西端真矢

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文字についての話(一) 文字は人を表すか?+「優しい」という漢字について 2014/01/13



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 初めて人前で大っぴらに話すことだけれど、実は私は文字について、一種のフェティシズムを持っている。つまり下世話な言葉で言えば、“文字フェチ”ではないかと思うのだ。
 どういう風に文字フェチかと言うと、例えば仕事の書類を作らなければいけないのにどうしても気分が乗らない時、或いは一日外出して帰宅後にお風呂を沸かし、そのお湯が沸くのをちょっと待っている間などに、白い紙にただただ文字を書いていると心がとても落ち着く。それも、ただ書くのではなく、自分なりにいい形になるようこだわりを持って書くのだ。
 例えばその夜がとても静かな晩だったら、

      しずか

と紙に書いてみる。書いてみると「し」の字の丸い部分の下がり方が気に入らずもう一度書くことになり、すると今度は「ず」の濁点の位置が気に入らないし、「か」の上に下がって来る縦の一本の長さをもう少し長くした方が良いのではないかと気になって、もう一度「しずか」全体を‥などとやっていると、紙の上にはしずかしずかしずかしずかしずかと、いくつも「しずか」が並ぶので、何も知らない人が見たら相当に不気味であるに違いない。けれどこれがどうにも心が落ち着くのだから。
気が向くと、今度はその横に「静か」と漢字で書いてみる。これは、「静か」、英語で言うところのsilentという言葉を日本語では表音文字と表意文字で表せる訳で、日本人なら当たり前のこの事実がどうにも面白く感じられてしまい、紙の上にはいくつもの「しずか」の横に、今度はまた「静か」が五つ六つと並ぶことになる。
 そして気が向くと、今度は「星」と書いてみたくなる。それはただただありきたりの連想で、その日はとても静かで空には星がいつもよりも多かったのだから、「星」と書いてみたいだけのことなのだ。
もちろん、「星」もいくつも書いてみる。「星」だけではなく「ほし」。そして「雲」や「夜」も。こんなことをしているとあっと言う間にお風呂は沸いてくれているという訳である。

          *

 人の名前を書くこともとても好きだ。
 自分の名前、それから、知人や、偉人の名前を書くのも妙に心が落ち着く。例えば

      徳川秀忠

などと書いてみると、「徳」の字の画数が多く川の字の画数が少ないので両者のバランスを取るのが案外難しいし、「秀」の字の冠の下にある「乃」の字をかっこ良く書くのはかなり難易度が高い‥と、ここでもあれこれやっていると、これまた紙の上に徳川秀忠徳川秀忠徳川秀忠徳川秀忠徳川秀忠と、十個ほども並ぶことになってしまう。別に徳川秀忠が特に好きという訳でもないのだけれど、かと言って、嫌いな偉人の名前を書くこともない。
 こうして、徳川家康、足利義満、山名宋全、田沼意次、小堀遠州、勝海舟などなど、特に感慨がない~積極的に好きレベルまで、日本史の偉人の名前を心に浮かんだままに書くことになるのだ。

 思うに、人は生まれ落ちた瞬間にはどのような名前にでもなる可能性を持っている訳で、しかも昔の人はしょっちゅう名前や苗字を変えていたのだからその可能性はもしかしたら1兆通りくらいあったのではないかと思うのだけれど、その中で、多くの人の心に刻まれる、たった一つの名前が私たちの前に残されている。その選ばれた名の文字のかんじとその人物の波乱に満ちた一生が、偶然なのか必然なのか、今、その形に結びついて落ち着いていることが、何とも不思議に思えてならないのだ。だから私は、何度もその名前を紙に書いてじっと見つめてみる。やはり私はちょっとおかしいのかも知れない。

          *

 そんな私なので、人がどんな字を書くのかも、実はとても気になってしまう。
 例えば、この人はとても大きな視野を持った人ではないかしら、と思った男性が意外なほどこせこせした字や何だか丸文字のような字を書いていると正直がっかりするし、逆に、見ていて気持ちのいいおおらかな字や品格ある字を書ける男性に対する印象は、当然のことながらかなり上昇する。
 以前、或る女性と盛り上がったことがあるのだけれど、その女性の旦那さんがとてもいい字を書く方なので、
「**さんの字はとてもきれいですよね」
 と言ってみたら、その方は目をキュッと見開いてよくぞ分かってくれました、と言うように、
「そうなの!彼の字が好きだから、彼を好きになったの」
 と笑顔で言われたので、さすがにこれには驚いてしまったのだけれど、でも、やはり世の中私だけではなく、字について特別な関心を払っている人がいるのだということを、その時私は確信した。みんな「この人少し変じゃない?」と思われないよう、こんな風にブログに書いたりしないだけなのだ。

          *

 ただ、では字と人格が本当に不可分に結びついているのかどうか、ということについては、実は私にはまだよく分からない。品格ある美しい字を書くので好感を持っていた女友だちが、よくよくつき合ってみると身の程知らずに我が強くて辟易とさせられることもあったし、どうしてこんな、いかにも教養がなさそうに見える丸文字を書くのだろう、という女の子が、一緒に仕事をしてみると非常に頼りがいも、洞察力もある女性だったこともある。
 ただ、こうした例外は時にはもちろんあるけれど、全体的に見れば、字にその人の人間性は大まかには現れるような気はしている。こせこせした字を書く人はやはり人間性の芯のところではこせこせしているし、或いは視野が狭い人であることが多いし、また、いかにも神経質そうな文字を書く人は本当に神経質であることがとても多い。どこかぐにゃっとしている、或いはどこかだらしのない字を書く人は考え方に定見がないことが多いし、また、誰の目にもはっきりと分かるような非常に大きな癖のある字を書く人は(たとえば異常なまでに右肩上がりの字など)、性格・性向に非常に特異な面を持っていることが多いのではなないか――そんな風に、文字フェチとしては統計的に思うのだ。
 
 それにしても、こうして言われてみると、皆さんちょっと怖くなっては来ないだろうか?今の時代、文字もコンピューターを介して書くことが多くなってしまったけれど、本当は、字はとても重要な証拠物件なのだ。知らず知らずに書く人自身を表しているし、相手を見きわめる鍵にもなる。或る程度大人になったら、あまり子どもっぽい字を書いていると、実はしっかり見る人には見られているので直した方がいいのかも知れない。もちろん、直そうと思っても治らないものなのかも知れないけれど――。

          *

 さて、そんな私なので、文章を書く時に漢字を開くか開かないか、ということも、とても気になってしまう。この「開く」というのは出版業界用語で、例えば「その時」と書きたい時に、「時」を漢字で書くかひらがな書きにするか、これは出版社ごとにルールが違っていて、ひらがな書きすることを「ヒラク」、漢字書きにすることを「トジル」と呼ぶ。
 だから、もしも私がA社の仕事をしていて、そこの「時」のルールが開くであることをたまたま忘れ、いつもの癖で「時」で原稿を入れると、校正時に赤線を引かれて横に「ヒラク」と訂正書きをされてしまうのだ。これが、「開く」と「閉じる」のルールだ。
 私の文字フェティシズムのせいだろうか、この「開く」「開かない」問題にはいつもかなり気持ちが引っかかる。自分では「中」と漢字で書きたいのに出版社のルールで「なか」と開かれたりすると、何か非常に理不尽な罰を受けたような気がしてしまうのだ。そう、私にとって「なか」はどうしても「中」でなければならない!‥けれど、もちろん仕事の時は、相手方のルールにしっかり従っている。

          *

 さて、そんな私にとって、しばしば気にかかるのが「優」という文字のことだ。この字で「優しい」と表記することに、文字フェチとして私はいつも一つの問題意識を持って来た。
 そう、日本人なら誰もが知っているように、「優」という文字は「優れている」という意味を持つ。成績を優良可とつけることもあるし、優秀、優勝、優越など、「優れている」、「人に優る成果である」という意味でこの字を使うのは、おそらく最も頻度の高い使われ方だろう。
また、「優待」「優遇」のように、何か人に特別な恩恵を与える、という意味も、この字には含まれている。
 そんな中(と、ここで「中」が登場した!)、「優」の字には、「優しい」という使われ方もある。実は私は長い間この「優しい」という使われ方に、小さな違和感を抱いて来た。と言うのも、「優れている」「優遇」という意味と「優しい」の意味にはかなり大きな隔たりがあるように思えてならないからだ。一つの漢字がいくつもの意味を備えているのはごく一般的なことではあるけれど、例えば「優れている」と「優待」のように、類似的な意味であることが多い。ここまで隔たった内容を一つの同じ字で表すのは、かなり稀なことのように思えるのだ。

 そして、このことは、私が中国語を勉強しているためによけい強く感じられるのかも知れない、とも思う。何故なら、中国語でも「優」という字を日常的に使うけれど、その意味は最初の二つ、つまり「優れている」と「優待」に限られ、「優しい」という意味で使うことはないからだ。或る時気になって、中国語辞書を数冊(日本発行のもの・中国発行のも)引いて確認してみたけれど、どの辞書にも「優しい」という意味は載っていなかった。
 もともとは中国で作られた漢字が、日本に導入されて長い時間を経るうちに、意味が転じて行くことは時々ある。おそらく「優」の字もその例の一つで、日本人だけが「優」の字を「優しい」という意味で使っている。このことが私の心に何か深い印象を残した。

          *

 ところで、そんな私は、「優しい」と書きたい時にはひらがなで書く。そういう、自分なりの表記ルールを持っていた。
これは何故かと言うと、ひらがなの、画数が少なく曲線の多い形。そのやわらかさが正に「やさしい」という意味を表すのにふさわしいと思えたからだ。「優しい」では画数が多過ぎるし、角張ってもいて、どうも気持ちにぴったりそぐわない。それでごく自然に「やさしい」と表記していたのだ。
けれど、この半年くらいだろうか。「優しい」もふさわしいのではないか、そんな思いが時々原稿を書いている時などにふとよぎるようになった。それは、あの、中国語ではなく日本語だけの「優」の字の使い方を思い出すからなのだ。
  「やさしい」人間である、ということは、実はとても難しい。この概念をごく表面的に実行しようとすれば、物腰柔らかく、人の気持ちを苛立たせたり、或いは失望させないようにふるまうことであるに違いない。けれど「智に働けば角が立つ。情に竿させば流される。意地を通せば窮屈だ」と言われる、この、人生という名の難しい川において、時には誰かを苛立たせたり失望させてでも厳しくあることが、その人に対する「やさしさ」である場合もあるし、また、相手を失望させないために、自分の何かを犠牲にしなければならない局面も私たちは時に経験するだろう。
 そんな風に考えると、実は本当に「やさしく」あるということは、相当に難しい行為の実践なのではないだろうか。そして、もしも常に迷うことなく「やさしく」生きられる人がいるなら、その人は真に「優れた」人なのではないか。そう考えると、ああ、もしかしたら日本人は、このことを指して「やさしい」を「優」の字を用いて表すようになったのではないかしら?或る時ふとそんな考えが胸にきざして、すると「優しい」というちょっといかめしい表記も、何だかこの言葉を表すのにふさわしいように思えて来たのだ。

          *

 そんな訳で、近頃の私は、時によっては「やさしい」と書き、時によっては「優しい」と書くようになった。これは特に深い使い分けの規則があるのではなく、何となく、その日「優しい」を使いたい気分であれば「優しい」と書くし、「やさしい」気分であれば「やさしい」と書く、ただそれだけの単純なルールに従っている。
 ただ、少なくとも以前の私は100パーセント「やさしい」と書いていた訳で、このところ私の中では「優しい」が大いに勢力を伸ばしていると言えるだろう。そんなことを、字フェチとしては一人考えてフフッと微笑んだりいるのだけれど、やはり人から見たら相当変な人なのだろうか。

          *
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 ところで、この「やさしい/優しい」問題には後日談があって、実はこの日記を書くためにいま一度、「優」の字の字源を最終確認しようと思い立った。
 学者一家という特殊環境のため、我が家には、通称『諸橋の大漢和』と呼ばれる、十二巻組字源辞典の決定版が本棚に収まっている。見たところは百科事典のような一揃いだ。そうそういつも開く辞典ではないので書庫の中でもなかなか近寄りにくい段に入っているのだけれど、念のため、今回その『大漢和』で「優」の字を引いてみたのだ。すると、中国語の普通の辞書には載っていなかった、「優しい」の意味が掲載されていたのである。
 
 出典は二つあり、一つは中国の明時代の字源辞典『正字通』で、「優、和也」。もう一つは、これはとても古く、漢代の書『准南子』に、「其徳優天地、而和陰陽」とあり、「優、柔也」という注が付いているとも付記がある。共に、「優しい」という意味を表すそうだ。
 ――ということは、と私は考えてみた。少なくとも明代までは、中国の人々も「優」を日常的に「優しい」という意味で使っていたということになる。しかしいつしかその意味は忘れら去られ、日常の用法としては「優る」ことや「優遇」の意味だけが残った。どうやらそう結論づけられそうだ。
 これはなかなか面白いことだと私には感じられた。日本の歴史をひもといてみると、元は中国発祥のものが日本に入り、いつしか本家では忘れ去られてしまったのにも関わらず、日本人はひたすら大切に扱い、やがていつしか日本風に変化さえさせてしまう‥そういった例はいくつもある。例えば抹茶がそうで、今では日本人だけが抹茶を楽しみ、しかも茶道という独自の喫茶方法まで編み出して大切に守り抜いている訳だ。
 「優」という字の「優しい」の意味での使い方には、それほどの物語はないにしても、それでも、元々存在していた意味を今では日本語だけが保持しているというのは、これはこれで面白いことではないかと思えた。そして、「やさしさ」を「優れている」と同じ字で表記する、という、その思想を日本人が細々とでも保ち続けているというのはなかなかに“優れた”ことではないか、とも思うのだ。なぜならば真に“優しく”あることは、“優れて”いなければなし得ない。それは決して忘れてはならない思想であるからだ。

          *

 ――と、こんな風に、字にフェティシズムを持つ私は、この、字という小さな小さなものをめぐり、どうでもいいと言えばどうでもいいようなことを日々思い思いしながら暮らしている。あともう一回、字について日頃ぐるぐる思っていることを書いてみようと思うので、また読みに来て頂けたら幸いです。

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新年に寄せて~今年の抱負と、きものコーディネイト写真も! 2014/01/05



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皆様、新年明けましておめでとうございます。
そろそろお屠蘇気分も抜けて来た頃ではありますが、今日の日記では昨年を振り返りつつ、新年の抱負など、したためたいと存じます。

思い返せば、昨年は、本当に良い一年だったとしみじみ言えるような、そんな年になりました。
夏にきものイベント“江戸着物ファッションショー”を成功裡に開催することが出来た他、まだ皆様にちゃんとお知らせ出来ていないのですが、出雲を旅して日本社会の過去―現在―未来について思いを巡らせた大型エッセイを、アート誌に発表することも出来ました。(これについては近々別に日記を設けてお知らせ致します)
また、「いろはにキモノ」誌、「伊勢丹アイカード通信」誌できものに関する取材・執筆を担当したり、「美しいキモノ」誌と「季刊きもの」誌に私自身へのインタビューをして頂く、という晴れがましい場も頂きました。
本当に、満点と言えるくらい嬉しいお仕事の続いた一年だったのでした。

          *

私は自分の人生に、三つの大きな努力目標を持っています。
その一つは、すぐれた文章作品を発表すること。
これは、分野は、時に随筆であり時にノンフィクションであり、そして、今後は、小説も書きたいという願いも持っています。
昨年発表した出雲に関するエッセイは、この一つ目の目標「文章作品を書くこと」を最良の形で実現したものとなりました。編集者とプロデューサーの方の深いご理解のお蔭で字数と時間とをたっぷりと頂き、100%納得の行く作品を書き上げられたことは、私にとって昨年1年間で、最大の喜びでした。


          *

私の人生の二つ目の目標は、愛してやまないきものに関わる仕事をすることです。
私自身はあまり手先が器用ではないので、自分で布を織ったりきものを縫ったり図案を描けたりする訳ではありませんが、きものがこれからもこの世界に存在して行けるよう、援護射撃をする仕事がしたい。
きものにまつわる大小様々なイベントを企画・制作したり、また、文章が書けるという特技を生かして、きもの雑誌や一般のファッション誌・情報誌などで、きものに関する記事を担当出来たらどんなに素敵だろう!絶対そういう仕事をしたい!――そんな風にこの数年思い続けて来た夢が、本当に現実となったのが昨年後半でした。これがどんなに嬉しいことだったかは、皆様にも想像して頂けるかと思います。

けれど――少しだけ浪花節めいた話になってしまいますが――この夢は、ただ机の前に座ってぼんやりお茶を飲んでいたらいつの間にか現実になっていた、そんな甘いものだった訳ではありません。
きものに興味のない方でもおそらくぼんやりとはお分かり頂けるように、きもの、というこの世界は、織りの種類や模様の種類、はたまた着こなしの変遷などについて、勉強しても勉強してもきりがないほどに深い歴史をその背後に蓄積しています。ただ「私、きものが大好きなんです!」「文章も書けます!」と騒いでも、私の前には既にたくさんのその道のプロフェッショナルがいらっしゃるのですから、とても食い込めそうにない。そのことを、この数年、少し売り込みをしてみてまざまざと感じていました。
だったらどうするのか?きものの仕事をしたい、というこの夢をあきらめてしまうのか?――実は私は2年ほど前までは、そんな悩みを抱えていたのでした。

その一方で、私自身には、とにかく子どもの頃から歴史が好きで好きでたまらないという“典型的歴女”の傾向があり、博物館で歴史的なきものの展示がある時にも出かけて行ってそれを眺めるのは素敵だけれど、でも、「本当に、このきものたちを人体に着せつけて、過去を目の前に再現出来たら‥!」という、いたって単素朴、歴史好きなら誰もが抱く妄想めいた夢を、常に博物館のガラスケースの前で、ぼんやりと吹き出しのように浮かべていたのでした。

そして、もう一昨年のことになりますが、2012年の秋頃に、思ったのです。
どうせこのまま「きものの仕事をさせてもらえませんか?」と各誌の編集部を回っても、決して相手にはしてもらえることはないだろう。だったらここで大きな博打を打ってみたらどうなのだろうか?と。
私が本当に見てみたい、きもののイベント。それは、江戸時代の人が今によみがえったように本物の着姿を再現するイベント。そんなこと、ちょっと考えただけでもあまりにも困難が多そうで(だってそもそもどこから江戸時代のきものをどこから調達すれば良いのでしょう??)、「素敵!」ときもの好きなら誰もが夢見がちに思うものの結局手をつけられないこと。それを自分が本当に実現出来たなら、この、日本の海千山千のきもの界の人々も、私の方へ振り向いてくれるのではないか?――そう思ったのです。

そう、いくら求愛しても相手にしてくれないお姫様に認めてもらうためには、武士は戦場で一旗揚げる必要があるのです。その一旗、いや、一か八かの大博打が、私にとっての“江戸着物ファッションショー”でした。
今でこそ「成功の裡に幕を閉じました」、と笑って書けますが、始めた時は、成功出来るかどうか、全く分からない。何しろきもの界にほぼ何のコネクションもない私だったのですから。
唯一、帯締の名門・道明の当主夫人であり、服飾研究家でもある道明三保子先生と家族ぐるみのおつき合いをさせて頂いていた、という一点のみ。ここを突破点としてまず先生、にイベントで講義をして頂けるようお願いに上がり、オーケーのお返事を頂戴した後、「道明先生が出ますから」という看板を掲げながら、「ここは!」と狙いをつけたきもの学校、呉服屋さん、全国の美術館、アンティークきもの店さんなどなどに突撃のプレゼンを繰り返しました。もちろん撃沈も数多くありましたが、一歩ずつ、本当に一歩ずつ、一点また一点ときものが集まり、スタッフが決まり、出演者が決まり‥7月のイベントへと結実して行ったのでした。

         *

思い返すに、その中でも最も象徴的だったのは、「着付けを担当頂きたい」と、装道礼法きもの学院様へプレゼンに伺った日のことです。
私自身は装道の卒業生でも何でもなく、ただ、友人の友人が「かつて装道で時代きもの着付けを習っていた」という細い細い、今にも切れそうなかすかな糸を頼りに、本部の方へのプレゼンの段取りを作って行きました。
時代きものの着付けというのは、現在私たちが着るきものの着付けとは大きく異なっているため、どうしても、専門の知識と技術を持った方に担当して頂かなければなりません。しかもその時点でイベントに利益が出るかどうかが分からなかったため、最悪、ボランティアになってしまうことをご承知おきの上で、依頼を受けて頂かなければなりませんでした。
こんな悪い条件で、しかも主催者は、きもの界で全く実績のない私。無謀にもほどがあるプレゼンでしたが、けれどこの着付け師が見つからない限り、イベント自体を行うことが出来ないのですから、私は本当に決死の覚悟で装道さんへ向かったのでした。
今ではよく笑って友人に話すのですが、その日、私は、白地のきものを着用していました。その上に閉めた帯は、細かな更紗文様を織り出した、赤地の一本。
白地のきものに、赤い帯。
そう、日の丸の取り合わせです。私の心はその日、本気で“日の丸特攻隊”でした。そのくらい強い強い気持ちで、このプレゼンに臨んでいたのです。

苦労したのはこうしたプレゼンや、時代考証的に正しいきものを一枚一枚、日本のどこかから探し当てて来ることだけではありませんでした。資金集めにも苦労しましたし、予算組も総て自分で行い、当日の進行台本も作成。宣伝の依頼を各媒体にしたのも私でしたし、クラウドファンディングで資金を集めたので、そのリターンの読み物配信も書かなければなりませんでした。更に、スタッフを雇うお金がないため、出演者のきものの襦袢の丈出しも、当然私自身が担当。おかげで襦袢の袖の運針は実はめちゃくちゃでしたが、まあ、客席から襦袢の中は見えませんので!――という話はここで閑話休題にして、これら全ての過程は、本当に誇張ではなく、命がすり減るようなものだったとしみじみ思います。

けれど、まるでその苦労に対するきものの神様からのご褒美のように、今、きもの業界にちらほらと私を応援をして下さる方々を得、また、準備過程で知己を得た「美しいキモノ」編集部様から「いろはにキモノ」のお仕事を頂き、その取材を通して更に新しいきもの業界のご縁が広がる‥と、そう、昨年私が打った一か八かの賭けは、どうやら吉と出たようです。
いや、吉と出た、と言うのはちょっと違うのかも知れません。本当のところは、吉にしなければ私にはもう後がない。このイベントに失敗したら、二度と私がきもの界に出せる顔はないだろう、というその強い背水の陣の決意が、むりやりさいころの目を変えたようにも思うのです。

        *

本当に、全力疾走の一年でした。
何しろこの江戸着物ファッションショーの総ての過程を、先に書いた、現時点での私の全知力・全魂をそそぎ込んだ文章作品である出雲のエッセイを書く作業と並行して行っていたのですから、我ながら、若干狂気じみた一年だったと言ってもいいような気もします。
更に、これもまた自分でも驚くべきことに、これらの仕事の他にも、無署名で書くビジネス系のインタビューなどのお仕事も、毎日の生活費を稼ぐために日々並行して行っていた訳で、本当に、昨年は、一年中走り回っている間にあっと言う間に暮れて行った感があります。

そして、そんな昨年を引き継ぐ今年は、では、ちょっと小休止したいのかと言えばそんな気持ちは毛頭ありません。むしろこの波をもっともっと加速させて行きたい。
何故なら――とここでしみじみと思うのですが、私は好きなことを仕事にしているのだから、根本的には全ての過程は苦ではなく楽であり、また、好きなことを仕事にしていてまだ不平を言うのは罰が当たるというものだ、と思うからです。
世の中には、「本当に好きなことは仕事にしない方がいい」とおっしゃる方がいて、その意見も理解出来ます。また、心から好きなことがあるものの、それに人様が対価を払ってくれる、そのやり方を上手く見つけられない、という方もいらっしゃるでしょう。或いはそこまでのレベルには到達出来ていない、という方もいらっしゃるのかも知れません。
そんな中、私は好きなことで何とかお金を頂くことが出来ているのだから(特に儲かってはいませんが‥)、やはりここで怠けていてはいけないと思うのです。

何かを本気で極めようとしたら、それが仕事であろうとなかろうと、楽しいことばかりではないのは当たり前のことではないかと思います。本気で極めることには必ず「現状を越えること」という課題が現れるのであり、それは楽々と達成出来るようなものではないと思うからです。
楽々と行えるなら、それは趣味であり、極めることとは違う。人生においてどちらが格上ということはないのでしょうが、自分は極めることを選び、更にそこから何がしかのお金を得られるなら、こんなに幸せなことはないじゃないか、と思うのです。

そのような訳で、今年もよりいっそう、うるさいくらいにぶんぶん飛び回り、仕事に邁進して行きたいと思います。
既に、今、きものに関する文章のお仕事で新しい企画が動き始めています。また、きものイベントの第二弾も実現するべく、少しずつ関係先とコンタクトを取り始めました。
どんな仕事も一人では決して実現出来ないもの。昨年も多くの方に支えて頂いたように、新しい一年も皆様のご協力や応援を頂けたら、大変大変嬉しく思います。どうぞよろしくお願い致します!

(写真は、先日、目白のきものショップ“花想容”に打ち合わせで伺った時に撮って頂きました!ほっこり暖かい焦げ茶色の色無地結城紬に、赤地に更紗文様の帯を合わせています。
そうそう、人生の三つめの目標については‥長くなってしまうのでまたいつかの機会に☆)
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