西端真矢

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憧れの女性(ひと) 2014/03/30



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 人生にはさまざまな喜びごとがあるけれど、師と呼べる人、「この人を目標にしたい」と思えるような人と出会うことは、その中でも最も嬉しい出来事の一つではないだろうか。
 ありがたいことに、私にはそんな出会いが何回かあって、その中のお一人のお名前を松井扶江(まついともえ)先生と言う。上の写真で、私の右側で微笑んでいらっしゃる女性がその人だ。今日のブログでは、その松井先生との出会いや、何故私が先生に憧れ、人生の何を教えて頂いたのかを書きつづってみたいと思う。

超一流の女性和裁士
 先生のお仕事は、和裁士だ。渋谷区内で和裁所を主宰され(写真の背景にその一部が写っている)、首都圏の様々な呉服店からの――老舗も、若手が経営する新しいきものブランドからも――お仕立てを請け負って来た。また、NHKの朝ドラや映画『ラスト・サムライ』をはじめとして、テレビやCM、日舞など、舞台衣装の制作も多数行って来た。
 ‥と、ここで「来た」と書いたのは、先ごろ先生が和裁所をお弟子さんに譲られたためだ。と言ってもこれからも顧問としてお弟子さんたちの相談には乗るし、これまでに先生が培って来られた和裁の知識を後進に残すために、新たなプロジェクトも動き出している。完全引退は、まだまだ周りが許さないのだろう。

江戸時代の帯が結んでくれた縁
 そんな松井先生と私が出会ったのは、昨年の梅雨の終りのことだった。
 その頃私は、江戸時代の女性のきもの姿を再現する“江戸着物ファッションショー”というイベントを企画・制作していて、7月7日の開催に向け、血眼になって準備に取り組んでいた。
 そのイベントでは、合計で八体の着姿を再現する予定にしており、中でも目玉の一つと考えていたのが、大名家や江戸城の奥で、夏の間だけ着用する特殊な着姿の再現だった。
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 その姿が上の写真になるのだけれど、麻の生地に草花や風景図を藍を基調に染めた“茶屋辻”と呼ばれるきものを着て、上に、堤帯(さげおび)或いは附帯(つけおび)と呼ばれる帯を締める。
 この帯は、上方ではだらりと下に下げて締めるんどあけれど、江戸城大奥ではつんと上に向かせ、それより何より、体の横からかなりの長さで出っ張っているために、廊下で女中同士がすれ違う時やトイレに入る時は、横に蟹歩きをしなければならなかったという、何とも奇妙奇天烈な着姿を作り出していた。 

 ファッションには、時に、こういう奇妙な現象が起きる。
 例えば現代に置き換えてみても一時期ルーズソックスが大流行したことがあったし、ヤマンバギャルが一世を風靡していた時代もあった。私が中学生の頃は何故か女性たちの間でうなじの刈り上げが流行したし、大学生の頃には、ロボットのような肩パッドが街を席巻していた。
 そのどれも、今見ると笑うしかない姿になってしまったけれど、こんな風に、ファッションは時に暴走に向かうことがあって、江戸時代の堤帯姿も正にその暴走の産物ではないかと思っている。しかもそれが町方ではなく、プライドの塊である奥女中の世界で起こっていたのが面白く、是非とも再現したいと思っていた。何しろこの堤帯姿は、江戸幕府瓦解以来、舞台でも映画でもテレビドラマでも、人体の上では一度も再現されたことがないと言われていたのだ。どうしてもどうしても私がやりたいと願っていた。

あらゆる帯仕立て職人さんから断られた私の帯
 さて、そんな私の“江戸きものドリーム”を実現に移すべく、八方に連絡を取り、茶屋辻きものについては、京都の“栗山工房”という名門染め工房が再現した作品を貸してくださることになった。
 残りは帯ということになるけれど、一部の特権階級の女性が、しかも夏の間だけ締めた特殊な帯だっただけに、数が少ないのだろう、日本中どこのアンティークきもの屋さんもお持ちではなかった。もちろん博物館にはあるのだけれど、所蔵品を実際に人体に着せつけるとなると、貴重な布が傷むのが心配だと断られてしまう。
 そこで、借りるという道は不可能だと判断し、再現製作に切り替えようと決断したのが、6月の始め頃だった。本番まで、残された時間は一か月しかない。

 その時から、今度は、帯を作ってくれる業者さん探しが始まった(もちろん製作費もお支払いする)。
「作ると言ったって、そんな昔のもの、どうやって作るんですか?」
 と疑問に思われるかも知れないが、まず、元になる帯地は、私が汗だくになってあちこちのアンティークきもの屋さんを回り、現存品に近い帯地を調達していた。
 そして、帯を作るための寸法は、実はちゃんと寸法を記録した江戸時代のパターン図が残っているし、着姿や帯の締め方を描いた絵も残っているのだ。
「これだけ準備が整っていれば、プロの和裁士さんなら絶対に再現出来るはず!」
 と、片っ端から帯専門の仕立て屋さんに連絡を取ったのだけれど、案に反してことごとく断られてしまった。
 その数、八、九軒くらい、いやもっと多かっただろうか。困り果てて途中からはなじみの呉服屋さんに泣きつき、出入りの帯屋さんにも聞いてみてもらったのだけれど、そちらでも、四、五軒頼んで総て断られたと連絡が入った。どうも皆さん、面倒くさいからやったことのないものは作りたくない。或いは、失敗して同業者に笑われるのが怖い。そんな風に考えて断りを入れて来るようだった。打つ手がなく、私は正に八方塞がりの状態に追い込まれてしまっていた。

松井先生との出会い
 そして、こうして私があたふたとしている間に、当然のことながらどんどん時は過ぎていた。その時、本番まで、もう二週間ほど。このままでは、ご厚意で茶屋辻を貸して下さる栗山工房さんに会わせる顔がなくなるじゃないか。一体どうしようと泣き出したい気持ちだった。
 それでも、とにかく私は、この帯を縫ってくれる和裁士さんを見つけるしかないんだ。絶対に何とかするんだ、と、再度PCを立ち上げ、心労のあまり若干震え気味な手で、「和裁所 帯」だったか「和裁士 舞台衣裳」だったか、正確な検索ワードはもう忘れてしまったけれど、一からやり直しの気持ちで検索をかけるべく再びマウスをクリックすると、“松井扶江プロきものスクール”という和裁所の名前が目に飛び込んで来た。これが、先生との出会いの瞬間だったのだ。

 恐らく、これまでの検索でも名前が挙がっていたのに見落としてしまっていたか、或いは検索ワードが悪かったのか、とにかくその時初めて見る名前で、日舞をはじめ舞台衣装の製作も請け負うと書いてある。もう、ここしかない。藁をもすがる気持ちで――本当に、この時の私ほど藁をもすがる気持ちを体験した人もそういないと思う――資料を添付したメールを送り、依頼の電話をかけてみた。すると、出た方が、
「先生に見せてみるから、また後でかけてください」
 とおっしゃった。何とかなるかも知れない、と一筋の光が差して来た思いだった。そして、数時間後、その時も震え気味の手で和裁所の番号をダイアルすると、先ほど電話を受けてださった方が出られて先生を電話口へと呼んでくださった。そして、
「やりますよ、面白そうだから」
 と先生はおっしゃったのである。この瞬間、私のハートが真っすぐに先生に撃ち抜かれていた。

 その後、私はすぐさま帯地を持参して和裁所に伺い、製作に向けて打ち合わせをした。この時で本番まで2週間ほどの時間があった訳だけれど、先生とお弟子さんは1週間ほどで仕上げて下さり、着装を担当して下さった全日本きものコンサルタント協会の堀井みち子先生のチームと、事前着装テストさえ実施することが出来た。まさに、松井先生と出会えたことで、大負けだった賭けのカードが一気に勝ちに裏返ったのだ。

やったことがないことだから面白い
 その後、先生とは、お食事をしたり和裁所の産地見学研修に混ぜてもらったり、最近では私の和裁の勉強のために、作業を見学させてもらったりしている。その折々に私が震える手で電話を掛けた、先生との最初の出会いのことが話題に上るのだけれど、先生はいつもこうおっしゃる。
「あなたの依頼を断った、他の人たちの気持ちが私には分からないわね。だって、やったことがないことをやるのが面白いじゃないですか」
 先生は今、七十代。人によっては、新しいことには一切耳を貸さない。自分がこれまでやって来たやり方だけが絶対で、新しいやり方をする下の世代を攻撃する。そんな人もいるご年齢ではないかと思う。けれど先生は正にその逆で、七十にして新しいことをきらきらと探していらっしゃるのだ。そう言えば、最初に電話を受けて下さったお弟子さんも後から聞くと、
「お話を聞いて、あ、これ、先生が好きそうだなって、見せようと思ったんです」
 とおっしゃっていた。話をした途端に切られるような和裁所もあったのに、である。

    *
 
 私が先生に憧れ、先生が好きでたまらないのは、先生のお仕立ての技術と知識がとてつもないことや、先生自身のおきもののセンスが素敵過ぎることや、いつも全身を身ぎれいにしておられることや(先生のお爪がきれいでみんな釘づけになるのです!)、言うべき時はびしっと言われる武士っぽさや‥色々色々理由はたくさんあるのだけれど、最も根本的なことは、このこと、常に新しいことに挑戦しようとされている、先生のその気持ちの持ち方に何より惹きつけられている。

 そして、我が身を振り返れば、私は先生よりずっと若輩であるにも関わらず、時に挑戦を尻込みしたり、新しいことを始める際につきものの様々な面倒を予想して、はなから逃げに回ることさえ、告白すればある。
 けれど、例えば昨年、多くのきもの業者が集結した一大イベント“きものサローネ”を先生と回った時に、あちこちのブースから「松井先生!」と、一言でも先生に挨拶しようと業界人が裾をからげんばかりに飛び出しあて来る、先生のそのまぶしい輝きは、誰もが頭では知っているのに実践するのは難しいこと、“挑戦を忘れない”、ただその心構えに由来するのだと思う。一流の人ほど現状に安住せず、軽々と次の挑戦に飛び込んで行く――そのことを、先生のそばにいるとつくづくと思い知らされるのだ。
 考えてみれば、現在ならいざ知らず、先生の若かりし頃は女性は結婚して家に入るのが当たり前だった。その時代に、家庭を持ちながらも和裁の道を極め、一流呉服店やNHKからさえ依頼が来るほどの和裁所を経営する。更に弟子の育成にも当たる――先生の人生の全てが、私には想像もつかないほどの挑戦の連続だったのだろう。

まずはネイルから♪――先生に憧れて
 実は、先生と深くお話をするようになった昨年秋から、私はネイルサロンに通うようになった。茶道を学んでいるのでごく薄い、一色塗りの目立たないものだけれど、先生の、きれいに手入れされた美しい爪を見ていたら、むしょうに真似したくなってしまったのだ。
 もちろん、これは、ごくごく小さな始まりに過ぎない。けれど、これからも私は先生に憧れて、先生を追いかけ続けると思う。何より、先生の、挑戦を恐れない心。この心構えこそ、ぬけぬけと真似し続けて行きたい。真似とは普通安易な道であるけれど、中には強い意志と勇気を要する、そんな真似びもあるのだから。

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