西端真矢

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中国でタクシーにぼられない方法~~或いは、タクシーの後部座席から考える日中関係 2012/06/28



最近、私の周りで、中国出張へ行く人、或いは中国駐在に行く人(含・夫の駐在について行く妻)が爆発的に増えている。
これまでは、“中国好き”の人が自ら手を挙げて中国ビジネスに関わることが多かったように思うけれど、最近の特徴は、「中国に特に何の関心もなかったのに、社命で行くことに‥」という人がほとんどだということだ。日中間の経済的結びつきは深まる一方で、この流れは当分変わらないように思える。そんな中、日本人が中国へ行って最初に出くわす関門、或いは洗礼。それは、“料金をぼったくろうとするタクシー運転手”の存在ではないだろうか?
そこで今日の日記では、中国に関わって15年!の私が、やつらの虚をついてぼったくりを撃退する方法をご伝授するとともに、日本人と中国人の間に存在する気質の違い――或いは文化の違いと言ってもいいかも知れない――について考察してみたいと思う。

      *

まず、ぼったくりタクシー撃退法について。
先日、東京から北京に移り住んで新規事業を興すべく奮闘されている日本人ビジネスマンの講演を聞く機会があったが、その方もこう言っていた。
「中国の運転手は、必ず料金を吹っかけて来ます。でも僕はそんなの払うのは嫌なので、必ず闘いますね。運転手の椅子を後ろからがんがん蹴るのなんかしょっちゅうです」
すごい…確かにここまでやればぼったくられることはなさそうだけれど、背が低く、腕っぷしの弱さが丸見えの私にはちょっとハードルが高過ぎる。と言うより、ほとんどの日本人は「ちょっとそれは自分には無理」と感じるのではないだろうか。
そこで私のやり方はこうだ。
中国人の弱みにつけ込む。

例えば、以前、広州へ旅行に行った時、やはりタクシーでぼったくられそうになった。空港のタクシー乗り場で「**ホテルまで」と告げてタクシーに乗ると、途中からどうもメーターがおかしい。事前に空港―ホテル間の平均運転時間と平均料金を調べていたのだが、ホテルの直前で、その1.7倍くらいの値段が出ているのだ。そこで私はまず、運転手さんに話しかけてみた。
「ねえ、ちょっとこの料金高いんじゃないですか?」
「いやいや、ちゃんとメーター倒してるから」
「メーターがおかしいんじゃないかと思うんだけど」
「そんなことは、ない」
ここで私はため息をつく。大きな大きなため息だ。そしてこう言い放ってみた。
「あーあ、やっぱり、広州はダメだね」
これである。
「空港も、スタジアムも、ほんと素晴らしいけど、でも、しょせん見かけだけだってよーーーく分かった。やっぱり広州はまだまだ三流都市だわ。私は今週上海にも北京にも行ったんだけど(注・本当は北京にしか行ってない)、上海と北京の運転手さんはちゃあんとルールを守ってましたよ!やっぱりダメだ、広州は。まだまだだ。モラルってものが出来てない。北京好!上海好!広州不好!」
と一気にまくしたてる。最後の三語は日本語に直すと、「北京最高!上海最高!広州最低!」というほどの意味になるだろうか。すると運転手さんの顔色ががらっと変わってこう言った。
「じゃあ、いくらならいいんだよ!」
私は日本のガイドブックで事前に仕入れていた金額を彼に告げた。正規料金なのだから彼もこれで損はしないはずで、商談は成立。降り際、彼は私にこう言った。
「…悪かったね。だけど俺たちも空港で毎日毎日ずーっと長い時間列に並んで、やっと客にありつけるんだ。特に今日はすごく並んだんだよ」
「ふーん、そうなんですか。大変でしたね。どうもありがとう!」

        *

私のこの作戦のポイントは何か。
それは、「中国人の郷土愛につけ込む」。
これである。
多くの日本人の皆さんは“中国人”と言うと、みんな金太郎飴を切ったように同じメンタリティで生きていると思い込んでいるようだけど、それは大きな間違いだ。何しろあれだけ広大な国であり、地方ごとに風土もかなり違うから、それぞれの街が独自のメンタリティを持っている。そして中国人の郷土愛は、かなり強い。だから攻めるときはそこを利用するのが効果的なのだ。特に、他の都市と比較してやること。これが一番効く。
たとえばあの運転手さんと、もしもどこかの屋台で隣りの席になって一対一で飲んでいたとしたら、彼もとても冷静に、
「最近の広州にはこんな問題があってね、もう、ダメだね。上海に大きく後れを取ってるよ…」
などと語る可能性はかなり高い(中国人の自己客観視能力は、実はとても高いのだ)。しかしいきなり「北京グー!上海グー!広州ダメ!」、外国人にこういう持って行き方をされると、熱い郷土愛と面子がつい顔を出してしまう。俺がここでぼったくりをすると、広州の面子が…くーっ北京や上海には負けるのだけはヤだゼ…こう思わせて勝ちに持ち込むのである。

         *

「もう中国は嫌だ、中国人にひどい目に遭わされた」或いは、「中国は何もかもがめちゃくちゃ過ぎて疲れる。カオス!もううんざり!」
中国と仕事で関わって、そんな風に言う人がいる。その気持ちは分からないでもないのだけれど、何かちょっとお門違いなんじゃないかなあと思ってしまううのもまた事実だ。
中国は、交渉の国だ。或いは、融通の国、と言ってもいいかも知れない。
何事も最初からきまりがあるのではなく、その都度お互いの出方やお互いの権力具合を探り合って、少しでも多くの果実をもぎ取れるよう、シビアな駆け引きをする。それが彼らの文化であり、中国に行ったら、それがスタンダード。つまり、ルールがないことがルール(笑)なのだから、そのことに文句を言っても仕方がない。嫌なら中国に行かなければいいし、中国と一切取引をしなければ良い訳だけれど、そうも行かなくなっているのが21世紀の日本人が直面している過酷な現実である訳だ。だとすればどうしたらいいのか?

日本人は、ルールを作り、ルールを守ることを最も大切にする。
それは素晴らしいことだし、世界から称賛されることもあるけれど、時にルールマニアとバカにされていることもあることを忘れない方がいいと思う。何よりも、自分たちの考え方だけが世界のスタンダードだとは思い込まない方がいいのではないだろうか。
実際、世界各地域の様々な国が参加して何かルール作りをしようと会議を開くと、「人類愛」「世界平和を目指して」「緑の地球を守ろう」などといった美しい理念は無残に消滅。各国・各地域がてんでに自国の主張をがなり合い、紛糾に終わることが多い(例えば2009年のCOP15/国連気候変動コペンハーゲン会議)。
先週土曜日(23日)の朝日新聞にはFIFAの理事を務めた小倉純二氏のインタビューが出ていて、とても良いインタビューなので皆さんにもゼヒ読んでほしいのだが、FIFAでも会議が紛糾すると、公用語は英語と決まっているのに各国代表が自分の母国語でがなりたて始めるのだそうだ。もちろん、何を言っているのかお互い全く分からない。英語通訳はついているものの、追いつかないくらいの速さでまくし立てるので用をなさないのだとか。
恐ろしい世界である。
私はそこまで紛糾した場面に居合わせたことはないけれど、それでも、留学や、仕事で外国人クライアントと交渉を行った時に、にっちもさっちも行かない状況に陥ったことは何度もある。
それは、あ・うんの呼吸とか、「だってこのあたりが常識でしょう」といった“線”が一切存在しない世界だ。力比べ、条件交渉、そして妥協によってしか物事は一歩も前に進まない。そうやってやっと作ったルールだって、またすぐ変更されることがしょっちゅうなのだ。

世界の現実がこうであることを考えると、日本人の美点である“ルールと礼節ある行動”を前面に押し出し、守れるだけ守り続けようと頑張るのはまあいいとしても、その美点を交渉や圧力行動の材料にする、くらいのしたたかさがなければ、この国の存在感は年々弱体化するだけではないだろうか。そう、やはり、交渉力を磨かなければいけない、と思う。中国のタクシー運転手さんやら、家具の修理を頼んだ職人さんやらと日々やり合うことなど、ルール大好き純朴日本人にとっては格好の練習相手だと思うのだが、どうだろうか。

          *

ところで、そんな交渉人生の国、中国で、一切の交渉が消滅する場面が三つある。
最後にその三つをご紹介してこのブログを終わりたいと思う。
一つは、一方がもう一方を、圧倒的な武力で押さえつける時。
中国人は各自がてんでばらばら、こんにゃくのように融通無碍な交渉をあの広大な土地の上で展開しまくっているので、強力に統治しようとすれば、武力を持ち出すしかない(なかった。少なくとも、これまでは)。これを熟知しているのが共産党であり、毛沢東だった訳だ。

そして、二つ目のケースは、親子愛が登場した時。
中国人の親子間の愛情は、日本人には想像出来ないほど強い。親と子、祖父母と孫の間には多くの場合、一切の計算を超越した無償の奉仕行動が互いに強く強く存在する。

最後、三つ目の場面。これは、意外に思う方も多いかも知れないが、“親友になった時”だ。
中国人はしばしば、友人と、義兄弟・義姉妹の関係を結ぶ。実際に指を少し切って血判状のようなものを作って誓い合うことすらいまだにあるし、そういった目に見える行為はなくても、一旦「私はこの人が好きだ」「この人物はすごい。感服した」と認知したら、とことん相手を信頼し、決して裏切ることはない。互いに相手のために助け合い、共にいい暮らしが出来るよう、大げさではなく墓場に行く日まで、何かと協力し合って生きて行く。
多くの日本人は、(言葉の問題もあって)そこまでの深い関係を中国人と築いたことがないから、中国人は信用出来ない、すぐ裏切る、と言うのだけれど、実はそれは中国人に「大したことない人物だな」と値踏みされている、ということなのだ。
中国人が一旦相手に心服したら、「もうちょっと放っておいてくれないかな」「いや、そこまでしてもらう価値、私にはないから」とこちらが言いたくなるくらい、とことん助けてくれるし、とことん信用してくれる。それが中国人という民族なのだ。

中国という饅頭は、表面の皮だけ食べると食当たりを起こしてしまう、不思議な食べ物だ。けれどがぶりと食いつけば中には、とてつもなく濃く、まろやかな、極上の餡が隠されている。
そこへたどり着くには、そう、毒など屁でもないと受け流してがぶりと口を開ける度量の大きさが必要だ。彼らは日々ちまちまとした交渉ごとを吹っかけ合いながら、相手の、その度量の大きさを見きわめている。ああ、中国人。こんなことを書いていると、また中国へ行きたくなってしまう!

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