西端真矢

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「凝り性の女」 2010/06/04



たぶん、私は、ものすごく凝り性だと思う。
肩こりがひどくて過去に何度か頭に血が回らなくなって倒れたことがあるけれど、それと同じくらい、物事に一旦はまるととことん止まらなくなる方の凝り性も、かなり重症だとやっと自覚するようになった。
一般的に、凝り性な人は得てして飽きっぽくもあるものだけれど、私の場合は非常に粘着質で、ずっとずっと、一旦はまったものを追いかけ続ける。だから毎日やることがいっぱいあり過ぎて目まぐるしく、きっとこうやってバタバタしているうちに死んで行くのだろうとも思う。もうこれ以上のめり込む対象を増やしたくはないのだけれど、そういうものは恋と同じように、ある日突然どこから飛んで来て私たちの心をとらえるのだ。逃げようがない。私たちは否応なしにそれに取り込まれてしまう。

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思えば、この凝り性の兆候は、小学生の頃からあった。
小学校の3年か4年の頃、突如私は日本古代史に目覚めて、毎日毎日卑弥呼だの邪馬台国だの古墳だの埴輪だの大化の改新だの縄文土器だのに明け暮れ、宿題が出ていた訳でもないのに、勝手に「古代新聞」や長い長い絵巻物のような古代年表を作り、先生に教室の壁に貼り出してもらっていた。勉強嫌いの同級生から見たら、かなりうざったい同級生だっただろう。
やがて6年生になる頃には、子ども用の歴史書は全て読破してしまい、物足りなくなって来て図書館の大人室(と呼んでいた)に出入りするようになった。司書の人に驚かれながら、梅原猛先生の『隠された十字架』などを読みふける小学6年生。豆古代史マニアだった。
 
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この頃の私の古代史熱中ぶりには、その後の人生全ての熱中のプロトタイプがあるように思う。
つまり、私の場合、たとえばリカちゃん人形や何かのキャラクターのように、ただ「小さくてかわいい」とか、アイドルスターのようにただ「憧れの存在」とか、自分でお料理を作ると「美味しくて楽しい」とか、楽器を弾いたりスポーツをしたりして「体を使って何かを楽しむ」とか、そういうことはそれなりにたしなむものの、大して熱中は出来ないのだ。私の場合、そこに何か歴史とか思想とか壮大で重厚なストーリーがどこまでもこまでもつながっている、そういうものに心をつかまれる傾向があるようだ。
それも、私の場合、漫画や歌謡曲、テレビドラマ、アイドル、B級おもちゃ、アングラ演劇‥そういうサブカル的なものでは――私に限っては――“降りて”来ない。私が心をつかまれるのはいつも、正統的で、伝統的で、オーソドックスで、学問的な何か。そういうものが10年に1度くらいのタームで、運命的な恋のように私にとり憑いてしまう。そういう人生をどうやら私は生きているらしいのだ。

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小学校後半の古代史熱は、そんな私の面倒くさい人生傾向の“序曲”として幼い私を訪れ、中学に入るとスッと冷めてしまった。その頃、人並みに思春期を迎えた私は社交活動に忙しく、たぶん一旦気が散ってしまったのだと思う。
本格的に“狂信的な熱中”が私をとらえるのは、高校1年のときだ。その年、倫理社会の授業で私は青柳先生という先生の講義を受けた。先生は高校生だからと見くびることなく、私たちに正統的な西洋哲学の講義を堂々と開陳して下さった。先生こそは私が恩師と呼べる方だと思っているが、そこで私は初めて本格的な西洋哲学の魅力に触れ、「哲学的に考えること」、要するに「哲学をする」ということの面白さに、熱狂的にとり憑かれてしまったのだった。
時はバブル経済の真っただ中。私は今思い出しても吐き気がするような浅薄な同級生が大半を占める軟弱私立高校の中で(彼らにはせっかくの青柳先生の講義も、1ミリもその価値が伝わらなかったに違いない)、一人、「哲学科に進学しよう」と決意を固めていた。私の高校は大学までの一貫教育だったので、よっぽどひどい成績を取らなければそのまま上に進学出来たけれど、哲学科はない。
「外の大学に出て、西洋哲学を基礎からしっかり学ぶんだ」
と、高校2年の終りから突如受験の猛勉強を始めることになった。大学も、哲学科のある所しか受けない、と心に誓う。学科で受験出来る大学は全て哲学科で受験した。そして1年後、念願の哲学科生になり、ソクラテスから始まって延々現代へと続く、哲学の道の一巡礼者になったのだ。――これが私の最初の凝り性だった。

私の場合、何かに凝り始めると、それは趣味というおとなしい領域にとどまってはくれず、生活の、いや、人生の全てに影響し始める。まだバブル真っ盛りだった当時ですら、「哲学科なんかに進学して、就職が大変よ」としたり顔で忠告してくれる人がいたけれど、そんなことは意に介さなかった。これは熱病であり恋であり、後先など考えていられない。ヨシオさんのことが好きだけど、彼、お金がないから、将来のことを考えるととっても不安。結婚はヒロシさんとするわ‥なんてことは私には出来ない。一切の打算なく、つぎ込める愛の全てつぎ込む。それが私の凝り性であり、正に純愛そのものと言っていいと思う。

そして、その哲学という凝り性は、二十六歳のときに突如終焉を迎えた。それは、この年に、「哲学が分かった」と思ったからだ。特に最後の1年は、美容ジャーナリストの斉藤薫さんの事務所でアシスタントのアルバイトをしながら、定時に家に帰るとひたすら家にこもり、ヴィトゲンシュタインの本を一字一字、血のにじむような思いで読み込んでいた。彼の『哲学探究』という分厚い著作を、「分かるまで次の行に進んではいけない」というルールを決めて、徹底的に読み込んでいたのだ。イギリスから英語版も取り寄せて詳細に文章を比較し、分からないときは日本語と英語、両方でひたすらヴィトゲンシュタインの言葉を写経した。休みの日もどこへも出かけなかった。心配した母親から、「少しは遊びに行ったら?」と言われたほどの集中状態。そして1年ほど経ったとき、「哲学が分かった」と思ったのだった。

その頃のノートと『哲学探究』
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その解脱体験の後、少ししてから次の熱中が訪れた。
それは哲学のときと同じように、或る日突然空から私の心臓めがけて降って来た恋だった。いや、正確に言うと空からではなく、それは映画館のスクリーンの上から降って来た。その情熱の名前を“中国”と言う。
このことについては前にmixi日記で書いたことがあるので詳しくは書かないけれど、或る日観た王家衛(ワン・カーウァイ)の映画が、私の心に決定的な刻印を残した。その日、家に帰ってからも映画の中の音楽が耳を離れず、目の上にスクリーンが張りついてしまったように、登場人物たちが私の前で体をくねらせていた。私は、
「決めた。明日から、毎日中国映画を1本ずつ観る」
と誓った。私の恋愛はいつも処女的であり心中的であるから、心に決めたことは必ず実行する。その日から、私は本当に、1年間、1日1本ずつ、中国・台湾・香港映画を見続けた(1日に1本以上の映画を観ると印象が混乱するので、必ず1日に1本と決めている)。そして、このような素晴らしい映画を産み出せる中国という文化は、一体どこから生まれ、今どういう状態にあり、これからどこへ行くのか?と、突如として足繁く図書館の中国史コーナーに通うようになった。
もちろん、中国映画、特にその頃隆盛を誇っていた香港映画への傾倒もどんどん深みへとはまってゆき、あらゆる香港映画特集の雑誌を買いまくってレオン・カーファイだのトニー・レオンだのレオン・ライだのといった紛らわしい名前を漢字表記と併せてまるで受験勉強のように次々と頭に叩き込み(あまりにも楽しい受験勉強!)、中華映画友の会的なクラブにも入会して嬉々としてイベントに参加した。そして、或る日、図書館の中国本も読みつくし「もう読むものが何もないなあ」と思うようになった頃、何かの啓示のように、
「私、中国に留学する」
と決めたのだった。一言も中国語が喋れなかったのにも関わらず‥。
それからは語学学校に通って中国語を猛勉強。お金も最小限を除いてひたすら留学費用のために貯金して、北京の映画学校・北京電影学院へ留学した。それから今日まで、1日たりとも中国への愛が薄れたことはない。

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その次に私を訪れたのは、“写真”という情熱だった。
それは、これまでとは違い、ゆっくりと、スローモーションの速度で、気がつくとまるでからめら取られたようにはまり込んでしまっていた情熱だった。私は1ミリたりとも「写真家になろう」という夢など持ったことはなかったのに、たまたま家にある父の古いカメラを手にして撮影し、思うような写真にならなかったことが悔しくて何度も挑戦しているうちに、どんどんどんどん深みにはまってしまったのだ。
恋愛だって、色々なパターンがある。最初からどきゅんと一目ぼれして恋に落ちる場合もあれば、最初は「気に食わないヤツ」と嫌い合っていたのに、後から大恋愛に発展するケースもある。写真との出会いは私にとって、正にそういう恋愛だった。

当時私は広告代理店に勤めていて、そのビルが銀座に近かったから、打ち合わせも銀座近辺で行うことが多かった。銀座と言えば中古カメラ店のメッカ。打ち合わせの後、「あと10分だけ、あと5分だけ‥」と、腕時計を気にしながらカメラ屋さんのショウウインドウにぴたりとおでこをつけて、レンズを物色するのが本当に楽しみだった。
上司の中に一人だけカメラ好きのおじさんがいて、一緒に打ち合わせに行くと、二人でカメラ屋の前に立ち止まって、じーっとショウウインドウを眺めていた。何しろ上司公認だから時間を気にしなくていい。「わー、28mmAiのF2が5万かあ、安いですね!」「そうだな。ちょっと外観へこんでるから安いんだろ」「ほんとだ」などと話し合い、「何か男の後輩と話してるみたいだなあ」と笑われたこともある。広告代理店時代の心温まるエピソードの一つだ。
そしてほんの趣味で始めたつもりの写真だったのに、凝り性はどんどんエスカレートして湯水のようにお金をレンズにつぎ込み(或る描写がほしいと思ったら、或るレンズの力を借りなければならないことがある!)、やがて写真屋さんにやってもらうプリントでは色や濃度の納得がいかず、ついには自分で暗室に通うようになり‥そして今では自分の家に暗室を作り上げてしまった‥
その頃、本当に激務だった仕事の合間を縫って、いつも写真のことを考えていたような気がする。あのレンズがほしい、あの印画紙でプリントしたらどんな彩度になるのだろう?どうしてあのときあの絞りではダメだったんだろう?引き延ばし機のレンズを、今度はあのメーカーに変えたらどういう描写になるんだろう?‥‥

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そして今、写真への情熱は深く静かに脈々と保ちながら、また新たな情熱が私の中に生まれて来ている。
一つは、2年前、2008年の2月に私の心臓めがけて飛び込んで来た情熱だ。それは、「日中戦争、太平洋戦争とは何だったのか?」という情熱。これは、いつの日か必ず、文章作品という形でこの世に投げかけようと心に誓っている。
あまり日記には頻繁には書いていないけれど、その2008年2月以来、私はずっと、常に古本屋を回り、様々なシンポジウムに参加して、研究書から民間の方の体験記まで幅広く目を通してこつこつと勉強を続けている。今後は中国にも数カ月間滞在して、向こうでしか集められない資料を集めていく予定だ。しつこい性格なので、絶対にあきらめないし、途中で投げ出したりもしない。必ず作品にしようと心に誓っている。そう言えば今日も午後から、朝日新聞主宰のシンポジウム「検証 昭和報道」へ行くのだ。この情熱はたぶん私の今後の人生を、死ぬまで激しく振り回し続けるだろう。

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そして、もう一つ、本当にごく最近私にとり憑いた情熱は、“着物”という名の情熱だ。これは言ってみれば幼馴染みとの恋愛のようなもので、曽祖母の代からの着物狂いのDNAが、“着物”を私の許嫁と定めていたのかも知れない。それを私が知らなかっただけなのかも知れない、と思う。
今年の冬の終わりから、お茶の稽古のために着物を着ることになったとたん、今はとり憑かれたように毎日暇さえあれば着物のことを考えている。中国映画にはまり始めたときも、カメラにはまり始めたときも、はまり始めるといつも私はカメラのカタログやら「香港映画ガイドブック」やらを日がな一日眺めて頁をめくり続けていたものだけれど、今、正にその状態にある。ウェブ上の膨大な着物ブログや着物屋のサイトを次々とクリックして着物コーディネイトを吸収し、図書館や本屋で続々と着物関係の本を見つけて来ては、仕事や食事の合間に読みふけっている。
「もう、また着物の話?」
と母からは嫌がられているけれど、着物のことばかり考えてしまうから仕方がない。今、生きている時間の軽く3分の1は、着物のことを考えていると思う。(夢でまで呉服屋さんで着物を買っていたり‥)

まずは家にある着物を全部把握しようと、曽祖母の代からの膨大な着物・帯・羽織コレクションを1枚1枚写真に撮影し、図録めいたものを作り始めてもいる。あまりにも量が多いため、そうしないと「これに合う黄色っぽい帯があったはずだけど、どこにしまってあるんだっけ‥?」と分からなくなってしまうからだ。
また、足袋や襦袢、半衿、草履などの小物は傷んでいるものも多いから、新しく買い替えが必要だ。それを一々「どこで買おうか」「何色にしようか」などと考えて、実際に買いに行くまでの過程がたまらなく楽しい。
もちろん、ライター仕事で取材に行くときは、必ず前日にその町の呉服屋さんをインターネットで検索しておき、取材の後に訪れてみる。昨日は高円寺に取材に行って、南口近くの和装小物屋さんでレースの足袋、しかも21.5cm!を発見。涙して購入した。足が小さい私は、着物のときも苦労の連続なのだ。
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最近は、今まで目に留まらなかったmixi上のお着物コミュニティにも続々と参加するようになった。たくさんの方々が自分の着物コーディネートをアップしているので、とても参考になる。
ついこの間など、「実家の蔵から出て来たおばあちゃんの着物、サイズが小さいのでお安くお分けします」という素敵な会があったので、もちろん参加して粋な着物をゲットした。気をつけて見ていると、こういった着物好き同士の集まりや、着物屋さん主宰の特別イベントは東京のあちこちでかなり頻繁に開かれているようだ。少しずつ、着物ブームが訪れている予感がする。

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考えてみれば、この“着物”という最新の情熱は、やはり今までの私の凝り性のプロトタイプを全く離れていないと思う。何故ならば、着物は衣服という日常生活に密着しているものでありながら、その上には日本の長い長い文化史の全てが集約されているからだ。文様や色の組み合わせなど、勉強することが山ほどあり、伝統的で、正統的。まさに私がはまりやすい対象そのものなのだ。
しかも着物は、きれい!さわれる!着ることが出来る!気分がウキウキする!女子的要素を満載しつつも、勉強&歴史好きの好奇心も満たしてくれる。何て素晴らしいのだろう!新しく始まった着物というこの情熱も、長く長く私の人生を支配する…という予感がしてならない。

こうして生活のあちこちにのめり込む対象を持ちながら、私の人生はあたふたと前に進んでいく。願わくばただでさえ忙しいこの毎日の中で、これ以上新しい“恋”に出会わないことを。着物という情熱を、人生最後の恋にしようと思うのだ。(たぶん‥)