西端真矢

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明日、中国へ 2012/10/15



明日から、1週間、中国旅行へ出る。今回の旅の目的地は、上海と南京。誰と会い、どこを見るか?手配も終わり荷物の準備も完了して後は出発を待つばかりの夜は、心なしかいつもより長く感じられる。

今回の旅行には、実は大きな目的がある。それは、母方の曾祖父の足跡を訪ねて歩くというものだ。
私の曾祖父は、1940年代に上海で暮らし、南京へも出張で度々訪れていた。外国暮らしを嫌う曾祖母が東京に残ったため、単身での上海暮らしであり、どうやら中国人の恋人もいたらしい。そして上海で重い病にかかり、日本へと緊急搬送。間もなく東京で息を引き取ることになる――

             *

今も日本と中国の関係に暗い影を投げかける、1930年代から40年代にかけての日本の中国侵略。その最重要都市であった上海で、曾祖父は明治以降の近代日本が自ら作り出した矛盾と罪を、一身に体現する立場に追い込まれた。
日本の負の歴史であると同時に、私の血族の負と苦しみの歴史である、この、曾祖父と上海との関わり。その歴史について、私は中国に興味を持って以来長い間目をそらし続けて来た。しかし、2008年、李安監督がこの時代の上海に生きた人々を描いた映画『色、戒』(日本題『ラスト、コーション』)を観た夜、全てが一変する。その夜、まるでスクリーンの向こうから曾祖父が私に呼びかけて来たかのように、「この時代に真剣に向き合わなければいけない」という思いが、母親の肌を食い破って世の中に生まれ出る鬼子にも似て、私の中に湧き上がって来たのだ。
以来、4年間、日中戦争史と日本の占領政策史、また、日中秘密和平交渉史に関わる基礎資料を読み込み、今年、上海と南京へ行くだけの最低限の資格が、私の中にようやく出来上がったと感じた。その思いを胸に航空券とホテルの手配を進め、全ての予約を終えた9月、中国で、あの、歴史に残る反日暴動が起こる。私は居ても立っても居られぬ思いでブログを書き上げ、信じられないほどの大きな反響を受け取ることになった‥
今、私は、自分と中国との深い縁、いや、縁というやわらかな言葉では言い尽くせない、何か強い因果のようなものをひそかに感じている。私が明日宿泊するホテルは、曾祖父がかつて住んでいた住居だ。時代、血、国家‥個人を越えた大きなもの。そのうねりの中で曾祖父はきっと、私を万感の思いで迎えてくれると思う。いつの日か、1930年代・40年代の上海を、現代の上海そして東京に接続する作品を書くこと。それが私の人生の目標であり、そのための新しい一歩を、明日から歩いて来ようと思う。今、この夜、耳元に、上海のあのなつかしいざわめきが聞こえる――

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ヴェネツィアの夜~~或る有名建築家と過ごした一晩に学んだ人生の大切なこと 2012/10/08



突然ですが、質問を一つ。
「あなたは見栄っ張りですか?」
と訊かれたら、どう答えるだろうか?
私の推測では、「うん。僕は見栄っ張りだよ」と答える人はそんなにはいないのではないかと思う。最終的に「見栄っ張りだ」と答えるにしても、「男っていうのはみんなどこかで虚勢を張って生きている見栄っ張りな生き物でさ」などと注釈がついたりして、なかなかストレートには認めようとしないのではないか。そのくらい、見栄っ張りというのは、何かいじましくて堂々としない、負のイメージがつきまとう一つのあり方であり、往々にして自分のコンプレックスや弱点と結びついていることが多いようにも思われる。

例えば、根っからのお金持ちはぺらっとしたどこかの屋台ででも買ったようなバッグを持っていても平気でいられるけれど、たいていの庶民はブランドものを持っていないと貧乏だと見破られるのではないかと思い、落ち着かない。特に庶民からちょっと成り上がった人ほど、全身をブランドもので固めていたりするものだ。
かく言う私も見栄っ張りはみっともないから矯正しようと努力しているとは言え、ついついやらかしてしまうことも多い。だからよけいに人の見栄っ張り度合いが気になるし、つい観察をやめられないのだ。
そして、見栄っ張りとは真反対に、「私は何も出来ませんからへりくだり」「何もほしくないし、人と競争しようとも思わないんですふわり」と麻のワンピースか何かを着て玄米を食べながら言う人を見ると、それはそれで何か偽善のにおいを感じて背中がかゆくなって来るなこの人、とか、みんながみんな競争心ゼロになったらこの国は国際競争に負けて滅びてしまうのではないか?などと余計な心配に頭をめぐらせ、多少の見栄っ張りも人生には必要悪なのかしら?などと思ってみたりもする。見栄と向上心、或いは人生のバイタリティは、紙一重のところにあるからとても難しい。

そんなことを考えていると思い出すのは、二十代の頃に会った或る人のことだ。会ったと言ってもただ一晩食事を共にしただけのことなのだけれど、15年以上経った今でも折りに触れて思い返す。その人と会ったのは夏のヴェネツィアだった。
その頃、私は会社を辞めて次の仕事まで定職に就かずふらふらしていた時期で、ちょうど当時父がイタリアに長期単身赴任していたため、時々父を訪ねてイタリアに遊びに行っていた。そして何回目かの訪問の時に、或るプロジェクトのためにヴェネツィアに滞在している日本人のグループと知り合いになった。
そのグループの人々は皆、アート、建築、学問の分野で既に名を成したり、頭角を現し始めているキラキラした人たちだった。一方、まだ二十代の初めで何事も成し得ていない小娘の私は、「たまたま異国で若い同国人に出会ったから」程度の理由で部屋に入ることを許された、名前のない影法師のような立場だった。そしてキラキラした彼らの仕事ぶりを、ぼんやりと映画でも眺めるようにただ眺めていた。

そんな彼らと、ある日食事をすることになった。15年以上昔のことなのではっきりとは覚えていないけれど、確かいよいよ彼らが取り組んで来た共同プロジェクトが完成し、打ち上げ食事会のような意味合いの夜だったと思う。
私たちはヴェネツィアの運河の真上にテラスを出した、地元でも美味しいと評判のリストランテにテーブルを一列陣取って座った。周りは全てイタリア人、或いはヨーロッパの人々で、その中で東洋人として意味ある仕事を成し遂げたことに、全員が少し高揚した気分で席についていた。食事は美味しく、運河が張りめぐらされたヴェネツィアの夜は湿気に満ちてどこかけだるく、会話は次から次へ弾んで止まることがなかった。もちろん、小娘の私には口をはさむ余地などなく、控え目に聞いていることしか出来なかったのだけれど。

そんな時、何かのきっかけから、話題が日本の古美術のことになった。これもまた15年以上前のことなので詳しいことは覚えていないのだけれど、琳派のことが話題に上った。誰かが何かのことから琳派に言及し、その席にいた建築家――仮にXさんとする――が、「琳派って結局どんなことしたの?」とか「酒井抱一って誰だっけ?」とか、何かそんなようなことを言ったのだ。
私は思わずXさんの顔を見つめてしまった。と言うのも、それがあまりにも基本的な質問だったからだ。Xさんと言えば、日本の建築界のスターで、建築界の内側の人々どころか一般人でもちょっとアートや建築に詳しい人なら――そう、当時まだ『Casa Brutus』は創刊されていなかったけれど、今で言うなら『Casa Brutus』など愛読して建築についてあれこれ蘊蓄を傾けるような人なら、誰でも知っているスター建築家だった。
もちろん、建築と日本の古美術では分野は大分異なっている。それでも、造形芸術という点では同じ分野にいるし、日本人が芸術作品を携えて外国へ出て行く時、必ず自分の中の日本人性や、また、日本の歴史をどう捉えているかということが問われ、自分自身でもそれを自問自答をすることになる。そしてそれが作品に影響を与える。Xさんのそれまでの作品には日本的美の感覚を押し出したものがいくつもあったから、私は、Xさんが琳派についてこんな基本的な質問をすることが本当に意外だった。いや、もっと正確に言えば、こんなことも知らないのか、と驚いたし、こんな有名な人がこんな基本的なことも知らないことをさらけ出すことに、「恥ずかしくないのかしら?私ならとても出来ない」
と驚いたのだった。

           *

実は私は、日本美術史や琳派には特別な思い入れを持っていた。と言うのも、私の母が日本美術史の研究者で、それも琳派を専門にしていたからだ。だから小さい頃から母につれられて琳派をはじめ日本画をたくさん見ていたし、最新の学説についても折りに触れて教えてもらっていた。だからその時もこのくらいの基本事項なら――と、Xさんに解説を始めようかと思ったのだけれど、何も言わずに口をつぐんだ。と言うのも、その席には、当時若手美術史家として頭角を現し始めていたYさんという方がいたからだ。
YさんはすぐさまXさんに解説を始めた。解説と言っても、Yさんが本当に何も知らないので専門的な話ではなく、高校の美術の教科書にでも書いてあるようなごくごく基本的な内容だった。
Yさんの説明が一段落すると、Xさんがまた質問をした。その質問もまた、耳学問で日本美術史の知識を仕入れている私からすれば、あまりにも基本的なつまらない内容だった。たぶんYさんもそう思ったはずだけれど、そんなことはおくびにも出さず丁寧に解説をする。するとXさんはまた質問する。またYさんが答える。またXさんが質問する。またYさんが答える。私はそのやり取りをぼんやりと聞いていた。こういう時は脇役になった者は笑ったりうなずいたりする必要もないから、食事を片づけるにはいいタイミングだった。特に私は人より食べる速度が遅いと自覚しているから、今だとばかりにせっせとナイフとフォークを動かし続けていた。
けれどXさんの6回目か7回目の質問の時、思わず私は手を止めた。そして顔を上げてXさんの顔をまたまじまじと見つめてしまった。何故ならばXさんのその質問が、あまりにも的を射たものだったからだ。
ちょうどその夏、ヴェネツィアへ飛び立つ前、東京で母から聞いていた最新の学説。それを答えとせざるを得ないような質問を、Xさんは投げかけていたのだ。つまりXさんの知性と探究心は全くの0からスタートして、質問を重ねるたびに琳派の概要を一段一段と把握し、やがていつの間にかその最も本質を捉えていたということになる。一流の人とはこういうものか、と、私は心底胸ふるえる思いだった。

           *

以来、私はその夜のことを“ヴェネツィアの夜”と名づけている。
今では日本の枠を超えて、世界のスター建築家の一人として活躍されているXさん。あれ以来Xさんにお会いしたことはないけれど、きっと今でもXさんは、自分の知らないことがあれば子どものように素直に「それ知らない。教えて」と訊いているのではないかと思う。そして誰よりも鋭敏な知性で相手の答えを聞き取り、その全てを自分の養分に変えてしまうのだと思う。
凡人の私はあの夜のことを“ヴェネツィアの夜”などと名づけて大切に思っている癖に、それでも、今でも、「こんなこと訊いたらバカと思われないかしら」とためらったり、外国人の友人と話している時に話を途中で止めては悪いと、聞き取れていないのに分かったふりをしてしまうことがある。
もちろん、Xさんがあんなにも素直に「知らない」と言えるのは、彼が「知っている」ことのレベルがあまりにも深く高く、そこに揺るぎない自信があるからだろう。だから見栄を張る必要もないのだろうけれど、でも、それでもやはり、一角の名を成した後にそれでもまだ「知らない」と言える勇気は、若い頃に「知りません」と言う勇気よりもずっとずっと大きいと思うのだ。

そして私は今日も誰かとテーブルを挟み、つい、見栄っ張りの私が顔を出しそうになった時には、一瞬目を閉じて自分を戒める。その時、私の前に下りるのは、重く、湿り気を帯びてざわついた、あの、ヴェネツィアの夜――

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