西端真矢

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きものの展覧会「たくみ」展鑑賞と、その日のきものコーディネートご紹介 2014/06/10



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先週、十条の東京家政大学博物館で開催中のきものに関する展覧会、『たくみ 伝統の技と美』展に行って来ました。
この展覧会では、紋紗織りの人間国宝・土屋順紀氏、木版摺更紗の人間国宝・鈴田滋人氏、東京友禅の中澤英高氏、日本刺繍の見藤妙子氏の四名の作家の作品を見ることが出来ます。つまり、一つの展覧会で、織り・木版摺・手描き・刺繍という四つの技法の名人作を見ることが出来る訳です。
上の写真のチラシ中、きものの型の中にあるのが鈴田氏の作品。地の部分の上部・縦縞が土屋氏の作品、下部の羊歯の葉の模様が、中澤氏の作品です。
この展覧会、更に嬉しいのは、作品制作で使う大切な道具を作家ご本人などから借り受けて展示。制作風景を記録したビデオも放映するなどして、技法をしっかり紹介してくれていること。これで無料なんて、ありがた過ぎる展覧会です。17日まで開催していますので、染織ファンの皆様、ゼヒ足をお運びください。(展覧会公式サイトは下記のURLです)
http://www.tokyo-kasei.ac.jp/hakubutu/tabid/1824/index.php

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さて、その日のきものコーディネートが下の写真です。
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場内は撮影禁止のため、入り口のきれいな幕の前でぱちり。祖母が染めた丸紋つなぎの型染の単衣に、破れ七宝つなぎの織り帯を合わせました。
それぞれ、文様と、お太鼓部分に寄って撮ったのが下の二枚の写真です。
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実はこちらの博物館の助手のSさんは、私のお茶仲間。東京家政大学博物館は毎回、染織に関する意欲的な展覧会を企画されているということなので、これからも頻繁に訪れようと思います。Sさん、ありがとうございました!

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明後日からは、台湾旅行へ行って来ます。向こうの友人がアレンジしてくれて、布市にも行く予定なので、台湾の少数民族の布や漢民族の刺繍など、じっくり見て来ようと思います。また旅の様子もレポートしますので、ゼヒこちらのブログを覗きにいらして下さい!

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『婦人画報』7月号・人間国宝特集で執筆しました! 2014/06/05



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1日発売の『婦人画報』7月号にて、人間国宝の先生方の作品と制作哲学を紹介する企画で、取材・執筆を致しました。
本号の『婦人画報』は、“日本の手仕事”大特集号。特別付録として、小冊子『買える人間国宝』と題し、数万から数十万円で買える人間国宝の作品と、その制作哲学をご紹介しています。
美術館のガラスケース越しに“自分とは関係ないもの”として人間国宝の作品を眺めるのではなく、ちょっと背伸びして、最高水準の美術品を生活の中に取り入れ、愛でながら暮らそう…!という企画です。
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私が担当した飯塚小玕齋氏のページ。先生作の花入れをご紹介しています。


民芸のスローガンである“用の美”という言葉の通り、工芸品とはそもそも、日常生活の中で使用出来るもの。その一つ一つが美しいものであったり、自分が愛着を持てるものであれば、自然と美しく、快い暮らしが出来ますよね。食器、花器、茶器、布地、和紙、楽器の分野から、総勢二十七名の作家の作品をご紹介しています。

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こちらも私が担当した、松井康成氏のページ。酒呑をご紹介


その中で、私は、六人の人間国宝の方々のページを担当しました。

竹工芸の、飯塚小玕齋氏
漆芸・蒟醬(きんま)技法の、太田儔氏
金工・鍛金の、谷口壽恒氏
染織・正藍染めの、千葉あやの氏
和紙・土佐典具帖紙の、濵田幸雄氏
陶芸・練上手の、松井康成氏

装丁デザインもとても美しい小冊子ですので、ゼヒ皆さんお手に取ってご覧ください。

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こちらも私が担当した、千葉あやの氏のページ。布巾をご紹介。


今回、原稿を書くにあたって資料を読み込み、また、取材で実際に作家や関係者の方々にお話を伺う過程を通じて、一人一人の作家の方々が人間国宝と認定されるまでに自身の技を磨いた、その日々の鍛錬が、いかに真剣ですさまじいものであるのかを改めて思い知らされました。
『婦人画報』本誌では、その、世界に誇るべき日本の伝統技術が、後継者不足などで危機に瀕している状況も「レッドリスト」として紹介しています。
人間国宝の作品も、そして、人間国宝には選ばれなくても確かな技術を持って活動しているたくさんの工芸作家の作品も、買うことで応援して行きたいですね。

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吉祥寺暮らし40年 2014/06/02



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(写真)今日の井の頭公園。快晴の午後、“白鳥”の出動も多かった


先月、大型ファッションビル“キラリナ”がオープンして、更に近々ユニクロの旗艦店もオープンするらしいというウワサで、最近何かと話題の多い吉祥寺。実は私は、人生のほとんどを吉祥寺で暮らしている地元っ子だ。
そんな吉祥寺は、“住みたい街”ランキングに長年ランクインし続けるなど、多少目立ち過ぎたのか、最近ではちょっとした陰口をたたかれることも多い。そこで今日の日記では、吉祥寺住まいほぼ40年の私が“この街に住むこと”について、そして、都心と郊外ということについても、考察してみたいと思う。

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そもそも我が家は、昭和14(1939)年に祖父が吉祥寺に土地を買い、それ以来の吉祥寺住まいだから、それなりに年季が入っている方だと言ってもいいと思う。
もちろん、祖父が土地を買った頃の吉祥寺は武蔵野平野のひなびた町で、ところが、この祖父が、文系の学者だったにも関わらず不思議に理財にカンの良い人で、当時、近衛文麿首相や有名文士が住んで先に発展していた荻窪でもなく、はたまたより新宿に近い中野や高円寺でもなくまた絶妙に三鷹でもなく、これからは吉祥寺だ、と、この土地を選んだのだった。

当時の我が家は駅北口からまっすぐに延びる道、今のサンロード商店街の途中を左に曲がってダンスウェアの専門店“チャコット”の入っているビルが建つ、その後ろ辺りの土地にあった。
もちろん、当時のサンロードはまだ八百屋などの商店が素朴に並ぶよくある駅前の道で、そもそも都心と違ってその頃吉祥寺の町はまだ道路が未舗装だったから、雨が降ると、駅前広場が巨大な水たまりになってしまったという。突然の雨降りの日に、傘を持たずに出かけた祖父を迎えに水たまりをざぶざぶしながら駅まで急ぐのが、父たち兄妹の仕事だった。吉祥寺は戦前までは、そんな田舎の街だったのだ。

もしも今でも我が家がその吉祥寺の中心地にあったなら、大変な資産ではあるだろうけれど人が多過ぎて、毎日がストレスに満ちていただろう。戦争が終わり、武蔵野市が駅前を大々的に開発することになった時、我が家の土地を売ってほしいという申し出があった。祖父はこれに応じ、代替地として、今私たちが住む、中心からやや離れた土地が提供されたのだ。以来、ここが我が家の土地になった。
   
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(写真)吉祥寺の素敵な古書店、“百年”。吉祥寺は、実は、新刊本の大型書店も古書店も、都内随一と言って良いほど充実している街。私のような本の虫にはたまらない。


さて、この土地に、私は二歳から住んでいる。
実は生まれは、当時の父の仕事の都合でカナダのヴィクトリア市であり、残念ながら生まれも育ちも吉祥寺とはいかないのだけれど、その後、父の仕事が東京に変わって日本の土を踏んで以来、44年間の人生のほとんどをこの土地で暮らしている。
他の町に住んでいたのは、大学時代の数度のホームステイと、二十代終わりの北京留学と、そして、三十代半ばに5年間、渋谷のど真ん中にもほどがあるほどど真ん中のマンションに住んでいた期間だけだった。

そしてこの40年あまりを振り返ると、私が小学生だった頃には既に吉祥寺にはデパートが四つあって(ああ、なつかしい近鉄デパート!)それなりに栄えていたけれど、パルコが出来たことで急速におしゃれイメージが上がったと言われている(このあたりのことはまだ私は子どもだったので判然としない)。
私が高校生の頃あたりからは、それまで普通の商店街だった“東急裏”地帯におしゃれカフェや雑貨屋がぽつぽつ出来始め、それでもまあ、“郊外でちょっとおしゃれを頑張っている街”、くらいの位置づけだったのが、ちょうど私が渋谷で暮らしていた2000年代から、“住みたい街”ランキングの第1位に連続して上がるようになった。そしてジブリ美術館も開館し、何と外国のガイドブックにも浅草や秋葉原と並んで紹介されるようになって‥今や休日は、サンロードはもちろんのこと、もともとは中心地ではなかった東急裏さえ、大変な人出になっている‥けれど、ずっと住んでいる人間にとっては一体なぜこうなったのか、ただただ驚くしかないのである。

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(写真)吉祥寺は、自転車で12,3分も走れば畑がちらほらと広がっている街。そんなまさに地産池消の野菜たちが中心部のあちこちで販売されているし、何より畑に直接行けば、無人販売所にごろごろと採れたて野菜が並べられている。
   

  

思えば、この“住みたい街ナンバー1”というどうでもいいようなランク付けが、実は意外と大きな出来事だったのではないかという気がする。
それまでは、「どこに住んでるの?」と訊かれて、「吉祥寺」と答えると、もう耳にタコが出来てそのタコが石化するくらいに同じ答え、「学生時代に住んでてさ~」か、「学生時代に彼女が住んでてよく行ってさ~」というリアクションを頂いていた。それが、“住みたい街ナンバー1”を5年連続獲得したあたりから、見事に同じように、「住みたい街ナンバー1」(と一言つぶやく)に変わるようになった。
そのくらいこのランキングの認知度は高く、けれど昔からの住民としては特に「1位になりたい!」と望んでなったものではないのであり、むしろ、
「住みたい街ランキングと言えば、皆さんほら、きっと、青山とか代官山、或いは自由が丘あたりなんでしょ?」
「我々は武蔵野郊外ですから~」
というそんな田舎者意識だったから、何かそれまで万年平社員で気楽にやっていたはずなのに突然プロジェクトリーダーに抜擢されて、イングリッシュ・カンバセーションの勉強まで始めなければならなくなった会社員のような、かなりの困惑があったのだった。

けれど、そんな会社員もプロジェクトリーダーの立場が続くとカンバセーションやらネゴシエーションやらもそれなりに出来るようになるように、“住みたい街ナンバー1”もこう何年も続くと、いつまでもへりくだっているとかえって嫌味っぽいということにも気づくようになった。また実際、「いいよね~吉祥寺に住めて。とてもとても地代が高くて‥無理です‥」などと責められて言葉に窮することもある。
その一方、今では本家のリクルート社版だけではなく他にも幾つかある“住みたい街ランキング”の一つで時に5位くらいに下がることもあると、ほっとすると同時に、何故か地元が馬鹿にされたような悔しいような気もして来たりして、ほとほとこのランキングとは厄介なものなのである。

    *

ただ、一つ思うことは、吉祥寺という街の大きな特性である“郊外性”。これをどう評価するかということは、実は、その人の人生観を映し出す鏡であるし、また、先端性を映し出す鏡でもあるのではないか、ということだ。
と言うのも、各種“住みたい街ランキング”で吉祥寺が1位であってもランクが下がっても、ツイッターやヤフコメなどに必ず出て来る批判のコメント。これが私にはとても意外に感じられるのだ。そこには必ずこのような言葉が出て来る。
「吉祥寺がまた1位だって。何でだろう?あそこ、都心から結構遠いよね」
「吉祥寺のランク下がってる。やっぱり、ってかんじ。だって都心に出にくくて不便だもん。前住んでたけどもう絶対住みたくない」
このような内容のコメントがずらっと並ぶのだけれど、私などは、「一つのエリアに最先端のものや情報が集まることを良しとして、ありがたる」、という考え方自体が古くさいなあと思っている方なので、「いまだに都心神話、中心神話がこんなに根強いんだ」ということに、軽い驚きを覚えてしまうのだ。

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(写真)昔ながらの木の茶箱がずらりと並ぶお茶屋さんも吉祥寺には存在する。オリジナルブレンドも発売する“山利屋”の前を通ると、いつも茶を焙じた良い香りがただよっていて楽しい


またそれと同時に、以前、渋谷区宇田川町という都心の中の都心に住んでいた頃に感じた、中心地域に住むことの疲労感を思い出しもする。
当時の私は広告代理店に勤めていて、毎日の残業が深夜に及ぶため、睡眠時間を増やすために会社に近い渋谷に住んでいた(もちろん、一人暮らしをしてみたい、という素朴な欲求もあった)。
その時にいつも感じていたのが、オンとオフを完全に区切れないことから来る、ぼんやりとした疲労感だったのだ。

マスコミ業界、或いは広告業界というのは撮影スタジオも芸能事務所も編集スタジオも制作会社も同業他社の代理店も何もかも、関係機関の80パーセントくらいが渋谷・広尾・青山・赤坂・銀座辺りに集中している。その中に住む、ということは、つまり、24時間いつでも“仕事の領域の中で息をする”ことになってしまうのだ。
それがどういうことかと言えば、例えば、休日にふらっとパンを買いに行きたい時でも、誰に会うか分からないし、誰に見られているかも分からない、ということになる。こういう状態が私にはかなりの精神的負担だったし、それよりも何よりも、いつも仕事のビームの域内に自分がいる、そこから物理的に離れられない、ということが、今思うと非常に心に良くなかった。実は私は代理店時代に一度重度のめまいで倒れたことがあるのだけれど、絶えず精神の緊張が続いていたことも、その要因の一つだったと思う。
もちろん、通勤の物理的負担は大きなものだし、特に東京ではラッシュがひどいのだから、何とかこの負荷を減らしたいという方が多いのも理解出来る。けれど、物理的にちゃんとビジネスの場から自分の体を引き剥がすことが、心にもたらす効果はとても大きいと、経験から思うのだ。

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そういう意味で、広告業界からは離れたものの変わらずマスコミの領域で仕事をしている私は、今、撮影や打ち合わせが終わって電車に乗り、ごとごとと何十分か揺られて郊外に帰る、という、この一種の儀式的な過程をとても大切に思っている。そしてとても気に入ってもいる。
もちろん、私の場合は子どもの頃から吉祥寺の距離感が体に染みついているので、“何十分”かの移動でオンとオフが切り替わってくれる訳だけれど、もっと多くの移動を必要とする方もいらっしゃるのではないだろうか。
例えば、湘南や高尾などに好んで住居を定められる人も多いけれど、その方たちの心が求めているのは、そういうドラスティックな移動なのだろうと思う。ちゃんと海があって、ちゃんと山があって、それがはっきりと目に見えるし、肌で感じられる。仕事以外の時間はそういう場所に自分の身を置いていたい、という考え方は、すごく自分の心と身体に正直で、素敵なことだな、と思う。

中心地に住むことと、郊外地に住むこと。
それぞれの利点があって、自分が何を重視するかで選べば良い訳だけれど、だからこそそこには初めに書いた通り、自分の人生観が現れると思うのだ。少なくとも、「都心から離れているから不便」としか考えられないということは、その人がひどく浅はかな人生観しか持ち合わせていないということになるのではないだろうか。

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(写真)百歳の象の花子がいる井の頭動物園。最近新しくなった、ポスターなどのビジュアル物がとてもセンスが良くて楽しい


そして、都心と郊外、とか、中心と周縁、というあり方自体が、実は、もっともっと解体して行けば良いのにと私は思っている。総てが都心(或いは東京)に集中するいわゆる一極集中の構造ではなく、面白い人、面白いもの、美しいもの、美味しい店、新しい技術、そういうものがあちこちに散らばっていて、ゆるやかに連携している。そんな街でありそんな国であることが本当は一番楽しいし、一番生きやすいのではないだろうか。
だから、最近、「吉祥寺を立川や武蔵小杉が猛烈に追い上げている」、或いは、「もう西の時代じゃない。これからは東側の古き江戸の街復活だ」、などと囃し立てる向きがあるけれど、私は全くそんな風に思わない。
立川も武蔵小杉も、それからもちろん江戸由来の街も埼玉や千葉の街も、もちろん吉祥寺も、それぞれ、どこにも似ていない顔を持っていて、そこにしかない店や味やライフスタイルが根づき、お互い、たまに遊びに行って楽しませてもらう。そんな風な関係になることが一番面白いし、情報が過度に一か所に集中してすぐに消費され更にまた情報に飢えるという、情報集中のストレスを軽減するとも思う。また、もちろん、地震国のこの国で、一気に総てを失うリスクを分散するだろう。

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(写真)戦後、闇市が広がっていた“ハモニカ横丁”。私が高校生の頃までは、卵だけを売っている卵屋さんも残っていた。現在は、闇市以来の和菓子屋さんや魚屋さんなども健在ながら、個性的なバーやカフェが集まる一角に変身。甘党の私は、ここにある“いせ桜”という和菓子屋さんの酒まんじゅうとこの写真の鯛焼き屋さんを偏愛している


そんな訳で私は、今日もごとごとと井の頭線や中央線で都心と吉祥寺を移動して、吉祥寺に一日いる日は本を買いに行ったついでについつい祖父が死ぬまで“闇市”と呼び続けていた元闇市の“ハモニカ横丁”でお気に入りの鯛焼きを買ってしまったりして、伊勢丹、ではなく今では“コピス”と名前の変わった2棟建てビルのウッドデッキに座ってのんびり一口ずつ食べたりしていると、この街が好き、と言うよりもう街と自分が、庭続きになっているのを感じている。

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