西端真矢

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母を送る 2023/02/12



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四ヶ月前の今日、昨年十月十二日に母を見送った。
三年前から寝たきりになり、庭の見える一階のリビングに置いたベッドで終日過ごしていた母だった。毎年心待ちにしていた庭のもみじが赤や黄色に変わる景色を最後に見せてあげたかったけれど、昨年の秋は暖かったから、一枚も変わらないうちに逝ってしまった。

母を失って、はかり知れない打撃を受けている。
寝たきりになる前の一年間を含めて、介護を続けて来た四年間、母が私の人生のすべてだった。
毎日毎食、母に何を食べさせるか。種類×時間で順列組合せのように複雑な何種類もの薬を、きちんと間違えず服薬させられているか。通院のための介護タクシーの手配、それが在宅医療に切り変わってからは週に四日、ヘルパーさん、医師、看護師、入浴サービスチームを家に迎え、サービスの終わりには送り出すこと(その度に仕事の原稿は中断される)。オムツや服薬ゼリーやスポンジ状歯ブラシなどなどなどなど介護に関するあらゆる品を一つも欠かさず揃えておくこと。一日に一度か二度、父とともに行うおむつ替え(ヘルパーさんや看護師さんに来てもらっていても家族がまったくおむつ替えをしなくて済む訳ではない)‥‥
毎日、介護に関する数えきれないほどのタスクがあった。しかもコロナウイルスに感染させないようにあらゆる局面で気を配りながら、だ。私の人生は母という軸の周りをぐるぐる回転していて、文字通り、母のために、この街を東奔西走していた。でも、それで構わなかった。母に何としても生きていてほしかったから。母が家にいたいと望んでいるのだから、何としてでもかなえてあげたかった。
もちろん、こんな毎日が永遠に続く訳ではないことは分かっていた。
母は末期癌だったし、脳の病気も持っていたし、認知症でもあった。だから、その日がいつ来ても受け入れられる覚悟は持っていたつもりだったけれど、でも、失ってみるとそんなやわな覚悟は木っ端みじんに吹き飛んでしまっていた。もう開かない母のまぶたをぼんやりと見つめていた時、負けた、と思った。何に負けたのか、誰に負けたのか、自分でも分からない。ただ、負けた、と思った。それはすべての人類が、生命体が、意識というものを持った瞬間から数十億年繰り返して来た敗北なのだろう。私も凡庸にその列に加わって、今、ふらふらと毎日をさまよっている。

(写真上右が、母と私。私が一歳頃。母はこの写真を気に入っていて、定期入れに入れて持ち歩いていた。今は写真立てに飾り私の机の上にある)

       *

母という人のことを振り返ると、どうしても、少し変わった少女だったのではないかと思えてならない。
何故なら、祖父も祖母も母に特に勉強をしろと強制したことがなかったし、自立した女性になってほしいなどともまったく望むことはなく、当時の女性の一般的な生き方、普通に結婚して家庭を築いてくれればそれで良いと思っていたのに、何故か母は自分からわざわざ一浪までして東大に進学した人だったから。今でこそ〝東大女子〟は特に珍しくもないけれど、当時としては相当にぶっ飛んだ選択だったはずだ。実際、祖母も、笑ってしまうのだけれど、
「あなた、お嬢さんを東大なんかに入れて、赤になるわ!」
と友人から叫ばれたという(現代史に詳しくない方へ‥‥〝赤〟とは共産主義者のことです)。
母には負けず嫌いなところがあったから、地頭が良く子どもの頃から勉強が出来ているうちに、「東大に行ってやろう」という気持ちが芽生えたのだろうか? 今になると聞いておけば良かったと思うけれど、母が東大を出たことは家族の中であまりに自明の事実過ぎて、とうとう聞かずに終わってしまった。そういうことは他にもいくつもある。

       *

やがて母は学問の道を志したが、最初から学者になろうと思っていた訳ではなかった。一人の教授との出会いが、母の人生を決定的に転換させた。そのことは何度も私に、「またその話?」と生意気につぶやかせるほど繰り返し繰り返し話し続けていた。
その恩師の名を、山根有三先生という。
日本美術史という学問に富士の山のように屹立する大学者で、数々の業績を残した。私も何度もお会いしているが、全身から日本美術への愛がほとばしり出ている方で、その圧倒的な熱量に多くの若者が惹きつけられ、数々の後進が育っていった。全国の主要な美術館の館長クラスには山根先生の弟子がごろごろ転がっているが、そんな先生に、母もすっかり魅了されてしまったのだった。
東大では入学後二年間、一般教養の過程があり、三年に進学する時に初めて専攻を決める。各教授が学生たちに〝勧誘〟のスピーチをするそうで、その時の山根先生の話が「あんまり面白かったから」、母は美術史学科に進むことを決めたのだった。

とは言え、そこには、もう一つ別の要素もあったと思う。
我が家では、祖母が、着物の染めをしていた。母が中学に入った頃から、最初はまったくの〝主婦の趣味〟としてろうけつ染めを始め、やがて、芹沢銈介門下の教室の一つに入門して型染に転じてから、本格的に取り組むようになった。毎年開かれる門下展に出品して作品は結構売れていたし、銀座の松屋で小さな個展を開いたこともある。お弟子さんも十人くらい取っていた。
せっせと型を彫って、染めて、乾かして。居間の天井の端から端へ反物を渡して乾かすような環境だったから、母の中に、自然と、日本的な美意識、日本美術への興味が育っていたのだと思う。そこに山根先生との出会いがあって、一生の道が決まった。そう思っている。
(写真下左、恩師山根有三先生と若き日の母。おそらくまだ学部生の頃)

        *

母は日本美術史の中でも、琳派、主に尾形光琳を研究した。その理由は聞いてみたことがあるが、自分でもよく分からない、山根先生に勧められたこともあったし、何となくいいと思って‥‥などと、いつもごにょごにょむにゃむにゃ言っていた。自分でも本当によく分からないまま光琳へ導かれていったのだろう。
ただ、そこにも、育った環境の影響はあったのではないかと思う。光琳は、京都の着物商の出身で、その作品は装飾的な要素が強いとされる。確かに、ザ・絵画を描こうとする狩野派などと比べると、世界の捉え方にどこか抽象性が見て取れる。無意識に世界を大きく捨象して捉え、平面に固定する。それは、光琳が日常的にきものの図案を見て育ったからなのかも知れないし、母の育ち方と共通するようにも感じられるのだ。
ともかく、母は琳派を専攻し、多くの研究論文を残した。五十年代に一度唱えられたことがある学説、国宝の『燕子花図屏風』の燕子花が実は同じ一群を繰り返し配置して、まるで着物の型染のような手法で描かれている‥‥という学説を再検証して発表した時は、『燕子花図屏風』の大きな図版をリビングの――母が最期の日々を過ごしたリビングの――床に広げ、這いつくばって絵の中の燕子花をトレースしていた姿を覚えている。私が小学生の頃だった。日常的に祖母の型染を見ていたから、この学説の正しさがひらめいた、と話していた。
その他にも、母の論文にはいくつか非常に優れたものがあり、多く引用されているという。また、或る一本は、論拠の立て方の見本として、必ず読むようにゼミの学生に勧めていた先生もいらっしゃると聞いたことがある。やがて母は琳派のみならず、「日本人が草花をどう描いて来たか」を特に近世美術に焦点を当てて研究し、このフィールドでも多くの論文を発表した。いわゆるスター学者のような華々しさはなかったが、立派な学者だったと思う。
(写真上左が、母の著書)

       *

とは言え、そんな母のキャリア形成は、決して平坦なものではなかった。
母が大学院に進んだ当時、女子学生はほとんど存在せず、就職先はなかなか決まらなかった。いや、ポストはあったけれど、女性であるために採用されなかったのだ。明らかに自分よりへぼな論文しか書いていない男子学生が、次々と美術館や大学に就職が決まっていく。母は大学院の途中で結婚していて、父は同じ東大の助教授だったから、誰が見ても家計は安定している。職がなければ生きていけなくなる、というわけではなかった。
「家族を養う必要がないんだから、ポストなんかなくたっていいじゃないか」
という主旨のことを、言われたこともあったという。
「悔しくて、ひたすら仏像を見て回って、気持ちを紛らわしていたのよ」
と、後年時々私に話していた。確かに、私が小学校中学年の頃あたりに、やたらと京都に行っていたように思う。琳派作品の所有者のもとへ作品の調査に出向く〝調査旅行〟がほとんどだったけれど、仏像だけを見に行っていた日もあったのかも知れない。そう言えば、やたらと文楽、歌舞伎を見まくっていた時期もあった。
女が働くにはタフな時代だったのだ。

       *

やがて、杉野女子大学、立正大学で非常勤講師を務めた後、ついに「三井文庫別館」に研究員として迎えられた。ここは日本橋の「三井記念美術館」の前身の美術館で、新井薬師にあった。私が中学生の時のことで、いかに長い時間就職出来なかったか‥‥改めて、母の悔しさを実感として思う。

三井では、円山応挙の『雪松図』(国宝)をはじめ、三井家から寄贈された莫大な量の美術品のうち、主に絵画作品の分類整理を担当した。年数回の展覧会も企画している。
日本服飾史の第一人者である丸山伸彦先生(母にとっては東大のかわいい後輩「丸山君」)とともに、三井家所蔵のひいな型(江戸時代のきもの図案帳のこと)の調査も行った。もちろん、その間に数々の論文を発表している。今も三井記念美術館を切り盛りされている学芸員の清水実先生を二人三脚の盟友として、日本橋で大々的に開館する前の下地を作ったのだ。非常に充実した研究員生活だったと思う。
そう言えば、私の人生最初のアルバイトは、高校時代の春休み、この「三井文庫別館」での受付のバイトだった。母と一緒に電車とバスを乗り継いで、新井薬師へ向かった。事務職員の皆さんにやさしくして頂いて、ぎこちなく入場券のもぎりをしたり、ロビーの無料のお茶のお湯の交換をしたりした。何しろ働くことが初めてだったから、すべてが珍しく、新鮮だった。母という繭に包まれた、何て幸せな思い出だろう。

       *

その後、母は東京家政学院大学からお声がけを頂いて移籍し、日本美術史の教授として教鞭をとった。
わりと人気のある教授だったらしく、学生さんが家に遊びに来て盛大な女子会が開かれたこともあったし、母は(私と同様)ファッションビクティム気味の、おしゃれが大好きな人だったから、女子大生たちの注意を引いた。何と、毎回の講義時の母のファッションを記録して分析する学生まで現れたという。
――そして、このことからも分かるように、母は決していかめしい人ではなく、気さくで、とかくインドア傾向の私などよりも何十倍も社交的で、非常に友だちの多い人だった。
何より、決してあきらめず粘り強く研究を続けてポストを獲得したことで、後に続く女性の学者たちに道を拓いた。私はよく母にくっついて様々な美術展のレセプションにお邪魔していたけれど、或る美術館の女性学芸員の方から、
「お母様を見て、女性が結婚して、子どもを持っても、研究を続けることが出来るんだ!と初めて実感出来ました。とても嬉しかった。お母様は私たちのロールモデルです」
と言って頂いたこともある。今、日本美術史には女性の研究者があふれている。母のことを、同じ働く女性の一人として、心から誇りに思う。

(写真下右は、母への取材記事。辺見じゅん氏が書いて下さっている。「ママさん研究者」という見出しからも、子育てをしながら研究をする女性がまだまだ少なかったことが分かる)

    *

そして、だからこそ、母に認知症の症状が表れ始めた時、私の打撃ははかり知れないほど大きかった。
もちろん、どのような人にとっても、肉親が認知症を患うことは深い苦しみであるだろう。けれど、我が家は学問の家なのだ。論理を組み立て、言葉を武器とする。その学者の論理能力が失われることは、ピアニストが腕を失うこと、マラソン選手が足を失うこと、料理人が舌を失うことに等しい。どうしてなのだろう。どうして運命はこんなに残酷なのだろう。四年間、毎日、そう思って、怒り、悲しんで来た。今でも胸が割れるほど苦しく、傷ついている。
それでも、母を施設に入れるという選択は、私には1パーセントの可能性も考えられないことだった。私は聖人ではないから、言うことを聞かない母に怒ってしまったことも数え切れないほどあったけれど、本気で投げ出そうと思ったことは一度もない。それはただ一つに、母から受けた愛の記憶のためだったと思う。
母が亡くなった後、たくさんの母の友人知人の方から、お手紙やお電話を頂いた。皆さんがおっしゃるのが、母がいつも私の話をしていた、ということだった。
「またお嬢さんの話?と、からかうこともあったのよ」
とおっしゃる方もいた。母はどうしてか私のことが大好きで、そして、私の成功を盲目的に信じ、願っていた。子どものから常に私の文章が無条件に好きで、一番の理解者だった。この絆が特に強く私を母に結びつけている。そんな母をどうして見捨てることが出来るだろうか。

認知症と言っても、母の場合は最重度ではなかった。自分が誰かは分かっていたし、家族、それから、猫のチャミこともはっきりと認識していた。多くの記憶が失われていたけれど、今、目の前に見えているものについては健常者と変わらないほど普通に会話を続けられた。そして、本当に不思議なことだったけれど、時々霧が晴れたように、込み入った複雑な話を理解していることがあった。

だんだんものが食べられなくなって、夏の初め頃からスープなどの流動食、それすらうまく呑み込めなくなって、ヨーグルト中心の日々が一か月ほど続いた。そして、とうとう点滴に変わってから三日目に、息を引き取った。
その日は、午後、看護師さんが来る日だった。処置をしてもらっている間は私は自室で待機するのだけれど、そろそろ終わる頃かなという時刻に、看護師さんがすごく慌てて私の名前を呼んでいるのが耳に入った。リビングへ入って行くと、
「呼吸が、呼吸が、停止しかかっています」
というようなことを叫んでいて、医療従事者ではない私にはそれが危篤を意味していることが分からなかった。不思議なことに、チャミが――何か予感があったのだろうか――廊下でひどくにゃーにゃ―と鳴いていて、だから、ベッドに近づきながら、
「チャミ、こっちにおいで!」
と何度か声をかけた。すると母の口元がほころびかすかに微笑みが浮かぶのが見えた。チャミの声が聞こえていたのだと思う。そして、枕元へ着いた時、どうしてなのか――だって危篤だとは分かっていなかったのだから――今でも不思議なのだけれど、
「ママ、私、ちゃんとやるよ。しっかりやるからね」
と口にしていた。二ヶ月ほど前の夏の盛りの頃のある日、〝霧が晴れた〟日があって、母と約束していたことがあった。そのことについて私は言っていたが、母には伝わっていたと思う。たぶん、最後の瞬間に力を振り絞って、そして再び、霧が晴れたのだ。母は私の目を見て、もう声は出なかったけれど、うん、とうなずいた。そして右の眼から一筋すっと涙が流れ、目を閉じた。それが最後だった。その後も耳だけは聞こえていたのならいいのにと思っている。どうして最後にかけた言葉が、自分のことだったのだろう。ママ、ありがとう。ママ、大好きだよ、と伝えたかった。本当に、私はいつも母から受け取るばかりだった。それなのに母が願っていたほどの成功も、到底見せてあげることは出来なかった。何を思っても、もう取り返すことは出来ない。
ただ、最後に旅立つ時に、すぐ隣りにいてあげられたこと、一人ではないと感じて旅立たせてあげられたことだけは、良かったと思っている。運命は残酷だったけれど、最後の瞬間だけは、やさしかった。

       *

昔々、mixiが全盛だったはるか昔から、ずっと私の文章を読んで、応援して来てくれたが方々いらっしゃるから、本当はもっと早くに、母の死をご報告したいと思っていた。
けれど、まずは母の友人知人の方へのお知らせと、その後膨大に届いたお花やお線香、そしてお手紙などへのお礼を、まずは最優先にして来た。あまりにも数が多いため、実は今もまだお礼状を書き続けている。
更に大きな仕事がいくつも入り、年末には多少は大掃除などもしていたり――そんな何もかもで、瞬く間に今日まで時が過ぎてしまった。仕事があることで、どっとふさぎ込んでしまうことを回避出来ている気もするし、けれど、どんなに頑張っても、もう母に見てもらうことは出来ないのだ、と、良い原稿が書けた時ほどむなしくなってしまうこともある。
それでも、最後に母と約束したのだから、と、何とか気持ちを立て直して生きている。急に元気になることは出来ないし、これからもこんな浮き沈みを繰り返して生きていくのだろう。母がいなければ、もう本当の幸せというものは私の人生にはないようにも思うけれど、とにかく、ようやくこうして皆さんにご報告出来たことに、今はほっとしている。これから少しずつ、四年間の介護の日々についても書いていきたいと思っているけれど、今はここまでしか書けない。最後に、母を送った数日後に詠んだ歌を書き添えて筆を擱きたいと思う。

母であり友でもあったその人を 
見送る秋の空の静かさ