西端真矢

ARCHIVE:

かわいくて頭が良くてスポーツが出来る女の子 2011/10/03



~~かわいくて頭が良くてスポーツも出来て明るい性格の女の子はみんなの憧れ!…のはず……だけど、そこには大きな落とし穴が?というお話です~~

私には一つの宿命があって、子どもの頃から、同性の友人にとても慕われて生きて来た。もともとの性格があまり統率力がある方ではないし人を支配したいという願望もさらさら持っていないので、学級委員になったり学年に何人かいるリーダー的存在の女子になることはなかったが、その代わり、“コアな”とでも言うほかないような、一部の“コアな女子たち”に静かに・熱く慕われ、非常に重大な秘密を打ち明けられたりして生きて来た。

そして、このようなことは、私の人生のかなり早い段階から常に私の周りに起こり続けていたので、例えば王族一家に生まれた人間が王族としての振る舞いを自然に身につけているように、私にとって、女の子たちの心の奥底の悩みに耳を傾け、時には一緒になってその解決策を考えることは、この地球から私が引き受けた一つの勤めとして、日常の中のあまりにも自然な振る舞いとなっていた。何が言いたいのかと言うと、私はたぶん普通の人より、女の子というものがどういう存在か理解していると思うのだ。

          *

ところで、私が何故突然こんな話を始めたかと言うと、最近、テレビのニュース番組で、今の子どもたちに関する或るニュースを見たからだ。
そのニュースでは、或る大手の学習塾がレポートされていた。名門中学校に毎年多数の児童を送り込むその進学塾に、最近は体育のクラスが併設されているのだという。まさか、勉強ばかりかスポーツでも上位を獲るスーパー小学生を育てようとしているのかしら?と思いきやそうではなく、教えているのは、跳び箱や鉄棒。それも、ごくごく低い段、ごくごく平凡な棒一本の鉄棒が教室の真ん中に据えられているだけだ。そこで何が教えられているのかと言うと、例えばどうしても逆上がりが出来ない子。どうしても跳び箱を3段以上飛べない子。そういう子たちの横に先生がついて、ゆっくりと、何回でも時間をかけて、逆上がりが出来るように・跳び箱4段が飛べるように、指導するためのクラスだというのだった。通常の勉強のためのクラスの他に、オプションとして、希望すればこのような体育補修クラスに入ることが出来るのだそうだ。

このニュースを見たとき、私は両刃の剣だなと感じた。
確かに、それまで体育の授業で、どうしても逆上がりが出来ずクラスメートから忍び笑いを浴びていたAちゃんがやさしい先生の絶え間ない励ましのもと、何とか逆上がりを身につけて次の体育の授業では逆上がり完遂!となれば、それはそれでめでたいことではあるだろう。もしかしたら子どもたちの心には、そのとき深い達成感や自信の感覚が生まれているのかも知れない。何一つ悪いことはない。良いことづくめ――な話のようだが、果たしてそうだろうか?とも思うのだ。

          *

私がそんな風に思うのには理由がある。冒頭で書いたように女子たちから慕われやすい宿命を負った私はこれまでに多くの女の子たちの悩みを聞いて生きて来たが、特にこの10年程、社会の中で出くわした初めての、そして(私から見れば)とても小さな挫折や失敗に、あっけなく崩壊してしまう女性たちが増えていると感じるのだ。
彼女たちは皆、非常に良い大学を卒業している。そして容姿もかわいらしく、男性にも人気がある。間違ってもガリ勉タイプではなくファッションやメイクにも関心があり、そして実際そのセンスもとても良い。
過去に学校やバイト先で上手く友人関係を育むことも出来、対人スキルも問題がないと思われて来た女の子たち。彼女たちは運動神経もそこそこ良く、更に、出身家庭もまずまずの収入水準だ。自分に娘がいたら「こんな風に育ってほしい」と願うような女の子たち。でも、こういう子が一番危ない、と思うのだ。

彼女たちに共通している要素は何か?と言えば、それは、挫折を経験したことがない、ということに尽きる。もっと言えば、恥をかいたことがない。更にもっと詳しく言えば、自分の面子を大きく失うような体験をしたことがない、ということだ。
彼女たちがこれまでに体験して来た挫折と言えば、おそらく失恋くらいのものだろう。しかし、恋愛というのは個人と個人の間の相性から成る部分が非常に大きく、社会に出て仕事をして行くときに必要と考えられている“公的な能力”が問われる場ではない。要するに恋愛とはプライベートな領域の中で起こることであり、そこでの挫折経験は、公的な領域での挫折にはカウントされない、ということだ。

          *

さて、そんな挫折知らずの彼女たちが優秀な大学をそつない成績で卒業。そつないメークとそつないファッションで、いざ社会に出て働き始める。ところが仕事と言うのは、理不尽なことの連続だ。仕事とは要するにどういうことかと言えば、「あなたに金を支払ってくれる人が、あなたの優位に立つ」、この一言に尽きる。
人間はご飯を食べなければ生きて行けない。
今は物々交換の時代ではなく、貨幣を媒介としてご飯を得る社会体制であるのだから、ご飯を得るためにはお金を稼がなければならない。そう、お金はご飯そのものなのだ。だからお金は人間にとってとてつもなくとてつもなく大切なものだ。その大切なものを誰かが別の誰かに支払うとき、それが大切なものであると本能的に分かっているが故に、支払う側の心には驕りが生まれる。そして、支払われる側の心にはどうしても卑屈な感情が生まれて来る。
そんなことは間違っている。金は労働の対価であり、労働者と支払者の間には労働を媒介にして対等な関係が…という正論はもちろんその通りであり、私も常々そのように振る舞おうと努めているつもりだが、社会の実際の姿を見るとき、残念ながら、間違っている人々の方が大変多いというのが現実だ。

だからこそ、仕事の場には理不尽なことが次から次へと起こる。金を支払う側=顧客、給料を査定する側=上司は、あなたに対して驕りの感情を持っている。あなたの息の根を止めることが出来ると思っている。そして実際にその通りなのだ。
クライアントに、「あの子生意気。このプロジェクトから外してよ」と言われたら、あなたがそのプロジェクトに残れる可能性はゼロ%だ。クライアントがどんなに無理なスケジュールを押し付けて来ても、どんなに悪辣な値切りをして来ても、どんなに下品なセクハラ発言をしたとしても、真っ向からそれに歯向かったら、あなたはそのプロジェクトに残る可能性はない。それはこの仕事に対してあなたの収入が0円になるということであり、フリーだったら文字通り、このプロジェクトからあなたが1円の収入でも得る望みは断たれてしまう。また、もしもあなたが会社に所属していたとしたら、会社から見てあなたのこのプロジェクトでの貢献度は0円、無収入な役立たずになったということを意味してしまう。そしてそれは社内でのあなたの評価を著しく下げる。
……このようにして、あなたの明日のご飯代は消えて行く。或いは、先細って行く…という訳だ。そして、ご飯が食べられなかったら人は、死ぬしかない。

          *

だからこそ、人は、どんなに理不尽だと思ってもお金を支払ってくれる相手に卑屈に頭を下げ、何とか理不尽な条件を弱めるために卑屈な努力を続けて行く。これほど卑屈な、奴隷的姿はない。しかし、これが仕事をするということの現実の姿なのだ。

仕事をしていると、時々、今の自分って、本当にかっこ悪いな…と思うことがある。さっき自分の前に鏡がなくて本当に良かった。あのクライアントに情けなく頭を下げている姿。あの私のごくごく真っ当な怒りを、ぐっと抑えなければいけなかったときのみじめなぐんにゃり顔。あんなものを鏡で見たらきっと私は発狂してしまうに違いない!…しかし、あなたは本当は自分のその卑屈な姿を、心の中に持っている大きな姿見の中にはっきりと見つめているのである。
それでも、何とか、人はまた明日のために歩き始める。上司やらクライアントやらのためにはらわたが煮えくりかえって眠れなかった夜があっても、トイレでそっと涙をぬぐった日があっても、何とか「仕方ない。まあ、仕事ってこういうものだし」「いつか偉くなってあいつを見返してやる」そんなことを心の中でつぶやきながら、お金を稼ぐために、生きて行くためにまた歩き始めて行く。
ところが、どうしても立ち上がれなくなってしまう人がいる。それが、この日記のタイトルに使った“かわいくて頭が良くてスポーツが出来て、それに加えてそこそこ良いお家で育った女の子たち”だ。彼女たちはこれまでの人生でただの一度も、面子を失うような立場に追い込まれたことがない。だってかわいいから男の子たちに好感をもたれて外見で損をしたことがないし、勉強が出来たから劣等生の情けない気持ちを味わったこともないし。もちろん、スポーツもそこそこ出来たから跳び箱4段が飛べずにくすくす後ろの方から笑われたりしたことなんてあるわけないし、マラソン大会でビリでゴールインして皆から拍手(心の中で失笑)で迎えられたこともないし。あ、そうそう家が貧乏ってわけでもないから人にバカにされたこともなかったしネ!
そんな彼女たちは社会に出て初めて、クライアントやらおっさん上司のセクハラ発言やら嫉妬深い中年の女性上司の意地悪攻撃やらとの理不尽な果てしなき交渉に立ち向かうことになる。そして、あっけなく自我崩壊。鬱状態に陥ってしまい、出社拒否、という結果になることが非常に多いのだ。

          *

彼女たちは本当は、クライアントやらセクハラ上司やら意地悪女性上司やらに負けたのではない、と私は思う。彼女たちが負けたのは、本当は、自分自身だ。理不尽な人々の理不尽な行為に卑屈に対処しなければならない自分。その情けない自分の姿を何とかだましだまし受け入れることが、どうしても出来ないからこそ、彼女たちは一歩も前に進めなくなってしまう。

私はふだん、署名なしで書く或るウェブサイトのお仕事で、お医者様に日々インタビューを続けている。或る時、子どものアレルギーを専門とされる先生が、こんなことを仰っているのを聞いて膝を打った。
「アレルギーは、遺伝という先天的な原因から起こることがほとんどで、どうすることも出来ません。でも、子どもは免疫力が弱いためにそのアレルギー体質が激しく出るのであって、だんだんと、成長につれて免疫系統が強くなって行くと、アレルギー反応も少しずつ弱まって行きます。
ところが、今のお母さんたちは、お子さんを心配するあまり、アレルギー反応を引き起こす食べ物やハウスダストを、完璧なまでに排除しようとする。そうすると子どもたちは逆に、いつまでもアレルギーから抜け出せないのです。
アレルギーを抑えて行くためには、少しずつ、子どもの免疫力の発達に従って、アレルギーを起こす物質に触れさせなければいけません。そのときはもちろん多少のアレルギー反応を引き起こすことは覚悟しなければいけません。かなり強い発作が起こったり、湿疹がいっぱい出たり、つらいことがたくさんあります。でも、そうやって少しずつ慣らして行くことで、アレルギーと折り合いをつけられる体が作られて行くんです」

          *

このお話を伺ったとき、私は、私が目にしたたくさんの“社会に出て自我崩壊してしまう素敵な女の子たち”も全く同じ問題を抱えていると感じた。人は子どもの頃から長い時間をかけて、少しずつ、失敗、恥をかくこと、面子を失うようなこと…そういう“情けない自分”の姿に、自分を慣らして行かなければいけない…はずなのに、彼女たちにはそういう体験がなかったのではないだろうか?

飲み会や旅行などで夜も更けて行くと、
「私、中学の頃さ、ほんと数学が出来なくて、10点とか取って真っ青になって、ほーんとつらかったなあ。今でも数学のテストの夢見るもん」
「分かる!私は水泳が苦手でいつもビリで、水泳大会の日は何とか熱が出るようにって、1週間前から毎日シャワーを1時間頭に掛けたりしたよ~」(←実はこれ、私の話です)
「私は絵が下手でさあ。教室の後ろに貼り出されると明らかに私の絵だけへなちょこで、ほんと生き恥ってかんじだったなあ。図画の時間が吐き気がするくらい嫌いだった…」(←これも私の実話)
…こんな話に花が咲くことがある。どれも本人にとってはとてもつらい思い出だが、でも、本当は自分がこのような思い出を持てたことを、ラッキーと思わなければいけないのだ(だから堂々と書きました~)。
子ども時代の失敗、学生時代の生き恥など、何と言うこともない。何故ならばそこにはお金は関わっていない。生きることは関わっていないからだ。だからこそ、その“やさしい”環境の中で、思い切り失敗の練習をしておいた方がいい。自分の情けない姿、どうやっても上手く出来ない分野、そういうものを否応なしに心に刻みつける訓練をしておいた方がいい。そうやって、アレルギーに少しずつ慣れて行く子どもたちのように、失敗や、面子を失うことや、情けない自分の姿に慣れて行くのだ。

          *

先ほども書いたように、残念ながら社会に出れば、面子を失うことなど数限りなくある。これはアレルギーの子どもがそのアレルギー体質を遺伝によって先天的に持ってしまったことと同様、生きている以上決して避けることは出来ない現実だ。社会というのは先天的にそういう場であるはずなのに、自分はそこそこ何でも出来るなどと思い込んでしまうこと。そして二十何歳かになって初めて“どうにもならないこと”と出会って卑屈な自分の姿に生まれて初めて直面したら、一体どういうことが起こるのか?もろくも自我崩壊。出社拒否症の“素敵女子”の出来上がり、という訳だ。

だから、私は、この日記の前半で書いた「跳び箱補修クラス」や「鉄棒逆上がりクラス」に首をかしげてしまう。跳び箱なんて飛べなくてもいいし、逆上がりが出来なくて皆からくすくす笑われたって、本当はその子にとっては何よりも得難い経験になる。そうやって子どもは、恥をかかなければいけないのだ。
生きて行くことは楽じゃない。この楽じゃないという事実は誰にも変えることは出来ない。だったら、その中で何とか生き延びることが出来るための免疫力をつけることこそが、社会に出る前に必要な準備ではないだろうか?
情けない自分の姿に慣れること。どうやったって三流以下の自分の苦手分野がたくさんあることをよくよく思い知ること。その上で、どうやって、「自分が生きて行くためのお金を稼ぐのか?」を考えられるようになること。やられたら、上・手・く・¥やり返す。いつか見返すための力を蓄える。そういうしぶとさは、思い切り恥をかいてみない限り養うことは出来ないのだ。

私の意見は極端だろうか?でも、たくさんの女子たちを見て来て、私は自分の意見は決して間違っていないと確信している。
そう、この日記を読んでいるあなたがもしも女の子を育てていらっしゃるのなら、傷つかないように傷つかないようにと、大事に育て過ぎてはいけない。
また、もしもこの日記を読んでいる若いあなたが、だって私って自然に何でもそこそこ上手く出来ちゃうん素敵な女の子なんだもん、仕方ないじゃない、と思うなら、これからの人生ではあなたの身の上に「どうしてこんなにかわいくて頭が良くてスポーツも出来ていい家で育って正しいことをしている私の上にこんなひどいことが起こるの?!」と絶望したくなるような出来事が、か・な・ら・ず起こると思った方がいい。それに耐えられる力をつけるために、自分より更にとてつもなく能力の高い人々が集まる場所へ敢えて出て行って嘲笑されるなど、何らかの予行演習をしておいた方が良い。
或いは、そんなものは私は必要ない。だって私の能力はとてつもなく高いんだもの、どこへ行ったって何を始めたって必ず上手くやれるわ、と思うなら、他人はそんなあなたのことを激しく憎んだり妬んだりしていると思った方がいい。そしてその風が、否応なくあなたの身の上に吹き始めると思った方がいい。それがあなたの足を引っ張り、いつかあなたの命取りになると思った方がいい。どうやったらその風を和らげる人間になれるかを考えておいた方がいい。
まったく人生は楽じゃないのだ。

☆ブログランキングに参加しています。下の二つの紫色のバナーを応援クリックお願い致します☆
にほんブログ村 ライフスタイルブログ 40代の生き方へ
にほんブログ村
にほんブログ村 ファッションブログ 着物・和装へ
にほんブログ村