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ジャパン・ブルーが生まれる場所――徳島の藍職人・佐藤昭人さんを訪ねて 2014/11/19
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週末、徳島へ旅に出ていた。(と、今回、機内誌の旅行記風文体で行きたいと思います)
と言っても、ただの旅行ではなく、自分の勉強を兼ねたもの。日本の染織に詳しい方なら、徳島、つまり阿波地方が、江戸時代以来の藍の産地であることはご存知だと思う。
藍の葉を加工した“蒅(すくも)”や、蒅を固めた“藍玉”は長く阿波の国の特産物であり、日本中に出荷されて人々のきものや布団地や手拭いや…あらゆるものを藍色に染め上げていた。庶民から高位の武士に至るまで、江戸時代を通じて藍色は人々の衣服の最も基本的な色であり、現在では“ジャパン・ブルー”と呼ばれるほどに、その美しさが世界的に名高いことも、広く知られていると思う。
では、その藍は、どうすれば染料として使えるようになるのだろう?
自宅の庭で藍を育ててその葉をつぶしてみても、長い年月を耐え抜く堅牢度(=繰り返し洗濯しても色落ちしない耐用性)は持ち得ない。
そう、夏、藍の葉を刈り取った後、気の遠くなるほどの複雑な過程を経て、藍は蒅(すくも)へと“成長”する。成長、とまるで人間の発育のように書いたのは、今回、実際に自分の目で見た後では、そうとしか表現出来なくなってしまったからだ。
今回の旅では、徳島県板野郡の、その名も“藍住町”という町に住む日本一の蒅(すくも)職人、佐藤昭人さんの蒅製造所を訪ねた。佐藤さんはそもそも蒅の原料である藍の木を自らの手で育て、それどころか、その藍畑に足す堆肥作りまでをも自ら行っている。土を作り、藍を育て、その葉を蒅へと加工する――この佐藤さんの蒅作りの全過程を映像で記録するプロジェクトを現在友人が進めており、今回、その撮影に同行させてもらうことが出来たのだ。
*
さて、では、実際に一枚一枚の藍の葉は、どのようにして蒅(すくも)へと“成長”するのだろうか?
まずは下の写真を見てもらえたらと思う。
木造の、蔵のような場所に、土がこんもりと盛られている。その向こうにかがんでいる人。この人が藍師の佐藤昭人さんであり、そしてこの山が総て藍の葉から出来ていると知ったら、ちょっと気が遠くならないだろうか?
毎年、8月、藍畑から刈り取られた藍の葉は、すぐに細かく切り刻まれて、しばらくの間寝かされる。その後、9月になると、佐藤さんと佐藤さんを手伝う近隣の農家の人々は、刈り取った葉に時折り打ち水をしながら、うず高く積み上げる。その高さはこの蔵――“寝床”と呼ばれる――の天井近くまで届くほどになるという。
化学に疎い私には細かいことは全く分からないのだけれど、積み上げる過程で掛ける打ち水と、藍の葉の成分、そして9月の気温、これらの要素が絡み合うことで、4、5日経つと発酵が始まる。つまり、腐らせることで、藍の葉は蒅(すくも)へと“成長”を始めるのだ。火は全く使っていないというのに、その温度は70度にもなるという。目を開けることが苦しいほどに強くアンモニア臭が立ち込め、藍の山は発酵によって次第に嵩(かさ)を下げて行く…
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その藍の山を、藍師とその下で働く人たちは、4日ごとにかき混ぜる(1枚目の写真の左端に写っている人が佐藤さん)。つまりそれは漬物の糠床をかき回すのと同じ原理で、もちろん、漬物なら小さな甕の中をこねくり回せば済む話だけれど、腐って重さを持ち始めた藍の葉の山をかき回すのはとてつもない重労働を伴う作業だ。
藍師を棟梁として、総勢十人ほどの男たちが鋤や熊手を手に、藍の山を掘り崩す。掘り崩すことによって藍は別の場所へと自然に移動し、更に、一通り掘り崩した後で元通りの形に成型する時に、また別の場所へと移動する。こうして糠床同様の“こねくり回し”作業が完遂される。
藍師たちはこの作業を、延々と12月まで約100日間、4日ごとに繰り返す。
4日ごとに山を壊して、また山に整える――壮大な砂遊びのようであり、その姿は何も知らない人から見れば、鉱山の鉱夫のようにも見えるだろう。この、激しい労働を伴う作業のことを、“切り返し”と呼ぶ。
*
上の2枚の写真は、その“切り返し”の始まりや途中途中で、佐藤さんが行う最も重要な作業を写したものだ。藍の山の中に手を突っ込み、一山ほどすくい上げて顔を寄せ、匂いをかいでいる――藍師以外の人間には決して窺い知ることの出来ない奥義がそこにはあり、藍が今どんな状態であるのか、元気なのかむずかっているのかを、かぎ分けているのだ。
そして、気温、湿度、今現在の藍の状態――それら総ての条件を総合して、次に何をするのかを決める。水をどの程度打つのか?“布団”を何枚掛けるのか?
“布団”というのは、上の写真のように、藍の山の上に、その日の切り返し作業の終わりに掛けるむしろのことを言う。
毎年、10月の半ば頃、渡り鳥の鴨が吉野川へやって来るのを見届けた時。それからもう一つ、近くの神社の横に立つ銀杏の木の葉がわずかに黄色に染まり始めた時を見逃さずに、佐藤さんは「今日から布団を掛ける」と判断する。これは、秋の深まりにつれて冷え込む外気から藍を守るための処置で、布団を掛けることによってその温度は9月初めと同じように、70度から65度の間に保たれる。その掛け方にも、何枚掛けるかにも、厳しく目を配り続ける。
例えば、私たちが訪れた日は、徳島地方の気温が急にひどく下がった日で、3枚の布団を掛けるよう佐藤さんは指示を出していた。もっと暖かな日ならきっと2枚だったのだろう。掛け始めの頃なら1枚しか掛けない。毎日毎日、気を配り、調整する。一日たりとも油断は出来ない。何故なら、気温を読み間違って布団が1枚少なかったために、藍が“風邪を引いて”水滴を吹き、死んでしまうこともあるから。
そして、12月の10日頃、藍の山は最後に掘り崩されて、もう二度と山へと戻ることはない。藍は元服を迎えた青年のように蒅(すくも)へと成長し、藁袋に詰められて佐藤さんのもとから離れて行く。その時、佐藤さんの目から涙がこぼれてしまうのだと聞いて、私まで泣きそうになってしまった。
*
東京に帰ってからも、しばらく、藍の山の残像が浮かんでは消え浮かんでは消えて、まぶたから離れなかった。山はそのまま動き出し、こちらに向かって来るように見えた。まるで未知の生き物であるように。
いや、藍の山は生き物なのだ。藍の葉から蒅(すくも)へと変態し、成分を変えて行く幼い生き物。もぞもぞと肢体を伸ばすそのうごめきが、近くに立っていると聞こえて来るようだった。半ば藍であり、半ば蒅であるその生き物は、早く蒅へと変態を終えたくて身をよじらせていた。非常に気が立ちやすく、少しのことで駄々をこねる、ひどく神経質で扱いにくい子ども。藍の山とはそんな存在であるように思う。けれど親である藍師は、どんなことがあってもその子を育て上げなければならない。蒅が袋に詰められて出荷されて行く時、佐藤さんが泣くのも当然だと思えた。
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こうして藍師のもとを旅立った蒅(すくも)は、その後、染め師の手に渡り、灰汁(あく)と化合されることでもう一度変態を遂げ、布の上に定着する。
その色、美しく深みを持ったジャパン・ブルー、日本の藍は、現在、きものや和雑貨だけではなくジーンズなど様々な布に染められて私たち消費者のもとに届けられる――もちろん、途中でかけられた深い愛情のことを藍は何も語りはしないのだけれど、私たち受け取る者は破れるまで、すり切れるまで、一かけらになる日まで育てた人と同じ深い愛情をもって、その命の最後の日まで、藍色の布を使い続けなければいけないのだと、旅を終えて、今、そんな風に思う。