西端真矢

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逃げる・逃げない論 2011/03/29



福島原発近隣住民の方々に避難勧告や屋内退避勧告が出ている今、原発に非常に近い5キロ圏内に住む方々の中に、断固として避難を拒んでいらっしゃる方がいるというニュースを報道で見た。そして、思わず涙がこぼれた。
このニュースに連動したmixi日記の中に、

「彼らは父祖の地に殉じようとしているのだ。この行動を笑う者は人間ではない」

と書かれている方がいて、私も全く同じように感じている(注*現在その日記にたどり着けなくなってしまったため、私の記憶で書いています。一部語句が違う箇所があるかと思いますがご了承ください)。そしてますます涙が流れた。
世の中には、「土地に全く執着しない」という人がいる。
私の友人の中にも、「僕はニュータウン育ちで土地への思い入れは全くない。どこででも生きて行けるし、日本という国についても強い思い入れはないから、どこか無国籍な、ニューヨークのような街で暮らすのが一番自分に合っていると思う」と公言している人もいる。
私はそういう人が心底羨ましい。自分もそんな風になれたらどんなに気が楽だろうと思う。私はもっとお涙ちょうだいな、演歌調な人間で、自分が育ったこの東京の街をひどく愛してしまっている。日本という国の欠点は重々承知しているけれど、それでもやっぱりこの国が好きで、この国がいつまでも地球の一角に栄えていてほしいと心から思う。だから今回の地震と原発事故により、日本が、そして私が育ったこの関東の地が、このような事態に陥ってしまったことにとてもとても大きな精神的打撃を受けている。

             *

一方、地震発生以来、東京から関西や九州方面、或いは海外へと避難されている方々がいる。そしてそれを「逃げる」と侮蔑し、非難を浴びせる論調をネット上にいくつも読んだ。私はそれはおかしいと思う。逃げる…とは何だろうか?逃げることはそんなにいけないことなのだろうか?と。
私は、逃げることは、生きることと同義だと思う。それは生物の最も根源的な本能の一つだ。自分の生命を脅かす巨大な恐怖を察知したとき、そこから全力で抜け出そうとあらゆる努力をすること。これは生きようとする力そのものだ。何故これを否定したり、侮蔑することが出来るのだろうか?

一方で、「逃げない」という選択肢もまた確実に存在する。
例えば現在福島原発でメルトダウンの恐怖と闘いながら必死で作業を続けている方たち。おそらくこの方たちに「絶対に現場に行け」という命令は出ていない筈だ。彼らは最終的には、個人個人の自己判断で現場に行く・行かないを決められている。熟考の末に、「逃げない」という道を選択された方々。その勇気に限りない、限りない尊敬の念を抱くのは、私たちが「逃げる」ことの重要性を本能で理解しているからだ。だからこそ「逃げない」という選択肢は限りなく輝くのだ。

             *

逃げる、逃げない
そのどちらの選択肢にも、私たちは共感することが出来る。
死んでしまったらおしまいだ。何としても、どんな手を使ってでも、絶対に生き延びるんだ、という意志。
一方で、「ただ生きているだけでは生きている意味はない」、そのような意志も存在する。自分が目指す生の充実、そこに限りなく近づけたときに初めて、人は本当に「生きた」と言えるのだ、という意志。

この二つの人生観に対して、どちらが正しいという答えは永遠にない。もちろん、優位性も、永遠に確定出来ない。どちらも正しいし、どちらも理解出来る。どちらかがどちらかに自分の正しさを・自分の優位性を押しつけることも出来ない。ただそこにその人がいる、と、しか言いようがない答え。そのような問いとそのような答えの前に、今私たち首都圏の人間は直面させられている。


             *

さて、今後私自身はどうするだろう?と考える。今後福島で最悪の事態が起こってしまったとき、或いは考えたくないことだけれど、例えば東海地震が連鎖的に起こって浜岡原発までもが制御不能というような最悪中の最悪の事態に陥ったときに、私は東京から逃げ出そうとするだろうか?と。或いは私はカナダ生まれでカナダの市民権を持っているので、日本国籍を捨てて、カナダ人になろうと思うようになるだろうか?と。分からない。全ては分からない。そのときに直面してみなければ何も分からない、と思う。

ただ、今の私は、ここから出たいとは思わない。私はこの土地で育ちこの土地から楽しい時間をもらい、それを人間の愚かさによって汚そうとしている今この事態に直面したときに、そうですか、じゃあさようならと、あっさり出て行くことがただあまりにも忍びないのだ。私が涙や笑いをこぼしたこの土地、私を眠らせ私を歩かせてくれたこの土地に対してただあまりにも申し訳ないのだ。それを笑いたい人は笑ってくれればいいと思う。笑う人はあまりにも人間というものを一面でしか理解していないというただそれだけのことだ。

写真家の蜷川実花のブログで知ったのだが、彼女の父・演出家の蜷川幸雄は、地震発生時に仕事で韓国に滞在していのだたという。ところが、
「演劇人としてちゃんとこの状況を体験しておかないなんて耐えられない」
と、わざわざ日程を早めて安全な韓国の土地から、まっしぐらに東京に帰国したそうだ。私はこの蜷川幸雄の一念に共感することが出来る。私もこれから日本語で文章を書く仕事を続けて行きたいと思っているから、この動揺の中に出来得る限り踏みとどまり、日本が立ち直るならその姿を、堕ちて行くならやはりその姿を、自分の全身でその渦中で感じて、その上で言葉を紡ぎ出して行きたいと思うのだ。それが今の私の覚悟であり、それが今日の時点での私の「答え」だ。

だからと言って私は逃げ出す人を否定したりしない。
私の周りにも何人も、子どものために、或いは自分の精神的不安が極限に達したために、東京以外の地域に避難している人々がいる。放射能汚染という前例のない恐怖を前にして、このような行動を取る人が出て来るのは生物として当然のことだ。この人たちは何よりもまず生きようとしている。その上で自分の人生を築こうとしている。それは一つの立派な見識であり、100パーセント正しいと思う。我慢する必要なんてない。逃げることはちっとも卑怯なことなんかじゃない。逃げたいと思ったら、そのときは逃げるということが一番正しい選択肢だ。心からそう思う。

そして、これからのことを思う。事態が最悪を迎えるとしても、或いは辛くも最悪の事態を免れるとしても、2011年は今この宇宙の中を一刻一刻と過ぎ去って行っている。この宇宙の中で、本当に本当にちっぽけな、本当に本当にちっぽけな私たち、と私たちが重力によってへばりつき、木や鳥や草や花や川や山が息づくこの土地を生き延びさせるために、私たちはどう生きればいいのかを、この混乱の中で必死に考え続けている。


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