西端真矢

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外国語で文章を書くということ 2011/05/17



このところ、中国語で原稿を書く仕事が立て続けに二本入り、頭を中国語脳にして毎日を過ごしている。外国語で文章を書くという行為は母国語で書くこととは全く違った体験で、時間は倍くらいかかってしまうし基本的には苦しい体験であることに間違いないのだけれど、でも、独特の面白さもある。今日の日記ではそんなあれこれについて書いてみようと思う。

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まず、今回私のところに来た二本の原稿は、一本は中国語で書いた文章がそのまま掲載されるもの。もう一本は、日本語の文章がメインで掲載されて、その下に自ら中国語の訳を付けるというもの。どちらも読者は華人=中国・台湾・香港の人々だ。
このような依頼を受けて(しかも締切日が同じ!)、私は次のように仕事を進めることを決めた。中国語で原稿が掲載されるものは、中国語で書く。日本語原文が掲載されるものは、日本語で書く。絶対にこのような進め方をしなければならない、と。

マーシャル・マクルーハンはかつて「メディアはメッセージである」という重要な定義を提出したが、私は、言語についても或る程度同じことが言えるのではないかと思う。「言葉なんて、通訳すれば意味が伝わるでしょ」と考える人は、おそらく言葉についてあまりにも楽観的過ぎる。何語でもいい、外国語を深めれば深めるほど、「どうしても伝わらない」小さな領域がどこかに確実に残っていることを意識せざるを得なくなって来る。そしてその伝わらない領域を何としてでも伝えようとすれば、どうしても、元の原文が持っている言葉の選び方の妙やリズム、或いは時には元の言語で選ばれていた単語そのものを抹殺せざるを得なくなる。これが、翻訳や通訳というものにつきものの苦しさや苛立たしさの真実の姿ではないだろうか。

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例えば、どなたかからお礼状を頂いたときに、季節の花が美しく刷られた便せんに手書きで書かれたものとメールで頂くものでは、そこに含まれている意味は大きく違って来る。もちろん、「ありがとうございました」というお礼の気持ち、相手が感謝して下さっているという事実は同じように伝わって来る。
けれど、季節にふさわしい花を選ぶ教養、手書きするだけの時間を私のためにさいてくれたこと、あるいはそれだけの時間をさく余裕が先方の生活にあること‥それら全てが総合されて、手書きの礼状からは、非常に深い感謝の念を先方が抱いていることがメッセージとして伝わって来る。或いは先方はこのような方法で、並はずれた感謝の念が自分にあることを私に伝えているのかも知れない。更に別の見方をすれば、自分に教養があることを暗に伝えようとしているのかも知れない‥‥。
これと同じだけの重みを持った「特別な感謝の念」をメールでの礼状で伝えようとすれば、文中に季節の花への言及や、特に麗々しい感謝の辞が必要となって来る。或いは、現在どうしようもなく非常に忙しくてメールにて失礼せざるを得ない、という一言を別に書き加えなければいけないのかも知れない。メディアはメッセージであり、メディアの選択によって伝えることの意味は重みや軽さを帯びて来てしまうのだ。

だからこそ、言語の選択は非常に重要だ。中国語で文章を掲載したいと言われたときは、どんなにつらくても必ず中国語で書かなければならない。書く内容が非常に複雑で難しい!だから大体の字数を換算してまずは日本語で書いて、それを自分で中国語に翻訳すればいい‥そんなプロセスを取っては絶対にいけない。日本語から中国語に訳す時点で、所期の思いが必ず1割から2割、失われる、或いは薄まってしまうからだ。
逆に、今回のもう一本の仕事――これは香港の或るアート雑誌からの依頼だったのだけれど――その雑誌の特別エディション「日本特集号」への執筆だということもあり、そこに「日本人が書いた日本語の文章がある」ことが重要だ、というのが編集側の強い意図だった。もちろん、大部分の華人は日本語を理解することは出来ないけれど、そのためにこそ、中国語の翻訳を付ける。翻訳はあくまで付随物だ、というのが彼らの認識だった。
こういう場合、日本語の文章が強固な美を持っていることが何よりも重要だ。だから、こちらの仕事は迷わずに日本語で書くことに決めた。たとえ読者は華人であっても、日本語が美しくなければこの仕事は失敗に終わってしまう。
言語というものが持つ生々しさを少しでも感じて頂けただろうか?

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さて、実際に中国語で原稿を書き始めると、とてつもない呻吟の日々が待っていた。もちろん、これまでにも中国語の文章を書いたことは数限りなくある。でもそのほとんどはメールで、正確無比な文法や、文体の美は問われない。近所の裏山に登るのと富士山を踏破するくらいの違いがあったと言えるだろう。

まず、頭を中国語の脳に切り替えるために、執筆開始の3週間ほど前から、中国や台湾の雑誌を毎日1時間ずつ読むことにした。途中まで読んでいた日本語の小説も一旦途中であきらめ、代わりに、中国語の本やブログを読むことにした。私は特に中国本土の若手作家・韓寒(ハン・ハン)の文体が好きなので彼のブログを過去にさかのぼって大量に読んだり、これも文体がわりと好みの台湾の作家、三毛(サン・マオ)の紀行エッセイを読んだりした。プロのランナーが試合前に準備体操を怠らないように、脳にも準備体操の時間が必要なのだ。

このようにして実際の原稿に取り組み始めたものの、その苦しさは想像以上だった。特に書き出しは、たとえ日本語であってもいつも苦労するものだけれど、今回はほぼ一日中PCの前に座って、7時間かけてもたったの2行半しか書くことが出来なかった。更にその2行半を翌日に全部捨てて、やっと原稿が動き始めたのだ。締め切りまで3日しかないというのに‥。とてつもない苦しいスタートだった。

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更に原稿を書き進めて行くと、ほぼ一センテンスに一個ずつの割合で、「語法や単語の実際での使い方を確認する」というプロセスが必要になることが分かった。自分が今選んだこの言い回し、これを文中で使いたいけれど、本当に今回のこの意味を表すために使って良いものなのか?その確認が一々必要であるように思えのだ。
たとえば日本語で、「横道にそれる」という表現がある。
これは、大体悪い意味を表すときに使い、良い行為を成し遂げるために敢えて違う方法を採ったときには、ほとんどこの言い方は用いない。我々日本人は子どもの頃から何回も会話や文章の中で「横道にそれる」の使われ方を繰り返し目に耳にしてごく自然にそれを習得しているけれど、外国人が後から日本語を学んだ場合、このような微妙な差異を自分のものにすることは非常に難しい。だから、良い文脈の中で「横道にそれる」を使い、それを聞いた日本人は何となく違和感を覚えることになる。
‥このようなことが、私が中国語の文章を書くときにも頻繁に起こると考えられた。もちろん、メールや日常会話の中で使うだけならちょっとした違和感など全く問題にならない。けれど正式な媒体に載るとなったら話は別だ。もちろん、原稿は中国人編集者がチェックしてくれるのだけれど、それでも、プロとして私の方で出来る全ての努力はしておかなければならない。そこでこんな方法を考え出した。
「横道にそれる」なら「横道にそれる」。
自分が使いたい言い回しを、そのまま中国雅虎(yahoo)で検索にかけてみるのだ。すると、その語を含んだサイト記事やブログ記事が大量に画面の上に現れ出る。それをざっとチェックすれば、「ああ、この言い方はしないんだな」「良い文脈では使わないんだな」「主に二重否定の言い回しとセットで使うんだ」「必ず***の語で受けるんだ」「未来形でしか使わないんだ」など、実際にその語、その言い回しがどのように使われているかを分析することが出来るのだ。
これは正にインターネット時代の大きな恩恵で、少し前の時代の人がこんなことをしようと思ったら、図書館に何十時間も籠もらなければならなかっただろう。しかし、一々こうやって語法を確認していると原稿執筆にはやはり莫大な時間がかかる。けれどこのプロセスは絶対に外せない。かくして私は先週を通して机の前に張りつけになったのだった。

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しかし、中国語で文章を書いていると、他の言語では味わえない特別な面白さも体験することにもなった。それは、「知らないはずの単語が突然頭に浮かんで来る」という魔法のような現象だ。
実はこの体験は、これまでも中国語を喋っているときに時々起こることがあった。例えば「増高」という単語がある。これは中国語で、温度や金額などが「増える」と言いたいときに使う動詞で、日本語には全く存在しない言葉であることは言う間でもない。だから自分で勉強して覚えない限り、この単語を使うことは不可能なはずだ。
ところが中国語を喋ったり書いたりしていると、「増える」と表現したいときに、突然この単語が頭に浮かんで来ることがある。そしてそのままままよと使ってみると、何事もなくちゃーんと意味が通じているのだ。後から辞書を引いてみると、正しい中国語じゃない!私、一体どこでこの言葉を覚えたんだろう?まるで怪奇現象のようなビックリ体験としか言いようがない経験だ。
実はこれは、漢字を使う国で育った者の特権なのだと思う。幼い頃から漢字になじんだ上で更に中国語を勉強して日常的に使うようになると、習っていなくても、漢字同士を組み合わせて中国語風の単語を脳が自動的に創作してくれるようになるのだ。そしてそれが結構当たっているという、この素晴らしい不思議現象!

おそらくヨーロッパ言語圏に生まれ育った人も、このような現象を体験するのではないだろうか。
例えば「approximate」、推測する、というこの単語。日本人がこの単語を脳の中で一から編み出すことは不可能だけれど、approximateは接頭語apとproに、ギリシャ語起源か何かのximateを合体させて出来上がった語であり(たぶん‥)、このような操作を、例えばフランス人が英語を習うときには、どこかの時点で自動的に脳内で行えるようになるのではないだろうか。
日本、中国、韓国。
古代から漢字という同じ文字を共有して来たこの三国は、その漢字を通して、比較的自由に脳内の越境を行うことが出来る。その楽しさを改めて実感させられた今回の原稿執筆作業だった。何しろ作業の後半になればなるほど魔法のように次々と新しい単語が頭に浮かんで来て、辞書で引くとその語がちゃーんと掲載されているのだ。これはちょっと他にない楽しい体験だった。

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かくして何とか原稿は締め切り内に書き上がり、現在、中国人編集者のチェックを受けている。香港の方の原稿は日本語で書き、本当は中国語への翻訳も自分でやるはずだったのだが、もう一方の仕事にあまりにも悪戦苦闘して時間が足りなくなったため、チャリティー目的のノーギャラ原稿であることもあり、訳は翻訳者に任せることにした。現在香港人の翻訳者が奮闘してくれている最中で、その語を一言一句、私が厳しく精査することになる。

日本、中国。
好むと好まざるに関わらず、これからの日本人が中国から目をそらして生きて行くことは出来ないだろう。
その時代の流れをまさにリアルに反映するように、ここのところ、この他にも中国関連の仕事に声を掛けて頂いている。損得など何も考えずにただ本能のおもむくまま、15年前、中国文化に興味を持った私は、文字通り最初の一歩、「一、二、三」=「イー、アー、サン」の読み方から中国語の勉強を始めた。これからも本能のおもむくままに、この言語との旅を続けて行くことになるだろう。


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