西端真矢

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極度の緊張下の東京から 2011/03/17



東日本大震災発生から7日。ここ東京では毎日あまりにも非日常なことが続き、まるで長い夢の中を生きているようです。
特に福島原発の危機的状況が明らかになった4日目からは、おそらく首都圏に住む一人一人の胸の中にたとえようもないほど巨大な恐怖が生まれ、それが度重なる余震の揺れによって限りなく増幅され、自分自身の存在を溶かして、消してしまうような‥そのような感覚に襲われたのは決して私一人ではないと思います。

今、極度の緊張と、不安の下で、一日一日を生きている私たち。昨日、病院に行く用事があり、その道筋でいつも贔屓にしている呉服屋さんの前を通りかかりました。店の灯りは消え、「ああ、やはり休業中なのだな」と行き過ぎようとすると、中では番頭さんたちが品物の整理をしていたようで、「まやさん!」と電源の入っていない自動ドアを押し開けて、大声で皆さんが呼び止めて下さいました。震災以来、私は日用必需品の買い出し以外ほとんど家で息をひそめて家族とだけ過ごしていたので、以前の平和な暮らしの中で顔を合わせていた人々と話をするのはそれが初めての体験でした。懐かしい、皆さんの顔を見ていると、しみじみと、生きていることのありがたさと、そして人と人とのつながりの温かさが身にしみて来るのを感じました。
これまで、私は、それなりに大きな仕事もして海外で暮らしたこともあり、人の裏切りや人の死や、恋、成功、挫折、努力、それなりの人生体験をして来たと思っていましたが、それでも、やはり、人生の本当の姿をごく一部分でしか理解出来ていなかったのだと、今つくづく思います。

昨日、番頭さんの一人が、
「この地震で僕の人生観は変わってしまいました」
と仰っていましたが、私も全く同じように感じます。あの日、自分自身の身体に揺れを感じ、そして、東京の街を人々が黙々と列になって歩いて行くあの黒い影を自分のこの目で目撃し、幾度も幾度も余震におびやかされ、テレビを点ければ全てのチャンネルから映し出される信じられない映像に胸がつぶれ、どこにも心の行き場がない!と思う。そうするうちにも商店の店先からパンが消え、牛乳が消え、米が消え、ちり紙が消え‥いつものスーパーに入るのに入場制限をかけられ、中に入ることすら出来ない!
いつもにぎやかな吉祥寺の街を人々は思い詰めたような顔つきで食料品を満載にした袋を抱えて速足ですれ違い、店々はどこも半分ほどの灯りで営業しているのでまるで休業しているように見える…やがて私の住む町では輪番停電が開始され、毎日、毎日、明日の停電時間は何時なのか、その情報を入手することが生活の最重要事項になる‥そんな、ほんの1週間前まで誰も想像すら出来なかった生活の中で、余震の振動に震えながら更に信じられない現実、吹き飛ぶ原発の屋根、むき出しになった鉄骨、空に上がる白い煙を、私たちはテレビの四角い箱の中に見つめたのでした。

        *

三島由紀夫の『仮面の告白』の中に、私が偏愛し、幾度も幾度も繰り返し読んで来た一節があります。

「ようやく起き上がれるようになったころ、広島全滅のニュースを私は聞いた。
最後の機会だった。この次は東京だと人々が噂していた。私は白いシャツに白い半ズボンで街を歩き廻った。やけっぱちの果てまで来て、人々は明るい顔で歩いていた。一刻一刻が何事もない。ふくらましたゴム風船に今破れるか今破れるかとと圧力を加えてゆくときのような明るいときめきが至るところにあった。そでれでいて一刻一刻が何事もない。あんな日々が十日以上続いたら、気が違う他はないほどだった。」

これは、1945年、太平洋戦争敗戦の直前の東京の街を描写した一文です。そのときの東京はアメリカ軍の度重なる攻撃によって街は瓦礫の山と化し、更に、広島からは新型爆弾、そう、原爆の噂が届いていました。個人が想像し、自分の力で支え切れる限界を越えた恐怖と不安、緊張の中を、一瞬一瞬、まるで僥倖のように、まだ自分は生きている!と思いながら生きる――
私の夢は――もしもこのまままだ生き延びることが出来たとしたらそのときの夢は――昭和の戦争と現在の日本を接続させる本を書くことですが、そのために、これまで数えきれないほどの資料を読んで来て、それでも、どのように想像力を働かせても、決してたどり着けない地点があると感じていました。それは、当時の人々が日々感じていた恐怖と緊張、そしてその中に生まれるあきらめや笑いの感覚、それを本当に自分のものとして感じとることでした。
今、この東京にいて、私は、当時の日本人がありありと感じていただろうものと同じ恐怖を感じることが出来るようになったと思います。それは、体験してみない限り決して理解出来ない性質のものでした。今この時以降、「日本人」と一つの言葉では言ってみたとしても、この恐怖感と非日常感を今、日本にいて実際に感じた人間とそうでない人間とでは、もう同じ日本人とは言えないくらいに巨大な体験の差が日々生まれているのだと感じます。
また、今現在関東にいて体でこの恐怖を体験している人間と関西以南の人との間では、やはりその切迫感には大きな違いがあり、その差はもう決して埋めることは出来ない。どのように説明しても、中にいて感じるこの恐怖を共有することは出来ないと思います。
そして、同じように、東京にいて、まだ少なくとも無傷でいられる私たちも、被災地の方々の恐怖と絶望を、原発と今現在まさに戦っている方々と恐怖と勇気を、決して理解することは出来ない。その絶望感に、時々、呆然としていることがあります。

          *

今、毎日は、朝起きて、「ああ、まだ生きている」と思うことから始まります。正真正銘の夜型人間で、取材で早い時間のアポイントがあるとき以外はいつも昼頃に起き出していた私も、今は朝早くから行動を開始しています。何故なら、午前中に行動しないと、ほしい食料品を手に入れることが出来ないからです。
それから朝起きて一番にすることは、携帯のニュースで原発の現在の様子を知ること。そしてテレビのニュースを点けて更に最新のニュースを確認し、同時に、地域のケーブルテレビで今日の輪番時間が昨日の夜の時点での発表と変わっていないかを確認します。それから、一日の行動が決まる――これが今の私の毎日です。
震災前はゆっくりと、時間をかけて新聞を読みながら朝食を取ることが私の日課でしたが、今は手早く済ませ、吉祥寺に買い出しに回ります。昨日手に入れられなかった食パンを今日は意外な店で買うことが出来たり、昨日まではたくさんあった卵が棚に一つもなくなっていたり(ああ、買っておけばよかった‥)。毎日の食料品の購入は偶然と小さな運、不運に満ちています。
そして、手に入れられなくて困るのは食料品ばかりではなく、トイレットペーパー、電池、そして生理ナプキン‥父、母、私、それぞれがばらばらの場所に出掛けて行って12時頃に帰宅し、今日の成果を報告し合う、そんな毎日が震災以来続いているのでした。

           *

昼からは、食器や花瓶などのガラス器や倒れやすい家具を移動する作業をしたり、家族と安否確認の方法を決めたり、少し仕事をしたり。
でも、絶えずテレビやネットから情報収集をせずにはいられず、実際には仕事はなかなかはかどりません。特に最初の3日間ほどは、仕事はほとんど手に着かない状態で、じゃあ本を読もうと思っても内容が頭に入って来ない。今思い出そうとしても何をしていたのか、はっきり思い出せないような毎日でした。
また、現在のこの東京の様子を何とか外の人たちへ発信しようと思い、ブログを書こうとするのに、どうしても言葉が出て来ない。子どもの頃から文章を書くことが好きで好きでたまらない私ですらそうなのです。そうやって今日まで、ひたすら日々が流れて来ました。

       *

一昨日、15日は、私の写真展の初日で、夕方からのオープンに備え、作品の搬入をしなければなりませんでした。
本当はもっと前から計画的に会場である映画館に搬入出来ている筈だったのに、地震でなかなか作業が手に着かず、前日の14日までに会場に送れていた額は、6枚。あと3枚――しかもその3枚は前日までの6枚よりもさらに大きなサイズだったのですが――それらを何とか当日会場に持ち込まなければいけませんでした。
しかし、15日当日の天気予報は午後から雨。額は非常に大きく重く、両手に分けて持たない限り運ぶことが出来ません。それはつまり、雨が降っても傘を差せないことを意味します。いつ原発が爆発して死の灰が降って来るかも分からない状況の中で、傘を差すことが出来ない。タクシーをつかまえれば良いとは言え、そのような状況下で確実にタクシーをつかまえることが出来るという保証もありません。会場である映画館は原宿駅からやや歩く距離にあり、しかもそもそも、額に入れるために特注したマットと呼ばれる台紙を、まずは新宿の画材店まで引き取りに行かなければならない状況でした。
何とか雨が降る前に搬入を終えなければ!‥と、朝食もそここに家を飛び出して新宿へ向かい、マットを引き取って、「ああ、まだ雨が降っていない!」 そこからタクシーで原宿の映画館まで向かいました。
映画館では、スタッフがまだ出勤していない時刻なのでその入り口前の石畳に座って、マットを写真を張り付け、額にセットする作業をしたのでした。

そうやって向かった原宿までの道のり、途中の電車の中ではピンヒールにミニスカートの女性を見かけたり、英語のテキストを真剣に読みふけっている男性がいたり。新宿の画材店には、こんなときに画材店に来るのは私くらいのものだろうと思っていたのに、このさ中、マットを発注に来ている人の姿が他にもちらほらありました。タクシーの窓からは新宿御苑を散歩している老夫婦の姿が見え、無事映画館の前に額を置いて立ち去った後、帰りは千駄ヶ谷駅まで歩いたその道沿いの幾つものカフェではきれいにお化粧をして集まっている女性のグループを見かけたりもしました。いつ核の灰が降って来るか分からない、いつ余震に巻き込まれるか分からない状況の中で、そのときはそのときでもう仕方がない、と、日常を続ける人たちがいて、おそらく、大きな額を抱えて街を歩いている私もその一人に見えていたのかも知れません。まさに戦争中の日本人が生きた「やけっぱちの果てまで来て、人々は明るい顔で歩いていた」という世界の中を、いつの間にか私は生きていたのでした。

          *

幸いなことに、その日、まだ福島原発は持ちこたえ、富士山を震源としたその夜の大きな地震も東京の街を壊滅させるほどの規模は持ちませんでした。おそらく、あの富士山からの地震に身をさらしたとき、そしてそれが富士山を震源とすると知った瞬間が、震災以来、東京に住む人々の恐怖が最も増幅された瞬間だったのではないかと思います。
そして、「ああ、まだ生きている」と、今日は生きながらえたその恐怖がまたいつ再び私たちの上に舞い戻って来るのかも分からない、その現実の中を今まだ私たちはかろうじて生きているのでした。

         *

このような極度の緊張が続く毎日の中で、私の感情はひどく麻痺し、父や母と食事に向かいながらも、じっと押し黙ってしまうこともよくありました。かわいがっている猫を膝に乗せ、一心にその柔らかい毛を撫でていても心はどこか別の所にあるような――
それでも、昨日、子宮がん検診のために婦人科へ行かなければならず、婦人科では避けて通れない、あの、とてつもなく苦しい診療――股を開き、そこに棒を突っ込まれるというとてつもない苦行の時間を引き受けながら、更に、「ああ、今この瞬間に地震が来たらどうしよう」という絶望的な恐怖を味わって乗り越えたとき、自分の中で何かが大きく動いているのを感じました。
そう、そのとき、ぎゃはは、とこの最低最悪の状況を笑っているもう一人の私が私の中のどこかにいるのを感じたのです。ねえねえ、あなた何やってるの?こんなさ、今にも原発が爆発して巨大な余震がぐらっと来るかも知れないってときにさ、股を広げてその間に棒を突っ込まれちゃってるなんて。「もー先生しっかり頼みますよ!ぐらっと来ても絶対逃げないで下さいね!先生だけが頼りなんですから!」と、どこかで冗談を言っている自分がいるのでした。

その後、病院を出て、吉祥寺の街を歩いていると、ただ恐怖と死の覚悟だけに包まれていた頭の中が晴れ、力がみなぎって来るのを感じました。
おそらく、自分の極限なまでに無力な状態を身体を使ってしっかりと体感したことで、ただ、頭の中でだけ増幅されていた恐怖を、どこかで客観視出来るようになったのだと思います。それとも、「やけっぱちの果てまで来て、人々は明るい顔で歩いていた」、それを、ただより強いレベルで私は生きているだけなのでしょうか。今の私にはそれを判断することは出来ませんが、ただ、少しだけ気力を回復して私は街を歩き続けたのでした。

           *

そして、昨夜、家に帰ると私の目からは涙が流れるようになりました。昨日まで、嘆息し、恐怖だけを見つめ、ただじっと押し黙っていた感情が外に動き出し、初めて涙という形で流れ出すようになっていたのです。
世界中の人々が日本に同情し、支援の手を差し伸べてくれているという暖かいニュース。それに触れたとき、初めて涙が流れました。けれど、それは、裏返せば自分の祖国・日本が、これほどまでに手ひどいダメージを負い、世界中の憐れみを買う存在になってしまったということ。これほどまでに傷ついた日本――その現実が、あまりにも悲しくて、涙が後から後から流れて来て止まらないのでした。昨日の夜、私は、目が大きく腫れあがるまで泣いて、そしてようやく眠りに就きました。

‥‥これが、昨日までの私の心の動きです。今日から、明日から、それがどう動きどう変わって行くのか、自分でも全く想像がつきません。
それでも、この緊張下の中で人々は何とかいつも通りの生活を続けようと努力し、私も、来週早々には次の仕事の打ち合わせを編集者と行おうと考えています。今週末には月に一度のお茶の稽古があり、集まれる人だけで行おうという話も出ています。両方とも、もしものときにも歩いて1時間以内には帰宅出来る場所であり、社会に負担をかける恐れのない範囲で、笑い、お互いの体験を話し合い、言葉を掛け合う時間を、それぞれの人が持ち始めていることを多くのブログなどから確認しています。

今、このような極限状況の中で、ただ、ひたすら願うのは、いつか、日常を取り戻したいということ。けれどその日常は、震災前に持っていた日常の感覚とは、恐らく全く違ったものになるのだろうと思います。そのときをまだ想像することも出来ないまま、一日一日が私たちの上を流れて行きます。

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