西端真矢

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二つの訃報 2023/08/17



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毎年、お盆には亡き人の御霊を迎え、偲ぶが、今年は格別悲しい年になってしまった。八月十五日、一日に二人の友人の訃報を受け取った。

一人は、Mさんという。
「美しいキモノ」編集部で長く助手を務め、同時に自分自身でも着付け教室を主催していた女性だった。
彼女と初めて話したのがいつだったのか、まったく思い出せない。打ち合わせや入稿のために編集部に行くと、彼女がいて、仕事上の接点はそれほど多くはないけれど、何か気が合うものがあった。気がつくと仲良くなっていた。
最初は仕事の合間に、編集部のストックルームや廊下の壁にもたれて、ひそひそお喋りをした。それが楽しくてやがて二人で銀座の高級リサイクルきもの店巡りをしたり、美味しいケーキを食べに行ったり。話に夢中になり過ぎ、て気がつくとカフェの窓の向こうが真っ暗に暮れていて、ご家族のある彼女は、大変!晩ご飯作らなきゃ!と慌てて解散した日もあった。

やがて、私が世話人役を務めていたプライベートな染織講座で、母の介護のためにその役が出来なくなってしまった時、彼女に後を頼んだ。
染織に造詣が深く、しかも細やかに気が回り、実行力のある人。
私などより何倍も適役で、我ながらいい人選だわとほくそ笑んだりもした。ちょうどコロナ真っただ中の時期だったけれど、「収束したらこんな企画をやってみたい」「ツアーを組んでこんな所に行くのはどうかな」と、彼女の特徴である大きな目をキラキラさせて話してくれた。

その彼女が病におかされ、長期の療養に入ったと知ったのは、母を見送って少し経った、今年の年明けだった。
最初、私は彼女の闘病を知らず、講座に関連することで、あるお願いのメールを送った。すると彼女は、長く座っていることも出来ないほど衰弱していたのに、何も言わず、まず私の依頼を実行してくれた。その後で、実は、と病気のことを打ち明けた。そういう深い心配りを、さらりとやってのける彼女だった。とてつもない心身の痛みの中で。

     *

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もう一件、受け取ったのは、吉澤暁子さんの訃報だ。
着付け師、スタイリスト、着付け教室主催、振袖レンタル事業の経営‥‥大阪を拠点に幅広く活動する、きもの界のスーパースターだ。
彼女と私は同い年で、2015年、私が或るきものイベントの運営を手伝った時に知り合った。
彼女の活動の中心が関西ということもあって、顔を合わせた回数は少ないけれど、世の中には「お互い何故か気になる存在」という人がいる。彼女とはまさにそんな関係だった。SNSで常に互いの活動は把握していて、時々やり取りを交わして。タイミングを見て私の雑誌連載に出てもらおうとも考えていた。

そんな彼女が体調を崩し、療養に入っていると公表したのは、今年の春だった。ちょうど私も手術が決まり、メールを送った。彼女の病名は分からなかったけれど、一緒に乗り切って行こうとと伝えたかった。
「東でポンコツの西端も何とか頑張ってるから、吉澤さんがつらい気持ちになることがあったら思い出して」
そんなことを書いて送ると、「今、関西に親戚爆誕したから」「大阪人だからお節介焼くから」と、いかにも大阪の人らしい冗談で笑わせてくれながら、私の闘病を応援するから、と返事をくれた。病気を抱えながらも、仕事を続ける。そういう新しいライフスタイルを世に問うていくつもりだとも明かしてくれた。それなのに‥‥

最後に彼女が私のブログに「いいね!」を押してくれたのは、8月1日のエントリだった。病理診断の結果、私の癌が最も初期の状態だったことが確定して、抗がん剤治療から免れたことを知らせる内容だったが、その時、彼女はどんな気持ちで、いいね!を押してくれたのだろう。
彼女は自分の葬儀について意志を残していたという。そんな状態の中で、私の癌が初期だったことを喜んでくれたのだ。それを思うと、胸が張り裂けそうになる。その心の大きさに打ちのめされる。

    *

今、目を閉じると、二人のきものの着こなしが浮かんで来る。二人とも抜群に趣味が良く、そして、語っても語っても語り尽くせぬほどにきものを愛していた。もっともっとおしゃれを楽しみたかっただろう。これから晩夏へと向かう季節、あの帯を締めたい、中秋の季節にはあの帯、と‥‥。人生のプランもいくつもあっただろう。その無念を思うと悲しくてたまらない。もう一度、二人に会いたい。

ただただ二人の素晴らしさを伝えたかったから、何とか気持ちを奮い起こしてこのブログを書いた。
写真は、2016年に吉澤さんと撮ったものと、もう一枚は、我が家の睡蓮鉢を撮った。この数年咲かなかったのに、訃報を聞いた日とその翌日、神々しいほどに美しい花を咲かせていた。優しく、そして美しかった二人は、今、きっと、二人を愛したたくさんの人のもとを順番に回り、私の所にもちょっと立ち寄ってくれたのだ。そう信じたい。ただ、静かに二人を偲ぶ。合掌

#吉澤先生と一緒

クロワッサン誌「着物の時間」スタイリスト 大沼こずえさんの着物物語を取材しました 2023/08/08



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入院前最後に取材していた記事が発売されています。
マガジンハウス「クロワッサン」誌での連載「着物の時間」、今月はスタイリストの大沼こずえさんの着物物語を取材しました。
大沼さんと言えば、数々のファッション誌や旬のタレントさんのスタイリングを担当する有名大物スタイリスト。洋服モードのトップランナーと言っていい存在です。
けれど、大の着物好きで、この夏は浴衣のデザイン監修もしたらしい。そんな情報を耳にして、早速取材を申し込みました。お話を伺うと、着物だけではなく、お茶とお花を幼い頃からたしなみ、今も多忙な毎日のうるおいとしていて‥‥どうぞ記事をご高覧ください。

幸運の空~~子宮体がんロボット手術回復記 2023/08/01



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昨日は、退院後、初めての通院だった。
手術から一ヶ月。このタイミングで傷の経過を見るのが標準らしい。大量の患者でごったがえす一階ロビーを通り抜けると、戦地再訪の思いがするのだった。

婦人科の診察室で名前を呼ばれ、再び大股開きのあの台に座る。座り方など、もうベテランの域かも知れない。股の間から腹部へエコーカメラが入り、ライブ映像を先生が確認していく。子宮、卵巣、卵管、リンパ節。それらの臓器が切り取られた箇所は、すべてきれいに傷がふさがっているということだった。

その後、台から降りて、ベッドへ移るように言われた。お腹表面の切開痕を目視確認するという。
ロボット手術では、おへそのラインに五つ、等間隔で直径2センチほどの穴を空け、そこからロボットアームが入り、切った貼ったを行う。
だから、今、私のお腹には、惑星直列のように五つ手術痕が並んでいる。ちなみに中心はおへそだ。おへそからもアームを入れている。五つともしっかりふさがっているということで、続けて抜糸を行った。左の四つの穴は溶ける糸で縫われていて自然に体に吸収されつつあるが、一番右の穴だけは、老廃物を体外に出すために、術後、ドレーンという管を入れていた。
その穴だけは、退院前日に普通の糸で縫合したため、今回、抜く必要があるのだ。チクリとするのを我慢。3本の糸が無事体から抜け出て行った。

     *

そして、椅子へと座り、今日のハイライト、病理検査の結果説明が始まった。いよいよだな、と思う。この一ヶ月、ずっと案じ続けていたことだった。さすがに胸がドキドキしていた。
実は、子宮がんの治療は、手術が最終地点ではない。
摘出した子宮、卵巣、卵管、リンパ節は、術後すぐ病理部へ送られ、がんの進行がどの段階にあるのか、細胞レベルで精査されるのだ。その進行タイプによっては、潜在的な転移の可能性があり、予防のために抗がん剤治療を行わなければならない。だから、手術でがんを取りました!きれいさっぱり大団円!とはならない。

よく知られているように、抗がん剤は、がん細胞だけではなく健康な細胞も一部破壊してしまう。その結果として強い倦怠感や食欲不振、髪が抜けること‥‥多くの重い副作用に苦しむことになる。
非常な勇気を振り絞ってつらいつらい手術を乗り越えたのに、また同じほどにつらい治療が始まるのだ。どうか受けないで済むように。誰だってそう願うだろう。

‥‥それでも、覚悟はしていた。
医療用ウィッグのウェブサイトを閲覧して、このかつらならいいかも、とブックマークまでしていたし、愛する猫のチャミをまたもや留守番のストレスにさらすことを思うと、入院ではなく、通いで抗がん剤治療を受ける!そんなことも考えていた。

幸いなことに、結果は最良のものだった。
私の子宮の表皮は22ミリの厚さだったそうだが、がんの進行は、わずか1ミリまで。リンパ管、リンパ節への浸潤もまったく見られない。正真正銘に最初期のがんだということが、ようやく科学的に確実になったのだ。よって、抗がん剤治療の必要も、ない。
「良かったですね。今後は2ヶ月に一度、定期診察を行います。血液検査やCT検査で再発がないかをしっかり監視していきます」
そう先生がおっしゃり、深々と頭を下げる。訊くのを忘れてしまったが、この定期診察は、たぶん5年間続くはずだ(どの医療サイトにもそう書いてある)。もちろん、再発の可能性はある。これからの人生を常にその可能性を抱えながら生きていかなければならない。けれどとにかく、ただちに再び苦しい治療に入ることは免れたのだ。

     *

病院を出ると、夏らしい澄んだ青い空に、ぽこぽこと白い雲が浮かんでいた。その広い空の中へ、深い安堵の気持ちが吸い込まれていく。
けれど、同時に、同じ手術をして、ここから更につらい治療に入る人もいるのだということに思いが向かう。これまで苦しかったから、その人たちの苦しさを思うと、ただただ嬉しいと単純に喜ぶことは、もう出来ない。

屋上から、ドクターヘリが旋回して飛び立って行くのが見えた。
どこか、この近くに、今この瞬間、生きるか死ぬか、命の危機に直面している人がいるのだ。手術の日、自分が、手術室の銀色の天井を見つめながら、生きるか、死ぬかだと思った、その時の気持ちが不意によみがえった。ここから先、もう自分に出来ることは何もない。自分の命を医師団という他人に預けるしかない。どうして自分はこんなことになってまったのだろう?――あの、風に吹かれる一本の草のような、よるべない無力感がよみがえる。
とにかく、これからまだしばらくは、そのような命の危機を免れた。自分の幸運に感謝しながら傷をかばい、ゆっくり、ゆっくりとタクシー乗り場までを歩いて行く。ドクターヘリの爆音が空を遠ざかって行く。