西端真矢

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強い女の時代 2011/07/02



少し前の話になるが、友人が通っている日本武道の演武会を観に行く機会があった。‥と書くと、これまでの常識ではこの“知り合い”は男性だったはずだが、私の友人は女性である。
私の通っているお茶の教室に、他流派でありながら時々ゲストとして遊びに来る方がいて、その人がお茶を点てている姿を見ていると、流派の違い云々ではなく、何か一つ一つの所作が根本的に他の女性たちと違っている気がしてならなかった。ある日、お稽古の後の雑談の中で彼女が日本武道を習っているという話を耳にして、私は一人心の中で「それだ!」と合点が行ったのだった。

そんな彼女にお誘い頂き、私は演武会に足を運ぶことになった。実はこれまで周りに武道関係の習い事をしている人がほとんどいなかったので、こういった発表会を見るのは初めての経験だった。そして驚かされたのは、次から次へと道場中央に現れては武道を披露する門弟たちの中に、女性の姿がたくさんあったことだ。
棒術、縄術、合気道術‥どれも大変力が要りそうだし、何か一つの所作でも間違えたらとてつもなく痛い思いをしそうだ。それでも彼女たちは真剣な表情で一つ一つの演武をこなし、会が終わった後で聞いてみると、皆さん、昨日や今日習い始めた訳ではなく、5年、7年、10年以上と長年にわたって武道の稽古を続けているということだった。
ところで、こんな文章を読むと、意地悪な男性は「どうせそんな女はブスばっかりなんだろう?」と思われるかも知れない。或いは、岩のような巨体の女性を想像する人も多いのではないだろうか。ところがここの女性たちは皆普通にかわいらしく、職場にいたら上司や同僚男性社員の人気を集めそうな人たちばかりなのだ。うーんと私は考え込んでしまうことになった。

          *

私が考え込んだのは、何故彼女たちは強くなろうとするのだろう?ということだった。
確かにこの5、6年、雑誌やネットのニュースなどで「ボクシングを習う女性が増えている」という記事を度々見かけたことがあった。そう言えば近所の小学校の前を通り過ぎると、サッカーチームの練習に、男の子たちに交じって必ず何人か女の子がいるのが目に入る。時代は変わったのだなあと思わざるを得ないのだ。
私が子どもの頃は、いや少なくとも私の青春期までは、剣道を除いて、闘う競技は全て男性だけのものだった。それどころか――私の通っていたエスカレーター式の私立高校(共学)が特に保守的だったせいもあるかも知れないが――うっかり「私、料理下手だから」などと口にしようものなら、真顔で男子同級生から、「女が料理出来ないなんて有り得ないだろう?そんなことじゃお嫁に行けないよ。何とかしなよ」と注意されたり、女の子同士の間でも、秀才で東大を目指していた同級生の或る女の子のことを、「H子、東大なんて目指してどうするんだろうね?結婚出来なくなっちゃうじゃん」と陰口を叩いたりしていた。これはもちろん、女は日本の最高偏差値機関である東大になど進学して、男に勝ってはいけない、ということを意味している。

男は外で働き、女は家で細々とした家事をする。男に勝る女など存在してはならない。当時、男女雇用機会均等法が成立してキャリアウーマンも生まれてはいたが、一方で、保守的な世界の中では、昔ながらの男女観がまだ「常識」として堂々と語られていた時代だった。もちろん、その環境の中では、女が男のようなスポーツをすることなど想像の外にあった。
結局私はそんな凝り固まった環境に嫌気がさして、エスカレーター式に上の大学へ進学することはキッパリ拒絶することになった。女は全ての面で男性の下にいなければいけない、そんな思想は絶対に受け入れられなかった。私は自分の能力を使って社会の中で何かしらの場所を占めることが出来ると確信していたし、一日中家にいることになったら発狂してしまうだろうとありありと想像出来た。だから、私の考えとは全く違う思想を持った同級生たちとこれ以上一緒に過ごすことは出来ない、と思い、高校2年の終りに、外の大学へ出ることを決めた。そして即開始した受験勉強が奏功して運良く浪人もせず大学に入学し、卒業後はずっと仕事を続けて今の自分にそれなりに満足している。社会の中で仕事を通じてたくさんの人と接した経験から、男と女の間に、性別に由来する能力差など存在しない。あるのは個人差だけだ。その実感をますます深めるようにもなっている――
――そんな私でも、「体力」或いは「腕力」というレベルで男性と競おうとすることは、想像の範囲外にあった。マラソン、高跳び、水泳、格闘技‥女性がいくら努力をしても、体格や筋力による性差だけは乗り越えることは出来ない。現にオリンピックの記録を見ても、女が男に勝ったことなど一度もない。それに、別に勝つ必要などないではないか、と思っていた。現代は全てにおいて機械化が進み、力持ちの出番は非常に少ない。戦争ですら、どんどんオートメーション化・無人化されてボタンさえ押せ事足りるようになって来ているのだから、体を鍛える必要などない。要するに、腕力には社会的価値はほとんどなくなっている時代なのだ。だったら別にそこに挑戦する必要もないではないか。
女は男に守ってもらえるから強くなる必要はない――のではなく、強くなる必要がないから強くならなくても良い――そんな風に考えていた。でもどうやらそうは思わない女性もいるようなのだ。しかもその数が年々増えているようでもある、と、その演武会の帰り道にしみじみ思わされたのだった。

          *

ところで、時代がこのように変化して来ると逆に気になるのは、男性たちの反応だ。おそらく有史以来常に「強さ」への賛美や「強さ」への強迫観念と共に生きて来た男性たちは、このような「肉体的な強さを志向する女性たち」にどのような感慨を抱くのだろうか?

私はあるエピソードを思い出した。
私の友人の中に、ランニングに非常に真剣に取り組んでいる女性がいる。仮にその人をKちゃんとするが、Kちゃんからこんな話を聞いたことがあった。
或る時Kちゃんは、市民ランナー仲間と共にマラソン大会に参加した。全員がふだんから練習を積み、走ることには自信を持っているメンバーだ。中にXさんという男性がいた。また、Yちゃんという女性もいた。走って行くうちにこの二人は、トップ集団ではないけれど、真ん中辺りで二人で並んで走るようなレース展開になっていた。ゴールまではもうそれほどない。向こうに、最後の給水ポイントが見えて来た。二人とも体力には余裕があり、このまま問題なくゴール出来そうだった。するとそのとき、XさんはYちゃんにこう言ったそうだ。
「ゴールまで体力を維持するためには、あそこで給水しておいた方がいい。一緒に飲もう」
Yちゃんはなるほどと思って同意し、やや速度を落として給水ポイントへ近づいて行った。すると突然Xさんは猛烈に加速して、何と水には目もくれずゴールへ向かって一目散に走り去ったそうだ。一瞬呆然としたYさんはすぐに気づいた。ああ、Xさんは、どうしても私に勝ちたいんだ、と。女に負ける、或いは女と同タイムでゴールする、なんて、彼にとっては絶対に認められないことなんだ。だから、5秒でも、1秒でもいいから私より速くゴールインするために、こんな姑息な嘘をついたのだな、と。
「で、結局どうなったの?」
と私は聞いてみた。結局Yさんはその後何だかとてつもなく嫌な気分になってしまい、ペースを上げるでもなく淡々と走ってXさんより後のタイムでゴールインしたそうだ。もちろん、これは彼女の性格によるもので、中にはこういうことをされたら「なにくそ」と猛烈な底力を発揮して、絶対にXさんを追い抜こうとする女性もいるだろう。だがYさんは意気阻喪してしまった。もちろん、その後女性ランナー仲間にこのエピソードを「聞いて聞いて!」と話し、Xさんは卑怯者として女性たちの笑い物になっているのだが。
しかし、いかに男性が「腕力で女性に負ける」ことを恐れているかが、このエピソードからはよく伝わって来る。

Kちゃんも似たようなことを経験したと言う。
マラソンに取り組み始めたまだ最初の頃、男女入り混じったマラソン仲間が出来た。ある男性とは特に気が合って仲良くなり、楽しく一緒に練習をこなしていた。ところが、皆で出場したマラソン大会でKちゃんがその男性より速いタイムでゴールインした後から、突然よそよそしくなって以前のような友情関係は消滅してしまったのだそうだ。
このエピソードからも、「腕力」で女性に負けることがいかに男性のプライドを傷つけるかが、ひしひしと痛いくらい伝わって来る。「もう本当にがっかりしちゃったよ」と、Kちゃんは一人憤慨しているのだった。

          *

一方で、こんな男性もいる。
或る時、元自衛官の男性とお食事をする機会があった。現在は退官して全く別の仕事をしているが、予備役には登録しているので有事の際には出動に応じるという方だ(恐らく今回の東北関東大震災の後の救援活動にも召集されているはずだ)。がっちりとした体格で、いかにも強そうな男性だった。実際、色々と話してくれた自衛隊の訓練はとてつもなく過酷なもので、それに耐えられたこの人は、腕力についてはいわゆる「男の中の男」なのだなと思わされる人だった。

そんな彼と話が弾み、大分時間が経った頃、私はふと日頃から思っていた疑問を投げかけてみたくなった。それは、「女性兵士」という存在についてどう思うか、という問いだった。
ニュースで何度か見たことがあるが、イスラエルでは、女性にも男性と同様の徴兵制度があるという。また何もイスラエルまで目を向けなくても、日本の自衛隊の中にも女性自衛官が存在するし、テレビで見る中東派遣のアメリカ軍の中にはしっかりと女性兵士が混じっている。男性軍人として、こういう女性兵士の存在をどう思うのか?と訊いてみたかった。戦場で彼女たちは本当に役に立つのか?と。

彼の答えはこうだった。
自衛隊に入り、男性と同様厳しい訓練を耐え抜くことが出来る強い女性がいることを知った。もちろん、オリンピックなど、世界の本当の頂点の戦いになれば、女性が男性に勝つことは難しいかも知れない。でも、それは「世界の数十人レベル」の話だ、と彼は言った。それ以下のレベルを相手にするのであれば、例えば、俺がいくら頑張ったってマラソンで高橋尚子に勝つことは出来ないし、テニスで伊達公子に勝つことも不可能。柔道だって、谷亮子に勝つことは出来ないだろう。男だからというだけで必ず女に勝てる訳ではない、と彼はハッキリ言い切った。それはあくまで個人個人の身体能力差の問題で、女の方が男より強い場合など山ほどある、と。ああ、本当に「強さ」を究めた男の人は、こういうことを言うのだな、と私はとても感心して耳を傾けたのだった。

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「強い女」、或いは、「腕力でも男に勝とうとする女」について、今私が思うのはこういうことだ。
20数年前、高校時代の私が学校の同級生から「女はおとなしく」「女は家に」と押しつけられたときに強い反発を感じたように、「女は力では男に勝てない」と押しつけられることに、反発を感じる女性もいるのではないか、と。

例えば、Nちゃんという女性の友人がいる。彼女とは、私が上述の高校の同級生に反発して大学受験のために通い始めた塾で知り合い、今でも友情が続いている大切な大切な友人だ。
Nちゃんは、当時、読者モデルで或る雑誌に出たときに、有名なファッションフォトグラファーから「モデルになったらどうか」とアドバイスを受けたくらいの美しい女性だ。当然男性にもいつも人気があるが、その彼女が二十代になってから突然空手を始めて、「一体何故?」と当時の私はとても驚かされた。
また、Nちゃんは三十代になってからはマラソンにも挑戦を始め、才能があったのだろう、市民ランナーとしては非常に好記録をマーク。大阪国際マラソンなど、名門大会に市民ランナー枠で出場権を得るまでになった。もちろん普通の男性よりずっと好記録を出す。

ただ、彼女を見ていても、また冒頭でご紹介したお茶の教室で出会った女性にしても、そこには「何が何でも男を負かしてやる」とか、「潜在的に男性に対して強い恨みの感情を持っている」といった男性への対抗心は存在しない。現にお茶の彼女には旦那様がいるし、Nちゃんも結婚はしていないものの、これまでに素敵なボーイフレンドたちと幾人かつき合って来た。
そう、彼女たちにとって、「男性に対抗する」ということが「強くなりたい」ことの原動力なのではない。話はもっとごく単純で、彼女たちはただ生まれつきとても強いだけなのだ、と思う。別の言葉で言えば、持って生まれた身体能力が非常に高い。それは彼女たちの生まれつきの大きな大きな才能なのだ。
例えば、走り始めればすぐに好タイムが出るし、腕を伸ばす、振り上げる、体の向きを俊敏に変える‥いくらやっても疲れないし、自由自在に各部を動かすことが出来る。だったら、これをもっと複雑に、力強く、体系的に動かして術として身につけてみたい!と思うようになるのも当然のことだろう。そうやって、彼女たちの中に、武道を習ってみようという気持ちが生まれるのだろうし、マラソンに挑戦してみようという気持ちも生まれて来るのだろう。自分の中に何かの能力があったのなら、それは自分にとって「良きもの」として捉えられる。もっともっとそれを育ててみたい、どこまで出来るのかやってみたいと願うことは、人間の本性の一つであると言って良いだろう。
そして、その育てる過程の中で、同じ道を志す男性と出会うことになる。そのとき、先ほどの元自衛官の方が話していたように、或る男性の持っている身体能力が彼女の身体能力より下回っていることなど、実は、数限りなく起こり得ることなのだ。これまではそれを「男は女より強い」というざっくりとした共同幻想で覆い隠していたに過ぎない。

もちろん、こんなことは、昔の女だって気づいている人はかなり気づいていたのではないかと思う。私自身はたまたま握力や背筋力が学校の体力検査で学年一低かったくらいにもやし体力に生まれついたため、「女は男に体力の面ではかなわない」とぼんやり受け入れてしまっていたが、Nちゃんたちのように身体能力の高い女性から見れば、「いつも女が男より身体能力が落ちると決まっている訳ではない」と、自分の体を通して実感していたはずだ。
それでも、これまでの社会は女性が経済能力をなかなか身につけることが出来ない仕組みになっていたために、女たちは「そうそう、殿方はお強いのですよね」と、芸者や銀座のママ風の知恵でにこにこ笑って男を立て、生きて行く金を稼いでもらって来ていただけのことなのだと思う。自分で自分の金を稼げるようになれば、愛想笑いは必要なくなる。強い女はただ「強い」と、ありのままの自分を外に表すようになって来たのではないだろうか。
そう、2000年代になって急に女性の身体能力が向上した訳ではなく、強い女は昔から普通に存在していた。ただ、弱い女の芝居をするのを止めただけの話なのだ。

          *

‥という訳で、2011年の現在、或る一群の女たちはせっせとボクシングジムに通い武道場で汗を流し、フルマラソンやトライアスロンに挑戦する。男性が女性上司の下で働くことが話題になった時代がかつてはあったが、今ではそんなことはごく当たり前の風景になっているように、スポーツや武道で、そして町中でのケンカで、女が男に勝つことがあることも、当たり前になる時代が来るのかも知れない。勝つ方の女は精神的に楽だが、負ける側の男性は内心おだやかではないだろう。しかし、この流れは止まらないように思える。だとしたら男性は、「女に負けた」のではなく、「この人に負けた」という視点を持てるようになること。それがこれからの愛される男性の姿なのかも知れない。


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