西端真矢

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季節の花を生ける 2015/05/26



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 少し前のことになりますが、端午の節句の頃、庭に咲いたあやめの花を手折り部屋に生けてみました。
 横に細長い長方形の花器に、あやめだけの一種生けです。

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 私は大学生の頃から生け花を習い(流派は真生流)、実は花がとても好きなのですが、花は、まず花を選び、花器を選び、そして生け始めると納得するまで何度も何度も生け直しが続くため、完成までに相当な時間を必要とします。真剣に花を学んだ人ほどそのことが分かるから、ちょっと時間が空いたくらいではなかなか生けようという気にはなれないのではないかと思います。(一輪挿しの花瓶にさっと挿すくらいなら別ですが‥)
 私もその例に漏れず、この一年ほど絶えず急ぎの〆切を抱えて全く時間の余裕がなかったため、「ああ、庭にあの花が咲いてるな、生けたいな」と思っても、到底無理とあきらめることばかりでした。
それが、ちょうどこの間の連休の少し前、急ぎの〆切が一旦途切れることが見えて来ると、「もう、この連休は絶対花を生ける!」と心待ちにしていたのでした。

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 そうして生けた今回の花は、実は、少し邪道の生け方をしています。
 と言うのも、普通、日本の生け花では主となる枝を三本で生け、二本で生けることはないためです。
「三本が基本」、これは、日本に花道が成立した室町時代からの鉄則で、日本の伝統美意識は、三点の均衡に美を見出していたと言えるでしょう。
 ‥が、今回あれこれ試してみましたが、どうしても三本目が良い位置に入らなかったため、家で、家族が見るだけ、ということもあり、このような生け方をしてみました。我が家では母も生け花をするため若干渋い顔で眺めていましたが‥気にしません!

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 それにしても、いざ花器の前に立つると、仕事のこと、人間関係の悩み、あれを買いに行かなくちゃ、あ、そうだあれも、そう言えばあのお食事会の段取りは‥といった毎日毎時間頭を占めている雑事が一瞬のうちに透明に色をなくして頭の中から消えてしまい、今、自分の目の前にある草花の、その茎の長さ、つぼみの開き具合、葉の長短やしなり具合、途中から分かれた細い葉を切るべきなのか残すべきなのか、この花とそちらの花、どちらを前に挿すか‥そういった、ただ花に関することだけに意識が自然に集中されて行きます。そうしなければ目の前にあるこの空間は決して埋められることがないのだから、集中する以外にない。この、花だけを見つめる、純粋な時間がとてもとても好きです。

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 そして、花は、自然から頂いて来たものであり、「この枝のこの花があと少しこちら向きについていたら…そうすればもう一本の枝と最高の調和が取れるのに…」などと思っても、それを変えることは出来ません。草花の種類によっては「ため」という技術を使えば或る程度枝の向きを変えることは出来るのですが、細い枝では折れてしまうし、不可能なことも多いのです。
 こうして、自然からの制約を受けながら、その制約の中で最高の調和を取って行く‥この真っすぐな努力こそが生け花であり、時間は瞬く間に過ぎて行きます。
 そして、日常の総てを忘れ、花だけを見つめていた無我の境地は知らぬ間に心にこびりついていた汚れを洗い落としてくれるようで、生けている間はずっと立ち続けた体は疲れているはずなのに、いつも、不思議なくらい、生け終わった時の心は清々しく、新しい力がみなぎっています。私は書道や武道はたしなみませんが、恐らく同じような心境を体験するのではないでしょうか。

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 それにしても、と思います。私は趣味を仕事にしているようなところがあって仕事が好きで好きで毎日が楽しくてたまりませんが、やはり時にはこうして、その総てを消し去ることも必要だ、と。
 真っさらな、無我の境地へと没入して行くこんな時間を、今年はあとどれくらい持てるでしょうか?願わくば、季節に一度か二度ほどは、花の前に立つ時があることを‥!

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