西端真矢

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三島由紀夫と私 2012/05/14



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 先ごろ出版された三島由紀夫に関するノンフィクション書籍『ヒタメン 三島由紀夫が女に逢う時』(岩下尚史著・雄山閣刊)で、構成とリサーチを担当した。
 実は私は三島由紀夫とは――大したものではないが――少しだけ縁がある。
 一つは、私の祖母の弟、つまり私にとっての大叔父が、三島と小学校から高校まで、学習院で同級生として過ごしているのだ。
 また、もう一つ前の代へさかのぼると、私の曾祖父と三島の父親が東京帝国大学法学部の独法学科にやはり同期で通い、高等文官試験(=現在の国家公務員総合職試験)も同じ代で受けている。三島本人と三島の父親の代で、私の血族と多少の縁があったということになる。
 もちろん、曾祖父も大叔父も祖母も皆故人となってしまった今では、三島に関する思い出話を聞くことは出来ない。どうやら大叔父はそれほど三島と親しかった訳ではないということは分かっているけれど、ただ、或る時――その時もう祖母は結婚していて三島が有名作家になった後の出来事だけれど――祖母が街で偶然三島に会ったことがあるそうだ。その時、「すみちゃん」と三島の方から声を掛けてくれたのよ、と祖母は話していたので、もしかしたら三島は学習院時代、同級生の家ということで時々祖母の実家に遊びに来ていたのかも知れない。つまり、大人になった後でも祖母の顔を覚えている程度の交流はあった、ということだ。三島の実家も祖母の実家も同じ四谷にあったので、そのような推理が成り立つ可能性は高いのだが、ともかく、そんなこんなで三島には多少の“近さ”のようなものを感じていた。

            *

 そんな私に旧知の雄山閣の編集者Kさんから、三島に関するノンフィクションの裏方役=編集協力者として、著者の岩下先生をお助けする仕事をしてみないかというお話を頂いた。
 そのとき私が思ったことは、「三島の全作品を読破しなければいけない」ということだった。それまでに私が読んでいたのは、『金閣寺』『春の雪』『奔馬』『暁の寺』『天人五衰』『午後の曳航』『愛の渇き』『青の時代』『美しい星』のみだった。作り手の側が三島の著作を読み込んでいないのでは話にならない。明日から早速、これまで読んだ作品も含めて、全作品を読破しよう。そう思った。
 ――と、こう書くと簡単そうに聞こえるかも知れないが、一度でも図書館に行って三島由紀夫全集をご覧になれば、それがどれほど大変なことか分かって頂けると思う。新潮社から出ている全集は44巻に及び、そのどれもが6センチほどの分厚さ。とにかく三島由紀夫というのはあきれるほどに多作な作家なのだ。
 それでも、私はそのほぼ全ての作品を読んだ。ごく初期、三島十代の頃の短篇と、あまり有名ではない戯曲、それから、それほど重要ではないと思われる対談は省いたけれども、それ以外の作品は全て――長編作品は、当然、全て。中編、短編もほとんど全て。戯曲も代表作は全て読み、対談やエッセイの7割くらいにも目を通した。
 また、小説と同様に重要な、三島の思想書。例えば、『太陽と鉄』『林房雄論』『革命哲学としての陽明学』『文化防衛論』など。これらの著作も当然、全てを徹底的に読み込んだ。全集第43巻に付いている詳細な年表を活用して、三島十代から最晩年に至るまでのほぼ全ての著作と対談を、その執筆・発言の時間順通りに読んだのだ。
 更に、三島の四谷の実家があった場所、三島の最後の家、墓所、市ヶ谷の“自衛隊見学ツアー”にも参加して、三島があの衝撃的な自決を遂げた東部方面総監室も訪ねた。もちろん三島が役者として出演した映画も全て観たし、三島の両親が出した随想録も読んだ。ジョン・ネイサンの『三島由紀夫――或る評伝』など、三島論の著作にも幾つか目を通した。読み、訪ねる。これらのことを全て完遂するのに、大体1年半ほどの時間を使っただろうか――
(冒頭の写真は、当時の私の机の前の壁を撮ったもの。毎日三島の写真を見て過ごしていた!)

 もしかしたら、著者でもない、単に構成とリサーチを担当するだけの編集協力者に過ぎない私が、ここまでの努力をする必要はなかったのかも知れない。でも――と私は思っていた。いやしくも三島由紀夫という怪物と少しでも関わりを持つ以上、いいかげんなことはしてはいけない。いや、出来ない、と。
 私の三島的くそ真面目さの故か、或いはDNAに刻まれたかすかなかすかな縁のつながりに無意識に叱咤激励されたのか。とにかくそのようにして私は、三島由紀夫と格闘する日々を過ごしたのだった。

             *

 この書籍『ヒタメン 三島由紀夫が女と逢う時』は、紆余曲折を経て、昨年暮れにようやく発売された。そして好評のため、このたび早くも増刷されたことを嬉しく思う。更にそれを祝して特設ホームページが開設されることになり、編集協力者として、私もコラムを一篇と論説を一篇、寄稿させて頂いた。下にそのURLを記すので、お時間のある時に読んで頂けたら嬉しいのだが、今日、このブログでは、三島との格闘を通じて私が何を得たか、そのさわりに当たることを少し書いてみたいと思う。本論は下のの論説で書いた訳だが、このブログではその概略をまとめてみるということだ。
 そしてまた、あのような生き方、或いはあのような死に方をした三島由紀夫という人間について、今、どのような感慨を抱いているかについてもまとめてみたいと思う。

 まず、二篇の原稿のご紹介をしたい。
 コラムの方は、題名を『ヒタメンの時代』と言う。
 http://www.yuzankaku.co.jp/test/untitled/9784639021971-2.htm 
 今回の書籍『ヒタメン』は、三島・二十代後半の秘められた恋――それも、女性との恋――に光を当てているが、このコラムでは特に若い読者の方々へ向けて、その時代背景を解説している。
『ヒタメン』で初めて解き明かされた三島の恋は、彼の人生にとってどのような時期に当たり、そしてまたそれは日本にとってのどのような時代に当たるのか?そんなことを簡単にまとめたコラムだ。

 一方、論説の題名は、『三島由紀夫との約束』という。
 http://www.yuzankaku.co.jp/test/untitled/fuhen.pdf 
 ここに私は、私が取り組んだ三島との格闘の全てを、結実させた。先ほど「三島の著作をその順番通りに読んだ」と書いたが、それはつまり、三島由紀夫という偉大な作家の思想遍歴を、そのままたどる旅にほかならなかった。
 その旅の果てに私が到達した結論はこうだ。三島という作家は、生涯一つの命題を追究した作家だった。その命題とは、「人生と芸術、その対立の解消」という命題である。このパースペクティブのもとに三島の思想の変遷を全て見通すことが出来る、と、今、私は考えている。或いはそれは、「現実と虚構」と言い換えても良いかも知れない。或いはまた、「現実と夢」と言うことも出来る、と。

 そう、今、ここで食事を取り、排泄し、眠り、人を憎み、人を恋する生活者である自分と、そのような自分を超越して、虚構の世界を紡ぎ出そうとする、芸術家である自分。芸術、或いは創造というこの奇怪な行為とは一体何であるのか?
 或いはまた、現実に、今目の前にある、薄汚れ自尊心を見失い文化的に政治的に強国に(三島の時代では、アメリカに)こびへつらい引きずられて行く日本と、観念の中に凛として存在する、美しく、強い日本――このように、私たちの現実、私たち一人一人の人生の前にいつも立ち現れ、私たちの現実を駆り立てる、夢のような何か。また、その夢そのものを紡ぎ出そうとする創造という行為。この、対立し合う二項の関係性そのものに向き合い、オリジナルな措定を与えること。それが三島が生涯取り組んだ命題であり、幼少期から青春期、壮年期へと彼が年輪と経験を加えて行くのに伴って、その内実も少しずつ変化する。このことを、私は三島の著作の跡を追うことでつぶさに観察することが出来たと思うのだ。

 注意しなければならないのは、「人生と芸術」、或いは、「現実と夢」、この非常に形而上的な命題は、三島の場合その根本では、彼の身体的条件に強く結び付いているということだ。
 実は三島に限らず、「芸術という行為とは何か?という問いそのものを芸術のテーマにする」というこの自己撞着的な命題は、フロベールやマルセル・デュシャン以来、現代芸術の根本テーマの一つだった。だが三島のユニークネスは、それが情けないくらいに表層的な、彼の身体的条件に強く影響されているという点にあるのではないだろうか。思想家、小説家として三島の偉大性は言う間でもないが、だからと言って三島を黄金の神殿の中に閉じ込めてしまっては、彼を真実理解することは出来ないというのが私の考えだ。
 三島由紀夫。本名・平岡公威という男は、特別に優れた頭脳と特別に虚弱な体質を持ってこの世に生まれ落ちた。この身体条件が彼を生涯、強迫観念的に支配し続けたという事実から、決して目をそらしてはならないと思う(三島自身は目をそらしてくれることを望んでいたと思うが)。だから、上に挙げた「人生と芸術」という命題はある側面では、西洋哲学を学んだ者にならおなじみのあの命題「肉体と精神」という対立項として現れて来るだろう(そして三島もまた西洋哲学を血肉化している)。
 しかし三島は超人的な努力で、その劣位の身体条件を克服した。ここにも三島のユニークネスが存在する。学習院時代、「あおじろ」という屈辱的な仇名をつけられた病弱な痩せた体を徹底的なワークアウトで鍛え上げ、ボクシングを学び剣道で段位を獲得し、晩年の自衛隊体験入隊時には、二十代の新入り隊員に混じって全く同じ厳しい訓練を完璧にやり遂げている。
 私が今回三島の著作を時間順に読み通すことで得た新しい知見は、三島のこの肉体改造=現実改造の意志が、「芸術と人生の関係性」という現代芸術の根本命題にオリジナルな回答を導き出そうとするまさにその時期――『金閣寺』を執筆する時期――に始まっているという点にある。そしてその時期、つまり『金閣寺』という達成を境にして、三島の思想と行動は前期と後期と言って良い程にはっきりと線引きがされるという点にある。
 その詳しい分析は上に挙げた『三島由紀夫との約束』を読んで頂ければと思うのだが、三島由紀夫、或いは平岡公威という男は、自身のひ弱な体と目も眩むばかりの思想の高みの間を誰にもついて行けないほどの激しい振幅で往復し、その結果、『金閣寺』という不朽の著作をこの世に産み落としたのだ。その激しさに、私は、恋心のような思いを抱かずにはいられなかった。そう、私は激しい人間が好きなのだ。

          *

 そしてもう一つ、私が今回三島と取り組む中で目を啓かされたことがある。それは、『金閣寺』以降の三島=後期三島との格闘の中で得た気づきだった。
 多くの方がご存知のように、この時期以降の三島は次第に、そしてやがて加速度的に国粋思想へと接近して行く。それはつまり三島が、「身体と精神」という所与の条件のもとに「人生と芸術」という命題に取り組んみそれを達成した後、新たな「現実と夢」の問題=「現実の日本と理想的日本」という命題に取り組み始めたということ。そう言って良いのではないだろうか。
 この点についての詳しい分析も『三島由紀夫との約束』の中で書いたので詳細はそれを読んで頂くとして、三島の思想と行動をたどるうちに私は彼の一種の先見性というものに驚嘆せずにはいられなかった。

 三島が国粋思想へと近づいて行った時期というのは、多くの方がご存知のように、世界的に学生運動が盛り上がりを見せた時期である。それはまた日本人にとっては、今に続く問題、日米安保条約を維持するか否か?という問題を喉元に突きつけられていた時期でもあった。
 その結果を今、私たちは知っている。
 学生運動は結局失敗に終わり、日米安保条約は締結・延長され、日本はアメリカの軍事力の庇護の下に、「平和国家」の看板を今も掲げ続けている。その看板が、自分一人の力で達成されたのなら確かに立派なものだろう。しかし現実にはそれは“アメリカの軍事力”というスカートの中に大人しくかしこまったことによって達成されたのであり、安保闘争の運動家たちが当時掲げていた激しい危機感、「日本は安保条約を締結することによって明確にアメリカ陣営入りすることになり、ソ連を代表とする東側陣営との戦争に巻き込まれる」という見通しは、とんだ見込み違いだったことが明らかになっている。そう、彼らがあれほどまでに毛嫌いした日米安保条約こそが現在の平和国家日本の根本を支える土台となったのであり、更にまた、当時彼らが盲目的に良きものとした社会主義国家、ソ連、中国、北朝鮮、その政治体制がいかに暴力的な抑圧を伴うものだったのかも、今、明白に白日のもとにさらされている。

 思うのだが、安保闘争を境にして、日本というこの国には、常に奇怪な“ねじれ”と奇怪な“恥ずかしさ”がつきまとっているのではないだろうか。
 それは、したり顔で平和や民主を語りながら、その理想はアメリカの軍事力によって担保されているという強いねじれであり、更にそのアメリカ様が軍事力を抑止力としてのみ使い、本当に公正に世界の警察官だか司法官だかの役を務めているのならまだ良かったかも知れないが、しかし現実にはアメリカは、自国の利益を恥ずかしいほどむき出しにして各地へ武力進出を続けている。そして我が日本はそれに見て見ぬふりを決め込み、今も無口にかしこまっているしかないというのが残酷な真実だ。自らのこの振る舞いをごまかしながら平和だの市民社会だのと語ることにつきまとう、強い“こっ恥ずかしさ”、強いねじれ。
 しかし日本も処女の顔をして生きることは出来ず、二つの奇怪な落とし子をこの世に産み落としている。そう、それこそが沖縄基地であり、また、自衛隊であるだろう。三島由紀夫は日本のねじれと日本の恥が生起する60年代という渦のそのまっただ中で、自衛隊という、極限の矛盾、矛盾の落とし子の中へ命を賭けて飛び込んで行ったのだ。


           *

 『金閣寺』以降、三島は一時期、時代の寵児だった新人・石原慎太郎をライバル視していた時期があったが、その対象をすぐ別の新人作家へと移して行く。確かジョン・ネイサンも書いていたと思うが、三島が本当に敵視したのは大江健三郎であるだろうと、私も思う。

 大江健三郎的な、夢。
 私自身は食わず嫌いで大江の小説作品を読んでいないので完全に確定的なことは言えないが(ああ、今後は大江も読まなければいけないのだろうか…)、新聞・雑誌などで彼の政治的発言は或る程度把捉して来た。
 その大江の夢。「理性的な市民による、理性的な社会運営」という夢は、確かに人類共通の、永遠の夢であるだろう。けれどこと日本に限っては、その夢が別の超大国の暴力性によって担保されているということは、上に書いた。
 そして翻って世界を見渡せば、一体どこに、完全に清廉潔白な国家があると言うのだろう?或る国は今この瞬間にも他国に武力攻撃を仕掛け続けているし、武力は行使しないまでも、日々経済上の激しい“奪い合い”という闘争の中にいる。この世界に生まれて来た以上、暴力性から逃れることなど出来はしない。人類普遍の理想を追求することは良い。しかしそれは自らの中にも存在する暴力性を直視し、コントロールすることによって達成されるのであり、日本の現在の状況は、そのコントロールのレッスンを始めることすら出来ていないと言って良いのではないだろうか。それを無視して平和を、民主を日本人が語ることの恥ずかしさを、私は感じずにはいられないのだ。
 もちろん、その背景には、明治維新以降の日本人が行った朝鮮半島及び中国大陸への進出、その致命的な失敗という、圧倒的な恥と暴力の記憶が存在する。しかし敢えて大胆に言うのなら、この記憶を恥じることはないと私は思う。何故ならそれは特に日本人だけに固有のものではないからだ。この地球上の全ての国家、いや、我々一人一人の存在の奥底に、暴力性は必ず存在する。日本人は特に優秀な国民でもなければ特に野蛮な国民でもない。ごく凡庸な、一つの民族だ。だから、他の諸民族と同様野蛮な暴力性を有している。しかしそれを直視しなければ、それを飼い慣らすこともまた出来ないのではないだろうか。

 
 さて、翻って現在の日本が置かれた状況を冷静に見つめてみれば、三島の時代とは大きく異なる明らかな変化が表れている。それは、アメリカの衰退、という多くの日本人が直視したくない事実だ。もちろんそれはもう一つのもっと認めたくない事実、中国の台頭という事実と表裏一体になっている。
 この大きな変化を受けて、永遠不変にすら思えた終わらない日常=日米安保条約の存在も今、揺らぎ始めている。経済的な要因、そして地勢学的な要因から、沖縄に海軍を駐留するべきではない、日本は自国の軍隊を持つべきだ、という主張が何とアメリカの側から出始めているのだ。ああ、あの国の何と言う恥知らずの身勝手さ!しかしこれが国際政治の現実であり、これが私たちの戦後平和の後ろ盾となっていたアメリカ様の素顔なのだ。この新しい現実に直面して、私たちはこれからどう行動するべきなのだろうか?オペラ『蝶々夫人』のようによよと泣き崩れ、行かないでください、アメリカさんと泣くのか、一体どうするのか?
 いずれにしろ、私たちの前に突きつけられているのは、「国防」という命題だ。私たちは1945年の敗戦以来本当に初めて、日本人、この民族の中にひそむデモーニッシュな力、私たちの暴力性を直視する時期に入ったのではないだろうか?

 42年前、1970年11月25日に、三島由紀夫は自衛隊に突入し、自決した。天皇制に関する彼の思想は意見の別れるところでありここでは不問にするが、三島の死にざまが放つ、圧倒的に奇怪で不可解な力!彼がその死で示したものは、スカートの下で「夢」を語る時に巧妙に隠蔽されてしまうもの、私たち日本人の奥底に潜む圧倒的に不可解な力、圧倒的に危険な、暴力性そのものなのではないだろうか。
 1970年当時、多くの日本人はその行動をどう受け止めて良いか分からず、失笑とともに忘れ去ろうとした。しかし現在、変わりつつあるこの世界情勢を前にして、三島を本当に笑える日本人がいるだろうか?三島由紀夫、或いは平岡公威。彼以外の誰が、「夢」と「現実」が奇妙にねじれるその結節点へ突撃し、自らの腹をかっさばくことでそこに裂け目を入れることが出来ただろうか?その途方もない激しさに私はまた心惹かれずにいられないのだ。
 今回のブログの題名を私は『三島由紀夫と私』と書いた。これは私、西端真矢というこの個人の「私」を指すと同時に、この長い日記を読んで下さった一人一人の皆さん自身を指す「私」でもある。三島由紀夫はあの、狂気と見えながらその実論理的に十分考え抜かれた究極行動によって、「私」たち一人一人に或る「現実と夢」の問題を突きつけている。間違いなく私たちはこれから、その問題に巻き込まれて行くだろう。

             *

 三島由紀夫。或いは平岡公威。
 彼の一生をつぶさにたどることによって、私はこの男の激しい生き方に恋に近いような感情を抱かずにはいられなかった。もしも私があの時代に生まれ、自分の前にこのような激しい男が現れたら、必ず恋せずにはいられなかっただろう。しかし三島は男色であるから、もちろんその恋は永遠の片想いに終わったはずだが、そもそも私は三島が自決した年にこの世に生まれて来た。今、私にとって銀幕の輝かしい偶像のような存在に変わったこの男と、同時代に生きることすら出来なかったのだ。三島由紀夫。或いは平岡公威。あなたに、私の永遠の片想いを捧げる――

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