西端真矢

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大衆小説、その悲しい運命 2012/04/03



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古本屋をうろうろしていて、偶然、古い文学全集の中の一冊、舟橋聖一の巻を見つけた。
以前、仕事で昭和高度成長期の文壇や世相について調べていたことがあって、そのときによく舟橋聖一の名前を目にすることがあったので、一度ちゃんと読んでみたいと思っていた。それで、固いケースに入っていたその本を引っ張り出して中を確かめてみると、『悉皆屋康吉』という中篇などが収められている。
“悉皆屋”というのは着物を着ない人にはなじみがない言葉かも知れないが、たとえば白生地にこちらの注文通りに文様や色を染めてくれたり、つけてしまった染みを取ってくれたり、或いはおばあさんにもらった着物のサイズが小さいので袖を出してもらう…そんな、着物に関するありとあらゆることを請け負ってくれる商売のことだ。着物好きの私としては、「これは買いでしょ!」とすぐレジへ持っていた。何しろたった105円だったのだし。

さて、帰宅して早速読み始めると、とても面白い。
大正後期のエログロナンセンス・和製デモクラシーの時代、世の中がやけっぱちに沸き立っていた騒々しいあの一時代から昭和の初め、戦争の予感が暗く漂い始める憂い深き時代までを、康吉という一人の若者が丁稚として悉皆屋の一番下から修業を積み、様々な人に出会い、影響を受けながら、やがて自分の店を構え、新しい色、新しい文様に挑戦するようになるまでの一代記を描いている。それが単に着物屋の一生物語ではなく、当時の世相とからめて書いているところに深みがあるのだ。物語は雪の夜で終わるが、これは恐らく、この瞬間、康吉の住む日本橋から少し離れた首相官邸や青山の高橋是清邸で、そう、二・二六事件が静かに進行しているのだな、と…そのように類推させる終わり方であり、何とも心憎い演出であると感嘆した。上質のエンターテイメントを読んだ喜びに、ほっとため息をついて本を閉じたのだった。

ところで、その後、舟橋聖一の作品を他にも読んでみたいと思い、105円で買った本の解説に書かれていた「夏子もの」と呼ばれる一連の作品群、夏子という芸者の人生を幾つもの短編で綴ったシリーズを読みたいと思ったのだけれど、アマゾンと日本の古本屋で探しても、一冊もない。この「夏子もの」は一つ一つの短篇の題が『フラ・フープする夏子』『寝もやらぬ夏子』『川開きの夏子』『キンゼイを読む夏子』『山茶花ただよう夏子』と、何とも美しく楽しいのでゼヒ読んでみたいのに!
そこで、図書館に行けばきっと「舟橋聖一全集」があるだろうと探してみたのだけれど、そもそも全集が出ていないようだった。
そしてまた、ちょうど舟橋聖一と同じ頃に一大人気を博していた小説家・川口松太郎の『夜の蝶』という非常に有名な、今でもキャバクラ嬢やバーのホステスを指して言うあの“夜の蝶”の語源となった小説(二人のホステスの華麗な闘いを描いた物語)を前から読んでみたいと思っていたのでついでに探してみると、これも図書館には所蔵されていなかった。それどころか、川口松太郎の本がほとんどないに等しいのだ。仕方なく帰宅してからアマゾンと日本の古本屋で『夜の蝶』を探してみると、恐ろしく高い値段、14000円もする古本が一冊あるきりだった。

         *

私は考え込んでしまった。
舟橋聖一と川口松太郎と言えば、一世を風靡した小説家で、今に例えるなら石田衣良や東野圭吾、宮部みゆきあたりに当たるだろうか。それが、没後まだそれほど長い時間が経っているという訳でもないのに、代表作を読もうと思っても、図書館ですら見つけられないのだ。
彼らの作品は、いわゆる“純文学”かと言われればそうではないだろう。純文学の定義は難しいが、ごくごくざっくりと言ってしまえば、文学上の新しい叙述法に挑戦しているか、或いは、哲学的問題を取り扱っているか、ということが大きくは基準であると言って良いのではないだろうか。
では、そうではない文学作品はどう扱われるのかと言えば、大衆小説、今の言葉ではエンターテイメント小説、と総称されている。読んでいると脳が痛くなって来る奇抜な叙述法も、深刻或いは不条理な哲学的考察もなく、しかし、社会や人生を深いまなざしで描いた上質な文学――そういう文学をいつの時代も人々は強く求めていると私は確信しているが、しかし、これらは普通純文学とは認定されない。あくまで“大衆小説”という範疇に分類されることになる。
まあ、分類などどうでも良い。一番大切なことは、読者がその小説を愛し、またいつか繰り返し読みたいと思い、人生の大切な同伴者になるかどうか、ということだろう。もちろん純文学の作品群の中にもそういう力を持った作品はたくさんあるし、同様に、大衆文学の中にも、あるということだ。その尺度をもってとらえるなら、純文学と大衆小説の間にどのような高低もないと、私は考えている。

             *

ところで、冒頭で書いた仕事で昭和高度成長期の文学と世相について調べていたときに、いわゆる純文学に分類される文豪たちの作品をあれこれと渉猟することがあった。そこで気づいたことは、「ずいぶん低レベルな作品もあるな」という事実だったのだ。
たとえば川端康成など、何しろノーベル賞を獲っているのでばっちりと全集が出ているし、文庫でも中篇、短篇、様々な作品が絶えず発刊され続けている。しかし、例えば『古都』などを読んでみると、構成があまりにも雑で文体もそう練られているとは思えず、「これ、まだ下書きなのでは?」というレベルとしか私には思えなかった。
そしてよくよく文庫本の解説頁を読んでみると、何と川端本人が、「この小説は私の頭の調子があまり良くないときに書いたもので、文体とか色々いまいちなんです」などというようなことを、ぬけぬけと言い訳がましく書いているではないか!(だったら出すな!と私は言いたい)それでも一度“純文学”に認定されてしまえば、後生大事に扱われて、読者はいつでも手に取ることが出来るという訳である。今は川端だけを一例に挙げたが、他の文豪たちにも同様の低レベルの作品はたくさんあった。

       *

私は大衆小説というものに刻印された悲しい運命にため息をつきたくなる。
確かに大衆小説の中には吹けば飛ぶような作品も多いことは事実だ。また、内容には深みのある作品でも、文体の格がどこか低く、或いは浅く、そのぎこちなさに読み進めるのに一苦労するものがあることもまぎれもない事実ではないかと思う。特に平成以降頃からのエンターテイメント小説作家たちの文体の浅さ、或いは“語調の均整が取れていないかんじ”とでも言ったら良いのだろうか、それにはたとえ人気作家と呼ばれる人でも目をおおうほどのレベル低下があると思う。
しかし、例えば舟橋聖一の小説に、そのような文の乱れは一切存在しない。文体は淡々として格調高く、何の心配もなくこの作家の漕ぐ船に乗り続けていられる、と言う、ゆるぎない安定感のようなものが感じられる。それはおそらく、私が買った古本の解説に書かれていた事実と関係があるのだろう。その解説によれば舟橋聖一は十代の頃から膨大な哲学書と文学書(時に原書)を読みあさり、その文学的教養の上に大衆小説を書いていたということだ。最近たまたま有吉佐和子の傑作エンターテイメント小説『悪女について』を再読することがあったが、有吉佐和子の文体もまた、一つも難しいところはないのと同時に、語法、語調の均整は申し分がなかった。昭和期、大衆小説の黄金時代を築いた一群の作家たちの文学的修養は現在の作家たちとは比較にならないほど深く、その基礎の上に書かれた大衆小説=エンターテイメント小説は、だから、極上の喜びを私たちにもたらしてくれる。これを純文学ではないからと軽視して顧みないことは、あまりにも口惜しいことではないだろうか。

文学の本当の価値とは何だろう。
少なくとも私たち読者に出来ることは、したり顔の学者やら評論家やらによる総合的な作家評価(=純文学認定)などは軽々と無視し、作品本位の評価を徹底する、そのことに尽きるだろう。目の前に繰り広げられた作品世界に、今、どれほど心奪われたのか、その奪われ方の強度のみを唯一の価値基準とすること。そして作家たちが私たちの心を奪うのにどれほどの技術を用いたのか、一作ごとに、その職人技のみを注視すること。
一つの救いは舟橋聖一の『悉皆屋康吉』が、講談社学芸文庫から復刊されているということだ。そう、私たち読者からの絶え間ない注視があれば、作品は必ず世代から世代を生き延びることが出来るのだ。
『悉皆屋康吉』、ぜひ読んでみて下さい。
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