MAYA from West End

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*日記は日本語のみで、翻訳はありませんが、時々全文中国語の日記も書きます。
*日記の写真はデジタルカメラと携帯のカメラで撮影したものであり、作品写真ほどのクオリティはないことをご理解下さい。「本気で写真撮る!」と思わないと良い写真が撮れない性質なのです。

*這本日記基本上用日文寫、沒有中文和英文翻譯。可是不定期以中文來寫日記。請隨性來訪。
*日記的相片都用數碼相機或手機相機來攝影的、所拍的相質稍有出入、請諒解。我一直覺得不是認真的心態絕對拍不出好的東西。
© 2011 Maya Nishihata
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クロワッサン「着物の時間」整理収納アドバイザー中山真由美さんの着物物語を取材しました 2024/03/08



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仕事のばたばたと若干の体調不良と今週末に開いて頂くことになった母を偲ぶ会の準備が重なって盆と正月が一緒に状態が続いておりまして、すっかりSNSから遠ざかっていましたが‥‥クロワッサン誌での連載記事が発売になっています。 
 
今月は、整理収納アドバイザーの中山真由美さんを取材しています。黒留袖でのご登場!
お嬢さんの結婚式でお召しになったこの黒留袖秘話と、着物初心者さんや着物を(頻繁にではなく)たまに着る方に向けた収納のコツもお話し頂きました。
皆さんの周りに、たまにしか着ないからこそ、着物や小物をどこにしまったか分からなくなって困っちゃうのよ〜なんて方がいらしたら、ぜひこのページをご紹介頂けたらと思います。
と言ってもお知らせが遅れた結果、書店にあるのは明日までなのですが‥‥明日まではまだあります!ウェブ版は永遠に!どうかご覧ください。

定期検査へ――癌サバイバーの日常 2024/02/04



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あっと言う間に今年ももうひと月が過ぎてしまった。今週は、子宮体癌手術後、2カ月に一度の定期検査があった。再発がないか、転移がないか、言ってみれば2カ月に一度の〝天からのテスト〟のようなものだ。癌サバイバーは皆このテストを受けている。

定期検査の日は、いつもより少し早く起きて杏林大学病院に向かう。着いたらまず地下の採血室へ直行する、という手順もすっかり身についてしまった。
採血室は常に野戦病院のように混んでいて、中に入るためだけに15分以上並ぶこともあるのだけれど、何故か今回は奇跡的にすいていた。半信半疑で入口の整理係の人を振り返り振り返りしながら中へ進む(ちょっと、まだ中に入れませんよ、と怒られないか心配なのだ)。
しかしすいているとは言え30人待ちほどではあるので、長椅子に座り、自分の番号が来たらスムーズに採血してもらえるよう、コートを脱いで待機する。目の前の採血ブースで、中に入ってからあわててコートを脱いでいる人を眺め、
「素人さんか‥‥」
と、ふっと笑みがもれてしまうベテランなのである。
     *
さて、無事採血が終わると、3階の婦人科へ上がる。今採血した血液の検査結果が出るまで1~2時間かかり、それまでは呼ばれないことももう承知しているから、受付に名前を通したらゆったりトイレに行ったり、自動販売機で飲み物を択んだり、持ち込んだ文庫本を読んだりする。ここでの過ごし方ももう板について来た。

時々本から目を上げ、通路を行き来する人を眺める。
3階には整形外科や麻酔科(手術前に必ず麻酔科でレクを受ける)などもあるから、多くの人が行き来している。中でも私が目を留めてしまうのは、老齢の親と付き添いの中年の娘、或いは息子という二人組だ。たいていは親が車椅子に乗っていて、子がそれを押している。親の表情がぼんやりしていればおそらく認知症を患っている方だろう。そしてそういう二人組を見ていると、不意に泣いてしまいそうになる。2年前の私の姿だからだ。
もちろん、彼らは、私が泣きそうになっていることになど気づかな。その理由も私には分かる。周りを見ている余裕なんてないからだ。両手を開けておくために斜め掛けのバッグを下げ、中には親の診療カード、保険証、介護保険症、介護タクシーの電話番号カード、自分の分のペットボトルと親の分のペットボトル、万が一のための替えオムツ‥‥などなどがぎっしりと詰め込まれている。
人にぶつからないように慎重に車椅子を押して、突然医師からあそこへ行けと指示された「何とか室」を必死で探して前に前に通路を進んでいるその人の背中に、頑張ってね、とエールを送る。もちろん声は出さずに。
     *
やがて診察室に呼ばれ、まず、この2カ月間の体調を先生に報告する。左腿のつけ根の腫れぼったい感覚が、最近は消えたこと。でも右のつけ根にはまだ残っていること。出血やおりものはないこと。重いものを持つと右の傷口の奥の方が痛むこと。かたかたと先生がPC上のカルテに打ち込んでいく。
お正月にきものを着たら、胃なのか腸なのか、腰紐で圧迫されたせいかとてつもなく不調になってしまったことも話したが、子宮・卵巣摘出との因果関係は考えられないと言われ、がっかりしする。原因が分からないと対策の立てようがないが、これは私には大問題なので、着付け方法を変えるなど、様々に試して様子を見ていこうと思っている。
その後、例の婦人科の自動大股開き椅子に座り、触診とエコー検査を受ける。内部に腫れはなく、手術痕にも化膿などの異常はないとのこと。いつものようにその場で教えて頂く。そして小刀状の器具で、わずかに膣内部の組織を削り取る。しくっとした、ごくかすかな痛み。この組織が細胞診検査に回される。
     *
再び先生の席に戻り、2ケ月前に採った細胞診の結果を見せてもらう。ここが今日の診察のハイライトだ。異常なし。今のところ再発はない。続けて今日の血液検査の結果票も広げられ、転移がある場合異常が出ることが多い幾つかの項目がすべて正常値だと説明を受ける。
そう、今回の天のテストは通過したのだ。
     *
2ケ月後の予約を取って、病院を後にした。体調がいい時はバスに、疲れている時はタクシーに乗る。車窓に井の頭公園が見えて来ると「帰って来た」と思う。まるで旅から帰って来た時のように。
それからスコーンを食べに行く。定期検査の後は吉祥寺で何か好きなものを食べて帰ることに決めていて、今回は公園入口の紅茶専門店に寄った。出来たての、ほくほくのスコーン。文庫本の続きをゆっくりと読んで、日常が帰って来る。とにかくあと2ケ月は命が延びたのだ。公園の池の水面が冬の空気に澄みわたっている。
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クロワッサン「着物の時間」ちぇらうなぼるた店主 大山和子さんの着物物語を取材しました 2024/01/30



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マガジンハウス「クロワッサン」での連載「着物の時間」、今月は、青山のリサイクル着物店「大山キモノ ちぇらうなぼるた」店主 大山和子さんの着物物語を取材しました。
かつて表参道の真ん中辺りにあった真っ赤な柱の中華風の骨董店「オリエンタルバザー」をご記憶の方も多いかと思います。その二階にあった古裂店「大山キモノ」が、「ちぇらうなぼるた」の前身。大山さんのお母様が、戦後間もなくから始めました。
母から娘へ、二代に渡る物語を取材しました。ぜひご高覧ください。
第一特集「反り腰、巻き肩、スマホ首」も必見です!
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猫の手術、その後 2024/01/26



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2週間前に我が家の白猫チャミの左前足癌手術について投稿したところ、たくさんのDMやフェイスブックコメント、また、仕事の取材先でも温かい言葉を頂いた。お礼も兼ねて今日はご報告の投稿を。皆様本当にありがとうございました。

幸い予後は順調で、チャミは元気を取り戻している。
退院から六日目までは、やはり手術痕が相当痛むのか、また、手術を受けたことの精神的ショックも大きかったのだろう、〝自分のことで精一杯〟というかんじでひたすら眠り続けていた。ふだんなら「お昼寝から起きたよ!」「今からまた寝るから添い寝して!」と何かと甘えに来るのに。
寂しいけれどチャミのしたいようにさせてあげるのが一番、と、時々ごはんを持って行くのと頭を撫でに行くだけで、私も父もそっとしておいていた。ところが六日目の夕方、私が和室でPCに向かっていると、突然にゃーにゃー鳴いて部屋に入れろとやって来る。
「僕は夕方お姉ちゃんの足の間に入るんだから!いつもそうでしょ!まったくもう!分かってるよね!ほらほら!」
というかんじでぐいぐい足の間に入り、そのまま熟睡。そこから不思議とすべてが元に戻ったのだった。

もちろん小指は一本なくなってしまったが、もう調子をつかんだのかびっこを引くこともなくすたすたと歩き、気に入りの暖房器をつけてほしい時など、こっちこっちと小走りに私を誘導することもある。ソファの背もたれに鳥のようにとまっていたり(お気に入りの姿勢)、様々な椅子からも元気に飛び降りて、ごはんももりもり食べて。知らない人が見たら、指が一本ないなんてまったく分からないと思う。

実は、昨年夏、私が癌の手術のために八日間入院した時、チャミは摂食障害になってしまった。私の帰宅から二週間ほど、極端に食が細くなって、病院に連れて行かなければいけないかと心配したほどだった。
たぶん私の不在がとてつもなくショックで、その混乱の中に突然私がまた戻って来て今度はほっとし過ぎて、精神のバランスが崩れてしまったのだと思う。そんな風に繊細なチャミだから、あの時免疫ががくんと落ちてしまって、そして癌が発生したのかな、などと考え込んでしまうこともある。
ごめんね、チャミ、と欠けてしまった手を見ると悲しくなるが、でも、
「指なんか一本くらいなくたって、僕は何ともないもんねー」
とチャミがプライド高くすたすた歩き回っているのだから、こちらも合わせなければいけない。涙を拭いてぎゅっと抱きしめると、抱っこは嫌いなチャミだから、ヤだー!と生意気にももがく。うめばち一つ欠けただけの、変わらない毎日が続いている。

猫の手術 2024/01/15



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11月の終わり頃、我が家の白猫チャミの左前足のうめばちの一つが大きく腫れていることに気づいた。慌てて病院に連れて行くと、先生は、悪性腫瘍、つまり、がんではないかと言う。
すぐに組織を取る検査を受けたが、異常は認められないという結果が出た。けれど先生は出来ればもう一段詳しい検査をした方がいいと薦める。悩んだ末に、12月の終わり、うめばちの一部を小さく切り取る検査手術を受けた。チャミはもう十五歳のおじいちゃん猫だから体に負担は大きいし、臆病者で気持ちの細やかな子だから、帰宅後数日は見たこともないような険しい顔つきになってしまった。いつも隙あらば私の膝に乗ろうと狙っているのに、「一人で寝たい」と、隣りに敷いた電気毛布の上で寝ることを択ぶ。安定した場所で寝たいんだね、切ったところが痛むんだね、と胸が張り裂ける思いだった。
     *  
その後体力は回復して年末年始は元気に過ごせたが、年明けすぐに検査結果が出て、やはりがんだと告げられた。ただしまだ初期のステージで、血管に浸潤は見られず、先生の見立てでも、今切ればがんを絶やせる可能性が高いという。
それで、一昨日、手術を受けた。
朝病院に預けて午後に手術を受け、その日は病院に一泊する。チャミのいない家はがらんどうのようで、いつも座っている座布団に残っている窪みを見てため息をつき、そしていつもの日と同じようにドアを少しだけ開けておいたり(別の部屋から私の部屋来た時に、すぐに気づいてあげられるように)、庭に出る時にこっそり足音をひそめたり(僕も出たいと飛んで来るので)、そろそろ水を取り替えてあげなきゃ、と思ってしまったりする。自分の行動のすべてがチャミを前提にしていることに気づかされる。
     *
夕方、一人、吉祥寺に出て夕食を食べた。
とにかくチャミが私にべったりだから、いつもたとえば仕事で難しい取材を終えた日の帰り道など、本当はどこかで軽く食べて気分転換したいのに、結局駅ビルでタイムセールのお弁当など買って猛ダッシュで帰宅する。
だけど今日は何しろチャミがいないのだ。憧れの〝吉祥寺一人晩ご飯〟が出来る。それでわざわざ吹雪いているのに街へ出て行って、好物の「点心茶室」の志那そばを食べてみたりした。そして帰り道に病院の前まで行って、しばらくたたずんでいた。ストーカーさながらにじっと窓を見つめ(幸い雪はもう止んでいた)、本当は、
「チャミちゃーん、お姉ちゃんここにいるよ!頑張ったね!明日必ず迎えに来るからね!」
と呼びかけたいのだけれど、朝、病院に置いていく時に「夜、お外から励ましに来るからね」とぶつぶつ涙目で話しかけているのを先生に聞かれ、
「あ、それは止めた方がいいな。声が聞こえるのにどうして迎えに来てくれないんだろうってパニックになりますから」
と釘を刺されてしまった。どうやら入院の夜に病院の前に来るバカ飼い主は私だけではないらしい。それで、無言で、しばらく窓をじっと見つめる。そして帰宅した家はしんとしていて、失恋した日の夜のようなのだった。
     *
幸い手術は成功して、翌日、昨日の朝、迎えに行った。
前回の手術の時と同様チャミはやはりとても険しい顔つきで、びっこを引きながら家の中を一通り歩き回った後、ここ!とこの季節には過ごさない二階の寝室のソファで眠り始めた。ふだんなら夕方3時を過ぎると、
「お膝乗りしたーい!」
とにゃーにゃー騒いで畳の部屋で私が伸ばして座った足の間にどかっと入って熟睡するのに、呼びに来ることもない。やはり一人で眠りたいようだった。
それでも、時々こっそり様子を見に行くと、必ず目を覚ましてエリザベスカラーから顔を伸ばすようにして手に顔をすりつけて来る。いつものようにおでこにチュッをしてあげるとゴロゴロ喉を鳴らし、食事もよく食べ、水もよく飲んでくれる。明け方には自力で一階まで降りて、立派にトイレもした。階段を上る力は尽きてしまって、無言でじっとたたずんでいるのがたまらなくいじらしい。もちろん抱き上げて一緒に寝室に戻った。
今日の昼間は一階の居間で、いつもの日と同じように日向ぼっこをして眠り、今はまた二階に戻り、一人で眠っている。だいぶおだやかな表情に戻って来ている。
     *
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チャミの左手を見るのはとてもつらい。
うめばちだけではなく小指までまとめて切除したから、手がずいぶん細くなってしまった。今は手術のために毛も剃っているから、ぷくぷくとかわいかった左足はまるでヨーロッパゴシック建築の悪魔の彫刻のような、尖った怖い前足に見える。でも毛はまたすぐ生えて来るし、これであと数年、命が延びたのだ。
「小指一つなくなったって、元気に走り回っている猫ちゃんはいくらでもいますよ」
と先生も言っていた。きっとチャミもすぐ慣れてくれるだろう。

ただし、心配もある。手術前の血液検査で、腎臓の数値が大分悪くなっていることが分かった。これからは療養食に切り替え、自宅での注射もしていかなければいけないのかも知れない。残された時間ももうあまり長くはないのかも知れない。
とにかく、今は私のところに帰って来てくれた。家がいつもの家に戻り、丸くやわらかくふっくらとした何かに満ちている。ドアはいつも細く開けて、庭に出る時は抜き足差し足で。おでことおでこをいっぱいごっつんこして、一日一日を過ごす。お帰り、チャミ。
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新年ご挨拶 2024/01/09



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大変遅くなってしまいましたが、皆様、新年明けましておめでとうございます。
今年は年頭からつらいニュースが続きますが、被災地以外の場所にいる人間に今出来ることは、寄付。うんじゃらかんじゃらきれいな言葉を並べるヒマがあったら、現金。そう感じています。
もちろん自分の生活に見合った金額で良い訳で、私も微力ではありますが寄付を行おうと思います。そしてもう少し経ったら、能登や周辺地域の特産物を購入したい。美しいもの、美味しいものがいっぱいありますものね。世界に冠たる地震国の我が国は、明日は我が身。こうやって助け合っていくしかないことをまたしみじみと感じる新年となりました。

私事では、昨年は、母を見送った悲しみから立ち直る間もなく、年頭少し後から体調不良が続き、春から初夏にかけて検査、検査の不安な日々を過ごしました。
最終的に子宮体がんが見つかり、6月終わりに手術。歩くのにも苦労するところから少しずつ回復していく‥‥という、ひたすら自分の体と向き合う一年となりました。
現在はだいぶ元気になっていて、一例を挙げれば、12月のはじめに仕事の原稿が〆切目前でどうしても気に入らず、2日間ほとんど眠らず書き直しをしたのですが、特に疲労が残ることなくふだん通りに過ごすことが出来ました。
実はその2ヶ月ほど前の秋の初め、やはり〆切目前で原稿が気に入らず一晩徹夜をした時はとてつもなく疲れてしまい、2日ほどふらふら過ごしたことを思えば、急速に体力が回復しているように思います。

とは言え、ロボット手術のメス跡である五カ所の手術痕周りの皮膚、そしてその深部には、今も姿勢によっては強く痛みが走り、無理は出来ません。早足も小走りも出来るようになりましたが、長く走るのは到底不可能だと感じます。重いものもまだ長時間は持つことが出来ません。
このように体力が回復途上にあるため、今年は大きな目標は立てず、その時その時出来る範囲のことを確実にこなしていこうと思っています。どうか皆様も引き続きお手柔らかにお願い致します。

写真は、7日に東京国立博物館へ、生け花の師である真生流家元 山根由美先生と副家元の奈津子先生のお作を拝見に伺った時のもの。清新で凛としたお花に触れ、また、由美先生と写真を撮って頂き楽しくお話もさせて頂き、何とも楽しい時間となりました。
実は術後初めてのきものでの外出でウキウキだったのですが、この少し後、帰宅途中で絶不調となってしまい‥‥その話は次回に書きたいと思いますが、やはりまだ回復途上。ゆっくりゆっくりと進んで行かなければいけないと実感しています。どうぞ皆様本年もよろしくお願い致します。

クロワッサン「着物の時間」、華道「真生流」副家元 山根奈津子さんの着物物語を取材しました 2023/12/30



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今年最後の投稿は、最新のお仕事のご紹介です。
マガジンハウス「クロワッサン」誌での連載「着物の時間」にて、今月は華道「真生流」副家元 山根奈津子さんの着物物語を取材しました。
実は、真生流は、私が生け花を学んだ流派です(腕が錆びつきまくっていますが一応師範免状も持っております)。大学時代から中学留学へ出る直前の27歳頃まで、家元教場で学んだのですが、その頃、奈津子さんは小学生から中学生へと成長される少女時代。晃華学園のグレーの制服を着て、学校から帰宅すると私たちと並んで稽古に参加していました。小さな手で鋏を持つあどけない〝奈津子ちゃん〟の姿が今も私の目に焼きついています。
そんな奈津子さんがこれほどに美しい女性に成長されて、そして何より、おおらかさと品格をたたえた素晴らしい花を生けられ、家元の由美先生とともに流儀を引っ張っていらっしゃる。作品を拝見するたびにいつも私は胸がいっぱいになってしまい、完全に親戚のおばさんの心情なのですが‥‥。
しかし‥‥取材にはしっかりと臨みました。何しろ山根家は膨大な着物コレクションで知られます。その一部は「婦人画報」「美しいキモノ」誌などでたびたび披露されており、私もいつか取材したいと念願していました。
当日は、生け花と着物には共通点が多いと感じているというお話や、色にまつわるお話を中心に、着物とご自身の関わりを語って頂きました。ぜひご高覧頂けましたら幸いです。
そして、奈津子さんは、1月2日から14日、東京国立博物館「博物館で初もうで」展にて、正面玄関や本館大階段ロビーに由美家元ともに大作を披露されます。ぜひ足を運ばれてみてください。

一周忌 2023/12/27



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少し前のことになるが、十月半ばに母の一周忌を迎えた。
その日は何も予定を入れず、近所に買い物にさえ出かけず、家で猫と静かに過ごした。毎年この時期は我が家の庭には咲いている花がなく、唯一、芙蓉の木が花をつけているのだけれど、今年も同じようにたくさんの花をつけていて、見ていると、亡くなった日のまだこれは夢なのではないかと信じたい気持ちと、もう本当に終わってしまったのだとあきらめ認めている気持ちと、そのどちらもがない交ぜになった、混乱したあの日の自分が再び帰って来たようだった。

一年が過ぎて、悲しみが薄らいだかと言えばそのようなことはなく、何かスープなどを煮詰めていくとおりがたまる、そのおりの中に閉じ込められて毎日を生きているように感じる。
私の場合は特に母が認知症になってしまったことが何よりもつらかったから、その苦しさがいつも悲しみの中枢にある。
どうしてなんだろう?どうしてママが認知症にならなきゃいけなかったのだろう?――もちろんそんなことを考えてもどうしようもないことは理解しているのだけれど、それでもまた同じことを考え思考が堂々めぐりする。生きるということは、きれいに割り切れることだけで成り立っている訳ではなく、割り切れないことを割り切れるとこじつける偽善が私は何より嫌いだから、ただ、その悲しみをじっと感じて立っている。そんな一年だった。

芙蓉を見上げていたら、足もとにいつの間にか小さな黄色い蝶が飛んで来ていて、もしかしたら母が来てくれたのだろうか、などと思ったりもする。
久し振りに写真を撮りたくなって、もちろんそんな時はスマートフォンでもなくデジタルカメラでもなくフィルムで撮りたいのだから、ジェラルミンケースから古いニコンFM3Aを引っ張り出してみたりもした。以前は特に好きでも嫌いでもなかった芙蓉の花が、いつの間にか好きな花になっていた。
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「美しいキモノ」連載「美の在り処」今号は「帯源」さんを訪ねました。 2023/12/08



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「美しいキモノ」での連載「西端真矢が訪ねる 美の在り処」、病気治療のため休載していましたが、再開致しました。
今号で訪ねたのは、浅草の老舗「帯源」さん。長年取材してみたいと思っていたお店で、今回、私から編集部に強く提案して取材が実現しました。

帯源さんと言えば、男物の博多織角帯「鬼献上」で有名です。
「鬼献」の愛称で親しまれ、私も歌舞伎、日本舞踊、邦楽など伝統芸能分野の方々、また、東京の老舗の旦那衆の取材で「鬼献は別格」「毎年一本は買っている」などという言葉を何度も耳にして来ました。

一体何がそれほど良いのだろう? 他の博多角帯と何が違うのだろう?
そのような素朴な疑問を解き明かしたいと武者震いで浅草に向かい、店主の高橋宣任さんと対話を繰り返す中で、今回史上初めて鬼献誕生の原点までたどり着くことが出来ました。これは近現代服飾史において一つの大きな成果になったと自負しています。

今回の原稿をとても気に入っています。
それは、上記したような服飾史上の成果に加え、この連載で探し当てようとしていること、名店と言われる店々の好み、美意識は土地の美意識と不可分に結びついているはずだ――という、実は連載当初から持っていた問題意識を特にはっきりと文章に刻むことが出来たからです。

浅草という江戸時代以来の特異な街。いや、本当はどの街もみな特異で、それぞれの成り立ちを持っている。その中からまるで麹が醗酵するように知らず知らずと育まれて来た好みを具現化出来た店こそが、名店と言われるようになるのだ――
そのようなパースペクティブを、この連載ではこれからも追究していけたらと願っています。
今回は、文体も、本来の私自身の文体よりもほんの少しシャキっと歯切れ良い下町風に寄せて書くことを試みました。どうかそんなところもお楽しみ頂けましたら幸いです。

やまと絵の本質とは何か~~ヨーロッパ、中国絵画との比較から 2023/11/22



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前回のブログで東博「やまと絵展」について簡単なレビューを書いた。その中で、特に愛する二点の作品があることも書いたのだけれど、何故その二点を特に素晴らしいと思うのか、もう少しきちんと書いてみたいと思う。
と言うのも、それはとりもなおさず日本美術の真髄とは何かということ、ひいては日本人の精神世界を考察することにつながると思えるからだ。20代の頃に紆余曲折、ヨーロッパと中国をうろうろしながら考え続けて来たことをまとめてみたくなったのだ。そう、二枚のやまと絵の傑作に背中を押されて。

はじめにその二点を改めて挙げておく。
一点は、金剛寺所蔵の国宝「日月四季山水図屏風」
もう一点は、東京国立博物館所蔵の重要文化財「浜松図屏風」
ともに室町時代の作品だ。
描きぶりから、日月図屏風が応仁の乱前後、浜松図屏風はもう少し後の時代、信長など、戦国の英雄がちょうど生まれて来る頃あたりの作かなと感じるが、私は専門家ではないので正確なことは分からない。
そして、作品の画像は今はネット上で簡単に得られるので画像検索して頂ければと思うし、何より実物を見に行って頂きたいと思う。ただ、今回の図録から、部分に寄った写真を撮って掲載しておく。本稿の主題に関わるので、これらの画像を覚えておいて頂けたらと思う。
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さて、ここで、20代の私のことを書いてみたい。
当時の私は大学で西洋哲学を専攻し、長期の休みにはフィレンツェやミラノにホームステイ、卒業後も仕事の合間に独学で西洋哲学の勉強を続けていた。当時父がローマに赴任していたこともあって度々イタリアを中心にヨーロッパ各地を旅して回り、だからヨーロッパの絵はよく見ていた方だと思う。
そのような生活の中で、ある日つくづくとため息をついた。ヨーロッパ人って、本当に、聖書とギリシャ神話しか描いていないな、と。
もちろん、近現代になれば違う。けれど大まかに言って17世紀後半までは、彼らは本当に聖書とギリシャ神話しか描いていない。特にフィレンツェに暮らして毎日毎日ルネサンスを肌に感じていると、どちらにもさして思い入れのない私は「Basta, grazie=もうお腹いっぱいです!」と叫びたくなってしまうのだ。そしてとても奇妙にも感じた。ヨーロッパの画家は何世代も何世代も同じ画題ばかり描き続けて、飽きはしなかったのだろうか? と。
美術を専攻していた訳ではないからこその素朴な疑問だが、更にこうも思った。ヨーロッパにはこんなに美しい森や湖や木や花や霧たなびく空があるのに、何故画家たちはそれを描こうとしなかったのだろうか、と。
もちろん、当時は画材も紙も貴重品だから、おいそれとは購入出来なかっただろう。しかし貴族や国王から注文があれば描けたはずだ。つまり、国王も貴族も自然を主題とした絵を求めていなかったということになる。

実は、我が家は母が日本美術史の研究者で、私は子どもの頃から日本美術に親しんで育った。今回の「やまと絵展」でも明らかな通り、日本人は古代より山や川や鳥や花を描きまくって来た。
もしも中世の日本人絵師が何かのことで嵐の日に流れ流されローマに住むことになったとしたら、ローマには七つの丘があるから、腕に寄りをかけて「五月オリーブ カンピドリオの丘図」あたりを描いたはずだ。そう、「吉野山図」の要領で。日本では常に自然が賛美され、最も重要な画題であり続けて来た。
ところがその自然を、1700年近くヨーロッパ人はうっちゃって来たということになる。いや、一応自然も描いてはいる。しかもその〝正確な再現〟を模索して、ついには遠近法を発明までして描いている。しかし、あくまでキリストやらマリアやらヘラクレスやらアポロやら誰やら彼やらが奇跡や戦いや覗き見やら何やらをしている、その後方の背景としてだ。ヨーロッパ絵画では、長く、自然は絵の片隅に押しやられていた。
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そのことに思い当たった時、確かローマのどこか回廊のようなところを歩いている時だったが、思わず立ち止まって、ああ、でも、それこそがヨーロッパなのだと思った。
ヨーロッパで暮らし、ヨーロッパ哲学を学んでいると、いたる所に〝絶対〟を感じる。
たとえば今、目の前にある木や石。それを作った〝神〟という絶対。それからもう一つ、〝イデア〟という絶対もある。
イデアはギリシアの哲学者プラトンが提唱した概念だ。今、自分の目の前にある木や石はどれも一個きりの個体だが、私たち人間の知性はそのような一つ一つの現実の個体を超越した〝木のイデア〟〝石のイデア〟を知っている。それは木を木たらしめる、石を石たらしめる存在の核心だ。だからこそ人間はたとえ百万個の石がそれぞれに違った形をしていても、どれも〝石〟だと認識出来る。ごく簡略化して言うとそのような考え方だ。

このイデアと神という二つの絶対が、やがて結びついていく。ギリシャ哲学とキリスト教は本来まったく別の時代に、別の場所で生まれた関連度ゼロの思想体系だったが、何人かの哲学者が出て融合させたのだ。
彼らはこう考えた。プラトンの言うイデアの中で、至高のイデアとは善のイデアである。そしてこの善のイデアこそ、キリスト教の神に当たる、と。ちょうど日本の中世期にお坊さんたちが神道と仏教を融合させて、天照大神は大日如来!と考えた、あの歴史の授業で習った「本地垂迹説」「神仏習合」と同じ思考操作だ。そして万物の中で我々人間だけがイデアを認識出来る。それは神から理性という恩恵を与えられたからである、と。
‥‥スーパーざっくり言うとこのように、ヨーロッパ人はギリシア哲学とキリスト教を融合させて世界をとらえて来た。そして彼らのこのような理性を至高とする精神のあり方が、絵画にそのまま表れていると思うのだ。
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ヨーロッパの精神に従えば、そこには一つの方向性が生まれる。
永遠普遍のイデアが上位であり、時が経てば消滅してしまう個別の個体は下位に属する。そのような上から下への方向性だ。だから木のイデアが上位であり、今、目の前に生えているオリーブの木は下位に属する。
或いは、理性を有し木のイデアをとらえることが出来る人間が、木よりも上位であるという方向性もある。木だけではない。鹿よりも熊よりも狼よりも、自然界のあらゆる万物より人間が上位である。人間は理性を持つ故に、自然の頂点に立っている。そのような、やはり上から下へ見下ろす方向性だ。
このような方向的精神は、自然を観察的に眺める。それは下位にあるものを系統立てて把握・支配しようとする理性の働きであり、また、偉大なる神がお創りになった自然を、可能な限りその神に近い視点で把握しようとする努力でもある。だからこそヨーロッパ絵画では、長く、自然は背後に押しやられたのではないだろうか。主題として賛美されるのは神でなければならないのだ。
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これは文学でも同様ではないかと思われる。
実は、私の父はヨーロッパ文学の研究者であり、専門はルネサンス期の文学だが、ギリシャから近代まで主要な文学作品を原書で読んでいる(ラテン語を含め、何と七か国語に通じているのだ)。
本稿を書くに当たり、その父とも話し合ってみたが、ヨーロッパ文学で、純粋に風景を叙述したり、賛美した詩は見当たらないという。「ホメロス」などギリシャの叙事詩、或いはペトラルカあたりも書いていそうに思ったが、必ず神や人間の営為とからんで叙述されているという。
万葉の昔から自然を愛で、歌に詠んで来た私たち日本人の精神世界との何と大きなくへだたりだろう。日本とヨーロッパ、どちらが優れていると評価を下したい訳ではない。ただただその差異に吃驚するのだ。
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やがてそんなヨーロッパにも市民社会が生まれ、教会の力が弱まるに従って、絵画の主題にも変化が現れる。まず、人間を主題とした絵が描かれるようになり、やがて自然も絵画の主題に据えられる。オランダやドイツでは17世紀後半から、フランスやイギリスに至っては、ようやく19世紀に入ってから。風景画の登場はつい最近のことなのだ。
しかし、そんなヨーロッパの風景画は、それでもやはり、プラトン以来のイデアの精神を内に有していると感じる。
ミレーは、コローは、そしてかつて背景として自然を描いたラファエロやダ・ヴィンチもそうだったが、目に見える通りに正確に、つまりは理性的に自然を描くことに多大な努力を払っている。正確性ではなく心に感じるように描くという態度は、ターナーや印象派の登場まで待たなければならない。ヨーロッパはひたすらに、理性的把握の内側で自然を再現しようともがき続けたのだ。
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ここで再び私自身の話に戻りたいと思う。ヨーロッパと日本を行きつ戻りつうろうろしていた私は、ある時、香港台湾映画に激しいショックを受け、突如中国留学を決意する。きっかけとなったのは王家衛の「天使の涙」という作品だった。
「ここには、余白がある」
スクリーンを見つめながら震える思いでそう感じた。それが衝撃の根源だった。そしてその衝撃が私の人生を一変させ、ついには中国に向かわせることになったのだ。つまり〝余白〟が私の人生を変えたことになる。
では、余白とは何か。それは、カットから次のカットへの時間の長短のつけ方から生まれる〝時間の余白〟であり、また、極端な広角レンズの使用が生み出した、文字通りの〝画面上の余白〟だった。私はそこに強烈な美を感じたのだ。

後から考えれば、それは、先祖返りだったのだと思う。そう、幼い時から親しんで来た東洋の美への回帰だ。
哲学を専攻したことからヨーロッパ美術にどっぷりつかることになり、10年近く、理性的に構築された美を見続けていた。その長い年月の後に突然、広角レンズによって極端に歪み、多くの余白をはらんだ不安定な画面構成を見せつけられた時に、その美の方を何百倍も美しいと思う自分がいたのだ。

日本美術、中国美術では、余白は自明の存在だ。
山を描き、滝を描き、その周りの他の山々や道や田園風景やらを描いてもいいが、別に描かなくてもいい。どーんと余白にしても何の違和感もないし、雲や霞をたなびかせ、もやもやもやっと処理しても構わない。日本では時に、その雲が現実には存在しないキンキラキンの金雲だったりもする。
私たちの美術には、見えた通りに、正確に、理性が把握する通りに完璧に描き出そうという意志が、そもそも存在していない。だからこのような描き方が生まれるし、むしろヨーロッパ的に画面の隅々まで正確に描けば、日本美術や中国美術ではうるさく感じられてしまうだろう。
そうではなくて、我々が描こうとして来たのは、山なり滝なりに心を奪われた時に見た者が受ける、その一瞬の感覚だ。霊峰と呼ばれる山へ近づいて行った時、或いは、紅葉の色づく谷間の道を歩く時、我々はその山をただ一心に見つめ、紅葉に目を見張り、その時眼球と心とは一直線に結びついて、レンズの焦点を合わせるように山だけが、紅葉だけが視界に特権的に浮かび上がっているはずなのだ。その時周辺にあるものは視界から一瞬間消滅し、何なら視角の端が急に六次元に歪んでいても気づかないのかも知れない。いるのかいないのか知れない全知全能の神が見るように、視角内のすべてのものに目配りすることなど、本当は人間はしていない。遠近法などあってもなくてもどちらでもいい。主観的ではない見方なと本当はあり得ないのだ。
そして日本美術でも中国美術でも、私たちの目の前に広がる自然は常に重要な画題だった。
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もちろん、日本人と中国人の美意識がすべて一致している訳ではない。
中国で暮らしていると、〝大きさ〟を感じる。自分が暮らしている大地が日常の感覚でとらえられる範囲を超えて果てしなく遠方まで広がっていて、その土の上には時に奇怪な形の山や、海としか思えない巨大な河が現れる、そのような巨大で奇怪な感覚。
中国の叙景詩はこの感覚の上に詠まれているし、水墨画にはたとえば日本では見たこともない岩肌の山が描かれている。中国人も自然を賛美するが、宇宙的とでも言ったら良いのだろうか、人知を超えた自然を前に、天晴と賛美するような側面を持っている。
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ひるがえって日本人と自然の関係はどのようなものだろうか。
思えば、日本の自然はすべてにおいてほどよいのかも知れない。
それなりに暑い時期も寒い時期もあるが、二ヶ月ほどを耐えれば過ごしやすい季節が訪れ、山も川も人間に対してそこまで挑戦的ではない。もちろん大地震という恐怖はあるが、一生のうちに出逢うか出逢わないか。そしてどこにいても数日も歩けば必ず海に到達して、私たちの大地には区切りの線が引かれている。その区切りの中で、草木が花を咲かせ実をつけ葉の色を赤や黄色に変え、渡り鳥がやって来て去って行く。このようなほどよい自然と私たちは友人のような関係を結んで来た。
だから、日本人にとって自然は征服するものではなく、人の下位にあるものでもなく、しかし理解不能なほど巨大でもない。美しく細やかでくるくると変化し、親しく私たちの傍らに息づいている。この感覚、我々にとって当たり前のこの親しい感覚が、歌にも絵画にも表現されているのではないだろうか。

そしてその最も成功した姿を、「やまと絵展」の二作に見るように思う。
ともに自然の風景を描いたものだが、添付した部分写真を見てほしい。波が、枝が、雲が揺れ動いていることが分かるだろう。
もちろん、揺れ動く自然のさまを描写したやまと絵は星の数ほどあるが、この二作はその表現が特に抜群に秀でている。構図への絶妙な配置、筆致のどの一線も凛と力をたくわえ、その確かな画力が更に揺れる自然の表現に向かっているのだ。
実際に作品の前に立つと、確かに風が渡るのを感じる。波の音が聞こえ、木々の枝がゆっくりとしなり、その時、私たちは確かにその風景を目撃している。正しく描かれているからではない。遠近法は激しく狂い存在しない金色の雲がたなびき、まったく正しい描写ではないが、だからこそ私たちは本当にその景色を見ることになる。たまらなく美しく、たまらなく近しい私たちの自然が目の中にいっぱいに広がっている。その時、鳥に、木々に、波や風に私たちの喜びや悲しみが重なり、一つに溶け合って風に揺れる。私たちは自然と一体になる。やまと心の最も高まった瞬間がこの二作には描出されているのだ。
これ以上書くことは何もない。ぜひ二作を見に足を運んでほしい。会期はあと一週間。二作は第一室と最終室に展示されている。