西端真矢

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人を使う・使われるということ 2011/02/09



仕事仕事仕事に追われた怒涛の1か月が過ぎて、やや落ち着きを取り戻して来た今日この頃。ふと振り返ってみれば、こうしてフリーランスで仕事をするようになってから3年半という時間が経っていました。
それまでの私は広告代理店に勤め、プロデューサーという立場で今とは真逆に、フリーランスのスタッフや制作会社の皆さんにギャランティーをお支払いする立場でした。もちろん、正確に言えばお金を払うのは私ではなく、私が勤めていた会社が払っていた訳ですが、その金額の交渉や、支払いのための実務処理をするのは私。ギャラに関して、彼らが直接にやり取りする窓口は私だった訳です。誰だって収入がなければ生きて行けない。仕事はボランティアや趣味とは違い対価があることが何よりの前提ですから、その大切な窓口である私に対して、フリーランスの方々や制作会社の方々は、それはそれは丁寧に接して下さいました。

…と、こんな過去の思い出をつらつらと書いてみたのは、この頃時々「うーん」と思うことに出会ったからです。それは一言で言えば、「使ってやってるんだから、金を払ってやるんだから、何をしてもいい」というような考え方。何だか以前よりも少しずつ、こういう考え方をする人が増えているような気がしてならないのです。

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私はふだん、出版社やウェブの制作会社、編集プロダクションといった会社からお仕事を頂いています。もちろん、お仕事を発注して頂ける・使って頂けることは生活のためにとてもありがたいことだし、また同時に、文章や写真という私の技術に対して一定の信頼を頂いている証拠でもある訳ですから、人間としてとても嬉しい。だからこそ、持てる力の最大限を使って、良い結果を出せるよう努力している訳です。

でも、そうやって張り切って現場に行くと、最初のオファーのときに全く聞いていなかった難しい内容がしらっと付け加えられていたり、色々な原因で取材がどたんばのキャンセルになって、それは仕方がないとしても、「私たちも努力したけどキャンセルは不可抗力。運が悪かったですよね。てへへ」で話が終わり、キャンセルの保障など一顧だにされていなかったり、虫の居所が悪いのか誰かに当たり散らしたいのか何なのか分かりませんが、人間としてどうかと思うような失礼な言葉を投げかけて来る人がいたり…そんなとても残念なことに出くわすことがこのところしばしばありました。

少し話はそれますが、この数年世間では、モンスター・ペアレンツやモンスター・クレマーという現象が話題になっています。思うに、そのような“怪物”な人々と私が出くわす残念なクライアントたちとは、共通の思考形式を持っているのではないでしょうか。それは、先ほども書いたように、「お金を払っていれば何をしてもいい」という考え方。確かにこの資本主義社会で生きる以上お金は誰にとっても大切なものであり、こういう考え方をする人が出て来るのもむべなるかな、なのではありますが、しかし、これほどまでに卑しく徳に欠け、また浅はかな考え方もないように思うのです。

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広告代理店時代、私はあまり良いプロデューサーだったとは言えない、どちらかと言うと落第気味のプロデューサーでした。自分でもそれはよく自覚していて、だからこそ最後は身を引く決断をしたのですが、その「落第」の理由は交渉の進め方や映像知識といった職務上の専門的な内容に関してのことであり、これだけは自信を持って言えることは、ただの一度たりともフリーランスの方や制作会社の方々を下に見たことはない、ということです。だからこそ今、「発注している」「使っている」ことを笠に着てフリーランスを下に見る編集者やらプロデューサーやらに出くわすと、心底びっくりしてしまうのです。

私は、こういう人たちは、仕事というものの本質を本当には理解出来ていないように思います。
たとえば佐藤さんが山田さんに仕事を発注したとして、その関係は一見非対象であるように見えます。つまり、仕事を与えた佐藤さんの方が、圧倒的に強く、偉いという関係。「>」記号が、圧倒的に佐藤さんの方へ向いているような関係。でも本当にそうなのかな?と思うのです。
仕事というのは、自分一人で、或いは自社だけで出来るものは、100パーセントないと言って良いと思います。「いやいや、うちは全部自分の所の工場で商品を作って、自分で輸送して自分の店で販売しているよ」と言ったって、その輸送に使う車のガソリンはどこか他の会社が精製しているもの。店の電気や水道といったインフラは他の会社が整備したものです。そのどれか一つが欠けても商売を続けることは出来ない。だからこそ、その大切なパーツパーツにお金を払い、それで自分の商売が成り立っている訳です。

例えば広告代理店の仕事なら、そこのプロデューサーなりクリエーティブなりがいくら良い企画を持っていても、自分たちだけでCMを作ることは出来ません。フリーのスタイリストや大道具さんやフォトグラファーや…そして現場を取り仕切る制作会社の人に参加してもらわない限り、複雑な映像作品を作ることは不可能。それが身にしみて分かっていたからこそ、一人一人のスタッフが大切だったし、下に見るなんてとんでもない。発注をかけた全てのスタッフのことを、「自分と対等な存在」だと思っていました。
例えばここに有名な料理人がいて、たくさんのお金持ちのお客さんがついている。でも、いくらその料理人に腕があっても、お客さんが食べた後のお皿を洗ってくれる人がいなければ、明日料亭を開くことは出来ません。確かに仕事の難易度は高級料理を作ることの方が上かも知れない。でも、「仕事全体」という観点で見れば、料理人にとってお皿を洗ってくれる人もまた絶対に必要な存在。私は、仕事とは、全てそういうものだと思って生きて来ました。必要があるから発注が生まれる。一つ一つの部分が欠けてしまったら、自分の仕事は絶対に成り立たない。全ての部分が自分の仕事にとって「絶対に必要な部分」であるのだなあ、と。そのとき、その「必要」を軸にして、発注する側と発注される側は「=」の関係、対等な関係で結ばれている。それが仕事というものの本当の姿ではないでしょうか。

だからこそ、「金を払っているんだから何をしてもいい。何を言ってもいい」というような傲慢な考え方は私にはとうてい理解出来ません。仕事というものの本質を本当に理解していれば、全てのスタッフを大切にしようという気持ちがごく自然に生まれて来るものだと思うのです。
実は最近、途中まで進んでいた仕事を一本降りました。それはその編集者がまさに全編「こっちが金を払っているんだからさ」という傲慢な考え方をしていると思ったからです。降りると言ったら泡を食っていましたが、「バーカざまーみろ」というかんじです。
…そこまでは行かなくても、ところどころで軸がぶれているなと思う発注者に出会うことはあります。たいていの方はこちらがちくりと言うとすぐに気づいて改まるので、それならそれで良し。ごく最近も、私ではなく他のフリーランスの方が声を上げているのを見て、その雄々しい態度に一人しびれる…なんて出来事もあったりました。「モンスター」的な発注者が増える昨今、フリーランスの側も言うべきことは言って行かなければいけないのでしょう。

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…と、ここまでの話は仕事をするとき全般の大きな関わり合い方の話でしたが、もう少し範囲を狭めた部分で、人を使うとき・人に仕事を出すときの難しさを改めて実感する出来事にもこのところ遭遇しました。
私の仕事はライターですから、そのときどきの企画に合わせて原稿を上げます。それに対して編集者から返しがある訳ですが、直しゼロで入稿の場合もあるし、「ここをこういう意図で、このように修正しほしい」といった注文が入る場合もあります。この「修正」を伝えるの場合の難しさを、このところ何回か改めて実感させられたのです。

原稿の修正を出すというのは、実はとても難しいことだと思います。だって、中にはやっつけ仕事で原稿を書くライターもいるかも知れないけれど、たいていのライターはとても真面目に、自分がベストと思うものを書き上げて提出している訳です。それに対して編集者は赤を入れますが、時には編集者の方が大局が見えておらず、とんちんかんな要求をしてしまう、などということもあります。
それでも、あらゆる観点から見て、「ここはどうしてもこう変えてもらわなければいけない」という点があった場合、それをライターに伝える訳ですが、その伝え方に問題がある編集者がどうも増えているような気がしてならないのです。
例えば最近私が遭遇した例ですが、或る書籍の企画で、私が出したラフ案に対して罵倒に近いような返しが返って来ました。「ここまで大きく考え方が違っている以上、この本に私が参加すること自体に無理があるな」と辞退を申し出たところ、先方は大慌てで、「いや、マヤさんのこの企画、自分はすごく気に入っているんですよ。全体はとても好き。ここもここもいいなあ。ただこの点だけがちょっと変えてほしいところなんです」と言うのでこちらの方がビックリしてしまいました。「あなたのさっきまでの口振りじゃ、その“いいと思っている”気持ちは全然伝わって来なかったよ‥」と。

広告代理店時代にも時々出くわしたのですが、CMを作り上げてクライアント試写をすると、気に入らない点を次々と、ものすごくきつい口調で指摘して来るクライアントがいます。こちらはがっくりと肩を落として後味悪く試写を終えることになりますが(そして深夜の再編集作業へ…)、実は後から営業がお酒を飲みつつよくよく話を聞いてみると、クライアントはCM全体はかなり気に入っていたりする。
本当にこれは言い方の問題です。
クライアントの中には、「ぎゃははーいいね、このCM!面白い!」とまず率直な反応を出して下さって、その後で「ただ、他部門との整合性の観点からここだけは編集で****のキャプション入れといて!」などと直しの指示を出す方もいらっしゃいました。
この2タイプのクライアントを比較すれば、思っていることも出している指示も全く同じ。しかし、受けとめるスタッフのやる気は大きく変わります。「仕方ない、仕事だから再編集やるか」と、「あの人のために頑張ろう」の違い。これは、別の機会には、前者に対しては「あいつのためには頑張らないよ」になる可能性が高い。

どういう訳か人は、一抹の照れくささがつきまとう「褒める」ことよりも、欠点を指摘することの方が心理的にとても簡単で、簡単な方につい流れてしまう性向を持っているようです。私自身も、忙しいときなど、ついつい改善希望点だけをぱっとメールで送ってしまったりしがち。その底の底には、このままで良い点・良く出来ている点は「出来て当たり前」と受け止めてしまう心理があるのではないでしょうか。
人は誰にも承認要求があり、ほめられれば悪い気はしないもの。自分自身だって、相手の仕事の良い部分には素直に満足しているのだから、それを伝えないのは実はいい加減な仕事をしていることと同じことなのかもしれません。つまり、前半で書いた「お金を払っているのだから何をしてもいい」と同じ考え方が根っこの所にある。仕事で人と接するということは、「必要」を通じて自分と相手とが対称形に向き合っているのだから、一つ一つのやり取りを丁寧に、対称に・対等にこなさなければいけないはずなのに…と、やっぱり自分もまだまだだなあと自戒させられたこの頃でもありました。

「人を使う」「使われる」とよく言います。
働くということに関して、もしかしたらこういう言い方を嫌う人もいるかも知れないけれど、でも、仕事を通じた人間関係は友情や恋愛とは全く違う。そこに「必要」があるから結ばれる関係であって、それは、ゴミを掃きたいから箒を使う、字を書きたいから鉛筆を使う…必要に応じて生まれる道具と人間との関係と根本的には同じものなのではないかと思います。
だけど、私が写真を撮るときの大切な道具、ニコンのカメラをメンテナンスに出しに行くと、修理センターの職人さんは「カメラは、大切に使われているか使われていないかは見ればすぐに分かりますよ」と仰います。
自分の思い描く写真を撮るためには、自分の絵の好みに合ったカメラが必要不可欠。そのカメラを大切に大切に「使う」ように、仕事で出会う人を大切に「使わ」なければいけないのだと思います。ましてや人は感情を持った存在。上手く使うことが出来れば、そこには使用を越えた関係だって生まれて来る訳です。そして、上手く「使われる」ようにもならなければいけないのだなあと、怒涛の忙しさを乗り切って思う日々なのでありました。

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