西端真矢

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「帰還」 2010/04/07



今年に入ってから3月いっぱいまで、とにかく仕事に追われて過ごしていた。
一番忙しいときは毎日、それほどではない時期でも平均2日に1度は午後に取材や打ち合わせ。時には1日に2つ取材をこなし、その後に別件の打ち合わせ‥というような日もあって、脳の中の「人と相対する」部分をフル回転で使いまくる毎日だった。

そう、取材。
一度でも取材という行為をやったことがある方なら分かると思うが、とにかく取材というのは、相手に何か「原稿になるような面白いことを喋ってもらわなければならない」という作業だ。話上手な人が相手ならいいが、もちろん世の中には口下手な人もいるし、話好きでも、すぐに本筋から脱線して全く関係ないことをひたすら喋り続ける人もいる。途中でさえぎって気分を害されても困るし、かと言って延々聞いていても、あまりにも時間の無駄ということもある。この辺のハンドリングがとても難しいのだ。

一方、打ち合わせは、編集者やクライアントと行う全く別の作業だ。この本(orこの記事)を、どんな目的で書くのか・どういう視点で書けば読者が面白いと思ってくれるのか、そういうことを真剣に話し合う。
打ち合わせで一番困るのは、意見をはっきり言わない相手だ。「大体こんなあたりのことを、後はいつものマヤさん節で書いてくれれば」みたいなことを言う人が、実は後から一番始末の悪い編集者/クライアントになる。「いや、こういうことを言ってほしいんじゃなくて」と、その人の頭の中のもやもやした理想像へ向かい、霧の中を歩いて歩いて歩いてたどり着くまで、何回でも書き直しをすることになるからだ。
「あのー、打ち合わせのとき、あとはいつものかんじでって仰ってましたよね?」
「マヤさんなら大丈夫だから、もう、どーんとお任せします!とも仰ってましたよね?」
と言いたくなるけれど、もちろん聞いてくれない。

こういう人は、要するに、打ち合わせのときには仕上がりのはっきりした像が見えていない。実際に原稿が上がって来た時点でやっと本当にテーマと向き合い始めているのだろう。はっきり言って、書く側にとってはとても迷惑な存在だ。それよりは、打ち合わせのときからガンガン、
「ここではこういう骨子でこういうことを書いてほしい」
「これとこれとこのキーワードは絶対入れてほしい」
と指示してくれる人の方がいい。打ち合わせのときに「いい人」は、大体後になって「困った人」に変わる、というのが私の長年の経験から得た法則だ。打ち合わせのときに「こうるさい人」「厳しい人」の方が、仕事の相手としては信用出来る。まったくもう!やれやれ!なのであります。

       *

‥と、そんなこんなで、怒ったりため息をついたり笑ったり感心したりしながら一体何を作っていたのかと言うと、まず1月~2月は、某巨大会社の某巨大サイトのために、職業人インタビューをずーっと続けていた。
もちろん、中には話下手な人もいらっしゃるけれど、基本的にはこのインタビューは、ご自分の職業の面白いところや苦労話、生きがい、これからの展望などを語って頂くもの。必然的に、かなり内容豊富な面白いインタビューになった。原稿を書くときも、その人の半生記を書くような感覚で、良かったことと悪かったこと、成功と失敗、光と影をとり混ぜて書く。最後は読む人に希望を与えるように。これはなかなかに楽しい仕事だった。

そんな中、2月からは、広告業界の「業界人向け書籍」の仕事も併行して行っていた。
私は2000年から2007年まで、7年間代理店で働いていた経験があるので、そこを見込んで声をかけて頂き、現在の広告業界の状況(一言で言って、大変革期にある)を、業界内部の方にインタビューした。また、そもそも広告業界の仕組み・歴史をひもとくような読み物記事も担当した。
それから、大変化を迎えている現在の広告業界の中で、これからの新しい動きにつながるような仕事の進め方をしている業界人へのインタビューも行ったのだが、これは私にとっても発見が多く、やりがいある仕事になった。
この広告業界人向け書籍、もうすぐ発売になるので、そのときにはまたご紹介したいと思います!

         *

その後、3月は、この広告本の仕事をしつつ、同時に、某企業と言うか某団体の宣伝パンフレットを作る仕事をしていた。
これも、取材有り・資料をもとにして書くページ有りで、かなり分量のある仕事。しかもとにかく締切まで時間がない!「この分量を1カ月でやれって、無理でしょう‥」と言いたくなるようなスケジュール組みだった。特に3月、一時期鬱病になりかけたほど毎日プレッシャーを感じて過ごしていたのは、一にも二にも、この制作スケジュールがタイト過ぎたからだと思う。

それにしても、宣伝物と言うのは、私にとっては、「いいこと」しか書けないことがだんだんつらくなって来てしまう仕事だ。代理店を結局辞めたのも、そこに大きな原因があったと思う。
だって、ぶっちゃけ言って、世の中っていいこともあれば悪いこともあるものですよね?マザー・テレサもいれば連続強姦殺人鬼もいる、それがこの世の中。たとえば魔法瓶の広告なら、魔法瓶を○×魔法瓶に変えたからって、人生の全てが上手く行く訳じゃないですよね?‥

‥でも、もちろん、広告でそんなことを言ってはいけない。
広告では、魔法瓶で、「ちょっと、或いはたくさんステキに変わる、私の人生」のキラキラしたイメージを振りまき続けなければいけない。来る日も来る日も迫り来る締め切りに向かって、ひたすらキラキラしたことを書き続ける、という作業が、或る人にとっては何でもないことなのだろうけれど、私にとってはだんだん苦しい仕事になって来てしまうのだ。

‥それでも、PC画面の真っ白なページを文字で埋め続けながら、ふと訪れる解脱のとき。それは、その広告の文体そのものが私に乗り移り、自動的に言葉が出て来るようなマジックタイム。キラキラした言葉が私とキーボードの間の小さな空間にくるくるキラキラつむじ風のように舞い、あっと言う間に原稿が埋まってゆく。こうして一つの広告宣伝物が完成するのだ。
そう、もちろん、広告の受け取り手だって、○×魔法瓶で毎日の全てが変わる訳なんてないと知っている。クライアントだって分かっている。それでもキラキラした世界を作り続ける。それが広告だと、7年間毎日考えていたことを、また思い返していた冬だった。

       *

‥そんな仕事の大波に1月~3月にかけて取り組みながら、もう一つ同時に手掛けていたのが、今年の秋に出版予定の、或る純文学系ノンフィクション書籍の仕事。
そのキーとなる大事なインタビューが3月下旬に予定されていたので、下調べの資料を作っておかなければならず、これがまた大変だった。何しろ、上に書いて来た仕事と並行してこちらの準備もしていたのだ。連日の取材や打ち合わせの合間を縫って図書館に通い、古い新聞やたくさんの本を引っ掻き回し、一つ一つ事実を同定してゆく。まるで研究者か探偵にでもなったような作業が続いた。

でも、この作業を通じて、自分の中のこれまで知らなかった一面を発見することにもなった。
そう、私は、父方の祖父の代から学者の家の娘。DNAなのか何なのか自分でもよく分からないけれど、「分からない事実」というものを見過ごすことが出来ないのだ。
今回、この書籍のために調べている或る事実。その周辺にある小さな小さな関連事項でも、少なくとも三つ以上の資料ではっきり同定出来るまでは、どこまでもどこまでも気になって調べることを止めることが出来ない。或いは、同定出来ない事実があるならば、「どこまでが分かっていて、どこまでが分かっていない領域なのか」、それをはっきりさせるまではどうしても気が済まない。これは、もう、血と言うしかない学者気質だと思う。
大学を卒業するとき、「自分は研究者には向かないから」と大学院へは進学せず、一般の就職をする道を選んだけれど、本当は、長い時間をかけて、結局「血」の方に戻って来ているのかも知れない。そう言えば、就職を選んだのは、自分の家や、自分の父親に対する反発心が根底にあった。それでも、やはり、血より濃いものはないのかも知れない。四十を目前にした今、しみじみとそう思うのだ。

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さて、4月になって、広告本の仕事や宣伝パンフレットの仕事はほぼ校了を迎えつつあるけれど、この文学ノンフィクション書籍の仕事は、まだまだ秋まで作業が続く。
ただ、当初はかなりのページを私が書くことになるかも知れないという前提で話が進んでいたのだけれど、企画会議を重ねるうちに、私は全体の構成とコラム的なページを担当し、もう一人の共著者の方が、主たる文章を書く方向に落ち着いていきそうだ。
当初は、春から夏にかけてずっと家にこもって書き続けなければならない?と覚悟していたけれど、どうやらそういうことにはならなさそう。もちろん、構成やコラムだけでも大変に責任の重い、文学史的に非常に重要な仕事なので、心して取り組まなければならないことに変わりはない。私の2010年の多くの部分は、この本に捧げるのだ。桜が咲き桜が散りゆくのを眺めながら、改めてそう思う。

        *

さて、そんな固い話ばかりではなく、この長い仕事漬けの冬の間、一時的に私の買い物欲が大爆発した3日間があった。そのことを書いてこの日記を締めくくろうと思う。(だって私ってほんとはそんなに真面目人間ってわけでもないですしー)
そう、3月半ばに、我が町・吉祥寺の伊勢丹が、38年の歴史を惜しまれながら閉店することになった。そこで「ありがとう吉祥寺」大感謝セールが開催されたのだが、その人出たるやすさまじく、2月から3月にかけて、連日吉祥寺伊勢丹が全国1位の売り上げを取り続けたほどだという。

で、私が買いまくったのが、靴!
その一部をご紹介するので下の写真をご覧下さい。
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左から、ANNA SUI、イタリアのブランドALESSIO BALDUCCI、ANNA SUI。
ANNA SUIは2足とも5千円ぽっきり。イタリアン・ブランドの靴に至っては、何と3千5百円だった(普通、2万とか3万とかするのに)。買わずにはいられないでしょう!
この他にも、わけあり品のパーティー用ハイヒールが千円だったり、いいかんじのブーツが5千円だったり。靴だけじゃない。バッグも安いし、ワンピも安い!カルバン・クラインのスプリングコートが1万2千円って!!!
‥と、閉店前の最後の3日間、取材の後に吉祥寺に帰って来ると、連日伊勢丹に通った。その数、靴・バッグ・洋服・小物‥の合計で何と14点も!買ってしまったのだった!(そのうちワンピが4枚)。
まあ、明らかに、忙し過ぎる仕事の反動なんですよね!それに、1年分の買い物を今しちゃったわけなんですから!もう買いませんから!

吉祥寺は、今年、大きな変化を迎えている。伊勢丹だけではない。4月1日にロンロンがアトレに変わって2階からおばさんぽい店が全部駆逐され、おしゃれ雑貨屋の大集合ゾーンに変身してしまった。もう、歩いていると、げっぷがぜんぶおしゃれ雑貨になってこぼれ落ちてしまうんじゃないかと思うくらいの大変身ぶりである。
今後は、秋までかけて地下フロアと1階と別館が改装されるそうで、きっと地下も1階も別館も、全部おしゃれ雑貨屋やおしゃれブティックで埋め尽くされるのだろう。伊勢丹跡地も、20代、30代に的を絞った大おしゃれビルになるらしい。

私としては、吉祥寺のいいところは、かわいい店とおばさんぽい店が混在しているところだと思っている。全部おしゃれ最前線の店になって表参道ヒルズみたいな街になったらかなわない。人間、おしゃればかりではガンで早死にしてしまうし、犯罪率もきっと上がるのだ。何で?って言われても、そうだからそうだとしか言いようがない。
人間は、おならもするしげっぷもするし、嫉妬もするしだらけたりもする生き物だ。安心しておならが出来る街が一番いい街だと思う。第一、これから吉祥寺周辺に住んでいるおばちゃんたちは、どこで買い物をすればいいのだろう?私はおばちゃんたちのことがとてもとても心配なのだ。
(ハモニカ横丁の中のおばさん向け洋品店と、西友の横の洋品店は健在なのが救いだけど‥)

そんな吉祥寺伊勢丹の最終日、お客さんに無料で配られた泉屋のクッキーが下の写真。
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もちろん、街は変わってゆく。変わってゆくのは仕方のないことだけれど、泉屋のクッキーが私の子どもの頃と全く同じ味のまま愛され続けているように、変わらない部分もまた、必ず存在しなくてはいけないのだと思う。