というものが求められる。これらのことはもしかしたら、いくら真面目に練習を積んでも身につけられるものではないのかも知れない。
それでも、私が卑近な例で書いた通り、全く得意ではないことでも、全く好きではないことでも、訓練を積んでいけば、或る程度の所までは行けるし、面白さもそれなりに分かって来るものなのだ。そしてそれがいつか別のことの飯のタネになったりもするだと思う。
だから、今、目の前の仕事や義務に気が進まず、悩んだり投げやりになっている人がいたら、とりあえず頭を真っ白にして、バカになって、自意識を捨てて、今やらなければいけないことを徹底的に、黙々と、丁寧にこなしていってほしいと思う。実は私が今日この日記を書こうと思ったのには理由があって、このところ、
「どうしても自分がやっている仕事に生きがいが感じられず、嫌々ふてくされながらやっているけれど、体中に発疹が出てもうどうしようもないんです。限界」
とか、
「夢見ていたことと現実に今目の前にある仕事とのギャップが激し過ぎて、ノイローゼに。現在休職中」
とか、そんな相談を受けたり、心の病気になって引きこもっている若い知人の噂を聞くことがとても多いのだ。

或る友人の説によれば、日本にこんなにもすぐポキッと折れてしまう弱々しい若者が増えたのは、SMAPのあの「世界に一つだけの花」の歌が原因なのだそうだ。「君だけの」「一つだけの花」が、誰にでももともと備わっていると思い込んで、自分探し・自分探しとわめき散らすんじゃねー!‥とその友人は息巻いていたけれど、確かにその説には一理あると思う。
二十代半ばそこそこの、自分では広いと思い込んでいるかも知れないけれど狭い狭い世界の中で、小さな人間関係の中だけで生きて来た人間に、本当の自分なんて、実際はまだない。ちょうど私がいくらたくさんの資料を見ても、どのタレントが伸びるかが分からなかったとき、タレントの可能性を見る「目」が育っていなかったのと同じように。自分探しをしている若い人は、目がないのに自分の目を探している、そんな存在なのではないだろうか?ないものを探したって見つかる訳がない。目は、バカバカしいくらいに単純な、基本的な型を、丁寧に、自分を無にして、繰り返し繰り返し行うことを通じてゆっくりと生まれ来るものなのだ。そしてそのとき、目は、探さなくてもそこにある。

だから、この日記を読んで下さっている若い方々、その中で、「今、つまずいてしまっている‥」と思い悩んでいる方には、まず、「上手く出来ない」とか「輝けない」とか「唯一無二の存在になれない」という自意識を捨ててほしいと思う。代わりに、「自分はまだ入門したてのウブな初心者なんだから、出来る訳ないじゃない」、という意識を持ってほしい。
そして、出来るようになるために、目の前にある仕事、それでお金を頂けている仕事を、バカバカしいくらいに真面目に、基本通りにしっかりとこなしていってほしいと思う。もちろん、1日や1カ月のことではなく、年単位でそれに精進してほしい。その後でやっと、目、らしきもの、自分らしきものが生まれて来る。悩むのはそこからであって、今はまだ悩む時期を履き違えているだけなのだということを理解してほしい。

     *

「ちょっと待って、悩むのはそこからって、自分が出来た後にまだ一体何を悩むと言うんですか?」と言われてしまうだろうか?でもそうなのだ。実は、自分を得たその先に続いている道は、意外にも、もっと険しい。或いは、とても温かい。
どういうことかと言うと、或る程度自分が出来てくれば、自ずから分かって来ることがある。それは一言で言えば、自分の分(ぶ)ということだ。
自分は本当に、この芸事の世界で唯一無二の、名人と言われるような存在になれる人間なのだろうか?自分にはその器があるのだろうか?或いは、自分はそもそも本当に唯一無二の存在になりたいのか?(そのような存在になるためにはこれまでの比ではない厳しい挑戦が待っている。しかもそれは一生死ぬまで続いていく。自分はそれに耐えられる人間なのか?)
それとも、そこそこの存在で良いから、或る程度面白さも分かって来たこの世界の中で、それなりに役目を果たしつつ、心安らかに人生を送って行くべきなのか?
或いは、何年か頑張ってそれなりにこちらの世界の面白さも分かって来たけれど、でも、やっぱり、ここではなくあちらが自分の世界だと、本当に、心の底から思うのか?そしてあちらの世界でまた一から、丁稚奉公をやれる覚悟があるのか?
そういう風に考えられるようになることが、本当に自分が出来て来たということではないだろうか。自分は、探すものではない。もともとどこかに今は目に見えないけれど確実に存在しているものでもない。自分とは、自ら作り、育てていくものなのだと私は思っている。

習うより慣れろ、或いは、見る前に飛べ、と言う。“自分”や“本当にやりたいこと”や“本当に自分に合うこと”‥そんなものはいくら探しても探しているだけでは見つからない。だから、まずは適当に妥協した方がいい、と、今悩んでいる人にはお伝えしたいと思う。生きて行くためのお金を頂ける場所で、お金を頂ける仕事を、5年から8年くらい、丁寧に、自意識を捨てて、バカになって真剣にやってほしい。「え?そんなに長く」と思うかも知れないけれど、人生はそんなに甘くない。そのくらいやって初めて、やっと自分は出来て来るものだという、厳しい認識を持ってほしい。全ては、習うより慣れろ、である。

       *

‥と、ジェシカの話から始まって今日の日記はかなり偉そうなことを書いてしまいましたが、この数年、あまりにも同じような悩み相談を若い方々から受けるので、まとめてどん!と回答してみました。
いつものこの日記を読んで下さっている方々の中の、今、つまずき中の皆さん、そして、たまたま何かの検索で引っ掛かってここのページに来て下さった方々の中の、今つまずき中の皆さん、あなたたちの全てに今日の日記を捧げます。

「宝くじに当たったら」 2010/03/24



「ねえねえ、もしも今1億円の宝くじに当たったら何に使う?」
というのは、ドライブ中とか飲み会既に4時間経過とか、残業夜の終わらない見積書を前に、同僚同士でつぶやく定番の話題。

私は、もしも1億円当たったら、一生大学に通って過ごしたい。
受けるのは、ダンゼン日本史学科。それも現代史を学びたい。大正デモクラシーから満州事変、二・二六事件、日中戦争、太平洋戦争へと続く暗い暗い日本人狂気の時代。
私は既に4年制大学を一度卒業してるから、3年からの学士入学でオーケーのはず。一生懸命勉強して目のさめるような素晴らしい卒論を書き、そのまま大学院に進む。もしも大学院の入試ではねられたら、何しろ1億円も持っているのだから、裏金を積んででも大学院に進みたい。それが私の夢。

         *

それからもう一つの夢は、北京・上海・香港の小ぶりのホテルの常連になること。それも、出来るだけ伝統的な中国建築の面影を残しているホテルがいい。ポーターに「いらっしゃいませ=歓迎過来」じゃなく、「おかえりなさい=您回来了」と言われる存在。1年のうち3分の1は、中国で暮らしたい。それが私のもう一つの夢。

もちろん、写真を撮るための様々な機材も好きなだけ買い集める。
広角から望遠までマミヤとハッセルのレンズを一式(ニコンはもう1式持ってるからいらない)。
照明道具の基本的なものを2セット。
フジの6×9も買いたいかな。
あと、色温度メーター(高いんだ、これが)。
撮影に行くときは車で家まで迎えに来て機材を全部積みこみ、終わったら家まで送り届けてくれる運転手のバイトさんを雇う(今は非力な体で全部一人で運んでいてもー死にそう!)。
それから写真を焼くときは、液の調合を全部やってくれるバイトさんにも来てもらう。(今は全部一人でやっていて面倒くささに憤死しそう)
ああ、こんな写真生活を送れたら、本当にどんなにストレスは少ないだろう。

それから、2年くらいは、日本美術史の講座にも併行して通いたい。その後は書道も習いたいし、造園の知識も身につけたい。ああ、そうそう、韓国語の勉強も!

‥‥でも、それくらいなのだ、1億円の使い道は。消費大好きなアラフォー世代らしくもなく、何だかやけにガリ勉なかんじ。若い頃は、「1億当たったら、5千万は洋服に使う」なんて言っていたものだけど、そんなすがすがしい博打は今はもう想像でも打てそうにない。

         *

さて、現実に戻ると、今日も私の前には山積みのライター仕事。せっせと立ち向かうけれど大したお金にはならず、時間ばかりが過ぎてゆく。
それでも、なけなしのお金をはたいて、昭和史の本を買い、レンズを買い、フィルムを買い‥。せっせと貯金をして、中国とも行ったり来たりをかなえたい。
mixi日記から引っ越して来たこちらのページで今日からそんな日常を綴っていくので、ゼヒご愛読下さい!